Neetel Inside ニートノベル
表紙

弟が男の娘だなんて兄さんは認めないっ!
第4話 「夏コミと角砂糖さんと眼帯の娘」

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 七月もそろそろ半ばに差し掛かろうとしていたある日の出来事だ。その日も例によって放課後、俺は委員長に保健室へと連行されていた。今回の要件は何やら教室では公言できない様な事らしく幾ら訊いても、するり、するりと上手く躱されてしまった。
 何だか、五月の中旬にも同じような出来事があった気がする。
 校内の両端に設けられている無駄に大きな踊り場を要した階段を降り廊下に抜けると、?の鳴き声が耳を劈いだ。酷く、騒々しい。それに初夏も過ぎ、夏本番に近付いている現在の廊下は灼熱だ。何でも今年の夏はエルニーニョ現象だが何だがで、去年や一昨年とは比較にならない程、気温が上昇しているらしい。
 ああ、苛つく。廊下に一台でもエアコンを設置してくれれば良いのに。そう思ったところで財政の厳しいうちの高校には無理な相談だった。
 ふと見ると、目の前の委員長も暑いのか、手で必死に顔を仰いでいた。その為、後ろ髪ふわふわと揺れている。普段から冷たい印象を抱いているからだろうか、汗をかく委員長を初めて見た気がした。
 何だか不思議な気分だ。
「窓開いてるのに、全然風が入って来ないんだな……」
 たった一言吐いただけなのに、額から汗が吹き出てきていた。
「何でも今年はエルニーニョだか―――」
 間髪入れずに、
「わかったから、静かにしてよ! それでなくても暑くて苛々してるって云うのに。?なんて皆、死んでしまえば良いんだわ! 本当に!」
 前触れなく彼女が声を張り上げたため、驚き、俺は辺りを見渡した。幸い、生徒や教師は誰一人として居らず、今の怒声を訊いた者はどうやら俺だけの様だった。全く、彼女もそういう所は気をつけた方が良い。校内での彼女はそれこそ完璧な女子生徒を演じている訳なのだから、今のような一言はすぐに生徒同士の口頭で拡散されるだろう。それもただ拡散されるだけならまだしも、高校生のことだ。尾ひれを付け、委員長の悪い部分を誇張されるかも知れない。彼女自体はそんなことを気にしていないのだろうか。周りにいる俺ですら少しは気を使っていると云うのに。
「森崎君、今の発言誰かに話したら夏コミ会場で死ぬ方が良かったって後悔するほど、恥ずかしい思いをすることになるから、そこの所、よろしくね」
 やはり気にはしていたようだ。
 と言うより、死ぬより恥ずかしい事とは一体……。
「……肝に銘じて起きます」
 言い知れぬ恐怖と圧迫感を感じ、俺は唾を呑む。
「それで、よろしいです。森崎君」
 多分、不適な笑みをして彼女はそう呟いているだろう。
 想像すると、また余計に怖くなり、背中の辺りに冷や汗がすぅっと落ちた。夏場なのに、何だか寒気がする。
「訊いて良いか?」
「何を?」
「保健室で今日は何をするかを……」
「そうね、そろそろ云っても良いけど、保健室なんて目と鼻の先なんだし、ちょっと待ってみたら?」
 そうだな、とだけ云って俺は窓の外を覗く。横長のグラウンドに、ユニホームを泥に塗らせながら白球を追う野球部の部員が満遍なく広範囲に渡って広がっていた。暑くないのか、なんて思ったのだけれど、愚問だろう。勿論、暑いに決まっている。
「働き蟻みたいだな……」
 ぼそっと呟き、彼女に目を写すと変な顔をして俺を覗いていた。どうして? とでも言いたげな顔をしている。微妙に首を傾げ、眉根を寄せている。
「どうした?」
 訊くと、彼女はううん、と萎れた花の様に返事をした。
「森崎君には野球、似合わないと思うよ」
 彼女は前に向き直りそんな事を云う。何だかあんまりなので、つい口を尖らせ俺は話す。
「余計なお世話だよ、委員長」
「そうかもね」
 何処か寂しさを含んだ台詞に俺は不味い事を云ったかも知れないと、僅かばかり後悔した。そう思うのには理由があった。
 あの日の夢は今でも、心の何処かに住んでいるからだ。あの泣き顔も、泪声も、流れた雫の透明さ、さえも。きっと彼女の事を本当に理解するまで、その画は消えないだろう。傷と同じような物だ。まだ裂けて塞がってはいない。だから血も泪もまだ流れている。
「そうだな」
 頷いて、俺から保健室のドアを開けた。彼女は一瞬掛け値無しに驚いた様だったがすぐに「気が利くじゃない、ありがとう」と、完璧な女子生徒を演じる。
「どういたしまして」
 いつか彼女の傷を癒せる日が来るのだろうか―――?
 曖昧に答えを濁し、俺も保健室へと向かった。

     

