Neetel Inside ニートノベル
表紙

弟が男の娘だなんて兄さんは認めないっ!
第3話 「委員長さんの月」

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 ザザ―――と雨音が耳朶に染込む。
 午前にはその澄明な青と太陽の赫奕(かくえき)を見せていた空も、時間が経過するにつれ、濃淡のない灰色へと変わっていき、給食を取る頃には篠を突き始めていた。
 俺は普段通りにして、久し振りに炒と齋藤と共に食事を取っていた。しかしながら、こんなにまったりとした昼食を得たのは退院してから初めてかも知れないと、俺は厚切りトマトが中身のサンドウィッチを頬張りながらしんみり想う。
 日常を恋しく感じる程に、退院してからの日々は予想以上の疲労に溢れていた。始に思い出すのは、同級生や教師からの事件の質問、犯人はどんな風貌だった? 声は訊いたかなどと、答えを何度、反芻したか数え切れないぐらいだ。
 その度に罪悪感に駆られた。委員長を守る為とは言え、何十人もの人間を騙す事には胸が痛む。だが、人の噂も七十五日とは良く言ったもので、俺の場合は土日挟んだことでほとぼりが冷めたらしく、今日はそんな嫌な回答をする事もなくただ普通に昼食に有り付けている。
 もう嘘を吐かないで済むと俺は安堵し、オレンジジュースをストローで飲み込む。心なしか飲み慣れたオレンジの酸味がとても甘く感じる。
「酷い雨だねー」
 抑揚の無い声で前に座る炒がそんな事を言う。どことなく合成音の様に訊こえるのは情が籠もっていないからであろう。 
「ああ、そうだな」
 相槌を打ち俺は窓の外を覗く。大粒の雨がグラウンドを削る様に零れ落ちる。その為、硬地も泥濘化してしまっている。綺麗に咲いた薄紅もこれでは不憫極まりないだろうに。そう憐れむも櫻に対して、してやれる事もなくただ視線を送るだけだ。
「そのサンドウィッチ美味しいの? 何か不味そうに喰ってるけどさ」  
 唐突に齋藤が話しかけて来た為、俺は喉を詰まらせ少しばかり咽た。
「うーん、微妙かな……」
 実を言うとトマト自体あまり好きではない為、旨いか旨くないかと問われると旨くはない。
 金欠で仕方が無く一番安いこのサンドウィッチを買ったのだ。
「そうか、微妙か……なら俺は買わないことにしよう」
「そうした方が良いと思うぞ」 
 そんな雑談を交わして居ると、炒がふふっと鋭い犬歯を剥きだしに嫌な笑みを浮かべた。
 一瞬、嫌な予感が過ぎる。 
「ふふふ、実は僕気が付いたことがあるんだけど、訊きたい?」 
 彼の細い目が少しだけ見開く。
 それにしても一体、何に気が付いたと言うのだろう。
「何だよ、何に気が付いたんだよタクジロー」
 炒の事をタクジローと呼ぶのは幼稚園から仲の良かった齋藤、彼のみだ。
「俺も訊きたいな。炒何に気が付いたって言うんだよ」
 と平静を装ってはいるが、もし俺を襲った犯人が解ったなんて言った曉には俺はすぐさま彼の口をこの微妙なトマトサンドウィッチで塞ぐとしよう。
「訊きたいかい? ではもったいぶって……」
 ああ、じれったい。
「もったいぶらないで早く教えろよー! タクジロー」
 ツンツン頭の彼がクロワッサン片手に急かす。 
「……ああ、そ、そうだな早く言え……よー」 
 どうしてこんなにも俺は動揺が隠せない性分なのだろう。彼らに訊こえるのでは無いかと、怯えるほどに鼓動が高鳴る。
「では言うぞ……」
 思わず息を呑む。
「実は委員長は―――フがッ!!」
 委員長と言う単語が訊こえた時点で反射的に俺はとっさに、用意していた彼の口に食べかけのトマトサンドを思いっきり捩じ込んだ。
 ぐにゅぐにゅとパンは歪に形を変えながらカレーパンの咀嚼物がまだ残る口内へとダイブしていく。しかし、耳の無いパンを彼の口に押し込む事にそんなに膂力が必要無いと言う事に気が付いておらず、と言うよりかは隠蔽しなければと言うある種の強迫観念のあまり、恐ろしい程の素速さで口内に侵入してしまった。
 何というか気が付いたときには薄い粘着性のある液体の感触が纏わり付いていた。
 そうか指ごと逝ったのか。
「……………」
 ――――――ああ。
 一瞬の静寂を挟み彼が喘ぐ。
「フがッガッがッ、フガフガガがフフガガがフッアッ―――」 
「お、おい森崎ストップ、ストップ!」 
 ガランと齋藤が俺の手を掴むために、立ち上がった勢いで椅子が倒れた。それが、クラスメイトの注意を惹くことになり―――。
 またも俺は同級生や教師達から質問攻めに遇うことと成った。



 *



 先程まで降っていた雨もそのなりを潜め、今では雲の裂け目から西日が漏れ出していた。
「本当に唇が裂けるかって思ったッ!」
 彼の声が耳を劈く。
「いやいや、本当に悪かったって」
 斜陽が差し込むタイル張りの廊下を三年という特権で左から齋藤、俺、炒の順で横並びで歩く。幸いな事に彼の唇や口内が俺の爪で傷がつくこともなく笑い話になっていた。が、後々考えると俺は常軌を逸していた行動を取っていた為、思い出す度に顔を紅潮させる事になった。
 ああ、トマトサンドはトラウマになりそうだ。
 そうトマトサンドとの決別を計っていた時に、齋藤が快闊な声で話しを振る。  
「まあ、タクジローの唇が裂けてたら大変だったけどね。本当に真っ赤なトマトサンドになる所だったよ」 
「なんか嫌だなそのトマトサンド……」
 炒も、トマトサンドはもう食べたくはないだろう。 
「俺はもうトマトサンド自体視たくもなくなったな……」
 俺はどんよりしながら、窓の外から廊下へと視界を変える。
「あれ、誰か手振ってないか?」
「そうだね、誰だろう」 
 炒と齋藤がそう口にするので、俺は目を細めた。薄らとだが、廊下の先の方に人影が見えた。痩身で背の高い―――女の子だ。細い腕を元気よく左右に振っている。
「誰だろう……?」
 周りに合わせてみたものの俺の額には大粒の汗が滴っていた。それも冷や汗所ではない、液体窒素レベルの冷たさだ。もう俺の瞳には彼女にしか見えなかったのだ。いいや恋に落ちた初心(うぶ)な少年と言う訳ではなく。
 思わず俺は歩幅を狭める。少しでも彼女と遭遇する時間を先送りにしたいのだ。
 しかし、相対するかの様に彼女の方が小走りで駆け寄ってくる。普段は廊下は走るの禁止! と口うるさく注意しているのに。
「どうしてこんな時だけ……」
 俺は二人に訊こえない様、囁いた。
 ああ、不幸だ。
 さながら、某とある小説の少年の如く不幸だ。
「三人揃って仲が良いのねー!」
 爽やかな声と共に現れた彼女を視て俺はなんだかうんざりした。
 本当に神様がいるのなら、相当ひねくれ物だろうと俺は天井を一瞥し、彼女と目が合わないようにそっぽを向く。
「仲が良いのは偽りですよぉ~」
 馬鹿みたいに炒が笑う。どうしてだろう、羨ましく見える。
「まあ、偽りにしろ何にしろ一緒に居る事には、変わりはないんですけどね。腐れ縁って奴かな」
「ふーん、腐れ縁ねー、それじゃ私と森崎君も腐れ縁だねー」 
 話しを振るなッ!!
 それも腐っているのは委員長さんの方だからッ! 
「はは、そ、そうですね……」
 頭をボリボリと掻き乱しながら、俺は出来の悪い作り笑いを浮かべる。否、正直に言うならば、顔を引き攣らせているだ。
「それでね、三人仲良いの所を邪魔しちゃう形なんだけど、ちょっと借りて良いかな森崎君」
 俺は耳を疑った。
 何かの訊き間違いだと信じた。そんな、急にやってきて借りられるなんて、そんな嘘みたいな事があるはずない。それにあの事件の所為で俺がどんだけ苦労したと思っているんだ彼女は。
「え、えっと俺、今日歯医者だから……」
 間髪入れずに、
「勿論ですよ、委員長さん」
「ええ、こんな奴持っててください」
 お前らッ!! 幾ら委員長が可愛いからって鼻の下伸ばしてンじゃねぇ!!
 俺は彼らを思いっきり睨み付けるが、二人とも口笛を吹くと言うこれまた古典的な方法で知らないと黙りを決め込む。
「ちょっと待ってくれ、俺の言い訳ぐらい訊いてくれよッ!」 
「どうせ言い訳なんだから良いでしょ? さぁ、行きましょうか森崎君!」  
 彼女は悪魔の様な笑みを作ると俺の左腕に自らの右腕を絡める、まるで恋人だ。それに、彼女の身体が密着するため、ひじに柔らかい感触が……これはアレなのだろうか。
 しかし、と言うかやはり、俺でも驚いたこの行為に、二人が何のリアクションも取らない訳が無く、見事なまでの驚愕の表情を浮かべていた。齋藤に至っては開いた口から涎までたらして、本当に阿呆の様だ。 
「じゃあバイバイ」
 彼女は残された俺の友人二人に手を振り、階段の方へ向かう。
 俺はどうにかして抜け出す事も出来たが、この肘に当たる柔らかな感触が愛おしく離れられなかった。男なら誰しもそうだろう。(ツカサは覗く)
 もし、これが彼女の策だとこの時にでも知っていれば、俺は―――いや、知っていてもやはりついて行くだろう。

