Neetel Inside ニートノベル
表紙

花咲く乙女の舞闘劇
《幼なじみ》は事件とともにやって来る

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 危険を察し、萩乃はとっさに身を退いた。
 そして反射的に構えをとり、紅葉と名乗った目の前の人物を正中に見据えて睨む。
「どうしたの、はーちゃん? そんな怖い顔してぇ」
 すると紅葉は自分を指差しながら小首をかしげて、さも人畜無害そうな笑みをころっと萩乃に見せた。
「うん? いや……なん、でもない」
「あーひょっとして憶えてない? ほらボクだよ、ボク。鹿子木紅葉」
「もみじ……?」
「よく一緒に遊んだじゃん」
 わずかな時間差を伴って、萩乃の警戒が解かれていく。
 相手から覇気とも呼べるものを感じたのは気のせいだったのだろうか――妙にもやがかった心地がした。しかしどういうわけか、そんな違和感も次第に弱まり、ついには自分が臨戦態勢になっていた理由を忘れてしまう。
「……って、誰かと思ったら紅葉じゃないか!」
「そうだよ、ひっさしぶりー」
「懐かしいな。何年振りだろう」
「六、七年くらいかな。もぅ忘れられたかと思ってマジでドキドキだったよー」
「お前を忘れるなんて、そんな薄情なことあるわけないじゃないか」
 目を大きく見開いて驚きを禁じ得ない表情の萩乃と、再会の喜びを抑えきれないと言わんばかりにぴょんぴょん跳ねる紅葉。この場面だけを切り取って傍から見れば、二人が旧知の仲であることを疑う者はいないだろう。
「それで、そっちこそどうしたんだ? 連絡も無しに、急に来るなんて」
「あっはっは、ごめんごめん。はーちゃんの驚く顔が見たくって」
「まったく、昔っから紅葉はそういうところがあるよな」
「そう言うはーちゃんこそ変わってないよ」
 萩乃は目じりを下げて息を吐き、顔をほころばせた。まるで言葉にしなくとも心が通じて、互いの性格や日頃の行いを熟知しているかのように。先ほどまでの先輩を敬ったりお客様にかしこまったりする態度とは違い、彼女の言葉遣いも実にくだけた様子である。
 紅葉の発言は具体的な出来事を殆ど語っていないにも関わらず、萩乃の脳裏には二人仲良しの記憶がありありと思い浮かんでいるようだ。
「それで、本当に今日はどうしたんだ?」
「ちょっとね。仕事で近くに来たから寄ってみたんだ」
「え、じゃあ紅葉はもう社会人なのか?」
「まぁね。でも勉強も夜学で続けてるよ」
「すごいな。大人だな。どんな仕事をしてるんだ? なに関係?」
「一言でいうと、人間関係かな。それ以上は守秘義務ってやつで」
 いたずらっぽく、紅葉は唇に人差し指を添えてみせた。
「そうか。ところで泊まるところはあるのか? 無ければ家に来るといいよ。きっとみんな喜ぶから」
「ありがとね。実はこっちに来たのも、それを期待してのことだったりして」
「まったく、ちゃっかりしてるな。じゃあちょっと待ってて。着替えてくるから」
 話を適当なところで区切り、萩乃はいそいそと奥に引っ込んだ。
 しかしセーラー服に袖を通し、脱いだ空手道着をたたんでいるときに、ふと、彼女は何かを忘れているような感覚に襲われた。
(……雨柳先輩はちゃんと幼なじみに会えたのかな?)
 そんな疑問が頭をよぎりもしたが、それ以上を深く考えようとはしなかった。それから事務所の電話で、自宅に友達を呼ぶと連絡を入れ、留守電の設定をしてから道場を後にした。


 ツンデレ道場と萩乃の自宅とは電車で二駅ほど離れており、そこを彼女はいつも自転車で通う。平日で学校帰りに稽古をするときは外がとっぷり暮れてからの帰宅が常だが、今日は土曜なので、二人乗りのハンデを負ってもまだ日の出ているうちに家へ着いた。
 そうして萩乃が紅葉を招いた住宅街の一画、彼女の家は庭付きの二階建てで、しかも車庫まで備えており、見目には相当に余裕のある生活をしているのだろうと思われる。
「ただいま」
 だが玄関の扉を開ければ誰しも、意外とそうでもないんじゃないかと考え直すに違いない。

「おかえり」「お帰りなさい」「おう、お帰り」「おかえりなさーい!」「おかえりなしゃい」「姉ちゃん、お帰りー」「萩姉、おかえり」「萩乃ちゃん、おかえりなさい」「はい、お帰り。じゃあ萩乃が帰ってきたから皆でご飯にするわよ」

 帰宅を報せるあいさつとともに萩乃が居間へ向かうと、そこに集まっていた者たちから口々に、温かくもやかましくもある『お帰りなさいコール』が浴びせられた。将棋を指す青年と父親も、携帯をいじる女性も、雑誌や漫画を読みふける小中学生も、おもちゃを取り合う幼児らも、その喧嘩を叱っている母親も、誰もが萩乃の姿を認めるや、それぞれに手を休めて彼女を迎えるのだ。
 居間は十二畳もある広さでありながら、萩乃を含めた家族総勢十人が揃えば手狭に感じられるもので、その熱気も相まって萩乃の後ろに付いてきた紅葉は圧倒された。
(今どき珍しい大家族、か……)
 しかしここで紅葉は動揺を務めて抑え、言葉や態度にそれを表さない。何故なら、もし本当に萩乃の幼なじみであるならば、そのくらいのことは知っていて当然だからだ。
「この子が、萩乃が電話で言ってたお友達ね?」
「はい、お邪魔します」
 むっちりと体格の良い萩乃の母親が紅葉を見つけ、顔を覗き込む。
「あら? あなた、昔よく家に遊びに来てた子よね? 確か……」
「紅葉だよ。鹿子木紅葉」
 なんとか記憶の糸を手繰ろうとしている母親に萩乃が助け舟を出した。だがその針路は事実を曲げて、当人の意図に反して記憶を違える。
「ああそうそう! 鹿子木さんとこのね!」
「ですです。おひさしぶりです、おばさん」
「じゃあもう、今日は沢山食べてね。ちょっと人数があれだからうるさいかもしんないけど、自分の家だと思ってくつろいでくれていいから」
「はい、ありがとうございまーす!」
 にこにことお礼を言いながら、
(でもちょろいね。ボクの《幼なじみ》の能力“離れてもずっと友達”と“家族ぐるみの付き合い”にかかれば、何人家族だって関係ないよ)
 紅葉は内心でほくそ笑んでいた。
 萩乃の父親と兄と姉には「お久しぶりです」と頭を下げ、中学生の妹には「久しぶり、ボクのこと憶えてる?」と訊ね、小学生の弟と妹には「大きくなったね、かわいくなったねー」と誉めそやし、未就学児の妹と弟には「初めまして、よろしくね」と握手して好印象を植え付ける。
 こうしてあっという間に紅葉は、猪立山家の昔なじみとして溶け込んだのだった。

 さて折りたたみ式の大丸机を囲んでの食事は、毎回ある種の戦争だ。全員分のおかずをきっちり小皿に盛り分けなどしないので、皆の大好物が出たときにはもう凄い。無くなってからでは遅いからだ。「いただきます」が唱和された後に、音頭をとっていた父親の両手のひらが胸の前で離れた瞬間を号砲にして、決闘に臨むガンマンの如く箸先が伸びるのだ。まだ身体の小さい下の妹と弟に至っては、水泳跳び込みの様相を呈してさえいた。ちなみに今晩はジューシーな鶏から揚げである。
「はい、これ紅葉の分ね」
「あ、ありがと」
 出遅れて呆然としている紅葉の取り皿に、萩乃はから揚げをひょいと乗せていき、改めて自分が食べる分を確保していった。

