Neetel Inside 文芸新都
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Error Code -眩暈-


 わたしは夢を見る。
 誰かが、わたしのすぐそばで、何かを叫ぶ夢。
 だけど、その声が何を言っているのか、どれだけ耳を凝らしても分からない。
 そんな夢。
 
 
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 午後だった。差し込む日差しの傾きで、それが分かった。
 わたしは重たい体をベッドから引き剥がし、枕元のデジタル時計を確認する。午後二時四十六分。少し寝すぎてしまったようだ。
 何か……何かよくない夢を見た気がするが、それを思い出そうとした瞬間、酷い頭痛と眩暈に襲われた。
 最近はずっとこうだ。
 自室が、まるで他人の部屋のように感じられるのもいつものこと。落下直前のジェットコースターにいるような、寒気を伴う浮遊感に憑(つ)きまとわれるのも、いつものこと。
 二週間前に『調整』をすませたばかりだと言うのに、最近のわたしは、調子を崩してばかりいる。心も体も。
 右手で、軽くこめかみを押さえた。
「過渡期ですよ」
 前に調整を受けたときの、トキタ医師の声が耳元で蘇る。
 指をすべらせ、右耳のうしろ、裏側を確かめた。指先にふれる、すべやかなシリコンの感覚。反対側の耳にも、同じものが着いている。
「大丈夫、もう少しすれば落ち着きます」
 こころの奥底に沁み入るような、低く、よく通る声。頭の中で繰りかえすうち、少し落ち着いた。
 病院に行かなくては。
 わたしは立ち上がる。


「過渡期ですよ」
 トキタ医師は、前回と同じことを、わたしに言った。
「大丈夫、もう少しすれば、落ち着きます」
「前も聞きましたよ、それ」
「ありゃ、そうだったかな」
 咎めるような口調になってしまったが、トキタ医師は、さして気にしていないようだ。
「こりゃあ、調整の必要があるのは、僕のほうかもしれませんなあ」
 そんな風に言って、おどけてみせる。
 わたしは笑った。ずんぐりむっくりの体に、小熊みたいな目。愛嬌たっぷりの見た目と、快活な態度で、トキタ医師は院内ではちょっとした人気者だ。神経質になりがちな患者たちにとって、彼の存在は大きな癒しなのだろう。もちろん、わたしにとっても。
 彼の耳の裏にも、わたしと同じものが着けられている。5円玉くらいの直径しかない、シリコン製の小さな電極。DBAG。ディープブレイン……何だっけ?
「じゃあ、今回はちょっと、言い方を変えてみますかなあ」 
 トキタ医師は、そう言って微笑んだ。
「三橋さん、コンタクトレンズって使ったことあります?」
「ええ」
 このところは面倒になってメガネを愛用しているが、昔はよく使っていた。
「あれだって、使いはじめのころは、馴染むまでに時間がかかったでしょう? 異物感があったり、見え方が違って戸惑ったり……」
「そうだったかもしれませんね」
「目に異物を入れるわけですから、眼球の形が変わるんです。それによって、見え方も変わってくる。だからしばらくは度数を細かく調整しなくちゃならない。僕なんかほら、乱視が入ってたから、最初の1か月は結構大変でしたわ」
 だっはっは。と笑う。
 わたしはまた、指先で耳の裏に触れた。電極には今、調整のためにコードが繋がれていた。機械と言うより、何か別種の生き物のようなその質感。
「でも、やっぱり不安です」
 トキタ医師が、笑いを止めてこちらを見た。
「これは、脳に刺激を与えるものでしょう? 目よりも、もっと複雑な……。やっぱり、人によって、合う、合わないがあるんじゃないかって」
「まぁまぁまぁ」
 思わず勢い込んで続けようとしたところを、穏やかに制された。
「そのために調整があるんですよ。確かに、脳は目よりもずっと複雑で、個々の脳に合わせるには、もっと複雑な手順が必要ですな。その間、不快な思いをさせちゃう事もあります。だけど……大丈夫、今の技術は進歩してますから。それに、こう言っちゃうとなんですが……、三橋さんの症状はむしろ調整期の反応としては正常なんですよ」
 ほらね、と言って、トキタ医師は、手に持っていたタブレット端末をわたしの方に見せてくる。
 端末には、人間の脳の3Dモデルが表示されていた。赤から緑までのグラデーションの濃淡で、鮮やかに彩られている。その隣には、様々な数値と、おそらく脳波を示すのだろう、様々な波形が表示されていた。
「どうです?」
「どうです、って言われても……」
「びっくりするくらい、順調なんですよ。そりゃもう、経過観察の教科書になるくらい」
 ほんとは患者さんに見せちゃいけないんですけどね、トキタ医師はそう言って、また快活に笑う。
 本当なんだろうか。
 しかし、調整を受けてはじめてから、眩暈が嘘のように治まっていることも、また確かだった。
「さあ、そろそろ終わりです。長話に付き合わせて、すみませんな」
 トキタ医師はタブレットを操作し、わたしの電極に繋がるコードに触れた。
 穏やかな目をわたしと合わせ、
「過渡期ですよ、大丈夫」
 また、同じ言葉を繰り返す。
「もう少しすれば、落ち着きます」


