Neetel Inside 文芸新都
表紙

かくも遅咲き短篇集・弐
ユークリッド・パラレル/ところてん

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『二本の平行な直線は互いに交わることはない』

 幾何学の最初の嘘。



 私が忘環(わすらぎ)さんと知り合ったのは四年前の春のことで、中学一年時にて席が隣同士だったという単純にそれだけのことであった。五十音順という規則に縛られた座席表とその名字ゆえに、彼女は教室の隅に座っていた。必然的に彼女に隣あう人物は一人に限られ、その位置に居あわせた私と親しくなるのにそれほど時間はかからなかった。というか、成績不振者であった私が、期末テストで指折りの順位に入る忘環さんに何かと教えを請うていた結果そうなった。やれ数学の証明が分からぬ、英文が和訳できぬ、男子が掃除をせぬ、部活でレギュラーが取れぬと、愚痴ともつかないことを吐き出し始めた頃から、忘環さんとは妙に親しくなった。後になってあんなに愚痴られてウザくなかったか、と聞いてみたところ、「君の愚痴はさばさばしていて聞き苦しくなかったからね。良い意味でバカだった。『Some apples』を『サムはリンゴ』ではないのかと問うた君のセンスには脱帽したよ。リンゴにサムとは名付けんだろうに」と彼女は可笑しそうに漏らした。
 当時から彼女はちょっと変わった人物で、大人びている、というよりも一人でいることを好むような雰囲気を持っていたので、クラスではやや浮いていた。それが却って彼女に年齢不相応の色気のようなものを演出していたような気もする。生来の容姿もあって男子からは殊更に人気があった。高校生の彼氏ができたと知った時には結構な衝撃を受けたが、比較的仲の良かったクラスの男の子の方がよほどショックを受けていた。そちらのリカバリーに気を割いた私は、都合良く衝撃を受けた理由から目を背けていたんだと思う。しばらくして別れたと知って安堵を感じた。安堵という違和感、その腐肉を触るような柔らかな感触が、どうやら私の中のもやもやを初めて形にしてくれたのだと思う。
 つまり私は彼女のことをどうやら友達以上に好いているらしい。しかしそれは飽くまで『以上』なのであって、私はその気持ちを推し量ることを放棄していた。
 高校に入ってからは同じクラスが続いていた。
 関係性はあまり変わっていない。

 忘環さんは完璧主義者だと思われる。無遅刻無欠席はもちろんのこと、宿題をきちりとこなし、授業中は寝ることがなく、体育は水泳といえどもさぼらず、掃除を黙々とこなし、高校に入ってからは友人関係もそつなくこなしている。およそ誰にでも出来そうなことだが、途切れることなく淡々とそういうことを続けるのは存外に難しいものだ。
 どうしても気分がのらなかったり見たいテレビ番組のために宿題さぼることもあるし、授業中には恥じらいなどをかなぐり捨てて涎をたらして寝たこともあったし、たまには寝過ごして遅刻もする。高校生というのは、というか人間というものは比較的そういう“ブレ”を生活の中に内包する生き物だ。そこから逸脱する人は、彼女のように完璧主義者などと揶揄されたりする。
 そんなわけで忘環さんは、クラスメートからは変わり者として認識されている場合が多い。私も彼女のことをそう認識している。もっともそれはクラスの人とは意味合いが異なるけれど。私は忘環さんと親しい。比較的、というよりも、彼女の親族を除けばおそらくダントツに親しい。従って誰も知らない彼女の一面もしくは複数面を知っている。知っていればなおのこと、忘環さんは変わり者だと思う。
 忘環さんは完璧主義者かもしれないが、彼女は「私は不完全なものの方が好きだ。溺愛したい」と言い放つ。彼女は他者に対しては意外とフランクで、寛容で、そして豪放であったりする。変わり者でありながらもクラスメートとうち解けられるようになったのは、偏にその性分によるものだろう。大抵のことは一笑、あるいは冷笑を以て許してしまう。忘環さんは完璧主義者だけれども、他者に迷惑をかけられることを厭わない。それは希有なことではないだろうかと伝えてみたが、彼女は「そうかな?」の一言で切って捨てた。続けて「函子(はこ)は変なところで私に感心するね」と私に対して嗤ってみせた。何か言い返してやりたかったが、あいにく彼女を唸らせるようなキレのある台詞を思いつかなかった。当時なにかと揚げ足を取りたがっていた私を黙らせることは、彼女の楽しみの一つだったそうで、この時も隣でにやついていた。今思い出しても小憎らしい。