     

 彼女の手に引かれ、俺は階段を下りる。彼女はどうやら一階に用があるらしく、二階を素通りし次の踊り場へ移る。本当に彼女は俺を何処に連れて行くつもりなのだろうか。
 俺は少しでも胸に募る不安を払拭しようと彼女に訪ねる。
「なあ、何処に用があるのかそろそろ教えてくれても良いんじゃ無いか?」
「まあ、行けばわかるから」
「行けばわかるのは当たり前だけど……後、もう一つ訊きたいんだが―――」
「ダメ」
 俺の言葉を遮る様に彼女は口元で人差し指を立てる。これ以上は訊くなと言う意味合いを込めていることは俺でも理解出来たので仕方が無く唇を結んだ。ああ、本当に不安だ。
 それから一階につき、すれ違う下級生に挨拶を交わし廊下を数十メートル歩くと、彼女が指を指した。
「ほ~ら、見えた」
 それは廊下の隅に位置している衛生室。所謂、保健室だった。
「保健室……?」
 彼女はそうだよと快闊に頷き、俺を一瞥しまた前方を向き、擦れ違った教師にも挨拶をする。彼女の挨拶は歯切れが良く爽やかな印象を俺は受けた。
 もう周りに生徒や教師が見えなくなると、また俺との会話に委員長は戻った。
「今日森崎君を呼んだのはちょっとやって欲しいことがあってね……」 
「やって欲しいこと……?」
「うん、やって欲しいことがあるの。えっと……その……ね……」
 柄にも無く彼女は戸惑う。それに何だか視線も宙を泳いでいた。何だか久し振りに彼女の素が視られた気がして俺は少しだけほっとして後でで良いよと呟いた。彼女もそうだねと笑って誤魔化したが何処か口元が引き攣っていた。
「まあでも、二人っきりじゃなくて残念だなー」
 それを隠すように彼女は戯ける。
「他に誰かいるのか?」
「着いてからのお楽しみーだよ~」
 彼女はそれ以上語らず、顔を前へと戻した。
 数歩歩き、保健室の前につくと彼女は徐にノブを握り捻った。ギギと軋みながらドアは開き、室内から剥きだしの蛍光灯の人工的な光が漏れ、和気藹々とした男女の雑談が訊こえてきた。どうやら談笑しているのは三人らしく、段ボールから何かを取り出し組み立て作業をしている。
 身体の線が細い女の子が二人に彼女らと同様に細い男が一人、地べたに座っている。その男がドアの開閉音に気が付いたのかくるりと不自然に後ろを向いた。
「……!?」
「あ、やっと来た!」
 一人の男は弟だった。 
 弟は俺に気が付くと、積み上がった板状のプラスチックを両手で抱えて近付いてくる。彼の長いアホ毛が、左右にゆらゆらと揺れ動く。
「遅いよ兄さん、みんな待ってたんだよ?」
 彼は頬を膨らませ身体を捩る。
「遅いって言われても……委員長に無理矢理―――」
「はいはーい! 一端作業中止! こっちに集まってー」
 俺の言葉をまた遮り、彼女は手を叩き古くさいストーブが座り込む部屋の中心に行く。
「瞭野先輩……どうしたんですか……?」
 左側のみ髪を結んだ背の低い女の子が立ち上がり、もじもじと委員長の元に駆け寄った。見覚えがないので多分、下級生だ。それにあの背の小ささからして一年生だろう。委員長の胸の辺りに彼女の頭部が在るような雰囲気だ。
 彼女は委員長に何やら話があるらしく、囁くような声で会話をしていた。勿論、何を話しているのかはわからない。
「てか、アンタ誰?」 
 急に横から声が聞こえたので俺は焦った。首だけを動かし声の行方を辿ると委員長よりも少し長いオレンジに近い髪を持った少女が佇んでいた。それも眉をひそめ、鋭い犬歯を剥き出しに俺を睨んでいる。しかし先程の彼女とほぼ変わらない背で俺が見下す形なので威圧感は皆無だ。
「森崎……」
「森崎先輩? ふーんわかったわ」
 彼女は制服の内ポケットから方眼のついていないタイプのメモ帳とシャープペンシルを取り出し、雑な字で森崎と書き散らす。それを徐に元に合った場所に戻すとまたもや睨まれた。
「それで、どうして先輩は瞭野先輩とナユを食い入るように見てたんですか?」
 どうやらあの背の小さい子はナユと呼ばれているらしい。
「食い入るようにって……」
 何だか男前な娘の為、俺は思わず尻込みをする。随分と尖った口調だ。
「視てたでしょ。瞭野先輩の胸とナユの可愛らしいお尻を」
 彼女はそう言うと二人を指さす。
 っなッ!
「全然、視てない!」
「いいや、視ていました。涎も垂らしてました!」
 馬鹿なッ! 俺はそんなアブノーマルな奴じゃない。
 彼女の睨みは更にキツくなる。
「涎なんか垂らしてないし、ガッツリ視てないって」
「ガッツリじゃ無いって事は少しは視てたんですよね! うわーやっぱり、もう変態ですね先輩は」
 この娘、顔はそこそこ可愛いが性格は委員長以上に悪い。最悪だ。
「だから視てないって―――」
「はいはい、喧嘩しないしないー!」
 委員長がナユとの話しを切り上げ、俺と彼女の間に割り込み仲裁に入った。こういう所は中々委員長らしいと言えばらしい。
「瞭野先輩! でもこの人、先輩となーの方視てニヤニヤしてた変態ですよ? 怒らずに居られます?」
「してないから! 全然そんなことしてないから!」
 断じてニヤニヤなどしていないッ!
「あらあら……まあお年頃なのね森崎君でもね、なっちゃん男の子はみんな狼さんだからねー仕方がないんだよー」
 委員長は俺を上目遣いで視、そんなことを言う。
 どっちかと言うと狼は委員長の方だ! と俺は叫びたかったがこれ以上の悪化を防ぐために唇を噛み耐えた。
「先輩優しすぎですって! そうやって甘やかすからこんな変態が増えるんですよ!」
 彼女は俺の顔を指さし、またもガンを飛ばしてくる。ああ、腹が立つ。
「そうかな? 私は変態の人の方がおもしろくて好きだけどなー」
 それは少し嬉しいと言うか何というか……まあ普通に照れる。
「ええっ! 先輩……こんな変態の何処が良いんですか? もう見るからに変態丸出しの変態ですよ!? 変態という名の紳士とかってレベルじゃないですよ」
 俺は丸出しなのか……つま先から脳天に至るまで変態だと自負しているのかッ! 俺の身体は!
「そう? でも、森崎君は変態変態してない変態だと私は思うの……上手な言葉は出ないけど……変態でも良い変態―――シンプルな変態」
「先輩っ! 変態に良いも悪いもありません、もし仮に良い変態がいたとしても変態に変わりはありません! だからこの人は良い変態かも知れないですけど、変態という事実は拭えません! よって私はこの人を軽蔑します」
 出会って数分もしないうちに軽蔑するなーッ!