<<プロセス2:自律モードを起動>>
<<モニタリングを開始します>>


 それから一週間。確かに、大きな不調はなかった。ときどき強い眩暈に襲われるのは相変わらずだったが、以前よりはずっと頻度は少なくなっている。
 母の見舞いに来ていた。
 窓の外には、熱したガラスのような太陽があった。窓の手前には、簡素なベッド。日を受けて、がりがりに痩せた母の半身に、濃い影が落ちる。
「……でね、こんにちは、って言ったのに、目も合わさずに逃げちゃうのよ」
 消毒液と、石鹸の匂い。
「美香ちゃん、前は元気に挨拶してくれてたのに、ちょっと寂しくなっちゃったわ。反抗期なのかしらね。確か、そろそろ誕生日だったはずよ。もう五歳になるんだって。ちょっと前まで、あんなに小さかったのに、子どもの成長は早いわねえ……」
 ……それと、微かな老いの匂い。長らく使っていない倉庫に入った時、舞い散る黴と似た匂い。
「そうそう、賢吾から電話があったのよ。最近ちょくちょく連絡してくるようになってね。わたしが手術受けたから、心配してるのかしら。全然平気なのにね」
 母は、わたしの言葉を黙って聞いている。認知症が進み、全てが曖昧な状態だ。一時期は互いに大変な思いをしたが、今は介護師のケアもあり、かなり落ち着いている。わたしの話を、黙って聞いてくれるくらいには。
 見舞いに来るのは、手術を受けてからは、これが初めてだ。
 だらだらと続く会話を、携帯電話の振動音がさえぎった。かばんの中で、マナーモードにした携帯が震えている。取り出して確認すると、また賢吾からだった。どうしたのだろう。
 一旦電話を切り、だいぶ日が傾いていることに気付いた。意外に長く話し込んでしまったらしい。そろそろ夕暮れだ。
「お母さん、じゃあまた来るね」
 枯れ木のような手を握り、わたしは母の耳元で話しかける。彼女はそれを聞くと、蚊の鳴くような細い声で、「お世話になります」と言った。
 わたしは返事をせずに、ちょうど入れ違いに入ってきた看護士さんに挨拶をして、病室を出る。
「お世話になります、お世話になります」
 背中に追いすがる、母の声。
 彼女はもう随分前から、わたしが実の娘であることすら、認識できていない。
 
 
「いや、特に用事ってわけでも、ないんだけどさ」
 電話越しの賢吾の口調は、歯切れが悪かった。
「元気かなあ、と思って」
 夕暮れ。わたしは帰路についている。道路を走る車はまばらだ。影絵のような街並み。買い物帰りの主婦やら、私服の小学生やらのシルエットが、歩くわたしを追い越していく。
「どうなんだよ、術後の経過ってやつ? ディープブレイン……何とか」
「ディープ・ブレイン・アジャスト・ギア」
「そう、それそれ。俺もネットで調べたけど、手術直後が一番大変だ、って聞くからさ」
「確かに、最初は眩暈が酷かったわねえ。でも、今は大分平気。トキタ先生も、月末の調整までにはだいぶ馴染むだろう、って」
「トキタ先生、ねえ」
 反復する賢吾の語尾に、微妙な棘が混じった。
「俺、やっぱりあんまり好きになれないんだよな、あの人」
「何で? いい人よ」
「その『いい人』、ってとこが、気に食わないんだ。あの態度、何だか、作り物くさいんだよな」
「そうかしら? 院内では人気者みたいだけど」
 わたしがそう言うと、賢吾は、ふぅん、と不満げに唸った。
「まあ、いいさ。とにかく、元気ならいいんだ。何というか……もっと別人みたいになってるかと思ったから」
「バカねえ」
 わたしは笑った。
「トキタ先生も説明してたじゃないの。これは脳神経の働きを補助するものであって、人格をいじったりするようなものじゃないって」
 ――弱まった水の流れに、ポンプをで勢いをつけてやるようなもんですな。
 トキタ医師の声を思い出す。
「そりゃそうなんだけどさぁ……やっぱりイマイチ信用できないんだよなあ」
「トキタ先生も怪しいし?」
「……まあ、それもあるかな」
「大丈夫よ。特に変わったところはないでしょう?」
「うん。少し安心したよ。何だかいつも通り過ぎて、拍子抜けなくらいだ」
 それからまた、少し雑談をした。調整期の症状のこと、お向かいに住む美香ちゃんのこと、母の見舞いに行ったこと……。
 今日は話してばっかりだな、とふと思った。
「……いや、本当に元気になったね。まるで別人だよ。もう少し大人しい方が良かったかもしれない」
 苦笑い混じりに賢吾が言う。
「あら、さっきまで心配してたくせに」
「元気になりすぎるのも問題だなあ。十歳くらいは若返ったんじゃない?」
「褒めても何も出ないわよ?」
 笑いあったところで、家の前に着いた。
「じゃあ、もう家に着いたから、また」
「ああ、わかった」
「……お盆には帰ってくるの?」
「うん、今年は何とか。親父の墓参りにも行きたいしね。母さんも気をつけなよ。頭は若返っても、体はおばあちゃんのままなんだから」
「失礼ね。まだ六十三よ。パートの仕事だって、まだまだ現役なんだから」
「はいはい。まぁ、そんだけ減らず口が言えれば十分か」
 
 
 玄関を開けようとすると、向かいの家のドアが開き、鈴木さん一家が出てきた。
 ご主人の名前は岬さんで、奥さんの名前が香織さん。夫婦に手を引かれて歩く女の子は、今年で五歳になる美香ちゃんだ。これから外食にでも行くのだろうか。
「こんばんは」
 わたしに気付いた香織さんが、折り目正しく挨拶をしてくる。今どき珍しいくらい、柔和な女性だ。
「こんばんは。……外食ですか?」
「ええ、今日は美香の誕生日なんです」
「あら、そうだったの。素敵ねえ」
 そろそろだと思っていたが、まさか今日だったとは。そう思ってみると、美香ちゃんは、普段よりよそゆきの服を着ている。嬉しいのだろう。満面の笑顔で母の手を握り、ぶんぶんと振り回していた。
「美香ちゃん、今年でいくつになったの?」
 わたしが尋ねると、その笑顔が、みるみる強張った。彼女はわたしの質問に答えもせず、両親の後ろに隠れてしまう。
「こら、美香。ちゃんとお返事しなさい」
 岬さんが声をかけるが、彼女は母親のワンピースの裾を掴んだまま、動こうともしない。
「すいません、昔はあんなに懐いてたのに、最近どうも人見知りが酷くて」
 香織さんが、困ったように笑う。
「いえいえ、そういう年頃って、誰にでもありますから」
 そこからごく短い、近所づきあい用の雑談を交わす。
 別れ際、美香ちゃんに手を振った。
 ほら、お婆ちゃんにバイバイは? 香織さんが催促するが、美香ちゃんは固い表情を崩さない。
 ただ、隠れた母親の背中から、顔だけ出してぼそりと言った。
「おばあちゃん、だれ?」
 

