Neetel Inside 文芸新都
表紙

見開き   最大化      

 あの日理沙に勝手に帰ったことを詫びるメールを入れることで精一杯だった。月を跨いで二月になってもあの女の言葉が耳に残って離れなかった。理沙には何でもないように振舞ったが、積極的に自分から触れることが出来なくなった。
 今二人で並んで歩いている姿も全ての人間から笑われているのかもしれない。今まで理沙が勝手に注目を集めているのだと、俺の彼女可愛いだろ、羨ましいだろと思っていたが、嘲笑の的として視線を集めていたのかもしれない。疑心暗鬼は俺を苦しめて、理沙と一緒に居る時間が減って康友との時間が前と同じくらいにまでなりそうだった。
 それでも毎日学校に行けば同じクラスにあの女が居て、否応なしに視界に入って、俺の事を見て笑っているように見えた。五月蝿い、うるせぇよクソビッチが。俺がお前に何をした、何で俺がお前の言葉でこんなに振り回されなきゃいけねぇんだ。

 日曜に行った理沙の家では理沙を手酷く抱いた。後ろから背中を押さえつけてセックスをすると、加虐心が満たされてゴムを着けずに理沙の尻に射精した。理沙は涙に濡れた顔で俺を見て笑った。
「最近せーやドSだね、理沙もMなのかな、せーやなら何されても気持ち良いよ」
 終わった後抱き付いてくる理沙を見て、こっちが泣きそうになった。頭をかき抱いて顔を合わせるのを防いだ。理沙の家の天井が見える。シミ一つない綺麗な天井に女特有の良い匂いがして、理沙の頭からシャンプーの匂いがした。綺麗で、綺麗で、隙のない空間。
 理沙がするりと拘束を抜けて顔を上げた。床に落ちている俺のシャツを拾い上げて着ると、部屋の外に出て行き、紫色にピンクの紐が付いた紙袋を持って帰ってきた。何故か冷たいそれを身体を起こした俺に手渡す。
「ちょっと早いけどバレンタイン。学校に持って行くと溶けちゃうかなって思って」
「……すっげー冷えてる」
 紙袋の中に入っていた小さな箱はショッキングピンクでリボンを外すとトリュフが三個入っていた。詳しくは知らないが絶対に高いやつだと思った。甘い匂いと酒の香りがする。
 俺がそれを見てぼんやりとしていると、理沙が一つを取り出して口に咥えた。ん、と短い声を出して目を閉じて咥えたチョコレートを差し出す。
 骨格に沿った綺麗な髪に白い肌、閉じているのに大きいと判る瞳、すっと通った鼻筋、チョコレートを咥えた小さな口、俺のシャツをだぼだぼに着こなす細くて白い身体。見下ろしたその姿にぞっとした。あの言葉が巡る。住んでいる世界が、違う。
「うっ……ごめん!」
 口を抑えてもう場所を覚えてしまっているトイレに駆け込んだ。吐き出すものがなかったから胃液だけが喉を伝って口元に留まる。必死に嗚咽を堪えた。
 あの日駆け込んだ場所とは違う掃除の行き届いたトイレ、ラベンダーの芳香剤の香り。全てが俺を拒絶しているようで再度吐き気が込みあがる。必死に耐えているとトイレの扉をノックされた。
「あの、せーや、大丈夫?体調悪かった?もしかしてチョコ苦手?あの、お酒が体質的に無理とかだった?ごめんね、大丈夫?お水持って来ようか?」
「…………いや、大丈夫だから」
 レバーを引いて流水音で掻き消して口の中の物を吐き出す。幸いにもトイレ内に洗面台が備え付いていたから軽く口をすすいでトイレから出た。心配そうな顔で理沙が立っていた。
「悪い、ちょっと酒の匂い苦手で……」
「そう、なんだ。ごめんなさい。理沙も口洗うね。このままじゃせーやとチュー出来ないし。バレンタインまでには新しいの買っておくね!」
「あ、いや、いいよ。ごめん、俺もう帰るわ。マジごめん」
 嘘を付いて理沙の顔を見ずにさっさと服を着ると立ち去った。吐き気が治まらない。彼女の家の最寄り駅のトイレでもう一度胃液を吐き出した。脈打つのは心臓だけでなく胃もだ。駅の汚いトイレは寛容に俺を受け入れてくれる。
 結局その後家に帰ってから発熱をした。もしかしたらあの吐き気は風邪から来るものだったのかもしれない。熱は夜になっても、一晩眠っても下がらず、次の日学校を休んだ。
 カーテンから日差しが入り、見上げる天井は薄汚く汚れていて、一晩中かいた汗で布団も身体も臭かった。両親が共働きの家には誰も居ないが、母親が昼飯や薬、飲み物等の用意はしておいてくれたようだ。重い身体を引きずってシャワーを浴びてから、お粥を温め卵を入れて食べて、薬を飲んだ。頭が痛い、節々が痛い、胃も何もかもが痛いのだ。
 携帯には理沙からの心配するようなメールが届いていたが無視をした。お粥の入っていた土鍋とレンゲ、コップを水につけるとベッドに戻った。