 さて、今は放課後である。教室には忘環さんと私以外に残っている生徒はいない。
 掃除を終えたばかりの教室には埃が浮遊し、傾いた陽光を受けてちらちらと光を返していた。がらんとした教室に机は整然と、椅子は雑然と並んでいる。椅子が雑然としているのは、さっきまで男子が騒いでいた痕跡だ。彼らは基本的に椅子を並べてから帰るなどという殊勝なことはしない生き物なのだ。
 私は窓際の一番前の席で、肘をついて退屈そうなポーズを取りながら彼女を観察していた。忘環さんは壁に背を預け、腕組をして教室をぼんやり俯瞰していた。
 だらだらとしゃべっていたら、周りの生徒がいつの間にか居なくなっていた。私達の話題も途切れ、置き去りにされた沈黙がへろへろと追いついてきたようだ。教室は無人のような静寂に満たされていた。
 気まずい沈黙ではなくて、のんびりと弛緩した空気。こうしているのも嫌いじゃない。けれど忘環さんという人は、こんな状態を基本的にいつまでも堪能する人なので、沈黙を破るのは大抵私からになる。
「忘環さんってさ」
「んー?」
「数学好きだよね?」
「うん」
「なんで?」
「あれ? それ話したことなかったっけ? コペルニクスの話」
「コペ……? 知らない」
 どっかで聞いたことがある気がしないでもないコペなんとかさん。人名だってことくらいしか想像できないから、聞いたことはないと思う。私は発想力は貧困だけど、記憶力には多少の自信がある。
「聞きたい?」
「暇だし。あと、その顔はしゃべりたいんじゃ?」
「……まぁね」
 彼女は苦笑気味に、ちょっと悔しそうな顔をした。悪戯に失敗した子供をみつけたとようでかわいい。そんな感想を述べたらきっと怒られるから、口にはしないけど。
「コペルニクス的転回、って言葉あってさ。こんな字書くんだけど」
 彼女は黒板に『転回』と書いた。
「天動説とか地動説とかって知ってる?」
「地球を中心に太陽が回るか、太陽が中心に地球に回るかって話だっけ?」
「そうそう、そんな感じ。で、コペルニクスは当時支配的だった天動説、まぁ地球を中心に宇宙が回ってますよって説から、いやいや地球が太陽の周りを回ってるんでしょっていう地動説を提唱した人ね。地動説なんて今じゃ当たり前だけど、当時はその発想が斬新だったわけ。そういう物事の見方が180度変わっちゃうような発想の転換を、後世の哲学者が『コペルニクス的転回』って呼んだりしたのね。まぁ要はそんな言葉が残るくらい衝撃的なことだった、と」
「ふんふん」
 忘環さんは機嫌が良いと饒舌になる。内容は学問的で退屈なこともしばしばだが、そもそも私は彼女の声が好きなので、普段は相槌を打ったりヤジを飛ばしたりしながら素直に聞き手に回ることが多い。ちょうど今のように。
「地動説が発想されたそもそもの原因は、他の惑星――火星とか木星とかね――の軌道計算をしていたことにあるの」
「ああ、それで数学の話に繋がるわけか……」
 コペニクさんのせいで数学を好きになった理由を話しているという状況を忘れそうだった。
「うん、そういうこと。観測データから惑星の軌道計算するときに数学が用いられてる。それでさ、函子は今火星や地球がどんな軌道を描くか知ってるよね?」
「円じゃないの?」
「正確には楕円だね」
 彼女は黒板に太陽を中心にいくつかの楕円を描いた。太陽と描かれた中心の点から三番目の円周状に点を打ち、地球と書き添える。
「じゃあ函子は想像できるかな? こんな風に地球や他の惑星が動いてる状態で、『地球から』見たときの他の惑星の運動を。地球は自転と公転をしながら、他の星も公転してる時の、他の惑星の軌道がわかる?」
「……んー……複雑……?」
「正解」
 かなり投げやりに答えたつもりが正解だったらしい。肩すかしを喰らった気分だ。そんな私の顔を見て、忘環さんは得意げしていた。なんだその顔はちょっとムカつくぞ。
「天動説当時の惑星の軌道は、それはそれは複雑怪奇なものだったはずだよ。それこそ広大な宇宙を迷っているみたいにね。本来なら楕円軌道を描いている太陽系の惑星を『惑う星』って銘打つのも天動説の名残なわけだね」
「ああ、なるほど」
 不思議な感覚がした。もうとっくに打ち崩された理論の残滓が、まだ私達の日常の中に根付いているのだ。
「じゃあなんでコペルニクス、っていうより、地動説を提唱していた人達は太陽を中心に回転しているなんてことを発想したのか、わかる?」
「軌道がぐちゃぐちゃで理論が破綻したからじゃないの?」
「うーん、それもあるかもしれない。でもちょっと違うかな。そもそも、地球が太陽を中心に回ってるとか、太陽が地球を中心に回っているとか、それはどちらが正しい、間違ってるっていう話じゃないから。観測点が違うだけで。その二つの間に破綻する理論なんてないんだ。地球を中心に考えた時だって、全ての惑星の軌道を計算することも理論上はできる。ただ太陽を中心に考えた方がずっと綺麗な軌道を計算できるのは間違いないんだけど」
「あーじゃああれだ、きっと。コペさんは軌道がぐちゃぐちゃになってきたのが気にいらなかったんだよ」
「その通り。……ってわけじゃないけど、実は結構それに近いんじゃないかなと思ってる」
「……そうなの? コペニクさん適当過ぎるんじゃないの?」
「適当ってわけでもないよ。『神が創った世界がこんなに煩雑なはずがない』って言うと多分一番彼の心情に近いんじゃないのかな? 彼としては、複雑な軌道を描く宇宙の在り方が許せなかった、彼の宗教観に適合しなかった、なんて言われてる」
「宗教観?」
「その辺りは文化的な背景を含むから、話始めると長くなっちゃうんだけど、このエピソードの重点は『地動説を発想した根源的なものに、理論的なものなんかないんだ』ってところなの」
「……ん? 話がこんがらがってきたよ?」
「つまりね、歴史的に見ても大きな転換だった地動説は『理論を積み重ねてその結果として得られたものじゃない』んだってこと。まず始めに直感的結論があって、そのあとから数学的な証明に基づいてその妥当性が証明されたに過ぎないんだって話」
「うんうん、なるなる。……あ、でもそれがどうして数学が好きって話に繋がるかな?」
 忘環さんはそれが結論とばかりに人差し指をピンと立てた。
「理論を積み上げて結論に至る学問じゃないんだってところ。美意識や信仰、直感で得た結論に、万人が迷わず辿り着ける論理の道標を築く学問なんだと思ってる。だから好き」
 それはなんだか遠い国の話をされているような時の感覚に似ていた。頭では理解できても、実感が伴わないような。
「よくわからん」
 眉根を寄せて言うと、忘環さんは苦笑してみせた。バカにしてる感じはしない。ただ少し寂しそうな笑みだった。
「でも面白かったよ」
 それは矛盾するかもしれないけど、素直な感想だ。
 私の知る限り、数学という奴は完全無欠のくせに融通の利かない可愛げのないヤツで、つまるところお付き合いしたくない存在なのである。そんなヤツのことを好きだと豪語する忘環さんの話を、どうしてすんなり解ってやれるものか。
 そしてそれは理解しがたい故に私を惹きつける。
 彼女の世界観は私の知らない、手の届きそうもない世界の一面を見せてくれる。その眺望は美しく心地が良い。たとえその全てを理解出来なくとも。忘環さんの結論を真に理解することは叶わなかったけれど、宇宙を巡る星が旧い理論をもって惑う星と呼ばれることを知れた。人のまばらな海岸で綺麗な貝殻を見つけたような気持ちになる。どこにでもあるけれど、見つけられたことは幸運だと、そう思ってしまうところがよく似ている。
「忘環さんの無駄に長い話、けっこう好きだよ」
「それはなにより。貴重な友人を持てて嬉しいよ」
 そのどこか硬質なしゃべり口とは裏腹に、彼女の言葉は柔らかく私の耳に残った。

