Neetel Inside 文芸新都
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安部公房風:「巨人の手のひら」

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 それを見たとき、男は真っ先に、幻覚を疑ったのだ。
 
 交差点を一本曲がった、住宅地を通る路地だった。幅三メートルほどの、車線で区切られていない道だ。路地の両端には、灰色のブロック塀がみっしりと立ち並び、ところどころに立つ街灯が、照らすというよりはあたりの闇を強調するように、寒々しい光を投げかけている。その道をまっすぐ通り抜け、どん詰まりを左に曲がれば、男のアパートにたどり着くはずだった。男は疲れきった体を布団に横たえることだけを考えながら、うつむきがちに歩いていたのだ。

 そして、ふと頭に影が差したような気がして見上げると、そこには巨大な腕があった。

 腕は、道いっぱいをふさぐようにして、地面から生えていた。ブロック塀越しの一軒屋と比べると、高さはおよそ四、五メートルもあろうか。開ききった掌が、空を覆っている。視線を下げていくと、大樹の幹のようなごつごつとした前腕がその下に続き、そこから先は、地面に開いた穴の中に没していた。穴の周りには、アスファルトのくずが、砕いたクッキーのように散らばっている。

 男は突然の光景に、逃げることも、いや、瞬きすることすら出来ずに、ただ石像のように立ち尽くしていた。右ふくらはぎに残っている古い縫合跡が、引きつれたようにうずく。男がかちて、中学生の夏休みに友人とキャンプに行ったときに野犬に噛まれた傷だ。飛び出してきた野犬を見て固まる友人らを尻目に、男は一目散に逃げ出した。昔から犬が苦手だったのだ。だが、野犬はそれを見て男を執拗に追いかけ回し、噛み付いた。実際のところ、犬は逃げるものをむしろ好んで追いかける習性があるという。男はそれを、入院した後に知った。

(――動いてはいけない)
 掌から男までの距離は、わずか二、三メートルほどしかない。そのまま打ち下ろされれば、男は一瞬で叩き潰されてしまうだろう。脇に冷たい汗が流れるのがわかった。

(しかし、これは本当に現実なのか)
 当たり前に考えれば、目の前の状況はありえない。これほど巨大な、かつ人間とそっくりな掌が存在するなど、ありえるはずもない。では、例えば、現代でいまだ発見されていない何か別の生き物が地下に埋まっていて、いま偶然に目覚めたのだろうか? いや、それもありえない。都市の開発は、地上だけでなく、はるか地下にまで及んでいる。腕が突き破っているアスファルトのその下には、上水道があり、下水道があり、さらにその下の地下には、もしかしたら地下鉄の線路も走っているかもしれない。いずれにせよ、これほどの巨大な生物が、発見されずに埋まっていられるだけのスペースが存在するはずもないのだ。

 だが、どれだけ理性で否定しても、目をそっとつむり、もう一度見開いてみても、その巨大な腕は、どうしようもなくそこに存在するのだった。それどころか、時間が経てば経つほど、その輪郭はますます鮮明となり、より細かなディテイルが描かれていくようだった。手首には、水道管ほどもある動脈が力強く波打ち、砂漠の風紋のような、あるいは齢を重ねた巨木の表面のような深い皺が、掌の表面に複雑な模様を描いている。さらに観察していると、腕はごくゆっくりとしたリズムで、上下に揺れ動いているようだった。その腕の下に巨大な何かが潜み、呼吸していることを暗示するかのように。
 
 だが、男はなおも、これが夢の一端ではないか、という希望にすがりつく。必死に今日の記憶について、思いをめぐらせた。何か齟齬はないか。悪夢にありがちな、脈絡のない、支離滅裂な出来事が紛れ込んではいないか。だが、彼の記憶もまた、どこまでも正常だった。朝七時に家を出た。汗と加齢臭とねずみ色のスーツにまみれた列車に揺られて出勤し、ひたすらパソコンのキーボードを叩き、上司の叱責に耐え、追加される案件に冷や汗をかき、オフィスに響く怒鳴り声に怯え、ギリギリで最終電車に乗り込み、また酒とタバコと加齢臭にまみれた車両で一人薄い文庫本を読んだ。何一つ変わりのない、いつも通りの生活。思えば、日々がこの繰り返しでしかないのだ。仮に夢の中であっても、寸分たがえずに思い出せてしまうほどに……。
 もっと詳細な、現実を実感させるような、細かい今日の記憶を探らなければ。例えば、デスクに置いた缶コーヒーに刺さるタバコの本数。口から泡を飛ばして部下を叱責するプロジェクトリーダーの顔。天井のエアコンから薄く漂うかびの臭い。社員たちの、黄色く濁った目の色。そうだ。今日は確か、リーダーの鼻の穴から、一本の長い毛が出ていたっけ……。

