Neetel Inside 文芸新都
表紙

不正解の人生
2.自己評価との齟齬

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 結論から言ってしまえば、その日に何かが起こるということは無かった。
 ホテルの受付まではそれなりに体裁を整えた足取りだった彼女は、結局俺とろくすっぽ会話もしないままベッドに倒れ込んで大層ないびきをかきだした。
 豪快に寝息を立てる人間をどうこうする気力は俺には無く(嫌がらせで胸ぐらい揉もうかとは思ったが)、シャワーを浴びた後に誤解を招かないようソファーで眠った。
 そして翌朝。起きると彼女はいなかった。
 部屋のテーブルに投げっぱなしていた俺のケータイの横に、「ごめんなさい」とだけ書かれたメモと部屋代と思しき数枚の紙幣だけが残されていた。
 終わってみれば、なんともあっさりした話である。
 役得もなく、特別損もない。ただめんどくさかったというだけのイベントだった。一カ月もしたら忘れてしまうような、事件とも呼べない出来事。
 ……と、これでこの話が終わっていたとするならば、こんな話はする必要すらなかったのだが。

   ●

 週を跨いだ月曜日、月曜特有の気だるさを振り払いながら通勤した俺は、社会の歯車として汗を流していた。
 初夏とは言え、昼間の日差しは思いの外強い。クールビズで半袖のシャツを着ようが、バタバタと社内を動き回るだけでそれなりに汗ばんでしまう。
 俺の仕事は営業職と技術職の間のようなもので、今日の業務は技術から上がってきた図面のチェックと修正だった。
 数ある仕事の中でも、図面は特別苦手――というか、見るのも書くのも大嫌いだ。細かい数字や文字ばかりの紙とひたすらにらめっこするなんて、休み明けにする仕事としては最悪だ、考えただけで目が乾いてしまう。外回りで体でも動かしていた方が、幾分か健康的だろう。
 昼下がり、俺はキリのいいところでフロアを抜け出すと喫煙所へと向かった。
 うちの会社の喫煙所は、ちょっとした屋外スペースに灰入れが点々と置いてあるだけというお粗末なものだ。しかし、俺はこの場所が存外気に入っていて、よく仕事からの逃げ場所として使わせてもらっている。
 逆に喫煙所がよくある屋内の、ガラスに覆われた隔離スペースだったとしたら、俺が今こうして喫煙者になっていることもなかったかもしれない。新人の頃、よく先輩に連れられて外の空気を吸いに来るうちに、自然と俺もタバコを始めていたのだ。
 喫煙所とは名ばかりのベランダに出ると、休憩時間でもないのに何人かの同士が遠い目で紫煙を垂れ流していた。薄く汗ばんだ背に通る風が心地いい。
「お疲れ様でーす」
 形だけの挨拶と会釈をして通り過ぎると、彼らに倣い胸ポケットからタバコの箱を取り出す。流れ作業のように咥えて火を付けると、ろくに吸い込みもせずに煙を吐き出した。
 一息ついたところで、扉の開いた音が後ろでした。振り返って少し驚く。入ってきたのはパリッとしたグレーのスーツに身を包んだ、俺と同い年くらいの女性だった。
 肩口までの黒髪を真っ直ぐ下ろしただけのシンプルな髪型だが、知的な雰囲気が漂うフレームレスの眼鏡とくっきりとした目鼻立ちのおかげか、薄化粧の割には地味な印象を受けない。
 俺が驚いた理由は、彼女が女性だったから……という訳ではなかった。事務の女の子が休憩中吸いに来るのは良くあることだし、営業職の女性はうちの部署にもいる。
 俺は彼女に見覚えがあった。しかし、今まで見覚えがなかった人でもある……そう、社内ではという意味で。
 じっと視線を送り続けていると、彼女も俺に気付いたようだった。周りの人間と挨拶を交わしながら、こちらに近づいてくる。