 私は忘環さんのことを好いている。好いていることまではすんなり肯定できるが、それが友愛なのか恋慕なのかを識別する術を知らない。識別できない時点で異常なことも自覚はしている。けれどそれが友愛とは異なるものだからといって、恋慕だと断定できるほど、物事は単純ではないのだ。それに私はそんなに強くない。
 たまに好きだと口に出してみたい衝動に駆られる。言葉にした瞬間に分かるような気がして。けれど恋情ではなくて陶酔かもしれないと思うと、私の唇はどうしてもそれ以上を動いてはくれなくなった。完全無欠の数学さんなら、それを恋慕あるいは友愛のいずれかと証明してくれるのだろうか。なんて、無意味な思索を重ねて、不明な心情を雲散霧消してしまおう。きっと募る気持ちはそれほど綺麗なものじゃない。時間の重みでみっともなく崩れてしまう前に、どこかでさよならをしてしまうんだ。

 静かな校舎を彼女と二人で歩きながら、そんなことを考えていた。幻想的に赤い夕日が窓から差し込み、対照的に廊下の床は暗がりに沈んでいた。透き通ったオレンジの光と床に落ちた影が、陽光を境界にしてコントラストを描いている。そんなだからか、長く続く廊下の光景が、私にはどこか異世界めいて見えた。
 教室から下駄箱までは、なんとなくいつも無言だ。沈黙が気まずくなるほど短い付き合いではない。上履きだけがぱたぱたと音をあげるこの時間を、私は密かに愛しく思っている。終始夕暮れの空を見つめている忘環さんが何を思っていたのか、私は知らないのだけれど。