 食後、自分の使った食器を自分で洗うのが猪立山家のルール。だが今日は客人である紅葉の分もあるため、萩乃は二人分を担当する。一人で二人分なので時間がいくらかかかるため、兄弟らの邪魔にならないよう彼女は流し台に続く列の最後尾に並んだ。
「ねえ、萩乃ちゃん。ちょっといい?」
 萩乃がそうして独りきりになるのを見計らったように、隣に来て冷蔵庫に寄りかかっている者がいた。薄い茶髪でさばさばした雰囲気の、やや気だるそうな目をした若い女性だ。
「ん、なんですか留華(るか)ねえさん」
 手を動かしながら萩乃は顔だけ向けて返事をする。
「あの紅葉って子、萩乃ちゃんの昔っからの友達なんだよね?」
「ええ、そうですよ」
「いつ頃の?」
「六、七年くらい前まで近所に住んでいたんです」
「それ本当に? 記憶違いとかじゃない?」
「本当ですよ。ねえさん、何が言いたいんですか」
 ひと仕事が終わり、水道の蛇口がきゅっとひねられた。
「いや、気をわるくしないでほしいし、もしかしたら単なるうっかり間違いかもしれないんだけど……」
 強気に返す萩乃に対して留華は、一度は申し訳なさそうに目線を逸らしつつも、やはり定めて彼女に向き直る。
「だったらますます変なのよね」
「どうしてです?」
「だってあの子、あたしに面と向かって『お久しぶりです』って言ったのよ」
「それがどうし……あれ?」
「ね、ちょっとおかしいでしょ?」
 ようやく萩乃は、義姉の言わんとすることを察した。
 留華が猪立山家に嫁いできたのは二年前だ。
 それよりずっと昔に紅葉と面識などあったはずがない。
「ということは、えっと、よく考えると……」
「萩乃ちゃん、だいじょうぶ?」
 不意に襲ってきた強烈な頭痛に歯を食いしばりながら、萩乃は道場でのやり取りを思い返そうとした。自分では何も奇妙には思えなかった事実が、客観性のある論理的矛盾を突きつけられて初めて、違和感のある綻びとして見えてきた――極真ツンデレ道場は萩乃自身も最近までその存在を知らなかったのに、どうして紅葉は彼女に会うためそこを訪ねてきた? そうだ。そもそも紅葉は最初、雨柳先輩の名前を出してきたのではなかったか? そのはずだ。ならば何故そのことを忘れていた?
「あり得ないはずの出来事が起こっている」
 解けていく。
 一つひとつはまだ留華の言う通りにうっかり間違いや記憶違いの恐れもあるが、全部が重なると明らかにおかしい。
「ねえさん。あいつは一体……誰なんですか?」
「そんなのこっちが訊きたいわよ」
 留華は咥えている禁煙パイプを揺らした。
「萩乃ちゃん、汗すごいわよ。どうする? あの子、あたしが問い詰めてこようか?」
「いえ、それには及びません。私がなんとかします」
 萩乃は義姉の腹――五ヶ月目で程よく膨らんでいる――に目を落とす。
「もし相手が逆上して、留華ねえさんの身に何かあったら大変ですから」
 やがていくらか頭痛が治まるや、萩乃はすぐに駆けだした。

 向かう先は居間ではなく廊下。玄関近くの固定電話から雨柳に連絡をつける。
『はい、小野傘雨柳ですけど』
「あ、雨柳先輩」
『なんだ、萩乃ちゃんか。どうしたの?』
「はい。少しだけ確認したいことがありまして」
 真剣な面持ちで受話器を握りしめる萩乃に目ざとく気付いた弟妹が「萩姉、だれに電話してんの? 彼氏?」や「違うよあれはまだ彼氏ってほどじゃないから先が見えなくてドキドキしてる女の顔だよ」や「ひゅーひゅー」などとはやしたてているのを手振りで追い払いつつ、彼女は早めに核心だけを突くことにした。
「今日、先輩が言っていた幼なじみの人とは会えました?」
『いいや、そいつは急に外せない用事があったみたいでさ。また今度になったよ。もし萩乃ちゃんが気にして待っててくれてたのならごめんね』
「いえ、それは結構なのですが、もう一つだけいいですか?」
『うん。なんだい?』
「先輩の幼なじみの人は、何という名前なんですか?」
『ああ、そういえば言ってなかったっけ。そいつの名前はね――』
 雨柳の口から出た人名は、鹿子木紅葉ではなかった。
「そう、ですか。ありがとうございます」
 この証言はすなわち紅葉と名乗る者が、萩乃の古い友人などではないばかりか、雨柳の知り合いですらない、全くもって正体不明の外来者であることを意味している。
 そしてそんな得体の知れない部外者を招き入れてしまったのは他ならぬ萩乃自身だ。もし紅葉が彼女にそうさせるよう仕組んだのだとしたら、それは尋常ではない手によるものだろう。今は義姉が察知してくれたから正気に戻れたが、そうでなければどうなっていたか。もしくはこのまま放置して、次には誰一人としてこの異常性に気付けなくされたらどうなるか。家族は、先輩は、どうされてしまう?
 相手の目的は知れず、具体的なことが何一つ想像できないからこそ余計に、得も言われぬ悪寒が背を走った。
「鹿子木紅葉……」
 受話器を置いて萩乃は、己の頬をぴしゃんと叩き、自分に活を入れた。
「場合によっては、少し手荒な真似をさせてもらうぞ」
 それからグッと両手を握って呟く。

 人を傷つけまいと封印した剛拳だったが、人を守るために鍛えたものなれば、今日こそがその使いどきかもしれない。

     


 小さい弟妹たちはもう姉いじりに飽きて戻ったらしく、廊下に佇むのは萩乃ただ一人だけ。戸の開いている居間からは、テレビのクイズ番組でとぼけた回答をするアイドルの声や、学校や幼稚園での出来事を取り留めのない語り口で喋る子供の声が漏れ届いてくる。
 萩乃は壁際をすり足で進み、目端で中を覗いた。
 自分の目を覚まさせてくれた義姉の留華もそこにはいて、また夕食前と同じく一家全員が揃っていた。それぞれに過ごし方は異なるが、いつも通りに皆が集まっているのだ。例えば家の二階には数人ごとで共用の寝室があり、各人の勉強机も設けられてはいるのだが、それに向かって作業することはあまりない。萩乃も、高校受験を控えている妹も、それより下の弟妹も、いざというときの課題や自主勉強はたいていこの騒がしい中でも禅僧のように集中して取り組んでいるし、兄もそうやってきた。「雑念にとらわれないで問題を解く力が身についた」「環境を言い訳にしない精神が養われた」「むしろちょっとうるさいくらいが丁度いい」とはこの家で育った若者の弁である。
 さて問題は、そういった猪立山家ならではの離れがたい団らんの中に、鹿子木紅葉という不審人物が何食わぬ様子で混じっていることだ。
(速攻で排除しなければ!)
 そう思いながら萩乃は目つきを一層鋭くさせた。だが引っ越し先の学校や土地柄について母や兄から訊ねられている紅葉がにこやかに答えているのを見ると、ふと、全く別の感情がこみ上げてもきた。
 確かに紅葉の素性は偽りである。その口から出る話題もどこまで本当かは知れない。しかしだからといって、現にこうして迎えている我が家族の温もりさえ嘘っぱちだろうか。
 そんなことはない、と萩乃は自答する。たとえ彼女が紅葉のことを古い友達ではなく、赤の他人で警察に追われている身だと紹介しても、この家族ならば何だかんだ言っても最後には快く受け入れて一宿一飯を提供するに違いない。留華もあのように言ってはいたが、だから追い出そうとまでは考えていなかったはずだ。少なくとも萩乃はそう信じている。
(落ち着け、私。頭に血をのぼらせるな。短絡的な考えで振るう拳は暴力になってしまう)
 萩乃は深呼吸をし、右拳を左手のひらで包んだ。
 もちろん嘘にまみれて近づいてくる危険分子の正体は暴きたいが、そのために今の和を乱したくもない。可能ならば内密に。この場で不意打ちで殴りかかるなどもってのほかだ。
(そうだ。この拳を使うのは、あくまで最終手段だ)
 慎重に、段階的に事を進める必要があった。

