Neetel Inside ニートノベル
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 伊藤月子は、わけがわからないまま塔から降り続けた。

 途中から階数を数えることを諦め、進んでは休み、進んでは休みを繰り返し、時には心が折れかかりうずくまってしまったこともがあった。
 けれど大切な恋人、そしてタイムトラベラーの友人を思い出し、どうにか自分を震え立たせ、やっと、ようやく、そのフロアに降り立った。

 そこには“救世主”がいた。

「一日千秋の想いとは、まさにこのこと」

“救世主”はどこか演技がかった口調で伊藤月子に語りかけた。

 ここはすでに1階。“救世主”はあえてモンスターやトラップを配置せず、無傷で伊藤月子を降ろしていた。
 理由は2つ。まず、モンスター討伐によるレベルアップを防ぎたかったのだ。負ける気はさらさらないものの、“救世主”は念には念を入れておきたかったからだ。
 そして残りの1つが、伊藤月子を殺すのは唯一自分だけ、という奇妙な独占欲。処女性を重んじる思想と似ていなくもないが、やはり少し、奇妙。
(結果だけで言えば“救世主”は伊藤月子の命を何度か救っていることになる。レベル1の超能力者ではこの塔をクリアすることは無理ゲーだからだ)

「ほんまに、どれぐらい待ったんやろか……もう思い出せへんぐらいや」
「あの、あなたは……?」
「忘れたとは言わせへんで。よくもまぁ、ウチをこっぴどく裏切ってくれたもんやなぁ」

(……ぜんぜん知らないし。年下……だよね? 見覚えのない顔だなー……)

 と、伊藤月子が困惑するのも無理はない。やさしい塔の伊藤月子と、ここにいる伊藤月子はまったくの別人だからだ(皆さんのよく知る伊藤月子が後者)。

(誰かと勘違いしてる? そんなに私と似てるのかな……?
 逆恨みもいいところだけど、この子は……)

 伊藤月子は勘違い女(“救世主”のことをそう呼ぶことにした)に出会ってから、ずっと警戒を解いていなかった。
 単なる人間ではないとすぐ気づいた。もしかしたら人間というくくりには入らない、別次元の生物かもしれない、そんなファンタジーめいたことを思った。
 表情や声のトーンから伝わる感情は実に友好的なものだ。今すぐにでも友人になっていっしょにお風呂に入れそうなほど、明るくて懐っこい、魅力的な少女に見えた。
 けれどテレパシーを使ったことでわかる、勘違い女の心中。殺気、憎悪、憤怒……それらがグチャグチャに混ざり洪水のように押し寄せ、ひさしぶりに吐き気を催してしまった。

 伊藤月子はこの塔に来てから、ずっと懸念していることがあった。良くも悪くも特技である超能力のコンディションがいまひとつなのだ。
 質も精度も全盛期と比べると十万分の1ほどで、もし勘違い女が危害を加えようと襲いかかってきたとしても、身を守る自信がなかった。

「ん? まだ知らんフリするんかいな。そろそろイラってしてきたで?」

 なので穏便に事を済ませたいと思っていたのだが、それはどうにも無理に思えた。

(誤解を解く……のは、難しいだろうし、テレポートか、念動力で押さえつけて逃げる、どっちかかな)

「知らんふり続けるんやったら、同じことさせたるからな」

 まるで手品のように、“救世主”の右手に短剣が現れた。

「最初は、これやったな」

 まばたき以上の速度で、あっという間に詰め寄って伊藤月子の腹に突き刺した。

「は、ぁ?」

 一瞬の出来事に伊藤月子の理解が追いついていない。だが痛覚すら届いていない頭は、腹に短剣が刺さっていることだけは認識しているようだった。

“救世主”は刺さった短剣をぐるりと時計方向に捻り、それを引き抜き――

「回復(ヒーリング)」

 伊藤月子は短剣を刺される前と何ら変わりがなかった。傷もなければ痛みもない。だが“救世主”が握る、べっとりと血のついた短剣が幻覚でもなんでもない、『刺された』ということが事実だと証明していた。