 体験したことのない「不快」に身を投じている時、どうしても人間は怒りのはけ口を用意しなければ正常を保ってはいけないらしい。たった今、実感したことなのだけれど、よく考えてみればそれは常軌であり、人間らしい行動の一つだった。取りあえず、人間不愉快になると、正常を保つために、はけ口として表情を殺す事で、文字通り相殺するのだ。―――と、難しく云ってみたが、まあ嫌な思いをしているときに心から笑う事なんて出来ないという事なのだけれど。
 三脚の後ろ、夏夕がカメラのレンズに片目を合わせる。夏場になって彼女の髪型も少々変わり、前まで結んでいた髪の束を解き下げている。何でも結ぶと中で蒸れて暑いのだという。でも、あれだけ長かったら結んでも結ばなくても暑いと俺は思う。現に彼女の頬には大粒の汗が泪のそれの様に流れているのだから。
「森崎先輩。もっと笑ってくれないと良い写真が撮れない……それにシャッターが……その……ぇ……」
 夏夕が、風が吹けば飛んでいきそうな声で、そう漏らす。そんな彼女の背後、机の上で長く白い足を組み鎮座している委員長が俺を睨み、間髪入れず、口を開く。
「そうよ、もっと笑いなさいよ。これじゃ本番の時、何云われるか分からないよ? 云われるだけなら良いけど、ここでちゃんとして置かないと後悔するのは森崎君自身なんだから」
「俺、自身と云われても……」
 説明すると、俺が今置かれている「不快」は兄弟揃っての事なのだが。
「はい、もう一回笑って、笑って」
 急かすように彼女が手を叩き、口を尖らせる。全く委員長には情という物が無いのだろうか、と俺は疑問に思った。
 この状態、異常としか言えない。
 制服を脱げと云われ、息つく間もなくメイド服を着せられ、あれこれと、あられもないポーズの指示をされ、それを撮影される。しかも、心からの笑顔と言う注文付きと来た。本当に不快でならない。  
 俺にソッチの気は無いとあれほど言ったにも関わらず……。
 振り向き、ツカサの顔を覗いた。なぜ、満面の笑みを浮かべているのか俺には察知できなかった。
「兄さん? どうかしたの?」
「いや、どうしてそんな笑顔なのかな、と……」
 訊くと、ツカサは興奮し、
「だってメイド服だよ!? テンション上がらないでどうするの! それにボク、一度着てみたかったんだ~メイド服」
 ツカサはそう云うと、袖の部分で頬摺りをし屈託無く笑う。
 ああ、弟よ……お前はもう戻れないんだな。
 ツカサから視線を外し、また委員長へ顔を向ける。
「委員長、それにしてもどうして俺達にこんなにぴったり合うメイド服を調達できたんだ?」
「森崎君、私の話を逸らそうとしても無駄だよ?」
 何処までも疑り深い女だなと俺は思う。
「いや、そうじゃ無くてだな……本当に疑問なんだ」
「そう。なら教えてあげましょう。これはね、前に言ったと思うけど特注品なの」
 ああ、家に来たときの。
「あの、アポがどうのこうの、の話しか?」
「そうそう」
 その後の話しの内容によると、委員長がやっているサークルのメンバーに衣装担当の様な人物が居るらしく、生地さえ渡せば何でも作ってくれるらしい。このメイド服二着もその人物が作ってくれたらしい。ホント、便利な人間も居たもんだ。
「その人の名前は?」
「そうねー。しいて云えば……管理人さんかな?」
「管理人?」
「まあ、夏コミの会場で逢うと思うから、お楽しみに」
 
 
 *


 管理人の話から、数十分立ったところで、俺は音を上げた。
「委員長、やっぱり俺は無理だ。こんな格好をして笑顔なんて絶対に作れない」
「泣き言云わないの」
 そう云うと委員長は机から飛び降り、こちらへ向かって歩き始めた。
「良い? さっきも云ったけれど、これが本番なら森崎君、私の漫画みたいな事になっちゃうかも知れないんだよ? リアルに、あんな風になってしまうんだよ? それでも良いって云うなら撮影練習はここで切り上げるけれど」
 彼女は狡猾だ。
 そんな事云われたら嫌でもやらざろう得ないじゃ無いか。
 でも、やはり―――。
「俺、昔柔道とかやってたし、襲われても大丈夫だと―――」
「え? 兄さん生まれてこの方柔道なんてやってなかったでしょ?」
 ツカサ! そこは話しを合わせろ!
 すかさず出た、彼の言葉に委員長は、ははーんと態とらしく頷くと、くつくつと嫌な笑い方をする。あーあ! 何もかも上手く行かないなぁ!
「森崎君、嘘を付くのが下手だねー」
「…………」
 俺は、振り返りメイド服で立つツカサを睨む。ツカサは一瞬顔を顰めたが、
「瞭野先輩の好意でしてくれてるのに、嘘で逃げようなんて兄さんダメダメだよ!」と腕で×の印を作る。
 ダメダメだよってなぁ……、云われても。
「弟君にまで言われるだなんて、森崎君、本当にダメダメだね! そう思うよね? ナユ」
 委員長に急に話しを振られたため、夏夕は小動物の様に酷く怯え「……ふぇ?」と意味の分からない返事をしていた。
「え……えっと……はい。ダメダメです……ね……た、多分」
 夏夕の言葉はどんどんとフェードアウトしていき、最後には何を云っているのかさえ分からなかった。
「ほら、ナユにまで云われてー。恥ずかしくないの森崎君は?」
 云わせたのは委員長だろう。
 ああ、これは完全アウェーだ。
「……わかりました」
 渋々承諾すると、委員長はニヤリとまた口元に笑みを含み、耳に手を当てる。
「え? 訊こえないなー。もう少し大きな声でハッキリと喋って貰わないと、訊・こ・え・ま・せ・ん」
 腹が立つと言うレベルでは無かった。
「わかりました! 撮影でも何でもしますよお!」
「そう。なら撮影再開ね!」
 委員長はナユにカメラの位置を再度確認し、不貞不貞しく撮影開始の合図を送る。
「はーい、スタート!」
 何がスタートだ。 
 ギャラは弾んで貰わないと。


 *


 一頻り撮影が終わると、委員長から「もう帰って良いわよ」と手を振られたので、俺等は何処か捨てられた子犬の様な気分で帰路に就いた。
 帰り道の途中、
「今日の瞭野先輩何だか気合い入ってたね」
 ツカサは俺の顔を一瞥するとそう切り出した。
「そうかぁ? 何時もあんな感じだと思うが。まあ、今日は特別うざったらしかったな」
「でも、最後は認めて貰って良かったよね」
 認めて貰ってと言う訳では無かった。結果的には受け入れたと、同等の物になったのだが、課程は全くの別物だ。彼女のあれは認める、受け入れると云ったそれでは無く、諦めと言う物であり、妥協でしかない。その為、彼女は別れの時も不機嫌であり、瞳は睨んでいた様にも見えた。きっと心の中では俺を罵っているだろう。あれでも委員長的には我慢している方なのかも知れない。
「そうだな。不承不承の笑みだったけどな」 
 でもここは彼に同意した。
 とどのつまり、今更云った所で時間が戻る訳でも、ツカサが笑顔になる訳でも無いのだから。
「きっと、委員長さんが躍起になっていたのは別の理由があると俺は思うぞ」
「別の理由?」
「ああ、別の理由だ」
 彼は小首を傾げ、疑問を口に出す。
「別の理由って何だろうね」
「多分―――」
 俺は空を見上げ、とある三つの星を指でなぞり、眺める。それは、琴座の首星。白鳥座の首星。鷲座の首星。
「―――夏の所為だろ」
 云うと、ツカサは吹き出し「暑いから、そうかも知れないね」と、半ば馬鹿にしたような感想を述べた。
 でも俺は思う。
 きっと、この季節の所為だと。
 きっと、この夏は何かが違うと。俺はそう、思う。

