Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 つい先程まで夕暮れが眩しかったぐらいなのに、この季節は陽が沈むのが早い。
 喫茶店を出てからも学校下を散策し、帰ろうという話になったのは空が薄暗くなった頃だったが、家の前の駅で電車を降りるとすっかり真っ暗になっていた。
 都心の夜景が郊外の殺風景に切り替わるのを窓から眺めて、鞠乃の心情はどう変化していっただろう。夜を異常に恐れる彼女にとっては街の光でも救世主になり得るが、少し離れた住宅地には相変わらず心許ない街灯しかない。駅のホームはまだ室内灯で明るいが、そこから見上げる空はどこまでも黒かった。
 秋から冬は億劫な季節、とは鞠乃の弁。あまり遅くまで遊んでいるとあっという間に夜になるため、急いで帰らなくちゃいけないこの期間が嫌だと言っていた。
 鞠乃がそう公言したのをしっかり覚えていた上で、なお私は今の今まで学校下で粘っていた。心の隅で申し訳ないと思う気持ちはあるのだが、そうまでして鞠乃をこの夜空の下に晒し出す理由があった。
 喫茶店ではさんざ不安定だった私だが、計画の根本目的を忘れるまでには腑抜けていない。私の個人的理由はさておき、正也と行動を共にさせているのには、鞠乃が将来的にこの夜闇を克服するためのリハビリ第一段階、という意味も込めているのだ。
 本人も克服の意志を見せている今件に関しては、時期尚早なんて言葉は当てはまらない。取り掛かれることは今の内から何でもやるべきだ。
「鞠乃」
「ん、なぁに?」
 電車を降りて改札を抜け、出口に立つまでずっと私の右手を力強く握り締めていた鞠乃。口の調子は変わらずとろけるほど柔らかかったが、右手を伝って感じる彼女の震えと、全然笑っていない目元から察していっぱいいっぱいなのがよく分かる。
 子供のモノと大差ない、鞠乃の小さな手のどこからこんな握力が沸くのかと驚嘆してしまう。右手は既に痺れ、握り返すこともままならなかった。
「……いえ、すっかり遅くなっちゃったね、って」
「そだね」
 単調な台詞を間髪入れず、機械的に捌く。よほど余裕がないのだろう。
 隣に私と正也がいてもこんなに怖がっている。表面上取り繕っている点まだマシと言えなくもないが、心の底から怯えているのが文字通り痛いほど理解できた。
「まさやんはさ、家の方向違うんだっけか」
「そうだな」
「そっかぁ」
 鞠乃が何に落胆し、何を期待しているのかが手に取るように分かる。正也が私の頼みを忘れたはずはないと思いたいが、万一彼がそのまま自宅に直接帰るようであればそれを引き止めるのも私の仕事だ。
「ただまぁ、何だ、志弦」
「ん、何?」
「二人とは言え女子だけじゃ危ないだろ。志弦たちの家なら近いし、送ってくよ」
 流石に大丈夫だった。杞憂に終わった。
「え、ホント?」
「あぁ」
「やったーまさやーん!」
「うぉっと」
「きゃっ」
 空いた右手と身体全体で、正也の左腕にしがみつくように飛びついた鞠乃。その勢いを受け止めきれず、正也の方が多少よろけてしまっている。無理もない。鞠乃一人ぐらいなら両足が付いていれば受け止められるだろうが、そこに私が加わったのだから。
 正也が家まで来てくれると聞いて安心したのだろう。少しばかり声音も明るくなっていたが、それでもまだ、左手では私の右手を、力を弱めることなくむしろ更に強く握ったままだった。その手に引っ張られ私共々正也にタックル状態である。
 女子同士とは言え体格差はそれなりにある私たちのはずだが、それをもろともせず鞠乃は左手だけで私を身体ごと持っていった。怪力ともつかぬその力に驚きを通り越して呆然としてしまった。
「まさやんも手握ってー」
「お、あぁ」
「じゃー行くよー!」
「ちょ、ちょっと鞠乃……」
 この展開は願ったり叶ったり、なのだが。
 流石に私の方の手が限界である。血が止まっているのではと錯覚するぐらい痺れて感覚が弱まっていた。
 自ら外へ歩き出すそれは、恐怖を誤魔化すための勇み足なのか。半ば引っ張られるようにして私も正也もその後ろを付いていく。
 強がり以外の何者でもない大仰な手振りに陽気な鼻歌。それらを見て聞いて思うことは一つ。
 私は、この小さな掌を放すことができるのだろうか。
 心配性に関しては、私は人の事を言えないらしい。