 玄関のインターフォンの音で目が覚めた。時計を見ると昼飯を食べてから二時間くらいしか経っていない。何度も響くそれは諦めろよと悪態をつきたいしつこさだった。ゆっくりと立ち上がりリビングの画面を見ると理沙が映っていた。何故だ、と驚きながら簡単に髪を撫で付けて、よれている服を整えて玄関に出た。
「何してんのっ!?」
「せーや!ごめん、メール返って来なかったから、共働きだって言ってたし心配なっちゃって!良かった、倒れてたりしたらどうしようって思って、それで、理沙……」
 時間を考えても学校を抜け出して来ているのがわかった。必死な様子と手にコンビニの袋を下げている姿に嬉しさを感じたが同時に劣等感も感じる。彼氏のために授業を抜け出して看病の準備をこなす可愛い彼女。理沙はどこにも欠点が無い。
 とりあえず彼女を玄関に入れて、扉を閉めた。
「俺は大丈夫だから、学校戻りなよ」
「いいの!結衣亜達にノートとか言い訳頼んで来たから。熱あるの、ごめんね寝てる時に。何か食べた?一応おうどんとか買ってきたんだけど、食べたならいいし。あーっと冷蔵庫はどこかな、アイスとか飲み物冷やしたい」
「……こっち」
 理沙をキッチンに案内する。無言の俺に対して理沙も無言で後ろを付いてくる。
 身体が弱っているせいか、不満が吹き出る。あの女の名前なんか出すなよ。謝るんなら来るんじゃねぇよ。寝てるってわかってんのに嫌がらせかよ。つか弱ってるとこ見せたくねぇのに何なんだよ。偽善ぶってんじゃねぇよ。この時間まで食べてねぇとかあるわけねぇだろ、俺の親何も出来ないって馬鹿にしてんのか。共働きでも家事や料理の準備くらいはやってくれるっての。普通に会社休んでくれて母親と鉢合わせとか想像しねぇのかよ。まぁキッチンだってリビングだって理沙の家よりは汚ぇよ。見るんじゃねぇよ、俺をこれ以上苦しめんなよ。大体親に何て説明すりゃいいんだよ理沙の持ってきた物をよ。
 冷蔵庫に物を仕舞う理沙を見る。ぎちぎちに詰まった冷蔵庫の隙間を作って理沙が物を入れていく。無理矢理ではなく、さっと整理して入れる仕草に俺の領域が侵害されている感じがする。
 会いたかったのに会いたくない。
「せーやのお部屋どこ?横になった方がいいよ、ごめんね邪魔しに来ちゃって」
「いや、いいよ。でも寝るから、えっと……」
 帰って、という言葉が言い出せない。けれども実際帰って欲しい。こんな弱った姿をずっと見られるのも、俺の部屋を見られるのも、側に居られるのも、帰ってきた親に何か言われるのも全部嫌だ。苦しんでいる姿なんか彼女に見られたくない。
「眠れないなら理沙が添い寝してあげる、理沙にうつしちゃっていいよ」
 笑いながら抱きついてくる彼女を跳ね除けた。部屋の中という二人きりの空間で彼女を拒絶したのは初めてだ。目を見開く彼女を見て目を反らした。
「…………もう、止めろ」
「え?」
「止めろよ、悪いけど、俺マジでだりぃから、悪い、帰って」
「……あ、うん、わかった。……ごめんなさい」
 彼女は薄く涙目になりながら鞄を持って立ち去った。その場に立ち竦んでいると吐き気がまた込み上げてきてトイレで嘔吐した。食べた卵粥は吐き出され、涙と鼻水で顔が濡れた。
 何故吐き気が込み上げるのかもわからない。何が不快でどうしようもないのか、彼女への苛立ちは何なのかよくわからない。どうして俺はこんなに弱くなってしまったのか。
 顔と口を洗って水をラッパ飲みして胃を落ち着かせると再び布団に入った。

