Neetel Inside 文芸新都
表紙

不正解の人生
6.独りよがりの勝敗

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 里山と別れた俺は、しかしまだ夜の新宿を歩いていた。 
 一緒に駅へと戻り、中央線のホームへ向かうエスカレーターを上る里山を見送った後、俺だけ改札へ引き返したのである。
 特に理由はない。あるとすれば、まだ外を歩きたい気分だったというだけだ。
 夏らしい湿度の高い風が頬を撫で通り過ぎていく。もう街に向かうより帰る人間の方が多い時間帯だ、人波に逆らうようにして俺は東口を出た。今日はまだ平日、オールで遊ぼうなんて人間も少ない。人を吸い込むように飲み込んでいく地下への入り口を振り返りながら、俺は再び街へ足を向けた。
 何故こんなところにあるのか分からない八百屋の横を通り過ぎ、質屋や電気店の前を通り靖国通りに出ると歌舞伎町方面へ向かう。しつこく声をかけてくるキャバクラの客引きを何人か邪険にしつつ、向かった先は旧コマ劇場前の広場だった。
 広場中央の一段高くなっている辺りに腰を下ろすと、煙草を取り出して火をつける。スーツの尻が汚れてしまうという考えが一瞬だけ頭をかすめたが、重力に逆らって体を持ち上げる気にはなれなかった。
 生ぬるい空気の流れが敏感に感じられる。大分酔っているのかもしれないと今更ながらに考えた。
 ここ最近酔うような飲み方はしてこなかった上に、今日はなんだか里山も俺もヤケ酒のような空気で、悪い酔い方をしてしまった。明日も仕事だというのに、もしかしたら久々に二日酔いにでもなるかもしれない。まぁ、急いでやらなければならない仕事など全くないのだけれど。
 煙を吐き出し、しかし再び口をつける気にはならず、俺は煙草の先端から上がる煙をじっと見つめ続けた。
 里山とは、学生時代の思い出話ばかりしていた。
 工学部では珍しく彼女のできた樫谷をひたすらからかって遊んだこと。大きな飲み会で出た馬刺しに皆であたって、次の日の出席率が大変なことになったこと。学園祭で売ったオムそばが意外と好評で儲かったこと。卒研のこと、ウザかった教授のこと、学食のメニューのこと。就活のこと、卒業前のこと、一緒に遊ぶようになった切っ掛けのこと。
「……楽しかった、よな」
 素直にすっと、そう口にすることができた。
 里山と二人で飲むこと自体が初めてに近かったが、話は弾み、酒も進んだ。またこういう機会を自分から作りたいとすら思った。
 だが、頭の隅にはずっと例の話がこびりついて離れずにいた。過去にすぐ逃げ道を見つけてしまえるのも、大人の悪い癖だ。
 これから自分はどうすべきか。そんなことを考える以前に、俺はこの件について何かする権利はあるのだろうか。
 俺と里山はそこまでべったりした付き合いの友人ではない。プライベートに深く口出しをして、責任を取れるような間柄ではないのだ。だったら口を噤んでただ傍観していればいいのだろうが、明石さんから話を受けたという背景がそれを許してくれないだろう。
 下手な言い訳では、きっと明石さんは納得しない。納得しなければ、彼女は俺を頼る以外の方法で、俺の知らないところでさらなる調査に踏み出すはずだ。それは俺にとってあまり好ましくないシナリオに思えた。
 ならどうするのが正しいのか――いや、正しくなくてもいい。ただ俺にとって一番都合のいい結末はどんな形か。そしてそれに向かうためにどう舵取るべきか。
 酔ってふわふわした頭では答えが出るものでもない。ただ、考えずにはいられなかった。
 家にそのまま帰っていれば、きっとすぐに眠ってしまっていただろう。俺は多分、そんな考えを放棄したような恰好が嫌で街に居残ったのだ。
 のどが渇いた。飲み物の自動販売機は百メートルほど前に見えていたが、そこまで動くのすら億劫で口寂しさを紛らわすように俺は煙草に口を付ける。
 誰かに、無性に愚痴りたい気分だった。ほとんど無意識にケータイを取り出して、勢い任せにアドレス帳を流し見る。
 真っ先に浮かんだのは樫谷だった。だが、里山の不倫なんて話を今樫谷に聞かせるわけにはいかない。樫谷は口の堅い男だ、噂にされることはないだろうと思う。だが、真偽も定かじゃないそんな内容の話を酔った勢いでした日には、軽蔑されるのはむしろ俺の方だろう。学生時代の友人連中は却下だ。
