Error Code -眩暈-
わたしは夢を見る。
誰かが、わたしのすぐそばで、何かを叫ぶ夢。
だけど、その声が何を言っているのか、どれだけ耳を凝らしても分からない。
そんな夢。
<<エラーコード:C307 超過ノイズを確認>>
<<削除を実行します>>
午後だった。差し込む日差しの傾きで、それが分かった。
わたしは重たい体をベッドから引き剥がし、枕元のデジタル時計を確認する。午後二時四十六分。少し寝すぎてしまったようだ。
何か……何かよくない夢を見た気がするが、それを思い出そうとした瞬間、酷い頭痛と眩暈に襲われた。
最近はずっとこうだ。
自室が、まるで他人の部屋のように感じられるのもいつものこと。落下直前のジェットコースターにいるような、寒気を伴う浮遊感に憑(つ)きまとわれるのも、いつものこと。
二週間前に『調整』をすませたばかりだと言うのに、最近のわたしは、調子を崩してばかりいる。心も体も。
右手で、軽くこめかみを押さえた。
「過渡期ですよ」
前に調整を受けたときの、トキタ医師の声が耳元で蘇る。
指をすべらせ、右耳のうしろ、裏側を確かめた。指先にふれる、すべやかなシリコンの感覚。反対側の耳にも、同じものが着いている。
「大丈夫、もう少しすれば落ち着きます」
こころの奥底に沁み入るような、低く、よく通る声。頭の中で繰りかえすうち、少し落ち着いた。
病院に行かなくては。
わたしは立ち上がる。
「過渡期ですよ」
トキタ医師は、前回と同じことを、わたしに言った。
「大丈夫、もう少しすれば、落ち着きます」
「前も聞きましたよ、それ」
「ありゃ、そうだったかな」
咎めるような口調になってしまったが、トキタ医師は、さして気にしていないようだ。
「こりゃあ、調整の必要があるのは、僕のほうかもしれませんなあ」
そんな風に言って、おどけてみせる。
わたしは笑った。ずんぐりむっくりの体に、小熊みたいな目。愛嬌たっぷりの見た目と、快活な態度で、トキタ医師は院内ではちょっとした人気者だ。神経質になりがちな患者たちにとって、彼の存在は大きな癒しなのだろう。もちろん、わたしにとっても。
彼の耳の裏にも、わたしと同じものが着けられている。5円玉くらいの直径しかない、シリコン製の小さな電極。DBAG。ディープブレイン……何だっけ?
「じゃあ、今回はちょっと、言い方を変えてみますかなあ」
トキタ医師は、そう言って微笑んだ。
「三橋さん、コンタクトレンズって使ったことあります?」
「ええ」
このところは面倒になってメガネを愛用しているが、昔はよく使っていた。
「あれだって、使いはじめのころは、馴染むまでに時間がかかったでしょう? 異物感があったり、見え方が違って戸惑ったり……」
「そうだったかもしれませんね」
「目に異物を入れるわけですから、眼球の形が変わるんです。それによって、見え方も変わってくる。だからしばらくは度数を細かく調整しなくちゃならない。僕なんかほら、乱視が入ってたから、最初の1か月は結構大変でしたわ」
だっはっは。と笑う。
わたしはまた、指先で耳の裏に触れた。電極には今、調整のためにコードが繋がれていた。機械と言うより、何か別種の生き物のようなその質感。
「でも、やっぱり不安です」
トキタ医師が、笑いを止めてこちらを見た。
「これは、脳に刺激を与えるものでしょう? 目よりも、もっと複雑な……。やっぱり、人によって、合う、合わないがあるんじゃないかって」
「まぁまぁまぁ」
思わず勢い込んで続けようとしたところを、穏やかに制された。
「そのために調整があるんですよ。確かに、脳は目よりもずっと複雑で、個々の脳に合わせるには、もっと複雑な手順が必要ですな。その間、不快な思いをさせちゃう事もあります。だけど……大丈夫、今の技術は進歩してますから。それに、こう言っちゃうとなんですが……、三橋さんの症状はむしろ調整期の反応としては正常なんですよ」
ほらね、と言って、トキタ医師は、手に持っていたタブレット端末をわたしの方に見せてくる。
