Neetel Inside 文芸新都
表紙

不正解の人生
4.振り上げた拳の意味と所在

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 たとえば職場で上司に理不尽極まりない叱責を受けたとして、その相手をぶん殴る想像くらいは誰でもするものだろう。上司でなくてもいい、親や友人、恋人でもなんでもいい。
 不愉快に対して暴力で返す。実際そんなことができたとしたら、それはもうスカッとするに違いない。でも、そんなことを本当にはできないし、やらない。当たり前だ。その後の人間関係のことを少しでも想像したなら、そんなことはできるわけがない。
 今、俺は冷静ではなくとも暴走しているわけではなかった……はずだ。
 少なくとも、豊田愛美にビールをぶっかけたという行為自体は突発的に行ったものではない。俺は、その後のことも考えた上で、冷静にそれを行ったのだ。
 要因はいくらでもある。豊田は年下で、俺に借りがあり、それを返そうとする意志があった。好意を持っていると取られても仕方ない言動をし、俺の知り合いの誰とも繋がっていない人間だった。
 結論から言ってしまえば、豊田愛美は俺にとって『ぶん殴れる』相手だったのだ。そうしたとして、罪悪感を抜きにすれば普段の生活に何の実害も及ぼさない。そういう相手だった。
 何をしても許される……いや、自分を許すことを正当化できる相手。彼女の性格、行動、今までの経緯全てが、俺にそう認識させていた。
 実際、俺はスカッとしていた。こんなことをしたのは流石に初めてで、罪悪感に胸が締め付けられていたとしても、それとこれとは話が別だ。胸の内に生まれた震えるほどの快感を、俺は決して否定しない。
 だからだ。このために俺は今日、彼女に会おうと思ったのだ。
「……つめたぁ」
 それが、豊田からの第一声だった。髪や顎の先からポツポツと琥珀の滴が流れ落ち、薄いグレーのスーツを色濃く染めていく。周囲の個室からのざわめきが、酷く遠くから聞こえているような気がした。
 彼女に俺を非難する資格はある。俺を不快にさせる要素がいくらかあったとはいえ、我ながらこの仕打ちは今までの彼女の行いに余りあるものだ。
 だから俺は待った。彼女が怒り散らすのか、泣き喚くのか。いずれにしてもこれで、豊田の中での俺のイメージは大暴落もいいところだろう。短かった彼女との関わりもこれで終わり。そう思うと、少しだけもったいなく感じてしまうのは男の性か。
 ところが、そうはならなかった。
 彼女の取った行動は、俺が想像していた二択のどちらでもなかったのである。
「ははっ、いやーここまでします普通? びっくりしたー」
 豊田は、平気そうな顔で笑っていた。からからと、苦笑や失笑ではなく本当に楽観的な笑みを浮かべていたのだ。
「……怒らないのか?」
 頬杖を突いたそのままの姿勢で聞く。正直、俺はかなり驚いていた。彼女は真っ先にキレてくるようなタイプだと勝手に思っていたからだ。
「……いや、全く怒ってないって言ったら、そりゃあ嘘ですけど」
 自分のバッグから取り出した小奇麗なハンカチで、自分の服や髪を拭きながら彼女は言う。こちらを見てくる上目遣いには、僅かに非難するような色があった。
「ぶっちゃけ、メールで言ってたみたいに会って早々ぶっ飛ばされるくらいの覚悟はしてきたんで。このタイミングで来るかーとか、驚きの方が勝っちゃったというか、単純にまぁこういうことされるの初めてじゃ無いし慣れの問題っていうか」
 豊田はそう言いながらもへらへらと笑う。
「初めてじゃない?」
「ええ、まぁ。自慢できることじゃないんですが、私ってどうも人の気に障ることが多いらしくて」
 それは分かる。もの凄く。
「昔付き合ってた人とも、口論の末に手がーとか、そういうことが結構あってですね」
「あー……」
「……どういう『あー』なんです、それは?」