「はっ、ハッ、ハッ、ハッ、はっ……」

 伊藤月子は過呼吸気味に息を鳴らしていた。
 まるで目を閉じるように、自然な状態で刺してきた。そしてショック死、体力出血、どちらが早いかわからないが間違いなく死ぬ、その寸前で助けられた。

「どお? 思い出した?」

 ニコリと、屈託のない笑みを見て伊藤月子は確信する。

 こいつは、異常だ。
 しかも重度の。

「ごめんなさい……あなたのこと、本当に、知らないの……」
「次はアレやっけ? 蟲の産卵。でもこればっかりはできひんしなぁ。魔法で生命生み出すのは禁忌やし」

“救世主”は伊藤月子の左手をつかんだ。伊藤月子はその凄まじい握力を振り払えず、刺された動揺、パニックが続いていて超能力を使うこともできない。

「綺麗なお手々やなぁー。小さくって、すべすべしてて……この爪なんて、すごくキラキラしてる」
「離して、痛いっ!」
「知らんぷりする悪い子は、ちょぉっとお灸を据えんとあかんよなぁ」

“救世主”は、伊藤月子の薬指の爪をつまんだ。

「ちょ、ちょっと……!」

 これから起こることがわかってしまい、伊藤月子は顔を青くする。
 普通なら「そんなことするはずがない」と高をくくれるようなことも、目の前の相手なら平気で行うからだ。

「なーに、まだ一枚目や。せーの」


 ――ベリッ


「ぎっ」

 爪が、剥がれた。あいかわらず状況だけは冷静に見ることができた。

「ぎゃああああああっ!」

 先ほどとは違い、痛みは指から脳内へ一気に駆け抜ける。
 なんとも汚い声で叫び泣き喚く伊藤月子。常々超能力で身を守ってきた伊藤月子には耐え難い激痛、倒れてしまいそうになったが、腕をつかむ“救世主”がそれを許さない。
“救世主”は剥がした爪をまじまじと見て、それを口の中に放り込んだ。
 ポリ、ポリ。何度か咀嚼したのち、顔を渋くして床に吐き出した。

「見た目はスライスアーモンドなのに不味いこと不味いこと。食欲失せてもうたわ」

(イカれてる……狂ってる!)

 今は遊ばれているだけで、その気になれば呆気無く殺される。

(もう、やるしか……)

 伊藤月子は自らがずっと封じ込めていた、『ある目的』のために超能力を使う覚悟を決めた。

 ミシッ

「お?」

“救世主”は首に違和感を覚えた。
 締まる。荒縄をグルグルに巻かれたように、締まっていく。それも、凄まじい力で!

「なんだ、これ……え、うええええエエエエ」

 首を締める正体、それは伊藤月子の念動力。
 超能力で命を奪う。これこそが、伊藤月子がずっと禁じていた超能力の用途だった。

「おおお、グオオオ、オ」

 締めるだけでなく、ねじ切って確実に息の根を止めようとしていた。“救世主”はたまらず伊藤月子の手を離し、両手で頭を抑えた。伊藤月子は“救世主”から距離を取りながらも、睨んだまま念動力を発し続ける。

 見えない一進一退の攻防。それは程なくして決着がついた。

「そんな……なんで……」

 伊藤月子は力尽きたように、床に崩れ落ちる。“救世主”はというと、首筋がひどくうっ血していたがニタニタと笑うほどの余裕はあるようだった。

「いやぁ、危なかった。あとちょっと、ほんのちょっとだったのになぁ。紙一重だぁ……何キロメートルぐらいあるかなぁ、この紙一重」

 楽しそうに、愉快だと言わんばかりに、伊藤月子を見下ろす“救世主”。伊藤月子はそれを睨み返す体力さえなかった。
 せめて全盛期で千分の1でもあれば――と、伊藤月子は思ってしまう。