 私達の通う高校から駅まで、ゆっくり歩けばおよそ十五分ほどの距離がある。まだ花弁の残る葉桜を眺めながら、忘環さん目を細めていた。機嫌の良い時の猫みたい。
「綺麗だねぇ」
「もう散っちゃったけどね」
「綺麗だよ。それにほら、今は街の景色も良い時間じゃない?」
 幾枚かの桜の花びらが風に舞っていた。宙で藻掻くように踊った花びらが黒いアスファルトの道路に落ちる。花弁を運んだ春風は私達の所までやってきて、さらさらと彼女の長い髪を攫った。
 彼女の視線は葉桜に向けられていたけど、意識はそこにはなく、どこか遠くを見ているようだった。彼女の見る先を追った私の視界は、今日を終えようとしている空と地上の間を彷徨った。空が沈みかけた夕暮れの空はなお紅く、東へいくほどに暗くグラデーションがかかっている。駅まで一直線に続く大通りの道沿い、気の早い街灯は橙色の灯りを散らしていた。葉桜が風に揺れている。緑の混じった桜の花弁は、自身の薄桃と、空の赤の反照と、街灯の橙を受けて、絵画のように暖かに色めいていた。
 特別に何かが美しかったわけじゃない。忘環さんの言葉に感化されたわけでもないと思う。けれどたしかに、その何でもない光景に足を止めたくなった。テレビ画面の向こうの景色を、実際に自分の目で確かめたような、淡い鮮烈さが胸を打った。
「……そうだね」
 随分と遅れた同意にも、彼女はちゃんと通じたようで、
「でしょ」
 と嬉しそうに言う忘環さんの後を、彼女の後ろ姿を見ながら歩いた。
 遠いな、と思った。
 じわりと胸に広がった感動が、今度はその分だけ急速に冷えていく。
 きっと私は、あと百回この光景を見たって、彼女に言われるまでその鮮やかに気付くことなんてないと思えた。日常の中に埋没してしまったささやかな感動に気づけるほど、私の感覚は鋭く出来ていないようなのだ。
 それさえ忘環さんに惹かれた理由なのに、時々横に立っているのが場違いな気持ちになる。感傷的な心のささくれが、じくじく疼いて煩わしい。
「完全無欠の数学者さんなら、この景色が綺麗なことも証明できるかな?」
 だからそれは余り意味のない質問だった。意味のない感傷を誤魔化すためだけの、意味のない問いかけ。
 忘環さんは振り返り、一瞬じっと私を見つめた。
「函子は不思議なことを考えるね」
 彼女はその大きな瞳に好奇の色を宿して続ける。
「とはいえ、きっと彼には証明不能だろうね。数学自体が自身を不完全だと証明しているくらいから」
「そうなの?」
「そうだよ」
「だから好き?」
「うん」
「変わってるね」
「そうかい? 誰だって完全な人は好かんだろうに」
「……それはそうかもしれないけどさ。いやっていうか人の話じゃないし!」
「まぁ少なくとも私は函子のおバカなところも好きだよ」
「ありがとう、残念ながら嬉しくないよ!」
「これからも変わらぬ函子であってくれ」
「バカにしてるよね!? いつか絶ッ対成績の順位抜かしてやる……!」
「それはまた……随分気の長い話だね」
「そんなことないよ! あーもうむかつく!」
 鞄を振り上げて怒りを表現をしてみせるが、忘環さんは笑いを噛み殺しているだけだった。
「まぁ、函子はそういう風にしている方が似合うよ。少し元気が出たみたいで良かった。今日はぼうっとしていることが多かったけど、何かあった?」
 そして不意打ちにこんなことを言うのである。
 この人は理知的で時に融通が効かないところはあるけれど、ちゃんと目ざとく人を観察していたりするのだ。そしてこんな風にぽっと優しくなったりするからタチが悪い。うっかり余計なことを口走りそうになる。
「別にそんなことないけど」
 我ながらなんとも可愛くない返答だ。
「そうかな。私にでも話を聞くくらいならできると思ったんだけど」
「いや、忘環さんだから話さないとかそういうことじゃないから。話せることならちゃんと一番に話してるよ」
「一番か。それは重畳」
 忘環さんがあまりに自然にその言葉を受け取るから、どう返すべきか迷った。彼女はそんな私の様子など気にする風でもなく、微かに頬を綻ばせているように見えた。