 翌日には熱が下がって学校に向かった。通学路で康友と会って軽く話す。この時間が気楽で落ち着ける。
 教室の前で別れて、室内に入ると理沙が駆け寄ってきた。周囲の目線がこちらに突き刺さる。今までどうして普通で居れたのだろう。過去の俺は鈍感で盲目で何もわかっちゃいない。
「おはようせーや、昨日はごめんね。大丈夫?ノートのコピー昼休みに渡すね」
「……はよ、あ、今日も弁当作って来たんだ」
「うん、栄養あるものばっかりだから元気出ると思う!」
 あっそ、俺の親のは栄養考えてねぇ出来損ないの弁当かよ。今まで感じなかった理沙の言葉への反感が生まれる。
 無言で頷くと理沙は俺の席に居座って担任が来るまで話を続けた。机に両肘をかけて、その上に胸を置くようにして俺に話しかける。いつもの光景、いつもの仕草、変わったのは俺の心の中だけなのかもしれない。吸い込まれそうな彼女の瞳は俺を確実に映していて、話の端々で笑って瞳を隠した。
 
 昼休みに理沙と二人で空き教室で弁当を食べた。理沙が作ってきたカラフルな弁当と俺の親が作った茶色っぽい弁当を交換して食べる。理沙がくれたノートのコピーはいかにも女らしい丸っこい文字が不規則に離れた文字列を成していて、気持ち悪かった。
 何事も無く食べ終えたところに理沙が箱を取り出した。
「病み上がりであれだけどチョコ。これは手作りだからお酒なんか入ってないよ。ね、開けてみて!」
「ん、ありがとう」
 リボンを解いて箱を開けると四角形のチョコレートの上に絵が描いてあった。俺が前言っていた東方の好きなキャラクター五人だ。感動すると共に、絵の上手さに軽く引く。俺が何度も練習してある程度描けるようになったレベルとは全然違う。カラフルなその姿に華やかさを感じる。
「あ、もしかして可愛くて食べられないとか!?理沙昨日ガチ頑張ったんだよ、ググってチョコの上にカラーイラスト描く方法見つけてさ、失敗したやつはお母さんと自分用ってことにしてー」
 理沙の声が遠くに聞こえた。
 どうしようか、心臓が握りつぶされそうだ。
 チョコが嬉しいのは事実、二次元嫁の姿に感動したのも事実、理沙の事を好きなのも事実、だけれど、一挙一動に劣等感を感じて死にたくなるのも事実だ。
「……せーや?」
「もう、こういうの、止めよう」
 必死に捻り出した声は震えていた。チョコの箱を机に置いて、理沙に頭を下げた。彼女の顔は見えないけれど、驚いているのは雰囲気でわかる。
 空き教室の寒い空気が更に温度を下げた。こつこつと雨が窓を叩いて音を立てる。今まで雨が降っていたことにも気付かなかった。
「止め、ようって、どういうこと?バレンタインが嫌ってこと、それとも……理沙が、嫌ってこと?」
「……どっちも。ごめん。俺、これ以上付き合えない」
「やだっ!!」
 急に理沙が大声を上げた。初めて聞く大きな声だった。
 顔を上げると彼女が目に涙を溜めて真っ赤にしていて、両手を胸元で握っていた。手に力が強くかかっているようで指先は白く、腕は震えている。
「理沙は、やだよ。ど……こが、嫌?理沙、直す、から……」
 彼女は目に溜っていた涙を零して、こちらを見つめる。痛々しい。眉が下がって、唇が震えている。歯を噛み締めているのがわかる。
 何故か手が伸びて彼女の目尻を拭った。指先が涙で濡れる。その手に彼女が手を重ねてきて、指先に唇が触れた。
「こういうの、嫌?もう、したくない?」
「………………え」
 じゃあ、と彼女は呟いて俺の膝に跨って首に手をまわした。固まっている状態でキスをされる。唇がふわふわと触れ合う。目を開けたまま口付けを受けていると、首を強く抱かれて舌を入れられた。驚いて舌で押し返したが、その舌を舐めあげられる。
 唾液が押し返している舌と唇の間から落ちた。一瞬だけ顎に触れて彼女のスカートに落ちる。長いキスに勃ちそうになって、彼女の腰を両手で持って身体を離そうとした。首に回された腕に力がこもる。
 大人しくなされるがままにしていると、首の拘束が取れて顔が離れた。荒い息をして彼女がこちらを見つめる。
