Neetel Inside ニートノベル
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 何かあったら呼んでくれ。
 正也がいつも私に、もう口癖になってしまったのではないかと思うぐらい言ってくれる、ありがたい言葉だ。
 私と鞠乃が二人暮らしを始めてからずっと生活を案じてくれている正也が、困ったときには助けてやるという意味合いで掛けてくれる台詞なのだが、その好意に頼ったことは今までで一度もなかった。
 そして今回、こういう形で正也を頼るのは彼の優しさに甘えるような気がして罪悪感が募るのだが。
 他に……今すぐ取り掛かれて効果的な方法を思いつかなかった。
「話があるんだけど、昼休みにでもちょっと聞いてくれないかしら」
 そんなメールの文面で正也を呼び出すことで、私はようやく鞠乃に対して踏ん切りをつけるための第一段階に入り込むことができた。
「……どうした?」
 私がメールを送るなんて滅多にしないので、正也も真剣な面持ちで問いかけてきた。
「ちょっと、鞠乃のことでね」
「鞠乃ちゃん? 喧嘩でもしたのか」
「違う違う」
 女同士、陰湿な喧嘩はするものだ、とでもいう認識が一般的に通っているんだろうか。散咲さんも似たようなことを言っていたが私と鞠乃に限ってそれはまずない。
「……鞠乃がさ、この前、夜中に真っ暗な道を一人で帰ろうとしてたんだよ」
「……」
 幼馴染だから故、事情を知っているので、それが何を意味するか正也も分かっているはずだ。真剣だった眼差しが更に険しく顰められる。
「だけどどうしても足が動かなくて、私が電話して迎えに行ってあげて、結局いつも通り一緒に帰ることになってその時は終わったんだけど」
「あぁ」
 端的に結果だけを述べる私に、返された返事は相槌一つ。丸く収まったのなら何ら問題はない、とでも言うように単調なモノだったが、尤も顛末を聞いただけではこの一件に私が抱く危機感を感じ取ってはもらえないだろう。
「その時、私凄い後悔したのよ」
「な、何でだよ」
「帰った後の夜、鞠乃がね。いい加減自力で夜道ぐらい歩けるようにならなくちゃいけないのに、また私に甘えちゃったって、弱々しい声で打ち明けてくれたの」
「……んん」
 事情を理解したように唸る正也。
「鞠乃はそんなふうに努力してるのに、私がそれを潰しちゃったんだって」
「んなこと言ったって、心配なものは心配だし仕方ないんじゃ」
「その言い分も、いつまで通用させられるのかな」
「……いつまで、か。そうか」
 まだ高校生とは言え、一応私たちはこれから自分がどう身を振っていくのかを考えるべき年齢である。大学に進学するにしろ、就職するにしろ、その希望をどう現実にするか。
 自分のことはまだいいが、懸念すべきは鞠乃であった。夜道が駄目という大きな障害は、彼女自身も独立の決心を鈍らせ、私としても見放しにするのは忍びない。というよりできそうにない。
 今はまだ鞠乃の傍にいてあげられるため解決を先延ばしにできているが、そのうち直面しなければならないときはやってくる。その時、誰もが不自由せず縛られない方法を思いつくだろうか。
「いずれは、鞠乃だって一人で生活できるようにはならなくちゃいけない」
「そりゃそうだろうさ。だけど……」
「そして現に、鞠乃はそのために頑張ってる。いつかは克服しなきゃって、いつまでも甘えてられないって言いながらだよ」
 怖くて怖くて仕方ない夜の闇に、懸命に歩み進もうとするのに、どれほどの勇気がいっただろう。
 ベッドの中で涙目になりながら滔々と語る鞠乃の、悲痛なまでの訴えは今でも耳に残っている。ものすごい可哀想で、だけれども無責任に助けてあげることもできなくて、あの声を思い出す度、もどかしさと無力感がないまぜになった複雑な痛みが襲ってくる。
「凄い辛そうで……見てられなくてさ……」
