Neetel Inside 文芸新都
表紙

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 賢吾が突然わたしの家を訪ねてきたのは、その日の夜のことだった。
「ちょっと顔を見たくてさ、有給取って来た」
 玄関先でそう言う賢吾は、スーツ姿のままだった。鞄を玄関に置き、やっぱり実家は安心するねえ、などと言いながら部屋に入っていく。今年で二十九になる賢吾の後姿は、歳相応にくたびれて見え、ふとした瞬間に、亡き夫の姿が重なって見えた。
 二人で夫の仏壇に線香をあげたあと、夕食をとった。急な訪問だったから、賢吾の分の夕食は用意していない。今から作るから、少し待ってくれとわたしが言うと、賢吾はもう買ってきたから大丈夫だと言い、ハンバーガーチェーンの紙袋を見せた。体に悪いから別のものを食べろ、いやもう買ってちゃったし、という押し問答を経て、結局わたしと賢吾で別々のものを食べることになった。
 テーブルで向かい合って、夕食を食べる。わたしは箸で焼き魚をつまみ、賢吾は大きなハンバーガーを大口を開けて頬張る。
 ちぐはぐな食卓だった。
「連絡くらいしてちょうだいよ」
「ごめん、タイミングがなかった」
「仕事、休んで大丈夫なの?」
「社会人も、もう五年目だしね。一日くらいなら、なんとか」
「忙しいのねえ。あ、何か飲む? ビールあるわよ」
「母さん、酒飲むようになったの?」
「やあね。わたしな訳がないでしょ。こないだ、ご近所さんからもらったのよ。もう飲む人もいないし、どうしようかちょうど困ってたの」
「ふうん。じゃ、もらおうかな」
 わたしは立ち上がり、冷蔵庫の奥に入れていたビールを引っ張りだす。
 背後から、探るような賢吾の視線を感じた。……いや、これもわたしの気にしすぎなのだろうか。
 なんでもないような表情を装い、コップとビール缶をテーブルの上に置く。ありがと、と賢吾は短く言い、プルトップを開けた。ぷしゅ、という音が、部屋に響いた。
「そんなに心配だった?」
 わたしが聞くと、口元まで近づけたコップが止まった。
「何のこと?」
「わたしが手術で別人になってないかを確かめるために、見に来たんでしょう?」
「別に、そういうわけじゃないけど」
 賢吾は鼻で笑うと目を逸らし、コップを一息で空にした。
「誤魔化そうとしたってだめよ。あんた、嘘つくのヘタなんだから」
 そう言って睨みつけると、賢吾は参ったな、といって鼻をかいた。
「で、どうなの。何か変わってた? 正直に言いなさいよ」
 賢吾はもういちど、参ったなあ、と呟き、
「正直に言うと、全然変わってないね。電話と実際に会うのとじゃまた違うかと思ったけど……」
「変わらないでしょ?」
「うん、まあね」
 賢吾は煮え切らない返事をして、またビールをもう一杯飲む。胸の中に、もやもやとした不快感が広がった。
「何なの? 言いたいことがあるなら、はっきり言いなさい」
 気がつくと、わたしは思いがけない強い声で怒鳴っていた。コップを持った賢吾が弾かれたように顔を上げる。
「コソコソと探るような真似をして。いったい何がしたいの。そんなにわたしが信用できないの? わたしが自分の振りをしたアンドロイドって言いたいの? 自分がボケるのが怖くて手術を受けるのが、そんなに気に入らないの。アンタに迷惑をかけるのも悪いからって自分で決めたのに、いつまでもそうやって疑ってばかり。そんなに今のわたしが気に入らないなら、もう放っておいてよ!」
 鼻がつまり、視界がぼやけた。そのままわたしは箸を置き、夕食を片付ける。賢吾は呆然とした顔で、それを見ていた。
「ごめん、母さん。別にそんなつもりじゃ」
「だったら、どういうつもりだって言


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「ちょっと、母さん!」
 賢吾の追いすがる声を無視して、わたしは階段を駆け上がり、二階の寝室に入ってドアを閉める。
 遅れて、賢吾がドタドタと階段を上ってくる音。
「母さん……」
「何? わたしはもう寝るわよ。あなたももう寝なさい」
 さっきまでの怒りは、今はもう、嘘のように引いている。残ったのは、細い刺されたような、悲しみ。
「違うんだ……ごめん。やっぱりほら、ネットでも色んな噂があってさ。両親が手術を受けたっていう同僚は、安心だって言ってたけど、やっぱり心配で」
「親の言葉より、ネットの噂の方が正しいと思っているわけね。だったらもう、ずっと疑ってなさい」
 私がそう返すと、賢吾は手を組んで唸った。
「だからごめん、悪かったよ。確かに手術した母さんの気持ちも考えずに、変に疑った態度ばかりとったのは悪かった。一番心配なのは母さん自身だもんな。ごめん」
 わたしはもう返事をしなかった。賢吾はうつむき、ゆっくりと部屋を出て行く。
「でもやっぱり、母さんは母さんだなって、確信したよ」
 そう言い残し、賢吾はごめん、ともう一度呟いて、階段を下りていった。