「なっちゃん、軽蔑しないでわかってあげて。彼も好き好んで変態という事をやっているんじゃないの。彼には目立つ部分が無くてクラスでも地味過ぎて居るのか居ないのかわからないぐらいなの。だから変態という汚名を背負ってまで自我を保とうとしているの。だから彼の変態は努力の変態、普通の変態じゃないの!」
 あれ……どうしてだろう泪が、泪が出てくるよツカサ……
 しかし、弟は溜息を吐きながら板状の薄っぺらいプラスチックが入っていた段ボールを潰し室内に置かれている思春期の悩みや身体、心の変化などを取り扱った本棚の上にしまっていた。
「なっちゃん! わかってあげて!」
「……そ、そんな事情があったなんて、夏月(なつ)全然知りませんでした。で、でも! 目立つ部分が無いからって変態にならなくても良いじゃないですか!」
「仕方がなかったのよ。彼は変態でしか生きる理由を見つけられなかったの……だから、この変態は憐れむべき変態なの。ただの変態なんかじゃ無いの。なっちゃんが知ってる変態とは全く違う善良で威厳のある変態。だから軽蔑しないで向き合ってあげて、それとただの変態だと思ってたこともちゃんと謝るのよ?」
「わかりました……わかりました先輩……でも、念を押すようですけど、この変態は本当にただの変態じゃないんですよね?」
「そう、私が保証するわ。彼はただの変態なんかじゃない。変態の王、変態王よッ!!」
 いつの間に王にまで君臨していたんだ俺はッ!
 委員長の才能の不法投棄と表現してしまいたい程に、ここでではなくクラス会や発表会に使うべきハズの良質な熱を織り交ぜたその台詞に、俺は流石、自称口先の魔女と褒め称えるほか無かった。なぜなら先程まで冷徹な眼差しを俺に痛く浴びせていた彼女がこんなにも、申し訳無さそうな表情を浮かべこちらに向かっているからだ。
 正直、見逸れしていた。
 やはり、委員長は凄い人物だ。
 ―――と錯覚していた。
「ごめんなさい変態さん。私勘違いしてました。貴方はただ変態じゃなくて、変態の中の変態、変態の鑑でしたわ……本当にごめんなさい変態さんッ!」
 彼女が深々と頭を下げると委員長が彼女の暖色の髪を優しく母のように撫でた。
「森崎君、なっちゃんもこんなに謝っているんだから……許してあげましょうよ」
「……あのな……お前が全てを悪い方向に転がしたんだろうがああああああああッ!!」
 突然の咆哮に驚愕したようで、なーと呼ばれていた小柄な少女がひっと僅かに悲鳴を上げた。それとほぼ同時に委員長が舌をペロリと出し「ごめんごめん」と両の掌を合わせた。
 はぁ、そんなことされたらもう怒るに怒れないじゃないか……畜生。
「まあ、賽は投げられちゃったことだし、森崎君はこれから紳士に振る舞って二人の信用回復すれば良いじゃない! それに最初の印象は最悪に次ぐ最悪だから、株が上がるのは早いって」
「最悪にしたのは、誰だよ……」
 彼女は意地の悪い笑みを浮かべ、なっちゃんと呼ばれていた少女の頭に手をポンと置いた。それを合図と言わんばかりに、少女が俺をちらちらと横目で視ながら口元に手を翳し委員長と話し始める。
 こう見ると、この娘もかなり小柄だ。背が低く、肩幅も狭い。隣に委員長のすらっと背の高い身体があるから際だってそう見える。それに委員長には豊満な胸があるからそれも相俟っているのかも知れない。
「あ、あの……」
 線の細い声が訊こえ、横へ向く。俺を呼んだのはなーと呼ばれていた少女だった。
「どうかしました?」 
 彼女があまりにも潤んだ穢れの無い瞳だった為、思わず敬語になってしまう。彼女はもじもじしながら辿々しく語り始める。
「あ、あの……は、初めまして日向夏夕(ひゅうがなゆ)です。きょ、今日はお手伝いに来てくれて……あ、ありがとうです……」
「ああ、どうも森崎です」
 彼女は泪を流しそうな程、瞳に水分を溜めながら、そう頭を垂れた。彼女のふわっとした髪の毛が遅れて地に引かれる。
 その時、俺はやっと合点が行った。多分だが委員長はこれを手伝わせるために俺を呼んだのだろう。彼女が頭を下げたおかげで奥に置かれている段ボールの箱の文字が見えた。
 プラスチック製ディスク用組み立てキッド。
 俺は委員長の方へ向き直る。
「委員長、この組み立てキッドを手伝わせるために俺を呼んだんだろ?」
 俺は段ボール箱を指さし彼女を視る。
「大正解ー。組み立てだけじゃなくて、パッケージ用のシールを貼ったりディスクを入れたりとか色々あるけどね、でも―――」
「パッケージ? 何だパッケージって? それにディスクって……?」
 今度は俺が彼女の言葉を遮り頭に浮んだ疑問をそのまま、捲し立てた。
「えっと……えっと……その……えっとね……えへへ……」
 委員長は顔を紅潮させ、少し恥ずかしそうな気まずそうな表情を貼り付けそのまま俯いてしまった。どうしました? と囁き合っていた少女がショートカットの髪の彼女を見上げる。
 委員長がこんなにしおらしくなるなんて珍しい。何かまだ裏があるのだろう。俺はその格好をみて確信した。
「もしかして瞭野先輩、森崎先輩に何も教えてないのですか?」
 夏夕と自己紹介してくれた少女が、委員長の方を覗く。すると委員長は申し訳無さそうに小さくコクリと頷いた。
「ごめんなさい、ナユから森崎くんに伝えて……やっぱり私は無理っ!!」
 委員長は吐き捨てるようにそう言うと、奥に設置されてあるベッドに飛び込み、上靴を脱ぎ捨てた。そして直ぐさまシーツを被り猫の様に丸まってしまった。
「うぅぅーうぅぅぅー」
 布団の中で、唸っているようだ。
「瞭野先輩……私から言いますけど……良いですか?」
 夏夕の問いかけに彼女は擦り切れそうな声でお願いしますと更に丸まった。なんだか先程の小悪魔の様な委員長とのギャップが激しすぎるため俺は一瞬、我が目を疑った。
「はぁ~……録音少女再びですか……」 
 彼女は溜息混じりにそう漏らす。
 録音少女とは委員長の渾名なのだろう。
 彼女は、俺の方を向き直り目を合わせる事無く俯く。長い髪の毛が彼女の顔を隠し、どんな表情をしているのかわからなくなった。しかし委員長の行動や彼女の態度を視ると大体の事は察しがついた。どうやら余程、恥ずかしい事なのだろう。
 貌は見えないが手が痙攣しているかの様に小刻みに震えている。
「えっとですね……」 
 彼女は、それから暫く躊躇したが、もう一度委員長が潜っているベッドを振り返り呼吸を整えた。