   *

「なあ、紅葉。ちょっと散歩に出ないか?」
 長そでの白いセーラー服を着込んだ萩乃がそう言いながら居間に入ってきたのを見上げて、紅葉は何故だか小さな違和感を覚えた。だがそれが何なのか、詳しく具体的には分からない。なんだか彼女の声に若干の険しさが含まれているような気がしたが、それだけだろうか。視線にも妙にピリッとしたものを感じる。
(ひょっとして……念には念を入れたほうがいいかなぁ)
 ともかくこの雰囲気の変化から紅葉は、最悪の事態を想定して、自分の能力が看破されたのではないかと危ぶんだ。
「うん、いいよ。積もる話もあるしねー。あ、ちょっと後ろごめんね」
 そして人懐っこい表情を作りつつ紅葉は立ち上がり、机の端でミニカーを走らせて遊んでいる幼稚園児の背をまたいだ。

 鹿子木紅葉の花咲く能力“離れてもずっと友達”は、相手の記憶に干渉して自分を旧知の仲だと思わせるものであり、“家族ぐるみの付き合い”はその影響範囲を広める。ちょっとやそっとの不都合は勝手に記憶を適時修正するため、対象者は決して自発的に《幼なじみ》の存在を疑うことはない。もし見破られることがあれば、それは能力発動者の紅葉が致命的なミスを犯したときか、あるいは第三者によって論証されたときに限られる。
 先ほど萩乃は誰かと電話していたようだったが、そこで自分の正体に気付いている何者かから種明かしをされたのかもしれない。まさかその相手は小野傘雨柳だろうか――紅葉はそう推察した。聞き耳を立てておかなかったのは失策だと悔やんだが仕方ない。
 本当は雨柳に花咲く能力を使い、直接知り合って相手方を調べるのが最善だった。急きょターゲットを萩乃に変えてあの場を凌いだが、自分の素性が向こうに知られているならば、もうここに長居は出来ないだろう。今夜中にも退散するべきだと判断する。
 ただここで紅葉にとって幸いなのは、萩乃が今この場で「お前は誰だ」などと指差してこなかったことである。何故ならば“離れてもずっと友達”は、対象者が発動者をはっきり言葉と態度で否定しない限り、また何度でも上書きして使えるからだ。
「はーちゃん、お待たせ。さ、行こっか」
 紅葉は萩乃の肩に手を置く。
 何気ないこの動作が発動の鍵――これで時間は稼げる。たとえ萩乃が自分を問い詰めようとしていたとしても、既に忘れているはずだ。そうしてせめて離れる前に、彼女に探りを入れておこうと紅葉は思った。

 一年の折り返しを過ぎたこの時期ともなれば、日が沈んでも外では蒸し暑さまとわってくるが、その分ときたま吹く夜風は肌に心地よい。
 近所を適当にふらふら歩きつつ、この辺りもあんまり変わってないねーなどととそらぞらしい台詞で間をもたせてから、紅葉は本題を誘導した。
「そういえばさ、驚いたよー」
「ん、何がだ?」
「だって、はーちゃんがまさかツンデレ道場に通ってるなんて思わなかったもん。すぐには信じられなかったなぁ」
「実は私もだ。お婆さんが亡くなるまでは、そんなものがあるとは夢にも思わなかったよ。いや、ツンデレというの自体は言葉として知っていたけど、そんなのは時代遅れのトレンドだとばかり思ってた」
「じゃあなんで今さらツンデレを習おうって決めたの?」
「それは、私の人生が変わるかもしれないと思ったからだ」
 まるで己の心を洗うかのように、萩乃は空手を辞めた苦い思い出から、ツンデレ道場で雨柳に出会って新しい生き方の指針を得た経緯までを語った。
「ふーん。でもその雨柳先輩って人も珍しいよねぇ」
 すると紅葉は眉をひそめる。
「何故だ?」
「ツンデレを習うのって、普通は女の人じゃなかった? 男はツンデレ全盛期でも少なかったはずだよ」
「そうなのか。私も浅学だった」
「でさぁ、その人がいつぐらいから、何のためにツンデレ始めたのかって訊いたことある?」
 この質問こそが紅葉にとっての本題である。
「あるにはあるけど、詳しくは教えてくれなかったな。時期については『昔から』としか言わなかったし、動機については『僕は愛の求道者だから』と真顔で答えられた」
 しかし残念ながら望んでいた回答を得られず、紅葉は気付かれない程度に舌打ちした。
「それじゃあ家に行ったこととかないの?」
「な? な、な、無いよ。場所だって、知るわけが、ない、ない」
「付き合ってるわけじゃないんだ?」
「あああ当たり前だろうっ!」
 そこでもうちょっと踏み込んでみると、予想以上に萩乃の反応が面白い。
「でもさ、道場には二人しかいないんでしょ? 若い男女が二人っきりで、変なことになったりしない?」
「そ、そそんな、不埒な気持ちで臨むのは、お婆さんが遺した稽古場に失礼だろう」
「ってことはぁ、それ以外の場所でもっと親密になりたいとかいう気持ちはあるわけだ」
「何故そうなる!」
「好きか嫌いかで言ったら好きなんでしょ?」
「それは、その、尊敬はしている。が、そう極端な物言いを迫られると、どうしても語弊があるというか、なんというか~~~~っ」
 口をわななかせて、ついに萩乃は顔を逸らした。もしここが夜道でなければ、きっと真っ赤に頬を染める乙女の恥じらいを堪能できたことだろう。対して紅葉は堪えきれずにんまり。
(なーるほどなるほど。これはちょっと使えるかも)
 早々に撤退するよりも、彼女の気持ちに乗じて安全に雨柳と接触したほうが得策かもしれない。光明が差した――そう考えると嬉しくって仕方がないのだ。
「あ、あー、暑いな。急に暑くなってきた」
 誤魔化すように萩乃は、手のひらで自分の顔をはたはたとあおいだ。
「あっはっは。はーちゃったら、かわいいなぁもう」
「からかうなよ」
 言い返す気概も無く、彼女はいそいそと腕まくりをする。
「でも本当に暑いよねー。そうだ。アイスでも食べようよ」
「私は財布を持ってきてないぞ」
「いいよいいよ。泊めてもらうんだし、そんくらいボクが奢るから」
「そうか、わるいな」
 二人の足はコンビニへと進路を変えた。
「ってか思ったんだけど、年頃の娘と男が二人っきりで稽古するなんて、よくご両親が許したよね? もしかして前から知ってたとか?」
「いや、父さんも雨柳先輩とはあのときに初めて会ったみたいだったな」
「親同士が知り合いだったとか?」
「ないんじゃないか?」
(その線でもないのか……じゃあ一体どんな――)
「どうかしたか?」
「うぅん、なんでもないよー」
 紅葉は表情をころころ変えるのに忙しい。
「でも余計にそうだね。おじさんとか反対しなかった?」
「お金が関わるから道場存続そのものにはだいぶ無理を言ったけど、他は、父さんは何も言ってこなかったな」
「えーマジで? 娘のことが心配じゃないのかな」
「口出しする資格が無いって自覚してるからだよ」
「?」
「ここだけの話、母さんが高校卒業する頃にはもうお腹の中に兄さんがいたんだから。父さんが男女交際にあれこれ言い始めると、決まって母さんの嫌味が飛び出すんだ」
「あぁー」
 萩乃の明かした家庭事情にちょっぴり引きつつも紅葉は、猪立山家が大家族である理由が妙に納得できた。


