Neetel Inside ニートノベル
表紙

弟が男の娘だなんて兄さんは認めないっ!
第2話 「委員長さんの怪しい趣味」

見開き   最大化      

 真夜中。
 人数よりも街灯の本数の方が多く感じる、この時間帯は独特な雰囲気を醸し出す。そこに居合わせた物を飲み込むような、真っ黒い圧が蔓延っている。
 その黒を際立たせているのは、自動販売機と二十四時間営業の大手チェーンコンビニエンスストアーだけが、この世界の光源と言うところにもある。やはり、コンビニエンスストアーから漏れる光も、自動販売機、街灯も薄暗いのだ。弱々しさを、わざと表現していると言っても過言ではない。
 ……空気が冷たいな。
 そんな事を思考しながら俺は、歩道橋の上で夜明けを待つ。正確な時刻はわからないが、夜明けはもうすぐだと感じる。理由がないが、第六感に近い物が俺の身体にそう伝えるのだ。
 まばらな人の間を縫うように黒猫が走り行く。あまり綺麗な猫では無いが、この街で猫を見かけるのは久し振りなため、俺の目は猫を追う。しかし、猫はそそくさと路地の暗闇へと姿を消した。あそこが彼の居場所なのだろうか。それとも、彼も夜明けが近いと感じて眠りに就く場所を探しに行ったのか。憶測だけが飛び交う。
 でも、こんな夜に足を踏み入れる様になったのは最近ではなく、俺が高校生になった二年前からだ。
 中学から高校にあがって良かったと感じられることは稀だ。何せ学問は難易度が跳ね上がり、体育祭、文化祭と厄介なイベントのレベルが中学とは比にならない。家に帰って早くまったりと過ごしたいと常々思う人間にカテゴライズされる俺にとっては苦痛でしかないのである。しかし、中にはあるのだ。イレギュラーな喜びが。
 それは、高校生という肩書きである。
 この肩書きは結構使えるのだ。まあ使用経路は主に悪用なのだが、この高校生というフレーズは中々良い物である。ある種、心の支えとして機能しているのかも知れない。こんなことして良いのか……でも、高校生になったからオッケーオッケー。まあこんあ感じに機能しているのだ。しかし、この機能には重大な欠点がある。
 それは過大な投影である。
 高校生という機能は中々に便利である。何らかの枷、戒めが外れたような気がし、大人になったような気がするのだ。だが、それは単に『気がする』というだけであり、教師やPTAの、本当の大人の目から見れば、まだまだ子供なのだ。
 だから、痛い目を見る。
 今年の高校生も、去年も、俺の年も、何かと大きな問題が姿を露見させる。
 俺の年は、あるテレビドラマの影響で、最近まで普通普遍の生徒達(表向きだった可能性も否定できなくはない)がいきなり、不良擬きな言動行動を起こし始めた。まあ、すぐさま教師達によって弾圧されたが……去年は、これもとあるテレビドラマの影響で、夜の校舎に侵入し一階から二階、三階と全ての教室を荒らし、どの教室の黒板にも『我流授業』と書かれていたらしい。が、最後に入った理科室で、荒らしを行った時に、手違いで薬品を零し、酸素に触れたことで有毒ガスが発生、そして謎の炎上。その五人は有無言わされず退学処分、これは授業が何日間か潰れたため非常にありがたかった。そして今年、弟が男の娘に……というのは私情なので却下だ。そう言えば、今年の高校生はまだちゃっちい事しかしていないな。黒板破壊、校長のカツラ事件と家庭科室の異臭。
 しかし、そんな事を起こしても得にならないことは今の俺には十分すぎるほど理解できる。
 要は衝動をどう押さえるか、だ。高校生という地位を与えられ何もしないまま時が流れるのは非常に惜しい。が、何かそれを一気に解放すると、最悪の展開が待っている。
 だから俺はこう発散している、誰にも迷惑をかけずに衝動をこまめに出すこと。趣味と言っても良い。
 それは夜明けの観測だ。
 いつも視ている賑やかな街とは、違う一面が覗かせる、その瞬間を観測する。ほのかに薫る寂れの匂いや、雲の裂け目から徐々に放つ陽の紫光。それと混じり退行していく夜の粒子状の闇。朝と夜の境界線を越える、その瞬間は幻想的であり、朝の青みがかった淡色が、この瞳を通して直接脳に突き刺さる。
 それは、絶景。
 その瞬間の境界線上の世界は、閃光だ。刹那を知る光。それが、空の青をより寂寞にさせ、孤独として、優しさを求め朝を包む。それだけで、俺の衝動はあられもなく解放される、境界線上の一人として。心の中に溜まる不満が浄化されるのだ。
「そろそろだな……」
 歩道橋の上で俺は、摩天楼の隙間に焦点を合わせる。ほのかに先が青く揺らめいている。やってきたのだ、始まりが。
 その時だった。 
 首筋が妙に冷たい。風の所為ではなく、何か金属的な物を押しつけられたような時に良く似ている。これはスプーン、いや……ッ
「!?」
 ナイフだ。
 その感触はナイフに似ている。急激に身体から血液が引いた。まるで体内に液体窒素を送り込まれたかのような、死を覚悟したような壮絶な悪寒だ。
「喋らないで……喋ったら、どうなるかわかるでしょ?」
 後方で聞こえたのは女の声だった。その声は冷たく、鋭い印象を受けるが、どことなく躊躇しているようだ。声が微少ながら震えている。
「私の質問にはい、か、いいえで答えてくれたら、無事に解放するわ。だから、それ以外の言葉を喋ったら、ダメだからね」
 だが、そんな震えに気がついた所で状況は理解しがたい。俺は仕方が無くゆっくりと、首の皮膚を傷つけないように頷く。
 なんなんだ一体。何が起きているんだ……あれか、切り裂き魔的な何かか……いや、女の切り裂き魔なんて訊いたことがない。それに、質問ってなんだ? 意味がわからないぞ。ど、どうすれば良いんだ。取りあえず従って居ればいいのか……でも、それで助かるなんて保証は……というよりなんで俺なんだあああああッ!?
 思案している最中、身元で彼女の声が聞こえた。囁くような、その声はやはり、どこか震えている。
「それじゃ……第一問目です。正直に答えて下さいね」
「は、はい……」
 ダメだ。
 俺には、こんな緊急事態に対しての耐性なんて付いてねえよ……


「あなたの弟さんは、女装が趣味ですか……?」


 え……?
 俺はこの時にいいえ、と言っていれば、どれほど楽な方向に話が進んでいたかと今でも後悔している。
 ああ、あんな眼鏡少女に騙されるなんて。

     

 夜明けの近い息づく街、妙に生ぬるい嫌な風、首元に当てられたナイフ、形而上の彼女。その四つで、歩道橋の中間は構築されていた。
 しかし、ここで追加することになった事がある。弟の観入だ。直接的に弟がこの場に入ってきたという意では無く、
「……あなたの弟さんは、女装が趣味ですか……?」
 話題だ。
 か細い声の少女は、そう俺に問う。俺がどうしても俺ら以外には知られたくなかったことを、ただ冷静なまでに問う。
「ど、どういうこと、かな……?」
 あくまで俺は平静を装う。内心、咆哮したいが今此処で何かしらのアクションを起こすことはそのまま肯定の意になってしまうためだ。瀬戸が何かこれと似通った事を言っていたな。まあそれぐらいの事まで思い出せられれば、多分彼女には俺の僅かな起伏は読み取れないだろう。それに彼女は俺の表情を覗けない。これも幸いしたかも知れない。
「……意味がわからないケド……」
 さて、どうする。
「……そのままの意で、捉えて貰って結構です。あなたの弟さんは女装を趣味にしているか、していないか。そう訊いています」
 そう訊いていますって言われても……
 でも、どこからか情報が漏れたって事は理解できた。しかしながら、漏れるところは、心当たりがない、皆無と言っても良いほどだ。事は家内、干渉していた人物は俺と弟と瀬戸だ。
 やはり皆無だ。
 そう思うのには、歴とした訳がある。瀬戸は今、会長の自宅で軟禁されているのだ。つい最近ニュースで知ったが、事が起きてからその処置に至るまで数分も要さなかったらしい。ということは、仮に彼女と瀬戸には何かしらの繋がりがあったとしても、彼はあの時ほぼ全裸だった。携帯電話なんて物はもってはいなかった。やはり連絡出来ない、不可だ。
 なら、何処から漏れた?弟が、いやそれも無い。まさか、俺が? そんな事あるはずかない。
 ならば本当に何処から……
 それより、質問に答えないと、そろそろやばそうだな。視線が何処を視ているのかがわかる。首だ。彼女は俺の首を視ている。感触、鋭利なそれは、まるで氷だ。殺気を帯びているような冷たさ。それが暗示するのは死。直結だ。
 いいや、それを考えて恐れを膨らましても埒があかない。今は質問に答えてやり過ごすしか選択肢は無い。だが、本当の事を言って弟を売るつもりも無い。俺はただただ言えばいいのだ。その質問に三文字で、簡易に。
「いいえ」
 否定してしまえばいいのだ。そうすれば何れ夜が明け夜が終わる。それまでの辛抱だ。
 が、間髪入れずに……
「とぼけないでください」
 彼女の冷淡な声が聞こえた。それは、最近鑑賞したSF映画に出てきた無感情のアンドロイドを想起させる。単調で起伏のない、まさに機械だ。
 確信を持って言うあたり、やはり彼女は何処からか情報を得ている。本当に厄介だ。
「と、とぼけてなんざいないさ。俺の弟は女装を趣味になんかしていないと言っているんだ。俺の見える範疇だけどさ。それより、どうしていきなりそんな突飛な質問をするのか教えてくれないか?」
 やはり俺は否定するだけだ。後数分を待って。
 意外にも今度は、俺の問いに彼女はふん、と鼻を鳴らし人間らしさを垣間見せた。ちょっとした驚きだ。何というか、ギャップみたいな物があるらしい。たったそれだけの事だったが、後方に居る少女は素顔を隠しているような気がしてならなくなってしまった。多分どうにかなると俺は己に対し激励する。理由はゼロだが、ポジティブな方向へ転換しないと潰れてしまいそうだ。弟とは違って、臆病で小さなハートだからな。
 少女は咳払いを一つ。
「あなたの問いに答える義理はありません。話しを戻しますが、なぜとぼけるのですか? 弟が変態だと知られたくないからですか? 何かを隠しているなら早く答えた方が身のためですよ」
 …………ため息がこぼれそうだった。
 また無機物の塊に戻りやがった。
 どうするか……
「俺は、良くわからないや。多分、例えその答えを知っていても俺はお前なんかには、話さないよ」
 …………
 喋ったすぐ後に、血の気が引くのが直に伝わってきた。少しだけ気が緩んだのだ、口を滑らしてしまった。俺は後ろに居る鬼を起こしてしまったらしい。感じるのだ、五感が、第六感が、潜在意識が、俺が。
 死が俺の首を捉えたと。
「…………」
 一瞬の静寂の後、鬼は、


