Neetel Inside 文芸新都
表紙

その街のひとびと
クォンソン・グーム

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 誰が一番かを決めることは出来ない。それでも、この日が来ることを誰よりも待ち望んでいたと自負できる。夜更かしをやめ、後輩の不始末も丁寧に処理し、何度もイメージトレーニングをした。全てこの日のためのことであった。
 (昨日は腹痛で会社を休んでしまったが、仕事量に変わりはない。定時に帰ることが出来そうだな)
 四時五十分。男は内心そわそわしていたが、周りには決してその素振りは見せない。普段通りの姿を演じていた。
 同期の友人たちは、夕飯がどうたら恋人がこうたらなどといった世間話をしているが、男には全く耳に入っていない。
 (余計な情報を耳に入れるだけで体力をくう気がする。全力で走り続けるためには外部からの情報を必要最低限に留めなければいけない)
 男はそんなことを考えていた。間抜けな考えではある。しかし、男はそれだけ今日という日を待っており、それだけ本気であった。
 再び時計を見る。
 四時五十一分。まだ一分しか経っていない。時間は気にすればするほど経つのが遅く感じる。そんなことは小学生の頃から知っていることであった。
 仕方なく、少し目をつむってみることにする。少しでも時間をつぶすのだ。この行動は博打である。なにせ寝そうになってはいけない。寝るなんてことはもってのほかだ。寝ることで脳が休んでしまい、万全な体調で走るのに時間がかかる。素早く臨戦態勢に入るためには、完全な健康状態を維持しなければならない。
 少し時間が経ち、男は人間の本能を恨んだ。目をつむることで身体が反射的に睡眠態勢に入ってしまうからだ。軽くなら寝る態勢に入っても問題はない。舟を漕ぎ始めたら終わりである。仕方なく素数を数えることにする。
 (1…3…5…7…不毛だ。飽きる)
 一旦眼を開け、時計を見る。
 四時五十三分。二分しか経っていない。
(イカレているのか。なぜこんなにも待ち遠しいのに時間は遅く経つんだ。早くしろと望んでいる者がいるのなら早く経ってもいいだろうが。何者かの策略か、はたまた陰謀か。どちらにせよ俺を邪魔するものは断つ。何人たりとも俺の邪魔は…なにを阿呆な考えをしているんだ。動悸が激しい。少し落ち着こう)
 男はまた眼をつむることにする。

     

 男の周りは相変わらずざわついているが、男はまるで聞いてはいない。
 真に集中すれば、人はあらゆる情報を遮断することができる。本を読んでいる時、勉強をする時、外部がやかましくて集中出来ないという人は集中が足りないか、不健康であるかどちらかだ、というのが男の持論である。
 (今一度眼を開けてみるか。いや、まだ早いだろう。集中力はまだ十分残っているし、精神的にも余裕だ。眠気もない。ゆっくり時間が経つのを待つとするか。落ち着けばいいだけだ)
 誰に対して言っているわけでもなくそう思った。
 顎に手を当て、今日のプランを脳内で再生する。出来るだけ時間をかけて流す。と、目的地まで半分のところで集中が途切れた。肩を叩かれたのだ。自慢の集中力も外部からの衝撃という情報には弱い。
 俺もまだまだかと思いながら振り返り、何者か確認すると、同期の友人であることが分かった。友人は夕飯に誘おうとしているのか、これからの予定を聞いている。最低限の情報だけを友人に伝え、誘いを断る。
 友人は残念そうな顔をし、世間話を始めた。男は適当に相槌を打ち、友人が去った後、時計の方に眼をやる。
 四時五十九分。秒針は「5」を指している。
 会話したことで少々体力をくったが、時間潰しになった友人に心の中で感謝をしつつ、部長の方に椅子ごと身体を向ける。秒針は「8」と「9」の間を指している。
 鞄と袋を持って立ち上がり、部長のいるデスクへと向かった。自分の椅子から部長のデスクまで、歩行速度を計算した上で五時ちょうどになるように歩く。イメージトレーニングは散々した男に抜かりはないつもりであった。
 五時になり、社内に定時連絡の音楽が響く。
 部長に向かって帰宅することを告げる。
 「定時ぴったりに俺のところに来るなんて、そんなに疲れてたか。今週は良く働いてくれたからな。無理せずゆっくり休むと良いよ。お疲れ様。」
 気さくな部長である。良い人ではあるのだが、人付き合いが苦手な男にとっては少々苦手なタイプであった。今回に関してはその性格が吉となった。