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 軽い眩暈が収まると、わたしは食卓の前に座っていた。
 目の前には、一人分の食事が湯気を立てている。
 おひたしに、里芋とそぼろ肉の煮物。自家製の糠漬けと白米、味噌汁。
 あれ、いつの間に。
 ……と、疑問に思う間もなく、わたしはこの食事を自分で作ったことを思い出す。くたくたと沸き立つ鍋の湯の音や、米を研ぐ時のさらりとした感触、糠床の胸が膨らむような香りも。
 いやだわ、度忘れかしら。
 誰に聞かせるでもない、苦笑が漏れた。
 耳の後ろに手を滑らせ、ひんやりとしたシリコンに触れる。
 一瞬、眩暈がした。
 どこかに何かを置き忘れてきたような、胸の空隙。と不安。
 だがそれも、手を合わせ、箸を手に取るころには消えている。
 夕飯を食べはじめた。いつものわたしの味。
 
 

     

 息子が突然、わたしの体調を心配しはじめたのは、半年前に夫に先立たれてからのことだ。
「母さん、本当に大丈夫か? 一人暮らしでボケちゃわないか」
 そう電話をかけてくる賢吾の脳裏には、認知症になった祖母――つまり私の母の姿があったのだと思う。
 快活な人だった。
「お父さんが怒ってばかりだから、わたしが笑ってなきゃどうしようもないの!」
 工務店の親方だった父は昔気質で怒りっぽく、酒を飲んでは暴れるような人だったが、母はそんな父を常に笑顔で支えていた。
「今となっちゃあ、まあ、アイツの笑顔に惚れたってとかァあるわな」
 晩年、少し丸くなった父が、一人酒を飲みながらしみじみとこぼしたことを、一度だけ聞いたことがある。
 大好きで、尊敬できる母だった。
 父が九十歳で、大往生を遂げるまでは。
「あれ? そうだったかしら」
 父を喪った母は認知症を患い、そしてみるみるうちに悪化した。最初は軽い物忘れ。そしてすぐに、様々な場面で、記憶の整合が取れなくなっていった。もう居ない父を、探しに行こうとすることもあったという。役所の勧めでわたしたちの実家に引き取ったが、その時はもう、自分が今居る場所が分からなくなり、家に帰せと毎朝怒り狂い、叫んだ。
「またわたしを騙したなアアアアアア!」
 記憶を失うたび、母は目を吊り上げ、今まで聞いたことのない金切り声で叫んだ。深夜に近所を徘徊することも増え、近所の人から通報や苦情を受けることも多くなった。認知症の進行は七段階中の六――重度と診断されていた。
「あたしが何したッ! あたしが何したんだッ! この恩知らずッ!」
 認知症ケアをしてくれるグループホームを捜し、母を入所させた。わたしが面会に来るたび、母は顔を歪め、何度も口汚く罵りかける。以前の母の面影は、すでにどこにも残っていなかった。
「ご理解ください」
 かかりつけの医師から、説明があった。
「認知症が進むことで、猜疑心が強くなり、攻撃的な性格になってしまうことはよくあることなんです。これはあなたのお母さんのもともとの性格ではなく、病気の進行によるものなんです。彼女も不安なんです。どうかご家族で支えてあげてください。きっとすぐに落ち着くはずです」
 それからほどなくして、医師の言葉どおり、母は暴言を吐かなくなった。
 家族の心が通じたわけではない。
 症状が悪化し、もはや自分の感情を表に出す方法すら、失ってしまったからだ。
 食事を飲み込むことも難しくなったため、老人ホームから病棟に移された。彼女は乳白色の壁に囲まれた牢獄で、食事し、排泄するだけの日々を過ごすようになった。まるで、抜け殻のように。
 わたしは定期的に母の面会に行き、彼女が、淡々と介護を受ける様子を見守っている。
 母を見るときの気持ちは、いつでも同じだ。
 悲しみはすでにない。今まで暴言を繰返されたことへの怒りもない。虚しさもない。そんなレベルの感情は、とうの昔に行き過ぎた。
 ただ一つ残っているのは――恐怖だ。
 変わり果ててしまった母をベッドの傍で見下ろすとき、それはいつも、心臓にやすりをかけるような激しさで、わたしを襲った。
 認知症は、遺伝の要素が強い。
 そのことを、母が発症し、この病気について調べてから、知った。
 脳の変異が始まるのは50代。早くて60代ごろから発症しはじめる。
 原因には様々なものがあるが、母のように80歳以上の高齢で発症した場合は進行が早く、3~4年で死に至る。一方、60代で発症した場合は、5年から10年をかけて、ゆっくりと自我が蝕まれていく。
 わたしもいずれ、こうなってしまうのだろうか?
 介護をするわたしの脳裏には、常にその疑問が貼りついていた。
 母を前にそんな不安を抱いてしまう自分を、浅ましいとも、情けないとも思う。
 だが、そんな自分をいくら責めたところで、一度感じた恐怖を拭うことはできなかった。
「今更じたばたして、どうなるっていうのさ」
 弱気になるわたしを笑い飛ばしていた夫は、その数年後、嘘のようにあっけなくこの世を去った。交通事故だった。
 一人残されたわたしを賢吾は心配し、そして――。
「母さん、本当に大丈夫か? 一人暮らしでボケちゃわないか」
 ある日、電話で相変わらずそう聞いてきた賢吾に、わたしは自らの意思を伝えたのだ。
 DBAG……脳深部刺激調整装置の手術を受けると。
 
