Neetel Inside ニートノベル
表紙

秋の夜長の蜃気楼
一.

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 一.
 学校帰りのバイトをこなして帰宅する頃には、時刻は既に十時半を過ぎてしまう。今日もその例に漏れず、終電の二、三個前の電車を捕まえて、ほとんど客のいない車内で疲労した身体をガタゴトと揺さぶられるのだった。
 眠気で崩れ落ちそうになる頭を、線路上でわずかに跳ねる車体に引き起こされ――と繰り返される生き地獄を耐え抜いて目的の駅で降りれば、帰るべき学生寮までは歩いて数分である。誰もいない小さな駅の改札に定期券を読ませ、キオスクを横目に出口をくぐれば、あとは一本道だ。
 街灯も疎らな通りを歩いてすぐ、周りの建物と比べると真新しい外壁のアパートが見えてくる。そこの一階、門から見て奥の二番目の扉が、私の部屋のモノ。
 その扉の表札には、名前が二つ掛かっていた。
 朝川 志弦――あさかわ しづる
 藤田 鞠乃――ふじた まりの
「おかーえりー!」
 ガチャ、とドアノブをひねっただけでお出迎えの声が聞こえた。同時にタタタタッと足音がなり、扉を引き終えたそのときには、既に同居人の影が廊下にあった。恐ろしい聴覚と反応速度である。
「今日も帰り遅かったねぇ。疲れたでしょ? 夜食作ってたから食べて食べてー」
「うん。毎日ありがとうねー鞠乃」
「えへん、コレぐらいのことは当然です!」
 胸を張って豪語する小さい背中は、また廊下を忙しく歩いて奥へと消えていった。あまりうるさくすると隣人から苦情が来そうなものだが、疲れた身では忠告の一つも面倒だ。
 靴を脱ぐため三和土に上がり、手荷物を廊下に置いて一息つくとようやく安心できた。少しボーっと突っ立って、先程勢いよく捲し立てられたせいで言うタイミングを逃した言葉を口にする。
「ただいま」
 おかえりー! と、元気のいい声がまた奥から聞こえてきた。

 学生寮――正確には学校指定の推奨賃貸物件のこのアパートで、私と鞠乃はルームシェアをして共同生活を送っていた。
 リビングに入ると香ばしい香りが漂ってくる。入ってすぐ右手に見えるカウンターキッチンでは、急須を持って夜食の仕上げをしている鞠乃の姿があった。三角巾をつけエプロンをまき、彼女には珍しい真面目な目線は、もはや一昔前の嫁入りした若妻のそれである。ただ一つだけ、身長が足りぬが故それを補う踏み台に乗っているのがアンバランスと言えようか。
 邪魔しても申し訳ないので、そのまま素直にテーブルへと向かう。自分の座椅子に座って重たいブレザーを脱いでいると、コツ、と目の前に茶碗が置かれた。鞠乃は開いた手で私のブレザーを奪い取る。
「あ、いいよ自分で掛けてくるから」
「こっちこそいいよぉ志弦ちゃん疲れてるでしょ? エプロン外してくるついでだから座っててっ」
 そう言って、半ば奪うようにして上着を持っていかれた。この生活も一年と少々続いているが、いよいよ鞠乃の良妻役が板についてきている。
 テーブルを見ると、小振りの茶碗に小盛りのお茶漬けができあがっていた。就寝前の食事は不規則でよくないと言うが、しかしバイト終わりの空腹には抗えない女子高生のニーズにがっちりと対応している。それにちゃっかりと自分の分まで用意してあるのが鞠乃らしかった。
 鞠乃はエプロンも三角巾も外した部屋着姿で戻ってきた。首元で切り揃えられているゆるくウェーブがかかった髪、頭が私の胸のところに位置するぐらいに低い身長では、着るもの全てがダボダボに見えて、髪型もありパッと見全体的にふんわりしている。それほど目立つパーツのない顔には、垂れ目で笑うにこやかな表情が浮かんでおり、この笑顔を見るたびバイトの疲れも癒され、とても落ち着く自分がいた。
「えへ、お待たせぇ。あたしもお腹すいたぁ」
「ふふ、じゃあ一緒に食べようか」
「うん!」
 ちょこん、と対面に座る鞠乃は座高も低いためこちらを見上げるような形になる。膝を崩して、少しだけ目線の高さを合わせた。
「いただきます」
「いっただっきまーす」
「普通のお茶漬けとは色と香りが違うけど、何で作ったの?」
「ふふん、何だと思う? 啜ってみれば分かるんじゃないっかなー」
 言われて一口、お茶碗の中のお湯を啜ってみた。とても香ばしい味がして口当たりも優しい。リビングに入ったときに感じた匂いはコレだったのだろう。
「……麦茶?」
「じゃないっ」
「えー何だろう。ほうじ茶?」
「ちーがーうー」
「うーん?」
 緑茶ではないだろうし、他にお茶の種類なんてあまり知らない。
 悩み顔の私を見てニコニコしながらお茶漬けをはふはふ食べる鞠乃。なんだかとてもむずがゆいような、悔しい気持ちになった。負けじと私も箸を進める。
「答えはねー」
「うんうん」
「……秘密なんですよー」
「な、ちょっと何でよ、教えなさいって」
「やーだー。えへへ」
 いたずらっぽく笑う鞠乃にますます聞き出したくなるが、
「……まぁいいわ。美味しいし」
「本当? 美味しい?」
「えぇ。お茶漬けと言っても、なんか初めて食べる味だったしね」
 空のお茶碗をテーブルに置いてお先にごちそうさまをする。お粗末さま、と言う鞠乃を横目に、寝る準備を始めるため立ち上がった。
 自分のお茶碗は流しに持って行って、寝室で制服を脱いでパジャマに着替えると、鞠乃も食べ終わったらしく食器洗いをしていた。そのまま私は洗面台へ向かって歯磨きを。
 バイト後の目に力のない、見慣れた自分の表情。その隣にひょこり、と小さく遠くに鞠乃の姿が現れた。
「ね、あのお茶漬け……本当に美味しかった?」
「え? あぁうん。斬新というか、何というか……」
 歯ブラシを動かしながらなのではっきりしない声で答える羽目に。
「そっか。へへ」
「……?」
「あぁえっとね。工夫して作ったから、嬉しくてさ」
 鏡越しに疑問顔の私を見たのか、鞠乃は理由付けまでする。新しいレシピ開発が上手くいってよほど嬉しかったらしい。自分が作った料理を褒めてもらうことの喜びは私も分からなくはなかった。
 すっと鏡からいなくなる鞠乃を微笑ましく見送り、歯磨きも終わらせた私は次いでシャワーを浴びるべくドアを閉めた。