「驚いた」
 開口一番彼女は言った。「俺もです」と短く答える。
「まさか、同じ会社の人だなんてね」
「里山の相手が仕事の関係者ってのは聞いてましたけど……。いやぁ、世界って案外狭いもんですね」
 里山という、最近結婚した友人の結婚式で俺と彼女――明石千尋さんは出会っていたのだ。俺が新郎側の友人、明石さんが新婦側の友人として、披露宴の二次会で軽い紹介と挨拶程度の雑談を交わした。
「絶対社内ですれ違ったりはしてるはずよね。逆に、どうしてあの時気付かなかったんだろう?」
「パーティ用の服だったからじゃないですか? かなり印象違ったから、一瞬分かりませんでしたよ」
 特に意識した軽口のつもりではなかったが、明石さんは少し気に障ったらしく眉をひそめた。
「……それ、今が地味すぎるってこと?」
 それを聞いてから、はたと気付いた。確かに、今のセリフだと相対的に今――普段通りが悪く見えているような表現だ。
 俺は手を大仰に体の前で振りながら言い訳する。
「違いますよ、そんなこと言ってないじゃないですか! ホラ、あの時は明石さんコンタクトだったじゃないですか、そのせいですよ」
 それは本当のことだ。まぁ、フレームレスの眼鏡とコンタクトで見間違えるほど印象が変わるわけもないが、明石さんは納得したように「そっか」と呟いた。
 実際、彼女は披露宴の席で、服装に見合ったしっかりとした化粧をしていたように思う。逆に、今の方が意識して薄化粧にしているんじゃないかと思ったくらいだが、それをほぼ初対面で突っ込むのは余りにも無茶というものだ。
「営業なんですよね?」
 話題を変えようと、俺はそう切り出した。
 うちの会社は営業職や役員以外は私服通勤が許されていて、内務の人間はほぼ全員それで通している。
 事務の女の子には制服が支給されるが、スーツを着ていればほぼ間違いはない。
「そう。音響の方なんだけど、君は?」
「家電の方です。例の中間部署ってやつで」
「あぁ、アレかー。大変そうだよね、どっちづかずで」
「実際はそうもないんですけど、残業もそれほどキツくないし。でも毎日やることが違うんで、落ち着かないですね」
 それからタバコをもう一本吸い終わるまで、俺たちはお互いの部署について情報を交換した。
 流石に同じ社内だけあって、不満の落とし所も似たり寄ったりだ。愚痴になってしまう一歩手前まで盛り上がったところで、彼女は寄りかかっていた手摺りから身を離した。
「それじゃあ、また」
「はい、また」
 これまで顔見知り程度にも顔を合せなかったくらいだ。明石さんが普段使う喫煙所はここではないのだろう。もう会うことはそうないだろうと、お互いに理解している。
 そんな分かり切った社交辞令を笑顔で交わして、俺は明石さんを見送った。
 と、明石さんが急に振り向いて、忘れ物でもしたかのように早足で戻ってきた。
「そういえば。……えーっと、いまさらなんだけど、さ」
「はい?」
 明石さんは俺と目を合わせずに、ばつが悪そうな顔で言った。
「名前を忘れてしまって……。申し訳ないんだけど、もう一回教えてもらえれば……と、思って……」
 だんだん赤くなっていく顔。恥に耐えるように唇を咥えこむのは癖だろうか。
 年上の――もう三十になろうと言う女性の思わぬ可愛さに、俺は気付けば吹き出して笑ってしまった。名前なんて簡単なこと、もっとドライに聞けそうな感じの人なのに。
「ちょっと、笑わないでよ!」
「くっくくっ……いや、すいません。ホント、からかってるわけじゃなくて」
 俺は軽く咳払いして、明石さんに向き直った。
 社交辞令では無くて本心から、彼女とは今後とも付き合っていきたいと、思ったままを口にする。
「んっ……じゃあ改めて、木多智則です。今後とも、よろしく」