 これは私が大学に入った後のことだから、あの頃からすると大分先のことになる。

「公理はね、思い込みなの」
 彼女はそう言った。
「誰だって直感しうること。証明不能な、暗黙の了解。例えば、平行な二つの直線が交わらないこと」
 綺麗な指をチョークの粉に汚しても、どうやら彼女は気にならないらしい。
 二つの並んだ線を描き、それらに交わるようにさらに一本の線を引いた。並んだ線と、交わる直線が描く角に、小さな丸印。
 それは二つの角が等しいことの証。
 等しい同位角は、二つの並んだ直線が平行であることの証明。
 だから、二つの直線はどこまでいっても、無限の彼方でも、交わることはない。
――証明はされないけれど。
「こういう約束事の上に、幾何学は――数学は、あるいは論理は存在してる。疑いを持ち得ない、言ってみれば思考の不可侵領域が真実の論拠にされてた」
 彼女はそこで、少し皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「それはね、まだ公理が唯一の答えで、たった一つの出発点だと思われていた時の話。“ユークリッドの幾何学”が信仰されていた時代のこと」
 かつ、と彼女の手からチョークが零れた。
「幾何学の第五公理だった平行線の公理は1830年にガウスによって綻びを見せるんだ。公理に反すれば、つまり『平行線がいずれかの点で交わる』とすれば、その理論展開の行き着く先には、必ずどこかに矛盾を生じることは明白だと思われた。ところがね、矛盾なんかどこにも生じない。それどころか、彼は新たな幾何学体系が作り上げてしまった。後に『非ユークリッド幾何学』と呼称されるこの分野では、平行線は交わり、三角形の内角の和は180度にならない。人間の直感からはおよそはずれた歪な図形の学問を生み出した。数学者は論理と直感で息する生き物だから、これまで信仰してきた直感をズタズタにされた人はさぞ多かったろうね。さらにこの非ユークリッド幾何学は、その後にかの有名な相対性理論を打ち出すアインシュタインによって、より現実に近い分野のことだってことが明らかになる。これら一連のエピソードが大きな転換点になったのは、古来からの思い込みを瓦解させた偉大な数学者が、新たな学問体系を発掘したことじゃないんだ。直感的な理解だけをベースにした、いわば好き勝手に定めただけの公理の上にも、なんら矛盾のない学問体系が成り立ってしまっていた、そういう事実を浮き彫りにさせたことにあるんだ」
 そこで彼女はふぅと息を吐いた。しゃべりすぎて渇いた口に、唾液を湿らしているのか舌が蠢いた。
「それまで、少なくとも西洋諸国の学者にとって、理論は真実の拠り所だった。この世の全ては論理よって全て明らかになると信仰されていたんだね。それが非ユークリッド世界でツギハギを見つけられて、相対性理論でもはや人間の主体的な直感の威光が消え失せ、そして最後に、人の生み出す論理全ての欠陥を示してトドメを指したのが、」
 すっと彼女は息を呑んだ。とっておきの秘密を暴露するように、彼女はひどく楽しそうだった。
 そんな彼女に私は水を差してみたくなったのだ。そのことに特に理由はないのだけれど、強いて言うなら、あの人から聞いた彼らの印象とは違って聞こえたから。
「……不完全性定理?」
「うぇっ!? 函子ちゃん知ってたの!?」
 驚愕、っていうのはこういう顔をするんだろうなとぼんやり思った。
 お祭り騒ぎみたいな彼女の語りは嫌いじゃない。たまに耳に煩いけれど、どちらかというと好きな方。