     

 男は部長に礼をして、同期達に会釈をするとそそくさと部屋から出た。
 エレベーターのボタンを押す。押してから男は上を見て、現在のエレベーターの場所を確認する。自分の階に近いことに安心し、エレベーターが来るのを待つ。
 ここでもし階段を下りることになったら、余計な体力は使うことになる。今日はついていると男は思った。
 エレベーターが到着し、慌てずに乗り込む。中はそれなりに人員が多い。すぐに今押されている階を見る。一階までいくつかのランプが点灯しているが、予想の範疇である。何も問題ない。
 一階に近付いてくる。人が入れ替える姿を見るたびに早くしろと男は思った。足をパタつかせてしまった自分を叱る。
 (いかんな。やはり考えるのと実際に感じるのでは違うな。けどこの人達には全く罪は無い。普段通りの日常を過ごしているだけだもんな。こんなところでキレたりしたら、それこそ狂人扱いされても文句が言えない。それよりも立ち位置だが、ふむ、真ん中か。可もなく不可もない)
 そんなことを考えている内に目的の階に近づいていた。
 チャイムが鳴り、一階に着く。男は背後から身体で押され、前のめりになりながらエレベーターを出た。若干の苛立ちを覚えたが、気にしている場合ではない。社外に出てからが本番である。早足で出入口まで向かい、脳内に目的地までの最短ルートを浮かび上げる。そうして外に出て、近くの信号まで走った。
 鞄からコンビニ袋に入れられたスニーカーを出す。社内では原則革靴であるが、外に出ればこっちのものである。それでも恰好はスーツであり、お世辞にも走ることに向いているとは言えない。
 信号が赤になる。素早く袋からスニーカーを出し、履き替え、革靴を袋に入れて鞄にねじ込む。
 信号が変わるまで軽く準備体操をする。万が一の準備は怠らない。
 信号が青になる。男は自分のスタミナ、途中の信号が変わるタイミングを計算して走りだした。

     

 大通りの風景はいつも通り、自分と同じスーツ姿で携帯電話に向かって生き生きと話す人、友人と笑いながら歩いている学生、買い物に向かって談笑している親子、様々であった。
 その中にスーツ姿で走る男。ただ一つだけの目標に向かって集中し、走り続ける男。周りの人もちらりとその姿を見る。
 (なぜ俺を見る。スーツ姿ってだけでそれ以外はただ走っている一般人じゃないか。走っているせいか集中もし辛いな)
 男は注目されることに慣れていなかった。周りの目を気にしてしまい、集中力が削がれる。気のせいか聞き慣れている街の音が大きく聞こえてくる。
(クソ、余計なことを考えるな。自慢の集中力はどうした。次のルートを考えることに集中しろ)
 再び集中する。右に曲がり、細道に入る。突然人が来ても安全なように、大回りして入っていく。減速はしない。
 人は来なかった。細道であり、この時間帯にしては珍しく人がほとんど見当たらなかった。このルートを直進することで大幅なタイム縮小に繋がることを男は知っていた。
 とことんまでついていることに走りながら笑いそうになる。脇目に看板のようなものが見えたような気がしたが、気にせず走った。
 左に曲がった瞬間眼を見開き、急停止する。
 眼前に広がるのは黄色いヘルメットを着け、青い作業着を着て下水道に入っている作業員の姿。歩道には看板があった。
 『工事中 ご迷惑をお掛けしております ご協力をお願い致します』
 男は看板に書かれている文字を見て、呆然とし、立ち尽くした。
 その姿を見ていたのか、作業員の一人が男に向かって言葉を発した。
 「あんれあんちゃんどったのそんな立ち尽くしちゃって。わりんだけどここは昨日から工事中なんだよ。ほんとごめんねえ。迂回して頂戴ね。」
 作業員は一通り話すと、自分の作業に戻っていった。
 (なんということだ。俺が腹を痛めている間に…これは…これこそ陰謀、策略…。いや、まだ大丈夫だ)
 すぐに気持ちを切り替え、新しいルートを構築する。一先ず大通りに出ることにした。多少の時間はかかるが、大通りから細道に出るルートはまだある。
 男は踵を返し、走った。