「嫌、だった?」
「………………」
「触って……お願い、理沙を、拒絶しないで」
 彼女が俺の右手を自分の腰から胸に持って行った。カーディガンの手触りと奥にある胸の柔らかさを感じる。初めは感じなかった脈拍が掌から伝わってきた。早い。少し力を込めるとぐにゃっと形が変わった。
 俺の手の上にあった彼女の手が動いてカーディガンのボタンを外し始めた。
「え、何して……?」 
 俺の声には答えずに彼女の指はブラウスのボタンに掛かった。胸に置いていた手を外して彼女の脱衣を止めるようにカーディガンの前を閉じた。これ以上俺を誘惑しないで欲しい。もう少しで昼休みも終わる、こんな場所で、こんな時間で何を始めようとしているのか。必死にカーディガンを押さえて見える肌を消す。
「もう戻ろう、昼休み終わるよ」
「やだ、ねぇ、しようよ、理沙したい。お願い」
「俺ゴム持ってないし、こんな場所で何を考えているの?授業もあるし、落ち着いて」
「やだ、今離れたら本当に離れちゃう気がする、やだ、ぎゅっとしてよせーや」
 ぼろぼろと涙を零して俺に抱きついてくる姿に心が痛む。押し黙っていると、彼女が俺のベルトに手をかけた。その手首を掴んだが、彼女の手は止まらずにベルトを外されチャックが下ろされる。先ほどの行為で少し勃起しかけていた物に下着越しに指が触れる。
 下着から出されて彼女が身体を下ろして口を付けた。一瞬腰を引いたが彼女が根元を掴んで口の中に含んだ。生暖かい口内で先端を弄られる。
 俺の脚の間で行われている行為に正常な思考回路が働かない。水音がして扱かれている間に昼休みの終了を告げるチャイムが鳴った。どこか遠くで感じるそれと、彼女のフェラ姿に身体が弛緩していく。完全に勃起したのを確認して彼女がスカートの下に手を入れてパンツを脱いだ。そのまま俺の上に跨る。
「……理沙?」
「っ、んん……いっ…………ぁんっ」
 あまり濡れていない中に入り込む。温かく柔らかいけれど、潤滑液が少ないから少し痛い。入れ終わった彼女を抱きしめてキスをした。中が微かに動いて奥の方から液体を排出してくる。
 彼女が不安定に動く。肌蹴ている胸元を更に開いて顔を埋めた。柔らかい胸とブラの生地が顔に擦れる。彼女が自分の二の腕に口を押し当てて声を殺している。ぐもった声と動いて鳴る椅子の音がする。全体重ではないとはいえ、二人の体重を支えているのは辛い。下から強く押し上げると彼女はびくんと反り返って、そのまま激しくすると声が漏れた。
「ぁ……、あ、っ……」   
 出す前にティッシュを持とうと思って、顔を胸元から外して机の上に置かれていたティッシュの袋に手を伸ばした。それを見た彼女が足を俺の腰に絡めた。全体重が俺の太ももと腰にかかる。
「な、離して」
「やだ、このままする、中出して」
 外そうとしても足は外れなかった。くそ、と小さく舌打ちをして腰を振った。彼女の望み通りに膣内に射精した。中出しは今までの射精の中で一番気持ち良かったが、終わった後の倦怠感が半端なかった。
 俺が出したのを感じたのか、彼女は足を緩めた。身体を離してふらふらと自分の元使っていた椅子に戻っていく。俺も疲れて景色が霞んで見える。思えば病み上がりだった。
「理沙は、せーやのためだったら何でも出来るの。覚えておいて、理沙はせーやが一番好きで大事だよ。せーやと理沙を離すのは例えせーやでも認めないから……」
 満足そうな顔でそう言う理沙を見て、今した行為にぞっとした。顔が青ざめたのか、彼女が慌てて言葉を付け足す。
「いや、えっと、あのね、理沙を捨てないで欲しいの。お願い、せーやの言う事何でも聞くよ、嫌なところは言って貰えれば絶対直すし。理沙はせーや大好きだから、ね」
 椅子から立ち上がって俺の頬を撫でる手に大人しく頷いた。
 何、こいつ、怖ぇ。固まった状態で何度も首を縦に振った。頬を撫でる手は柔らかく俺の髪に移り、そのまま下に行って首を撫でる。無言で俺に触れる手に借りてきた猫のように大人しく従っていた。