     

 翌日、定番になりつつあった放課後→保健室の流れを組み取り、呼ばれたわけでもないが俺はまた保健室へと向かっていた。全く習慣と言うほど怖い物は無いね。
「うぃーっす……」
 そんな調子でドアを開けた。室内には夏夕か委員長でも居るか、誰も居ないだろうと予想し、誰一人としていなかったら踵を返そうかと、そこまで考えている時だった。
 ドアを完全に開けると室内に一人の人物が居る事がわかった。その一人は、委員長さんでも、夏夕でも俺を変態呼ばわりする失礼な少女でも無く、と言うか男だった。
 俺は、もう一度良くその人物を視る。
 年季の入った黒縁の眼鏡に長くしなやかな白髪。目元は隈のそれには見えないほど黒く、一瞬メイクでもしているのかと思った。痩せぎすで、第一印象は木乃伊だった。
「やぁ、君が例の―――森崎君、だね?」
 よれよれのシャツにブルージーンズを着用した初老の男性は、そう云い革靴をカツカツと鳴らし俺に近付く。意外にも身長は俺と同じぐらいであったが、やはり痩せている為、小柄に見える。
「逢いたかったよ」
 彼は手を差し出し握手を求める。その手は顔以上に皺だらけで何処か薄汚れていた。
「え、はい。こんちには……」
 訳も分からないまま、俺は流れで彼と握手を交わした。イメージ通りというか、何というか、彼の手はとても冷たかった。
「すみません、……どちら様でしょうか?」
 それは真っ先に浮んだ疑問だった。云っておくが彼は、この学校の教師というわけでも、事務員という訳でも無い。見ない顔だ。まあ、胸の辺りに入校許可書を付けている辺り、不審人物という事では無さそうなのだが。しかし、それでも不信感は拭えなかった。なぜなら、全くの初対面の俺の名前を知っているからだ。
 一体、誰なのだろうか。
 初老の男は長い髪を手で掻き上げ、
「いやはや、すまない。紹介がまだだったね。初めまして、私は心理学者の花藤榮司(はなふじえいじ)と云う者だ」
 と、自己紹介をした。
 花藤榮司。訊かない名前だった。やはり俺の記憶に間違いは無いらしく、初対面の様だ。
「心理学者……?」
「ああ、心理学者だ。と云ってもそんなに気張る事は無い。ただ人より少しばかり察しが良いって事だけなんだからね」
 印象ほど、彼は堅苦しそうな人物ではない様で、俺はほっとした。
「察しが良い、ですか」
「そう。察しが良いだけ。殆どの心理学者なんてそんな者だよ。察しが良い、他人より気が付くことが多い。それだけなんだよ。本当に」
 花藤と名乗った男は一息つかんとパイプ椅子に坐り溜息に似たような吐息を長く吐き出す。そして、テーブルに置いてあったコーヒーカップに手を伸ばし、徐に口を付けた。
「まあ、心理なんてそう皆が考える程大した物では無いのだよ。学べば誰にでもなることは出来るし、人付き合いが上手な彼女なんかは私でも本心はわからないよ」
 本心がわからない彼女。そう訊いた瞬間に俺は何故だか、真っ先に委員長の顔を浮かべた。
「彼女とは、誰なんですか?」
 訊くと、彼は鼻の付け根に中指を当て、
「彼女を指し示している人物かい? 今云わなくとも後、そうだな、五分と経たずに来るだろう。答えをそう焦る必要は無いよ。それに―――」
 彼はコーヒーカップをテーブルに戻すと、俺の瞳を見つめる。
 何もかも見透かされている気がする。と言うのがこのときの俺の本音だ。
「森崎君。君は彼女が誰を指し示しているか、もう想像できているのでは無いかな。どうも私にはそう思えるのだが」
「ええ、まあ多分と云いますか……そうですね。俺の近くにそれに当てはまる人物が居たので」
 云うと、彼はすぐには返さず、足を組む。何だか、その間を楽しんで居る様にも見え、俺はまた彼に何かを見透かされているのでは無いかと強迫観念に捕らわれた。
「―――分からないが、君が今、心中に思い浮かべている人物で私は正解だと思うよ」
 でも、と彼は続ける。
「でも、彼女は色んな仮面を持っているからね。君が思い浮かべている彼女と私が思い浮かべている彼女とでは少し誤差が生じているかも分からないね。君が思い浮かべている彼女がもし、大多数に向けられている、純粋な彼女の面なら私とは違う。だが、君が怪我無しで、保健室に訪れている時点でその可能性は無いだろう。
 だからもう少し深く。誤差の範囲内での違い。アウトローだとしても、それが指先か足先か。まあ、浮かべている人物が同一なのだから、答えに間違いは無いだろうね」