 だが、男のとめどない記憶の探索をかき消すように、空気がむわりと動いた。
 はっと顔を上げると、腕がゆっくりと、さらに天高くに突き上げられ、左右に大きく振れはじめたところだった。電信柱のような指が手がかりを探すように何度も宙をかく。
 穴からは新たに二の腕までが現れ、太くなった直径にあわせて、アスファルトが不気味な音を立てて盛り上がる。こぶしほどもある欠片が、地面に落ち、また細かく砕け散った。

 逃げるか。
 それは新たな恐怖の出現であると同時に、膠着状態を脱する、またとないタイミングだった。夢であろうと、現実であろうと構うものか。男は腕を見据えたまま、じりじりと後ずさり、向こうの角までの距離を測ろうと、ちらりと後ろを振り返った。

 瞬間、強烈な衝撃が全身を貫く。
 男はもんどりうって地面に倒れこんだ。視界がぐるぐると周る。ああ、ついに手に叩き潰されて死んだのだ。いや、違う。それにしては、体に痛みがない。視界がはっきりしてくると、腕が空中で激しく暴れていた。ブロック塀を掠め、男の頭上を凄まじい速度で腕が通過していく。不気味に歪んだ風鳴りと共に、烈風が、男に叩きつけられた。さきほどの衝撃も、この風だったのだ。

 やがて、腕がブロック塀を掴んだ。指が塀を握り締めると、べぎりと聞いたこともない音をたててひ亀裂が入り、次いで、腕の筋肉が音を立てて盛り上がる。穴の周囲にさらなる亀裂が入った。男は呆けたような表情で、それを見つめている。もはや、逃げようという気力すら萎えていた。股間に温かいものが流れていくのが分かる。
 メリメリと音を立ててアスファルトの穴が広がり、男の眼前で大きく裂けた。続いて、穴の下から、何か巨大なシルエットが、ゆっくりと持ち上がって……。