 そんなだからか、やっぱりたまに、あの滔々と流れる澄んだ声を、硬く冷たく優しい口調を、聞きたくなったりもして。



 そろそろ二時を回ろうとする頃、陽はまだ高く、シアンを溶いた空には高く雲が浮かんでいた。初夏の熱気がほんのり屋上のアスファルトから伝わる。忘環さんは下に一枚ハンカチを引いて、校舎の屋上に座り込んでは両足を投げ出していた。体もだらりとフェンスに預け、すっかりだらだらしている。
「ぽかぽかだぁ……」
 陽気で暢気で気楽なつぶやき。忘環さんにあるまじき無防備な姿も、他に見る人もいないし、だらしなさへのお咎めはなしとしよう。
 まぁ彼女がそんな風でもおかしくないタイミングではあった。中間試験、最後の科目が終了した自由時間。とてもじゃないが、しゃきっとする気にはなれない。
 もうほとんどの生徒は帰宅の途についている。今日を終えれば週末だ。それからその後はいつも通りの授業が始まる。だったら今日の午後だってカラオケでも行ってぱっと騒ごうってのが一般的らしい。屋上でだべろうなんていう輩はどこにも見あたらず、昼休みには必ず人のいるこの場所も今は私達に貸し切られているのだった。
「函子」
「なに?」
「座んなよ」
 フェンスに指をかけてグランドを見ていた私を、忘環さんは覗き込むように見上げていた。グランドでは野球部が早速部活動を始めている。テスト後に即部活に向かえる精神力にはいつも感心させられる。決して行きたくはないのだけど。
「下から見えちゃうよ」
「何が?」
「パンツ」
「ッ……!」
 私は無言で彼女の隣に腰を下ろした。誰かに見られていたわけでもないから、恥ずかしがるのは道理ではない。しかしこの妙な気恥ずかしさは何だ。いや、どうでもいいか。
 座ったまま彼女と同じようにフェンスを背もたれにした。
 見上げた空は高い。白雲はさらに高く、陽光は視界を眩ませた。
 くらくらするような光を眺めてじっとしていたら、
「まだ悩んでるんだ?」
 ぽつりと彼女は切り出した。
 忘環さんから沈黙を破るなんて珍しいこともあるものだ。
「そう見える?」
「今回はテスト週間中も淑やかだったしね」
「失礼な。いつも私はお淑やかだよ」
「そうかい?」
「そうだよ」
「いつもは試験の前後でやれ勉強してないだの赤点が免れぬだの言うじゃないか」
 彼女はどこか懐かしむように零した。
「……まぁね。色々つまらないことで悩んだりもするよ」
「ふむ」
 忘環さんは得心したようにそれだけ言った。どうやら彼女の聞きたいことはそこまでだったようで、彼女は相変わらず空を見上げていた。
「忘環さんは悩みとかなさそうにみえる」
「いやいや。盛大に悩むさ」
「へぇ。どんなこと?」
「非常に子供っぽくて言いずらいんだが」
「聞きたいなぁ」
「……観念しよう。どうも私は誰からも必要とされない気がしてね」
 驚いた。彼女のような人でもそんな思春期っぽい悩みを抱えたりするのだ。
「それいつくらいの話?」
「恥ずかしいことに最近まで」
「ってことはもう解決したんだ?」
「そういうことになるねぇ」
 ということは誰かに必要とされる実感を得たのだろうか。彼女にそんな人がいるのだと思うと、少しだけ、心がざわついた。
「そっか……ぁ」
「ん?」
「いや、聞きたいような、聞きたくないような」
「何を?」
「その話の続き。え? ていうか恋人でもできたの?」
 きょとん。彼女の表情はまさにそんな擬音を浮かべて固まっていた。
「出来てないけど……なんでいきなり恋人?」
「え? えと、だって誰かに必要とされる実感が出来たんじゃないかなって。それって恋人かと思う……じゃん? 思ったの!」
「ああ、そういうこと。いや残念ながらそんな色のある話じゃないかな」
「……なんだ」
「仮に恋人に『僕には君のことが必要だ!』とかそれに類することを言われて、そうだと素直に思えるほど私の頭の中はお花畑だと思うかい?」
「うん、ごめん。全然想像つかない。むしろもう冷笑してる画しか見えない」
「そこまで冷たいだろうか……いや、まぁそれはともかく恋人うんぬんの話じゃないよ」
「じゃあ結論的にはどうなったの?」
「別に誰からも必要とされなくてもいいかなって」
「うわ、忘環さんっぽすぎて面白くない」
「楽しもうとしないでよ」
 彼女はおどけて言ったが、それは本心のように思えた。
「『私は私のために私が必要だ』って言葉を見つけてね。バカみたいなんだけど、それでなんか一気に解決しちゃったんだ」
「自分のために自分が必要……?」
 口に出してみても、私にはよくわからないようだ。彼女のような悩みを持っていたら、あるいはそれも違う印象になるのだろうか。
「そうそう。考えてみたら私以外の人にとって私が必要不可欠なんてのは逆に残酷なことかもしれないなって。だって私が居なくなったら、必要不可欠な人もどうにかなってしまうだろう。そうしたら、その人を必要としてる人もまた同じことになる。とすると帰納的に悲劇が連鎖してくだけだ。だから別にそこまで必要とされなくてもいいんだなって。たぶんちょっとくらいは泣いてくれる人がいるから、それで満足。私は、私が私を軽んじない程度に、自分を必要と思えればそれでいい。……うーん、こういうこと語るのは恥ずかしいね」
 最後にそう呟いた彼女は特に恥ずかしそうにもせず、ぼんやり雲を眺めているだけのように見えた。無意味な嘘をつく人ではないから、表情にみせないだけかもしれない。もともと感情の起伏を見せるタイプでもないし。
「すごいね」
「え? なにが?」
「なんか、答えの出し方が忘環さんらしいっていうか。ちゃんと自分なりの結論を出せちゃうんだね」
「……あー、いや、そう取るか。そんなつもりで話したわけじゃないんだけど」
「私はね、」
 彼女の話を聞いて、少しだけ話をしてみたくなった。できれば彼女に何も気取られないように。
「どっちか決めたいことが、決まらなくて悩んでる。進むか留まるか、みたいなこと。本当は多分、進みたいんだと思う。でも失敗するかもしれないし、後戻りもできない。だから何もしない方がずっと安全。それで結局、もうずっと迷ったままでね。失敗してもそれはそれで別に良いんだけど、その前に結局自分がどうしたいかっていうことが、ずっと決められないままでいる。それがどうもね……」