「森崎先輩に今日して貰うことは……ナユ達が作ったフルボイスのギャルゲーをプレイして欲しいのです……」 

     

「ぎゃ、ギャルゲー?」
 訊き馴染みの無い言葉に俺は首を傾げ怪訝そうに眉を顰めてみせた。すると彼女はある程度こういう状況になると予測していたのだろう。俺の貌を見るなり、柄にも無く含みを持った嫌な笑みを浮かべていた。
 ちらりと八重歯が覗く。
「やっぱり知りませんでしたか」
 彼女は見透かしたようにそう呟く。
「ああ、さっぱりわからない……プレイって事はゲームか何かか……?
「森崎先輩、鋭いですね。その通りです」
 そう微笑みながら言うと、夏夕は徐に床に置かれた段ボールを開き、中から一枚のCD-Rを取り出した。表面は白地、黒ペンで『試作用』と書かれている。
「森崎先輩、これが私達が作ったギャルゲーです」
「これが、ギャルゲー……?」
 夏夕から受け取ったCD-Rを繁々と見る。まだプレイしないと内容がどういう物かはわからないが、見た目は普通のコンピューターゲームのそれと何ら変わりはなかった。
 これが……ああ言うゲームなのか。
 熱心にCD-Rを見ていると、そんなに物珍しいですかと、夏夕が問いかけてくるので弁明を図ることにした。
「いやいや、そうじゃなくて……多分、これ夏コミとか言う奴で販売するんだろ? だからパッケージも何か……その……」
 中々、度胸がないとこの先をすらすら言うことは不可能である。
 言い淀むと夏夕は、首を傾げたが俺が言いたいことを理解したのか、すぐに頬を紅く染めた。
 撫でたい。
「森崎先輩……! 本当に……変態なんですね」
「違うッ! 俺は変態じゃないッ!」 
 夏夕は「冗談ですよ」と僅かばかり笑うと、一呼吸置き真剣な瞳をした。
「森崎先輩は……えっと、ギャルゲーと言う物を何処まで知っていますか?」
 彼女の声のトーンが低くなり、葬式の弔辞の様に一直線な話し方になった。
 雰囲気に呑まれ思わず息を殺す。
「俺は……深くは知らないし、さっきの話だってこの前ネットでちらっと見て覚えていただけだから……」
「なら、ギャルゲーとはなんたるかを教えましょう!」
 先程とは打って変わって夏夕は明るく振る舞った。しかしその差が俺の胸に更に恐ろしく映った。
 彼女、何処か委員長に似ている―――
 俺はシーツを被る委員長を一瞥し、また彼女を視界に入れる。何処が似ていると言えば雰囲気だが、根本的に何か同じ性質を宿している様だ。
 夏夕は咳払いを一つし、また口を動かす。
「ギャルゲーとはですね、恋愛ゲームの事を指した言葉です。基本的には―――」
 その時だった。
 うぅぅ。
 唸り声が響いた。
 俺も夏夕も、驚愕し直ぐさま声の訊こえた方へ身体を向ける。
「うぅぅ……うぅぅ……うぅぅ」 
 見ると、そこには寝台が設置されていた。保健室の為である。その消毒された寝台の上で、シーツが意思を持っているようにもぞもぞと蠢く。どうやら声はそこから訊こえてきているようだ。
 ……思わず溜息が二人の口から零れた。
 委員長だ。
 良くはわからないが、委員長が彼女の話を遮る様に唸っていた。それも頭部のみをぴょこんと出し、光の失せた瞳で夏夕を凝視している。
「うぅぅ……うぅぅ……うぅぅ」
 良くわからないが、ギャルゲーの話をされると困るらしい。
 しかし、夏夕も見た目とは似合わず強情な性質なのか、彼女の唸りを振り払うように先程より声を張って話し始める。
「森崎先輩! ギャルゲーと言う物とはですね、基本的に恋愛ゲームの事を……」
「うぅぅ―――!!」
「だから、森崎先輩が考える様なゲームもありますが! 感動できる神ゲーも在るわけでして……」
「うぅぅ―――あぁぁ―――!」
 蛙鳴蝉噪。
 これでは、教師に気付かれるのでは無いかと冷や汗で額を濡らしたが、それは要らぬ心配の様で、直ぐさま狼狽に疲れた彼女が、鉄槌を下した。
 そりゃあもう、重い一振りだ。
 喧騒が僅かに和らいだ瞬間、
「ナユぅぅぅ……それ以上話したら、またアレ入れるからねぇぇ……」
 どっかりと。
 クリーンヒットだ。
 瞭野は顔面の筋肉を引き攣らせるように笑った。
「――――――」
 顔面蒼白とはまさに、このことを言うのだろう。委員長の囁き声が訊こえた瞬間、夏夕の血色が悪くなり、まるでマネキンの様に身体を硬直してしまった。否、詳しく言うと身体は固まって居るが、指先が痙攣したかのように細かく振動している。それと連動するように歯もカチカチと音を立てていた。
「大丈夫か……?」
 糸の切れたマリオネットの様に今にも崩れそうなので、俺は思わず声をかける。
「は、はい……」
 途切れそうな声で彼女は返答した。
 委員長の一言は、それほど嫌な事を想起させる鍵だったのだろう。
 精神的外傷、所謂トラウマを呼び起こす一言だ。
「……別に、怖くはないのですよ」
 そう言いながらも、彼女は後退りし俺との距離をとったかと思うと、直ぐさま回れ右をし委員長が寝そべる寝台に近づき跪いた。
「ごめんなさい……瞭野様、もう致しません……」
 どんなプレイだと俺は、驚愕した。
 それと同時に悪寒を覚えた。
 なぜなら、ニッコリと微笑んでいるのだ。シーツの悪魔が。
「良いのよ、ナユ。私、怒ってないから」
 委員長の無垢な笑み。
「……怖ぇ」
 微笑んでいる物の委員長の背後には般若の様な悍ましいオーラが垂れ流されている。夏夕も戦々恐々と言った感じで既に球体関節人形の様な瞳から滝のように泪を零している。
「瞭野先輩……ゆ、ゆるしてください……」
「大丈夫、ナユ。私、本当に怒ってないから」
 後、二分もすれば夏夕は号泣するだろう。
 なぜならこんなに離れている俺ですら弥立っているのだから、あんな至近距離で迫られたら、悪いが俺は失禁する。
 しかし、畏怖を覚えているのは俺だけではなく、隣に居るなっちゃんと言う渾名の少女も口を半開きにし涎を流していた。
 そしてもう一人。
「瞭野先輩は怖いんだね……初めて見たよ……」
 声に気付き振り向くと、ツカサが口をあんぐりと開けて酷く暗澹とした表情を貼り付けていた。なるほど、彼は俺とは違い委員長の表部分のみしか知らないのだ。だから初めて見る泣く子も黙る凄惨な本性に対して、驚愕し恐怖しているらしい。それに彼は常日頃、瞭野先輩の様な裏表無い性格の人になりたいと懇願していた気がする。
「まあ、黙って居ようとは思ったんだが、何というか……委員長はああいう人だから……」
 残酷だが、理想と現実は隔っり懸け離れている物だ。それを知って理想を追い求めるか、それを知らずに理想を追い求めるかでは百八十度違うが。
「だから……何だ、あれだ……ツカサはツカサで頑張ってくれ……」
 せめてもの激励である。
 うん、そうだねと彼は頷き、あからさまに項垂れた。 
 それから暫く夏夕に心を抉り引き裂く様な攻撃をしやっと満足したのか、委員長は急に飛び起きたと思うと、俺が持っていた試作品のギャルゲーを無理矢理に奪い取りやがった。
「今から、乙女の密会だから! 出て行って! 覗いたら眼球抉るよ!」
 呼んでおいて出て行っては無いだろう。この無慈悲野郎! なんて気の小さい俺が言える訳もなく、例えるなら平日に公園でブランコに跨がるサラリーマンの様な顔をしたツカサを連れ、とぼとぼと廊下に出た。
 シーツを被っていた赤面少女は何処に行ったんだよ全く。
 俺が後ろ手でドアを閉めると直ぐさまガチャリと内側から鍵を掛ける音が訊こえた。
 そんなに俺らを信用していないのか。
「はあ、全く今日は災難だよ……」
「そうだね……ハハ」
 隣に居るツカサが、何もかも吹っ切れたように脳天気に笑う。
「大丈夫か……?」
「えっ何が?」
「いや、俺の記憶が間違っていなければ、ツカサお前さ最近良く起床してすぐと就寝前に瞭野先輩の様な裏表無く誰にでも優しく接しられる素晴らしい人に慣れますようにとかなんとか、母さんの仏壇の前で懇願してたじゃん。まあ素晴らしい人間に成りたいって事は誰でも思うが、でも委員長は裏表ありまくりで優しいのは上辺だけの言うならば、世渡り上手の鬼だってついさっきツカサは知ってしまった訳だろう? だから俺はツカサが追い求めていた『理想の瞭野蒼』と『現実の瞭野蒼』の差が激しすぎてショックで壊れたのでは無いかと心配しているんだが」
 彼は一呼吸置き、
「……そんなことしてないよ……?」
 惚けた。
「嘘は良くないぞ、今日の朝だって―――」
「してないよ……」
 ツカサが無表情になった瞬間、俺は言い知れぬ恐怖を感じ、身を引いた。
「う、うん……そうか、そうだなツカサはそんな事をしていないな」
「そうだよ、兄さん夢でも見てたんじゃないかなーハハ」
 俺はツカサの瞳が笑っていない事に気付いていたが、そのまま流した。やはり母さんの血を継いでいるな。
 俺はそう信じた。
 それより、気になることが二つほどあった。
 どうしてツカサも保健室に居たのだろうか。そして、
 あの委員長が、なぜあんなにまで赤面していたのか。
 なんだかまだこの話し裏がある気がする。
 俺は抱懐し茜に染まる廻廊で何時、お呼びが掛かるかと保健室のドアを眺め開くときを待った。

     