 
「なに、大したもんじゃありません。侵襲式って、昔は脳に直接電極を埋め込んでたんですがね。今はホラ、耳の後ろの皮膚と頭蓋骨の間に、チョッピリ針を通すだけ。簡単なもんですわ」
 ほら、と、トキタ医師はあの日、診察室で緊張しているわたしと賢吾に向かって、耳の裏に着けたシリコン製のその装置を見せてくれた。
 小さい診察室を、大柄な賢吾と肥ったトキタ医師が占拠して、少し息苦しいくらいだった。
 トキタ医師はデスクにわたしのカルテを置き、時折それに何かを書きつけながら、手術の概要を、身振り手振りを交えながら説明してくれている。
「でも、脳をいじくるのに変わりはないんだろ」
 賢吾の尖った声が、トキタ医師を唐突に遮った。あれだけわたしを心配していたくせに、私がDBAG手術を受けたい、と伝えると、賢吾は驚くほど激しく反対した。診察室に入ったときからの鋭い目付きは、絶対に手術の危険性を暴きだしてやる、という決意に満ちているようだった。患者家族というより、まるで取り調べに向かう警察官のようだ。
「詳しいことは分かんないけど、要は先生、その耳の後ろにくっ付いてる機械が、あんたの動かなくなった脳の代わりに、電気信号を送ってる……ってことでいいんだよな?」
 賢吾は、椅子の上でふんぞり返り、トキタ医師を侮蔑の表情で見下す。
「それってさあ、その機械に乗っ取られているようなもんじゃねえの?」
 やめなさい。
 私の声を無視して、賢吾は続ける。
「本当はあんたの意識なんてとっくになくなっててさ、機械の命令どおりに人間のふりをしてるだけ……って可能性もあるよな。その機械をつける前のあんたと、つけた後のあんたが、同じだって保証はどこにあるんだよ」
 やめなさいって。
 あまりに無遠慮なその物言いに、わたしは思わず賢吾に向かって声を荒らげ、そしてこわごわとトキタ医師を見る。
 驚くことに、トキタ医師は不快感を示す様子もなく、いつものように、静かに笑っていた。
「ま、ま、ま。そんなに怒らんでくださいよ」
 と、肥満体のお腹を揺さぶりながら、大袈裟な素振りでなだめてみせる。賢吾は大きく舌打ちをし、改めて椅子に座りなおした。わたしはその態度にまたハラハラするが、トキタ医師はだっはっは、と快活に笑っただけだった。
「ご家族の方の、不安に思うお気持ちはよぉっく分かります。実を言うと、賢吾さんがおっしゃったようなこと、よく言われるんですわ。心を持たないアンドロイド、人のふりをした人形、機械に乗っ取られた脳死ゾンビ……ってな具合でね」
 そういいながら、頬を人差し指でこりこりとかきつつ、苦笑をこぼす。
 トキタ医師は、若い頃に事故で脳機能に障害を負い、当時まだ一般的ではなかったDBAG手術を受けて回復したと聞く。今、彼自身が言った言葉は、患者家族だけでなく、今まで数限りない人たちから浴びせられ続けてきたものなのだろう。賢吾を横目でもう一度にらみつけると、彼はさすがに気まずくなったのか、少し目線を伏せて視線を外した。
「ただ、そういった偏見はなんというか……皆さんがDBAG手術を過大評価しているところから来ているんですな。この機器、皆さん思ってらっしゃるほど万能ではないんです」
 そういってトキタ医師は、一枚のスライド写真をわたしたちに見せた。
 ベッドに横たわる男性。はだけられた胸には聴診器のようなものが当てられている。白衣を着た医師が、金属で出来た円形のコテらしき器具を、男性の両方のこめかみに当てていた。器具からはコードが伸び、緑色の箱型の器具に繋がっている。
「これは今からもう百年以上前から行われていた、電気けいれん療法というものです」
 トキタ医師が穏やかな声で説明する。
「脳細胞に一定の強さで電流を流すことにより、うつ病やパーキンソン病といった精神的な疾患を治療するものです。これがDBAGの、いわばご先祖さまですな」
 電流、という言葉に、賢吾がピクリと反応する。ざらついた不快感を滲ませる彼の横で、わたしも膝に置いた手に、汗が滲み出すのを感じた。電流。その言葉は否応なく、脳裏に危険なイメージを喚起する。写真の男をわたしに置き換えてみた。こめかみに当たる器具のひんやりとした感覚……。電気椅子での処刑シーンを見たのは、何の映画だったか。自らの意思に反し、座ったまま奇妙なダンスを踊る罪人のイメージ。
「先ほどもご説明した通り、こうした疾患はすべて、脳内のニューロンとシナプス――つまり神経細胞が、機能不全に陥った結果起きるものです。だから脳に電気を流してその部位を活性化させ、症状の改善をはかる。これをもう少しスマートにしたものが、DBAG手術というわけですな」
 トキタ医師はさりげなく首を傾け、両耳の後ろにつけられたシリコン製の器具を改めて見せてくれたる。
「この装置は脳の神経をモニターし、不活性な神経核に、ピンポイントで電磁誘導によるパルス刺激を励起、活性を促します。まァ簡単に言えば、弱まっている水の流れに、ポンプで勢いをつけてやるようなもんですな。ただし、ポンプは水のない場所に水を流すことはできません。同じように、この機器も脳の代わりにはならんのです。機械は助けで、あくまで動くのは患者さんの脳。だから、認知症が進行し、神経がすでに死滅してしまった人には、この装置は無力です」
 入院した母の姿が一瞬、浮かぶ。胸の裡がざわついた。
「繰り返しになりますが、DBAG手術を受けたからといって、心を失うとか、そういったことは起こりえません。大丈夫ですよ!」
 そう言ってトキタ医師は、にっこりと笑う。
 賢吾は全く納得していない風だった。その気持ちはわたしも同じだったが、しかし、決意は変わらなかった。
「よろしくお願いします」
 と、わたしは頭を下げた。