 彼が喋り終えたのと同時に保健室のドアが勢い良くバンと開いた。その瞬間に俺はああ、来たなと妙に安堵するのだった。
「角砂糖さん、何にも云わないで出て行ってすみません。漫画持って来ました」
 病室で見せたそれに似たような紙の束を持って少女は現れた。
 委員長だ。
 目が合うと、
 あれ、森崎君。今日は呼んでないけど。と、そんな事を云い、不思議そうに彼女は俺を覗く。
「彼女、瞭野君で合っているかい、森崎君?」
 横やりに花藤が話しかけてきた。
 俺がそれに対し、頷くと、
「そうか。なら私達は似たような『者』だ」
 そう云うと彼は、静かに笑みを浮かべパイプ椅子を閉じた。
 似たもの同士という事か。
「え、何? 私がどうかしたの?」
 状況を把握できていない彼女が何だかヒステリックに俺に訊く。それは、あまり視せたことのない委員長の「仮面」だった。
「あ、まあ、次に誰が来るかって予想してたんだよ。それで俺も花藤さんも委員長だって」
 半分本当で、半分嘘だ。
「ふうん」
 委員長は鼻を鳴らし、後ろ手でドアを閉める。
 彼女が納得したようで俺は心底良かった。
 さっきの話し、全部云ったらまた別の良くない仮面が出てきそうだからな。
「それで、瞭野君。それが今回のイベントで出品する作品かい?」
「はい、そうです!」
 花藤の問いに彼女は普通の女の子の様にして明るく朗らかにそう返事をして「どうぞ見て下さい」と花藤に手渡す。しかし花藤は、口を真一文字に結び首を横に振った。
「すまない。折角持って来て貰って悪いが。私はショートケーキの苺を一番最後に食べる派の人間なんだ。―――イベントの時まで、その漫画は我慢することにしたよ」
 関係無いが俺はショートケーキの苺は食べられない。アレルギーや好き嫌いではなく、ツカサに取られるからだ。
「そうですかぁ。それじゃ、イベントの時まで楽しみにしていてください!」
「ああ、そうするよ」
 そこでやっと俺が会話に入り込めた。
「なぁ、委員長。イベントって云うのはまさか―――」
「夏コミだけど……どうかしたの森崎君?」
 悪びれる素振りも無く、彼女はそう云い首を傾げた。
 やはり。
 と言う事は。
 俺は悪寒を覚え、恐る恐る指で示す。
「その漫画って、もしかしてBLの……」
「そうよ。BL漫画だけど」
 そこで俺は呆気にとられた。そして彼、花藤と名乗っていた男に対して、睨むまでは行かないまでも、冷たい視線を浴びせた。
「花藤さん、そう言う趣味だったんですか」
 訊くと、
「そう言う趣味とは、どういうことかな?」
 彼の発言には滑らかな印象を受ける。
「そう言うって、ボーイズラブの……」
 そこまで云って彼は理解したらしく、手を叩き俺が滑稽だと云わんばかりに大笑いをした。
「何か変な事を云いましたか? 俺」
「いやいや、君がそう訊きたいのは良くわかっているんだが。どうしてもボーイズラブという単語を男子高校生から訊いてしまうとね、笑ってしまうんだ。すまない、悪くは思わないでくれ」
 彼は呼吸を整えると、顎の辺りを触りながら、
「そうだね、答えると、趣味というわけでは無いんだ。ただ一種の娯楽として、面白いから好き、そんな雰囲気かな。でも、勘違いはしないでくれ私は妻子持ちだ。現実でそう言う趣味では無いんだ」
「そうなんですか。わかりました……」
「理解して貰えて嬉しいよ」
 実を言うと、全く理解出来なかった。
 てか、この人、変人だ!
 その時、思い出したかのように今度は委員長が手を叩き、俺に話しかけた。
「そうだ、森崎君にまだ角砂糖さんの紹介してなかったよね」
「いや、紹介ならさっきして貰ったよ。花藤榮司さん。心理学者をやっているって事も、ついさっき」
「そうじゃ無くてね、森崎君にはまだ『角砂糖さん』としての紹介はまだしてないの」
「ああ、私はまだそちらの説明はしていなかったね」
 花藤はそう云うと、コーヒーをまた口に含む。
 角砂糖さん、としての説明? 一体どういうことだ?
 疑問に思っていると、委員長が普段以上にテンション高く話し出す。
「こちらの花藤さん、表向きの顔は心理学者ですごく偉い人なんだけど、裏ではハンドルネーム角砂糖さんと云って―――」
 次の台詞で俺は酷く怯えることになった。
「私達のサークルの管理人さんで、森崎君兄弟のメイド服を製作してくれた張本人なんだよ!」

