Neetel Inside 文芸新都
表紙

かくも遅咲き短篇集・弐
斜陽人間/黒兎

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     ▽

 例えば一〇年前に戻れたとして、自分は後悔するような人生を送るだろうか。
 その答えは、何が起こっても否である。

 柴田寛人は横断歩道を眺めながら歩き出した。毅然とした顔で闊歩する正装族に紛れて、重い息を吐き出した。鉛となった身体は思うように動かず、一歩間違えれば深い青の人影に飲み込まれそうになってしまう。交差する人の波に呑まれない様にするのが精一杯で、保身をする余裕はなかった。
 息が苦しい。肺が痙攣するような痛みに襲われ、外気で汚染されていった。これまでの二〇余年の大半を室内で過ごしてきた寛人にとって、人の呼気と排気煙が入り混じった空気は外敵そのもの。息を止めていた方が、結果的にも楽になれそうだった。
 雨でぬかるんでいるわけでもないのに、うまく歩行することが出来ない。対面から迫ってくる他人に肩をぶつけながら、ピンボールの球が落ちて行くように横断歩道を渡りきる。信号機が明滅を始める。
 逃げるように人込みから逸れて、寛人は最寄りのベンチに倒れ込む。傍から見れば異常なほど脂汗を流していて、蒼白した顔を見ればすぐに救急を呼ばれそうだった。
 周囲の奇異の目線は、今更どうでもいい。
 寛人は肩を上下させながら深呼吸を繰り返し、仰向けになる。
 自分を見下している空は、青かった。
 柴田寛人は恵まれている人間だった。
 小学校の頃は言語能力が極端に低いことに悩まされながらも、快い担任の協力で何とか克服できた。
 中学時代は運動神経の無さを感じたが、優しい友人のおかげで人並みに動けるようになった。
 高校生の時も、大学生の時も、就職活動の時も。
 そして晴れて正社員となった今でさえも、寛人は恵まれすぎていた。他人よりも仕事が出来ない事で叱責を受けることを覚悟していたが、寛大な上司に恵まれ、協力的な同僚に恵まれ、理解のある社長にも恵まれ、奇しくも寛人の社会人一日目は成功を迎えてしまった。
 顔を撫ぜる冷たい風が、軋んだ体内を吹き抜けた。
 鼓膜を打つ革靴の音が、喧騒と混ぜ返る。
 鋭気を匂わせる街並みがやけに遠く感じられて、視界が霞みがかる。いっそこのまま永久に眠りに付けたら楽かもしれない。寛人は揶揄無しにそう感じた。