「なあ、起きろよ」
「い゛、いたいっ!」

 黒髪をぐいっと引っ掴み、“救世主”は伊藤月子を引き起こした。ぶちぶちと痛々しい音が聞こえるが、気にするはずもない。
 伊藤月子はたまらず、震える脚でどうにか立ち上がった。

「お前、もっとその気になれや。でないと張り合いないやろぉ?」
「どうして、こんなこと……!」
「だーかーらー、あのときの復讐やん」

 会話も成立しない。
 超能力も通じない。

 なら。


 ――べちっ


「あたっ」

 逃げるしかない。

 伊藤月子が振り払った平手は“救世主”の顔面に当たった。
 ダメージはなかったものの“救世主”は反射的に目を閉じてしまった。その瞬間、髪を掴んでいた手がふっと軽くなった。

「……ん?」

 残っていたのは一束の黒髪。伊藤月子はどこかへ消えていた。

「そうか、逃げたか」

 自ら髪を切って、逃げた(おそらくテレポートで)。髪とはいえ、かなり捨て身の逃走だ。

「それぐらい頑張ってもらわないとなぁ」

 逃げ場所の目星はついている。ゆっくり、ゆっくり追い詰めよう。そしてその間に処刑方法を考えよう。

“救世主”の笑いは止まらない。

 ・
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「はぁっ……はぁっ……」

 咄嗟にテレポートしたため、床よりやや高い位置に現れてしまいそのまま落下してしまった。幸いケガはなかったが、初心者のようなミスをしてしまうほど焦っていたのだろう。
 もともとテレポートは負担の大きい能力の1つで、床に倒れたまま起き上がれなくなってしまった。

 逃げたい気持ちだけが先行してしまっている。出口がどこにあるかもわからないし、今どこにいるかもわからない。それに勘違い女がどこまで迫っているかさえも……

「はぁ……はぁ……」

 伊藤月子はぐったりと伏せてしまう。ひそかな自慢だった髪を切ってまで逃げたが、そこから先のことを考えていなかった。
 ひとまずは、勘違い女がやってこないことを祈るしかない。


 ――それにしても。


 伊藤月子は、床に散らばる小石がやけに気になった。大小それぞれの石が、そこら中にばらばらと撒き散らされているのだ。
 寝転がっているため、チクチクと肌に食い込んで痛い。

 ふと、目の前にあった小石を握った。


 ――バチンッ


『私は伊藤月子さんを裏切らない』


 静電気が走ったかと思えば、ある光景が脳裏に過ぎった。
 よく知る女性が、身体の半分が石になりながらも勘違い女に啖呵を切る、そんな光景。

 これはサイコメトリー。物体の残留思念を読み取るという能力。
 勝手に発動したことは不思議だったが、そんなことはどうでも良い。伊藤月子は、目に見えた光景の女性に驚きを隠せなかった。

「ホッシーナ……!」

 見覚えのある女性――それは、同じ超能力者のホッシーナだった。
 半身が石化していたホッシーナ、そして散らばった石。それは簡単に結びついた。

「やだ、そんな……」


『これが、私の答えです』


『ほとんどの世界の伊藤月子さんは、とても優しい』


『あの人があなたなんかに負けるはずが』


 触れるたびに光景が再生され、最悪の瞬間――完全に石化し、倒れて砕けてしまうシーン――も見てしまい。伊藤月子は涙を抑えることができなかった。
 やや離れたところに、一際大きな石の塊があった。