 母の見舞いに来ていた。
 西向きの窓からは、禍々しいほど赤い夕日が差し込み、室内に陰鬱な黒い影を落としている。
 母は相変わらず横たわり、わたしはベッドサイドに立っていた。
 わたしは母の耳元で、お母さん、お母さん、と必死に叫ぶ。お母さん。わたしを呼んで。いつものあの挨拶をして。
 ベッドの反対側には、流動食のチューブを持った山中さんが立っていて、あらあら三橋さん挨拶は? 挨拶は? いつもの挨拶は? と、笑顔で繰り返していた。
 母は目を瞑り、天井を向いている。
 西日はますます赤々と燃え盛り、部屋の全てを血の色に染める。山中さんの声がどんどんと大きくなり、赤ちゃんの夜泣きを千人分集めたような、ぎゃあぎゃあと不快な叫び声に変わっていた。
 だめだ、こんな騒音じゃ、お母さんにわたしの声が届かない。わたしは耳を塞ぎ、母の耳にほとんど口をつけるようにして、お母さん、お母さん、と叫ぶ。お母さん。返事をして。いつもの挨拶をして。
 すると母がぐるりとこちらを向き、真っ暗な両眼を見開いて言った。
「お前は誰だ」


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 わたしはベッドから飛び起きた。
 汗をびっしょりと全身にかいている。呼吸を整えながら、まなじりの涙を手で拭った。ひどい眩暈もあるが、すぐ波が引くように収まっていく。
 何故、わたしはこんなに汗をかいているのだろう。
 布団から出てみるが、室温も高くない。額に手を当ててみるが、風邪というわけではない。目覚めた直後の呼吸の荒さも、すぐに消えた。
 これではまるで、悪夢を見たみたいだ。
 夢なんて全く見なかったのに。
 ベッドサイドの時計は、朝九時を指している。わたしはゆっくりと体を起こす。
 リビングに降りると、テーブルに賢吾からの置手紙があった。
『昨日は本当にごめん。俺もいろいろ、ナイーブになりすぎてたかもしれない。反省したよ。またお盆に帰る。今度はちゃんと連絡するよ。 賢吾』
 本当に悪いと思っているなら、ちゃんと口で謝っていけばいいのに、と少し腹が立つ。だがそれを今更言っても仕方がない。手紙を丸め、ゴミ箱に捨てた。
 朝食の準備をしようとキッチンに入ろうとして、リビングにあるデスクトップPCの電源が、ついたままであることに気付く。夫が亡くなってから、ほとんど起動した覚えはなかった。おそらく昨日、賢吾が使っていたのだろう。全く、こういうところがだらしない。電源を切ろうとして……ふと、昨日の賢吾の言葉を思い出した。
『ネットでも色んな噂があってさ……』
 肩にずしりと、嫌な重さを感じた。
 わたしは椅子に座って、マウスを操作して、インターネットのブラウザを開く。今でこそあまりPCに触れていないが、昔は仕事で当たり前のようにPCを使っていた。基本的な操作は一通り分かる。
 ブラウザの履歴を開く。
 案の定、そこには今までに開かれたページのリストが、大量に残っていた。ページを開いた時刻は、昨日の深夜、わたしが眠りについてから三時間後だ。
 わたしはそのリストを一つ一つ、クリックしていく。DBAG手術に関する、一種のコミュニティサイトのようだった。手術を受けた人や家族の感想が、クリックするたびに次々と画面に現われていく。
『調整期は辛かったけど、今は快適に過ごせています』
『手術して良かった』
『孫も喜んでいます』
 ……開かれているページの大半は、手術について好意的なものばかりだった。こうしたポジティブな意見を一つ一つ読みながら、自分を納得させている賢吾の姿が見えるようだ。わたしは思わず苦笑を漏らした。
『危険! 知らされていないDBAG手術の真実』
 不意にそんなタイトルの記事が画面にあらわれ、わたしは思わず手を止めた。日付は昨日わたしが寝室に入った直後。おそらく、賢吾が最初に見たページだ。
 ページの文字は、DBAGを実施する病院で働いているという、ある個人によるものだ。書かれている文字は、いたる場所がどぎつい赤色で強調されており、いかにもうさんくさい。
 だが、わたしの鼓動は、否応なしに高まった。
『DBAG装着者の人格は、本当に手術前と同じなのか?』
 そんな見出しが、目に飛び込んできたからだ。
 息を整え、記事をゆっくり、目で追っていく。
『DBAGは、脳内の神経を補助するもの。脳そのものを書き換えるわけではない、と説明されます。それ自体に間違いはありません。ですが、DBAGの開発者は、この装置が持つもう一つの重大な機能を隠しています。それは、健忘――記憶喪失を意図的に引き起こす機能です」
 記憶喪失……。
 胸の中で、何かが引っかかった。ような気がした。
『もともと、脳に電流を流すと、短期的な記憶喪失を引き起こす場合があることは知られていました。DBAGは電流を流す位置と強度を調整することで、記憶喪失を自由に起こすことが可能です。開発者は、この機能を実装した理由について、認知症進行の原因となるストレス要因を取り除き、進行を遅らせるためだと説明しています』
 そういえば、以前度忘れが起きたときも、ショックを受けるようなことを言われた気がする。
 だが――。
 背中が総毛だった。
 あの時何を言われたのか、思い出せないのだ。