「…………そう」
 激昂してみせた。


 すぅ―――とした。 
 ただ、すぅーと何かをかすめ取られた気がした。否、かすめ取られた。
 液体が首を滴り、流れているのが、わかってしまった。


「は―――」


 喉笛が掻っ切られたと、俺は酷く絶望する。その視界で俺は最早、最期と言っても過言ではない世界を見渡した。
 錆びたビル、それを隠すように取り囲む若いビルの群れ。そこを縫って歩いていた黒猫の影、コンビニと自動販売機の人工的な?。望んで居ない物ばかり、この瞳は写す。
 心は舌打ちと狂乱で飲み込まれ、一瞬で死んだように思うこと……動く事を停止した。夜明けは俺が思うほど早くはない様だ。

 
 そして、俺の首は得体のない痛みを発し唸り、叫びだす。ハッキリ言って意味がわからなかった、何がどうなっているのか。
 と言うことは、脳がそれを錯覚と気づくのはまだまだなのだ。
 

 <日記chapter3> 四月七日、夜。

 今日はとても、とても凄いことがわかったの。
 すれ違った人が言っていたの。弟は女装しているのは違うとか、兄に囚われているとか。
 それで多分、その人の部屋の番号も忘れないためかどうかわからないけど、反芻してたの。
 まだ推測だから、わからないけど私が今考えてることが、もし本当なら
 神様の奇跡かもね。
 
 私の漫画から、二人が飛び出して来たのよ、きっと。
 これから一週間、なるべくその人達を監視してみようかな。
 
 何かありそうな気がするの、五百十一号室の兄弟さん。(女の勘かな……?)
 

     



 
 朝に紅顔ありて、夕べに白骨となる―――。



 俺は歩道橋の真ん中に佇んでいた。ただ、そこには俺だけではなく、殺人未遂少女も佇んでいる。それも二人は密着している、視るのが辛いほどに馬鹿らしく嘲笑したい。だが寄り添うと言う単語は当てはまらない態でだ。その関係を表すとするなら、
「あぁ……ああ……」
 殺される側の人間と殺す側の人間と言ったところ、だろうか。
「はぁ……」
 口内から漏れた声と呼ぶにはあまりにも死んでいる音はただただ、路面へと落下していく。掠れたような、すり切れたような、絶望に似ている。だがそれには終を提示してくれるような優しい物では無い。百の絶望より一の希望のほうが、なんとか。いつの日か訊いた言葉だがすっかり失せてしまっている。雰囲気的にはそんな気がしないでもない。
 ……生きている。俺は確かに生きている……? 疑問を持つ事も出来る。まだ視ぬ朝を想像することが出来る。痛みを感じている。それは、生の証明だ。意識が遠のくどころか、眠気が覚めハッキリとした感じだ。しっかりと地に足をつけ俺は立っている。死んでは居ないらしいと仄かに喜びかけたが、肉親を目の前で惨殺されたような艶めかしい気持ち悪さで、精神は病んでいる。蕩けてしまいそうな程、心は腐食気味。
 ア。
 酷く痛く、恐い。しかし、生きているとまだ希望を持つことも出来る。が、それは絶望と変わらぬ、否、それ以上に濃い闇を醸している。それは心(しん)から血に乗り身体を巡りまた心へと戻る。循環されているのだ、その腐れた闇が。
 …………(どぉろり―――)
 そう考察すると、脳がギチギチに圧縮され行き場を失い、粘着質の体液と共に、目や鼻や口からドロドロと流れ出だす様なイメージが湧いた。まるで吐瀉物だ。骨髄に響く恐怖こそ、生という希望なのかも知れない。
「…………」
 俺の口からは、吐息すらも出なくなってしまった。死とは、これほどまでに虚無を与える物なのだろうか……
 知ってか知らずか、俺の嫌な想像をかき消した所で、少女は紡ぐ。
「あまり、私を怒らせない方が良い。今のでわかっただろう? 私は平気でお前の喉を切り裂くつもりで居る。今のは、ちょっとした脅しのつもりです。でも、痛いでしょう? どうですか? 首の皮膚を傷つけられる感想は?」 
 さらり、と表現出来てしまうほどに彼女は、何も懼れずに話す。優雅と、飾っても良いだろう。しかしながら、そういう所に俺は弥立った。なぜなら、それは人の命など私が得る物に比べれば軽いと言って居るようなモノだからだ。……本当に彼女は鬼や魔と近似した存在と、俺の眼には写った。
 気がつかなかったが、俺の手が微弱に震えていた。寒さではないの事は理解出来た。その手はアルペッジョを弾いたときの弦に良く似て、壊れそうだ。薄羽蜻蛉の薄命にも見えるが俺は生憎、虫嫌いの性分の為、すぐに濁す。
 しかし、それと似ている所を発見してしまい俺は自己嫌悪で一瞬、吐きそうになった。
 そう弱いのだ。
「……すみません……でした」
 呉牛、月に喘ぐ。
『声』がやっと出た事がちょっとした救いだ、と思う俺の弱さにまた吐き気を催した。まあ、確かに恐れのあまり、はいもいいえも言えなくなってしまえば、終わりだろう。張り詰める空気の中、心の迷いは死に直結する。それで無くとも首が壊されているのだ、これ以上は確実だろう。それに、後方の彼女は形骸だ。俺は、この数分間で確信した。先ほどまでの人間らしさは真の姿を隠すための擬態に過ぎないのだ。それはバッタやナナフシの様な、捕食されないために己の他に擬態する隠蔽擬態ではなく、カマキリやリーフフィッシュの様な獲物に気付かれないように擬態する攻撃擬態だ。生物的な言い方をするなら、彼女は捕食者だ。俺という獲物から情報と言う血肉を啜り貪る捕食者だ。
 本当に俺は、軽視していたとこの時、彼女の手元が狂えば死んでいたかも知れない時間にして、やっと理解出来たのだ。自分が置かれている状況、そして後ろの人間に擬態した鬼。気がつくまでの遅緩、苦笑物だ。普通の小説なら犯人でも特定している頃と言うのに―――それに、払わなくとも良い血まで差し出して馬鹿馬鹿しい、アホだ。
「では、もう一度問います」
 状況を飲み込んだ途端、鬼は手の鳴る方へ動き出した。
 玲瓏、冷酷ながらも美麗な声。
「……はい」
 微かと言う点が俺の弱さを浮き彫りにする。手以外にも声も震え始めた。これは小心翼々も良い所だ。
 自嘲気味な笑みを心の内に含んでいた、その時。消えたのだ。
 それが、首元から、鋭利な感触が消えたのだ。
 ナイフが。
「……?」 
 恐ろしさのあまり、神経が麻痺したかと疑念を持ったが、そうではないらしい。後方に居る、彼女が自ら俺の首に当てていたナイフを後方に納めたのだ。
 不思議だ。否、不可思議だ。
 最初は、彼女も傷をつけたのは少々まずかったと想いナイフをしまったと感じたのだが、多分それは違うだろう、なぜか、彼女はまたすぐにナイフを首元に再び当てたのだ。まるでそれが、当たり前だと言わんばかりに。
 しかし、俺の中でその事象はある種のヒントみたいな物だったのかも知れない。
 変……じゃないか? 今の行動。
 ナイフを一度外して、もう一度つけるなんて、変だ。
「あなたの弟さんは、女装が趣味ですか?」
 少女は何事もなかった様に話しを進めるが、今の連続した動きは、やはり、おかしい。何なんだ? 彼女は潔癖症か何かなのか? 他人の血が付くのが許せなくて一度拭いたのだろうか。否、そうだとしても矛盾は起きる。よしんば、拭いたと定しても、首にはまだ血の冷えた感触がある。またナイフを戻せば刃の表面に血液が付着する……、合点が行かない。どうしてだろうか。
「あの、早く答えないとどんどん皮膚切れていきますよ?」
 追い打ちをかける様に彼女の声が耳に迫る。
 ああ! 思考が回らない……! どうすれば良いのだろうか……何かあるとするならば、先程のナイフ。拭いた……拭いたという可能性を消せば、何をした? 取り替えたのか? 否、ナイフの大きさや感触には変わりがない。首にこびり付いた嫌な感触と一致する。柄でも変えたのか? それも、視界不良の為、良くわからない。
「あの、そろそろ言わないと……どうなっても知りませんよ」
「は、はい……答えます、答えますから」
 万策尽きたとは考えたくはない。何処かに必ず、綻びがあるはずだ。
 まず、初めから考えてみよう。俺は、夜明けを視るために此処に来た。このことを知っているのは俺、本人だけ、弟すら知らない。その事を知っているなら、二つの可能性が浮上する。一つは、何度か俺を監視していた。もう一つは偶然にも同じ時間帯に顔は合わせないが存在していた、という事。それに、弟が居る事を知っている知識を加えれば、やはり監視の方が強い。弟が居る事を知っているなら、多分だが俺と面識のある人物であり女装の事も知っている為、薄崎マンションに住んでいる人物かも知れない。何せ瀬戸は天井から訊こえてきた声で事情を察知し(間違ってはいたが……)駆けつけたぐらいだ。なら上、横の住人達にも、漏れていると言う事は否定できないのだ。
 絞り込めて来た。推測だが後ろに居る女は、俺と面識があり、薄崎マンションに住んでいる可能性がある。それに声から想像するに、年代は同じだろう。ならば、学校で逢っているのかも知れない。
 しかし―――俺は落胆した。
 犯人を特定できても何の役にも立たないと気がついてしまったからだ。よくよく考えてみると、犯人がわかったから何だと言うのだ。ここで殺されてしまえば、終わりでは無いか。なんだか虚しさを感じ、俺は自暴自棄に陥りそうになった。
「……はぁ……」
 ため息一つ。それを切り裂く様に彼女の声が突き抜けた。
「やっと言うようになりましたか? さあ言いなさい」
 ここでバラすなんて事は死んでもしたくはない。どうするべきか……
「……もう少し時間をくれないか……踏ん切りがつかないんだ……」
 ―――時間を貰っても俺には、どうすることもできないが……少しは気が紛れるか。
「良いでしょう、しかしこのまま夜明けを待つような作戦ならやめて起きなさい。私は夜が明けたらすぐに有無言わず殺すつもりですから」
 初めてでた殺すという単語に、俺はまた恐れ戦いた。直にそう言われてしまうと……また、首が痛む。
 ……首が?  
 そうか首だ。
 なぜ今まで気づかなかったのだろう、単なる錯覚という事に。違和は、首だったのだ、冷たい空気のため、そう感じていたのだ。だが、それは傷や痛み等ではないのだ。でもそれは感覚的には同じに感じるのだ。そう欺かれていたのだ。