端末には、人間の脳の3Dモデルが表示されていた。赤から緑までのグラデーションの濃淡で、鮮やかに彩られている。その隣には、様々な数値と、おそらく脳波を示すのだろう、様々な波形が表示されていた。
「どうです?」
「どうです、って言われても……」
「びっくりするくらい、順調なんですよ。そりゃもう、経過観察の教科書になるくらい」
ほんとは患者さんに見せちゃいけないんですけどね、トキタ医師はそう言って、また快活に笑う。
本当なんだろうか。
しかし、調整を受けてはじめてから、眩暈が嘘のように治まっていることも、また確かだった。
「さあ、そろそろ終わりです。長話に付き合わせて、すみませんな」
トキタ医師はタブレットを操作し、わたしの電極に繋がるコードに触れた。
穏やかな目をわたしと合わせ、
「過渡期ですよ、大丈夫」
また、同じ言葉を繰り返す。
「もう少しすれば、落ち着きます」
<<プロセス2:自律モードを起動>>
<<モニタリングを開始します>>
それから一週間。確かに、大きな不調はなかった。ときどき強い眩暈に襲われるのは相変わらずだったが、以前よりはずっと頻度は少なくなっている。
母の見舞いに来ていた。
窓の外には、熱したガラスのような太陽があった。窓の手前には、簡素なベッド。日を受けて、がりがりに痩せた母の半身に、濃い影が落ちる。
「……でね、こんにちは、って言ったのに、目も合わさずに逃げちゃうのよ」
消毒液と、石鹸の匂い。
「美香ちゃん、前は元気に挨拶してくれてたのに、ちょっと寂しくなっちゃったわ。反抗期なのかしらね。確か、そろそろ誕生日だったはずよ。もう五歳になるんだって。ちょっと前まで、あんなに小さかったのに、子どもの成長は早いわねえ……」
……それと、微かな老いの匂い。長らく使っていない倉庫に入った時、舞い散る黴と似た匂い。
「そうそう、賢吾から電話があったのよ。最近ちょくちょく連絡してくるようになってね。わたしが手術受けたから、心配してるのかしら。全然平気なのにね」
母は、わたしの言葉を黙って聞いている。認知症が進み、全てが曖昧な状態だ。一時期は互いに大変な思いをしたが、今は介護師のケアもあり、かなり落ち着いている。わたしの話を、黙って聞いてくれるくらいには。
見舞いに来るのは、手術を受けてからは、これが初めてだ。
だらだらと続く会話を、携帯電話の振動音がさえぎった。かばんの中で、マナーモードにした携帯が震えている。取り出して確認すると、また賢吾からだった。どうしたのだろう。
一旦電話を切り、だいぶ日が傾いていることに気付いた。意外に長く話し込んでしまったらしい。そろそろ夕暮れだ。
「お母さん、じゃあまた来るね」
枯れ木のような手を握り、わたしは母の耳元で話しかける。彼女はそれを聞くと、蚊の鳴くような細い声で、「お世話になります」と言った。
わたしは返事をせずに、ちょうど入れ違いに入ってきた看護士さんに挨拶をして、病室を出る。
「お世話になります、お世話になります」
背中に追いすがる、母の声。
彼女はもう随分前から、わたしが実の娘であることすら、認識できていない。
「いや、特に用事ってわけでも、ないんだけどさ」
電話越しの賢吾の口調は、歯切れが悪かった。
「元気かなあ、と思って」
夕暮れ。わたしは帰路についている。道路を走る車はまばらだ。影絵のような街並み。買い物帰りの主婦やら、私服の小学生やらのシルエットが、歩くわたしを追い越していく。
「どうなんだよ、術後の経過ってやつ? ディープブレイン……何とか」
「ディープ・ブレイン・アジャスト・ギア」
「そう、それそれ。俺もネットで調べたけど、手術直後が一番大変だ、って聞くからさ」
「確かに、最初は眩暈が酷かったわねえ。でも、今は大分平気。トキタ先生も、月末の調整までにはだいぶ馴染むだろう、って」
「トキタ先生、ねえ」
反復する賢吾の語尾に、微妙な棘が混じった。
「俺、やっぱりあんまり好きになれないんだよな、あの人」
「何で? いい人よ」
「その『いい人』、ってとこが、気に食わないんだ。あの態度、何だか、作り物くさいんだよな」
「そうかしら? 院内では人気者みたいだけど」
わたしがそう言うと、賢吾は、ふぅん、と不満げに唸った。
