Neetel Inside ニートノベル
表紙

見開き   最大化      

 私や鞠乃が通いつめた時代から名声高かった円形の乗り物、コレ一つでやってきたと言っても過言ではないこの遊園地の凄いところは、その当時と比べても客の入りに衰えどころか盛り返しさえ感じる点である。恐らく下手に趣向を凝らした遊具を新設するより、たった一つのシンボルであった歯車をより魅力的に見せるほうが、他にない個性を発揮するに都合が良かったのだろう。
 時代遅れの感じを否めない観覧車を、逆に娯楽産業の競争時代を生き抜くメインアトラクションに据えて改良を施し、見事成功させた経営者の手腕には感嘆させられる。子供の頃から思い出深い場所を存続させてくれた意味でも、私や鞠乃にとっては嬉しい限りだ。
 が、こうして正也に連れられて目の前にすると、この大仰なまでに大きい車輪に不吉な予感を掻き立てられる。今から何が起きるのだろう、何を話されるのだろうかと考えるだけで、観覧車の回転よろしく気が重くなる。
 日も暮れたというのに観覧車前には今から乗ろうとする人々で行列ができていて、熱っぽい橙の空が、透き通って冷ややかな濃紺にほとんど侵食されたぐらいになってようやく乗ることができた。思いの外夜闇が落ちてくるのが早い。鞠乃が心配だ。
 だが今の状況、他人の心配をしている場合ではないのかもしれない。
 ゆっくりと降りてくるくせ、止まってはくれない不親切な車体に二人で乗り込む。
「……うん」
 足を踏み入れた瞬間起こる振動。シートに座って感じる微妙な浮遊感。経年劣化か若干傷物になってはいたが、窓から見える外の景色。何もかもが当時と一緒だった。いつもならここから、頂上に向かうに連れ見えてくる海に思いを馳せながら心が踊るところ。
 鞠乃ならきっともうなりふり構わずぴょんぴょん飛び跳ねてるだろうなと、昔実際にあってギシギシ連動して揺れる車体に冷や冷やした記憶と共に想像する。しかしそんな小さな子は今はいない。
 観覧車そのものは昔そのままだ。何も変わったところなどない。
 だけれどもきっと、それに乗る人達は色んな点で変わってきている。最後にここに来てからおよそ数年あまりの歳月を、このコンパートメントのようにゆったりと過ごしてきたつもりだったが、その内で気付かない間に大幅に動いていたものがあったのだ。
 その一つがきっと、今胸にわだかまるざわめきなのだろう。
 遠くに移していた視点をすぐ右に移すと、汚れたガラスにどんな感情も浮かべてない自分の顔が見えた。あまりの無表情ぶりに、少し身構えすぎだろうかと居住まいを正す。何も、今から正也に話されることは悪いことと決まったわけではない。
 身体の力を抜いて、伏せた頭を持ち上げる頃には、もう作り慣れた軽い微笑だ。
「急にビックリしたわ。何? 話って」
 努めて明るく聞き出す。対面に座る正也は、居心地が悪そうにうつむいて手指を組んでいた。
「あぁ。その、な」
「遠慮することないじゃない。いつも寮暮らしの私たちのこと気遣ってくれてるんだし、今度は私が聞いてあげる番よ」
 申し訳程度の理由も付けて喋りやすい空気を。
 こんな雰囲気で話し出せる話題であってほしいというのは邪推しすぎだろうか。
「多分、志弦にとっても鞠乃ちゃんにとっても、失礼な話になる」
「……何よそんな、想像つかないな」
 折角持ち直した気持ちを頭から折らないで頂きたいのだが。
 ある程度予想がついていたので、それを前提とした聞き方をしないといけなさそうだ。
「前、放課後に鞠乃ちゃんについて頼まれた件だけれども」
「うん」
 まぁ、コレ以外ないだろう。
「数日一緒に暮らしてきて、やっぱりよくないなって思い直したんだ」
「……うん」
 どういう意味でよくないのか判然としない物言いだ。未だ正也は俯いたままで滔々と喋り続ける。
「あの日志弦に言われたことは、鞠乃ちゃんのためにもなるし、その役に俺が適任なんだろうなってのは分かったから、あまり理解しない内に……というより、どういう結末になろうといいかな、って軽い気持ちで請けたけど」
 突如こぼされるその本音に、こっちは遊びでも冗談でもなく本気でお願いしていたのにと思うのだが、事が事なのでそう捉えられても仕方がないのは分かる。
「志弦が誘導する素振り見せたり、身を引いてるところ見てたら、お前は本気だったんだなってことが分かって」
 人と人を意図的にくっつける。今時なら悪ふざけでもそんなことやらないし、まして真剣に実行するなんて思いもしなかったのだろう。それは分かる。
 分かる、のだが。
「鞠乃がどういう子か、正也だって知ってたでしょ……?」
「……それは、な」
「初めから本気だったわよ。変だとかおかしいとか思われることかもしれないけど、鞠乃を思えば」
 なんて台詞を今も吐ける自分に反吐が出そうだった。自分本位の我が侭だったことはずっと伏せていたが自分自身にだけは隠せない。
「確かに鞠乃ちゃんは可愛い。話してて自然と笑っちゃうぐらい面白いし、一緒にいて苦にならないけど、けど」
「なら、それでいいんじゃ――」
「そういうのとは、何か違うなって、実感として湧いたんだ」
 ――あぁ。
 こう言われてはどうしようもない。