 それから約三十分程経つと、保健室のドアが開き暖かみのない蛍光灯の光と共に、中から委員長が何やら不安そうな表情を浮かべ現れた。
「もう密会は終わったんですか?」
 それに勘づいたツカサが委員長の顔色を伺うように、なだらかな口調で話しかける。
 委員長はツカサの方を向き、終わったよと返答をした。何故だろう、今日の委員長は普段と違い雄々しさが全く感じられない。これではある意味、本当に女の子の様だ
 レンズの奥の瞳は何だか悲しみの色を帯びている。 
「委員長、そろそろ帰らないと下校時刻過ぎるぞ?」
「ええ、そうね……」
 声にも何時もの張りや元気は皆無だ。変だが、やはり女々しい。
 何かを隠しているのか?
 俺は壁伝いに立ち上がりながら、流し目で委員長を見る。基本的に校内では、何時でも明るく笑顔を振りまくハズなのに、今はその欠片すらも見出すことが出来ないまでに陰りきっている。端麗な事には変わりはないが普段の彼女を知っている者なら、今の彼女には二度と逢いたくないと思うだろう。何か嫌だ、率直な感想を言えばそれだ。
 俺は廊下の壁にもたれ、思い切って踏み込む。
「……委員長、何か隠してないか?」
 一瞬だが彼女の眉がぴく、と上に動いた。
「何かって? 私は何も隠すような事はしていないわ」
 言っていることとは裏腹に彼女の瞳は宙を泳いでいる。
 やはり何か隠している。
「俺も良くわかってはいないが……委員長が何か俺に隠しているような気がするんだ」
 俺は頭をボリボリと掻き毟りながら曖昧模糊な発言をした。
「気のせいだよ……きっと、きっとね」 
 彼女は眼鏡の中央を触りくいっと上に一度上げた。瞳は先程にも増して虚ろに濁って見えた。
 何なのだろう、蟠りの様な嫌なモノが胸に込み上げてくる。
「やっぱり、今日の私って変かな……ハハ―――」
 左手で髪を触りながら彼女はそんなことを言っていた。見ると、何かを誤魔化している様に笑う素振りをしている。
「変というか、別人に見える」
 心で思った事をそのまま口に出した。すると、彼女は鼻で笑った。
「別人ね……確かに、森崎君の言うとおり今日の私は別人……。普段のあの娘、瞭野蒼では無いわね」
 それなら、彼女は誰なのだろう。
 そんな疑問が頭を過ぎった。
 その時だった。
「―――森崎君、訊いて欲しいことがあるの」
 唐突に、彼女はそんな事を言い出した。
「訊いて欲しいこと……?」
 俺の声が廊下に薄らと反響する。声に気が付けば教師達が来るかも知れないが、気にせずに俺は話しを続けた。
「変な事を言うが、それは瞭野蒼に戻るために俺に訊いて欲しいことなのか?」
 先程の彼女の主張を受けて、俺はそう訊いた。
 彼女の瞳をじっと覗く。
「そう、でも少し違うかも知れない」
「違うかも知れない……?」
 彼女は再び、そうと頷くが、そのまま顔を上げず俯いてしまった。
「森崎君が何時も見ていた私とは少し違う私になっちゃうかも知れないの……」
 前髪が垂れ、表情が良く見えない。
「丸っきり変わるって事か?」
「そうじゃなくて、森崎君が気付いてくれるかどうか解らないレベルの話。でも、確実に変わるの。多分、森崎君も私を見る目を変えて、……軽蔑すると思うの」
「俺が……? いや、そんな事は無いな……もし、変えて軽蔑するなら、BL漫画を病室に持って来た時点で変えて軽蔑するな」
 本心だった。
「本当に?」
「ああ、本当だ」
「本当の本当の本当に?」
 不安そうに彼女は繰り返す。
「本当の本当の本当の本当の―――」
 彼女の声を遮る様に、
「本当だ! 俺はどんな委員長になっても受け止めてやるよ! だから安心しろ」
 言っている途中で、恥ずかしさのあまり死にたくなった。
 隣で話しを静かに訊いていたツカサが急に俺の顔を一瞥する。それほど声を張ったわけでは無いので多分、彼も俺の一言に対して驚愕し、そうしたのだろう。
「……ありがとう」
 彼女は囁くように何かを呟いた。その言葉は俺には訊こえなかったが、俺にとっても彼女にとっても、ある種の光に変わる言葉なのだろう。
「なんか言ったか……?」
「何にも言ってないよ!」 
 ほら。
 彼女は少々元気を取り戻した様で、顔を上げてくれた。普段の委員長に近い顔つきで俺は安堵した。声も心なしか先程よりも明るいトーンになった気がする。
 やっぱり、光だ。
「それで話しに戻るけど……あのさ、さっきナユがゲームの話ししてたでしょ?」
「夏コミに出す、自主製作のゲームの話しだろ? 邪魔が入ったから詳しくは訊いてないけど……」
 別段、皮肉を言うつもりは無かったが、俺の言い回しが悪かった為、彼女はそう受け取ったらしく、少々ムッとした様に頬を膨らませた。普段の彼女なら、ここで精神的に来る嫌な台詞の一つや二つ平気で毒突くのだが。
「……ごめんなさい」
 素直に、彼女は謝罪した。
「――――――、」 
 俺はそのアドケナイ少女の様な委員長の姿を受け、面を食らった形になった。気が付くと、開いたままの口から涎が糸を引き床に垂れる寸前であった。慌てて、俺は口元に手をやり甲で零れぬよう拭った。
「……話しは戻るけど、私達が作ったそのゲームはね、フルボイスって云って、キャラクターの台詞に全て声が当て嵌めてあるの」
 彼女は前に向き直り、俺の両目から視線を逸らさずに話しを続ける。こうなってくると俺から視線を外すことも中々に難があり、仕方が無く見つめ合う態を取った。
「だから、その……台詞にね……えっと……その……」
 彼女が言葉を濁すと、それを皮切に堰を切ったように大粒の汗が噴出し流れ出した。それ程、彼女に取ってその言葉は重要らしく、今日の委員長を構成した核だ。俺は今まで見たことも無いまでに彼女の緊張の色をハッキリと認識していた。
 額から吹き出した汗は、泪の様に彼女の眼鏡レンズの内側を通り頬を伝い顎へ到達する。彼女は制服のポケットから花柄のハンカチーフを取り出し、零れる汗を丁寧に拭きとる。やはりこういう所は何ら変わりのない女の子だ。
「えっとそれでね……だから、その……」
 委員長は覚悟を決めたのか、眼鏡を外しケースに仕舞わずそのままの状態で胸ポケットに差し込んだ。
「その……ゲームのヒロインの声を私が担当したってコトなの……!!」
 え?
 両耳を疑うほか無かった。
「ギャルゲーとか言うゲームのヒロインの声を……?」 
 彼女はコクリと首を縦に振り、そうと消え入りそうな声で肯定した。
 俺は目を丸くしたと思う。なぜなら、そのゲームは夏コミで売る物なのだろう。では、やはり……それなりの台詞があるだろう。
 委員長がそんな台詞をッ!?
「って事は……そういうシーンも……?」
 彼女は俺から視線を逸らすと、身体を捻りそっぽを向く。 
「そう、も、森崎君が想像してる通り、あああ、愛撫する時の唾液の弾ける音も、ひひ人前では絶対言えないような……あああ、ぁあんな台詞もこんな台詞も……、も、勿論―――」
 喘ぎ声も……ね。
 何かが吹っ切れた様に彼女は、官能的に話した。そこに台本が用意されているかの様に良く出来た台詞で。しかし、そこはやはり花も恥じらう乙女。声は極端なまでに震え何度も噛んでいた。
 …………、
 委員長が、声優のそういうゲーム……。
 何だか、胸の奥がズキズキと痛む。どうしてだろう、何かが変だ。  
 俺はどう話しかけて良いのかわからず、ただ立ち尽くしていた。彼女も次の言葉が浮ばないのか、衝撃的なカミングアウトをした為話せないのか、真意は不明だが黙ったままだった。
 静寂に陥る。
 その中で、彼女の頬だけが緩やかに染まる。
 夕闇のそれよりも朱く、朱く、鮮やぐ。
「――――――」
 俺はその頬をずっと眺めていた。
 それは、アネモネの花片に良く似ていて、この心にキツく焼き付く。
 

 ああ。
 ……変になってしまいそうだ。


     

「詳しい話しは、また後日に、でも……で良いか、委員長……」 
 と、俺が訊くと委員長は口元に僅かに笑みを浮かべ片手で眼鏡を外す。
「―――そうね。その方が良いかもね。私もどっと疲れちゃったし……話すのも今日はもう、億劫かな」 
「ああ、そうか」
 確かにあれだけの事をカミングアウトした後だ。精神的に彼女も辛いだろう。それを察しての先程の提案だったが、上手く行ったようでそっと胸を撫で下ろした。
「それじゃあ、俺達帰るから。また明日」
 別れを告げると、彼女は目を細め優しく微笑んだ。そこには一切の曇りがなく、ちょっとだけ安堵した。
「うん、バイバイ。また明日ね」
 委員長は、眼鏡をかけ直し右手を振る。隣に居た夏夕は後輩らしく「さよなら」と呟き、一礼した。 
 その日の夜。 
 夢を見た。
 怖い夢だ。
 彼女、瞭野が独りで泣いている夢だ。俺は話しかけたくとも話しかけられず、ただ傍観するだけだけ。そんな嫌な夢だった。
 しかし何だかそれが、夢、幻では無く現実の、現状の委員長の本心じゃ無いかと思った。日常的に見せている笑顔は全て偽物で、普段は何時も泣いているのでは無いかと。
 でも、そんな泪を拭うことが今の俺には出来ていないと知るとただ、悲しかった。 



 *


 五月七日の水曜日、空には灰色の暈が掛り午前十時の割には妙に仄暗い。大粒の雨がコンクリートを抉らんばかりに絶え間なく、強く打ち付けている。窓へと焦点を合わせると、自分の姿が反射していた。酷く窶れている。多分だが昨日の夢の所為だ。
 あんな夢を見せられたら、窶れるのも無理はない。きっとまだ、俺は弱いから。自分自身さえも救えていないから。彼女の泣き顔なんて見たら、もう怖くて怖くて仕方がないのだ。
 しかし、俺は学校を休んでいた。
 これも昨日の所為だ。あの夢で俺は酷く魘された様で、ベッドから落ちていたらしい。その為、夏場でも無いのに上半身裸で寝ている俺は、長時間半裸で朝を迎えたと言うわけだ。
「くしゅん!!」
 俺はいい歳にもなって風邪を引いていた。
 朝の段階で、体温が上昇傾向にあったことは分かっていた。
 意識朦朧、咳、嚔。
 しかし今日は休む訳いはいかないと、委員長の為にも何とか登校しようと思い市販の風邪薬が何処にあるか探索している時だった。
 午前四時三十分の事だ。
「兄さん、何してるの?」
 思わず絶叫しそうだった。なぜなら、そんな早い時間に彼が起きているなんて全く知らなかったからだ。後から訊くと彼は毎日四時には起き、勉学に励んでいるのだと言う。同じ親から生まれてどうしてこうも構造が違うのだろうか。
 それからと言う物、言い訳すればするほど、ツカサにこっぴどく叱られ、根負けし仕方が無く風邪を引いたらしいと伝えると、「何で先に言わないの!」とまたも怒鳴られた。挙げ句の果てに一日、外出禁止令を出されてしまった。
 軟禁状態だ。何処かの財閥の御曹司でもあるまいし。
「大人しく寝てないと、後で悪化しても知らないよ!」
「はい……本当に申し訳無く思っています……」
 言葉とは裏腹に、俺は遅刻してでも登校しようと思っていた。彼とは学年も教室が在る階も違うわけだ。それならずっと教室に籠もっていればバレない。それに熱があり早退すれば彼と帰り道に鉢合わせという事も無いだろうと。そう悪巧みをしていたのだが、勿論のことツカサに見破られてしまった。だが話しは僕から瞭野先輩に伝えると言う節の言葉があったので、それなら問題は無いだろうと俺は渋々、外出禁止を受け入れる運びとなった。
 俺は布団に顔を埋める。ああ、委員長どうしてるのかな……。
 ツカサはああ言っては居たが、俺が逃げたと思われたらどうしようか。明日になって風邪を引いていたと言っても良いわけにしかなり得ない。
 やはり、今日は行くべきなのか。そう、考えあぐんでいた時だった。前触れも無くインターホンの音が訊こえた。一瞬、どぎまぎし思わず声を発した。
 誰だ。こんな時間に。
 俺は布団から抜け出すと、裸足のまま玄関まで行きそっとドアを開けた。
「新聞の勧誘はお断りしてます……よ……?」
 と云いながら相手を確認した。大方、云っていた通り、新聞勧誘か怪しげな訪問販売の類だと思っていたが、意外にも立っていたのはうちの高校の制服を着た女の子だった。それもこの雨の中、傘も差さずに走ってきたのか、呼吸は乱れ、その制服も髪もずぶ濡れだった。
「……え……?」
 知らず、声が漏れた。
「だ、大丈夫かな? もし本当に風邪ならもう少し厚着をしないといけないと思うのだけれど……」
 そこに、立っていたのは委員長だった。
「本当に風邪なの?」
 眼鏡のレンズにまで雨粒が入り込んできていた。 
「どうして……?」
 と訊くと、彼女は眉根を寄せ不思議そうに小首を傾げた。
「どうしてって訊かれても……同級生のお見舞いする為に、学校抜け出してくるってそんなに、非常識かな?」  