 母の見舞いに来ていた。
「でね、賢吾ったら、10歳は若くなったんじゃないの、なんて言って。でも、正直安心したわ。みんなが散々脅したみたいに、手術したら意識がなくなるようなことはなかったし。そりゃもちろん、頭痛や眩暈はあったけど、それも何度も調整するうちに随分軽くなったのよ」
 透明なチューブを鼻から生やしたその老人に、いつもの通り、とりとめもなく話しかける。反応がなくても、話し続けることが、病気の進行を遅らせることになるんです……。いつか聞いた医師のアドバイスを思い出す。
「それに、僕は思うんです。反応がなくても、脳が機能しなくなっても、心はきっと死ぬまでどこかに残っているんじゃないかって。だから話しかけてあげてください。きっと喜んでくれるはずですよ」
 30代半ばくらいだろう。まだ青年の面影の残る担当医は、かつてわたしにそう言った。わたしは、ありがとうございます、と頭を下げながら、彼はまだ若いな、と思った。いくら懸命に介護しても、容赦なく壊れていく母を目の当たりにし続けたわたしにとって、彼の言葉は空しい気休めにしか聞こえない。だが、結局は医師の言うとおり、定期的に見舞いに来ていた。今の母が、それでもわたしの肉親であるということを、わたし自身が確認するために。
「……もっと早く、お母さんにもこの手術を受けさせてあげたかったなあ」
 ふと、そんな言葉を漏らす。
 そう。もしお父さんが倒れる前に、DBAG手術が実用化されていたら。
 彼女もまだ彼女のままで、いれたかもしれないのだ。
 珍しく感傷的な気持ちになった。母のことをこんなふうに思うのは、久しぶりだったかもしれない。
 思わず涙が出そうになって、一瞬母から目をそらす。
 ベッドから床ずれの音が聞こえたのは、そのときだった。
 わたしは思わずベッドに視線を戻す。気のせいか――。
 いや。
 わたしは目を見開いた。
 入院してから今まで『お世話になります』とつぶやく以外に全く反応を見せなかった母が、かすかに身じろぎ、顔を傾けてわたしの方を向いていたのだ。
 深い穴を覗き込んだような昏い両目が、わたしの視線を真正面からとらえていた。
「……お母さん?」
 わたしは呼びかける。
 だが、彼女の反応はなかった。
「お母さん!」
 もう一度呼びかけたが、彼女はまばたきもせず、再び天井を向くと、それきり動かなくなった。
 体内で、心臓がうるさいほど大きく脈打っている。
 ただの偶然?
 わたしが喋ったタイミングで、たまたま体を動かそうとしただけなの?
 その時、突然病室のドアが開いた。
 まだ心が整理されていなかったので、わたしは反射的に身構えてしまう。
「はい、三橋さーん、ご飯ですよー……、あら、すみませんお邪魔しちゃったかしら?」
 入ってきたのは、中年の看護師の女性だった。銀色のトレーを乗せたカートを押している。
「どうしました? 顔色が悪いみたいですけど……」
 わたしの顔がよほど強張っていたのだろう。彼女は心配そうな表情を浮かべた。胸に『山中』というプレートをつけたこの人とは、見舞いのときに何度か会ったことがある。
「い、いえ。ちょうどそろそろ出ようと思ったタイミングだったから、びっくりしちゃって」
 わたしはとっさに笑顔を作った。うまく笑えたかどうか自信がなかったが、山中さんはあらあ、もう少しゆっくりしていけばいいのにと言い、恰幅のよい体をゆすって笑った。
「こうして毎週娘さんに会えて、お母さんもきっと喜んでいると思いますよ」
「そう思ってくれていると、うれしいんですけどね……」
 何故だか、さっきの母の行動を、彼女に説明する気にはなれなかった。早くこの場を離れたかったが、山中さんに捕まり、世間話に付き合わされてしまう。彼女もまた、DBAG手術に興味があるようで、手術はどうだったかとか、術後の経過はどうだとか、色んなことを聞いてきた。元気にまくしたてる彼女の言葉を適当に聞き流しながら、ちらりと母を見る。彼女は相変わらず、無表情で天井を見ていた。しかし、その顔がまたぐるりとこっちを向きそうな気がして、背筋が冷えた。
「あの、すみません、わたしもそろそろ夕食がありますので……。母の食事もあるようですし」
「あら、そうね。ごめんなさいお時間ないのに引き止めちゃって」
 申し訳なさそうに頭を下げる山中さんに会釈をし、母にじゃあまた来るねといって、わたしはそそくさと病室の引き戸に手をかける。
 ドアを開けたところで、山中さんが母に話しかけるのが聞こえた。
「はーい三崎さん、お加減はどうですかー。あら、娘さんお帰りなのに、今日はいつもの挨拶がないのねー」
 わたしは思わず足を止める。
 いつもの、挨拶?
『お世話になります』
 病室を出るときに聞く、母の言葉が頭に浮かぶ。
「あの」
 思わず振り返り、山中さんに声をかけた。トレーの流動食を点滴にセットしようとしていた山中さんがこちらを見る。
「あ、さっきおっしゃってた、いつもの挨拶って……」
「ああ」
 そう言うと、山中さんは顔をほころばせた。
「三橋さん、いつも娘さんが帰るときにだけ、『お世話になります』って言うのよ。やっぱり娘さんのことは分かるみたいねえ」
 それにしたって、お世話になりますってちょっと他人行儀よねえ。せっかくの水入らずなのに、生真面目というか礼儀正しいというか……。そう続ける山中さんの言葉が、すうっと遠のいて聞こえた。
「お母さん」
 思わずもう一度、母に呼びかけていた。母はやはり応えない。無表情で天井を見上げている。
 山中さんは何を勘違いしたのか、感極まったようにわたしを見つめた。
「ええ、そうなの。あたしがどれだけ喋りかけても返事一つしないのよ。何もかもが分からなくなったって、親子の絆っていうものは残るの。きっと娘さんのこと今も大好きなはずよ、きっと」
 山中さんは続けてまた何かを話していたが、もはや耳には残らなかった。
 母がわたしに向けたまなざしを思い出す。
 あれは、娘に向けるものではなかった。
 昏く、冷たく、何の感情も持たない目。
 あのとき、わたしはあの瞳の奥から、確かに母の声が聞いたような気がしたのだ。
『あなた、誰?』
 という声を……。
 いや、まさか。
 そんな馬鹿な。
 ただの気のせいだ。やっぱり手術のせいで、ナーバスになっているだけだ。
「それにしても、やっぱり三橋さん、今日は挨拶しないわねえ。ほら、娘さんが帰っちゃいますよう」
 山中さんの母への呼びかけが、胸に突き刺さる。
「あの」
 わたしは穏やかな顔をしている山中さんに話しかけ、振り返った彼女に、先ほどの母の反応を説明する。
「実は、さっき母が