 それから先は出来る限りで理沙を避けた。あからさまでない程度に、何かと理由をつけて一緒に居る時間を少なくした。一人で勉強したい、康友、ゲーム、ネット、アニメ、とにかく有りとあらゆる言い訳を駆使した。クラスの男ともなるべく話さないように心がけた。最初は罪悪感に苛まれたが、徐々にそれも薄くなっていった。それでも節々に理沙を思い出すことはあった。理沙と離れることで嘔吐衝動は治まりつつあった。
「聖也明日暇?」
「ん、暇暇、週末課題今日中に終わらす予定だから」
「おーじゃあ明日聖也ん家ってことで。まだ攻略してねぇんだろ?俺横で見てるわ」
「いや意味わっかんねーから、まぁいいけど」
 康友と喋りながら下校している時だった。後ろからせーや、と声をかけられた。振り向くと理沙が神妙な顔つきで立っていて、俺と康友は気まずい雰囲気を感じた。
 久しぶりに正面からきちんと見た彼女はファーの耳あてとバーバリーのマフラー、Pコートを着て上は完全防備しているのに、下はこの寒い中ミニスカートに生足で足が赤っぽくなっていた。
「何?」
「ごめん、ちょっと時間いいかな」
「あ、いいよ、いいよ、俺先帰るから。じゃあ聖也また明日な」
 康友が慌てた様子で声を張り上げて逃げるように歩いていってしまった。二人きりにされるとどうしようもなく、黙っていると彼女が俺の鞄を掴んだ。
「理沙の家、来て」
「今から?無理だよ、帰るの何時になるか。話ならどこか入ろうか?」
「……わかった、カラオケでいい?」
 その言葉に頷いて彼女に鞄を掴まれたままカラオケに向かった。二人でカラオケに入るのは久しぶりだ、あの付き合いだした時とその後一回行ったのと。一番最初に行ったのと同じ店に入って、彼女がカードを出して今度は女の店員に案内された。
 終始無言で、店員が飲み物を持ってくる間、コートを脱ぐ間も無言だった。俺はコーラで彼女は烏龍茶を頼んだ。彼女が喋らなければ俺達の間はこんなに無言が続くものなのかと思った。コーラに手を伸ばすと、彼女が口を開いた。
「もう、理沙のこと、嫌い?」
「嫌いじゃないよ」
「じゃあ何で避けるの、理沙達付き合っているんだよね?」
 理沙が泣きそうな顔で俺の右腕を掴んだ。右腕に柔らかい感触がして、彼女の匂いと整った顔が近づいてきた。一気に侵食されそうなその行為に、背筋が冷たくなった。