 顔。
 顔が転がっている。

「ホッシーナ……」

 小石で身体が傷つくことも忘れ、這って進む。
 石となったホッシーナの首から上が、そこにあった。


 ――バチンッ


『伊藤先輩……できれば、これをサイコメトリーしていないことを祈っています』

 声だけが聞こえていた。おそらく、目を閉じて最期を迎えたのだろう。

『おそらく、私はもう石像になっていることでしょう……もしかしたら、粉々にされているのかもしれません。
 これが遺言になると思うと、とても悲しいです……』

『伊藤先輩。これを見ているとき、あなたはあのバケモノに出会ったと思います。
 あのバケモノは、伊藤先輩に凄まじい憎しみを抱いています』

『もし伊藤先輩が、私と同じように万全の状態でなければ……逃げてください。まだ扉が開いているかわかりませんが、このサイコメトリーを解いて、脱出してください』

『私はダメでしたが……どうか、伊藤先輩だけは……
 ……こんな私のメッセージ、聞いてくれてありがとうございました。
 さようなら、伊藤先輩』

 ここで、声は止まった。
 けれど伊藤月子は手を離さない。

「ウソ。ホッシーナ、ウソついてる」

 伊藤月子が知るホッシーナはこんなしおらしく女性ではない。狡猾で、自分の身体の魅力を理解していて、恋人を横取りしようとする悪女(演技ではあったが)なのだ。
 そんな女が、メソメソと引き下がるはずがない。むしろ別の言葉を残すはずだ。

 サイコメトリーを解かないまま、待った。
 すると、フフッと、ホッシーナの笑い声が続いた。

『伊藤先輩には敵いませんね……さっさと逃げちゃってくださいよ……』
「ダメだよそんなの……私は、ホッシーナの言葉を最後まで聞きたい」
『伊藤先輩……私は、悔しい。あのバケモノにいいようにされて、こんなことになってしまいました……復讐は何も生みません、同じことを考えているだけ、それぐらいのこと、わかります。
 でも、すごく、悔しい』
「私も許せないよ……でも……」

 今のままではどうしようもない。全力の念動力でさえ通じなかった。
 そんな伊藤月子を慰めるように、ホッシーナの言葉は続いた。

『私の時間操作の能力を、少しだけ残しておきました。
 さあ、あのときまで戻りましょう、伊藤先輩』

 ……あのとき?
 伊藤月子はその言葉にピンと来ない。

 ただ、なんとなくわかる。
 ここに来る前の、自分と、恋人と、ホッシーナと、あと誰か1人がいたお話の時だ。

『私の知る伊藤先輩は、ときどき怖くもありましたが、とても優しい人でした。
 あなたは、あんなバケモノになんて負けない。ぜったいに、負けません』



『思い出して』



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 ・

「ここに来るまでに、考えてみた」

 エントランスホールの入口で“救世主”は言った。
 伊藤月子は背を向けたまま、一本の棒のように立ち尽くしていた。

「もしかしたらお前は、ウチの知る伊藤月子じゃないのかもしれない」

 出口は完全に封鎖していた。伊藤月子がここにいることも、“救世主”は最初からわかっていた。
 身体の芯まで恐怖を植えつけたい、そんな歪んだ想いで“救世主”はあえてゆっくり来たのだ。

「もしかしたらお前は、このへんに転がってる石の超能力者が言うように、いいヤツなのかもしれない」

 ぴくりと、伊藤月子の指が動いた。その反応に“救世主”は嬉しさを堪え切れない。

「たとえば、いっしょにご飯を食べたり、遊んだり……そうやなぁ、お風呂とか入ったりしたら楽しいかもしれない。
 案外、すごく仲良くなって良い友達になれるかもしれない」

「――でも、殺す」と、“救世主”は間髪入れずに言う。


「ウチは、どうやってもお前のことが」


 ぷつんっ


「アッ?」

“救世主”の右腕が、鋭利な刃物を使ったように斬れ、落ちた。


 ぶつんっ!


 次は首。あれだけ頑丈だった“救世主”の首が、まるで紙を引き裂くように軽々と宙に浮いた。

「……おいおいおい、おい」

 すぐに復活した“救世主”は問う。その表情は、まるで子供のように無邪気で、どこか残酷だった。

「お前、どうしたんだ? まるで別人のようじゃないか!? それも超能力の1つなのか!?」
「私は、私だよ」


 ぶつんっ!


 また、浮いた。

       

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