Neetel Inside ニートノベル
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涙色ドロップス
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引越しという作業は始めての経験だった。
今まで慣れ親しんだ家と別れるというのに、その実感が沸かぬまま、ただただ荷物をダンボールに詰める作業をする。
それにしても懐かしい物がたくさんでてくる。
小学校の頃の文集や、使い古した皮のグローブ。どれもこれも今ではいらない物。
なるべく移る際には荷物を軽くしたほうがいい。どうせ新しい家でもダンボールに入ったまま物置の奥底で眠り続けるんだから、と父は言った。
その言い付けを守り、部屋がわりかし片付く頃にはゴミ袋の山が出来上がっていた。
ふと押入れの奥に古ぼけた煎餅の缶があることに気づいた。
手にとって見ると、ずしりと重みを感じるほど重かった。
少し力を入れて錆付いた蓋を開ける。中から古い物独特の香りが嗅覚を刺激した。
思い出した。
これは子供の頃、「だいじなもの」をいれていた宝箱だ。ビー玉に錆びた釘、野球選手のカード・・・・・・色々なものが詰まっていた。
だが、この箱の中身も片付けの例外にもれず、黙々とゴミ袋に突っ込んでいく。
あの頃は宝物でも、成長した今ではただのゴミの山だ。
その缶の奥底に、古ぼけてもいまなお燦然と輝くドロップの缶があった。
これって・・・・・・。
ドロップの缶を手に取り振ってみる。
カランカランと小気味よい音が響いた。子供にとってこの音は、天使の鳴らすカリヨンベルや妖精の奏でる歌声のようなものだ。
缶の中に広がる七色の宝石たち。なるほど、これは確かに子供にとって宝物だ。
しかし食べ物を保存するなんて、と心の中で少年だった自分を自嘲する。
「そういえばこのドロップ・・・・・・」
そう、このドロップには少し思い出があった。それはどんな手を使っても開かないのだ。


子供の頃、学校の帰りに毎日寄っていた駄菓子屋があった。
何の変哲もない、普通の駄菓子屋だが子供にとっては宝の山が一面に広がっていた。
学校が終わってから真っ先に向かい、なけなしのお小遣いをはたいて夕方まで友達たちとバカ話をして盛り上がった。
そんな僕らを嫌な顔せず迎いいれてくれた店主の爺さんには感謝するべきだっただろう。
しかしそんな楽園での時も長くは続かなかった。爺さんから店をたたむということが僕たちに告げられた。
失楽園。子供ながら僕たちは小さな失望に包まれた。
楽園での最後の日、僕だけ爺さんに呼び止められ、これを渡された。
「今までありがとうよ。婆さんが死んでから寂しい思いをしていたが君たちのおかげで楽しい老後をすごさせてもらったよ」
そう笑った爺さんの顔は今でも鮮明に思い出せる。
何かを諦めたようなそんな顔だ。その顔には希望も絶望もない、終わった顔。
「このドロップはちょっと不思議なものでな。君がいつか本当に悲しくなったときにこれを開けるといい」
今も悲しいよ。
「違うんだよ。今はまだ開けるときじゃあない。試しに開けてみな?」
僕はポケットから10円玉を取り出してあけようとした。
まるで溶接されているかのように、ビクともしない。今までどんなに開くことのなかったドロップの缶でもてこの力を使えば開いてきた。
「ほれ、開かないだろう? 今は何も考えないで持って帰りな」
かっかっと爺さんは笑っている。
馬鹿にされていると思い、むきになって開けようとするが開きそうな素振りを見せない。
「君たちが最初に来た日を覚えているかい?」
爺さんは遠い目で懐古し始めた。
「婆さんと入れ替わりにやってきた君らを最初は邪険に扱いもしたな」
そういえばそうだったね。
「でも帰った次の日もそのまた次の日も君たちは笑顔で俺の店に来てくれた」
爺さんの顔は満面の笑みで包まれている。心の底から笑っている、裏表のない笑顔。
「本当に、本当にありがとう・・・・・・」
笑顔の奥、目尻にはうっすらと涙が浮かんでいた。
「おいおい、なんだ泣いているのか」
僕はいつの間にか泣いていた。
ごめんなさい。
「謝ることじゃあない。悲しかったり嬉しかったりしたら泣くもんだ。それは自然なことなんだよ。子供のうちは泣きたいだけ泣いておけばいい。涙を流せない子供になるんじゃないぞ」
うん・・・・・・。
「俺も君たちのおかげでまた泣けるようになった」
僕たちが泣かしちゃったの?
「うん? そうだな。そういう言い方もできるかもしれないな」
と爺さんはまたかっかっと声を上げて笑い出した。
「ほれ友達をあんま待たせるのもかわいそうじゃろ」
そう言って爺さんは僕を送り出した。
「それじゃあ、元気でな」
それが爺さんの最後の言葉だった。
それから時が経ち、駄菓子屋の後にはドラッグストアが建って今ではその名残さえ見ることができない。
僕たちも同じように時が経ち、中学、高校へと進学するうちに、一人また一人と仲も疎遠になっていった。
高校生になった今なら開けることができるんじゃないかと思って、同じように10円玉を取り出して試してみた。
結果は10年前と変わらず、ドロップは頑なにその口を開くことはしない。
まだそのときじゃないのか・・・・・・。
結局、僕は「だいじなもの」の中からドロップの缶だけは捨てずに新しい場所へと連れて行った。