 守ってあげるのに。守ってあげたいのに。迂闊に手を出せないことが悔やまれる。
「かといって、いきなり志弦が助けるのをやめて野放しなんて、そんなことできないだろ?」
「もちろんそんなこと絶対しない。だから、正也を呼んだんだよ」
「……俺?」
 そう、正也を呼び出した本題はここにある。
 私の苦悩の核も、きっとここにある。
「あれでも鞠乃、あまり友人いなくてさ。頼れる人がそんな多くなくて」
「あ、あぁ」
「正也とは長い付き合いでしょ? 鞠乃があそこまで慕っているのは私か正也ぐらいしかいないのよ」
「で、その俺は何をすれば」
 言いたくない。けれど言わなければならない。
「これから少し……面倒見てあげる、というか付き合ってあげてほしい」
「……」
 友人の野暮用に付き合ってやる、のようなニュアンスなのか、恋人のように傍で付きっきりになる、のニュアンスなのか。私の台詞を正也はどちらで捉えたのかは分からない。
 だけれども私は飽くまで後者のつもりで話している。というより、話さなければいけない。これは鞠乃自身の問題だが、同時に鞠乃に対する私の問題でもある。
「今までずっと、鞠乃には私が付いてあげてたんだけど、これからきっと鞠乃はそれを嫌がる。だから……」
「んー……俺が付いたって、同じなんじゃないか? 結局仲の良い人間が傍にいるんだったら――」
「それについては、色々あるんだけどね」
 確かに、鞠乃を独り立ちさせるためのリハビリをやるのであれば、私や正也みたいな親友を除いた、知人とかそれなりには話せる友人などの起用が望ましいだろう。
 しかしそれには懸念一つ。
「いきなりハードル高くしても、乗り越えられなきゃ意味ないじゃない。段階を踏んでゆっくり進めていくつもり」
 加え、正也でも大丈夫な裏付け一つ。
「長い間鞠乃と一緒に過ごしてきた私と正也でも、違うところが一個だけある」
「……何だそれ。男か女か、とか?」
「性別は関係ないよ。まぁ、そんな大したことじゃないんだけどね」
 今となっては本当に些細なことだ。鞠乃の記憶に残っているかさえ定かでない、とてもあやふやなモノ。ただそれは私にとっては、心の底に根を張ったように強く存在するモノ。
「ずーっと昔。本当に昔。ただ一つ曖昧な約束をしたってだけなんだけど」
「だから、何なんだよそれ」
「……何てこともないよ」
 少なくとも私は、軽い気持ちでこのことを他人に話したくはなかった。
 何もかもを伏せる私に、正也の表情が猜疑心で険しくなっている。怪しまれすぎたことにようやく気づき慌てて、
「と、とにかく。失礼なこと言うみたいだけど私と正也でも結構差はあるのよ。だから第一段階として、正也にお願いできれば……って」
「と言われたって……付き合うって具体的に何すりゃ」
 依頼の開始一発目、口にするのが心苦しい返しが飛んできた。
 何と言おうか頭の中だけで逡巡し、実際には数刻と掛からない内に返答する。
「基本的に多くは求めないけれど、とにかく自然と、鞠乃に付き添ってもらいたいかな」
「自然とってなぁ。いつも通りってことか?」
「うん。寧ろ正也がこれは特訓だ、みたいに意気込んで傍に付いちゃうと、きっと鞠乃嫌がるから」
 私の常変わらない好意にさえ、甘えちゃ駄目だと抵抗するほどの固い決意だったのだ。恐らく自分一人で立ち向かわねばとでも思っているに違いない。そんなところに協力してあげるよと言わんばかりに近づいたって彼女なら突っぱねてしまうだろう。
「あぁ、そんぐらいなら」
「……でも」
 この先まで言おうか言うまいか迷って、後に自分が苦しむことが分かりきっているくせ、喋り始めてしまった。
「あまりにいつも通りだと、素っ気ない……とかじゃないけど白々しいでしょう。今回の目的は鞠乃を独り立ちさせるというより、その前段階として私の傍から離れさせるっていうところがあるから、なんていうかな……」