     

「非常識かなって……その前に傘ぐらい差してきたらどうなんだよ?」 
 そう云い、彼女に玄関へ上がれと指示する。
 彼女は「ごめんね、傘忘れちゃったの」と訳を説明すると、靴を脱ぐ先に鍵を閉めた。
 普通、それは俺がやる事じゃ……。
「いやー、ごめんね。家に上がり込もうなんて気持ちで来たのでは無いのだけれど、―――部屋意外と広いんだね」
 見ると、彼女は案内もしていないのにいきなり俺の部屋に首を突っ込んでいた。何というか遠慮が無く、委員長らしいと云えば委員長らしい。 
「おい! 勝手に見るな!」 
 彼女の首根っこを掴み無理矢理、廊下へ引き出す。その時、少々首もとに触れたのだが、彼女の体温は著しく低下していた。いや、俺の体温が普段より高いと言う事も上乗せされているかも知れないが、それにしても彼女の肌は雨によって冷却されていた。
「はぁ、残念。そういう本があるかどうか、確認したかったのにー」 
「何が確認したかったのにー、だ。俺はそんな本なんざ家には置かないさ。それと付け加えるとするなら、家意外の何処にも置きはしない。まず、そんな本俺には興味が無いからな」
「ふうん」
 彼女は鼻を鳴らし、でも―――と続ける。
「でも、机の下の段ボールに雑誌が一杯入っているように見えたのは、私の空目かな?」
 バレていた……。
「いやー、空目ですよ、瞭野さん。生憎の事、そんな本を買うお金も勇気も心の余裕も俺は全く持ち合わせていませんから……」
「そうなの、ふうん。まあ、それは後で掘り返すとして」
 彼女は、そう云って茶の間のドアを開け、框を踏む。
 未来永劫、掘り返すな。
 心なしか、今の会話で体温が二度程、上がった気がする。ああ、どうして……本当に委員長とは話しづらい、何だか何時も心を見透かされているような気がしてならない。と、思ったところで俺は昨日の夢を引き摺り起こした。あの怖い夢を。委員長が泣いていたあの夢を。
「なあ、委員長。どうして、俺の家までわざわざ、来たんだ? それもこんな雨の中。お見舞いってと云ってもまだ授業時間だろう? 担任に許可とかは取ったのか?」
 と、訊くと彼女はうーんと唸りを上げ、吐息を一つ零す。
「実はね今日、私学校早退したの。その帰りにここに来たって運びかな……、所で少し酷いこと云うのだけれど、先に謝って置くね、ごめんなさい森崎君」
 彼女はそう前置きをし、深々と頭を下げる。
 何だか良く意味のわからず、俺は首を傾げる。
「どういう事か、わからないんだけど?」
「そうだよね……」
 彼女はそう云い、申し訳無さそうに唇を噛む。それから深い溜息を一度し、眼鏡のブリッジをくい、と上げる。
「どうしてもね、森崎君に逢いたくなかったの。どうしてもね。―――昨日の提案を受け入れることが怖いって云うかなんて云うか……決心がつかなくて、云わないと私も困るし、私以上に森崎君も困るのだけれど。でも心の何処かで、先に延ばしたいって思っちゃってね」
 彼女はこれで、少しは、わかったでしょう? と言いたげな表情を浮かべてはいるが、それでも俺には何の話しをしているのか、全く持って検討が着かなかった。委員長が何を打ち明けようとしているのか、何を伝えにここに来たのか。まだわからなかった。
 彼女は、一呼吸置き、続ける。
「でも、やっぱり話さないといけないって思って私、遅刻して登校したの。そしたら、今度は森崎君がいなくて、本当笑っちゃう様な展開だったよ」
「ああ、悪い。ツカサがどうしても家に居ろって訊かなくて、……すまない」
 そう云うと、彼女は両の掌を俺に向けて「良いの良いの」と微かに笑った。
「その話も、弟君から訊いたから知ってるの」
「そうか」
 委員長の手前、顔にこそ出しはしなかったが、ツカサが委員長に用件を伝える速さに内心、驚いていた。兄弟の為、そういうことは早めに言うタイプだとは前々から知っていたのだけれど、それにしてもツカサは俺とは出来が違うと再認識させられることになった。
「それで、その話を訊いてね。ああ、これはお見舞いに行かないといけないなーって思ってね。それで始めて、ずる休みって事をしてみたの」
 ずる休み。委員長には全く似合わない単語だ。
「ふうん、そう言う運びだったのか」
「そう、そう言う運びなの」 
「訊くけど、始めてのずる休みはどんな雰囲気だった? 俺、見た目とは裏腹に、ずる休みって経験がゼロなんだ。だからどんな雰囲気か訊きたいんだけど」
 云うと、彼女が意外ね、なんて云って目を見開いて俺を除いた。まあ正しい反応なのだけど、少しばかり苛つく。
「そうね……休めることは嬉しいのだけれど、思っていたより苦しい物かな。あんまり良い気分にはならないし、こうしている間にも皆はせっせ、せっせと勉強している訳だし。ちょっと罪悪感みたいな物を感じちゃうかな」
「罪悪感、か」
「でも、本当に意外ね。森崎君って見た目に似合わず真面目なんだね。ちょっと見直したかも」
「俺、そんなに柄悪いか……」
 目つきが悪いからだ。多分。
 それから間もなくして、お茶は込んでくるからと俺は冷蔵庫の扉を開けていた。彼女は「長居するつもりは無いから良いよ」と愛想良く笑っていたが、俺が飲みたいからと言う理由で二つ分のコップにお茶を注いでいた。と言うのは出来の良い嘘であり、本当は話す事柄が浮んでこなくなって、ただその場を誤魔化す為に飲みたくもないお茶をついでいるのだった。
 センブリ茶って身体に良いらしいから、多分美味しいよな……飲んだこと無いけど。ツカサも毎朝欠かさず飲んでいることだし、きっと玉露? みたいに甘いお茶なんだろう。
「このお茶、弟曰くなんだけど身体に凄く良いらしいから、その……不味くは無いらしいよ」
 そう予防線を張って彼女にコップを手渡す。表情を見る限り彼女はお茶が飲めない体質では無さそうだった。 
 彼女は椅子に座ると「いただきます」と俺を一瞥し、ゴクリと飲み込んだ。
 ―――様に見えた。
 美味しいお茶で良かった、と安堵しかけた瞬間、彼女は思いっきり咽せ、喉仏が飛び出てくるのでは無いかと心配しそうになる程に、咳き込んだ。それもどんどん瞳が水分を帯びていき、終いにはそれこそ雀の泪ほどの泪まで流れてしまっていた。
 彼女は、制服の胸ポケットから花柄のハンカチーフを取り出し、口と鼻を押さえ、眼鏡を外し泪を指で払った。
 やべぇ……。
「森崎君の家のお茶って……随分と、尖っているのね……何だか、一瞬舌が壊死したかもって思ったよ」
 彼女は笑みを浮かべているが、目は全く笑っていない。
「す、すみませんでした!」 
「まあ、基本的にね。身体に良い物は苦かったりすると言う事は知ってはいたのだけれど……これは、そうね例えるとするならシュールストレミングが口内で前触れ無く爆発する様な殺戮兵器並の苦さね」 
 良くわからない例えだが、俺も今、そう言おうとしていた、と口を合わせておいた。
「悪い……ツカサが毎朝これを飲んでいるから、多分美味しい物だと……」
 早とちりだったねと彼女は云って、今度は本当に笑って見せた。
 勿論俺は洒落では無いが、苦笑と云ったところだ。 
「それにしても、委員長。今日は何をしに来たんだ? さっき何かを伝えにとか何とか云っていなかったか?」
「え、あ、そ、そうなのだけれど……云っても良いの?」
 委員長らしくない発言に俺は少々戸惑ったが、「ああ」と頷いた。
「単刀直入なんだけど、良いかな……?」
 彼女はそこから人が変わったかのように、真剣な眼差しで俺を見つめた。睨んでいる様にも見えたが、強く揺るがない意思の様な物を何処かで感じ、自ずとこちらも真剣に耳を傾ける事になった。
 さて、何を云うのか。
 彼女は、口元に力を込め、
「お願い、何でもしてあげるから。森崎君もメイド服を着て夏コミに参加して欲しいの!」

     