「新しい学校では友達はできた?」
白で統一された無機質な部屋で僕は母と会話をしていた。
「ごめんね、前の学校にも友達はいたのにね。大学受験もある大事な時期なのに・・・・・・」
大丈夫。気にしないで、お願いだから。
「そう、それじゃあ少し昔の話をするわね」
ベッドに横たわった母からこの場所について話を聞いた。
この場所は父と母の故郷だったらしい。
緑の多い、田園風景の広がる、一言で言えば田舎だ。
高校時代に父と母は出会い、恋に落ちた。父は東京の大学に進学し母も追うように東京へとついて行った。
若い頃は色々苦労をしたらしい。でも生まれた新しい命[ルビ:僕」を支えにしてとにかく頑張った。
元々身体の強いほうではなかった母は、結局東京の空気が合わず、激務と重なり身体を壊した。
しばらくは東京の病院で養生していたが、故郷の空気を吸えばまた良くなると思って帰ってきた。
どうして昔の話をするの?
「どうしてだろうねぇ。歳をとってくると話すのが好きになってくるのかな」
と母は笑った。
この笑いを僕は知っている。
本音を隠すために、相手に心の底を見られないように隠すフィルター。
あのときの爺さんと同じ微笑みだ。
これじゃあまるで・・・・・・。まるで・・・・・・。
やめろ!!
ここから先は考えてはいけない!
本能で理性をかき消す。自己防衛の本能が自然と働く。
これ以上ここにいてはいけない。
「そう。それじゃあ」
母は最期にこう言った。
「元気でね」
それから一週間後。母は緩やかに息を引き取った。