 忘環さんは「うん」とぽつりと言っただけだった。
 興味がないとか、何か言いたいことがあるけどそれしか言えないとか、そういうわけではなさそうだ。ただ言ったことを受け止めてくれただけ。
「自分の感情がどっちに傾いてるか、なにかで教えてくれればいっそ楽なんだけど」
 だから、それは誰に向けて言ったわけでもなくて、独り言みたいなもののつもりだった。
「忘環さんなら、どうする?」
「……うーん……」
 唸るだけ唸って、彼女の視線はまた空のどこかを泳いだ。
 しばらくたって、「細かい状況が分からないから、そのあたりは適当に補完するけど」と前置きしてから、彼女はしゃべりはじめた。
「どっちにも決めない、かな。判断できる時が来るか、またはもっと別の選択肢が表れるまで、私は決めない。しいて言うなら、選択しないことを決める。……単なる保留になっちゃうかな。うん、でも、きっとそうすると思う」
「そっか。忘環さんならぱしっと決めると思ったけど、そうでもないんだ」
「決めるときは決めるよ。でも悩でるなら決めないかな。何か選択する根拠があっても、悩むならやっぱり決めないし、そんなのなくても、決めるときは決めちゃうし」
 そこで彼女は、言葉を一度きった。「んーと……」と首を傾げて、言葉を探しているようだ。
「……なんか、世の中にはひっかけ問題みたいな選択ってあるじゃないかな、って思うんだよ。選択したら、結局どれでも後悔しちゃうってこと。悩んだら、その問題に行き着いたらもう負けっていうか。だから正答のない選択問題みたいな感じ。でもほら、未来に対する選択に答え合わせなんかないから、結局悩んで選んでもいつまでもすっきりしなかったりして。だから自分が選ぼうと思うまで待つの。世界には答えなんか出ないってことも、たくさんあると思うから」
「私みたいに二者択一のことでも?」
「うん」
 彼女は確信を持って言い切った。まるで答えを知っているように。
 思えば試験が終わってすぐに屋上に行くと言い出したのは忘環さんだった。いつもの彼女の気まぐれかと思ったのだけれど、悩んでいると見えた私に彼女なりに気を使ってくれたのだろう。
 こんなに構ってくれると、甘やかされたいばかりに悩み癖でもついてしまいそうだ。
「ありがとね、いろいろ構ってくれて」
「なにかしら役に立てたのなら良かった」
 ほんのかすかに彼女の頬が緩んだ。相変わらず不意に可愛らしい表情をする。却って憎い。
「じゃあお返しに忘環さんの長い話を聞いてあげよう。しばらく何にも話してなかったから、疼いているんじゃないの?」
「……じゃあ、さっき話題で出た、答えが出ない問題とかに関連して」
 認めたくないけどしぶしぶ、と言った調子で語り始める。ちゃっかりしゃべり始めるのがなんとも彼女らしい。
「ある有名な数学者が、数学が完全であること、つまり、あらゆる事象が数学によって証明できることを示そうとした。その学者の名前にちなんで、この計画はヒルベルトプログラムと呼ばれた」
「中二病っぽいなぁ。そして相変わらずどう繋がるのか分からないところから話を始めるね」
「私の持ち味だから大目に見てくれ。さて、この計画はその参加者の一人によって劇的な結末をも迎える。完全であることを証明しようとした結果、『数学的に』数学が不完全であることを証明してしまったんだ。当然だけど、数学的証明は未来永劫に覆ることはない。それまで多くの数学者にとって、数学は完全なるものと信じられてきて、まさに神だったわけだけど、その証明、ゲーテルの不完全性定理によってその幻想が粉々に打ち砕かれた。で、その証明の喩えが、さっき出てきた、答えのでない二者択一なんだ」
 そこで繋がるわけか。
「良く使われる例が『“私は嘘をついている” これは真か偽か』、って命題。これが答えの出ない二者択一の選択問題。当たり前だけど、“私”の状態は『嘘をついている』あるいは『嘘をついていない』この二つのどちらかだよね。そこで仮に『嘘をついている』のが真だと仮定すると、嘘をついているという発言が嘘なのだから、本当のことを言っていることになるよね。つまり命題の回答は“偽”になる。ところがこれは仮定に矛盾してしまう。同様に、『嘘をついている』ことが偽だと仮定すると、嘘をついているという発言は真なのだから、命題の回答は“真”になる。そしてやはりこれも仮定に矛盾する。こんな風に『考えられる全ての状態をそれぞれ仮定して導かれた結論』が『その全ての仮定と矛盾する』っていうような命題が、数学が理論付ける領域の中に絶対にいくつか存在するっていうことを証明してしまった。数学者達は困惑しただろうね。なにせ今自分の取り組んでいる問題に、答えがないかもしれないって言われたわけだから。そんなことは絶対に“信じない”って怒り狂った人もいたそうだから、その困惑の度合いも分かると思う。数学者が論理の証明に対して主観だけの異議申し立てをしたんだから」
「なんかよく分かんないけど……阿鼻叫喚って感じ?」
「まさにね。完全だと信じていたものの中に、証明不能領域の存在を期せずして証明してしまったわけだから」
「それってさ、問題が証明不能ってこともわからないの?」
「ある命題の真偽について、証明可能か否かを証明することはできない、ってことは証明されてるね」
「あーもう分けわかんなくなってきた! 不完全定理とかなんとかは意地が悪いね」
「そうかな。分からないってのは結構前向きに解釈することもできると思うよ。パンドラの箱だって似たような解釈もあるくらいで。それに函子、この世のなにもかもが理論で証明されるなんて、夢がないじゃない?」
「そんなもの?」
「そんなものだよ」
 忘環さんはそう言い切って、立ち上がった。
「さて、そろそろ行こうか。せっかくの自由な午後だし、甘いものでも食べに行かない?」
 また突然、随分と魅力的な提案が降ってきたものだ。
「行く!」
 応えるように彼女に手を伸ばすと、忘環さんは思い切り腕を引っ張って私を立ち上がらせた。

