Neetel Inside ニートノベル
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 再始業には何とか間に合い、鐘が鳴ってからは静かな教室で先生が来るのを待つ。
 鞠乃には体調の悪そうな素振りを見せまいと懸命に自分を律しているのだが、司書室で感じた不快感は未だ晴れない。寧ろ想像の対象だった鞠乃を目にして余計加速した気もする。
「起立、礼。着席」
 機械的に号令の通りの動作をこなす。手は机に突いたままだった。席に座って、息を整える。吐息音を殺して人知れず深呼吸するのにはもう慣れた。
 頭の鈍重さと目鼻の周りにある痺れが和らいでから、何故こうまで拒否反応が起きたのか不思議に思い始めた。
 私も年齢が年齢なのでその手の知識も保健体育のレベルでなら持ち合わせている。体調不良という形で経験もすれば、視覚的情報においてもふとした拍子や何かの弾みで見てしまったこともあるにはある。しかしそこまで取り乱したことはなかった。
 鞠乃と正也がモデルとされたから? 鞠乃に懸想している証? 正也を脳が受け付けなかった? 確かに男女交友の最終点を想定していなかったとは言え、さんざ今まで鞠乃が正也に向かってじゃれているところを見ている以上、その時点でこの気持ち悪さを感じていないと変ではないだろうか。
 話の相手が散咲さんだったから? 散咲さんの言葉だったから? 誰に対しても開け広げで、どんなネタでも躊躇することなく喋り始めるその人となりを知っていた上でなおショックだったのだろうか。彼女の言葉だから迫真するモノがあったのは認めるが、それでもあの人が何を口にしても驚かない自信がある。
 不意を突かれて無防備だったから? 私がその件に関する知識に疎いせい? どうなのだろう。自分が遅れているか行き過ぎかなんて調べようもないし、心の準備が整っていても気持ち悪いものは気持ち悪い気がする。
 ああでもないこうでもないと色々考え、鞠乃の相手を想像上の人物にすげ替えてみたり、鞠乃を自分にしてみたり、今度は正也を取り出したりと頭の中でしか許されないような行為をやってみるのだが、喉元にも首筋にもピンと来るモノはなかった。
「朝川」
「あ、はい」
「ここ和訳してみろ」
「……えと」
「志弦ちゃん、この文」
 鞠乃にペンで示されたローマ字の羅列を、立ち上がって朗読し、日本語に直していく。見慣れない単語は前日鞠乃にまとめてもらったノート端のメモで補い、すらすらと処理できた。
 よろしい、と座るのを許されてからは、脳内はすっかり授業の方に向き直っていて、教壇に立つ先生の言葉だけを取り込んでいた。

 授業がいい感じに気晴らしになってくれて際限ないループ思考を脱することができ、適度に集中していれば放課後なんてすぐである。
 今週の担当になっていたトイレの掃除を終わらせた後、鞠乃と一緒に正也を迎えに行く。待ち合わせ場所が図書室で固定されているのは、鞠乃に飛びつかれるのを他の人に見られるのが恥ずかしいから、と正也の弁。
 気持ちは分からないでもないし、そうさせているのは私なのでああ言われては一抹の申し訳なさも感じてしまう。反面鞠乃は全く気にすることなどないのだろうな、と隣でちょこちょこ歩く低い背を見て思う。正也にもそれぐらいにごく自然なこととして慣れてほしいものだ。
 ソファ郡が並ぶ図書室南館に辿り着くと、その群れの一端、窓際のそれに座って待つ正也がいた。
「お、今来たところか?」
「うん。やっほまさやん」
 場所が場所だからか、抑えがちの声の鞠乃。尤も放課後の図書室には生徒はほとんどいないのであまり意味はない。
「待たせて悪かったわ」
「いやいや、俺らも今掃除終わったところだしな」
 そんな会話をしつつ、下駄箱を目指す。校門が南館側、下駄箱が北館にあるのでとても遠回りである。
「明日だねー明日だねぇ!」
 私や正也と比べると一人だけ尋常じゃない浮かれようで意気揚々と校内を闊歩する鞠乃が先頭。並んで正也、後ろに私だ。
「そう言えばずっと悩んでたみたいだけど、ルートみたいなのは作れたの?」
「もうバッチリだよ! 楽しみにしててねぇ志弦ちゃぁん」
「ふっ、何よそれ」
 緩みまくりではないか。
「いつもいつもバイトでお疲れの志弦ちゃんにたっくさん楽しんでもらおうと考えたルートだからねぇ。すっごい期待してていいよ!」
「ありがとう。楽しみにしてるわ」
 できれば楽しませる対象は私以外の人間に定めてほしかったところだが、ここまで嬉しそうにしてくれれば企画した側としても本望である。
 玄関に着いて靴を履き替えている最中、
「正也、今日もバイトがあってさ。鞠乃のこと頼んでいい?」
「あぁ。オーケー」
 明日のための休みの代償とでも言えばいいか、今日にシフトが入れられていた。私がいない間にも接点を持ってもらうため、先程正也を迎えに行ったのだ。
「そかー。志弦ちゃんいないなら家いても暇だなぁ」
「遅くなりすぎない程度に学校下でもぶらついていたら?」
「俺は構わねぇぞ」
 あの日以来、鞠乃をあまり暗いところに置かないようにしている。
 ここ最近は夜は出歩かないか、出ても私が随伴していたので鞠乃が発狂しだすことはなかったのだが、久々にあの形相と絶叫を目の前にすると当人でなくとも心に来るものがあった。時期尚早だったとかそんな問題ではない。明らかに私が考えなしに事を運び、やらかしてしまった。
 今日の登校時、何とも思ってないと本人の口から聞いていても、心配が拭えるわけではない。だから「遅くなりすぎない程度に」の注釈だった。
「んー……」
 靴を履き外に出て、四角い空を見上げて思考する動作。
「今日はいっかなー。明日遊ぶわけだし、今日充電しなきゃだね。家に帰ってやることもあるし」
「そうか。じゃあそのまますぐ帰るか」
 その決定が、言葉通りの理由に起因するものなのかどうかは、彼女の表情からは推し量れない。
 歩をそのままに校門を出て、私は右へ二人はまっすぐ下り坂へ行く。
「じゃねー。ご飯作って待ってるから!」
「バイト頑張ってな」
「えぇ、それじゃ」
 別れ際の挨拶を交わしてから、さっき二人が家に直帰するという内容の会話を思い出して。
 散咲さんに呼び起こされたおぞましい映像と感触が、よからぬ想像によって再び湧き上がってきた。
「――ッ!」
 爪を手に押し付け、その痛覚に集中する。寒気がするのは秋が深まったせいだけだろうか。
 昼間の内とは言え、正也が鞠乃を寮まで送って行く可能性は十分にある。それは純粋な気遣いかもしれないし、鞠乃の我が侭かもしれない。
 今はそれが嫌らしい想像と直結してしまい、司書室で味わった色んなモノが舞い戻ってきている。喉元、視覚聴覚触覚全てに干渉する最低なイメージ。
 そんなことない、と常識的な理性はしきりに説得してくるが、それでも不安な気持ちが収まらず、見送った後も彼女らの背が坂の遥か向こうに消えて見えなくなるまで、ずっとその場に立ち尽くしていた。

       

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