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 ……なんです」
 わたしは三度目の調整に来ていた。トキタ医師に会うのは三週間ぶりだ。
「なるほど……お話はよく分かりました」
 トキタ医師は、タブレットでわたしの脳波をモニターしつつ、深く頷いた。
 軽い眩暈が続いている。
 あの日、母の病室で起きたことを、トキタ医師に伝えていた。
 今まで身じろぎもしなかった母が、わたしの目を見つめ、よくわからないが、大きな不安に襲われたこと。
「ただ見つめられただけなんですけど……」
「お気持ちはよく分かりました。返答の前に、いつもの問診に応えていただいてもよろしいですかな。患者さんの状態とも照らし合わせて、正確なことをお話ししたいですから」
 わたしはうなずく。お手数をかけてすみませんな、とトキタ医師は笑い、手に持ったタブレット端末を操作する。
「ええと……まずは前回の調整から、頭痛が起きることはありましたか」
「いいえ」
「眩暈は?」
「ときどきあります」
「頻度はどのくらいでしょう」
「最近は二日に一回くらいです」
「最初の方はもっと多かった?」
「はい。一日一回くらいの頻度でした」
「眩暈の強さも変わりましたか」
「はい。最初は大分酷かったんですが、最近は随分良くなりました」
「時々、意識が途切れるといったことはありましたか? ふと気がついたら全然別の場所にいて、後からその間の記憶を思い出す、というような……」
 いいえ……と答えようとして、ふと口をつぐんだ。そんなこともあったような気がする。
「そういえば、一度だけ」
「それは、いつごろのことか、思い出せますか?」
「すみません。詳しい日時は……」
「十五日くらいではありませんか?」
 トキタ医師はタブレットをせわしなく操作しながら質問をしてくる。
 ゆっくりと記憶を辿る。十五日……今から二週間前……確か、母の見舞いに行ったはずだ。そのあと賢吾と電話して、それから……。
「ああ、そうです。確かその日の夕食のときに、ちょっと度忘れしたような感覚が、あったような気がします」
「なるほど。それ以外はないですね?」
 トキタ医師は、じっとわたしの目を見て言う。
「え、ええ。その一回だけです」
 その真剣さに少しとまどいながら、わたしは答える。
「わかりました。では、度忘れが起きる直前に、何か気になることがあったでしょうか」
 思い出そうとして、ハッとする。
「そうだ、あの日、美香ちゃんにも……」
「美香ちゃん?」
「ああ、すみません。お向かいに住んでいるご夫婦の娘さんです。今年5歳になる」
「その子に何かを言われたんですか?」
「はい。『おばあちゃん、だれ?』って……」
「ふむ、なるほど」
 それから、いくつか問診を続けたあと、トキタ医師はタブレットを指先でつついて何かを入力し、それからニカッと笑った。
「ありがとうございます。だいたい現在の様子は分かりました」
「どうなんでしょうか」
 わたしは焦れて、つい声を大きくしてしまう。トキタ医師はまあまあ、とそんなわたしをいなして、言った。
「自分が、自分でないような気がしてしまう……。これも調整段階で、患者さんがよく陥る不安の一つです。脳を手術したという事実が、知らず知らず本人のストレスになり、ある日突然不安が噴き出すというわけです。例えば、身近な人から、『変わったね』と言われませんでした?」
「そういえば、息子に『若返った気がする』と言われました。その時は冗談だと思っていましたけど」
「冗談だと思っていても、実は心の中ではストレスが溜まっていること、よくあるんです。近しい人からの言葉だと、なおさらね」
「じゃ、あのとき母から受けた印象も、やっぱり思い込みということなんでしょうか」
 とてもそうは思えないんですが、という言葉を、辛うじて飲み込む。トキタ医師はわたしのそんな感情を見越したように、噛んで含めるように言った。
「もちろん、本当のことは誰にも分かりません。ですが、大事なのは人からどう見られるか、ではありません。あなたがどう感じるか、です。以前お話したことを思い出してください。機械は刺激を与えるだけ。実際に活動しているのは、あなたの脳です。三橋さん。あなたは以前の自分と比べて、考え方や好みが変わりましたか? 本当に自分が違う人間になったと思いますか?」
「……思いません」
 そう答えるしかなかった。実際、わたしは変わっていないのだから。
「それが事実です。大丈夫、あなたはあなたです。自信を持ってください。じゃないと、同じように手術したわたしも、実は別人だったことにされてしまう」
 そういってトキタ医師は笑った。
 わたしは笑わなかった。
「そんな怖い顔をしないでください。不安はわかります。安心してください」
 トキタ医師はわたしの目を正面から見つめ、言う。
「過渡期ですよ。もうすぐ収まります」
 その目の奥に、今までと違う光が微かに灯った気がするのも、わたしが疑心暗鬼に陥ったせいなのだろうか?
 
 

     

 賢吾が突然わたしの家を訪ねてきたのは、その日の夜のことだった。
「ちょっと顔を見たくてさ、有給取って来た」
 玄関先でそう言う賢吾は、スーツ姿のままだった。鞄を玄関に置き、やっぱり実家は安心するねえ、などと言いながら部屋に入っていく。今年で二十九になる賢吾の後姿は、歳相応にくたびれて見え、ふとした瞬間に、亡き夫の姿が重なって見えた。
 二人で夫の仏壇に線香をあげたあと、夕食をとった。急な訪問だったから、賢吾の分の夕食は用意していない。今から作るから、少し待ってくれとわたしが言うと、賢吾はもう買ってきたから大丈夫だと言い、ハンバーガーチェーンの紙袋を見せた。体に悪いから別のものを食べろ、いやもう買ってちゃったし、という押し問答を経て、結局わたしと賢吾で別々のものを食べることになった。
 テーブルで向かい合って、夕食を食べる。わたしは箸で焼き魚をつまみ、賢吾は大きなハンバーガーを大口を開けて頬張る。
 ちぐはぐな食卓だった。
「連絡くらいしてちょうだいよ」
「ごめん、タイミングがなかった」
「仕事、休んで大丈夫なの?」
「社会人も、もう五年目だしね。一日くらいなら、なんとか」
「忙しいのねえ。あ、何か飲む? ビールあるわよ」
「母さん、酒飲むようになったの?」
「やあね。わたしな訳がないでしょ。こないだ、ご近所さんからもらったのよ。もう飲む人もいないし、どうしようかちょうど困ってたの」
「ふうん。じゃ、もらおうかな」
 わたしは立ち上がり、冷蔵庫の奥に入れていたビールを引っ張りだす。
 背後から、探るような賢吾の視線を感じた。……いや、これもわたしの気にしすぎなのだろうか。
 なんでもないような表情を装い、コップとビール缶をテーブルの上に置く。ありがと、と賢吾は短く言い、プルトップを開けた。ぷしゅ、という音が、部屋に響いた。
「そんなに心配だった?」
 わたしが聞くと、口元まで近づけたコップが止まった。
「何のこと?」
「わたしが手術で別人になってないかを確かめるために、見に来たんでしょう?」
「別に、そういうわけじゃないけど」
 賢吾は鼻で笑うと目を逸らし、コップを一息で空にした。
「誤魔化そうとしたってだめよ。あんた、嘘つくのヘタなんだから」
 そう言って睨みつけると、賢吾は参ったな、といって鼻をかいた。
「で、どうなの。何か変わってた? 正直に言いなさいよ」
 賢吾はもういちど、参ったなあ、と呟き、
「正直に言うと、全然変わってないね。電話と実際に会うのとじゃまた違うかと思ったけど……」
「変わらないでしょ?」
「うん、まあね」
 賢吾は煮え切らない返事をして、またビールをもう一杯飲む。胸の中に、もやもやとした不快感が広がった。
「何なの? 言いたいことがあるなら、はっきり言いなさい」
 気がつくと、わたしは思いがけない強い声で怒鳴っていた。コップを持った賢吾が弾かれたように顔を上げる。
「コソコソと探るような真似をして。いったい何がしたいの。そんなにわたしが信用できないの? わたしが自分の振りをしたアンドロイドって言いたいの? 自分がボケるのが怖くて手術を受けるのが、そんなに気に入らないの。アンタに迷惑をかけるのも悪いからって自分で決めたのに、いつまでもそうやって疑ってばかり。そんなに今のわたしが気に入らないなら、もう放っておいてよ!」
 鼻がつまり、視界がぼやけた。そのままわたしは箸を置き、夕食を片付ける。賢吾は呆然とした顔で、それを見ていた。
「ごめん、母さん。別にそんなつもりじゃ」
「だったら、どういうつもりだって言