 それからまた適当な雑談とともにコンビニへ。紅葉は確かにアイスを奢ると萩乃に言ったが、当然のように家族十人分を選んでぽいぽいと買い物カゴに入れていく彼女には少々驚かされた。でも仕方ないので全部支払った。
 帰り道で紅葉は星空を仰ぎ、棒付きアイスを咥えながら、萩乃が雨柳に抱いているであろう感情の利用法を画策していた――恋路の協力者という立場を確立した上で潜伏していれば、たとえ彼女にかけた能力が再び破られたとしても、雨柳に近づくという本来の目的達成の見込みがある。
「ところで紅葉は、何かスポーツはやっていたか?」
 不意に、今度は横にいた萩乃から問いかけられる。
「中学のときには陸上部だったよ。だから走るのは得意」
「腹筋は鍛えられているか?」
「な、なんでいきなり腹筋の話に?」
「いいから」
 紅葉は不安を隠さずに訊きかえしたが、萩乃はこの質問を押した。
「うん、まぁ、同い年の他の子よりは丈夫なんじゃないか、なぁ?」
 萩乃の足が止まる。
「そうか。それを聞いて少し安心したよ」
 釣られて紅葉も歩みを止めて振り返り、同時に、木の棒に付いていたアイスの最後の一欠片を噛み砕いた。
「そしてお前がそれを食べ終えるのを待っていた。食べ物は粗末にしたくないからな」
 直後、萩乃の身体が瞬発した。
 すべるように打ち出された剛拳は狙いあやまたず、紅葉の腹部に突き刺さる。
「ヵ……ァハッ……」
 急に襲ってきた激烈な痛みと、呼吸を中断させられる苦しみとで悶絶。よだれを垂らし、膝をついて背を丸めた紅葉は、ただただ戸惑うばかり。
 再度の能力発動から今まで、自分は萩乃の傍を離れなかった。その間に彼女と接触した者はいなかった。だから“離れてもずっと友達”が解除される要素は無いはずなのに、これは一体どういうことか。
 全くもって、理解が追いつかなかった。

   *

「家を出てから、ずっと疑問だったんだ」
 紅葉を見下ろしたまま、萩乃は口を開いた。
「どうして七月なのに、私が長そでの服を着ているのか、自分でもよく分からなかった」
 それは実は、先に紅葉が覚えた違和感の正体でもあった。夕食後まで萩乃は半そでの制服を着ていたはずなのだから。
「そうしたらコンビニで気付いたんだ。腕の内側に、変なメモが、ご丁寧にも油性ペンで書いてある」
 何が、と紅葉は訊ねたかったらしいが、今は声が出せずに小首をかしげて見上げるだけ。それを受けて萩乃は続ける。
「こう書いてあった――

『かのこぎもみじは ウソつきの しん入者 このいみがわからなければ、とりあえずなぐれ かぞくがキケンな目にあってからじゃ おそい』

 ――ちっとも憶えていないけど、間違いなく私の字だよ。これがお前にバレないように隠していたんだな……なあ紅葉。お前の目的は何だ。お前は私に何をした? なんで私はわざわざ、こんなものを肌に書き残しまでして、私にお前を攻撃させたんだ。心当たりがあるんじゃないのか?」
 萩乃もアスファルトに膝をついて、相手と目線の高さを合わせるようにした。
「私たちは友達だろう? 腹を割って話してくれ」
 そう言ってから彼女は、左手に持ったままのコンビニ袋を揺らしてみせる。
「出来ればアイスが溶けきる前にな」
 

     


 任務と名とつくものは大抵、秘密厳守が鉄則である。それは鹿子木紅葉に課せられているものも例外ではない。だから紅葉は何を問われようとも肝心なところについては口を閉ざすつもりであった。
 しかし質問よりも先に、それこそ字面通りに問答無用で腹パンをされたものだから、紅葉の心は早くも折れそうになっていた。よく漫画やアニメでは主人公がどんなに痛めつけられても根性を盾にして何度も立ち上がってくるが、あんなのはゼッタイ嘘っぱちだと思っても仕方ないほどの痛みに突如として襲われたのだから。
(ひょっとしてボク……マジもんのヤバい奴に手ぇ出しちゃったんじゃない?)
 腰をくの字に曲げたまま、紅葉はぐるぐると考えを巡らせ、そして戦慄した。
 ここまでの状況と「私たちは友達だろう?」という萩乃の言動とを併せて察するに、紅葉が彼女にかけた能力“離れてもずっと友達”はまだ完全解除されていないのだろう。それでもなお攻撃を仕掛けられてきたということはつまり「猪立山萩乃は自分でも覚えていないメモ書き一つを根拠にして、数年来の友達を容赦無く殴りつける女だ」ということになる。
(この子、とんだクレイジーガールだよぉッ!)
 そうして震える紅葉の肩に、萩乃の手のひらがやさしく置かれた。
「いいか、紅葉。私は暴力が嫌いだ。本当は、本当に、こんなことしたくなかった」
 萩乃当人にしてみればこの台詞は心底からの本音を語っているだけであり、小粋な脅し文句を思いついたとかいうような気持ちは全く無い。ただただ文言通りの意味を過不足なく伝えているつもりだった。
 だが一方で紅葉にしてみればこれは「洗いざらい喋れ。でなければもう一発ブチかますぞ」という物騒なメッセージを潜めたものに他ならない。
「ま、待ってよぅ! お願い、おねがいだから、痛くしないで」
 だから紅葉は、下手すれば次は何をされるか分からないという恐れから、もう逃げ出そうとかいう気持ちさえ頭から消えて、とにかくこの場は決して萩乃の機嫌を損ねるまいと腹を括ったのだ。

 ゆっくり話が出来る場所ということで萩乃が紅葉を連れて行ったのは、彼女にとって昔から馴染み深い近所の公園だった。そこにはジャングルジムや鉄棒、シーソーに砂場と主だった遊具は揃っており、その他に空いたところも小学生が野球に興じる程度のスペースがある。
 そんな広さを持った空間の隅で二人きり、腰かけたブランコがきぃきぃと鳴っていた。足元には、アイスの入ったコンビニ袋がドンと置かれている。
「あの、あのね……」
 やがて紅葉は痛みがひいて一段落ち着いたのか、別れ話を切り出された恋人が追いすがるような調子で口を開いた。
「まずこれだけは言っときたいんだけど、さぁ。ボクは、きみと、きみの家族に危害を加えるつもりは、無い、よ」
「本当にか?」
「うん。っていうかボクは、きみたちを守りに来たみたいなところもあるんだ」
「そうだとして、どうなんだ? 嘘つきの侵入者ってどういう意味だ? 紅葉が私にしたことを、なんで私は憶えていない?」
 しかしこれらの質問に紅葉は「そんなの気のせいだよぉ~」と笑って誤魔化すことが出来なかった。嘘を吐くなと責められて、また殴られるかもしれないと思うと怖かったからだ。
「えっと、それは……」
 その恐怖が、自信の無さが、徐々に《幼なじみ》として立場・能力を揺らがせていく。
「いやそれより、お前は本当に私の友達なのか? 嘘つきの侵入者……まさかとは思うけど、別人が成りすましているわけじゃないだろうな?」
 萩乃は上半身をぐぅっと乗り出すようにして問う。
「なあ、鹿子木紅葉? お前はいったい誰なんだ」
 相手の素性を疑う決定的な一言を発した瞬間、萩乃は軽い頭痛を覚えた。同時に、傍目には全く変わりないように見える二人の間で、水面下の決着がついていた。

