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* 僕の塔 *
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* 薄暗いフロア *
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そのフロアに降りた瞬間、伊藤月子は言葉を失ってしまった。
雰囲気があまりに変わりすぎていたからだ。
目を覚ましたあの部屋から出て、もう何階も降りてきた。これまでのフロアは多少迷路になっていたり、握りこぶし大のスライムがうろうろしていたりと、ほとんど散歩をしているような気分だった。
部屋、通路にはランプが煌々と灯って明るく、暑くもなければ寒くもない。風通しも良く、とても住み心地が良さそうな造りになっていた。
そして毎フロアに存在する休憩室。ベッドや食料、替わりの服がたくさん用意されていて、塔の主(伊藤月子は塔の所有者が変わったことを知らない)から向けられている感情が伝わってきた。
顔も知らない塔の主。その相手にますます会いたくなった。
そんなわけで伊藤月子はやや楽しみながら塔を探索していた。
――のだが。
たった今降りてきたフロアは別世界だった。
薄暗く、肌寒い。そしてすえた臭いが漂っている。床には淀んだ水たまりが溜り、不衛生極まりない。
そして透視を使わずともわかる、モンスターたちの気配。いる、そこらじゅうに、ウヨウヨと。
「なによ、ここ……」
かろうじて搾り出したのがこの言葉。
まさかこんなフロアが待っていようとは。今までのフロアは何だったのだろう。上げ落としなのだろうか。
少しずつ塔の主を疑い始めてしまう。が、ワンピースの肌触りを改めて感じ、すぐに疑念を振り払った。
きっと何かがあったのだろう。自分の身の上を案じるよりも塔の主を心配していた。
伊藤月子は目元に力を集中させる。
『透視』
通常では見ることのできない光景を透過し、目視できる超能力。これはここまでのフロアでも使った手段で、迷うことなく階段を見つけることができた。
――が、使用する直前で伊藤月子はそれを解除した。
ここで安易に超能力を使っても良いのだろうか。そう悩んだ。
今までとは違うフロア。何が起きるか、まったく予想ができない。もしかしたら自分の身に危険が迫るかもしれない。そんなとき『透視』で体力が消耗していて『念動力』が使えなかったら――考えるだけ身体がすくんでしまう。
なので超能力は不測の事態に備えて温存。探索ではなく自衛のために使う、そう決めた。
これまでのフロアは塔の主の過保護すぎる配慮があったが、それはもう存在しない。
つまり、ここからが伊藤月子にとって探索の始まりとも言えた。
超能力をいつでも使えるよう気を引き締め、べちゃり、べちゃりと水に濡れ苔が生えた石畳の上を歩く。
前後、左右。ゆっくりと確実に、真っ暗で先の見えない通路を進んでいく。
とても狭い。両手を伸ばせば楽に左右の壁にくっついてしまう。
前後左右。四方しか確認しない伊藤月子は上下への意識がまるでなかった。
ぺちゃり
「ひゃっ」
天井から垂れた雫が頭の上に落ちた。だが正体のわからない伊藤月子がパニックを引き起こすには十分すぎた。
「わぁ、わぁぁぁぁぁっ」
あれだけ慎重に歩いていた通路を駆け出した。視界がまるでない道を走る、走る、走る。
カチッ
そのとき、足元の何かを踏んだ。
「ひ、ひっ、わあぁぁぁぁぁっ!」
叫んでも、もう遅い。すでにトラップは起動してしまった。
バシュ、バシュバシュバシュッ
すぐ両隣の壁から刃が飛び出した。
狭い通路、間隔の狭い両壁から無数の刃が襲いかかるトラップ。明らかな殺意が感じられるトラップに、伊藤月子はかすり傷一つ負うことはなかった。
最初に叫んだ瞬間、無我夢中、目的地も定めないままテレポートしたのだ。
不発に終わった刃のトラップは、静かに壁の中に戻っていった。
「はぁっ、はぁっ……う、ぐ……はぁ……」
どこかの部屋にテレポートした伊藤月子は、全力で走った直後のような疲労で動けなくなってしまった。
壁にもたれかかり、息を整える。しかし立っていることすらつらく、座り込んでしまう。息が荒いことはもちろん、手や脚がぶるぶると震えてしまっていた。
これまで透視、千里眼、念動力、発火、放電、治療。役に立ちそうな超能力を使用して疲労度を確認していたが、テレポートは今回が初めて。どの超能力よりも疲労がひどい。
幸いこの部屋にはモンスターはいなかった。しばらく休もう、そう思った。
突如変貌したフロア、予期せぬトラップ、そして独りきりの部屋。
この塔で目を覚ましてから初めて、孤独感が彼女を襲った。
「陽くん……」
恋人――神道陽太の名前をつぶやいた。
会いたかった。会って、抱き締めて、体温を感じたい、そして優しい言葉を囁いてほしい、この寂しさを埋めてほしい。
やはり伊藤月子にとって、神道陽太という存在は塔の主よりも上だった。
「陽くん……!」
どんどんと切なくなっていく。伊藤月子の頭の中には、優しく笑っている神道陽太が思い描かれていた。
けれど、そんな甘い一時は長く続かない。
……ズチャ
「……?」
ずぶ濡れの布が落ちたような、水っぽい重い音が聞こえた。
……ズチャ、ズチャ、ズチャ
その音がどんどんと近づいてきている。
「な、なに……何よぉ……」
集中するも、小石させ浮かすことができないほど疲労してしまっている。
ただ震え、恐怖しながら待つしかなかった。
それが来ることを。
ズチャ、ズチャ、ズチャズチャズチャズチャズチャズチャ!