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「ちょっと、母さん!」
 賢吾の追いすがる声を無視して、わたしは階段を駆け上がり、二階の寝室に入ってドアを閉める。
 遅れて、賢吾がドタドタと階段を上ってくる音。
「母さん……」
「何? わたしはもう寝るわよ。あなたももう寝なさい」
 さっきまでの怒りは、今はもう、嘘のように引いている。残ったのは、細い刺されたような、悲しみ。
「違うんだ……ごめん。やっぱりほら、ネットでも色んな噂があってさ。両親が手術を受けたっていう同僚は、安心だって言ってたけど、やっぱり心配で」
「親の言葉より、ネットの噂の方が正しいと思っているわけね。だったらもう、ずっと疑ってなさい」
 私がそう返すと、賢吾は手を組んで唸った。
「だからごめん、悪かったよ。確かに手術した母さんの気持ちも考えずに、変に疑った態度ばかりとったのは悪かった。一番心配なのは母さん自身だもんな。ごめん」
 わたしはもう返事をしなかった。賢吾はうつむき、ゆっくりと部屋を出て行く。
「でもやっぱり、母さんは母さんだなって、確信したよ」
 そう言い残し、賢吾はごめん、ともう一度呟いて、階段を下りていった。


 母の見舞いに来ていた。
 西向きの窓からは、禍々しいほど赤い夕日が差し込み、室内に陰鬱な黒い影を落としている。
 母は相変わらず横たわり、わたしはベッドサイドに立っていた。
 わたしは母の耳元で、お母さん、お母さん、と必死に叫ぶ。お母さん。わたしを呼んで。いつものあの挨拶をして。
 ベッドの反対側には、流動食のチューブを持った山中さんが立っていて、あらあら三橋さん挨拶は? 挨拶は? いつもの挨拶は? と、笑顔で繰り返していた。
 母は目を瞑り、天井を向いている。
 西日はますます赤々と燃え盛り、部屋の全てを血の色に染める。山中さんの声がどんどんと大きくなり、赤ちゃんの夜泣きを千人分集めたような、ぎゃあぎゃあと不快な叫び声に変わっていた。
 だめだ、こんな騒音じゃ、お母さんにわたしの声が届かない。わたしは耳を塞ぎ、母の耳にほとんど口をつけるようにして、お母さん、お母さん、と叫ぶ。お母さん。返事をして。いつもの挨拶をして。
 すると母がぐるりとこちらを向き、真っ暗な両眼を見開いて言った。
「お前は誰だ」


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 わたしはベッドから飛び起きた。
 汗をびっしょりと全身にかいている。呼吸を整えながら、まなじりの涙を手で拭った。ひどい眩暈もあるが、すぐ波が引くように収まっていく。
 何故、わたしはこんなに汗をかいているのだろう。
 布団から出てみるが、室温も高くない。額に手を当ててみるが、風邪というわけではない。目覚めた直後の呼吸の荒さも、すぐに消えた。
 これではまるで、悪夢を見たみたいだ。
 夢なんて全く見なかったのに。
 ベッドサイドの時計は、朝九時を指している。わたしはゆっくりと体を起こす。
 リビングに降りると、テーブルに賢吾からの置手紙があった。
『昨日は本当にごめん。俺もいろいろ、ナイーブになりすぎてたかもしれない。反省したよ。またお盆に帰る。今度はちゃんと連絡するよ。 賢吾』
 本当に悪いと思っているなら、ちゃんと口で謝っていけばいいのに、と少し腹が立つ。だがそれを今更言っても仕方がない。手紙を丸め、ゴミ箱に捨てた。
 朝食の準備をしようとキッチンに入ろうとして、リビングにあるデスクトップPCの電源が、ついたままであることに気付く。夫が亡くなってから、ほとんど起動した覚えはなかった。おそらく昨日、賢吾が使っていたのだろう。全く、こういうところがだらしない。電源を切ろうとして……ふと、昨日の賢吾の言葉を思い出した。
『ネットでも色んな噂があってさ……』
 肩にずしりと、嫌な重さを感じた。
 わたしは椅子に座って、マウスを操作して、インターネットのブラウザを開く。今でこそあまりPCに触れていないが、昔は仕事で当たり前のようにPCを使っていた。基本的な操作は一通り分かる。
 ブラウザの履歴を開く。
 案の定、そこには今までに開かれたページのリストが、大量に残っていた。ページを開いた時刻は、昨日の深夜、わたしが眠りについてから三時間後だ。
 わたしはそのリストを一つ一つ、クリックしていく。DBAG手術に関する、一種のコミュニティサイトのようだった。手術を受けた人や家族の感想が、クリックするたびに次々と画面に現われていく。
『調整期は辛かったけど、今は快適に過ごせています』
『手術して良かった』
『孫も喜んでいます』
 ……開かれているページの大半は、手術について好意的なものばかりだった。こうしたポジティブな意見を一つ一つ読みながら、自分を納得させている賢吾の姿が見えるようだ。わたしは思わず苦笑を漏らした。
『危険! 知らされていないDBAG手術の真実』
 不意にそんなタイトルの記事が画面にあらわれ、わたしは思わず手を止めた。日付は昨日わたしが寝室に入った直後。おそらく、賢吾が最初に見たページだ。
 ページの文字は、DBAGを実施する病院で働いているという、ある個人によるものだ。書かれている文字は、いたる場所がどぎつい赤色で強調されており、いかにもうさんくさい。
 だが、わたしの鼓動は、否応なしに高まった。
『DBAG装着者の人格は、本当に手術前と同じなのか?』
 そんな見出しが、目に飛び込んできたからだ。
 息を整え、記事をゆっくり、目で追っていく。
『DBAGは、脳内の神経を補助するもの。脳そのものを書き換えるわけではない、と説明されます。それ自体に間違いはありません。ですが、DBAGの開発者は、この装置が持つもう一つの重大な機能を隠しています。それは、健忘――記憶喪失を意図的に引き起こす機能です」
 記憶喪失……。
 胸の中で、何かが引っかかった。ような気がした。
『もともと、脳に電流を流すと、短期的な記憶喪失を引き起こす場合があることは知られていました。DBAGは電流を流す位置と強度を調整することで、記憶喪失を自由に起こすことが可能です。開発者は、この機能を実装した理由について、認知症進行の原因となるストレス要因を取り除き、進行を遅らせるためだと説明しています』
 そういえば、以前度忘れが起きたときも、ショックを受けるようなことを言われた気がする。
 だが――。
 背中が総毛だった。
 あの時何を言われたのか、思い出せないのだ。