『ですが、私は思うのです。リアルタイムで脳神経を監視し、必要な刺激のみを足し、不要と判断した記憶や感情を消去する。それはもはや、脳機能の補助などではなく、機械による脳の操作ではないかと』

 ――本当はあんたの意識なんてとっくになくなっててさ、機械の命令どおりに人間のふりをしてるだけ……って可能性もあるよな。

『実際、患者の肉親や親しい人物が、手術直後の患者に違和感を覚えるケースも多いようです』

 ――……いや、本当に元気になったね。まるで別人だよ。

『ではなぜ、問題にならないのか。その原因は、手術後に行われる“調整”にあります。これは脳神経コントロールによる人格操作の微調整を行い、元々の患者の人格に近づけるためのものなのです』

 ――過渡期ですよ。すぐ落ち着きます。

『同時に患者の健忘もまた、コントロールされます。患者が自分の記憶を忘れていたことすら、忘れるように』
 
 ――時々、意識が途切れるといったことはありましたか? ふと気がついたら全然別の場所にいて、後からその間の記憶を思い出す、というような……。

 わたしはいまや、全身を激しい震えに襲われていた。
 大きな度忘れをしたのは、二度目の調整でトキタ医師に告げた一回だけだと思っていた。
 だが……それは本当だろうか?
 もしかしたらわたしは、記憶をなくしたことすら、忘れているのではないか?
 そんな思いが、奇妙な実感と共に、意識の底からわき起こる。
 急に眩暈が始まった。
 もう、これ以上読まないほうがいい。
 頭の中で、そんな警告が鳴り響く。
 だが、ここまで知って、今更手を止めるわけにもいかない。
 わたしは心を奮い立たせ、続きを読んだ。
『調整が終わってしまえば、たとえ肉親であっても、手術前後の患者の人格の変化は全く分かりません。患者の脳神経の動きを完全に再現しているのですから当然です。一方、患者本人の意識はどうなるのでしょうか。筆者自身が手術を受けたわけではないので、分かりません。ですが、機械に常にコントロールされる意識は、もはや本人のものと言えないのではないでしょうか。そして、そのことには、患者自身すら気付けないのです』
 もう限界だった。わたしは立ち上がり、耳の裏の機器を反射的につかんで引きちぎろうと……。
『目に異物を入れるわけですから、眼球の形が変わるんです。それによって、見え方も変わってくる。だからしばらくは、細かく調整しなくちゃならない』
 突然、トキタ医師の声が鮮明に脳裏に蘇った。
 二回目の調整のときに聞いた言葉だ。あのときは、DBAGの機能をコンタクトレンズに例えて説明された。しかし……形が変わる、という言葉が、妙に引っかかる。
 形の変わった脳は、果たして機器を外したあとも、正常に機能するのだろうか?
 いや。
 違う。
 わたしは唐突に、もっと恐ろしい、別の考えに行き当たった。
 今、わたしがそう危惧したのは、果たして本当にわたしの意思なのか? 
 DBAGが自衛のために、わたしにそう思わせたのではないのか?
 そう考えた瞬間、眩暈がますます酷くなった。わたしはしゃがみこみ、頭を抱える。
 様々な声が、頭の中でエコーする。

「おばあちゃん、だれ?」
「なんで挨拶しないんですかー?」
「お世話になります」
「お母さん」
「お世話になります」
「お母さん」
「お世話になります」
「お母さん!」
 
「お前は誰だ」

 手術後に消えてしまった感情や記憶がどれだけあったのか。懸命に思い出そうとしても、脳裏に蘇るのは、腹立たしいほどに矛盾無く整然とした記憶ばかりだ。
 わたしは、わたしなのか。分からない。気付けない。
 今のわたしには、わたし自身を疑うことすらできない。
 わたしは
 わたしは
 わたしは――!
 自分の(あるいは誰かの)口から、押し出されるように、かすかな呟きが漏れた。


「わたしは……誰なの?」


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Neetsha