 アドレス帳のグループタグを一つ移動させると、社内の知り合いの名前がずらりと並ぶ。同期に相談するのはお門違いだし、上司なんてのは論外。だが、元より期待していなかったリストの一番上に、最近登録されたばかりの名前があった。
 明石千尋。元はといえば、彼女のせいで俺はこんな思案を強いられているのだ。文句を言ってやりたい気持ちはある。
 だが、勢いで年上の、社内の、女性に八つ当たりできるほど俺はアホではない。ため息を吐き出し、俺はまたグループタグを移動させていく。
 社会人になってからの友人、家族、取引先ときて、未分類の項に行き着く。知り合って間もない知り合い未満から、自分のパソコンのアドレスなど事務的なものまで、グループ分けするほどでもないアドレスがパラパラと載っている。
 そこで、一つの名前を見かけた。
「……いや、無い。それはないない」
 一人でぶつくさ呟いた俺は、なんとなくその名前を選択してみる。電話番号をさらに選択すると通話画面へ。ここで音声通話を選べばコールされるというわけだ。
 かけてどうする? 何を話す? なんでこいつに? そういう考えは、酔いのもやもやが吹き飛ばした。
 勢いの赴くままに中央のボタンを押す。プップップッという数回の電子音の後にコール音が鳴り始めた。
 退路を断つために早く出ろという気持ちといっそ出ないでほしい気持ちがせめぎ合う中、思いの外早く電話は繋がった。
『ど、どうしたんですか? 何かありました?』
 電話の向こうの声は妙に焦っていた。だが俺はその情報を意識の外に置くと、できるだけぶっきらぼうに声を作った。もちろん、相手が断りやすいようにと思ってのことである。
「今すぐ、新宿に来られるか?」


 三本目のたばこを携帯灰皿の中で潰した頃、そいつは現れた。酒が抜けるというには少々足りないくらいの頃間。
 広場にやってくるなり慌ただしく周りを見渡すそいつは、ショートパンツに柄T、ピンクの薄いカーディガンという恰好で、どういうわけか手ぶらであった。
 座り込んでいる俺に気付くと、驚いたように目を見開いて叫ぶ。
「うわ、ホントにいたー!」
 走らないまでもかなり急いできたのだろう。俺の前までやってきた豊田愛美は、膝に手をついて大きく息を吐き出した。
「なにやってんですかー、もー……」
「本当にに来たのか」顔も見ずに、俺は言った。
 正直、来るわけがないと思っていた。来て欲しくないとも。
「そりゃあそうですよ!」
 豊田はバッと顔を上げると、俺の隣に腰を下ろす。
「こんな遅くに電話かかってきて、しゃがれたひっくーい声で『来てくれ』なんて言われたら、心配するでしょう普通!」
 しゃがれて低い声だったのは軽い酒焼けだろう。しかも、『来てくれ』なんて下手に出た言い方はしていなかったはずだ。勝手に人の言葉を改竄しやがって。
 だが、俺が一番気にかかったのはそこではない。
「普通……か?」
 純粋に疑問に思う。『普通』、こんな状況で人の心配なんてするだろうか? しかも、自分につい最近あんな仕打ちをしたよくも知らない男のことを。
 少なくとも逆の立場なら俺はしないだろうし、豊田に呼ばれたとしても間違いなく来ない。
 ふと、そこでまた一つ疑問が浮かぶ。
「そういえば、えらく早かったな、お前」
 俺が電話してからかかった時間は、体感だが十五分くらい。新宿駅まで徒歩圏内からでもなければ、叩き出すのはかなり難しいタイムだ。
 上下セットで六千八百円のスーツなんて着ていたこの女が、まさか新宿近辺にお住まいな訳もあるまい。
「そりゃあそうですよ、私、新宿にいましたし。っていうかすぐそこで飲んでましたし」
 また酒か。と思ったが人にとやかく言える状況ではないので口には出さないでおく。
「そうでもなかったら来ませんよー……まさか、家から来たとか思いました? さすがの私でも、そこまで甲斐甲斐しくないですよー」
 癖なのだろう、豊田はケラケラと笑いながら――この間もそうしていたように――ドラマで見るおばちゃんのように手首を曲げて手を振る。その所作、笑い声にイラっとした。心配などという言葉は、よくも考えずに出た社交辞令だったに違いない。