 脳が―――
 

 錯覚していたんだ、その傷も痛みも、ナイフも、後ろの彼女も。
 推測の域からは脱しないが、そうだと説明は付く、先ほどのナイフの事も首も。しかし、このトリックを使ったとするならもしかしたら……先程の俺の考えも強ち間違ってはいないと言うことだ。
 声質自体、良く訊けばその人以外の誰でも無いのだ。ただ、いつもの雰囲気とは真逆で在るために、俺は錯覚したのだ。その声が、もう一度訊こえたら俺はこの長く不整脈の様な狂った夜を終わらせられる気がする。何もかも常に戻るのだ、朝となって。
「早くしないと、また切りつけますよ」 
 …………
 さて、朝日が昇る頃だ。
「こういうのやめにしないか?」
 賭だ。
「何を言っているんですか? 恐ろしさのあまり自我が崩壊したのでしょうか?」
 彼女は、嘲る。
「いや、今から崩壊するんじゃ無いのかな?」
 この賭の成功率は甘く見積もっても五十、それ以下だ。
「……どういう意味ですか」
 一瞬の間を置き、
「どういうって、今から言う俺の一言で、多分アンタの自我が崩壊するって意味だよ」
 その五十に俺は賭けてみようと思ったのだ。
「……滑稽ですね。本当にあなたは壊れてしまった様です。どうですか、お花畑でも見えますか?」
 滑稽だ、本当に滑稽だ。だが、
「まあ、お花畑は見えないけれど、夜明けは見えるよ。俺の瞳にはな」
 滑稽になれるだけの心の余裕は出来たのだ。
「……まだ、夜中ですが。そろそろ狂言にも飽きました。これ以上、続けるならいっそ天国で役者でも演じていたらどうですか?」
 余裕があると言う事は、それだけ思考の巡りも広がり、気づかなかった点にも目が行く。ほんの少しの事でも、だ。
「ふーん、それも悪くはないけど、その前にアンタが演じるのを止めてくれないかな?」
 だから、昨日の化学の授業も思い出せた。
「演じる? 何を言―――」
 終わりのチャイムの後に、教師に授業中にしていた小話の事を、何度も深く訊いていた彼女の姿が、見えたのだ。脳内で。
「演じてるんでしょ? ねぇ委員長さん」
 追憶。
 その一言で、教室の天使と呼ばれた彼女は激しく動揺した様だ。『氷』のナイフが酷く、ぐらついた。
 それとほぼ同時に、薄暗い陽が青く歪んだ街に流れ込み僕らを照らし、澱ませる。


 ―――夜明けだ。


 <日記chapter4> 四月十三日、夜。

 一週間の追跡が報われる日が来たかも!! すごく大変だったなー。
 後、四時間ぐらいしたら多分、森崎くんは歩道橋の方に行く。(ちゃんと調べたから、知ってるんだからね)
 でも、こんな時間に夜出歩くなんて本当はダメなのにね。今度注意しようかしら。
 それにしても、スタンガンでどうにかしなくて良かったかも。本当に今日の化学の授業は役に立つわね。
 氷のナイフを目隠しの人は、本当のナイフに間違うなんておもしろいよね。
 これなら傷つかないで済むから安心安心っと。
 だけど、弟さんの事訊いたのが私だってバレたら大変……大丈夫よ! 私、演劇部の部長なんだから。
 それより、BL漫画を書いてるって事がバレる方が大変だよね……

 この日記もバレたら大変なんだけどね(笑)
 

     

「朝になっちゃったね―――」
 切り出した少女の声は何処か希薄を漂わせている。まあ、無理もない、なぜなら彼女は多分、自分が委員長だと言うことを俺に気づかれないように、こんな面倒で盤根錯節した方法を選択したのだろう。
 しかし、俺に見破られてしまった。
 それが、『悲しい』のだろうか。
 それが、『哀しい』のだろうか。
 それが、『虚しい』のだろうか。
 それが、『空しい』のだろうか。
「……朝は何処にでも分け隔て無くやってくる物ですよ」
 …………
 言わなければ良かった。
 本当に、何処の詩人だと自嘲したくなる。中々こういう時に気の利いた台詞が出てこないのは、文才などが無いか、感性が乏しいかのどちらかだ。
 当てはめるのなら俺は、後者だろう。
「いつから、私だって気がついたの? やっぱり昨日のナイフの話をすぐ実行に移したのがダメだったのかなー……」
 彼女がため息混じりにそう呟く。相当疲れているのか、なんだか語尾がだらけてしまっていた。
「委員長さんって選択肢は本当に偶然出てきたんだ。何というか、思い出したんだよ。昨日の授業の事」
 そっけなく、ふーんと彼女は相槌を打つ。身のない返事の所を視るとやはり疲労の色が見える。それもそうだろう、ナイフに見立てたそれを氷だと見破られないように、微妙な距離で俺の視界に写らないようにし、溶けた水を上手く血だと思わせるタイミング、そして新しいナイフと体温で溶けたナイフとの交換。
 どれも体力、集中力を多いに消費することだろう。俺なら五分と持たないが、彼女は二十分近く耐え抜いた。精神がすり減る様な行為だ。出来るなら彼女をこのまま家に帰して、すぐにでも安息を与えてあげたい。
 しかし、訊きたいことは山ほど或る。このまま返すわけにはいかない。
「それで、どうして俺にそんな事を訊くのか教えて貰えないかな」
 長く立っていた所為で棒の様にパンパンになっていた足に無理を言わせ振り返る。
「えっとね……」 
 そこには俺の頭の中の、いつも通りの委員長が居た。丸い眼鏡と、少々短い髪。小柄な身体と目鼻の整った顔。栗鼠の様なかわいらしさと何処か守ってあげたいと思わせるような悲哀な表情の彼女だ。
 答えが知りたいと、俺が彼女の顔を覗いた時、
「――――――」 
 不意に彼女は笑った。
 危険だと、本能的に向きを変え走り去ろうとした瞬間。
「後は、午後話そうね」
 懐に彼女は居た。天使のような微笑みを浮かべながら。
 その言葉の意味を問う暇もなく、腹に痛みが走った。
 底に落ちていくような長い眠りに誘われる。
 もがくが、意識はどんどんと深海へ沈む。
 溺れる前にもう一度だけ彼女の顔が水面に視えた。
 委員長さん……?
 叫ぼうとした時、俺の口から大量の気泡が溢れ、塩の味が広がった。
 現(うつつ)の狭間で、そう錯覚した。