 例えば一〇年前に戻れたとして、自分は後悔するような人生を送るだろうか。
 その答えは、送らない、ではない。

 徐に寛人は立ち上がって、鞄片手によろよろと歩く。
 辺りに立ち込める靴の擦れる音が、不快に聴覚を刺激した。
 差し伸べられた声はすべて拒否して、自ずから明かりの乏しい路地裏へと踏み込んで行く。この地域は治安が悪く、少しでも人気のないところへ迷い込んでしまえば、行き場を失ったハイエナが寄ってきて、身包み剥いで奪い去って行く。
 それを求めて、寛人は暗いビル街の隙間に滑り込む。
 陽の目を浴びず、水溜りが点在する中をふらつき、自ら槍玉となる寛人。恰好の標的が見つけられてしまうのに、時間は然程要らなかった。
 暗がりに染まってから数分も経たぬ内に、下卑た笑い声が聞こえてくる。闇の中に蠢いている複数の影を見つけると、寛人は安堵の息を吐いて、その場に座り込んだ。
「わざわざ手前の方から俺たちの縄張りに入り込んでくるとは、馬鹿な野郎だ」
 ハイエナと言うのは暗喩をしているわけではなかった。
 彼らは人間の身体を持ってはいるが、首から上は動物のハイエナのものを生やしていた。ハイエナ人間と称される者であったが、認知されにくい名前と当人が及ぶ行為からハイエナそのものを呼ばれるようになっていた。
 ハイエナの数は三人。その内の一人が鼻をひくつかせながら、寛人の身体に顔を寄せる。ハイエナが捕食を行う際に必ずとる行動で、対象の持っている餌を嗅ぎ分けているのである。彼らの嗅覚は本能に正直で、金を求める者は金の匂いのみを嗅ぎ付け、食料を求める者は食料の匂いのみを淘汰していた。
 だがそのハイエナは眉根を寄せると、寛人から離れて立ち上がる。
「■■■。駄目だコイツ、金の匂いも何もしねえ」
 認識できない言葉は、彼らの間でのみ伝えられる個々の呼称、人間でいう名前。
 寛人は薄汚れた上体を起こし、怪訝の表情を浮かべた。
 そんなはずがない。ポケットの中には万札の入った財布を忍ばせているし、鞄には通帳だって入っている。自らの欲する物であれば何でも感知する彼らの鼻が、見つけられないわけがない。寛人は自分の口から金の在り処を伝えようとしたが、言葉の通じない彼らの耳に届くことはない。
「何? おい、ちょっとどけ■■■」
 残る二人の内上背の高い一人が寛人の前に屈み込むと、動揺の動作を行う。口の周りがひどく汚れている所から、食に飢えたハイエナという事はすぐに分かった。
「奇妙な奴だな、食いモンの匂いもまるでしない。■■■、お前も嗅いでみろ」
 最後の一人も寛人の匂いを嗅ぎ分けるが、沈黙のまま頭を横に振った。
「何だコイツ、俺たちの欲しいモン何一つ持っちゃいねえぞ」
「巫山戯た野郎だな。こんな奴相手にする意味はない。おい、次の獲物探すぞ」
 何度か舌打ちをしながら、ハイエナ達は何一つ危害を加えることなく、再び宵闇の中へと姿を消していく。彼らは暗闇でしか生きられない存在。こうして迷い込んだ者から収奪を繰り返すことでしか、生きることが出来ない。
 だが寛人が考えている事は、そんな事ではなかった。
 鞄の中には、通帳が分かり易いように入っている。最後の一人は何を欲していたか分からなかったが、二人目の欲する食糧、惣菜パンも二つほど、その顔を覗かせていた。嗅覚が異常に発達した故に視覚が退化してしまった彼らには認識できなかった。とは言っても、食べ物をみすみす見逃してしまうなんて、ハイエナらしからぬミスだった。
 寛人には、その根本の原因が分かっていた。
 分かっているからこそ今こうして路地裏に迷い込んだ振りをして、ハイエナに何もかも奪い去られたかった。恵まれすぎている自分からそれを掠め取ってほしかった。
 冷たいビルの壁にもたれかかると、寛人は煙草に火をつける。肺の中に充満する紫煙を溜め込んで一気に吐き出してしまう。いつしか喘息が出るようになってしまったが、人間の二酸化炭素の方が寛人にとってはよっぽど有害だった。
 暗闇でさえ自分を優しく包み込んでいるような錯覚を感じる。彼方から聞こえる街中の喧騒が子守歌となって鼓膜をくすぐって、寛人に眠気を覚えさせる。
 こんな事、望んでなどいない。
 寛人は歪んだ言葉で唱えた。月は優しく微笑んでいた。
 自分は完成された人生なんて、最初から望んでいない。
 言葉が上手く口にできないならばそれでいい。
 運動が出来ないのであればそれでいい。
 勉強ができないのあればそれでいい。
 社交辞令が出来ないのであればそれでいい。
 上手くいかないくらいがちょうどいい。
 上手くいかないくらいがちょうどいい。
 それなのに周囲の人間は、寛人が良くなる方向にしか指先を示さず、彼が成長することに喜びを覚え、共にその道を歩もうとする。彼がいくら不機嫌な態度を取ろうとも、諦めることなくその手を繋がんとする。彼を厭うことなく、日々、前に進ませようとする。
 柴田寛人は決して才のある人間ではなかったが、周囲の人間による不必要な世話を必要以上に受け、人並みにではあるが生活していけるだけの能力を植え付けられた。
 他人から妬まれることは一度もなかった。虐めを受けることもなかった。寛人と関わった殆どの人間が彼の事を憂い、自分の事を犠牲にしてまでも寛人に尽くしていた。一般的な人間の行動としては規範的なものだったが、その数が甚だ以上だった。
 寛人の事を見捨てた人間など、片手で数えるまでもなかった。記憶違いでなければ、一人も存在しなかった。誰も、寛人が失敗することを望んでいないようだった。