     

 メイド服を作った張本人だと!?
 俺は身体を捩り、花藤に顔を向ける。
 おいおい、本当に変人じゃないか。
「それは本当なんですか、花藤さん?」
「ああ、そうだ。そうだとも。瞭野君が云うとおり、私が制作者だ。―――と云っても、半分間違いなんだよ。私は確かに制作者ではあるが、そうだな、関係者と云った方が適切なのかも知れないな」
 そんな流暢に話されても、花藤、アンタは変人だ。
「私はただ、ミシンなどで彼女のイメージを具現化させただけに過ぎないんだ。それに、生地を選択したのも彼女だったしね。私が関わったのは裁縫と客観的な意見、本当にそれだけなのだよ、それと、ここでの彼女は瞭野君を指し示している物では無いよ。分からないが、多分、森崎君が出逢った事のない人物だろうからね」
「出逢ったことの無い、人ですか」
 花藤は頭を掻き、さっき閉じたばかりのパイプ椅子を徐に開いた。また坐るなら閉じなければ良いのにな。
「瞭野君、君も直接は逢っていないだろう」
「はい。名前は訊いて憶えてはいますが、まだ逢ったことは無いです」
 委員長も逢っていない人物か。
 男だろうか、女だろうか。まあ、この人と同等の変人に代わりは無いだろうから、俺はあまり関わらないようにしよう。
「このままで行くと、次の夏コミが初対面になりますね」
 委員長が云い終わるのと同時に、花藤はコーヒーカップに手を伸ばし、一度口を付けてから頷いた。
「そうか。―――なら、その予定は崩れるだろうね」
「どういうことですか、花藤さん!?」
 もう少し言い方があるだろうに、と俺は思った。花藤も心理学者の端くれならそれぐらい分かるだろうに。
「何か重要な用事でも出来ちゃったのかな。あの人、忙しそうだし考えられるかも……あああ……そんなぁ……チヒロさん、当日、来られないなんて、折角良い漫画書いたのに―――」
 言葉を遮る様に花藤は掌を委員長に向ける。
 STOPと云う意味だろう。
 それより、チヒロと云うのが、彼もしくは彼女の、その所謂ハンドルネーム? とか云う奴なのか。
「瞭野君。君の悪いところが出てしまったね。良いかい、人の話は最後まで訊く。相手が年長者の場合は得に、ね。それに私はまだ、その予定は崩れるとは云ったが、悪い方向になんて一言も云ってはいないだろう? 早とちりと、知ったかぶり程、愚かな物はないよ」
 花藤の言葉に対し、委員長がすみませんと申し訳無さそうに頭を垂れた。
 凄い。
 あの委員長に謝罪をさせられるなんて、それは凄い事だ。でも、その能力を得る代償があんな変人にはなる事だったら俺は断るけどな。一種のアンビバレンツだ。
「まあ、こちらの言い方も悪かった。すまない。予定が崩れるとは云ったが、それは先程の会話で察せられる様に良い方向の話しだよ。まあ、私からのささやかなプレゼント、サプライズの類とでも思ってくれ」
 サプライズ? プレゼント?
 何だか掴めないな。
「どういう事ですか? 花藤さん」
 訊くと、彼は腕時計で時刻を確認し、「そろそろか」と一言だけ漏らす。
 そろそろかって、もしかして呼んでいるって事か?
「そろそろって花藤さん、もしかして呼んでいる……って事ですか?」
 恐る恐る委員長はそう訊く。
「まあね。と言っても、―――その前に、そんな決まりが悪い様な顔をしないでくれ、瞭野君。そうか、プレゼント、サプライズと表現したことによって齟齬が生じている様だね。重ねて、すまない。だが、私の差し金という訳では無いのだから、そんな潤んだ瞳で睨まれてもね」
 見ると、委員長の頬はヤケに赤く、瞳は水分を帯びていた。
 まるで女の子の様な表情じゃないか。
「花藤さん、来るなら来るって云って下さいよー! 本当にもうっ!」
 怒鳴る委員長。本当に女の子だ。いや、本当に女の子なのだけど。
「いや、今日はすまないね。だが理解してくれ、私も今朝、携帯に連絡があったんだ。でも、少々不幸な事故が起きたんだ。そうでなければ、瞭野君にも一言伝えようと言うことは最重要課題だったんだよ」
「不幸な事故?」
 そう、不幸な事故。
 花藤は委員長の言葉に続けてそう云い、コーヒーカップを置くと、手をポケットに忍ばせ、何かを取り出す。出てきたのは……何だか良くわからないものだった。それは形状を留めていない、何だか細かい部品や捻子が入り組んでいる辺りを見ると、小型のゲーム機か何かだろうか。
「何ですか、それ?」
 堪らず俺が訊いた。
 花藤は長い溜息を吐き、「全く残念でならないよ」と憂いた。
「これは、私の携帯さ。ここへ向かう途中に轢き逃げにあってね、かわいそうに。もうぼろぼろじゃないか」
 轢き逃げって。
 何をしていたら携帯が轢き逃げされるんだか。
「それで、私に連絡出来なかったんですか……」
 そこで委員長が悲しそうに目を伏せた。
 何だか、五月の何時だかに同じような仮面を見た気がする。
「全くすまなかったね。それで瞭野君、訊きたいんだが、もし私が君に事前にこのことを伝えて居たら君はどうするつもりだったんだね。先程の怒りっぷりを見る限りでは君、何だか飛んでも無いことを企画しようとしている様に見えたんだが」
「そうですよ……花藤さん。来ることを今日の朝にでも訊いていたら、私、メイド服とかナースとかチャイナドレスとかで登校していたのに……」
 迷惑だ、やめてくれ。
 それとこれ以上、面倒と被害者を増加させないでくれ委員長。
「ハッハッハ、如何せん私はまだ瞭野君のナースは見たことが無いから想像は出来ないが、愉快で良いね高校というものは、叶うなら若返って君たちと同じこの高校に通ってみたい物だよ。―――無理な話だがね」
 断じて高校はそんな場所じゃない!
 それに、まだ瞭野君のナースはってことはもう上記の二つは拝んだのかよ。そういう所だけは羨ましいんね、全く。
 その時だった。ドアに埋め込まれている磨りガラスに影が映り込んだ様なので俺は顔のみを動かし、それを覗いた。写った影から身長の低さが伺えた為、ナユでもやって来たのかと思ったが。
「来たようだね、チヒロ・ヒナタ君」 
 と言う、花藤の一言によりその影は全くナユとは似つかない物に俺の瞳に映った。
 チヒロ・ヒナタ。
 花藤が呼んだ人物だ。

     