「いや、納得だなーって」
「あっさり納得しないでくださいよー! 私のこと、一体どういう人間だと思ってるんですか!」
 異様――というか、かなりシュールな光景だったと思う。
 豊田の体はまだずぶ濡れのままだ。せこせこと拭いてはいるものの、服や髪に沁み込んだものが完全に元通りになるわけもない。客観的に見て、彼女は酷い状態だと思う。
 そうしたのは、他でもない俺なのだ。非難され、損害賠償を請求されても仕方がない。それなのに、まるで元々そういう流れだったかのように談笑は進んでいる。しかもそれが――ああ、なんということだろう――俺は少し楽しく感じているのだ。
 この状況が可笑しくて、吹き出しそうになるのをこらえながら言葉を返す。
「お前だって、初対面で人に殴られる覚悟って……。俺のことをどんなヤツだと思ってたんだよ?」
「少なくとも、いたいけな婦女子にビールぶっかけるような人だとは思ってなかったですねー」
「殴られるよりマシだったじゃないか、良かったな」
「全然マシじゃないですよ! このスーツいくらしたと思ってるんですか!」
 豊田愛美について、失われかけていた興味が再び自分の中で大きくなりかけているのを、俺は感じていた。
 どうも彼女は、俺が最初思っていたほど底の浅い人間では無いらしい。
 初対面で思っていたほどもクソも無いのだが、今までの印象と今話している彼女とで印象が大分変わったというのは事実だ。
 自己中で、周りが見えず、短慮極まりない。その評価はおそらく間違っていないだろう。だが同時に彼女は、大らかで、楽観的で、ヒステリックでは無いらしい。理由なくそれらが同居している女というのは、結構珍しいように思えた。
「いくらしたの? 弁償するよ」
「……え?」
「いや、弁償。そのくらいはするさ。いくら?」
 正直な話、弁償はいくらだろうとするつもりだった。こんな形で要求されなかったとしても、俺からそのうち言い出していたはずだ。
 彼女のスーツがそれほど高そうに見えなかった……というのは確かにあった。だが、それでもこういうことをする前に、そのくらいの心積もりはしている。
 妙に言い淀む豊田に聞き直すと、彼女は恥ずかしそうに顔を俯けしぶしぶといった様子で答えた。
「……上下セットで、ろくせんはっぴゃくえんです」
「やっす……」
 予想外のプライスに思わず呻いてしまう。
「六千八百て……。もうちょっと盛っても良かったんじゃないか?」
「じゃあ五万円で」
 さらっと値を吊り上げる豊田。
「ダメに決まってるだろそんなもん」
「えー……あ、アレですよ。スーツは安いですけど、ブラが高いんですブラが!」
「今思いついたみたいに言うな!」
「ホントなんですって! なんだったら見て確認しますか?」
 そんなことを言い出した豊田は、シャツのボタンを手早く外し机の上で前かがみになる。本当に見せるつもりなのだろうが、スーツに沁みたビールの臭いで色っぽい気持ちには全くならない。
 実際、ちらっと見えてしまった。フリルが上っ面に付いた赤いアレが、割かし豊満な二つの肉を窮屈そうに抱えているのを。
「止めろ、汚らしい!」
「きたならしい……胸見せようとしてそんなこと言われたの生まれて初めてなんですけど」
「大体、そんなもの見たって俺が高いか安いかなんて分かるわけ無いだろうが」
「確かに、女性下着のメーカーに詳しい男の人とかちょっと嫌ですよね」
 納得したそぶりを見せると、豊田はあっさりと引っ込んだ。
 店員が来たらどうしようとか、そういうことをこいつは全く考えないのだろうか。そう思いながら溜め息を吐く。
 ……いや、来たら来たでこの状況なら彼女はどう見ても被害者だ。俺に都合の悪いことはあっても、その逆は無いということか。
「案外、全部計算でやってんじゃないだろうな」
 ぼそっと呟いた言葉に、彼女は不思議そうに首を傾げた。