「えっ……?」
 予期しない一言に思わず声が出た。逆に彼女は、その反応を予期していたらしく口元に添えていたハンカチーフを折り畳み内ポケットの忍ばせてから「もう一度云うわね」と冷静さを保持したまま云う。
「森崎君にもメイド服を着て夏コミに参加して欲しいの」
「―――えっと、それはツカサの事を指している森崎君なんだよな?」
 そう訊き終わる前に、遮る様にして、彼女は首を横に振る。
「違うの。勿論、ツカサ君にもメイド服を着て参加して貰う予定ではいるのだけれど……ちょっとした理由があって、森崎輝之君。貴方にもメイド服を着用して欲しいの」
「メイド服を……着用?」
 俺があからさまに首を傾げて見せた。
「そう。―――でも心配はしないで。メイド服は全部オーダーメイドで製作という流れになりそうだから。と言ってもね、資金面で当てになるような人にまだアポを取っていないから、予定の域からは脱していないのだけど……。でも、サイズが小さくて入らないって事は無いと思うから」
「ちょっと待ってくれ」
 云うと、彼女が怪訝そうに眉根を顰めた。何か問題でもあるの? と云いたげなその口元。
「もう、この際ツカサのメイド服は良いっと半ば自棄でOKサインは出したけど……どうして俺まで?」
 俺はツカサの様に端麗な顔立ちと云うわけでも無ければ、身体のラインが特別良い、と言う訳でも無い。そんな俺がどうして、メイド服の格好をしないといけないのか。甚だ可笑しかった。
 訊くと、彼女は少々困惑し、発言を濁す。
「それはそのね……当日まで、どうしても教えられない……かな」
「教えられないって、それはサプライズとか何かなのか?」
「ううん、全然違うの。でも、森崎君。貴方がメイド服を着用することは必然なの。運命と云っても良いぐらいかな」
 運命なんて抽象的な表現をされても困るのだが、これ以上問い詰めると昨夜の夢の再現になりそうな予感がしたので、俺は喉元まで差し掛かっていた言葉を押し殺し、僅かばかり笑みを繕った。
「運命から、逃れられる方法はあるのかい?」
「絶対にありません」
 そこに先程までの困惑の色はなく、普段通りの笑顔があった。その笑顔を覗くことに何処か恥ずかしさを憶え、俺はすっと目線を逸らした。丁度、視界に例のお茶が入ったのでこの気持ちを払拭する為に、躊躇いなく手を伸ばし一気に飲み干した。
 ……次の瞬間には、その半分が鼻孔から溢れだす羽目にはなったが、場を和ませる起爆剤としては上出来だったと思う。


 *


 その後、何気ない会話で談笑していたが彼女が長居しないと云ったのは事実だった。「用件は伝えたから、私もう帰るね。早く風邪直してね」そんな事を云い、彼女は椅子から立ち上がり玄関へ向かった。
 しかし俺は、このまま帰らせる事が嫌だった。理由は長くなるのだが、まず酷いことを云おう。もっと彼女と長く居たいと言う訳では無いのだ。元々彼女の様な人物が俺は苦手なため、本音を漏らせば、少しでも居合わせたくない。そうは思う。そうは思うのだけれど、ここで帰ってしまうとまた関係がリセットされてしまう様な気がしてならなかったのだ。何分、俺と彼女は教室で顔を合わせる事はあっても、基本的に話すことは無いので必然的に「夏コミ」というイベントの合間まで彼女とのパイプは無くなってしまう訳だ。
 ならば、この時間だけで、少しでも親密な関係になった方が良いのでは無いか。そうすれば、彼女の事もより深く知る事ができ、色々と気を使わなくても良い、理想的な仲になれるかも知れない。
 そう、一縷の望みを抱き、俺は腰を上げた。
「い、委員長……もう少し居てくれないか?」 
 声に気が付き、委員長が足を止め、首だけをこちらに向けた。
「うん? 何か私に用があるの?」
「ああ、いや……まあ、あるような無いような……」
「あるような、無いような?」
 彼女は、身体を捻りこちらと向かい合わせになる体をとる。
「え、あ、そのあれだ。俺、今風邪引いて37℃もあるから、昼飯が作れないんだよな……」
  真っ赤な嘘だ。ツカサが朝に作ってくれたお粥が冷蔵庫に入っていた。
「そう? 私の目にはそうは見えないんだけどなぁ。それに、インスタントラーメンとかあるでしょ? そこの戸棚の奥とかにね」
 彼女はそう云い、キッチンの方へ指を示す。その先を目線で追うと―――図星だった。
 その戸棚を開ければ軽く一年分ほどのインスタントラーメンが所蔵されている。
「え、ま、まあ、あるにはあるんだけどさ。やっぱり具合が悪いときにはそう言う消化に悪い物はダメだと思うんだよね……」
 最もらしい理由を云ったが、彼女の瞳は全てを見透かしているように、微かに冷ややかだった。
 それから、ふーん、と彼女は鼻を鳴らす。
「やっぱり、森崎君は真面目なんだね」
「まあ、弟の手前。しっかりしないといけないからな」 
 そう云うと、彼女が溜息を一つ零し髪を掻き上げ、こちらへと歩み始めた。
 思わず、身構えてしまう辺りまだ、俺は彼女が苦手なんだと実感した。
 ある程度、距離を縮めると彼女は、
「そっか。それじゃ、仕方がないかもね。わかりました。私が、腕によりをかけて美味しい物作ってあげましょう」
 彼女は腕を捲り目を細め、優しく微笑んでみせた。
 とてもじゃないが、用意していた「ありがとう」なんて言葉は言えなかった。
 変わりに―――。
「ああ、期待してるよ」
 と云って、今度は笑って誤魔化した。

     

 委員長はキッチンに立つと、まず最初に冷蔵庫の中を確認し始めた。
 開けるのと、ほぼ同時に彼女の顔は曇り、それから呆れた様に溜息を一つ吐き出す。
「うわっ……、森崎君、普段何食べてるの……?」
 委員長が目を丸くし、こちらを向く。うちの冷蔵庫はアノ人の仕事の関係で、一般家庭の冷蔵庫と比べると、ほぼ、すっからかんに近い状態が常なのだ。二人が生きていた頃には、それはもう溢れ出さんばかりに野菜や肉類、新鮮な魚類などが封入されてはいたが、今では飲み物でさえ入っていないときが多々ある。そんな冷蔵庫をあの委員長が覗いたのだから、ああ言う反応になるのは必然的だった。
「いつもはツカサがコンビニ弁当を買って、それを温めてかな」
 云うと、彼女はまたも驚き、なら今日ぐらいはちゃんとした物を食べないといけないね、なんて云ってまた冷蔵庫の中に首を突っ込んだ。
「パプリカと、にんじん、細切れのハムもあるし……まあ、何とかなりそうかな。森崎君、お米はあるよね?」
 彼女が残骸の様な野菜を抱えながら、そう訊く。
 もう少しマシな物は……無かった。あるとするなら、冷凍のグリーンピースぐらいだろうか。
「お米なら、そこの鍋の奥に電子レンジで温められる、ご飯が確かあるはずだけど……」
 そこまで云って、俺ははっ、とし彼女の元へ急ぐ。
「あ、委員長、俺が米を取るよ。パプリカとかにんじんとか持って大変だろう?」
「え、そう。ありがとう」
 危うかった。その鍋の中身は、ツカサが作ってくれた例のお粥なのだ。勘が良い彼女の事だ、お粥なんて物があった、その時点で事実に気が付くだろう。
「お米あったぞ」
 米の入った容器を取り出すと、俺は急いで冷蔵庫を閉めた。
「あったの? そう、良かった良かった」
 見ると、彼女は、野菜の残骸を水洗いをしていた。そして、それより―――と言葉を続ける。
「それよりさぁ。冷蔵庫の中にあった鍋の中身って何か訊いても良いかな?」 
 ギクリ、とした。
 察しが良いなんてレベルでは無い。
「あ、ああ、あれ。あれは……お粥だよ……。でも、ツカサが晩に食べるから俺は食えないんだ……」
「そうなの。それじゃ仕方がないわね」
 彼女が手元を見ていたから良かった物の、目を合わせていたなら確実に嘘だと見破られるだろう。もしかしたら既に嘘だと勘付かれているかも知れない。そう思うと、途端に身の毛が弥立ち、俺は話題を変えようと必死に頭を巡らす。
「それより、委員長。何を作るんだ?」
 とどのつまり、話す内容はそうなってしまった。
 訊くと、彼女は不思議そうな顔をして、俺を一瞥した。
「見てわからないの? 炒飯よ、炒飯」
「炒飯?」
 中華料理の?
「そうよ、炒飯。私の十八番なの」
 彼女は軽快に鼻歌交じりで、残骸を更に細かく微塵切りにすると、フライパンを用意し油を敷いた。
 それにしても、
「病人に炒飯って、変じゃないのか?」
「そう? 別に私は風邪の時でも炒飯食べるけどなぁ」
「それは非常識何じゃ無いのか?」
 すると、彼女はむっとしたのか声を少々張り、
「嫌なの? それなら作ってあげないけど?」
「いや、作って欲しいです。炒飯好きです、大好きです。すみませんでした」
 謝罪すると彼女は炒飯の具をフライパンに入れ、文字通り炒め始めた。芳ばしい香りと焼かれるときの、あの音が更に食欲を掻き立せる。
「美味しそうだね」
「でしょ? 私の炒飯は本当に、美味しいって評判なんだから」
「あれ、委員長って料理クラブとか何かに携わってたっけ?」
 訊くと、彼女はまた怪訝そうに眉を顰めた。
「携わってたって言い方、やめて欲しいなぁ。それに、私はちゃんと料理クラブに入ってます。これでも部長なんだから」
 正直、驚いた。
 彼女は勉学は出来ても、家事などは全く出来ないし、興味もないという印象が俺にはまだ根深かったからだ。
「委員長、部長やってたのか」
 本当はやりたく無かったんだけどね。経費の計算とか面倒だし。でも、ほかにやりたいって人も居なくて消去法みたいな雰囲気で私になったの。
 あれや、これや、嫌な事もあるのだろうか。彼女は二、三度吐息を交えながら、そう説明し、最後に心中を曝け出すような、大きな溜息をついた。
 彼女の目線は何処か宙を捉えていて、こちらまでセンチメンタルな気分になりそうだった。
 