「ま、鞠乃ちゃん手痛いって」
「えっ、あっごめん」
 喫茶店でも発揮された、思ったことをズケズケ言う無神経さは今も健在だった。手を握る力が強いだなんて普通女子に言うだろうか。
 もっとも、それで助かった人間がここに一人いるため文句は言えない。
「ついね、力んじゃって」
「はは、大丈夫だって。そんな掴んでなくてもどこにも行かないから」
「……え」
 ぼんやりとアスファルトを照らす駅の明かりが段々弱まってきた頃、正也の台詞に呆けた反応をする鞠乃。
「しっかりと家までは送るから、そんな心配しなくていいって」
「そ、そう?」
「そう? って何だよ。送ってくって言った以上、その責任あるからな」
「……そう」
「あぁ」
 きょとんとした表情でじっと正也の顔に見入ってる鞠乃は、そのまま頭の向きを変えない。
 彼女が発した最後の「そう」に、鞠乃がいくばくかの安堵感を得たのと、その証拠に少々のため息が混じっていたことを、私は見逃さなかった。
 手を握られる力が弱まった時、というより正也が手が痛いと申し出た時だが、少し焦ったのだ。鞠乃が不安を押し込めるように、無理矢理にでも恐怖を振り払うように、そして少しでも安心しようとして縋ったのが私の手だったことが今までの経験上分かっていたので、その頼みの綱を引き離すような彼の台詞が鞠乃の動揺を誘うことも同時に理解していた。
 だから一時、右手に感じる束縛から解放されて余裕が生まれた時、今度はこっちから握り返してあげようかと逡巡した。心を鬼にして、正也に便乗して少し離れようか、または少なくとも私の方からだけでもにじり寄ってあげようか。
 そしてどうしようか迷っているうちに、そんな私の苦悩が杞憂に終わった。どんどんと、徐々に私の手を握る力がさらに小さくなっていく。
「まっさやん」
「何さ」
「明日も一緒に帰れるの?」
「一応練習があるっちゃあるけど、今日と同じですぐ終わるから、その後だったら」
 そして私は、悟られぬよう静かにそっと、鞠乃が正也との会話に夢中になっているその隙に、すっと自分の手を引いた。
「そっかーよしよし。明日も一緒だね!」
「あぁ。よろしくな」
「あはー。今更何をよろしくなのさー」
「それもそうか」
 気付く様子は一向にない。
 そのまま私は手と同時、身体も後ろに退く。ゆっくりと距離を取って、ごく自然に二人だけの空間を作り出した。何を喋っているのか、単語一つ一つの詳細を聞き取れないぐらい十分に離れてから、
「どこにも行かないから、か」
 先程の正也の台詞を口に出して反芻する。
「……言ってくれるじゃない」
 この分だと、私のポジションが正也に取って代わる将来はそう遠くないのかもしれない。
 そんな予感を、私はどんな表情で思い浮かべているのだろうか。
 確かめる方法も、またその顔を見る人間も今この場にいないことが唯一の救いだった。

 徒歩で十分と言っても、会話する人間が誰もいないと結構長く感じるものである。
 ローファーの底でじっくり踏み締めるように歩を進めていって、前列の二人が我が寮の前辺りに差し掛かった時の感想は、ようやく、といった感じだった。
「じゃ、ここまでだな」
「うん! ありが、と……ね?」
 夢から醒めて、自分がどんな状況に置かれているか理解する段である。
「志弦ちゃんっ?!」
「志弦? そういや置いてきちまったな。ホラ、あんな後ろにいる」
 結構距離をとったからか、ここからいつものペースで歩いても鞠乃の元へたどり着くには十数秒程かかる。
 普段ならすぐさま鞠乃の元へ駆け付けてあげなければ、と思うのだろうが、
「学校下とか登校時も、いつの間にか距離空いちゃってたよな。歩くの遅いのか?」
「嘘、え、やだ」
「おーい! ここまででいいよなー?」
 必要以上に大声でこちらに問いかける。
 えぇ、もう大丈夫ですとも。あなたの功績はご立派でしたご苦労様です。とでも感謝の意を伝えればいいだろうか。それも大声で。
「えぇ! ありがとねー!」
 声を張り上げる時というのは思いの外大きく力を使う。両手を口に添えて、踵を上げて背伸びをするようにしてより遠くへ届くように、と思慮すれば。
 足が止まるのは当然だった。
「よし。じゃあまた明日な。朝は迎えに行けないけど帰りは一緒に帰るんだろ?」