 その小柄な影はノックを二度程し、ガチャリとドアを開け保健室に入ってきた。
 俺の想像とは裏腹に、影の正体は少女だった。髪型は短いボブ、肌の色は委員長に負けず劣らず真っ白で、瞳は二重で大きく、しかし似合わない黒を持っている。色の事ではなく、過去の傷を背負っているような。光のない瞳と表現すれば伝わるだろうか。年齢は俺等と同じぐらい。痩せ形で、ここでは見慣れない他校の制服を着ているのだがサイズが大きいのか袖がかなり余ってしまって手が全く見えない。邪魔にならないのだろうか。
「こんにちは」
 中々綺麗な声をしている。中性的というのか、分からないが。少年の様な声の持ち主だった。  
 まあ、一通り説明したところで悪いのだが、俺が一番に注目した点はそれらでは無かった。俺が注目したのは、その目だ。見えている方の目ではない。
 眼帯の方だ。
 チヒロ・ヒナタと言う名の少女は、左目が不自由なのか、ただ単に怪我をしているのか、もしや何かのコスプレなのか、真意は不明だが左目にガーゼの眼帯を当てていた。両耳にかけるタイプの眼帯で長らく使っているのか酷く薄汚れていて、それでは逆に目に悪いのでは無いかと心配させられる。
 そこで、委員長が瞳を輝かせた。
「こ、こんにちは貴方が、チヒロさんですか?」
「ええ、私がチヒロヒナタです。初めまして」
「何時も、メイド服を製作して頂き、ありがとうございます!」 
「いえいえ、飛んでも無いです。それに私だけじゃなくて、そこの花藤さんにもかなり手伝って貰っていますから」
 すかさず、花藤がいやいやと遠慮がちに手を振る。内心ほっとした。彼が奥深くまで関わっていた、それもメイド服を着ていたと思うと、何だか無性に嫌な気分になる。
「えっと、それで……貴方はどちら様ですか?」
 元々ナユサイズの為、委員長が傍にいるだけで、酷くチヒロが小さく見えた。
 小動物で例えるなら彼女もナユと同じ栗鼠だな。
「わかりませんか? 私ですよ、私!」
 委員長はそう云うと、自分の顔を指で示す。
 初対面だから、分からないだろって云いたいね。
 チヒロは顎に手を添え、少々考える素振りを見せると、急に思いついたように「あ」と声を上げた。ああ、可愛らしい声だ。
 もしかして、これが萌えとか云う奴なのだろうか。
「もしかして、ねこみみデストラップさんですか?」
 は?
 委員長が声を大にして、
「正解です!」
 猫耳デストラップ。委員長のハンドルネームの様だったが、流石にヤバイだろ。色々な意味で。ネーミングセンスがどうと言う話しでは無い。ただおかしい。この後に委員長から直接聞いた情報によると、正しい表記は猫耳Deathtrapだそうで、猫耳は漢字表記、DeathtrapはDが大文字で、それ以外が小文字らしいって、何を説明しているんだろうね俺は。
「初めましてチヒロさん。私が猫耳Deathtrapこと、瞭野蒼です」
 委員長が改めて自己紹介をすると、チヒロは見る見るうちに瞳の色を変え頬を染めた。玩具を買い与えられた子どもの様だ。最初からそうしていれば、美少女で済むのにな。まあ、先程と比べ、どれぐらい明るくなったかと云うとだな、「猫耳さぁん! 逢いたかったよぉ~!」なんとか云って委員長に抱きついて、その豊満な胸に顔を摺り摺りするぐらいだ。遠目から見れば親子に見えなくとも無い感じで、和気藹々。彼女が見知っている人物だからそうなったとは思うがしかしだな、それはそれは、いきなりの事だったので彼女の反応に俺は驚いた。そして委員長のグラマラスなその胸が四方八方にぽよん、ぽよんと揺れるのをただ眺めるのもどうかと思うと、必然的に目のやり場が無くなり、気が付くと俺はそろそろと身体を花藤の方へとに向けていた。
 意気地無しとでも呼んでくれ。
 俺は紳士失格だ。だが、失格したのは俺だけでは無い。
 花藤だ。
 花藤は、そんな彼女達を気にせず中空に焦点を結び度々コーヒーに口を付けて、一見ニヒルな雰囲気を醸し出している様に見えたが、観察していると、ちらちらと視線が横に動いていた。
 オッサン、見るならしっかり見なさいな。
「猫耳さん。逢えて本当に嬉しいです」
「私も嬉しいです、チヒロさん」
「それで、彼はもしかして例の森崎君ですか?」
 突拍子もなく名前が出たため、俺はもの凄い勢いでチヒロの方へ顔を向けた。チヒロは俺を一瞥し、コクリと頭を下げ、また委員長に目を戻す。
 委員長が俺の事を話したのか?
「え、ええ。そうね、彼が森崎輝之君。ツカサ君のお兄さんよ」
「あ、よろしく。チヒロさんだったけ……?」
「はい、チヒロヒナタです。はじめまして」
 差し出されたチヒロの手に、反射的に俺も手を出し握手を交わした。彼女の掌はメレンゲの様に柔らかく暖かかった。温もりとかって云う奴だな。本当に微笑まれたら天使と勘違いしてしまいそうだ。もう花藤との握手とは大違いだ。
 そこで、花藤がコーヒーを飲み終えたのか会話に参加してきた。
「それでチヒロ君、今日君が遠出してまで伝えたかった事とは何なのかな。今朝の連絡では、ここに着いてから全てを話すとか何とか云っていたが……そろそろ話して貰えないかな」
「はい。花藤さん。そのつもりで居ます」
 チヒロは「皆さん訊いて下さい」と前置きをし、
「今日、私がここまで来たのは、ほかでもないです。次の夏コミの事です」
 やっぱりな、と俺は何故だか心の中で頷いていた。
「それで、次の夏コミで何かあるんですか?」
 委員長が口を挟む。
 花藤もパイプ椅子から立ち上がり数歩歩き、彼女を真剣な眼差しで見下ろす。
「実は、次の夏コミで私達は漫画をどちらが先に完売させるか、と言う勝負をすることになってしまったの」
 勝負? 完売を競う?
 疑問に思っていると「勝負か……」と花藤が疲れ切ったような溜息を交え、そう云った。
「はい」
 チヒロも入ってきた当初の様な重苦しい表情を浮かべ、眉根を顰めていた。
 その二人の顔を見ただけで、何となくだが俺も察しがついた。多分、その勝負こちらにほぼ勝ち目がない、云ってしまえば負け戦のような物なのだろうと。
 沈黙。
「……それで、その相手のサークル名は分かってるんですか?」
 委員長の問いに、チヒロは小さく頭を揺らし肯定した。
 そして、微かに唇を動かし、
「相手は同人サークル『アリスの眼(まなこ)』です」
 と、云った。
 アリスの眼?