 *

 
 気がついたときに、見えたのは波紋がまだ残る水面ではなく、天井の消毒された白だ。どうやら気を失ったらしいとすぐに理解出来るほど、俺の思考回路は上手に造られてはいなく、朝が来たと普遍的な考に収束させた。
「ッ―――」
 身体の右側の方がヤケに痛い。寝違えたという訳でもなく、何というか床や、堅い場所で長時間睡眠を計っていたような雰囲気に近く似している。
 ベットから落ちてたのか……?
「あっ、兄さん起きたんだ、良かった良かった!」
 弟の声が聞こえた方に首を回す。制服姿の弟が居た。その後ろにベットがあることも確認できたため、ここは病院だと気がついた。弟の頭部の真横には、点滴の機材がハンガーの先のような金属にぶら下がっている。鎖のように見えなくもない。
 どうして、俺は病院にいるのだと思った、そうか俺は何も覚えていないのかとこめかみの辺りに突発的な痛みが生じる。
 数時間前のことが思い出せない。
「なぁ―――ッ」
 弟に話しかけようと、上半身を起こそうとした。その時、腹部に嫌な痛みが走った。電極を肌に直接ねじ込まれたかのような、鋭い痛みは瞬間的に驚愕に変わる。
「!?」 
 俺は慌ててその部分を良く見るため服を捲る。薄手の衣服の下、腹部の辺りの皮膚が赤く腫れている。詳しく言うと箇所は臍の右横である。なんだかその赤は北斗七星の様な模様だ。
 傷……?
 手を伸ばし恐る恐る撫でる様、触ってみるとそこは爛れている様な感触がした。かさぶたのような雰囲気だ。しかし幸いな事に痛みはさほど無く、違和感もまるで無かった。ただただ、そこに傷だけがあるのだ。
 ……いつ付いたんだ、この傷。
 この傷、確か……
 何か重要な事を忘れているような気がして俺は壁に取り付けられた時計を確認していた。なぜ時刻を求めたのかは俺でもわからない。
 午前十一時と針は示していた。
 しかし時間、それが重要だと判断したのだ。
 ぼっと時計を見ていると、弟の朗らかな声が訊こえた。
「兄さん、ほら寝てないとダメだよ、身体に障るよ?」
 ああ、と適当な相槌を打つ。そうだ、弟に訊いてみよう。何か事情を知っている可能性がある。
「あのさ、腹の辺りに火傷の跡みたいな傷があるんだけど、俺どうしたんだ?」
 回りくどい言い方で濁すのは嫌いな為、ストレートに訊いてみる。すると、意外な返答が弟の口から漏れた。
「どうしたんだって、ボクが訊きたいよ!」
 正直、驚いた。 
「学校行ってたらさ、いきなり先生にお兄さんが歩道橋の上で倒れていて救急車で運ばれたって……ホントに何があったの!?」
「何があったの……って言われても―――」
 歩道橋の上で俺は倒れていた、と言う事を訊いた辺りから記憶が鮮明に蘇るのが手に取るようにわかった。そうか、委員長との、なら首に凍傷の跡でも……
 触ってみたが、喉仏の感触だけが虚しく、手に伝わる。
「……まあ色々かな」
 仄めかした態度を見せると弟ははぁ、と呆れたようにため息をついた。
「そろそろボク学校に戻らないといけないから……それと絶対安静なんだから、動いちゃダメだよ!」
 そう言うと弟はテレビカードを一枚、俺に手渡し病室から出て行った。
 検査入院か。
 それから、テレビや睡眠を取って暇を潰していた。気がつくと一人では持て余す程の病室がすっかり、夕の色とその影で埋め尽くされていた。
 独りで、この空間に居るとなんだかセンチメンタルになりそうだ。
 それから、しばらくしてからだろうか。



 委員長が来たのは―――


 

     

「お見舞いに来たよー。元気ー? な訳ないかー」
 彼女はそんな調子で病室の扉をガラリと開けてやってきた。今朝の事が全て虚構の産物だ、と言わんばかりに。もしくは、俺の記憶がそこだけ欠落していると願っている様にも感じ取れた。
「あら、独りなの。寂しいわねー何々、一人の方がやりやすいって事もあるのかな……? きゃー!」
 なはははは、と彼女はけたたましいサイレンのように笑う。それは、今朝の嫌な笑みではなく何処か楽しんでいるような笑い方だった。しかし、俺はその笑みの方が何倍も良いと思う。うるさいが人情味があるのだ。朝の笑い方は、何度も思うがアンドロイドだ。
「よっ、体大丈夫か? 心配したんだぞー。朝、歩道橋でさ森崎が倒れてたって訊いて」
「あ、ああ悪い悪い。なんか良くわかんないけど倒れてたらしくてさ。本当、なんで歩道橋の上で倒れてたんだろうね、あはは―――」
 俺は嘘をついた。
 それはある種、興味本位から出てきた偽りだ。もし俺が朝の記憶を忘れていたら彼女はどう話しを進めるのか。
 一応、話しがある程度進んだら本当のことを切り出すつもりだ。
 しかし、
「嘘は嫌い」
 一瞬にして、彼女の顔が変わった。恐ろしい程、心の消えた瞳で俺を覗いている。否、それは目ではなく穴に近い。底が見えない二つの真っ黒な穴が俺を覗いている。
「……バレてたか」
「もちろんっ!」
 すぐに彼女は仮面を被る。いいや、もしかしたら冷徹な方が仮面でこっちが素顔かも知れない。しかしながら、どちらがどちらを演じていても俺は怖いと感じるだろう。
「森崎は嘘付くの下手だねー」
「どうしてそう思うんだ?」
 すると、彼女は顎の辺りに手を持って行き、探偵の様な仕草をしてみせる。
「そうね。まず私が入ってきた時に、軽くボケでもしてくれれば、私は森崎は今朝の事忘れてるって思ったよ。でも、森崎は真剣な目で私を覗いたの。普段は見せない眼光が宿ってたのよ」
 なるほど、と頷いてしまった自分の馬鹿さ加減に苛々する。
「でも、俺はその後普通に話して見せたぞ?」
 また馬鹿な発言をしてしまったと後悔した。
「それはね」
 彼女は眼鏡の中央の部分を一度上げ、
「目の奥が笑ってなかったの」
 と、常人では見破られない綻びを指摘した。
 やはり、彼女には適わない。
「普段通りのバカ森崎だったら、二言目の寂しいわねーの辺りから、何かと突っ込んできたわよ」
 バカ森崎とは何だと普段通りの俺は言うだろう。しかし、事前の状況が状況なだけに俺も、戯けたりはしにくい。
「なぁ、今朝のアレどういう事なんだ?」
 切り出したのは俺の方だった。
「どういう事って?」
 わざとらしく彼女は訊き返す。しかし、視線は床の方へ伏している。 
「どうしてあんな事をしたんだって訊いてるんだ。弟の事とか、ナイフとか……」
「そうね……」
 彼女は窓辺に近づきカーテンの緒を解く、そして薄いカーテンを徐々に閉めていく。同時に部屋の赤さも消えてゆき、影との比が逆になっていく。
「私はね、あなたを傷つけるつもりなんて無かったの。ただ協力してもらいたかっただけなの」
「協力?」
 そう、協力と彼女は繰り返す。
 その表情に漏れた夕の色が差し込み、彼女の顔に陽と陰が生まれた。
 僅かに、微笑んでいる事が不気味だ。
「今からとんでもない発言するから、訊き逃さないでね森崎君」
 君付け、とは更に不気味だ。
 だが、次の言葉で不気味さは見事に払拭されることになる。
「私……」
 ゴクリと俺は生唾を飲む。
「私、BLの漫画を描くことが趣味なの!!」
 へ……?
 BL漫画……ぼーいず、らぶの漫画……
Boys love.
 ボーイズ……ラブ……
「えええええええええええええええええええええええええええええッ!?」
 あまりの事に俺はあられもなく絶叫していた。
 男同士の愛……
 う、嘘だろ……!? こんなにも可憐で汚れを知らなそうな表面をしている委員長さんに限って……
「そ、そんなに可笑し―――」
「はい!! 可笑しいです。いいや、変です。断じて変です!!」
 いけない、俺までなぜかおかしなテンションになってきた……
「ええええっとゲホゲホ……せ、咳があ……えっとですね。BL漫画とは、ボーイズラブの漫画の事でよろしいでしょうか……!?」
 駄目だ。
 平静なんて保てない……
「そうだけど……普通じゃ無いかな? 女の子なら誰でも好きだと思うし……」
 そういう物なのか……? 俺は男だからって女の子同士の……嫌々、断じてだりえない!
「多分ですけど、好きな人は少数だと……思いますけど……」
 そうかしら? と彼女は流暢に受け流す。
 こんな場面でも、そんな対応が出来るのは流石と言ったところだろうか。
「でも、私は好きなの。男の子と男の子の愛情は素晴らしい物なの」
「そ、そうですか」
 彼女は不思議だ。
 そんな事を俺に言ってどうする。全く持って真意が見えない。否、一つぐらいは見えてきた気がする。それは紛れもなく氷山の一角なのだが。
「それで、今朝に弟が男装趣味か? とか訊いてきたのか?」
 今朝の事を思い出し、彼女にそう問うと彼女は快闊に笑い飛ばしてきた。何か的を射ていない事を訊いたかと焦燥したが、次に彼女は察しが良いねと返してきた。
 本当に不思議な子だ。
「そうなの。事細かく話すと長くなるから、色々省くね」
 それに、面会時間もそろそろだしと彼女は時計を確認する。時刻は午後五時半、面会終了時間は六時だ。
 省いても、有に三十分もかかるのかと僅かばかり、項垂れる俺だったが彼女はそういう微少な変化も見破るのでなるべく態には滲ませないようにする。
 が、
「あーまた面倒な事になったーって顔してるー。教室の時もそうだけど、いつも私と話すと仏頂面になるよね。そんなに私の話、退屈かな?」 
 多分、俺は剣呑な表情をしていると思う。
 俺ってそんなに顔に出やすいのか……
「すみません、しっかり訊かせて頂きます」
 よぉーしぃー良い子だねー、と彼女は戯けてみせる。
 その笑顔に、少しばかり癒され思わず紅潮してしまった。なんだか恥ずかしい。
「そう、堅くならなくて良いよ。話自体砕けてるような物だからね」
「砕けてる……? そんなにヤバイ……話しなのか?」
 一呼吸置き、
「そうだねー、訊けばわかると思うけど……」
 薄紅に染まる表情は何処か悲しげに見えた。目線や、口元に添える手の細さ。それは、折れた彼岸花を連想させた。
「えっと……実を言いますと、今書いてる漫画のモデルが」
 この時点で嫌な予感はしていた。
 まさか……
 