「や、ちょっと待って、やぁ……っ!」
「じゃな!」
 私の右手に見せたように強く強く引き止めはしなかったのだろうか。それとも隣に私がいないのがあまりにも不意すぎて頭が回らなかったのか。正也が自分の家への帰路に足を向け、鞠乃から離れていくのをその場で確認する。
 理性的な自分が、早く行ってやれ、としきりに催促するのだが、今日たった今の私の心境は少々常識的ではないらしい。
 嗜虐心、とでも言うのだろうか。好きな子には素直になれずいじめてしまうような幼児性が滲み出て、さっきまでと全く同じ緩慢とした足取りになってしまっていた。
「……――!」
 息を飲んだのがはっきりと分かるような、全身を惜しみなく使ったジェスチャーを前方に視認する。肩をすくめて、胸の前で手指を組んで、膝が半分折れ曲がって笑っている。意図してか無意識か、内股になっていた。
 そわり、ぞわりと、変な痺れが。恐ろしいまでの力で掴まれたときのようなそれとは違う、電流みたいなモノが肩甲骨の上から首筋に向けてひゅっと奔る。
 ふと急に、鞠乃が腕を上げて両耳を塞いだ。さらに膝は曲がり、元々小さい身体がますます矮小に見えてしまう。何が聞こえているのだろうか。私には何も聞こえない。耳鳴りがするのだろうか。
「鞠乃」
 呼びかけに対する返事はない。ゆっくり、ゆっくりと近づいていって、街灯のない真っ暗闇に慣れた目が、やっと彼女の表情がどんなモノか見えるぐらいに詰めてきた。
 とても……とても、酷い顔をしていた。
 目はコレでもかと言わんばかりに見開かれて、その巨大な双眸からは止めどなく泉のように涙が流れ、頬から顎にかけてまで濡れそぼっている。涙だけのせいじゃないかもしれない。耳に添えられている、と言うよりは押し付けている手は今にも自分の頭を潰してしまいそうなぐらい圧迫しているし、指はこめかみ辺りを鋭く抉っていた。
 カタカタカタカタ、と断続的に鳴る軽い音は咬合がまるで合わないことを如実に表し、口元からはそれ以外の音声は何一つ出てこない。私の腰の位置まで下がった頭は、向きだけが上を見上げていて私の顔をじっと凝視している。瞳はどこまでも真っ黒で真っ暗で、夜闇に染まりきっているのが瞭然。もしかしたら私の顔なんて見えていない可能性もある。
 では彼女は何を見ているのだろう。
 まるで、誰かに裏切られたような、この世に一人しかいないような、誰かの死を目前にしたような、そんな表情で、彼女は何を見据えているのだろう。
「……鞠乃」
 すぐ隣まで来て、再度呼びかけたが相変わらず反応がない。目線の高さを彼女に合わせ、腕を背中に回してやる。そうしてやっと、鞠乃からも抱き返しの応答が来た。
 駅前で見せたのとは段違いの、もう何があっても放さないといったレベルの力に、触れかけていた私の気が理性的に引き戻される。抱擁というよりは締め付けに近かった。
「御免ね、鞠乃」
「ひぅっ、ひぐっ……」
 そして私は、そんなつもりなど全くなかったくせ白々しくもこんな台詞を吐いたものだった。
「頑張ったね」
「ぅぅ……ぅぅぅうううっ」
「一人で、ほんの少しだけど一人で、いられたね」
「ううううぅぁぁああああぁぁぁぁっ!」
 無防備な耳元にそう囁きかけている後ろで、良心が私の正気を攻め立てる。
 心の中ではこんな想定、全然してなかったくせに。
 嫉妬のあまりいじけて、振り向いてもらおうとか、気を回してもらおうとか、利己的な欲望にまみれてたくせに。
 本来の目的なんてすっかり忘れて、鞠乃の夜の克服なんてどうでもよかったとか考えていたくせに。
 よくもこんな言葉を言えるものだな、と。
「偉いね、頑張ったね……鞠乃」
「あああああぁぁぁぁぁああぁぁあああぁっ!」
 断末魔とも慟哭ともつかない悲鳴がどれぐらい続いただろう。鞠乃の顔を胸に寄せて声が枯れるまでそうやっていて、いつの間にか気絶したように身体中の力が抜け、全体重をこちらに預けてきたのを確認してから、
 自分が先程まで抱いていたどす黒い感情を。鞠乃の事をよく知っておきながら働かせてしまった無思慮極まる愚行を。死ぬ程後悔した。
 いやきっと、今日のことは死んでもまだ悔やみきれないだろう。

       

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Neetsha