 昼頃に来ていたらしいそのメールに気付いたのは、帰宅時の電車内でのことだった。
 社用で使っている携帯電話は会社のものなので、仕事中は自分のケータイをコールも振動もしないサイレントマナーに設定している。そのため、今の今まで全く気付かなかった。
 登録されていないアドレスからのそのメールを、最初俺は迷惑メールかと疑った。表示されたアドレスがやたらと長ったらしかった上、『love』などという単語まで入ったちょっと頭の悪い感じで、出会い系からのメールだと思われても文句は言えない代物だったのだ。
 開いてすぐに、それが金曜日の酔っ払い女からのものだと気付く。
 そのメールには、自分があの時の女であること、酔って迷惑をかけたお詫びの言葉と、今日まで二日間忙しくて連絡できなかった旨が、まぁ失礼でない程度の文章で多少言い訳がましくまとめられていた。
 軽い苛立ちに、俺は知らず眉をひそめていた。
 内容に関してイラついたという訳ではない。あんな酔い方をする女の謝罪など、する気があっただけで見直したくらいのものだ。問題は、このメール自体にある。
 俺は簡潔に返信の文章を打ち込み、手早く送信した。
『どうやってこのアドレスを?』
 返事は思いの外早く、五分もしない間に帰ってきた。
『ごめんなさい、この間のホテルで勝手に登録しました。テーブルの上にケータイが出ていたから……』
 やっぱりか、と俺は嘆息する。もちろん予想はしていた。他に彼女が俺のアドレスを知ることができたタイミングは無い。
 かといって、謝罪の意があったとはいえ初対面の人間の携帯電話を覗くような人間が、まともなオツムのわけはないのだ。
 連絡を取りたいのなら、残していたメモに自分の連絡先でも書けばいい。
 俺は再び、ケータイに返信の言葉を打ち込む。
『どんな理由があれ、そういうことをされて非常に不愉快です』
 軽いストレス発散のような、暗い気持ちが無かったとは言えない。
 実際この女は俺に負い目を感じていて、責められてしかるべきことをしていたのも事実だ。でも、それこそ知らない人間に対してここまでキツく言うなんて、今までの俺には無かったことのように思う。俺はもう少し事なかれ主義の人間だったはずだ。
『本当にごめんなさい。できるだけ確実に連絡を取りたかったんです! こちらがかけた迷惑を考えたら、私の連絡先なんて見てもらえないだろうと思って』
 確かにそうかもしれない。めんどくさいと感じてまで、謝罪やお礼を聞きたいとは思わなかったろう。
 と、そこでふと違和感に気付いた。
『自分があの時どんな状態だったか、記憶があるんですか?』
 そう、『こちらがかけた迷惑』という言葉は覚えていなければ出てこない。そこは意外だった。彼女のあの時の様子は、前後不覚と言っていいくらいのものだったから。
『はい! 私、どんなに酔っても記憶をなくしたことが無いのが自慢なんです!』
 自慢げなピースサインと繋げられたドヤ顔、短い文章のあちこちに散りばめられたキラキラした絵文字が、苛立ちを一気に加速させる。先ほどまでのかしこまった文面はどこへやら。多分これが彼女本来の文調なのだと思うが、それにしたって化けの皮を脱ぐのが速すぎだ。
『とにかく、用件は分かりました。記憶がどうでも今後はああいうことに気を付けてください。それでは』
 頭の悪い人間と関わるとロクなことが無い、というのが俺の持論である。
 頭の悪い人間とは、要するに人の考えをくみ取った発言をすることができない人間や、物事を論理的に整理して発言することができない人間のことだ。
 頭の中で何を考えていようが、どういう思想を抱えていようが、周りから見えなければ何も問題は無い。というか、どうでもいい。自分に危害が加わらない物事に人間は極めて鈍感だ。だからこそ、それを弁えられない人間が俺は大嫌いなのだ。
 俺はケータイを閉じ、ポケットに無造作に突っ込んだ。ここまでばっさりと切り捨てた言葉を返せば、さすがにもう関わりになろうとは思わないだろう。
 そう思った瞬間、ポケットのケータイがまたも振動する。
 よもやと思い開いてみると、そこには驚きの言葉が書かれていた。
『お詫びの印に食事でもご馳走させていただきたいんですけど、どうですか?』
 思わず目眩を感じ、危うく電車の中で本当にふらついてしまいそうになる。
 こちらの言葉を全く意に介していない――というか、見えていないかのような言葉。脈絡など関係なく自分の都合だけで話を進めるというその神経。
 自分を落ち着かせるために、細く長い息を吐きだす。
「くだらないな、何やってんだ俺は」
 知らない人間を冷たい言葉で貶めようとして、それが通じなければ勝手にイライラして。非生産的の極みだ。
 こんなものは無視すればいいだけの話じゃないか。さっきこの女が言ったように、相手にしなければ向こうにはどうしようもない。
 だが、気付けば俺は手早く指を動かしてしまっていた。
 苛立ちに任せ、後先を考えず、自分が大嫌いなはずの頭の悪いセリフをためらいなく送信する。
『俺はお前のことが嫌いだ。顔を見たら殴ってしまいそうなくらい、今、ムカついている。だからもうこのアドレスは削除して、二度と俺に連絡してくるな』
 あらためて考えると不思議だ。たかがメールのやり取りで、ここまで感情を逆撫でられたように感じたのは初めてのことだった。
 よっぽど相性が悪いのか……それとも、逆に良いのだろうか?
 案の定、返信はすぐにやってきた。

『私はあなたを好きになれそうな気がするので、それはお断りします』

       

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