「まあ、いいさ。とにかく、元気ならいいんだ。何というか……もっと別人みたいになってるかと思ったから」
「バカねえ」
わたしは笑った。
「トキタ先生も説明してたじゃないの。これは脳神経の働きを補助するものであって、人格をいじったりするようなものじゃないって」
――弱まった水の流れに、ポンプをで勢いをつけてやるようなもんですな。
トキタ医師の声を思い出す。
「そりゃそうなんだけどさぁ……やっぱりイマイチ信用できないんだよなあ」
「トキタ先生も怪しいし?」
「……まあ、それもあるかな」
「大丈夫よ。特に変わったところはないでしょう?」
「うん。少し安心したよ。何だかいつも通り過ぎて、拍子抜けなくらいだ」
それからまた、少し雑談をした。調整期の症状のこと、お向かいに住む美香ちゃんのこと、母の見舞いに行ったこと……。
今日は話してばっかりだな、とふと思った。
「……いや、本当に元気になったね。まるで別人だよ。もう少し大人しい方が良かったかもしれない」
苦笑い混じりに賢吾が言う。
「あら、さっきまで心配してたくせに」
「元気になりすぎるのも問題だなあ。十歳くらいは若返ったんじゃない?」
「褒めても何も出ないわよ?」
笑いあったところで、家の前に着いた。
「じゃあ、もう家に着いたから、また」
「ああ、わかった」
「……お盆には帰ってくるの?」
「うん、今年は何とか。親父の墓参りにも行きたいしね。母さんも気をつけなよ。頭は若返っても、体はおばあちゃんのままなんだから」
「失礼ね。まだ六十三よ。パートの仕事だって、まだまだ現役なんだから」
「はいはい。まぁ、そんだけ減らず口が言えれば十分か」
玄関を開けようとすると、向かいの家のドアが開き、鈴木さん一家が出てきた。
ご主人の名前は岬さんで、奥さんの名前が香織さん。夫婦に手を引かれて歩く女の子は、今年で五歳になる美香ちゃんだ。これから外食にでも行くのだろうか。
「こんばんは」
わたしに気付いた香織さんが、折り目正しく挨拶をしてくる。今どき珍しいくらい、柔和な女性だ。
「こんばんは。……外食ですか?」
「ええ、今日は美香の誕生日なんです」
「あら、そうだったの。素敵ねえ」
そろそろだと思っていたが、まさか今日だったとは。そう思ってみると、美香ちゃんは、普段よりよそゆきの服を着ている。嬉しいのだろう。満面の笑顔で母の手を握り、ぶんぶんと振り回していた。
「美香ちゃん、今年でいくつになったの?」
わたしが尋ねると、その笑顔が、みるみる強張った。彼女はわたしの質問に答えもせず、両親の後ろに隠れてしまう。
「こら、美香。ちゃんとお返事しなさい」
岬さんが声をかけるが、彼女は母親のワンピースの裾を掴んだまま、動こうともしない。
「すいません、昔はあんなに懐いてたのに、最近どうも人見知りが酷くて」
香織さんが、困ったように笑う。
「いえいえ、そういう年頃って、誰にでもありますから」
そこからごく短い、近所づきあい用の雑談を交わす。
別れ際、美香ちゃんに手を振った。
ほら、お婆ちゃんにバイバイは? 香織さんが催促するが、美香ちゃんは固い表情を崩さない。
ただ、隠れた母親の背中から、顔だけ出してぼそりと言った。
「おばあちゃん、だれ?」
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軽い眩暈が収まると、わたしは食卓の前に座っていた。
目の前には、一人分の食事が湯気を立てている。
おひたしに、里芋とそぼろ肉の煮物。自家製の糠漬けと白米、味噌汁。
あれ、いつの間に。
……と、疑問に思う間もなく、わたしはこの食事を自分で作ったことを思い出す。くたくたと沸き立つ鍋の湯の音や、米を研ぐ時のさらりとした感触、糠床の胸が膨らむような香りも。
いやだわ、度忘れかしら。
誰に聞かせるでもない、苦笑が漏れた。
耳の後ろに手を滑らせ、ひんやりとしたシリコンに触れる。
一瞬、眩暈がした。
どこかに何かを置き忘れてきたような、胸の空隙。と不安。
だがそれも、手を合わせ、箸を手に取るころには消えている。
夕飯を食べはじめた。いつものわたしの味。