「森崎君兄弟なの!!」


 彼女の屈託のない笑みに、俺は酷く泣きそうになった。

     

 消毒液をかけたアスピリンを塗した病室を斜陽が真っ赤に染め上げる。俺は、頭を抱えていた。それは、委員長を好きになってしまったどうしよう!? なんてラブコメ要素満載の展開などではなく、ただ単に突発的な頭痛に見舞われた為だ。しかし、血液の循環が滞った痛みではなく、俺の痛い過去を詰め込んだ鉢植えを脳天に真っ直ぐ落とされたような、精神を抉る痛みだ。
 多分だが、もしこんな事が日常茶飯事に起きたとすれば、俺は三日と持たずに首を括り奇々怪々なデザインの一つになるだろう。
 ……ああ。
 頭が割れそうだ。
 その前に彼女の台詞が反響して耳が千切れるかもしれない……
 いや、その前に目眩で、委員長に抱きつくかも知れない……
「…………」
 たった一言で、人間ここまでネガティブに埋もれる物だろうか。
『森崎君兄弟なの!!』
 溜息も出ない。このまま黙って、面会時間の終わりを告げるチャイムを待とうかな。が、無言で現実逃避を計る俺を無視するように、彼女の背中のゼンマイは廻りだし、口からメランコリック成分100%の言葉を吐く。
「ねぇ! 実は今日持って来たの!!」
 それが、嘘だと俺は信じたい。
 もしくは、それを忘れてきたと願いたい。
 彼女は徐に肩にかけていた学校指定のバックを病室に設置されている、キャスター足の机に置く。その瞬間、ドンと言う音がするほど彼女のバッグには何やら物がたくさん詰め込まれているようだ。そんなに色々、入っていたら肝心の物が取り出せないんじゃないか。
 俺の予想は的中した。
 教科書やプリントの類が目一杯に詰め込まれたバッグには指を入れるスペースすらもなかった。委員長もあれれと頭を掻く。もしや、これは取り出せないからまた今度って感じになるんじゃないか……!?
 俺の予想は的中……して欲しかった。
 俺が考えるほど、彼女は億劫ではなく文句を言いながらも、バッグの中身を一つずつ出し地道にそれを探し始めた。確かに、探すの面倒だからまた今度ーってことにはならないのは薄々感じていた。なぜなら委員長だからだ。成績TOP、みんなからも慕われ、顔もかわいい、それに誰にでも優しい、そんな彼女がすぐ諦めるなんて事は甚だおかしいのだ。だから今朝の事にも違和は感じない。しかし、どうしてそんな子と一緒なのに俺はこんなに鬱なのだろうか。
「あれ……おっかしいなー。多分この中に……」
 探す彼女はやはり可愛らしかった。小柄だが、胸も尻も中々大きく健康的で良い身体をしている。繁々と見ていると彼女と不意に瞳があってしまった。
 すぐに目を俺はそらすが、彼女はふーん、となんだか含みのある笑みを浮かべていることがわかった。
 あー変態か俺は!
「ふふふ……あっ、あったあった!」
 ゆっくりと視線を彼女に戻す。持っていたのは数枚の紙だ。A4程の紙だろうか、何分そういう物には疎いのでA4では無い可能性が高い。
「私ね、今朝の事があったからさ、一応、森崎にも白状しようと思って持って来たの」
 俺は、何を? と訊くのを躊躇った。何せ委員長のか細い百合のような真っ白な手から、タイトルロゴと思われる物がちらちらと顔を覗かせるのだ。
 多分、否、絶対に彼女はそれを俺に読ませる気だ。が、俺にはそのタイトルの本を読む気にはどうしてもなれなかった。凄惨だ。俺の世界にそれを持ち込むのは凄惨過ぎるのだ。
 だから、俺はあえてこう訊く。
「絶対に読まないといけない……のか?」
「うん!」
「…………はぁ」
 どんよりした。
 空気が、ではなく俺が。
 読んでどうすれば良いんだ。感想を言えば良いのか……そのタイトルの本に俺が感想を言わないといけないのか? そのタイトルの本に!?
 

 俺の弟がこんなに可愛いわけがない―――


 どうしろって言うんだッ!!
「それじゃ! 読んで貰いましょう! どうぞ♪」
 赤面を通り過ぎて、俺の顔は藍より青くなりそうだ。
「……ど、どうも」
 訳がわからない。俺らをモチーフにして書いたBL漫画をその本人に見せるって……委員長はもっと常識のある人間だと……
 しかし、ここで読まないと彼女はまた何か問題を起こすだろう。それも、今度は俺の命が危ないかも知れない……幼気な高校生のままで死んでたまるか! 女子にキスすらもされないで死ぬなんて、死んでも死にきれねぇ!!
 よし、読んでやろうじゃねぇか!
 俺は、ほぼ自暴自棄にタイトルの描かれたページを捲り、開けてはいけない扉の向こうへ足を踏み入れた。