 なぜ豊田を呼んでしまったのか、という自問に即答する。理由はただ一つ、彼女が『ぶん殴れる』相手だったからだ。いくら八つ当たりをしてもいいと、自分で決めた相手だからだ。
 だが、よく考えてみればコイツに里山の話を愚痴ったところで、適当に考えたような意見をされて俺がムカつくだけのような気がしてきた。
「で? どうしたんですか私なんか呼び出して。見たとこ大分飲んでるみたいですけど……一人だったんですか?」
「いや、友達と二人で。一人で飲んでもつまらないだろ?」
 最初の質問を意図的に無視した俺の答えに、豊田は少しだけ憤慨したような顔をする。
「そんなことないですよ。私、たまに一人で飲みに行ったりしますよ?」
「一人で飲むんなら家でいいんじゃないか? 金だってバカにならないだろ」
 豊田はそれを聞いて「貧乏性ですねー」と笑った。
「逆に考えるんですよ、逆に」
 そういう豊田はどこか得意げだ。
「逆って?」
「一人で落ち着いて飲みたい、でも家じゃあ嫌だっていうときにこそ、お金をかけてでも外で飲むんですよ! 自分の家だとテレビとか雑誌とかの気が散る誘惑が多くて、逆に考え事とかしづらくないですか?」
「学生時代のテスト勉強みたいなものか」
「そうそう、それです! 飲み物の種類だって自分で揃えるのは大変ですし、それにですね――」
 豊田は鼻息が「ふふん」とでも音を立てそうなほど偉そうに、一人飲みに関して熱弁を振るっている。酒の絡まないことでコイツと会ったことはなかったが、どうやら根っからの酒好きであったらしい。
 確かに、コイツの言っていることは一理ある。俺だって家では考え事ができないからこうしている訳で、家が一番落ち着く場所であるのは間違いなかったとしても、それと考え事のしやすさは別の話なのだ。
「お前の家、落ち着いて飲めるほど綺麗じゃなさそうだしな……」
 話の継ぎ目に割り込むようにぼそっと言うと、豊田はそれほど本気でない空気を出しつつも怒った顔を見せた。
「しっつれーな! 全然そんなことないですよ、ウチとか超綺麗ですよ、綺麗すぎてヤバいレベルですよ! 見もしないのに、適当なこと言わないでくださいね!」
 絶対に嘘だと思いつつ、思わぬ笑いがこぼれた。
 豊田に里山のことを話す気には、やはりなれない。そもそも、アレは自分の胸の中にしかるべき時までしまっておくべきだと思う。
 だが、こうして何も知らない人間と、何の中身もない会話をしていることでなんとなく気は楽になったように感じた。無意味だが、無意味だからこそ価値のある会話。どうでもいいことに意味のある会話というものもあるのだと、初めて実感した。
 しばらく続いた実入りのない会話が一区切りついたところで、立ち上がって伸びをしながら俺はそれを口にする。
「悪かったな」
 同じ目線の高さでは、なんとも気恥ずかしくて言いづらかったのだ。
「へ?」
「こんな時間に呼び出して、さ。考えてみたら、特にお前に来てもらってもすることなかったんだけど」
「えー、なんですかそれ、もー……」
 豊田は脱力したように肩を落としてしまう。
 実際は、豊田を呼んで話をしたことに意味はあったのだ。だが、それを認めて礼を言うなんてことは、謝罪すること以上に恥ずかしいことのように思えた。
 呆れているのだろうと思って見ていると、しかしすぐにぱっと、豊田は何かに気が付いたように顔を上げた。そして、いたずらを思いついた子供のようなニマついた笑顔で俺を見上げる。
「でもこれで、おあいこですね」
 その弾んだ声の意味も、俺には何の事だか分からない。
「おあいこ? 何が?」
「え、分かりませんかー? 木多さんて結構都合のいい脳ミソしてるんですね」
 聞き返した俺に、豊田は不服そうに返す。
「ヒントはー……この場所と、状況? あ、これもう答えかな」
 場所は……新宿。状況は、酔った俺が豊田を呼び出して、でも何をさせるでもなくて、俺が謝ったところだ。
「あー……いや、まぁ。そうだな……」
 ばつが悪くなり、視線を外して鼻の頭をかく。
 気が付いた。この状況は、程度は違えど俺と豊田が初めて会った時と同じ――酔った側が素面の側に迷惑をかけた構図そのものだったのだ。なるほど、おあいこと言われれば確かにそうだ。