『ですが、私は思うのです。リアルタイムで脳神経を監視し、必要な刺激のみを足し、不要と判断した記憶や感情を消去する。それはもはや、脳機能の補助などではなく、機械による脳の操作ではないかと』

 ――本当はあんたの意識なんてとっくになくなっててさ、機械の命令どおりに人間のふりをしてるだけ……って可能性もあるよな。

『実際、患者の肉親や親しい人物が、手術直後の患者に違和感を覚えるケースも多いようです』

 ――……いや、本当に元気になったね。まるで別人だよ。

『ではなぜ、問題にならないのか。その原因は、手術後に行われる“調整”にあります。これは脳神経コントロールによる人格操作の微調整を行い、元々の患者の人格に近づけるためのものなのです』

 ――過渡期ですよ。すぐ落ち着きます。

『同時に患者の健忘もまた、コントロールされます。患者が自分の記憶を忘れていたことすら、忘れるように』
 
 ――時々、意識が途切れるといったことはありましたか? ふと気がついたら全然別の場所にいて、後からその間の記憶を思い出す、というような……。

 わたしはいまや、全身を激しい震えに襲われていた。
 大きな度忘れをしたのは、二度目の調整でトキタ医師に告げた一回だけだと思っていた。
 だが……それは本当だろうか?
 もしかしたらわたしは、記憶をなくしたことすら、忘れているのではないか?
 そんな思いが、奇妙な実感と共に、意識の底からわき起こる。
 急に眩暈が始まった。
 もう、これ以上読まないほうがいい。
 頭の中で、そんな警告が鳴り響く。
 だが、ここまで知って、今更手を止めるわけにもいかない。
 わたしは心を奮い立たせ、続きを読んだ。
『調整が終わってしまえば、たとえ肉親であっても、手術前後の患者の人格の変化は全く分かりません。患者の脳神経の動きを完全に再現しているのですから当然です。一方、患者本人の意識はどうなるのでしょうか。筆者自身が手術を受けたわけではないので、分かりません。ですが、機械に常にコントロールされる意識は、もはや本人のものと言えないのではないでしょうか。そして、そのことには、患者自身すら気付けないのです』
 もう限界だった。わたしは立ち上がり、耳の裏の機器を反射的につかんで引きちぎろうと……。
『目に異物を入れるわけですから、眼球の形が変わるんです。それによって、見え方も変わってくる。だからしばらくは、細かく調整しなくちゃならない』
 突然、トキタ医師の声が鮮明に脳裏に蘇った。
 二回目の調整のときに聞いた言葉だ。あのときは、DBAGの機能をコンタクトレンズに例えて説明された。しかし……形が変わる、という言葉が、妙に引っかかる。
 形の変わった脳は、果たして機器を外したあとも、正常に機能するのだろうか?
 いや。
 違う。
 わたしは唐突に、もっと恐ろしい、別の考えに行き当たった。
 今、わたしがそう危惧したのは、果たして本当にわたしの意思なのか? 
 DBAGが自衛のために、わたしにそう思わせたのではないのか?
 そう考えた瞬間、眩暈がますます酷くなった。わたしはしゃがみこみ、頭を抱える。
 様々な声が、頭の中でエコーする。

「おばあちゃん、だれ?」
「なんで挨拶しないんですかー?」
「お世話になります」
「お母さん」
「お世話になります」
「お母さん」
「お世話になります」
「お母さん!」
 
「お前は誰だ」

 手術後に消えてしまった感情や記憶がどれだけあったのか。懸命に思い出そうとしても、脳裏に蘇るのは、腹立たしいほどに矛盾無く整然とした記憶ばかりだ。
 わたしは、わたしなのか。分からない。気付けない。
 今のわたしには、わたし自身を疑うことすらできない。
 わたしは
 わたしは
 わたしは――!
 自分の(あるいは誰かの)口から、押し出されるように、かすかな呟きが漏れた。


「わたしは……誰なの?」


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 軽い眩暈がする。
 何をしていたんだっけ。ああ、そうだ。賢吾がPCをつけっぱなしにしていたから、電源を落としたのだ。履歴には、DBAGについて好意的な記事ばかりが残っていた。こうしたポジティブな意見を一つ一つ読みながら、自分を納得させている賢吾の姿が見えるようだ。
 外の空気が吸いたくなって、外に出る。
 道路では、向かいの美香ちゃんが縄跳びをしていた。一瞬おびえた表情でこちらを見た彼女だったが、その表情が、みるみるうちに明るくなる。
「おばあちゃん! いつものおばあちゃんだ!」
 そう言って、弾けるようにころころと笑った。
 その言葉に、胸の奥がじんわりと暖まるような気がした。トキタ医師の言葉は本当だった。結局、ただの気のせいだったのかもしれない。
「おばあちゃん、おはようございます!」
 美香ちゃんが元気に言い、ペコリと頭を下げる。
「ええ、おはよう、美香ちゃん」
 そう言って。



 


 ワタシは、


 

 にっこりと笑った。




       

表紙

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Neetsha