 例えば一〇年前に戻れたとして、柴田寛人は後悔するような人生を送るだろうか。
 その答えは「送ることが出来ない」だった。
 
 他人から有り余るほどの手助けを受けてきた寛人には、まるで用意されていたかのような成功街道しか存在しない。彼が道を踏み外さないように縁には幾那由多の人が並び、それは棺に至るまで延々と続いていた。
 寛人のために喜んで尽くす他人に、今更不満顔をぶつけるわけにもいかず、寛人は造り笑顔で予め作られてあった道を進むことしか出来ない。
 心が苦しかった。ガムテープできつく閉じられているようだった。
 本当の自分を曝け出しているにもかかわらず、他人はそれさえも肯定して、それが受け入れられる世界を作ろうとする。先刻のハイエナもそうだった。何故か彼らは自分の持つ金や食べ物を嗅ぎ分けられず、何故かみすみす見逃した。それは寛人が運に恵まれているからだった。
 本当はどうしようもない、没落していく人生を望んでいるのに、周囲がそうはさせてはくれない。自分がどれほど愚かな行為を犯そうとも、ポジティブな方向を持ち上げて行く。自分のために動く人間を気遣ってあまり拒絶してこなかった結果、最底辺にいるはずだった自分は今、新調したスーツと共に路地裏にへたり込んでいる。
 鞄の中で携帯の着信音が鳴っていた。世話好きの友人の一人が、自分の出世を憚ってまで今日の初出勤をサポートしてくれていた。その彼からの電話だった。恐らくなかなか帰ってこない寛人のことを心配しているのだろう。彼以外からも数多の連絡が雲霞のようにやって来た。寛人は取る気がないのに、それでも際限なく携帯は鳴り続けた。
 寛人は携帯を取り出し、電池を抜くと水溜りに放り投げた。程なく、騒がしかった路地裏は元の静寂を取り戻して、寛人は再び一人の世界に耽る。
 これからどうするかなんて、何も考えてはいなかった。いつも誰かが付きっきりだった寛人にとって、今日は数少ない道を踏み外すことが出来る瞬間だった。だから帰り道を逸れて人気のない路地裏まで逃げ込んだのは良かったのだが、ここに留まっていれば見つかってしまうのは時間の問題。誰がどうやってといった具体的な方法は思いつかなかったが、それでも見知った誰かが必ずこの状況から自分を救い出すのだと感じていた。
「もうそんな生き方は、したくない」
 薄く開けられた口から、本音が漏れる。
「誰かの助けばかり受けてまで、生きようとは思わない」
 それは、今まで何度も吐いてきた言葉。
 その度に正面から受け入れられて、肯定で塗り潰された言葉。
「これ以上僕を助けるような真似は、止めてくれ」
 虚空に乾いた言葉が浮かんだ。
 夜風がかき消すように吹き抜けて、全て包んだ。
 いつもそうだった。本音を吐き出した時は誰かが受け止めるか、騒音に包まれるかだった。何物もその言葉を遮ったり切り捨てたりはせず、優しく受け入れていた。誰も寛人を否定しようとしなかった。
 だが、今日は何かが違った。
 寛人の弱り切った心をかすかにひっかくものが、確かに聞こえた。
 それは本当に微弱なもので、耳を澄ましていなければ聞き取れないほど小さかったが、