 髪も乾かすといよいよ寝るだけである。
 洗面所から出てリビングに戻ると、鞠乃がテレビもつけず座椅子でごろりとしている。姿勢そのものは脱力しきったものだが、目はしっかりと見開かれていた。
「さ、そろそろ寝よう」
「はーい!」
 全く眠たそうにない、よく通った声だった。
 リビングに面した寝室に入ると、先程掛けてもらったブレザーと自分で脱ぎ折りたたんだ制服、他にはタンスと小さい本棚と、そして一つのベッドだけがある。二段ベッドでもダブルなわけでもない、二人で寝るには少々狭く思われるシングルだ。
 だが、私たちにとってコレは普通のことである。
「明日も学校だよぉー。早起きできないー」
「私もちょっと自信ないから、頑張って」
「だーって志弦ちゃんの腕の中寝心地いいんだもーん」
「じゃ、早起きできるよう離れて寝てみる?」
 お茶漬けのときの意趣返しでちょっとしたいじわる心で言ってみたのだが、
「やだ!」
 強烈な拒絶。
「やだよ、そんなこと言わないでぇ。眠れなくなっちゃう……」
「御免御免。冗談だって。ホラ」
 言って、鞠乃を先にベッドに入れる。壁際が落ち着くらしいのでいつもこの順番だった。
 しょげた顔の鞠乃が横になって、私もようやく布団に入った。
「悪かったわ。機嫌なおして、ね?」
 壁に背を付けた鞠乃を、腕で胸元へ引き寄せる。頭の位置が合わないため私の頭は枕、鞠乃の頭は私の腕の上となる。
 ぽふぽふと、浅く波打った鞠乃の髪を撫で付けてると、次第に彼女の方からこちらへ擦り寄ってくる。
「冗談でも、やだ」
「……御免ね」
 それっきり一言も喋らなくなって、寝息だけが聞こえるようになる。
 身体で鞠乃の呼吸による起伏を感じ、私も寝ようとして――。
 ふと頬から、頭の芯から、胸の奥から熱が湧き上がり、じっくりと身体が熱くなるのを感じた。
「――ッ!」
 こんなにも近い鞠乃の四肢。鼻に、彼女の匂いがふわりと辿りつく。同じボディソープに同じシャンプーを使っているため自分と変わらぬ匂いのはずなのに、決して同じでない、彼女本来のふんわりとした甘い匂い。
 それを感じて、熱がさらに膨張したのを悟った。
 勢いで、腕の中にいる鞠乃をきつく強く抱きしめてしまう。これ以上近づきようもない鞠乃をさらに引き寄せようと力が働いて、
「……ぅん」
 鞠乃が眠たげにボソリと唸った。いけない、起こしてしまっただろうか。
 きつく抱き寄せたせいか、搾り出されたように鞠乃の匂いがさらに鼻につく。駄目だ。これ以上この甘い匂いが頭に浸透したら――。
「志弦、ちゃん?」
 鞠乃の呼びかけで、理性が引き戻される。
 本能的に締めていた腕を緩め、少し身体を離す。荒れた呼吸が聞こえないよう必死で息を殺し、何食わぬ顔で鞠乃の方を見た。
「眠れない?」
「ううん」
 答えて、今度は鞠乃が、離した距離を詰めてきた。
 落ち着け。
 自然な呼吸を装って、深呼吸をする。必死に、理性を全開で働かせ、心を落ち着かせる。
 決して、間違えても、この胸の高鳴りを知られぬよう、普段の律動を取り戻すため冷静になる。
 添い寝して心臓が高々と脈打っていたなんて鞠乃に悟られたら、きっとこの子は私を、軽蔑する。
 そんなこと、絶対に嫌だった。
「志弦ちゃん」
「……何」
「志弦ちゃんの胸の音、いつも同じで落ち着くんだ」
「やだ、恥ずかしいこと言わないでよ」
 自分の気がいっているところについて話されて、ドキリと……できない。動揺一つ見せぬよう感情をひた隠す。
「ずっと、一緒なの。自分では分かる?」
「あまり自分の心音って聞こえないものだけど……鞠乃が言うならそうなのかもね」
「うん。このリズム……落ち着くの。コレで、眠れるの」
 そう、彼女もそう言うから。
 彼女もこのリズムを望むから、何があっても乱してはいけない。
 だから、もしかしたらバクバク高鳴っていたのが分かってそんなことを言ってきたのではとか、不安になるようなことを勘ぐったりもしないで、さっさと自分も眠ることだけを考えた。
 その間、腕の中に、私の胸の上にいる存在を意識の外に追いやって。
 こんなにも、これほどまでにも近いのに、鞠乃はとても遠くにいるような気がした。

       

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