音の正体が、部屋に入ってきた。
「い、いやっ、いやあああああああっ!」
それの姿を見た瞬間、伊藤月子はあまりの嫌悪感に叫んだ。
まるで深海を思わせるような藍色。そんな鈍い光沢のある肌に無機質な目玉。白い腹はぶくりぶくりと膨らんでは縮む、膨らんでは縮むを繰り返していた。
巨大なカエルだった。自分と比べ数倍の体積はあるだろうその生物に、伊藤月子は恐怖で震えることしかできなかった。
幼少のころはつかんで遊んでいたこともあった(もちろん緑色)。しかし目の前のそれは規格外。逃げようにもテレポートの反動で念動力は当然のこと、動くことさえままならない。
できることと言えば恐怖に染まった顔を向けるだけ。当然カエルは怯む様子もない。べたり、べたりと平べったい手をついて伊藤月子に接近する。
「来ないで、来ないでよ……! 陽くん、助けて……!」
奇跡的に願いが届いたのか。カエルはやや離れたところで止まった。
いまだカエルと目が合ったままだったが、伊藤月子は胸を撫で下ろした。このまま硬直状態が続いて時間を稼ぎたい。体力が戻れば念動力で吹き飛ばす――と、伊藤月子は考えた。
だが次の瞬間、拮抗は崩れた。
カエルはがぱりと大きく口を開く。
それは、すさまじい勢いで飛び出した。
びゅるんっ
「きゃぁあああああ!」
長い、そして不気味なまでにイボイボの舌は伊藤月子の脚、そしてぐるぐると腰にまで巻きついた。
非常に粘度のある唾液が滴っている。ワンピースの生地に染み込み、その生ぬるい温度が肌から感じられた。
「そんな、そんなこと……ありえない!」
それが何を意味するのか、すぐにわかってしまった。
あのカエルは自分を餌と認識し、食べようとしている。
つまり、捕食。
カエルが、人を食おうとしているのだ。
「やめて、やめてやめてぇぇぇぇぇ!」
巻きついた舌を外そうとするも、ぬるぬると滑ってつかむことができない。しかもゆっくりとだが引っ張られている。床との摩擦でワンピースが破れ、さらに踏ん張っていた手が擦れて血が滲み始めるが、そんなことは気にしていられない。
今にも脚がカエルに食べられてしまう。ガシガシと蹴って抵抗するが――
ガプリッ
引き寄せられ、ついにカエルの口が伊藤月子の脚に噛みついた。小さな歯がびっしりと詰まった口は噛み砕くほどの力はなかったが、舌が巻きついてみしみしと伊藤月子の身体が軋ませる。
しかし痛みなんてどうでも良かった。もっと別の恐怖、そう、『食べられる』という恐怖でいっぱいだった。
「はなせぇぇぇぇ! はな、してよぉ!」
じゅる、じゅるり
ろくに抵抗ができないまま、脚すべてが呑み込まれてしまった。腰から下がぬるま湯に浸かったような、けれど気味の悪さに鳥肌が立つ。
小さな手を握ってボコボコとカエルを殴る。大した衝撃はない、ぬるぬるの皮膚を滑るだけ。
濁った瞳がぎょろりと伊藤月子を見つめていた。
がぷ、ジュルン
「ひっ、やめてよぉ……! うぅ……」
むぐむぐと捕食が進む。腰から上昇し臍を超えてしまう。
もはや体力は限界で、精一杯殴っていた手はカエルの口の上に置かれていた。
捕食が進む一方で、口内では別の形で伊藤月子に危険が迫っていた。
「あっ、だめ……そこ、は……!」
身体の半分を呑み込んだことで余裕が生まれたのだろう。脚に巻きついていた舌が離れ、べろりべろりと伊藤月子の身体を舐め始めた。
腹、腰、内太もも。足の裏や指の間など、生温かな唾液とつるつるとした舌が丹念に、胆に責める。
くすぐったさと気持ち悪さ、そして否定しがたい心地良さ。それらが伊藤月子の身体を駆け巡る。
「だめなのに、食べられちゃうの、イヤなのに……
ひ、だめ、そこは、だ、め……!」
舌が責める範囲が狭まっていき、ついに一点を責めるようになった。
そこは、とても恥ずかしいところ。
「あつっ、熱い……あ、あああああっ!」
舌先が肉の芽を押しつぶし、その衝撃にびくりと身体が震えてしまう。そんな様子をよそに、舌先は無遠慮に身体の中に入っていく。
身体に異物を受け入れるのは初めてではない、恋人に何度も捧げた身体だが、もちろんそれは人間同士に限ったことで、カエルなどという異種は当然初めてだった。
ローションのような唾液と自在に動く舌。それらが伊藤月子を刺激し続ける。