     

 アリスの眼とは同人誌即売会内では超有名な部類に入る同人サークルの名前だそうで、その勢いはまさに飛ぶ鳥を落とすと云った所らしい。結成は一昨年の事で、当初メンバーは五人だった(今は一人が抜け四人体勢らしい)が、その同人誌? とやらのクオリティーの異常なまでの高さでネット上で火が点き、根強いファンを何人も獲得している。何でも、最近では企業参加をしていた某社よりも多い部数を販売開始十分も経たないうちに完売させ現在進行形で注目度と知名度をぐんぐん増加させているそうだ。……全て俺の情報ではなく、チヒロの受け売りなのだがな。
 まあ、委員長や花藤の顔色を見れば、それがいかに無謀な戦いか悟っては居たが、今のチヒロの台詞によりそれは確信へと変えざろう得なかった。
 無理だな。俺が思い以上に皆思っていることだろう。
 しかし、ここでちょっとした問題が発生したのだった。
「それで、どうしてチヒロはアリスの眼を抜けようと思って、そして抜けたんだ? そんなに人気ならそのまま続けていればチヒロだって悪い思いはしないはずだろう?」 
 そう、その結成当初から属し、最近になって脱退したメンバーとはチヒロヒナタだったのだ。
 訊くと、チヒロは俯き、泣きそうになってしまった。ああ、気をつけてなるべく傷つかない様に云ったつもりだったんだけどな。
「こら! 森崎君、もう少しビブラートに包まなきゃダメじゃない!」
 そこはオブラートだろ委員長。それと俺の頭を平手で殴るな。
「全く、森崎君。君は心理学の道へ入るべきだ。そして私のように相手の立場を考えて言葉を選択し誰も傷つけず、尚且つ上手く用件を訊き出す会話法を学んだ方が良い」
 背後から、花藤の嗄れた声が訊こえた。
 お節介だ。それに心理学を学んだ結果がアンタみたいになるなら、俺は独学で会話術を勉強するんだがな。
「すみません、うちの森崎が」
 幼子の代わりに謝罪をする母の様に委員長は俺の頭をガッと掴み、思いっきり下へと向ける。とにかく痛い。
 と言うより、俺は委員長の私物では無い!
「いえ、良いんです。森崎君の云うことはもっともの事ですから」 
 零れそうになる泪をぐっと堪え、チヒロは静かな口調で語り出した。

 
 *
 

 どうやら、事の顛末は七月の初めだったらしい。チヒロは今回の夏コミのために新作の漫画の構想を練り、アリスの眼の責任者でありリーダーの朱谷(しゅや)と言う男にその概要を説明する為に最寄りの喫茶店に呼んだそうだ。先にチヒロが待っていると後から、朱谷が訪れ、それからすぐに、主人公やヒロインの風貌の話しになったらしい。しかし、話し始めてから二分も経たないうちに朱谷は尋常でないまでに逆上し店内にお客が数名居るのにも関わらず、チヒロを大声で罵倒したと言う物だった。云っては悪いが俺もその朱谷というのと手を切って正解だと思う。女子を大声でそれも人前で罵倒するだなんて、少し常軌を逸している。
「話した場所は何時も待ち合わせに使うカフェだったんだけど、朱谷君の怒鳴り声でお客さんもお店の人も、びっくりしちゃって、普段仲の良かったマスターさんにも、悪いけど出て行ってくれって云われて……」
 話しの途中だが、チヒロは過去と決別するように深く長い溜息を一つ。
 その間に、
「なにその酷い男! 夏コミの会場に行ったら殴ってあげるんだから!」と委員長。まあ、今回ばかりは委員長の傍若無人に賛同しよう。
 だが、意外にも、
「いえ、それはやめてください……」
 チヒロは、申し訳無さそうに小声でそう云った。
「どうしてよ? チヒロさん、そんなに酷いこと云われて悔しくも何ともないの?」
「それは、悔しいけど……でも、普段はそう言う人じゃ無いんです、朱谷君」
 普段はそう言う人じゃ無い、と言う所に俺は何故か引っ掛かった。
「ちょっと訊いて良いかな?」
 俺の問いに彼女はコクリと頷き、許可した。
「別段、大した質問じゃ無いんだけど、その朱谷って云う奴は普段はどう言う性格の奴なんだ?」
 普段とは違う、と言う事は普段は大人しめの男なのか?
「朱谷君は、いっつも笑っている様な明るくて気さくな人で、誰にでも優しいし、ミスをしても絶対に他人を責めるような人では無いんです。そんな人があんな酷いことを大声で、それに大勢の人の前で……だから信じられなくて―――多分、あの日何かあったと思うんです。待ち合わせの時間に二十分も遅れるのも普段の彼ならありえないことです……」
 うーん、何なんだろうな。
 何かがあったとしても、何があったのか。その場に居たわけではないし、その朱谷という奴にもあったことがないから、どうにもならないな。
「それで、その日だけだったのか、朱谷の異常な行動は」
「いいえ、逆にその日を境にと言う雰囲気でした。私の案がいけなかったんだと思って、謝ったりもしたんですけど彼はずっと……私を……無視し続けて……」
 チヒロはそこで泪で声が発せられなくなり、糸の切れたマリオネットの動きで、床へと落下した。慌てて委員長が「大丈夫?」と声をかけるが、何処か過呼吸気味で返答もままならない。その状態を見て委員長が、チヒロに気付かれないように、俺に睨みを利かせた。泣かせたな! 後で憶えてらっしゃい! 多分、そんな意味合いだろう。
 しかし、ここで退くとさらに事が難航すると感じ、俺はひるまず踏み込んで話しを持ち直す。
「それで耐えきれなくなって、脱退したのか?」 
 否定。
 チヒロは良く見ないとわからないぐらいに微かに首を横に振って「違うんです」とささめく。
「違うんです。私、追い出されたんです、アリスの眼から……」



     