 どうして寒気がするのか、この女は俺の彼女じゃないのか、俺はこの女が好きなのではないのか。怖い、この生き物が。俺のどす黒い感情も醜態も全て浄化しそうな女が。もうこれ以上俺に違いを感じさせて惨めにしないで欲しい。純粋に俺を慕う心が憎い。
 俺に、お前との、格の違いを目の当たりにさせるな。
「ごめんっ!」
 思い切り彼女を突き飛ばして部屋を出た。以前来た時に覚えているトイレまで小走りで駆け込む、便器の前に来ると思い切り嘔吐した。嫌な声が響いて、胃がせり上がって中身を吐き出す。臭い、汚い、醜い。
 胃の中を吐き出すとトイレットペーパーで軽く口や顔を拭いて出た。口と手を洗って部屋に戻る。戻りたくはないが戻る以外に術は無いのだ。カラオケの廊下が歪んで見えた。
 ドアを開けると彼女は心配そうな目で見てきて、俺は大丈夫と小さな声を出した。その声を聞いて彼女はぼろぼろと涙を零した。俺がうろたえていると、涙を垂れ流した状態で俺の髪に手を伸ばした。
「紙、付いてる。これトイレットペーパーだよね、せーやの髪の毛、っ、伸びたから。っそんなに、理沙に触れられるの嫌?吐く、ほど?っ、ごめんね」
「いや、違うから、理沙に触れられるのが嫌ってわけじゃなくて……」
「ごめんね、苦しめてごめん。そうだよね、せーや別れたいって言ってたもんね。その時理沙凄い卑怯な手使ったもん。嫌われて当然だよね」
 いつも俺の目を見て話していた彼女が俯いて喋り続けている。俺は自分の彼女を苦しめているのにそれを解消する手段を持たない。いや、持っているがそれが俺が彼女以上に傷つく方法なのだ。何も出来なくてただ目の前の光景を見ていた。彼女の泣き声と知らない音楽が響いていた。
 一頻り泣いた彼女は涙を拭くと笑って、ありがとう聖也と言った。何にお礼を言われているのかわからなかったが、彼女に促されてカラオケを後にした。

 その先、俺と理沙が二人きりで会話することは卒業式まで無かった。四月の進級でクラスも離れ離れになって、顔を見ることも少なくなった。卒業式、最後の最後に彼女が第二ボタンを貰いに来て、無言で渡した。痛々しい笑顔をしていたのが、最後に見た彼女の顔だった。結局はあのカラオケの後、彼女が冷却期間だと周りに言ったらしく、あまり騒がれることなく自然消滅していった。康友との会話、日々の不満、歌い手としてのそこそこの人気、俺は俺に舞い戻った。 

       

表紙
Tweet

Neetsha