*


 …………読み終えた。が、俺は何か大切な物を失った気がする。
 感想は八割喘ぎ声と無駄にリアルな―――の形だけだ。それの印象が強すぎて内容は半分も入ってきていない。
「どうかな? ある有名なお話のパロなんだけど……おもしろかった?」
「……はい、色々と凄かったです」
 本音だ。
 色々と、意味の活用は多いが。
 ハッキリ言うと吐き気がしていた。シュールストレミングを一気食いしたような催し方だ。理由を整理すると、一つ目この話しの内容だ。これは常軌を逸していると言っても過言ではない。なぜいきなり男子更衣室で兄弟がその……なんだ、しているのかだ。二つ目、絵のレベルの高さだ。前々から思っていたが彼女の絵のセンスには目を見張る物がある。デッサンや絵画、そういう類の物に関しては、彼女の右に出る物はいない。が、それがこの作品では仇になっている。ハッキリ言ってしまうと、リアル過ぎて気持ち悪い。まるで、そういう映像を見ながら写生したとしか思えないのだ。それに、
「……これ、絶対俺ら兄弟だってバレるよね……」
 そのままだから。素材が剥きだしだ。
「もちろん! だってモデルだもん!」
 バレたら偉い迷惑だ。と言うか人生のエンディングが五十年くらいスキップされる。よしんば、これが何かの拍子で学園内に漏れたとする。したなら、確実に俺ら兄弟がそういう目で見られることは間違いないだろう、その理由を問えば、リアルだからだ。これは高確率でデッサンに見えてしまうのだ。描写角度、俺と弟の表情、汗や毛の一部にまで。それに彼女なら『モデルは森崎くんの兄弟です~』とか言いそうだ。彼女の意としては、性格や(俺はそんな性格はしてはいないが)顔立の事なのだろうが、周囲はそう捉えないだろう。俺達がそういうことを営んでいる姿を委員長に書かせた。大体はそう思考する。
 それに炒がいる。彼は物事を複雑化させ、最終的に混線パレードを創り上げるプロだ。何としても奴の耳だけには入れたくはない。
「……これ、どうするんだ?」
 俺は一択だ。シュレッダーにかけた後、そのシュレッダー機ごと燃やして、灰になったそれを由緒正しい神社に奉納して貰い、一年に一度、一掴み海に投げ捨て、一日かけてお経を唱えて貰う。勿論、修行僧も同行で、だ。
「えっとね……」
 迷わないでくれ……俺は成仏してほしい。
「仕方がない、隠しても何れバレるので言いましょう!」
 すると、彼女の口から、俺には聞き覚えがない言葉が入り込んできた。
「夏コミで売るの」
 ……なんだそれは。
「はい……? 夏……コミ?」


「だから、夏に開催されるコミックマーケット所謂、同人誌即売会で売るの」

     

 彼女の一言に俺は寒気を感じた。裸電球が吊された狭い廊下を歩くような、薄暗く気味の悪い陰湿な寒さだ。
「同人誌即売会……?」
 目を見開く俺とは裏腹に彼女はまたニコリと微笑み話し出す。
「そう、同人誌即売会。その中で、私達はサークル参加するのよ、その時に売る同人誌が、森崎君に読んで貰ったそれなの」
 参加? 売る? 
 …………
 全身の血液が何処かへ退いていくのが肌を通して感じられた。クローゼットを開けたら、頭の無い人形が出てきたような、心臓を掴まれた気分だ。
「それなのって……それは問題だ! 大問題だ!!」
 本当に大問題だ。
 この俺と弟の紛いの愛を詰め込んだ物語を誰とつかぬ他人に提供するのは甚だおかしい。それも、許可無く描いてたフィクション物をだ。
 初めて思うが、委員長は何処か重要な頭のネジが三つ程、外れている。そんな彼女を秀才だ、常識に満ち溢れていると錯覚していた自分が怖い。
「ダメだ! こんなもの売らせるつもりはない!」
 彼女は困惑する。何か思慮している様にも感じ取れるその表情は、何処か哀愁を漂わせている。
「えーでも……でも、秘密にして売ったら怒るでしょ? だからちゃんと言ってあげたのにー」
 やはり、彼女の頭のネジは何処かへ飛んで行っている。
「言ってあげたのにーとかって問題じゃ無いだろ! 言っても言わなくても、これを売るのは認めない!」
「どうしてー? 細部まで良くできてるのにー」
 細部まで―――
 俺と弟のその光景を模写したかの様な言い方をして欲しくない。弟と顔を合わせる度、その漫画のイメージが浮んでくると思うと目眩が止らない。 
「それがダメなんだって! 見ろ、この顔!」
 俺は焦点を定めないまま、そのページ中央部分にありありと描かれた、俺と思わしき主人公の顔に指を置く。
 一言で表すなら卑猥だ。
「何? その恍惚と白濁液に塗れたその顔がいけないのー?」
 ……なぜ。
 なぜ、彼女はわざわざ卑猥な表現を露骨に使うのだろう。
「そうじゃなくてだな。この顔、モロ俺じゃねえかよ!」
 俺から見て俺に近似していると思うのだから、他人が見れば確実に俺だと悟るだろう。
「そうだけど……?」
 彼女は小首をかしげ、人差し指を立てた形で手を口元に添える。
「だからッ! さっきも言ったけど、これ買った奴が、俺らとあったら確実に、そういう目で見るだろうがッ!」
「そういう目で見られたくないの?」
 ……彼女は俺をそういう目で見られたいと言う願望を持ちながら日々生活しているとでも思っいたのだろうか。
「見られたいわけないからッ!!」
 口調が尖る。
「えー残念……森崎君兄弟には素質があると思ってたんだけどなー」
 それでも彼女は戯けてみせる。
「何の素質だよ……」
 その時、彼女の口から思いも寄らぬ発言が飛び出した。
「だって、兄弟でキスしたことないの……?」
 ……ッ!?
「な、な、ないからッ! そんなことする兄弟いないから!」
 少々、動揺を隠せなかった。
「そうなの……」
 彼女はまた寂しそうな顔をして魅せた。しかし、このまま帰すわけにも行かない、と言うより俺には話したいことがあるのだ。
「この問題は後回しにして、本題に入っていいか?」
 彼女は、不思議そうな目でこちらを覗くが、首を縦にコクリと降り、頷いた。
「これも本題で私は来たんだけどなー」
 これも……? これもとはどういう意味なのだろうか……まだ彼女には俺に話す何かがあるのだろうか。しかし、多分俺にとって特になるような話しでは無いと思うと、妙に悪寒がする。
「……森崎君の話、どうぞ」
 俺は彼女の瞳を一瞥し、俯きながら口を開いた。俺は甲斐性無しの為、出詰まりするが覚悟を決める。
「今朝の話題に入るけど―――」
 隙間にねじ込むよう、
「ごめんなさい!!」
 彼女はすぐに頭を垂れ謝罪した。彼女の行動があまりに急な物で、俺は面を食らった形になった。
「本当にごめんなさい……ケガさせるつもりはなかったの……でも一応持って来たスタンガンの威力が大きくて……」
 まごついていた俺だが、腹の爛れた傷は委員長が持っていたスタンガンだという事は理解出来、少しばかり安心できた。この先、原因不明の傷をつけたまま不安に駆られながら日々過ごすよりも何倍も有益な情報だ。
「その事は、もう痛くないから大丈夫だからさ……」 
 彼女は今にも崩れそうだった。表情は髪のせいで口元しか見えないが、涙を堪えている様に見えなくもない。その姿はあの時の弟と所々似ており俺は、直ぐさま彼女から目を背けた。
 なんだか、話しづらい雰囲気になってしまった。
「…………」
「…………それは良いから、心配しなくて良いよ。俺が訊きたいのはそこの所じゃ無くて……」
 一度、深呼吸をし、踏ん切りを着ける。
「委員長、どうして俺の弟が女装趣味だ、なんて馬鹿げたこと今朝、それもあんな事してまで訊いたんだ?」
 俺は、彼女の瞳を覗いた。何やら彼女は躊躇しているのか、思い詰めた表情に顔が変化している。そして、振り絞るように言葉を紡ぐ。
「……学校じゃ話しにくいと思ったし、私だってバレたく無かったの……」
 韜晦していた、その点については俺にも察しがついていた。彼女は表裏がない人物として有名だ。そんな創り上げた偶像に傷をつけたくは無かったのだろう。
 訊きたいのは、もっとその奥にある、深い想念だ。
「すまない、俺が訊いているのは、どうして弟が女装を趣味にしてるかって所なんだ」
 核心に俺は迫る。
 なぜ、彼女はそんな事を訊いたのか。そしてなぜ、彼女はそんな事を訊こうと思ったのか。
「あのね……一週間ぐらい前に瀬戸財閥の御曹司さんが捕まったでしょ?」
 瀬戸の嘴の事だ。やはり彼女はアイツをパイプにここまで辿り着いたのか。
「あの御曹司さん路上、詳しく言うと白ノ屋って言うケーキ屋さんの前の通りで捕まったんだけど……その時間に、私もその通りに居たの」
 ……運命は、本当に惨い事をしてくれる。偶然の一致がここまで恐ろしい事だとは夢にも思わなかった気がする。 
「私、御曹司さん見た時に、上半身裸でびっくりしたけどおもしろそうだから見に行ったの。すると御曹司さんが叫んでたんだ。薄崎マンションの兄弟が、キスが―――どうのこうのって」
 ……やっぱりアイツだったか。口は堅い方とか自負していたハズなのに……叫んでたって。
「でも、警察官の人達は相手にしてくれなくてそのまま連行されていったの」
「確かに、下着一枚の男の発言なんて相手にはしないな……」
「だけど、私は気になったの。その兄弟のこと。それで私は捜しに行ったの、薄崎マンションに」
「……もしかして、一つ一つの部屋のネームを見に行ったのか……?」
「そんな面倒な事はしなかったの。まず管理人さんに瀬戸さんの部屋番号を教えて貰ってね、そこからは推理したの」
「ちょっと待て、どうやって部屋番号教えて貰ったんだ……? うちの管理人そんな事は誰にも―――」
「まあ、色々したのよ。……それより! 女の子の秘密に迫ろうなんてダメだよー!」
 彼女はまたピエロになる。しかし、その笑顔は悔しいが飛び付きたくなるほど愛くるしい。
 例えるとするなら―――小型犬だろうか。
「話し戻すけどごめんね、それで私は推理したの。御曹司さんがなぜほぼ裸で、外に出ていたのか。それは緊急事態が起きていたから。上から変な物音がしたとか、隣から声が聞こえたとか、兄弟で何かをしていたとかね……」
 俺は鋭い勘に生唾を飲む。彼女はこういう所に関しては抜かりがないらしい。
「でも、両隣は若い女の人と老夫婦しかいなかったの。だから上に行ってみたの。そしたら……」
 そういう事だったのか。
「そしたら……俺らの部屋だったって訳か……」
 俺の想像を遙かに凌駕した事態に俺はどう反応するでもなく、ただそれが実際に行われていたと思うほかに、表面上も心中上もアクションは起きなかった。
 何か、俺は慣れてはいけない展開に慣れてしまった気がする。
 疲労が蓄積し、溜息一つ零した。それが引き金を言わんばかりに彼女はまた謝罪する。
「……先に謝るね。ごめんなさい!」
「ど、どうしたんだよ……? いきなり……」
 彼女は間を開けると、謝罪の訳を話す。しかし、こういう時に限って嫌な事が続いたりすると心は蟠る。 
「私、玄関開けて中見ちゃったの……」
 一瞬で俺は驚愕した。
「え、ええええええええええええええええええええええええッ!」
 俺らが住むアパートの構造は、玄関を開けると長い廊下があり、その途中にトイレや部屋があるのだ。そして、その廊下向こうには茶の間があるのだ。そして何が不味いのかと言うと―――
「それで見ちゃったの。女装して眠っている弟君をじっと見ている森崎君を……」
 言うならば、玄関から茶の間は一直線なのだ。それに、あの時は瀬戸の馬鹿が茶の間と廊下を隔てるドアを開けっ放しで出て行ったため、玄関を開けると茶の間が丸見えだったと言う事だ。
 最悪だ。
「…………」
「最初は、森崎君の彼女かなって思ったんだけど……玄関口に女物の靴は無かったし、それに森崎君ずっと、『ツカサ大丈夫か……』って反芻してたし……」
「俺、そんな事言ってたのか……?」
 無意識のうちに口走っていたのだろう。
「私、森崎君の弟君の名前、ツカサだって知ってたから、森崎君がそう呟いた時点で、この子は弟君だって確信したの」
 仕方がない、やはり彼女は知っていたのだ。だから今朝も自信ありげに話しを進行していたのだ。
 ああ、瀬戸だけではなく委員長さんにまで……
 俺は、項垂れながらも彼女に頭を下げる。
「頼む……この事は誰にも言わないで貰いたいんだ……」
 彼女は、良いよと微笑む。
 天使。
 彼女のその笑みは作り物ではないと俺は感じた。長い間一緒に居たわけでも無いが、その笑みは教室では見たことのない笑みだったのだ。柔らかで、今の時期、春に似合うような桜の花弁のような薄紅の笑み。
「ありがとう……」
 俺は心の底から感謝した。すると委員長が顔を近づける。
「でも、一つ条件があるんだけど……良いかな?」
 条件の一つぐらい、弟の女装と比べたら綿菓子並に軽い物だ。
「ああ、勿論だ。なんでも言ってくれ」
「これが、私のもう一つの本題なんだけど……今回、夏コミにサークル参加するって話しは訊いたでしょ?」
 嫌な予感がまた胸に浮ぶ。
 まさか、あの漫画……
「……なんでもって言ったけど……でも、やっぱりあの漫画だけは……」
 あの漫画は正直二度と見たくない。
 すると願いが通じたのか意外にも彼女は承諾してくれた。
「大丈夫、あの漫画は出さないことにしたから。これで今朝の事は水に流してとは言わないけどね」
 なるほど、互いに対価を差し出すと言う事で何も無かったことにすると言う事か。
「わかった、俺も忘れるよ」
「うん、ありがとう。それでねサークル参加するんだけど、サークルの子がねみんな女の子なの」
 まあ、こういうBL漫画を書くようなサークルには女の子しかいないわな……
「でも、色々持って行く物があって、それに重いからやっぱり、男手が欲しいってみんな言うの……」
 確かに、こんな薄い漫画だけど、何冊も刷れば重いのは自明の理。
「それで、俺に協力して欲しいって訳か……」
 そんなことで良いならいつでも引き受けようじゃないか。
「まあ、あれだ。弟のこともあるし、良いよ、手伝うよ」
「本当に!! やった! ありがとう、森崎君。本当にありがとう!」
 彼女は、玩具を買って貰った子供のように跳ねて喜ぶ。無邪気だ。しかし何だかその姿が眩しく感じたのは俺の心が濁ってしまったからだろうか。
 思案しているうちに彼女は山積みの教科書やプリントを、あまり綺麗とは言えない入れ方で、と言うか無理に押し込んだ。
「それじゃ、私帰るね。今朝は本当にごめんなさい。今度来るときは果物でも持ってくるから」
「あ、ああまたな」
 彼女は細く、雪を欺くような肌をした手を振り病室を後にした。