 こつ、

 と、静穏に包まれた暗闇の中で、かすかに響いた。
「――――――足、音?」
 コンクリートを打つ、靴の音。
 日中、会社内で良く耳にしていた足音が、寛人の座りこんでいる路地裏で小さく打ち鳴らされた。ただ壁に何かが打ち付けられているのではなく、人間の足を持った生物が靴を履いて鳴らしている音だった。
 別に、普通の足音なら良く耳を澄ませば離れた街中から十分すぎるほど聞こえてくる。
 だがそれらを完全に拒絶した今は、聞き取れる範疇にそれらはいない。それは則ち、他人の起こす足音など受け入れないと寛人が決め込んだ証拠だった。
 それでも尚、空気を揺らすのは路地裏に奥から響く小さな足音。
 街の暗がりから聞こえる、寛人を誘うように奏でる足音。
 それは確かに、呼んでいた。言葉ではなかったが、その足音は寛人の事を呼んでいた。饒舌なタップダンスでもなく、踵でコンクリートを打ち鳴らして、手招いていた。
 力の入らない身体で、寛人は立ち上がる。
 目の前に見える暗闇は、手を伸ばしても掴めない。その先にある物なんて、飢えた人非人の巣窟か街の残骸だと知れている。掴む価値なんてない。
 だが今は、その先に足音が居る。
 止むことのない明瞭な音が、ビル街の裏に反響している。
 足音が待つ場所に、何かがあるとは限らない。もしかしたら誰かが音を立てて歩いているだけかもしれないし、極限状態に陥ったが故の幻聴である可能性も捨てきれない。迷い人を喰らわんとする獣が待ち伏せているかも知れない。
 それでも純粋に、寛人は思った。
「…………僕を呼んでいるのは、誰?」
 震える足取りは覚束無いが、壁を支えにしながら進む。陰で照らされた真っ黒な空間の中、足元を確かめながらゆっくり進んで行く。
 少し進んだだけでも、足音が大きくなったのが分かった。意外にも近い距離に居るのか、雑音の中でもはっきりと聞き取れそうなほど、漸進的に足音は高潮する。予想以上に深い闇の中で見失いそうになるが、一筋の光のようにそれは鳴り続ける。すぐ目の前に人が歩いていてもおかしくないほど足音は大きくなったが、その主の姿は未だに現れない。深淵はまだ、黙って動かないまま。
 後ろを振り返っても、もはやそこに光はない。
 そこにいるのは息を切らしながら歩く寛人と、呼吸をしない闇。
 足音は手の届かない場所で、延々と寛人を誘い続けている。
 次第に疑念が脳裏を過る。この足音は絶望に臥した自分の下に舞い降りた光のようなものだと数秒前までは錯覚していたが、寛人は徐々に表情を険しいものにしていった。草臥れていた意識が息を吹き返して、その場に寛人は立ち止まった。
 後押しするように、風は背中を押す。もしくは、空気が暗闇の中へと吸い込まれている。
 どちらにせよそれは、寛人を無明の闇へ手繰り寄せていた。
 不信感が募り、嫌な汗が噴き出し始める。荒れていた呼吸が平静になり、健常な精神を取り戻した寛人は、漸く自分が陥った異変を感じ取った。
 後ろを振り返っても、前を見据えてみても、そこは漆黒の世界。
 左右は壁に阻まれていて、前後に進む他に道はない。
 そこで初めて、寛人はこの光の届かない空間に閉じ込められたのだと錯覚した。
 そうではなかったかもしれない。歩いてきた道を辿ればいつも通りの喧騒が待ち構えているかもしれない。
 まだ元の世界に戻る手立ては、少なくともこの時はまだあった、かもしれない。
 しかしもう、時は待ってくれていなかった。
 足音はすぐ傍にまで、歩み寄っていた。
「こんばんは。いや、こんにちは、かな」
 足音はしなやかな声で、滑らかに言葉を並べた。
 その姿を確認することは出来なかったが、手を伸ばすとそこには体温があった。
 声の主は寛人の手を取ると、先立って歩いた。
「こんなところで立ち話もなんだから、中へどうぞ」
 吹き付けていた風が、立ち所に止む。