 そして男は爆笑した。
 やはり、これは夢だったのだ。いや、そうでなければ、幻覚なのかもしれない。それにしても、いやに現実味のある幻もあったものだ。こんな……。まさかこんな妙なものを見ることになるとは。
 その顔は、いつも怒鳴り散らしているプロジェクトリーダーの顔だった。腫れぼったい目を不機嫌そうにしょぼつかせ、鷲鼻からは、木の枝ほどもある一本の鼻毛が伸び、口角の下がりきった唇の端、泡が溜まっている。いつも男をネチネチと叱責し、不機嫌そうにオフィスの奥へふんぞり返っている中年の男。その詳細な拡大コピーが目の前にあった。
 男はなおも狂ったように笑い続ける。それを見たリーダーの顔が、不機嫌そうな表情のまま、おもむろに口を開いた。
「まぁーーーーだぁーーーーーーおーーーわってーーーないのかァーーーねーーーーー」
 風と共に、口から轟音が溢れ出し、あたりを包む。とたんに男の笑みがひっこみ、代わりに苦悶の表情がその顔を覆った。耳をふさぐが、しかし、ほとんど意味はない。ネバネバとした唾の塊が、容赦なく彼の全身に降りかかる。怒号続いた。
「さっきからーーーーーーーー全然ーーーーーすすんでいないじゃあーーーないかぁーーーーー」
 電信柱が、アスファルトが、地面が、世界が激しく振動する。
 しかし、男はこの恫喝を聞いて怯えるどころか、逆に耳をふさいだまま目をカッと見開き、リーダーの顔を睨み付けた。幻覚だと分かってから、先ほどまでの恐怖はすっかりと消えうせている。かわりに去来したのは、憤怒だ。胸の奥に、融けた鉄のような熱さで、暴力的な衝動がドロドロと渦を巻いている。
「他のォーーーーみんなと比べてェーーーーー遅すぎやしないかねェーーーー」
「うるさいッ!」
 男はついに声に出して叫んだ。顔の発する怒号と比べると、激流の小舟のようにはかない声だったが、しかしリーダーの耳にはしっかり届いたようだ。弾かれたように声が止まり、その目が大きく見開かれ、男を見つめた。
「俺だって必死にやってるんだ! 黙って見てろよッ!!」
 訪れた痛いくらいの静寂を、男の声が一筋の剣となって引き裂く。リーダーの顔に、みるみる赤みが差し、その表情が激烈な怒りの表情に変わった。だが男はひるまない。どうせこれは夢だ。幻覚だ。ならば、言いたいことを言ってやる!
「だいたいなんだ! 指示はコロコロ変わる、自分の責任は全部部下のせい、挙句の果てに、クソみたいな言いがかりや嫌がらせばっかりしやがって! いなくなるべきなのは……消えるべきなのはお前の方だ! この老害! 死んじまえッ!」
 リーダーが再び叫んだ。もはや何を言っているのかも分からない轟音が鳴り響く。顔は真っ赤に燃え、見開かれた両目はギラギラと発光した。
 だが男は立ち上がり、こぶしを握り締める。彼の顔も怒りで真っ赤に燃えていた。
「なんで、夢の中でまで、てめぇにビビらなきゃならねえんだ。もう頭に来た。てめえ、ぶん殴ってやる! かかってこい、この野郎!」
 男はこぶしを思いきり振りかぶり、目の前の顔に向けて打ち付けた。どうせ幻覚だ。これで霞のように消え去るか、あるいはベッドで目を覚ますか――。

 しかし、どちらでもなかった。予想外の衝撃が男のこぶしを跳ね返し、そして男の全身と意識を、一瞬のうちに破壊した。



 それは、いかにも奇妙な事故だった。
 発見答辞、現場は酷い有様だったという。道幅ギリギリの路地を4トントラックがぶつかりながら通行したため、あたりの電柱はへし折れ、ブロック塀にはところどころ亀裂が入っていた。被害者の男性は、例えその意思があったにせよ、おそらく避ける余裕もなかっただろう。
 トラックに正面からひき潰された男性は、そのままタイヤに巻き込まれ、全身を強く打って死んだ。トラックはそのまま交差点に飛び出し、道路の中央に植えられた街路樹に激突して停止。運転手はその際の衝撃で頭を強く打ち、こちらも即死だった。

 運転手は最後までブレーキを踏んだ形跡がなかったことから、警察は事故の原因を居眠り運転と断定。しかし、建築用材料を運ぶこのトラックが本来通るべき幹線道路を外れ、何故わざわざこの細い路地に入り込んだのか、その理由は分からない。運転手がここ数ヶ月激務をこなしていたことから、朦朧とした意識の中で道を勘違いしたのではないか、と一応の推測がなされているようだ。

 しかし、もっと奇妙だったのは、被害者の男が死の間際にとった行動だろう。ドライブレコーダーに記録されていた映像には、男がなぜか、路地の真ん中に倒れている様子が映し出されていた。さらに奇妙なことに、男はトラックの接近と同時に急に立ち上がり、あろうことか、こぶしを振り上げて真っ直ぐ突っ込んできたのだ。その顔には一切の怯えもなく、ただ煮えたぎるような憤怒の表情があったという。まるで、強大な敵に立ち向かうかのように……。当然、男が何故このような、自殺とも取れるような行動をとったのか、その理由は判然としていない。ただ、被害者が職場で孤立し、日常的に強いストレスに晒されていたことから、警察は何らかの幻覚・幻聴を見ていたのではないかとみている。

 男の上司――会社ではプロジェクトリーダーと呼ばれていた――は、警察の聴取に対し涙ながらにこう訴えたそうだ。

「ええ。彼は責任感の強い社員でした。もしかしたら、仕事の重圧に押しつぶされてしまったのかもしれません。私がもっと事前に気付いてあげることができれば……。悔やんでも悔やみきれませんよ」

       

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