*


 何だか嵐が過ぎ去った後のような、妙な清涼感に俺は囚われていた。
 室内には俺の影法師だけがゆらゆらと揺れている。静寂だ。俺は理科室のような静寂を感じる。心が浄化されたような錯覚に陥りそうだ。
「……委員長、かわいいよな……」
 その時だった。
 病室のドアがスライドしたかと思うと、目を煌めかせた委員長が戻ってきた。何だか興奮しているようで息遣いも中々に荒い。
 ……俺は先程の発言を訊かれたか、と冷や汗が額に滲んでいた。
 彼女はベットの柵を掴むと、そのままキスしてしまいそうな距離にまで俺の顔に近付く。
「良いこと思いついちゃったよー!」
「何だ……良い事って……」
 俺は平静を装いながら対応をする。が、やはり美形な彼女の顔がここまで至近にあると口角が上がりそうになってしまう。紅潮は隠しきれてはいないと思うが、夕の朱で染められている部屋の中では誤魔化せているだろう。
「えっとね、さっき言ってたけど、同人誌即売会の参加にも色々方法があってね……」
 ああ、どうしようか……まともに会話が出来ない。俺から離れるべきだろうか……しかし、よしんばそうしたなら、彼女は変な誤解を招いてしまうかもしれない。
 ここは、どうにか心を鎮静させるんだ。
 深呼吸を一回、
「その、同人誌即売会? はサークル参加とか個人とかだけじゃ無いのか?」
「うん、スタッフで参加する人も居れば、企業で参加する人達も居るの」
 そういう人達もいるのか。なら、その夏コミだったっけ……そのイベントは結構な人が集まるんじゃないのか?
「そうなのか。色々と奥が深いんだな、その即売会って奴も」
 まあ、そんな何万人と来るわけ無いか。杞憂だ、杞憂。
「それでね……その中には、コスチューム・プレイ参加者って人達もいるんだけど……」
 コスチューム・プレイ?
 コスプレの事か……?
「それで、コスチュームがどうしたって?」
 委員長が何かコスプレするのだろうか。そう思っていた俺に次の台詞は酷く鈍い痛みを感じた。



「森崎君の弟君に……ツカサ君に……メイドさんのコスプレして参加して貰うかなー!!」


     