 紅葉の完敗である。

「そうだ。思い出した。私はお前のことなんか知らない。なのにどうして、それを何年も前の友達だと勘違いしてしまったのか。それもさっぱり分からないんだ。改めて訊きたい。お前は誰で、私に何をした?」
「ボクは鹿子木紅葉……きみも知っての通りの《幼なじみ》だよ」
「だから私は何も知らないと言ってるだろう。というより、お前は私の幼なじみじゃないと明らかになったばかりじゃないか。往生際が悪いぞ」
 唇を強く噛んでから重たく吐き出す紅葉の言葉を、萩乃は一蹴する。
「ん? いやだからボクは……あれ、変だな。ちょっと待って、まって」
 紅葉は睨んでくる萩乃を制するように片手のひらを突き出し、もう一方の手を自分の額に当てた。
「ひょっとして、ボクが《幼なじみ》だってこと、マジで知らない?」
「雨柳先輩の幼なじみが道場に来るというから、てっきりお前のことだと思っていたのに、それも違った。もちろん私の知り合いでもない。そうなると、お前がここにいる理由が見当も付かないんだ」
「あ、あ~。なんだよぉっ! それじゃあボク、焦らなくてもよかったんじゃんかよぉ。マジで殴られ損じゃんかぁ~」
 ここにおいてようやく、紅葉だけは、互いの認識に誤りがあったことに気付いたようだ。己の失策を悔やみ、ブランコの鎖をガッチャンガッチャン鳴らしている。
「なんだなんだ、どうした?」
「えっと、あの、萩乃さん?」
 そして紅葉はピタリと動きを止めるや、ぎこちない動きで首を回し、引きつった笑みを浮かべてみせた。
「勘違いでした、ごめんなさーい……ってことで終わりになりません?」
「なりません」
「ですよね~」
 諦めた紅葉は目を逸らし、何やらぶつぶつと呟き始めた。
(どうするかなぁ~。知らないなら知らないで、しらを切ったほうが……いやでも、このまま放っといたらボクのことがあっちに伝わるかも……口止めしようにも、能力は一回破られちゃったし……)
 それからようやく決心がついたのか、萩乃に向き直る。その表情には、やや緊張が表れているものの、ある種の清々しさが窺えた。
「分かった。話すよ」
「当然。そうしてくれないと困る」
「うん。でもその前に、二つだけ確認させて」
 紅葉は片手をチョキにしてみせる。
「なんだ?」
「一つ。きみは、猪立山家の血を引く人間だよね?」
「……そうだ」
 萩乃は深く瞬きをしてからゆっくり答えた。
「じゃあもう一つ。ボクが今からする話を聞けば、きみは今までと同じ生活を送れなくなっちゃうかもしれないけど、それでもいい?」
「あんまり穏やかじゃないな、それ」
「今ならまだ引き返せるよ。きみがボクのことを忘れて、お互いに会わなかったことにして、今日のことを小野傘雨柳に伝えないって約束してくれるなら、きみに迷惑はかけない」
 ここで予期せぬ名前を出され、萩乃の眉が跳ねた。いつの間にかブランコを漕ぐ音は消えていて、辺りはしんと静まっている。
「……紅葉。お前と雨柳先輩とは、どういう関係なんだ?」
「今のところ無関係だよ。でも、だからこそってのもある」
「よく分からないな」
「その男が敵か味方か、まだ分からないからね」
「敵とか味方とか、また物騒な話だ」
(いきなり腹パンしてくるきみに言われたくないなぁ)
「?」
「ううん、なんでもないよ」
 取り繕うように紅葉は言葉を続ける。
「で、どう? ボクの話を聞くことが、きみと、きみの家族にとって良いことだとは限らないって、それだけは今のうちに言っとくからね」
 すると萩乃は腕を組み、むむむと唸った。正直なところ、ここで紅葉を見逃すことに大きな不安はあったが、やはり『家族』というカードを出されると彼女は弱いからだ。
「でも、知らなければどうしようもないことだって、あるだろう」
 さんざ悩んだ末に、苦々しく、萩乃は結論を口に出した。
「何も知らないことで、逆に、危ないことだってあるかもしれない。お前がまた私を騙して、煙にまこうとしているのかもしれない。素性を明かそうとしない人間に、守りに来たと言われても、信用できない。だから、まず聞いてから判断したいと思う。お前が危険な奴かどうか、信じるか信じないか、協力するかしないか」
「そっかぁ……じゃあ言うよ。心して聴いてね」
 対して紅葉も、改めて決意とともに息を整えた。そして言い放った。
「きみがなりたいと思ってる《ツンデレ》には、世界を変えるだけの大きな力があるって伝えられてるんだよ。そして猪立山家の人間だけが、それを自在に操ることが出来る。言ってみれば超能力者の一族だね。で、ボクはその力が悪用されるのを防ぐために派遣された正真正銘の《幼なじみ》なんだ。でね――」
「いや、まて、待て」
 片手のひらを突き出し、もう一方の手を額に当てるポーズを、今度は萩乃が紅葉に対してとっている。
「うん。確かに興味深いが、それは単行本で何巻まで出ているんだ?」
「漫画の設定じゃないよ。マジでリアルな話」
「超能力が?」
「ボクには普通の人間に無い力があるってこと、きみは体験してるはずだよ」
「ん、むう……」
 確かに萩乃は、超能力を使われたか、物怪に化かされたか、そうとしか言いようのないことがその身に起こった。それを踏まえて自分について省みるに、好きな相手や物を傷つけずに殴る技術というものは、周りからすれば一種の超能力と見えるのかもしれない。
「もう開き直って種明かししちゃうとね、猪立山が《ツンデレ》の家系だってのと同じように、鹿子木は《幼なじみ》の家系なんだよ」
「いや待て。そもそも私も含め、家の誰もそんな不思議な《ツンデレ》の力なんて持っていないぞ。誰もだ。家系の話だというならそれはおかしい」
「花咲く能力、今生(こんじょう)の切り札――そんな意味の言葉を縮めてボクらは、この超能力を『花札』って呼んでるんだけどね。《ツンデレ》とか《幼なじみ》とかいう属性が、それぞれ持ってる一本の大きな木だとして、どの枝が花咲くかはその人次第なんだ。『花札』の種類も数も強さも個人差があるんだよ。開花するタイミングやきっかけも人それぞれ」
「そういう……ものなのか」
 萩乃は未だに柔拳突きを体得できていない己の右手に目を落とし、グーとパーとを繰り返した。
「ボクの場合は周りが《幼なじみ》の能力者ばっかりだったからね。実際に力を見せて教えてくれる人がたくさんいた。ボクがきみに使った、条件を満たせば自分を相手の幼なじみだと錯覚させるってのは、里ではけっこうメジャーなやつで、小さい頃から修行して開花させたものなんだよ」
「里?」
「《幼なじみ》の隠れ里。『花札』がむやみに世間で知られないよう、一族で固まって暮らしてるんだ。だから向こう三軒両隣、みんな苗字が鹿子木なんだよね。結婚式とかお葬式とかには里中総出で動くし」
 想定された答えをするすると、まるで芸人が鉄板ネタを披露するかのように、紅葉はききと笑いながら話を続けた。もしかしたらいろいろ溜まっていたんじゃないかと、萩乃はちょっとだけそう思う。
「なんだかまた頭が痛くなってきた。もしかして、紅葉が女なのに『ボク』なんて自称しているのも、そういった特殊な環境で育ったせいなのか?」
「……あれぇ、言ったっけ? ボクが女だって」
 大事なことを軽く追及され、紅葉は眉をひそめて訊き返した。
「違うのか?」
「違わないけど、なんで分かったの? けっこう自信あったのに」
「腹を打ったとき、筋肉と脂肪の付き具合が女性のそれだったから」
「マジで?」
 たった一撃で男女差を判別できるほど人を殴り慣れているのかと、再び紅葉は戦慄した。
「じゃあまあ、もう隠しても意味ないから言うけどね、そうだよ。《幼なじみ》の家系の人間は、男女どっちの幼なじみにでもなれるように、中性的な顔と振る舞いが出来るように育てられるんだ。これならターゲットに近づきやすいし、バレたときにも逃げやすいからね」
 そして一転、紅葉は少年のように快活な笑みを浮かべた。
「しかし聞くにつれて、やっぱり冗談みたいな話だな」