 恋情というのは厄介なもので、一度他の感情との境界を失ってしまうと、それ自体の正体も曖昧なものになってしまうようだ。
 感情の識別も解なしの問題かな。ああ、でも解けるか否かも分からないのだっけ。別にこんな淡い感情の問題を論理の話に重ねる必要もないのだけれど。ただそれで分からないままでいいのかもしれないと、初めて思えたりもした。
 今は平行なこの関係も、いつかは途切れてしまうような気がしていたのだ。大学はきっと別々の道を行く。今になって急に関係性の終わりを考えてしまったのは、つまりそんなところなのかもしれない。識別不明、証明不能の問いに、無理にでも答えを出したくなっていたのだろうか。答えなんてないかもしれないのに。

 屋上から下駄箱までは、普段よりもちょっとだけ距離が長い。そのせいか、忘環さんはぽつぽつ言葉を零した。
「いつもさ、函子と帰る時は下駄箱まであんまりしゃべらないじゃん」
「うん」
「あの時間、結構好きでね。静かな感じが。スリッパがぱたぱた響くのがなんか面白くて」
 私も、と気軽に答えそうになって、口を閉じた。
 いつもそういうことは忘環さんが教えてくれるだけだったのに、その時は重ね合わせたみたいに同じことを思っていた。
「よく分からない?」
 そう、いつもそうやって答えていた。なんだか別のもっと綺麗な世界の出来事のように感じていたから。
「……ううん、よく分かるよ」
 だから忘環さんの予想を裏切る返答は、思い切りしてやった。彼女はしばし目をしばたかせた後、
「それは嬉しいね」
 と気持ち良さそうに笑った。
 階段を下りるたびにとたんぱたんと靴音が響く。あとどれくらいこの時間を共有できるかなんてわからない。わかるはずもないけれど、この平行な関係がどうやら思った以上に気に入っているようだと、ぼんやり思ったのだった。



 四度目のコール音が鳴り終わると同時に彼女の声が聞こえた。
「もしもし」
「久しぶり! 忘環さん突然なんだけど今週末か来週末、ひま?」
「開けるよ。何かあった?」
「飲みに行こうと思って。これといって話があるわけじゃないから、忙しいなら無理に開けてくれなくてもいいんだけど……」
「いや、せっかくだから。しかし突然なんだい? 寂しがり屋ってわけでもないだろうに」
「友達とお酒を飲みに行くのに理由なんかいらないと思わない?」
「……うーん、どうやらそれは完全に函子に理があるね」

 初めて会ってから九年ほどが経っていた。
 関係性はあまり変わっていない。
 幸いにも、二人ともお酒が大好きだと分かったくらいで。
                           Fin.

       

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Neetsha