 言い続けることに本能的拒否が起きている。それが発言に如実に現れていた。
「私から鞠乃を引き離す勢いで、自分の方へ引き付けるというか。できるだけ二人で時間を過ごして欲しいの。その……特別な意味含めてさ」
 言った。言い切った。
 言い切って、自分のことでもないのに顔から火が出そうだった。
 何が特別な意味含めて、だ。私から鞠乃を引き離して、だなんてどの口が言うのだろうか。
 その実は自分の異常性癖の手前、これ以上鞠乃の近くにいると暴走しそうだから奪い取ってほしいという、至極自分勝手な願いだったはずではないか。
 それをよくここまで他人行儀に、しかも鞠乃思いみたいに恩着せがましく言えたものである。
 その罪悪感で、人前で堂々と嘘を言った後ろめたさで頬が真っ赤に染め上がってるのが分かる。
 私は恥ずべき人間だ。顔が熱い理由もそれだけだ。
 ――目頭がカーっとなって、視界が揺らめいて、目から何かが落ちそうだなんてことは一切ない。こんな私に、恋人を思って涙を流す権利なんてない。
 ただ私は卑しい人間で、哀れまれるなんておこがましくて、きっとこうなるのがお似合いなのだ。
「……何つーか、いいのかなこんなことして」
「裏でこそこそやるのは鞠乃にも悪いとは思う。思うけど、こうでもしないと鞠乃が……」
「心配しないで、って言うんだろ。だけれどもそれじゃいつまでも夜が怖いまんまでーって堂々巡りになるのは分かんだけどさ」
「良心を殺せとは言わないけど、鞠乃のためを思っていつも通り接するだけ、って考えたらどう?」
 臆面もなくこんなことまで言い放つ自分が、ある意味恐ろしい。
「まぁ……鞠乃ちゃんのためなら協力はしたいけど」
「別に何か特別なことをいきなりやれって言うんじゃないのよ。時々一緒に登校してくれてたのを、少し回数増やしてもらったり、帰りの時間が合いそうなら付き合ってほしいなって」
 それに、
「もちろん最初から二人で放り出すわけじゃない。初めの内は私も含め三人で回って、その間に段々と正也が……その、そっちの流れに、ね?」
「……言われるとものっ凄い恥ずかしいモンだなこれ」
「でも鞠乃が、彼女だ……って言うの、嫌な気はしないでしょ?」
 当然だ。
 あんなに楽しそうに登校するのだから。あんなに楽しそうに喋りながら並んで歩くのだから。
「あ、あぁでもプレッシャーかけるつもりじゃなくてね? ゆくゆくはってだけだからそんな気負わず何も力まないでやってくれればそれでいいし、それに……」
 有無を言わさぬよう捲くし立てる秘境で強引なやり口に、自嘲するしかない。
 さらに勢い余っていった言葉には、
「私も、協力するから」
 今まで生きてきた中で一番、最高にむなしくなった瞬間だった。
 何が悲しくて、自分が好きな女の子を誰か他の男にあてがうような真似をしなくちゃいけないのだろう。
 その理由は既に自分の中で出切っているし、そのことに納得もしたつもりだった。だからこうして正也を呼び出して話していた。
 なのに、その上でもなお感じるこの被虐感は、自分の中で処分するには手に余り過ぎるものだった。
 正也の方はというと、何と返したらいいものか分からないといった様子で口を半開きのままである。きっと様々な思いが駆け巡っているに違いない。その“様々”までは推量が至らないが、数多浮かんでくる感情に複雑な心境であることは何となく予想がついた。
 それらの心情を限定的に取捨して出した結論を、私は待つつもりはない。
 全てコレは、私の一存で確定した決定事項だ。
「……それじゃ、お願いね」
「えっ、あ、あぁ」
 答えは聞いていないと言わんばかりに正也の前から逃げるようにしてその場を離れ、私は一人トイレの個室で、本当に吐き出すのではというぐらいに嗚咽を漏らした。

       

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