「でもね、さっきも言ったけど、ボクたちの『花札』は悪用されるとマジでヤバいんだ。例えばきみはボクを軽く家に泊めようとしてくれたけど、ボクが泥棒だったらどうさ」
 続いて不意に、彼女の声に重みが増した。釣られて萩乃の背にも緊張感が走る。
「その気になればボクは一生、『花札』を使った幼なじみ詐欺で暮らしていけるよ。能力を見破られたならともかく、自分から解除したって場合には、その間にボクと会ってたことは相手の頭に残らないからね」
「それが本当なら恐ろしいな」
「でしょ? もっとベテランの《幼なじみ》の達人なら、凄いよ。うちのお父さんは、三日もあればイギリスの女王とだってディナーの約束を取り付けられるって言い張るからね」
「言い張るだけなら誰にでも出来ないか?」
「ひい爺ちゃんなら、実績があるよ」
 お守り代わりに持ち歩いてるんだ、と紅葉は手帳に挟んである一枚の写真を見せた。
「あぁごめん。暗いよね」
 萩乃が身を乗り出して顔を近づけようとするので、察して紅葉はケータイの液晶画面を明かりに使った。
 照らされた写真はモノクロだが、比較的最近に焼き増しされたものらしくて形はきれいである。そしてそこに映っているのは二人の男が肩を抱き合っている姿――片方はスーツを着た柔和な顔立ちで、逆に言えばどこにでもいそうな感じだったが、もう片方は軍服にコーンパイプがやけに特徴的である。
「この外人、どこかで見たような……?」
「マッカーサー元帥。昔のアメリカの偉い人だって」
「ああ! あの、日本史の教科書に載っていた!」
 そうそう、と言いながら紅葉は写真とケータイをしまう。
「こんなのバラ撒かれたら、もちろん大騒ぎだよ。でも《幼なじみ》が悪い奴らに利用されたら大変だってことは分かるでしょ?」
 萩乃は無言で頷いた。
「それで、そんな伝説のひい爺ちゃんをはじめに里のみんなが一目置いてたのが、猪立山千尋(いたちやま ちひろ)――つまり、きみのお婆さんなんだよ」
「私のお婆さんが?」
「そうだよ。千尋さんはボクたち《幼なじみ》の里と付き合いがあったから、こっちではよく知られてるんだ。きみは、自分の親兄弟には不思議な能力なんて無いって言ってたけど、お婆さんは間違いなく《ツンデレ》の達人だった。ボクたちが産まれる前にあったツンデレブームだって、千尋さんが仕掛けたものだしね」
 紅葉が語るは、亡くなるまで知らなかった萩乃の祖母の隠された裏側。それを聞いて萩乃は思い返す。道場に置かれていたツンデレの教科書やハウツー本の類は、その殆どが祖母の著作だったことに驚いたものだ。さすがにペンネームは本名と違っていたが、著者近影は紛れもなく祖母その人だった。
「ボクたち《幼なじみ》は力と存在を隠すことに専念してたけど、千尋さんは逆をやろうとしたんだ」
「つまり?」
「木の葉を隠すなら森の中。森が無いなら作ればいい。じゃあ《ツンデレ》を隠すには?」
「ツンデレの中?」
「そう、正解! はーちゃんに10ポイント!」
「何のポイントだ。あと、どさくさに紛れて『はーちゃん』って言うな」
「冗談はさておき、千尋さんは何もかも計算づくでやってたらしいよ。まずは流行を発信して上辺だけのツンデレを全国でたくさん育てた。今度はその流行を自分の手で廃れさせ、思い出すのも恥ずかしい黒歴史になるよう仕向けた。そうしてツンデレをつまらない過去のものに貶めることで、本物の《ツンデレ》をカモフラージュしたんだ。それで出来ることなら、自分の代で《ツンデレ》の歴史を終わらせたいとも言ってたんだって」
 だから萩乃は、祖母が遺した道場と理念を知らなかったし、知らされていなかったのだ。それは彼女の兄弟妹たちも同じくである。そしてまた、だから余計に、萩乃には納得できないところもあった。
「でもツンデレは、本当は決して相手を傷つけない愛の道だと聞いた。そんな立派なものを、どうして終わらせなきゃいけないんだ?」
「うん。最初に言ったよね? 《ツンデレ》には、世界を変えるだけの大きな力があるって。《幼なじみ》でさえ本気を出せば国を動かせるんだ。《ツンデレ》の達人ならどうなるか。それが政治的な野望のために利用されるんだったら、命だって狙われるかもしれないんだよ。きっと、自分の子供や孫をそういうことに巻き込みたくなかったんじゃないかな」
「私が言うのもなんだが、そこまでツンデレって大したものかな? 相手を傷つけないってだけの力で世界を変えられるなんて、いくらなんでも話が飛び過ぎている」
「それ、マジでそう思ってる?」
「どういう意味だ?」
「《ツンデレ》は、きみのご先祖様が命懸けで守ってきた、きみのお婆さんが人生を賭けて封印しようとしてたものなんだよ。それがただ相手を傷つけないだけなんて、そんな手品でも代わりに出来るようなちゃちいものだって、マジでそう思うの?」
 萩乃が家族を大事にする人間であることを承知した上で、こういう言い方をすれば決して悪い印象を与えないと理解した上で、紅葉はそう訊いた。ここまでくれば、とにかく話を信じてもらうことが重要だからだ。
 対して未だに紅葉のことを信用したわけではないが、萩乃には確かに、祖母の遺したものが何か特別なものであってほしいという期待があった。もちろん先人への敬意も含めて。それ故に、彼女は紅葉の言葉の続きを待ったのである。
「いい? 詳しいことは千尋さんが墓場まで持ってっちゃったから知らないけど、これだけは言えるよ。はーちゃん。きみの知ってる柔拳突きには、まだその先の段階があるんだ」
 少なからず、萩乃はこれに興奮を覚えた。もし本当ならば、もし自分に資格があるならば、是非ともその先の段階とやらに臨んでみたいと思うからだ。その考え方の基本には、きっと武道家としての向上心もあるだろう。
「では仮にツンデレが大層なものだとして、しかも私がその境地に達することが出来るとして、お前の直接の目的は何なんだ? 私が『花札』とかいう超能力を私利私欲のために使うとでも? それを監視に来たとでもいうのか? あと『はーちゃん』って言うな」
 そんな自身の昂りを努めて抑えつつ、萩乃はついに核心に迫る疑問を投げかけた。
「それは……違うよ」
 紅葉をここへ寄越した《幼なじみ》の隠れ里としては、生前の千尋の意思を尊重することで話がまとまっていた。つまり本来ならば家系や能力に関わることは萩乃に伏せておきたかったのだが、紅葉はそこまでは口に出さなかった。今さら言っても仕方がないからだ。
「ボクの任務は、小野傘雨柳に近づいて、その正体を探ること、だよ」
「だから何故そこで先輩の名が出てくるんだ。正体って何のことだ?」
 代わりに、慎重に、彼女は言葉を選ぶ。
「いい? きみのお婆さんはね、《ツンデレ》を敢えて無くそうとした。形としての道場は続けても、人気が落ちるのに任せて、自然消滅させるつもりだったんだ」
「分かってる。それはさっき聞いた」
「だからぁ、そこにいないはずの人間がいるんだよ。門下生がまだ残ってるなんて、誰も何も聞いてなかった」
「…………え?」
 萩乃は反応が遅れた。
 いつもの彼女ならば一笑に付していただろうが、今日の今ばかりはそうもいかない。「いないはずの人物がさも当然のようにそこにいる」という状況を、そしてその恐ろしさを、身に覚えたばかりなのだから。
「い、いや、それは……考え過ぎじゃないのか?」
「うん。そうだったらそれが一番いいよね。雨柳って人は、千尋さん直々に育てたお弟子さんで、素質もあって、ちゃんと《ツンデレ》の力を正しく使ってくれる……そうだったらボクらも安心だし、マジで喜ぶことだと思う」
 でも、と紅葉は一言を置いた。
「そうじゃない場合ってのがあるかもしれない。《幼なじみ》と似た『花札』を使える奴が、ボクがやったのと同じように侵入してるのかもしれない……だからそいつが、いつ、どこから、何のために道場に来てるのか、ボクは知らなきゃいけないんだよ」
 改めて、紅葉は萩乃をまっすぐ見上げた。

 生ぬるい夜風が、二人の頬をなでた。
 足元のアイスはとっくに溶けて、コンビニ袋もその形を不確かなものにしている。

     


「いや、でも、いやまさか、雨柳先輩がそんな、悪人であるはずが、ない」
 萩乃の声には動揺が隠せていない。
「そう信じたい気持ちはわかるよ。それにボクだって、彼がいい人であってほしいと願ってるのは事実なんだから。でもね、はーちゃん。信じるだけじゃダメだよ。最悪の事態ってものを想定しとかないとさ」
「はーちゃんって言うな。それに、なんだ、最悪の事態っていうのは?」
 正面から見据えるのではなく、目端で窺うように萩乃は訊き返した。
「小野傘雨柳が特別な属性を持つ能力者で、しかもボクらの敵になる人物だとしたら、それは個人だけを狙うとは限らないんだよ」
「……つまり?」
「マジの悪い奴なら、きみの家を狙ってくるかも」
 不安を煽り、心を揺さぶる紅葉の台詞――萩乃にとっては彼女もまた正体不明の域を出ていないという事実を踏まえながらも、萩乃は悩まずにはいられなかった。
 いざというとき、家族と先輩とを天秤にかけるとしたら?
 明白だ。どちらも皿に乗せれば、間違いなく家族が重い。だからこそ萩乃には、その結果を表面化させたくないという心理がある。皿に乗せなければ答えは出ない。触れないままにしておけば、先輩を打つこともない。
 だが言い替えれば、それは目を背けることでもあろう。
「ちょっと、ちょっと考えさせてくれ」
 萩乃は、うーんうーんと唸って、自分のおさげ髪を何度も引っ張ったり、指でくるくる巻いたり、頭を抱えたりした。
「わ、分かった。お前の言いたいことは、分かった」
 そして、重苦しげに口を開く。
「だけどお前の言うことを丸ごと信じることも出来ないんだ」
「うん。その気持ちは当然、そうだと思うよ」
「だから私は、様子を見させてもらう。お前のことは先輩に黙っておく」
「ありがと。助かる」
「でもいいか。私はわざわざお前に協力もしないぞ。自分から先輩について、お前に情報提供なんかはしないからな」
「それでもいいよ。今は、お互いに邪魔しないってことが大事だから」
「ああ、そうだな……それで、紅葉」
 ここで萩乃は、再び紅葉と向き合った。
「もし、やっぱりお前こそが危険な奴だと分かったら、今度は手加減しない」
「うん、構わないよ……っていうか、さっきのでも手加減してたの?」
 とっさに紅葉は自分の腹を押さえた。
「当たり前だろう。私が手心を加えなかったら、お前、確実に救急車を呼ばなければいけないところだったんだぞ」
「おっそろしいなぁ。おっそろしいよぅ」
「だから、本気で戦っても相手を傷つけないようになりたいんだよ」
 身を縮ませてぷるぷるした紅葉を尻目に、萩乃は足元のコンビニ袋を拾い上げた。
「あー、もうすっかり溶けてしまったな。まあ、バロックにすれば大丈夫か」
「バロック?」
「ああ、いろんな種類のアイスを溶かして混ぜてたものを、また冷やして固めるんだ。それを適当に砕いて食べる」
 手持ちの袋を、たぽんと揺らしてみせた。
「そうすれば味と量は偏らないし、きょうだい喧嘩になることも少ないからな。歪んだ真珠をバロックパールと呼ぶらしくて、それになぞらえて父さんがバロックアイスと名付けたんだ」
「なるほどぉ。ちゃんぽんみたいなもんか」
「のようなものだな……さて、では行こうか」
 萩乃が伸びをしながら立つと、ブランコの鎖が、きぃと小さく鳴った。
「ん、どこへ?」
「どこって、家へだ」
「ちょ、ちょ、家って、きみの? そこにボクが?」
「もちろん」
「なんで今さら? だって、ボクとは赤の他人だってもう分かってるんでしょ? ボクに協力はしないって、さっき」
「そうは言うがな、紅葉。お前の不思議な能力、その『花札』とかいうものに惑わされた上でのことだとしても、既に私はお前を家に泊めると言ってあるんだぞ。どうあれ約束を違えることはしたくないし、するべきじゃない」
「そう、なの?」
「そうだろう?」
 ケロッと言いのける萩乃に、紅葉はこの好意に甘えてしまおうと考えつつも、一方で「この子はいつか、酒の席とかでの判断ミスで人生を棒に振るタイプなんじゃないだろうか」とちょっとだけ心配になった。
「じゃあ今夜だけ、お世話になっちゃうよ」
「そうするといい」
 ゆるやかに紅葉も立ち上がり、のこのこと萩乃の後に続く。

 散歩から戻ってきた娘が見知らぬ少女を――女だと紹介されたから辛うじて少女に見えるが、少年だと言われても信じただろう――何の前置き無く連れてきたことに、萩乃の母は玄関口で目を丸くした。コンビニで急に話しかけられ、ツンデレの話題で意気投合したという。しかも今日初めて会ったばかりの人間を、この家に泊めたいというのだから驚きは重なる。
 紅葉の“離れてもずっと友達”と“家族ぐるみの付き合い”が解かれた今となっては、客観的にこのような見方になるものだ。萩乃が何か隠し事をしていることなど、母にはお見通しであることだろう。
「それで、紅葉ちゃん。ご飯はもう食べた? まだなら何か作るわよ」
「え、あ、はい。もう頂きました」
「そう? それじゃあ、ちょっと人数があれだからうるさいかもしんないけど、自分の家だと思ってくつろいでくれていいからね」
 だがそれでも、母は豪気に笑って、不自然な来客を受け入れた。何事かと廊下に出てきた父もほぼ同意見だった。この親にしてこの娘があるのだな、と紅葉は肌で感じたのだった。
「紅葉。さっきのが、私の父さんと母さんだ。きょうだいも多いから順々に紹介しよう」
「え、いやでもボクは……」
 それから萩乃は遠慮がちな紅葉を引っ張って居間に入り、家族それぞれと対面させた。

「まずは私の兄さんの健悟(けんご)だ。工事現場で働いている」よく日焼けした筋肉質の眼鏡青年が、軽い感じで片手を上げてみせた。もう一方の手には建築士の資格参考書が収まっている「おう、萩乃と仲良くしてくれよな」
「その隣が、健悟兄さんのお嫁さん。留華ねえさん」身重の女性が居住まいを正す「……初めまして、だっけ? あなた、前にも会ったことなかった?」そう言って留華が眉をひそめると、萩乃は「まあ、どこにでもいそうな顔ですからね」と疑惑を薄めた。
「次は海斗(かいと)だな。小学六年生」野球漫画を読んでいた男の子は、紅葉を見上げてちょっとだけ首を縦に動かすと、また目を逸らしてページをめくり始めた。「こ、こんばんは……」
「で、海斗の漫画を後ろから覗き見ているのが、小学三年生の小雪(こゆき)」大人しそうな女の子は、兄の背中に隠れたまま、無言で紅葉の様子を窺っていた。紅葉が人懐っこく微笑みかけて、ようやく小さく「こんばんは」とあいさつを漏らす。
「さて……」と萩乃が首を回せば、そこに丁度のタイミングで三人がお風呂から上がってきた。「瑞穂(みずほ)は、今年受験を控えた中学生だ」モデルのような面立ちと体つきを具えた少女は、夢遊病の如くふらふら歩いている妹弟を捕まえて、まだ濡れた髪をタオルで拭いていた。「あ、お姉ちゃんのお友達? どうも、どうも」
「そして一番下の妹の果梨(かりん)と弟の恋次(れんじ)」そう紹介された小さな二人は、まるで自分の見ているものが夢か現かも分からぬようで、紅葉があいさつの言葉をかけても、かくんと揃って首を上下させるのみだった。「相当、おねむみたいだな」

「以上が猪立山家の全員だ。覚えてくれたか、紅葉?」
「あーうー、努力はするよ」
 何故か萩乃が誇らしそうにしている横で、紅葉はこめかみに指を当てて険しく目をつむる。ああして矢継ぎ早に顔と名前を出されては、人間関係に強いと自負する《幼なじみ》といえど、整理にはいくらか時間を要するのであろう。
 そして夜も九時以降になると、時間とともに年若い者や自身を労わる者から寝床に就くようになる。その度に『おやすみなさいコール』が丁寧かつ漏れなく行われるので、紅葉は少し驚きつつ、また羨ましくもあった。
「じゃあ紅葉。私たちもそろそろ寝ようか」
「え、早くない? 今日は土曜日だよぅ?」
 やがて萩乃も就寝を勧めた。携帯を確認すると、まだ十一時を過ぎて間もない頃で、紅葉にとってはまだまだ宵の口である。
「土曜も日曜も関係ないんだよ。我が家には早朝、エイリアンが現れるからな……と、兄さんはまだ寝ない?」
「おう、俺はもうちょっと勉強してるわ」
 日常にあるまじき単語が急に出てきたことに紅葉が首を傾げているのにも構わず、萩乃と健悟の兄妹は何気なく会話を続けようとした。
「ちょ、ちょ、ちょ、エイリアンについて詳しく。いるの、異星人が?」
「のようなものだな。明日になれば分かる」
「いるんですか、エイリアン?」
「近い感じのものならね。うん。明日になったら分かるよ」
 紅葉は疑わしく健悟にも訊ねてみるが、返事は似たものだった。
「とにかくも、兄さん、おやすみなさい」
「おう、おやすみ」
 それからやや間を置いて、紅葉の肘が萩乃に小突かれる。
「ん? あ、あぁ、おやすみなさい」
「紅葉さんも、おやすみなさい」
 かくして健悟だけを居間に残し、萩乃と紅葉も寝室へ行くことにした。
「ねぇ、はーちゃん」
 階段を上る途中で紅葉は、萩乃の背中に問いかける。
「はーちゃんって言うな。どうした?」
「なんだかこの家、あいさつがしっかりしてるから、凄いよね」
「ああ、父さんの方針でな。『おはよう』『いただきます』『ごちそうさま』『行ってきます』『行ってらっしゃい』『ただいま』『おかえりなさい』『おやすみなさい』こういった言葉を疎かにすると、拳骨が飛んできたものだよ」
(今どき、家族同士の気恥ずかしさも無しにそれがちゃんと出来るって、実はやっぱり凄いことなんじゃないのかなぁ)
 内心感心しながら紅葉は後に続いた。

 萩乃の部屋は瑞穂と共用である。天井の常夜灯だけが点いた暗がりの中、敷かれている三つの布団のうち、窓際の一枚の上には人体のふくらみが見てとれる。
「それじゃあ紅葉、おやすみ」
「うん、おやすみー」
 紅葉が布団に横たわったのを確認して、萩乃は小さな灯りを消した。そして彼女も床に就き、そのもぞもぞ音が止むと、夕食時の騒がしさが嘘のように、この家にも静寂が訪れた。
 カーテン越しに届く街灯の他には目の頼りになるものがなく、こうした落ち着きの中で萩乃は、日中では忙しくて頭が回らなかった事柄に意識が傾くのである。
(柔拳突きにはまだその先がある……か)
 萩乃の右手は、パジャマの胸元をぎゅっと掴んだ。
 可能ならば、その域に到達したい。祖母の歩んだ道を辿り進みたい。そう思いつつも、まだ第一段階すら満足に出来ていない現状だ。
(今さら何だが、相手を傷つけない特殊能力の有無に関わらず、好きな人や物を進んで殴るということ自体が矛盾していないか? この理屈だと、いずれ戦う相手を好きにならなければいけないぞ)
 実に今さらな疑問であるが、ここに萩乃が至ったのは今夜が初めてである。
 一方で、それを推しても壁を超えない限り習得不可能であることも、武道を志してきた者として重々承知していた。
 ならばどうするか――ともかく実践稽古するしかあるまい。
「なあ、瑞穂。まだ起きてるか?」
「ん~、なぁに、お姉ちゃん?」
 声かけられたことで目を覚ましてしまったのか、瑞穂は面倒くさそうに口を開いた。
「明日、試しに一発殴らせてくれないか?」
 そんな妹に、構わず萩乃は無茶を言うのだった。
「……はぁっ!?」
「嫌か?」
「イヤに決まってんでしょ。だいたい、なんでよ。なんであたしなの?」
「技術を身に着けるには弛みない修練が不可欠だ。そして極真ツンデレに伝わる柔拳突きは、嫌いな人や物には打てないと知った。ならばとはいえ、そこで兄さんや先輩のような目上の者を叩き台にするのは失礼だろう。しかし海斗よりも年下の者が相手では、万が一失敗したときが大変だ……もうお前しか残っていないじゃないか」
「なるほど、ふざけんな」
「もちろん顔は狙わないから」
「狙わないから、じゃないって」
「お前を私の妹と見込んでの話だぞ」
「だからどうしたって話だよ!」
 このやり取りは、暗に萩乃にとって瑞穂が「好きな相手」であるということを示しているのだが、そんなこととは関係なく、じゃあ殴られてあげますなどと承服するはずもない。
「前から言いたかったんだけどさ、お姉ちゃん。いつも口では『暴力が嫌いだ』って言ってるけど、周りからは全然そういうふうに見られてないってこと、ちょっとは自覚してよね」
(あ、ボク以外の目から見ても暴力的なんだ)
「紅葉さん、でしたっけ?」
 ここで急に、瑞穂の口が紅葉に向く。
「あんまり、ツンデレとか何とか、お姉ちゃんにおかしなこと教えないでくださいね。迷惑するのはあたし達なんですから」
「あ、うん、なるべくね」
「うーむ、迷惑をかけるつもりはないんだがな」
「つもりがなくても!」
「それはそれとして、一発殴らせてくれないか?」
「うっさい、死ね! おやすみ!」
 直接的な罵倒と就寝のあいさつとを連続して、瑞穂は寝返りを打った。姉妹の押し引きを脇で聴いていた紅葉はふと、妹の瑞穂のほうが《ツンデレ》としての資質は強いんじゃないだろうかと思った。
「あ、そうだ、瑞穂ちゃん?」
 それはそれとして、ついでに一つ、彼女自身の疑問も呈してみる。
「な、ん、で、す、か?」
 露骨に不機嫌。
「あぅ、ちょっと、ね、この家に朝、エイリアンが出るって本当?」
「エイリアン~?」
 何をほざき出すのかこの人は、とでも瑞穂は言いたげである。そこへ横から萩乃がフォローを入れた。
「ほら瑞穂、いるだろう。朝日の訪れよりも早く目を覚ますあの二人が」
「あぁ~、そうだね。お姉ちゃん、あれはほんと、エイリアンも裸足で逃げ出すね」
「エイリアンより上なの!? 何なの?」
 ますます紅葉が不安を駆られていると、しばし後、二人が口を揃えた。
「「明日になれば分かる」」
「気になるよ二人ともぉ! 二人とも……ねぇ、はーちゃん? みーちゃん?」
「くかー」
「すやすや」
「寝るの早っ!」
 仕方なく紅葉は、もやもやした気持ちを抱えたまま目を固く閉じたのだった。

       

表紙

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Neetsha