   

 *


 どうやら風邪や疲れが重なり、どうしてこうなったのか経緯は知らないのだけれど、俺は眠っていたらしい。
 目が醒めると、委員長が顔を覗かせていた。「気分悪いの? なら、薬とか買いに行ってくるけど……」
 首を巡らせると、テーブルの上には炒飯が置かれていた。出来たての様で、上に乗っかっているグリーンピースの付近からは湯気が立ち込めていた。
「ああ、大丈夫だ」
「なら、良いのだけれど……本当に大丈夫?」
 彼女に心配はないと何度か云い、起き上がるとそこは皮のソファーの上だった。ああ、ここで横になっていたと言う訳か。
「でも、森崎君が早く起きてくれて良かったかも、温かいうちに食べて欲しいからね」
「―――そうだな」
 相槌を打つと、彼女は徐にスプーンで炒飯を掬い、冷める様、ふぅー、ふぅー、と息を吹きかける。味見でもするのだろうかと、その一連の行動を見ていると、
「はい、口を開けて」
 いきなり、彼女がこちらにスプーンを向けたので、思わず身構えてしまった。
「え?」
「だから、食べさせてあげるから、あーんして、って云ってるの」 

     

「良いよ、自分で食べるから」
「それじゃダメだって云ってるの。だからはい、あーん、しなさいって」
「良いって、本当に良いって! 俺、自分で食べられるから」
「病人は病人らしく、お節介されなさい」
 彼女はそう云い、真一文字に結んだ俺の口に、スプーン一杯の炒飯を近づける。
「そこまで重病だって訳じゃ無いんだし……病人なんて今の俺を表すにはもったいないから」
「そう? 風邪を拗らせて死んでしまう人も居るのだから、森崎君は歴とした『病人』よ」
 そこから何度か同じようなやり取りが繰り返されたが、最終的には、
「わかったよ……あーん」
 俺が折れた。
 まあ、彼女が折れるなんて事は、何が起きても無いのだからこれもまた然るべき事だろうか。
 何だか恥ずかしかったが、炒飯は「手前味噌だけど」と彼女が云うだけあって、旨かった。それに毎日コンビニ弁当ばかり漁っているからだろうか、彼女の作ってくれた炒飯は温かかった。温度的な意味ではなく、そう云うならば真心に似た隠し味が入っていたと思う。
「本当に美味しいんだな」
 云おうか、云うまいか迷っていたのだけれど、頬杖をついて俺の食事風景を覗く彼女の貌を見たら、そう云うしかなかった。
「何それ、疑ってたの? 失礼しちゃうね、本当に」
「いや、疑っていた訳じゃ無いんだけどさ。予想より美味しかったって事」
 彼女は、眉根を顰めると、
「それって予想の私は、不味い料理を作るって思ってたって事だよね。何か素直に喜べないなー」
 常々思うが、彼女は考え方が捻くれている。俺も他人の事を言えた立場では無いのだが、彼女は俺以上に捻くれているとだけは断言できる。
「まあ、美味しいから。そんな顔するなよ」
 そんな顔って所を突っ込まれるかと思い、次に返す言葉を用意していたら、
「ふん、美味しいって言葉に免じて許してあげましょう」
 鼻を鳴らし、そんな事を云われたので、調子が狂い、
「許されてあげましょう」
 と、変な返しをしてしまった。
 どうやら俺は、勘違いをしていた様で、その一口だけ彼女が食べさせてくれると思っていたら、次も次もと冷ましてから、食べさせてくれるので拍子抜けし、共に何だか申し訳無い気分に陥り、労いの意を込めて必要以上に美味しいと反芻していた。
 お人好しと、でも笑ってくれ。
 それから、炒飯を半分ほど食べ終えた頃だ。唐突に彼女が話し出したのは。
「ちょっと真剣な話になるけど、良いかな?」
 彼女はそう前置きし、本当に真面目な話しだと念を押すように、わざわざ両手を膝の上に乗せる。
「ん、何? 真剣な話しって、また夏コミ関連の事か?」
 訊くと、彼女は首を振り「違うの」と態度と口で否定した。
「今日は森崎君に伝えたいことが二つあって、一つはさっきのメイド服の話しで……それはもう良いのだけれど、今から、もう一つの事を話そうと思って」
「もう一つの事?」
 俺は首を傾げ、彼女の瞳を覗く。焦燥感は無かったが、どことなく彼女は動揺に似た何かを隠そうとしていた。頻りに目が宙を泳いでいたり、何かを話そうとしてはいるのだが、声は出ず、ただ口が柔らかに痙攣しているように、ぴくぴくと動くだけだったりと。ハッキリ言ってしまえば変だ。
 …………。
「委員長、そのもう一つの事って何なんだ?」  
 まごまごしている委員長がどうしても痛く見え、耐えきれず俺から先を切り出すことになってしまった。
「そ、そうだよね。今話すから」
 彼女は深呼吸を繰り返し、「その……」と話し出す。
「そのね、今日伝えたいことはね……」
 息を呑む。
 どうしてだろう、こちらまでドキリとしてきた。
「月が綺麗ですね」
 彼女が真顔でそう言う物だから、思わず訊き返してしまう。
「月が綺麗ですね……?」
 伝えたかった事はそれなのか、と俺は少々疑問に思いつつ、そう口にする。
「あ、え、そのね。本当の月の事じゃなく―――だから、月が綺麗ですねって云ってるの。……伝わらないの?」
 伝わらないのと訊かれても困る。
 まるで真意が見て取れない。
「今夜か? ……それにしても、多分このまま行けば曇りだから、月は見えないと思うんだけど……」
 彼女はまた首を振る。 
「だからね、本当の月じゃなくて……その森崎君は、夏目漱石のお話知らないの?」
 突拍子もなく出た明治、大正の文豪の名に俺はまた首を傾げた。
「夏目漱石か……芥川龍之介とか、太宰治辺りは読んだんだけど……全く持って知らないな」 
 そこまで云った所で、彼女は言葉で表記できない叫びを上げ、両膝をパンを勢い良く叩く。見ると、彼女の真白の長い足がほんのり赤く腫れていった。
「どうして……どうして知らないのよ、―――もうっ!」
 何処か、ヒステリックに彼女は叫び、溜息を吐く。こんな彼女を俺は見たことが無いため、少々呆気にとられてしまい、次の言葉がすぐに出ては来なかった。
 月が綺麗ですね、夏目漱石が何か関係がある言葉なのだが俺は本当に知らなかった。何だろう、小説の名だろうか。主人公の一言だろうか、正岡子規とも関係があるのだろうか。自らの記憶を頼りに探っては見たが、それに該当する物ははやり俺は知らなかった。
「……どうして知らないって云われても……知らない物は知らないんだけど……」
 云うと、彼女は打って変わって寂しそうに小声になった。
「そう、そうよね。ごめんなさい……」
 続けて彼女は、随分急に別れの挨拶をした。どっと疲れたようで、私物である鞄を持つと壁伝いに玄関へ向かい、具合が悪そうにふらふらと、扉を開く。
「委員長、大丈夫か?」
 一応だが、言葉をかけると彼女は口元に僅かばかりの笑みを含み、一度だけ頷いた。それを瞬時に無表情な玄関の扉が隠す。本当は追おうかと思ったのだが、やめておいた。彼女のその作られた笑みを見たときに、どんな言葉も今は慰めにもならないと感じたから。
「……事故とかに遭わなきゃ良いけど」
 呟き、俺は彼女が作ってくれた炒飯を口に運んだ。
 俺自身、まだ彼女の事を多くは知らない。知っている事と云えば、指の数で済みそうな程だ。それは踏み込んでいない、いいや、踏み込めていないからだ。もし踏み込んだら今の関係が崩れてしまうと、そう恐怖しているから俺はまだ彼女の深くに踏み込めないで居る。そんな俺が彼女のために何が出来るというのだ。分かったようなフリをして、分かったような顔をして、彼女に接すれば良いのか。でも、それはただの偽善に過ぎない。いつか時が来たら、俺は彼女のために何かを思おう。何かを感じよう。何時でも、慰めてあげよう。共に泪を流してあげよう。ただ今は違う。違うんだ、タイミングが。
 会話を長く交わしていた所為か、長らく考えていた所為か、わからないが、炒飯はすっかり冷めてしまっていた。
 彼女のそれに似た、溜息を一つ零し、俺は立ち上がり電子レンジに炒飯を放った。
 雨音が、眼鏡をかけた少女の泣声に訊こえて、思わず耳を塞ぎそうになった。
 早く上がらないかな……。
「―――雨は嫌いだ」


 *


 全くの余談なのだが、その日の夜は俺の祈りか少女の祈りか、分からないが空に通じたのか、雲一つ無く霽れた。
 三日月が窓辺を照らす。
 それは、目眩がするほど綺麗で、俺は堪らず眠れなかった。


 無論、寝不足で風邪が悪化したことは云うまでもない。

       

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