真っ暗な部屋の中で僕は一人塞ぎこんでいた。時間の感覚が麻痺していて、今が朝なのか夜なのかさえわからない。
父は葬儀の準備や親戚への連絡で忙しそうにしている。
不思議と涙は流れなかった。心も泣いていない。
心は酷く凪いでいる。心は既に死んでいた。
心が死んだ人間は死者と同じではないのだろうか。可笑しいよね。身体は生きているのに、心が死んでいる。
虚無。
それは半死半生。ゾンビみたいだなと乾いた笑みを浮かべる。
ふと机の上に置かれたドロップに気づいた。
『君がいつか本当に悲しくなったときにこれを開けるといい』
缶を手に取り揺すってみる。
いつもと変わらぬカランカランという音が部屋の中に響く。しかし今の僕にはその音になんの魅力も抱かない。
ロボットのように機械的な動きで缶の蓋を開けようとする。
するとあれだけ堅固だった蓋が驚くほど簡単に開いた。
そうか、心はまだ死んでいなかった。ただただ「悲しい」だけだったんだ。
暗い部屋の中では色とりどりのドロップはすべからく闇の色に染まっている、はずだった。
しかし缶の中にあるドロップは、一つ一つが夜空の星のように光り輝いていた。
赤、黄色、紫、橙、翠、白と透明感を感じる光を放っていた。
10年の歳月を感じさせないほどに今も色褪せず輝く星々に、胸の奥底で何かが鼓動し始めた。
消費期限など気にせず、赤いドロップを一つ口に運んでみる。
口の中に広がる懐かしいイチゴの味。楽しかった日々が蘇るかのような甘美な味わい。
気分が高揚していくのがわかった。何も考えていないはずなのにどうしてか楽しい。
暗い部屋にいた筈なのに、目の前は煌々と輝く光に包まれていた。
しかし幸せな時間もそう長くは続かなかった。口の中のドロップが小さくなるにつれて僕の意識は現実へと引き戻されていった。
僕は現実から逃避するように黄色のドロップを口に運んだ。
今度は口の中にレモンの風味が広がる。
するとまた目の前がまぶしいほどの光に包まれた。
希望。
未来を行くのが楽しくなってきた。勿論そこに理由などない。弱っている心に感情を処理する能力など失われている。
まるで麻薬のようだった。
既に視覚は暗闇と光の明滅の動作に麻痺しきっていて、明るいのか暗いのかさえわからない。
無くなるのが早くなるとはわかっていてもドロップを歯で粉々にしては次のドロップを口に運ぶ。
そしてとうとうドロップは最後の一つとなった。
白透明のドロップ。子供の頃、甘くないからという理由でドロップスの中で唯一舐めようとはしなかったハッカの味のドロップだった。
でも今はそんなこと関係ない。急に現実に戻される感覚に心が耐えられない。
目を瞑って最後のドロップを口の中に放り込む。ハッカ独特の清涼感が口の中を支配していく。
ふと頬が何かに濡れているのに気がついた。
涙・・・・・・?
今まで流すことはなかった心の叫びが肉体へと伝わった瞬間だった。
気分は全く晴れない。ただただ涙が止め処なく溢れていくばかりだった。
今まで押し殺されていた感情が、栓が抜けたように溢れ出ていく。
僕は布団を被って声を押し殺して泣き続けた。枕がどんどん涙に濡れていく。
「母さん・・・・・・!」
そしていつの間にか僕は眠りの底に落ちていた。


「おはよう。酷い顔だな、顔を洗ってきなさい」
一晩中泣いていたのか目は真っ赤に充血して顔中が腫れぼったかった。
朝食のあと、僕は父から封筒に入った手紙を渡された。
見覚えのある字。一文字一文字丁寧に書かれた母の字だった。
僕は一文字一文字、母の気持ちに応えるように丁寧丁寧に読んだ。
最後の最後まで僕の身を案じてくれている文章だった。
全ては僕が子供だったから心配をかけさせてしまっていた。
また涙が零れ落ちてきた。
父は手紙の内容については深く言及してこなかった。
ただ一言。
「泣けるうちに泣いておけ」
と言っただけだった。
「うん・・・・・・」
僕は父に宣言するように告げた。
「でも大丈夫、もう子供じゃない。いやいつまでも子供ではいられなんだからね」
そして、僕は机の上に置かれていたドロップの空き缶を手に取った。
「ありがとう爺さん」
今では再びその口を硬く閉ざしたドロップの空き缶、悲しみの詰まった空き缶をゴミ箱へと捨てた。
この不思議なドロップスは夢だったのかもしれない。
でも僕は最後に舐めた涙色のドロップの味だけはいつまでも忘れられなかった。

       

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