 まもなくして彼女は、本当に帰路についた。俺の心に嫌な置き土産を残して。


 陽が落ちてから数分、夜風が強くなったのか開いていた窓から花が降りだした。と言っても室内に降ってきたのは、茎や青々とした葉がついた花ではなく、花弁だ。
 ここは二階の為、外囲に根を伸ばす櫻の花弁が風に乗り窓辺に降り注ぐのだ、ひらひらと鮮やかに。なんとも美しく清らかで絵になる光景だが、この一瞬が過ぎゆく度に櫻の薄紅が失せていくのは些か名残惜しい。
 そして、貌のない月に照らされた、櫻の色は心をシン―――と落ち着かせてくれる。
 しかしながら、それでも蟠りが溶けることは無く俺は弟が持って来てくれた、バッグを掻き回し携帯電話を探す。
 ほどなくして携帯電話は見つかった。
「……あった、けどな……」
 その金属の塊を握り項垂れる。どうすれば良いんだ。どう話しかければ良いんだ。
 葛藤の最中、夕闇の情景が再生される。
 委員長の提案に俺は直ぐさま反対した。まず、男手が欲しいから弟も呼ぶ、というならまだ理解出来る。が、メイド服を着させて参加させるなんて、甚だおかしい。
 そう思いの丈を彼女にぶつけたが、もともと彼女と俺とでは脳の構造が端から違う為、上手く丸め込まれてしまう。頭が良いとこうも言いたいことが思うように出てくるのかと関心すらしていた。
 そうか、こういう時になって初めて人は己の愚鈍さを思い知るのか。
 落胆した。
 彼女の頭の良さにではなく、自己の無力さに。質の違いを肌で感じた俺は、もう既に彼女と張り合う力も気力も無くなりただ、言われるがままになっていた。後々思えばこれが今のネガティブの根源だ。
 もし、もう少し早く俺と彼女を隔てる鐘の音が鳴っていたなら。もし、彼女が口べただったら。もし、俺に反論するだけの気力が残っていたなら、弟に、メイド服を着てくれなんて頼まなくて済んだのに……
「……頼む、軽蔑だけはしないでくれ」
 残る願いはそれのみだ。過ぎる思いは多々あったが、軽蔑されて日々無視される程苦しい事は無い。
 ボタンを押す手が微弱に震える。
 嫌な汗が止らない。
 委員長は、どうして自分で弟にアプローチしないのだろうか……
 確かに、ツカサと委員長に接点は無い。在るとしても俺を媒介とした繋がりだ。そんな彼女にいきなりメイド服を着て、際どい画や物語の漫画雑誌を売るイベントに着て欲しいなんて、俺には出来ない。
 彼女もそう思慮して俺に頼んだのだろう。
 しかし、実の弟にメイド服を着用して欲しいと頼む俺の気持ちも思案して欲しかった。
 ……ああ、森崎輝之今日で死ぬかもしれない。
 惨劇を回避する手立ても無く、俺は『通話』の文字を睨む。
 そうだ、弟が電話に出なければ万事丸く収まるのではないか? 委員長さんにも弟が電話にでなくてさーと、誤魔化せる。
 ……ダメだ。
 そんな事が通じる相手では無いのは百も承知。
 歯のかみ合わせが合わない……
 俺は恐怖している。
「……もう、何でも良いッ!」
 勢いで押してしまった。
 ……ああ、これで本当に幕切れだ。
『もしもし、森崎ツカサですけど。どちら様ですか?』
 ワンコールで繋がった為、俺はドキリとした。
 心を整える隙間すら、運命は与えてはくれないのかと俺は怪訝な表情を浮かべる。
「お、俺だ。兄さんだ」
 弟の声、この声がもう訊けなくなるなんて……
「あー兄さんどうしたの? 僕、何かバッグに入れ忘れたかな?」
 その優しさが今では、痛い。
「いや……そうじゃなくてな……た、頼みがあってだな……」
 思わず言い淀む。
 泣きそうだ……
『頼み? 何かな、出来ることならなんでもするけど?」
「そ、そうか……」
『うん』
「じゃ、じゃあ言うけど……お前にメイド服を着て欲しいんだ!」


 ああ、儚き俺の十七年の歳月―――。

     

 彼に告げた瞬間、俺は身震いしていた。それは、電話口の彼の表情を想像してしまった為だけではなく、伝えてすぐに溜息の様な抜けた吐息が訊こえたからだ。携帯電話を握る指がカタカタと、揺らぎ汗ばむ。
「――――――」
 ……きっと意味がわからないだろうな。そう思いつつも俺は黙り込んだ。
 彼の素直な返答を訊きたい為だ。
 こちらの必死な状況を悟られてしまえば、優しく空気の読める彼の事だ、迷わず着てくれるだろう。それはこちらにしても欣喜雀躍だ。しかし俺はツカサにこれ以上嫌な想いはさせたくない……
 それに殴ってから一週間程しか経過していない。これ以上、兄弟の間に亀裂をつくることは―――何もかも終わりになる。
 責任取ってくれよ……委員長。
『……どうして、かな?』
 耳元で弟の声が訊こえる。
「ああ、えっとな……面識あるかどうか解らないんだけど……三年の委員長にさ、瞭野蒼(りょうのあお)って眼鏡の委員長さんがいてさ―――」
 綺麗事。
 そう例えるなら、何千冊の本がぶちまけられた部屋の事を『明晰な知識と純粋な考察が得られる泉』と表現する程の綺麗事だ。結句、なぜ主に、個人宅に住み込みで働く女性使用人の衣服を着て欲しいのかと言う最重要通過点を不明瞭にさせてしまった可能性が高い訳だ。
『す、すごいね……色々複雑で……』
 やはり、いや勿論のこと彼は理解出来ていなかった。それは容易に推測出来る。なぜならこの俺自身、何を伝言していたのか全く解らなくなっていたからだ。
「……まあ、そういう事だ」
 どういう事だ。
 あーこれじゃ何かの拍子にボク、メイド服着る! とか言い出しそうだ、と俺は鼻息を荒立てようとしたが、弟に訊かれると少々まずいことに成るためと言うか単なる変態に陥りそうなので一度深呼吸をし、鎮静化させる。
 冷たい雨の様に清らかに。
『それで、とにかくボクにメイド服を着てほしいんでしょ?』
 彼の一言で篠を突いた。
「……!?」
 倍速だ。
 鼓動が倍速、否、それ以上かも知れない。そして異常かも知れない、否。
 異常だ。
「えっ……お……えぇ―――?」
 病室だと言うことを忘れ、俺は長く叫んだ。噎せ返るほどに俺は叫んだ。
『に、兄さんそこ病室じゃないの? そうじゃなくても病院の中では静かにしないと……』 
 ああ、そうだ。しかし、俺は平静を繕うことが出来ない。
「……ど、どうして着るんだ!?」
『どうしてって……兄さん、さっきの話しだとボク、メイド服着ないと兄さん殺されるんでしょ……?』
「まあ、確かにそうだが……む、無理しなくて着なくても良いんだ。いざと成れば俺が着るし……」
 焦りを隠せず常軌を逸脱した台詞を滑らせてしまった。
『兄さんがメイド服……? あはは――――――似合わないよ、兄さんには。もうー変な事言わないでよっ! 笑っちゃったよ』
「そ、そりゃ良かったな!」
 俺は何を言っているんだッ! 
『兄さん、整理すると兄さんはボクがメイド服を着ることが重荷に成るんじゃ無いかと心配してる。でも内心はして欲しい、瞭野さんのことがあるから。正直な所はこんな感じでしょ?』
「そうだ……全部、お見通しか」
『伊達に兄さんの弟、十五年やってないからねー』
 確かに母や父よりも彼と居た時間の方が長い、それだけ俺のことを解っているのか……なら、嘘をついたり何とか誤魔化して有耶無耶にさせようとしてることなんて手に取るようにわかるって事か。
「本当……お前は怖いよ」 
『うん? 何か言った? 兄さん』
 いや、なんでも無いと俺は零す。
『夏コミはどういう所かボクもわからないけど……良いよ。ボク、メイド服着て参加するよ』
「……良いのか? 本当に、写真とか取られるみたいだけど……」
『大丈夫! それにメイド服って……一度着てみたかったの!! だからお兄ちゃんは何にも心配しなくて良いんだよ?』
 ……兄さんから、お兄ちゃんに変わっている時点で俺はかなり心配だ。
 溜息。
『兄さん? どうしたの?』
「まあ、安心したんだよ。あの性悪眼鏡漫画家に酷い目に遭わされないで済むと思ったらな」
『性悪眼鏡漫画家……? あーもしかして委員長さんのことでしょ? 言っちゃおうかなー兄さんがそんなこと言ってたってー』
 ゲホゲホ。
 あれ目眩と悪寒と咳と熱っぽさが一気に……意識が遠のいていく……
『嘘だよ~。 でも、どんな女の子にも悪口は言ってはいけないんだよ?』
「ああ、十分すぎるくらいにわかってるよ」
 その後、何回か談笑し携帯電話を閉じた。
 辺りを見渡すとすっかり暗くなり、海底に沈んだような心持ちになった。寂寥とする病室で俺は蛍光灯をつける。一瞬点滅し、光が灯る。
「……委員長明日も来るとか言ってた様な気がするな」
 俺はベッドに倒れ込み、夕食が運ばれてくるのを待ち侘びる。これなら委員長に何かお菓子でも恵んで貰うんだった。
 しかし、愚痴を垂れながらも俺の心の蟠りは、まだ薫ることのない夏に攫われていった。
 空が青く見える。
 今から思慮すれば、委員長も俺と何の変わりもない、高校生だったのかも知れない。俺が夜明けを見に行くのと同じく、溢れ出さんばかりの日々の衝動を何処かで発散する。それが彼女にとっては漫画だった。
 違いと言えばそれだけだ。
 何気なく彼女の微笑みが宙に浮ぶ。
「……いつも笑ってくれよ。そしたら俺もつき合うからさ」
 俺は何を言っているのだろう。
 後で看護婦さんに、馬鹿を直す薬でも貰うかな。
 そう俺は瞳を閉じた。
 ―――夏コミまでの月日はまだある。色々と思案するのは、本格的な夏に入ってからでも遅くはないだろう。
 そう笑って。
 




 そして、初夏へと―――




 

       

表紙

夏目銀一 先生に励ましのお便りを送ろう!!

〒みんなの感想を読む

Tweet

Neetsha