 導かれるままに寛人が踏み入ったのは、知らないジャズの流れる喫茶店。
 橙の間接灯で照らされた店内はレトロな雰囲気で満たされていて、極度の緊張感に晒されていた寛人の心を揉み解した。窓にはすべて暖色のカーテンがかけられていて、外から迫る暗闇を遮断しているようだった。
 足音の主は寛人を近くの座席に座らせると、笑顔で言った。
「何もない店だけど、ゆっくりしていってね。今あたたかいものを淹れよう」
 彼がコーヒー豆の感を開けると、芳ばしい香りが広がった。
 寛人はテーブルの上に視線を落とす。茶色い豆の木のスタンド・ランプには、この店の名前が彫られていた。バロックチョコレートと言う洒落た名前だった。
 寛人はひどく落ち着いていた。
 足音の主――カウンターに立っている喫茶店の店主が気さくだからでも、芳醇なコーヒーの香りを嗅いだからでもない。この店に立ち入った瞬間から、寛人の心はチョコレートの海に浸かってしまったようにほどけきって、地から足が離れた感覚に陥っていた。
 今までこんな心情になることは一度もなかった。
 必要以上に周囲が心配をかけてくる以上、心が穏やかになることは殆どなかった。
 あったとしても、それは独りで夜に閉じこもっている時ぐらいだった。
 だが今は、それとは比べ物にならないほど心が軽く、浮足立っている。作り方を覚えていれば、笑顔さえ浮かべられそうだった。店の中に漂っている暖かな陽気に寛人の身体も暖かな陽気に包まれていくようだった。
「はい、どうぞ。熱いから気を付けてね」
 寛人の眼前に、コーヒーカップが差し出される。左手でカップを触ると脊髄反射が起きそうなほど熱かったので、冷めるのを待つことにした。店主はカウンターに立って、寛人に背を向けていた。学校の教室ほどの店内に他の客はいないようで、片づけでもしているのだろうと推した。
 備え付けのスティックシュガーを破りながら、寛人は小さく息を吐き出した。
 この喫茶店にいると汚れた社会に浸かっていた身体が不思議と頭から洗われて行くようだった。座席の座り心地は決して良いとは言えなかったが、それさえも上塗りするキャラメルリボンのような空気が肺の中を埋め尽くし、五臓を蹂躙して全身に開放感を覚えさせた。立ち上るコーヒーの香りも相まって、寛人の緊張はすっかり解けきってしまった。
 コーヒーを一気に飲み下す。
 ほろ苦い熱さが胃袋に染み込んでいった。
「さて、一息ついたところで早速なんだけど、」
 店主は濡れた両手を前から提げたエプロンで拭き、寛人の向かいに座る。
「君が逃げ出したいのは、何かな?」
「――――え?」寛人は思わず、頓狂な声を上げた。
「君は一体、何から逃げて来たのかと訊いているんだよ」
 店主はにこやかに話す。柱時計が六時丁度を告げていた。
「ここを訪れる人間は何かしら、逃げ出したいものがあってやって来ている。この間やって来た青年も深刻そうに悩んでいたからね。君も何か、胸中に抱える物があるんだろう?」
「……考えたこともありません。逃げたい物なんてないです」
「そうか」店主は片手に空のカップを持ち、立ち上がる。「だけどそれはただ無いんじゃなくて、覚えていなかったり、見落としてしまっているだけかもしれないよ」
 何を言いたいのか、塵とも理解できなかった。別に自分は疾しいことなど何一つ抱えてはいないし、悩みも何も持ち合わせていない。これまで生きてきた中で逃げ出そうと思ったことなど一度もない。店主の言う通りもしかしたら忘れてしまっているだけかもしれないが、それこそ記憶力のいい自分が忘れるはずはなかった。
 自分の周りには快い人間が多かった。
 小学校の頃には言語障害を克服し、
 中学時代は運動もできるようになった。
 高校時代も、大学時代も、良き他人に恵まれて今日まで生きることが出来た。
 逃げ出したいことなんて、何もない。
「なるほど、周囲に助けられてばかりで自ずから成果を上げることが出来ず、遣り所のない怒りを周囲にぶつけ続けてきた自分からの逃走、か」
 自分を助けてくれた人には感謝してもしきれない。彼らがいなければ今の僕はきっと存在していない。だからそんな人々の期待を裏切らないためにも、頑張って生きていく他に道はなかった。頑張って生きていく他に道は、なかった。
「それでは最後に、一つだけ聞いておこう」
 男は肘をついて手を組み、無機質に言い放った。
「君の名前は?」