「追い出されたって、どういうことだ?」
 訊くと、チヒロは委員長の手を借りてフラリと立ち上がる。何だか先程よりも顔色が青くみえるのはプラセボ効果か何かなのか。……多分違うな。本当に具合が悪いんだろう。
 大丈夫か?
「うん、大丈夫……」
 チヒロはきっかり立ち上がると、まだ水分の多い瞳で俺をじっと見た。花藤と似たような観察的なそんな見方だ。
「……私達の公式ホームページには私、チヒロヒナタは七月を持って脱退、尚次回の夏コミには不参加と描かれていますが……おれは真っ赤な嘘なんです」
「真っ赤な嘘、と言うと?」
「私は朱谷君に脱退命令を出されて、アリスの眼から身を退いたの」
 脱退命令、そう彼女は云った。
 俺は次に、その脱退命令は一体どう言う具体的にどういう様な命令だったのか? と訊きたかったが、丁度良く委員長に太ももの裏をつねられたので「うっ」と代わりに唸り声を上げてしまった。
「森崎君、これ以上訊くのは酷よ、さっきの姿見てなかったの? 彼女は精神的にもうボロボロよ」
 委員長はそう、俺に耳打ちをする。が、それぐらいのことは分かっていたのであえてスルーをして、喉に詰まっていた言葉を云おうといた。しかし、そのコンマ二秒手前、次に飛んできた委員長の台詞に思わず俺は腰を抜かしそうになった。
「きっとチヒロさんは、その朱谷君の事が好きなのよ」
 マジか。と言うか委員長、正気か。
 確かに、チヒロ自体、彼の事はかなり買っていたようだが……、本当にそうなのかよ、委員長。だが歴とした理由を述べない限り俺は信じないぞ。女の勘とかは論外だ。
「どうして、委員長にそこまでわかるんだよ」
 チヒロに訊こえないよう、声のトーンをかなり下げる。
 訊かれたら偉いことだからな。
「そりゃ、女の子だからに決まってるでしょ」
 やっぱりな。出たよ、女の勘。
「女の子だったらそういうのが全部分かるのかよ」
「分かるわよ。それにもう少し詳しく云うと、まだ彼女は朱谷君の事が好きなんだと思う」
「それは無いだろ」
「だって彼女云っていたでしょう? 普段はあんな人じゃ無いのにって」
「ああ、云ってたな」
「だからよ」
 意味が分からん。
「だからよって云われてもなぁ。理由がそれだけじゃ弱過ぎだろ」
「女心がわかってないなー、森崎君は」
 俺は男だからな。
「好きでも何でも無かったら、脱退させられたサークルの勝負なんて受けないでしょう?」
「いや、そうとは限らないだろう。言い方は悪いが、復讐みたいな事もありえるんじゃないか? だって、描いた漫画を人前で罵られて挙げ句の果てに無理矢理に脱退までさせられたんだぜ。俺だったら復讐に狂っても可笑しくはないと思うんだが」
「やっぱりわかってないね、森崎君。チヒロさんにそんなエグい事出来ると思うの? 見てみなさいよ、あの可愛らしい小動物の様なチヒロさんを。あんな子にそんな事は出来ないわよ」
 どっと疲れた。
「そんなものなのか?」
「そうよ。だからやっぱりチヒロさんは朱谷君の事が好きで、何かの切っ掛けでまたアリスの眼に戻ろうとして、それで勝負を―――」
 委員長の言葉を遮ったのは俺では無い。
「違いますよ」
 割り込んだのは少々頬を紅く染めたチヒロだった。
 うわ、最悪だ。
 どうやら、俺達のささめきことは、ささめきことの域を超えどうやら普通の会話と化していたらしい。どこからかは分からないが、まあ、一つ確かなのはチヒロが朱谷の事を好きでは無いのかと俺と委員長で議論していた所は全て訊かれて居たと言う事だった。
 ああ、委員長何故俺に話しかけたんだ。危うく俺の死因が馬に蹴られた為の急性ショック死になってしまう所だった。いや、これは意味が違うか。
 しかし、
「実を言うと、私は朱谷君の事が好きでした」早口で云うチヒロ。
 マジでかよ。
 ここぞと云わんばかりに委員長が「ほら!」と俺の背中を平手でバチンと叩く。痛いな、おい。
「でも、今は違います」
「違います?」
 今度は、打って変わってびっくりしたように委員長が訊き返す。声も裏返っている辺り、本当に予想外だったのだろう。と言うか、叩いたり口開けたり、忙しい女だなぁ。 
「そう。今は違う」
 酷く、冷たい印象を受けた。
「今はお互い敵同士なの」 
 だから、と彼女は続ける。
「―――だから、私も本気でアリスの眼に勝ちに行こうと思ってるの」
 勝ちに行こう。その言葉が何処かそれを望んでいない様な響きに聞えたのは、俺だけか。何となく、彼女には迷いが見えるような見えないような。後で花藤にでも訊くか。
「これを見て」
 チヒロはそう云うと、床に倒れていた私物のバッグから、おもむろに罫線の入ったA4サイズの紙を数枚取り出し、それを何枚かに分けて委員長、俺、花藤の順に配った。
 紙には、何だか走り書きのイラストや、枠が……、漫画かこれは。
「これって……」
 貰い受けて、すぐに目を落とした委員長がびっくりしたように声を洩らした。続いて背後にいた花藤も「これは……」と意味ありげに呟く。
 反応が気になり、俺もその紙に再度目を落とす。でも、やはりと云うべきか描かれていたのは、漫画のネームみたいな物だ。主人公と思わしき人物が、ヒロインに何かを話しかけている、そんなシーンだ。これの何処が変なのだろう。もしかしたら、委員長と花藤のだけが可笑しいのでは無いか。
 それは違った。
 一枚目を捲ってやっと俺は気付く。
 二枚目の右隅の辺り、何故か、そこだけが茶色くシミのようになっていたのだ。何だかコーヒーでも零したような……。でも、そんなことそんなに変ではないだろう。飲んでいて零した、ただそれだけじゃ―――。
 ……まさか。
 急いで俺は訊く。
「もしかして、この原稿……」
「うん、その通り」
 チヒロは縦に首を振った。
 その通りって、俺の想像だと……。
「そのネームは、アリスの眼名義で次の夏コミに出そうと思って構想を練った作品」
 そして、私達の代表作になる物。
 チヒロは、そう云い唇に微かに笑みを含んだ。―――ように俺には見えた。
 全く女は怖い、ホントに。

       

表紙

夏目銀一 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha