Neetel Inside ニートノベル
表紙

秋の夜長の蜃気楼
二.

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 二.
 件の日からかれこれ四、五日経っただろうか。
 私と鞠乃は放課後、バイトもないこの時間を図書室で過ごしていた。
「sinとcosにはグラフがあるんだよ。音波グラフみたいな形してるんだけどぉ、グラフの始点に増減があるのは切片のせいで……」
「あー……うん」
 ここ数日、鞠乃には言い訳に使うようで悪いが、私一人勝手に精神的にボロボロだったため、出席はせどもついていけぬ授業にますます遅れをとってしまっていた。それを今こうして埋めてもらっているわけだが、
「……三角関数は全然分かんない」
「むっずかしーよねぇ。あたしもヤだもんこれ解くの」
 この様である。
 教科書に描かれている図解の曲線のようにゆるゆるな空気に、集中も何もあったものではない。その原因は鞠乃が持つ独自の柔らかな雰囲気もそうだが、それでもここまで進捗が悪いのは初めてだった。
 ――というのも、はっきり言ってしまえば私のやる気のなさが全てなのだが。
 自分から勉強を教えて欲しいと願い出たくせ大変失礼極まりないことに、最初から私の目的は授業の遅れを取り戻すことではない。鞠乃と二人で所定の時間まで暇を潰すところにある。
 そのついでに少しでもこの時間を有意義に使えれば、と鞠乃に頭を下げたのだが、これから自分のやることを思うととても勉強になんて身が入らなかった。
「……はぁ」
 とても気が重い。
 自分の下した決断と、それに基づくこれからの行動をシミュレートするたび、胃が軋むような気持ち悪さを感じる。
 できることならこのまま何事もないかのように帰ってしまいたい。今まで通りの生活に甘えてしまいたい。
 がしかし、その居心地のいい環境にずっと身を置いていては、じきに来るであろうその時の痛みは、きっと計り知れないものにまで膨れ上がる。
 今ならまだ、引き返せると。そして私も乗り越えられると、そう思ったのだ。
 鞠乃が自分の中の傷を克服しようとした。その勇気を私の身勝手で縛り付けてどうする。
 それに居心地のいい環境と言っても、ぬるま湯にずっと浸かっているのはイコール楽ということではない。それはここ最近身に染みるほど体験していた。
 退路も絶っている。あとは、言い出すのみ。
「やだぁ。溜息ばっかりつかないでよぉ。数学の一個や二個解けないぐらいでそこまでクヨクヨすることないって」
「……うん。ふふっ、そうね」
 こちらの気も知らずのんきな鞠乃の態度に、笑うしかなかった。
 本当に、学校の問題が解けないぐらいの悩みで、弱音を吐いてみたいものである。そんな平凡な悩みなら、きっと夜な夜なベッドで泣くということもせずに済むのだろう。
 私だって今日以降、そんなことをするつもりはない。そのための決心で、それだけの覚悟をしてきた。
 ――さて、
「そろそろ遅いね。帰ろうか」
「そだねー。勉強なんて寮でもできるしね」
 時計を見ると頃合だった。秋だというのに日は高く、未だ赤みも差してないが好都合である。
 ニコニコしながら勉強道具を片付ける鞠乃を見て思わず和んでしまう。しかし一時の安らぎも、瞬時に虚しさへと変化していった。
「忘れ物ない?」
「だいじょーぶ!」
 そんな感情をおくびにも出さず、悟られないようにと寧ろ笑顔さえ浮かべた。それぞれ自分のバッグを持って図書室をあとにする。
 時刻、午後四時四十七分のことである。

 自分たちの下駄箱のある北館へぐるりと回り込み、玄関で靴を履き替え校舎を出る。放課後なのに人がそこそこ多かった。
 玄関から正門までの道の上にポツポツと点在する生徒たちは、服装からして部活動が終わった人たちらしい。ジャージ姿のまま帰宅する人や、文系部と思しき女生徒の集いが一様に正門へ向かって歩いている。
 その中に、
「あれ? まさやんじゃない?」
「ん……? あー」
 背もほどほど、髪型も無難で全然目立たない男子筆頭の正也を、鞠乃は長年のよしみだけで見付け出した。
「そうかもしれないわね……って」
 既に彼の元へ走り出していた。私も慌てて追いかける。
「まっさやーん!」
「うおっとぃ!」
 腰の辺りに思い切り頭から飛び込む鞠乃。背中から突っ込まれては身構えることもできなかったのか、正也の身体はかなりの距離を前につんのめっていく。
「鞠乃ちゃんか……ビクったわ」
「まさやん! 試合どうだったのっ?」
「あー……試合な」
「鞠乃っ、ちょっと、早いからっ」
 元気な子供のように走る鞠乃にようやく追いつき、まず鞠乃をたしなめた自分に苦笑する。私は彼女の母親か何かだろうかと思わざるを得なかった。
「こんな時間に珍しいじゃない。部活どうしたの?」
「いやな、体育館使用権取られちゃってさ」
「うわ、大変ね」
 学校施設としてどうかと思われるのだが、立地が立地なため当高校には校庭というものがない。それで体育の授業と放課後の体育会系部の活動は基本的に全て体育館で行われている。
「いつもは別のところで練習してるんじゃなかったの?」
「そっちも借り忘れだと。それに借りんのもタダじゃねーし大変っぽい」
「なーるほっどねぇ」
 分かったのか分かってないのか、とりあえずの相槌にしか聞こえない納得の声を上げる鞠乃。
 駅に乗って少し行くと、公共施設になるがそれなりに広い運動場が存在し、運動部はそちらにいって活動することも少なくない。寧ろ私はそのイメージが強かった。
 が、他の部との折り合いが上手く行かず、加え不手際が重なれば、
「そんなこんなで今日はさっさと練習終わり」
「じゃ、じゃ! 一緒に帰れるの?」
「あぁ。これから帰るとこだったし。志弦らもか?」
「えぇ」
 体育館の使用時間が他の部と平等に分けられ、先に使い切ってしまえばこの様ということだ。
 以上、ここまで前もって正也から聞いた運動部事情。
 いつだかの昼休みに、いつなら一緒に帰れそうかと聞いてみたところ教えてくれた、当事者にだけ分かる面倒で複雑な話だった。
 ついでに、早めに練習が終わりそうな日付を具体的に言わせてみたら今日が挙がったのである。
 一番近い日にちがそこだったため即決だった。子細な部活終了時間を聞き出し、こちらの意図を話して帰りに付き合ってもらうことを予め頼み込んでいた。
 つまり、今日この時間に私たちと正也が会うのは最初から決まりきっていた。そのための時間潰しから、どうして部所属の正也がこんな早く帰宅なのかの説明までを含めワンセット、たった今偶然出会った風を装いつつ自然な形で下校を共にするため、正也には芝居を打ってもらった。
「三人で登校するのは最近あったけど、帰るときに一緒なのは久しぶりね」
「ほんとだねー。まさやんが部活なんてするから」
「オイ仕方ないだろそれは」
「ね、だからさ」
 ――そう。コレが私の決断だ。
「学校下にいって、少しぶらつかない? 遊んでいきましょ」
「お、いいじゃん行くわ」
「わー! 行きたい行きたい!」
 なんて白々しいやり取りだろう。何も知らないで屈託の無い笑顔を浮かべる鞠乃を、用意していたレール上に乗せる自分の行為に嫌気が差す。
 とはいえこうして、学校下散策が決定した。
 ここまでは全て、計画通りに進んでいる。
 さらなるこの先のことを思うと、既にもう胃に穴が開きそうだった。

       

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