 ……………………
 ……………………………………

 気が付くと、目の前は白色の街だった。
 重く圧し掛かる曇天の下には鉄の箱が盤目状に並び、背広を着た色素の薄い人間が言葉もなく立ち尽くしている。錆びついた車は呼吸を止めてしまっていて、信号機は何色が灯っているのか全く分からない。街灯も顔を曇らせ、静穏が街中を満たしている。
 その中で正常に動いているのは僕だけだった。周りの人間は皆意識が欠如してしまっているのか、死んだ魚のように瞳孔が白く、まるで石像のように固まっている。少し手で触れると、その部分がぼろぼろと崩れてしまった。僕は怖くなって手を引っ込めた。
「よう、兄さんもここへやって来たのかい」
 しゃがれた声に振り向くと、缶ビールを持った老人が少し離れた場所で僕の事を睨むように見ていた。僕は人の間をすり抜けて、手の届く位置にまで近づいた。
「お爺さんは、誰ですか?」
「ジジイなんて呼ばれる年じゃねえし、名乗るような名前もねえ」
 老人は思い切りよくアルコールを煽り、げひゃげひゃと笑う。
「それより手前、五体満足でここにいるってえことは、手前もあの足音を聴いたんだな」
「足音?」その単語を聞いて、僕は首を傾げた。「聴いた覚えがあるような、無いような。否定しきれないという事は、恐らく聴いたんだと思います」
「だろうな、じゃなきゃ平然としてられるはずがねえ」
 ぐこぐこと喉を鳴らしながら、老人は尚も言葉を紡ぐ。
「で、お前、自分の名前は分かるか」
「名前、ですか。僕は、……」
 言葉に詰まった。記憶の中で「自分の名前」と言う情報を探してみるが、見つかる気配がない。思い出そうとしても、フィルターがかけられているようでうまく思い出せない。
 名前があるのは知っているのだけど、その名前自体が欠落してしまっているのか、欠片も思い出すことが出来ない。
「……思い出せない」一息の後、僕は言う。「分かりません。何処かで失くしました」
「そうか。じゃあお前も、あの碌でもない男に誑かされたんだな」
「あの男?」と、僕は訊き返した。
「辺鄙な酒場を営業してる、青二才だ」
 そう言って、老人は痰を吐いた。それはなんとなく、覚えている気がする。確かあの時僕は路地裏で不思議な足音に導かれて、名前も知らない男に連れられて店の中へと入って行った。そしてそこで苦いコーヒーを飲んで、それから、覚えていない。
「あの人が、何か僕にまじないでもかけたんですか?」と僕は言った。
「まじないだったら、どれだけ平和的だっただろうよ」と老人は答えた。
 どうやら、思っているよりも事態は深刻なようだった。老人の端的な説明によればここは僕がさっきまでいた世界とは少しだけ違う空間らしく、異なる規律で成り立っている世界らしい。特定の条件を満たさなければ、ここにやって来ることはないそうだ。
「あの人間の群れも、人間の様で人間じゃねえ。触ってみりゃ分かる」
 老人は近くにいた人間の眼球を指でつまんだ。脆くも崩れたそれは切った爪のようにばらばらになって、地面に降り注いでいった。
「これは、一体……? 塩か、何かですか?」
「塩だったら塩の街とでも言えるだろうがな。俺の口から言えたことじゃねえよ」
 目許に皺を折りたたみ、老人は人の良い笑みを浮かべた。
「それで、ここに来た人はどうなるんですか?」
「どうもこうもねえよ」老人は目を細める。「己の本能のままに、進んで行くだけだ」
 僕はじっと、その言葉に耳を傾けた。
「この世界の自分がどこにいるかくらい、察しがつくだろう?」