     

 細道を抜け、プラン上の中間地点である信号前に出る。信号は赤であった。初期プランでは青のはずであった。計画が崩れ始めたのも相まって、信号を待っている自分の姿に苛立つ。足をパタつかせ、人差し指と親指を付けては離しを繰り返す。すると、肩を叩かれた。男はうんざりした。
 振り向くと、見知らぬ茶髪の男が立っていた。色白で青い目をしている外国人だった。
 「チョトスミマセン。ココカラ『デンデデdepart』ニイクニハドシタラヨイデショウカ。」
 デパートの発音がいいことに違和感を覚える。相手は地図を持っていたが、日本語があまり得意ではなく、文字が読めずに道に迷ったらしい。
 急いで地図に現在地と行き方を記すと、外国人から握手をせがまれる。照れと急いでいることもあり、一瞬躊躇したが手を近付ける。外国人特有の力強い握手をされたことに少し驚く。手を離してから外国人に手を振り、すぐに信号に向き直す。青信号は点滅し、赤に切り替わっていた。
 とうとう男の顔が絶望に変わってきた。怒りが無くなっていた。自分のお人好しにここまで呆れたことはない。
 信号が変わると、周りの目を気にせず瞬時に走り出した。全速力である。体力の計算をしている心的余裕はなかった。一刻も早く目的地に着かなければならなかった。何をそこまで男を駆り立てるのか。男には理由があった。人によっては下らないと中傷するであろうこと、また別の人からしてみれば男の気持ちに激しく共感することであった。
 (見えた。もうすぐだ。もうすぐ着く。待っていろよ)
 思わず心臓が高鳴る。走った疲れによるものではない。緊張や期待によるものであった。
 目的地の店に着くと男は安堵し、歩くことにした。
 店の看板にはでかでかと『マーク☆タガオ』と書いてあった。文字がライトで煌びやかに光っている。
 中に入り、カウンターに近付く。店員が男に気付くと、笑顔を向ける。
 「お待ちしておりました。予約券はお持ちですか?」
 男は財布から橙色の小さい紙を取り出した。店員は紙を確認し、カウンターの下をごそごそと探す。数秒後、店員が顔を出す。そして、カウンターに段ボール箱が置かれた。
 「はい、ではこちら予約しておりました『クォンソン・グーム(初回限定版)』です。料金は、えー九千七八二円です」
 財布の中身を確認し、一万円と白いカードを出す。
 「一万円頂戴します。会員カードのポイントはお貯めしますか?」
 男はこくりと頷く。
 「はい、ではお釣り二一八円とレシート、こちら会員カードをお返しします」
 器用に小銭とカードとレシートを財布に入れ、段ボール箱を持つと、定員に会釈をして、出口へ向かう。
 「毎度ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」
 店員の礼を背中越しに聞き、店を出る。自宅に向かいひたすら歩いた。男の顔は喜びによって崩れに崩れ、見るに堪えない顔になっていたが、本人は全く気にする様子はない。頭の中は既に眼前のもので埋め尽くされ、成り振り構っていられる状態ではなかったのである。
 妄想を繰り広げ、にやついている内に、いつの間にか自宅に着いていた。
 着替えもせず、いそいそと用意をする。時刻は十九時五十六分。予定より一時間ほど遅れているが、目的のものが手に入った男にはもはや些細な問題であった。これまでの災難も、既に忘却の彼方に消えていた。
 夜はまだまだ長い。男はゲーム機の電源を点ける。自分の顔が真っ黒のテレビに映るが、気にせずテレビの電源も点ける。
 崩壊した顔を惜し気もなく晒し、男の娯楽は幕を開ける。

                              完

       

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Neetsha