 会計して店を出た時、時刻はまだ八時を過ぎたあたりだった。まぁ、ろくに飲み食いもしていないのだから当たり前の話……というか、ビール二杯ではかなり粘った方だと思うが。
「木多さんて、凄いメンタル強い方なんですねー……」
 そう言って隣を歩く豊田は、どうにも目に光が無い。顔に半笑いを浮かべてはいるが、さっきまでのような楽観極まりない感じは少々なりを潜めていた。
「そうか? 自分ではどっちかって言うとナイーブな方だと思ってるんだが」
「ぜっっっったいに、それは無いです」
 まぁ、理由ははっきりとしていて、俺はそのことをすっとぼけているだけなのだ。
 会計の時のことである。約束通り、飲み屋の勘定は彼女に持っていただいた。というか、俺が当然のように彼女に伝票を渡したのだが。
 濡れたスーツで金を払う男連れの女というのは、果たしてどう人の目に映るのだろう。
 周りの客とレジを打つ店員の好機の視線に晒されながら、しずしずと会計を済ませる豊田は中々に見ごたえのある見世物だった。
「まだ結構濡れてる?」
「お陰様で。この暑さの中じっとりと貼り付いて、何の拷問だって感じですよ」
 豊田の服は外に出たおかげか、夜目にはほとんど濡れているとは分からない。ただ匂いは残ってしまっているのだろう、通り過がりの人間がたびたび彼女を振り返り、怪訝そうな顔を浮かべていた。
「さて、これからどうする? スーツでも見に行く?」
 そう聞くと、豊田は信じられないものを見るように目を見開いて俺を見上げた。失敬なやつである。
「この格好でですか!?」
「他に着替えがあるなら着替えれば無いし、そのままでも俺は構わないけど?」
「勘弁してくださいよ……」
 もちろん冗談ではあったのだが、豊田はそれとして受け止めきれなかったらしい。先ほどの衆人環視が余程堪えたようで、心底疲れたようにがっくりと肩を落とす。
「お前は案外メンタル弱いんだなぁ」
 メールで受けた印象から、もっとタフネスがあるのかと思っていた。
「残念ながら、それなりに普通の女の子なもので」
「ははっ」
「え、今笑うところありました?」
 とにかく着替えたいという豊田の希望に沿って、俺たちは一路服屋へ足を運ぶこととなった。
 目的地はテレビCMもやっている、安さが売りの女性向け量販店である。
「急げばマルイとか伊勢丹も開いてると思うけど?」
「だから、そういうところにこんな格好じゃ入れませんよ」
「気にすんなよ、どうせどこ入ったってワケありの匂いは消せないからさ」
「それを木多さんが言っちゃいますか……。っていうか、ワケありっていうより麦の臭いが凄いするんですけど。これちゃんと落ちるんですか?」
「さぁなぁ。俺だってそんな豪快にビール被った人間に出会ったことないし。プロ野球選手にでも聞いてみればどうだ?」
「そんな知り合いがいたら、就活なんてせずに思いっきり媚売る練習してたと思いますねー」
 遠い目をするような豊田には、しかし冗談で言っているような色が見てとれた。
 今まで話していて分かったことだが、どうも豊田は金に関する執着が薄いように思える。パッと見の外見ではブランドものなんかを好きそうなイメージが強かったのだが、実は結構苦労人なのかもしれない。
 その後また食い下がった俺に、「いいんですよ、どうせそういうトコ行ってもちゃんと選ぶ時間なんて無いんですから」と言った豊田のご厚意に甘えて、俺の財布的には大分助かる形になった。
 豊田は服屋に到着すると、最初から買うものを決めていたかのようにパッパと服を手に取る。
 シンプルな柄物の白いTシャツにスキニージーンズ、適当にカジュアルなベルトを手に取ると、「ちょっと待っててくださいね」とだけ言ってさっさと試着室に入ってしまった。
 程なくして試着室のカーテンを開けた豊田は、もうそこらにいる大学生にしか見えなかった。ただし、深夜にコンビニに行く大学生である。新宿に飲みに来た大学生にしては、あまりにもラフ過ぎる。
「どうですか?」
 凄まじくざっくり聞かれた俺は、見たまんまを口にした。
「地味。俺に気遣わなくていいから、なんか適当に足したら?」
 豊田の髪はゆるく巻いた明るい茶髪だ。こういうすっきりと体のラインが出る服装だと、頭でっかちになってしまっているように見えた。高いヒールでも履いて見栄えを整えれば話は別だが、彼女がこれから履くのは最悪なことにスーツ用の黒い革靴である。
 豊田は多少落胆したような表情で、
「別にいいんですよ」と拗ねたように言う。
「どうせ、これから帰るだけなんですから」
 言われてみれば確かにそうだ。今からコイツを着飾らせる必要なんて、万に一つもあるわけが無い。
 と、少し考えていた俺の表情に思うところがあったのか、豊田が俺の顔を覗きこむように見上げてきた。
「どうしたんですか木多さん? さっきからあれ買えこれ買えって。……もしかして、さっきのことちょっと悪いなーとか思っちゃってます?」
 ニマッと歪んだ口元がなんとも癇に障る。
「んなわけあるかバカ」
 その生意気な顔にデコピンでもお見舞いしてやろうかと思ったが、こんな場所でそれをやると逆に恋人のように見える気がして、俺はぐっと行動を抑えた。
 そうだ、そんな訳は無い。豊田に俺を非難する権利があり、俺が彼女の服をこうして買ってやったとしても、それは自分がしたことの責任を取っているだけの話だ。俺がした事の善悪とは、また別の話なのだ。
 豊田は俺がビールをかけた理由を聞かなかった。今までの経験から想像がついたのかもしれないし、そのこと自体に興味がないのかもしれない。とにかく、それを責めることをしなかった。
 だから俺は、悪くない。少なくとも、俺が非を認めていないうちは。
「それじゃあこれはこのまま着てっちゃいますから、会計だけお願いしますね」
「あーちょっと待て」
 店員に声をかけようとする豊田を、慌てて止めて手に持っていたものを差し出す。
「なんです、これ?」
 豊田に渡したのは、今彼女が来ているTシャツの色違いのものだ。彼女が試着室に入った後、多分こうなるんじゃないかと思い持って行っていたのである。
 案の定、豊田は自分の状況に気付いていないようだった。どういう意味だ、という視線で俺の方を不思議そうに見上げている。
 彼女の身体を正面から指差して言い放った。
「ブラがすげー透けてる」

       

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Neetsha