 失態だった。酔ってさえいなければ、豊田に連絡する前にこういう事態になると気付けていたかもしれない。いや、そもそも酔っていなかったのなら、誰かに連絡しようなどと考えることもなかったのか……。
 端から見ればなんともどうでもよい事なのだろうと思う。だが俺は大げさに言えば戦慄していた。豊田に対して不変だと思い込んでいた一定の優位性が、全くの白紙になってしまったということなのだから。
「じゃあ、俺からもお詫びに何かしないといけないな」
 平静を装ってなんとか返すが、内心は酔いも手伝い焦りっぱなしだ。なんとかこの『マイナス』を取り戻さなければと、回らない頭を必死で回していた。
 そうでなければ、豊田と俺は『対等』になってしまう。それだけは避けなければならないことだ。なんとしてでも。
「てか私、まだ木多さんにスーツも買ってもらってないんですけどね」
 そういえばそんなのもあった。忘れていたわけではないが、今のタイミングで聞いたそれは完全に追い打ちだ。
「……それは、今度こっちから連絡しようと思ってたんだ。悪かったよ」
「あ、また謝った」
 何がうれしいのか、さらににんまりとした顔で豊田はわざわざ指摘した。
「なんだよ、俺の謝り方に文句でもあるのか?」
 豊田は首を横に振って、しかし笑みは崩さずに答える。
「いえ、別に。ただかわいいなーって思って」
「……っ……!」
 『かわいい』。今この時でなかったら、相手がこの女でなかったら、気恥ずかしさこそあれもうちょっと素直に受け取れる言葉なのかもしれない。
 だが、この状況で言われる『かわいい』を、自分が見下されているという認識以外で受け取れるものだろうか? 俺には、できない。
 謝ったばかりのこの状況で、いくらなんでもコイツに手を挙げるわけにはいかないくて、かといって我慢できるような精神状態でもない。俺のとれる行動は一つしかなかった。
「……埋め合わせは今度必ずするから。今日はもう帰る」
「え、ちょっと!」
 呼び止める豊田の声を振り切って早歩きで駅へと向かおうとする。
「ちょっと待ってくださいよ、木多さん!」
 しばらく行ったところで袖を掴まれ、振り返ると豊田は前と同じように、自分が何をしたのか分からないという顔をしていた。
 だが今回は前とは違う。言い方はアレだったが、コイツは別に悪くない。悪いのは、冷静にものを考えられる状態にない俺なのだ。だから、早く豊田から離れたかった。こんな頭の悪い自分を見られたくなくて。
「木多さん、終電まだあるんですか!?」
「…………は?」
 想定外の豊田の言葉に、思考が停止する。
 終電? 考えてもいなかった。でも、いや、まさか。駅から引き返したときは……十時を少し過ぎたくらいだった気がする。電話をした時はどうだった?
 確認するのが怖くて腕時計が見られない。
「もう零時になりますよ?」
 だというのにコイツは、さらっとこういうことを言う。
 自分でも時計を確認すると、確かに零時を十分ほど回ってしまっていた。
 俺の家は下板橋にある。調べてみる時間すらないが、多分この位置からなら、走って駅に向かってギリギリ間に合うかどうか、くらいの時間だろう。
 女を振り払って、駅まで街の中を猛ダッシュして、終電で帰る気力は俺には残っていなかった。
 ため息を一つ吐いて豊田に向き直ると、何か言いたそうな顔でこちらを見上げていた。何も言わないのは、前にあんなことがあったせいだろうか。
「お前、時間気づいてたんだろ?」
「え……あ、はい」
「お前はこの後どうするつもりだったんだよ。それともお前の家は、新宿から結構近いのか?」
「あー、いや――」
 苦笑いと共に、豊田はやはりあっさりと言い放つ。
「私、ホテルに行けばいいやって思ってたんで」
「……それは、一人で?」
 分かっている質問をあえて聞いてみる。
「そんな訳ないじゃないですかー、『埋め合わせ』をしてくれるんでしょ?」
 キモい声を出しながらしなを作って寄りかかってくる豊田の脳天に、迷いなくチョップを振り下ろした。
「おっさんか」

       

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Neetsha