 僕は人の波を分け入って、横断歩道を渡る。
「この世界の、自分か」
 そもそもこの世界が本当に別の次元に存在する物なのか、信じられていなかった。老人の言う事を鵜呑みにするわけにはいかない。
 ただ老人の言う、この世界の自分と言う存在は探してみる価値がありそうだった。
「確か路地裏で足音を聞いて、そしたらあの店主に……」
 記憶の断片を繋ぎ合わせながら、あの時の僕が通ったはずの道を進む。曖昧にしか覚えていなかったが、見覚えのあるベンチが視界に入って、確信した。
 真っ白な空が見下ろす中、僕は小さな路地裏に足を踏み入れる。ここを通っている時に妙な足音が聞こえてきて、導かれるままに歩いて行くと、あの店があった。先刻の老人はあの店の主人がこの世界を引き起こしている原因だと言っている風があったので、店に行ってみればきっと全てが分かるはず。そう信じて僕は狭い道を進んで行った。路地裏は思っていたよりも暗くはなかった。程なくして、ビルの壁に寄り掛かって項垂れている人がいるのを見かけた。行き倒れか、と嘆息して先を急いだ。
 路地裏は天然の迷路になっていて、なかなか目的の場所にたどり着くことが出来ない。あの時は謎の足音を手掛かりに何とか到達する事が出来たけれど、今は目印になる物は何一つとしてない。何度も同じような場所を行ったり来たりしながら路地裏を彷徨ってみても、距離が縮まっているかさえ分からない。あの時は暗闇で手を掴まれて連れられたので、店がどのような外観をしているかも分からないのだ。
 十数分ほど歩いてみても、さっぱり場所が掴めない。一度戻って、あの老人に詳しい話を聞いた方が良さそうだ。そう考えて、僕は路地裏から外に出ようとした。だけどどうやって出たらいいか見当もつかなかった。辺りは既に闇に覆われていた。
 僕は自分が陥っている状況を漸く理解した。
 路地裏の相当深いところまで踏み込んでしまっている。
 外に出るには左手の法則を使えばいいが、かなりの時間を要するだろう。あの店を捜そうと意気込んで踏み入ったはいいが、そこから出られなくなってしまっては意味がない。自分の不甲斐なさに溜息が漏れた。
 僕は壁伝いに地道に進んで行こうと手を伸ばし、

 そしてそれを、見知らぬ誰かに掴まれた。

「――――!?」
「どうも、こんにちは」
 いつの間にか背後には、闇に潜む影が立っていた。気配は全く感じなかったが、野太い男の声を持った何かが、壁に触れようとする僕の腕を引っ掴んでいた。
 僕は慌てて振り解こうとするが、左手に力が入らず、段々と痺れてくる。余程強い力で掴まれているようで、猛烈な痛みに顔が引き攣った。右手も加勢して拘束を逃れようとするが、男の指先はビクともしない。尋常でない力が腕に加わり、骨が折れてしまいそうだった。
「お前の欲しい物、望むもの、奪いたい物。ここにそれは、ない」
 影はもう片方の手で、僕の視界を奪う。
「お前もこれから、それを待ち続けるのだ」

 次の瞬間、僕の顔は鋭利な爪によってぐちゃぐちゃに引き裂かれて、

 ……………………
 ………………………………

「おや、早い帰りですね」
 店に入ってきた老人を見て、彼は驚き気味に笑った。
「てっきり、あの青年にレクチャーでもしてるのかと思いましたよ」
「そんなことしたところで、規律が変わるわけでもねえだろう」
 老人はカウンター席に座り、不機嫌そうに舌打った。
「しかもその規律を書き記してんのがお前だから、尚更意味がねえ」
「分かりませんよ。僕にだって人としての感情はありますし、何か心変わりがあるかもわかりません。何事も決めつけてしまうのは勿体ない」
「お前に限ってそれはねえな」
 そう吐き捨てて、老人は缶ビールを飲み干す。
「だったら、何故この世界が存在するのか説明してもらおうか」
「……なるほど、その質問には答えかねます」
「そうだろう? 結局のところ、お前は自分が不利になる情報を漏らしはしねえ」
 げひゃひゃと笑って、老人は言う。
「んなことより、丁度酒が切れてんだ。今日の勧めでも貰おうか」
「はいはい……承知しました。それでは、」
 店主はカクテルグラスを取り出しながら、にこやかに笑う。

「――――ヴェネチアン・サンセット、など如何でしょう」
 カクテルの名前を聞くと、老人は皮肉を込めた笑みを浮かべ、
「……へっ、随分とジョークが好きな事で」




     ▽▽▽ ▽

「――――おい、来たぞ」
 見張り役の合図を聞き、僕は俯いていた顔をもたげる。
 僅かに光が漏れている空間に、一人の人間が走り込んできていた。
 相当息を切らしているようで、肩が上下しているのがシルエットでも分かる。時折漏らしているうめき声からして男の様で、疲れているのか影に溶けるなりすぐに座り込んだ。彼らが言うには、これほど体力を消耗している時は絶好のチャンスだそうだ。
「躊躇することはない、気付かれぬよう踏み込んで、“喰”え」
 助言を賜って、僕は背中を押される。足音を立てぬように男に忍び寄り、少し離れたところで、鼻先で男の発する匂いを感じ取った。美味そうな、匂いだった。
 男が鞄を持っている所と背広を着ている所から、彼はどうやら会社員の様で、言動から察するに会社が嫌で逃げ出してきたようだった。それで、こんな路地裏に隠れているのだろうと、僕は懐かしみを覚えながら考えた。
 無駄な思考を削り、僕は男のすぐ近くにまで接近する。男の口数が減った。僕に気付いているのかどうかは分からなかった。分かっていても逃げ出すことは出来ないと思ったからだ。

 違う。
 逃げ出さないと思ったからだ。

 真正面に屈み込み、僕は男と向き合う。
 懐かしい顔だった。
 鏡の前で何度も観てきた顔だった。
 男は無表情で僕の事を見つめ、何も言葉を発さなかった。
「喰ウ」
 僕は牙の並んだ口を動かし、ぎこちなく喋る。
「ああ」
 男はそれだけ答えて目を瞑った。
 僕は大きく口を開け、男の頭を牙で挟み込み、咀嚼した。


「僕ノ名前ハ――――」


 足音は、待ち続けている。

     

斜陽人間が出来るまで

■3/13ぐらい
 足音をシンボルとした昔話など調べるが、なかなかいいものが見つからない。暗喩として使うことを諦めて、普通に話の中で足音を使うことにする。
■3/20
 特に話が思いつかず、ふと過去の作品を読み返す。象牙海岸を読んでまたこんな感じで書きたいなと思い、その時積んでいた太宰治の「斜陽」が目に入り、大体のタイトル決定。その日のうちにプロットを書き上げて寝る。
■3/21~
 執筆期間。昔の方が良い文章を書けていたと思うようになり、軽いスランプ。月末までで3000文字ほどしか書けなかった。30日頃、初稿ボツ。全て書き直し。
■4/1~6
 サークル活動でいっぱいいっぱい。
■4/7
 締め切りまで一週間切ってるとか笑えない。全然書けない。何度も没原稿が出来る。
■4/10~
 ようやく筆が乗って来たが、時すでに遅し。とても間に合う時間ではなかった。
■4/14 午前三時ごろ
 一日強遅れたけれども無事提出完了。

 良く聴いた音楽
 toe
 FoZZtone
 Cruyff in the bedroom
 tha cabs
 lego big morl など

 読んだ(参考にした?)小説
 斜陽 / 太宰治
 心臓狩り / 梅原克文

 とても楽しかったです。ありがとうございました!

       

表紙

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Neetsha