 主語が隠されていたとはいえ、言わんとしていることは掴める。隣に並んで登下校を共にしたりその道すがら会話したり、友達として付き合うにはいい相手だけれど、恋愛対象としては別。
 そしてそれを、実感を伴った感情だと言われてしまってはもう強要はできない。
 それはつまり、他に好きな人がいて、その人と鞠乃を比べてしまうからなのだろう。
 正也とて一人の高校生男子だ。普通なら誰かに恋心ぐらい抱いたっておかしくはない。そのことを失念していたわけではないが、自分の身に覚えがないから正也の身上もそうであることを勝手に願っていた節があったかもしれない。
 そう。正也はただ一般的に男子高校生をやっていただけで、そこに私が盲目的な願望を抱いていただけ。それを裏切られて立腹する道理はない。
「きっとこのまま志弦の理想とする形になったら。自分の心に嘘を付いたら、俺は絶対後悔するから、すげぇ悪いけど」
「……えぇ」
 こちらも理解を示すしかなかった。
「あとさ。まだあるんだけど」
「えぇ」
 何だろう。鞠乃をコレ以上ひっつけないでくれとかだろうか。そこは正直正也と私だけの問題でなく、正也に懐いた鞠乃本人の意志もあるので難しい気がする。
「志弦、笑わないで、聞いてくれるか」
「えぇ」
 外はすっかり紺一色だった。私の心に比例しているようだ、なんて感想を持つのはおこがましいだろうか。しかし事実、鞠乃の件に関して唯一とも言える光明が消え去ったのだ。私が能動的に離れるという発想は元より今でも全くないし、鞠乃を任せられそうな相手にも心当たりがない。どうしろというのだろう。暗い思考が空の景色と不吉にリンクしているような、そんな錯覚を起こす。
「志弦……お前が好きだ」
 私たちの乗ってる観覧車が、頂上に達した。
 海面は沈んだ夕陽の代わりに照明を浴びて、変わらず煌々としている。今はそれも空々しく見えた。
「えぇ」
 どうすればいいのだろう。頭の中はそれで埋め尽くされている。
「……し、志弦?」
「……?」
 ばつが悪そうな項垂れ方をしていた正也が、ピンと背筋を伸ばしこちらに向き直っているのを見て、先程正也がぼそりと言った台詞を思い出して、
「……――」
「あ、いや」
「――はぁっ?!」
 全部がぶっ飛ぶぐらいの混乱が脳内を荒らしていった。
 いや、ある種今までの会話で合致する点はあるのだが、その当事者が私であるという事実にどこまでも理解が及ばない。にわかに信じがたい一言、というよりは寧ろ信じたくない一言とでも言うべきか。
「……な、何言ってるの」
「何、って」
「は、じょ、冗談よね……?」
 そうであってほしいと願う思いがそのまま言葉として出てきた。
 ただそれは飽くまで希望的観測でしかない。様々に仮定の憶測と妄想めいた結論が脳内で生まれては消え、どことなく納得してしまっている自分もいた。それを否定してもらいたいという、ただの望みである。
 当の正也は、私からやんわりとした拒絶を受け、どこから何を話そうか迷うような素振りを見せてから、しばらく溜めを作った後、
「鞠乃ちゃんについての話をされたとき、志弦、私も協力するから、って言ってくれたじゃないか」
「え、えぇ」
「それを聞いて、鞠乃ちゃんと一緒にいれば、自然と志弦にも近づけるんじゃないかって思って引き受けたところもある」
「……」
「鞠乃ちゃんには本当に申し訳ないと思ってる。そして志弦を騙してたのも悪かった。だけど」
「最低よ……」
 もうその先を聞きたくない。
「最低よ、最低ッ! 正也あなた、鞠乃がどんな気持ちであなたといたと思って……!」
 私と一緒にいても絶対に見せない、身体全体を使っての喜びの表現を思い出して、感情の赴くままぶつけてやる。
「純粋な鞠乃が、あなたの心の裏とか全然知らないで、一緒に遊べるのが嬉しくてあんなにはしゃいでただろうに、それをあなたは……!」
「……鞠乃ちゃんには」
「きっと嬉しくて楽しくて仕方なかったはずよ! 私抜きで二人で話してる時ずっと見ていたもの。今日だってあんなに楽しそうにしていたのに、最後にはきっとあなたのせいで白々しく一人だけで帰る羽目になっ……て、え……」
 つまりそれは。彼女がそうしたということは。
 ――美味しいご飯作って待ってるからー! 三人分!
「全部、話してる。鞠乃ちゃんも俺の気持ちを知ってる」
「……」
 その上で。
 それを知ってなおもあそこまで楽しそうに付き合っていたのか。何を話題にあぁまで盛り上がれたのか。
 時々二人で話し込んでいる間私の方を振り向き直るのは何故。ジェットコースターの位置取りだって、鞠乃なら直前になっても誰かと隣になりたいとごねそうなものを、偶然か何か私と正也を組ませたりして、いやらしい笑みで見てきたりして。そういえば私がこの計画を始めるもっと前からも、いきなり正也が男らしくなったよねなんて話してきたり。そも、正也と登下校を共にしようと時間を合わせた日だって、自然性を装ったとは言えあの子は欠片も疑問に感じなかった。
 ごくさりげないこれまでの経緯がどれもこれも不可解な穴のように思えてくる。そして考えれば考えるほど、その穴を埋めるピースが都合よく出てくる。自分で自分が無理矢理納得させられるような感覚に身を包まれながら、それに抗おうと個人的感情がどんどん導きだされる結論を頭ごなしに否定している。
 だがそれも、無駄に終わる瞬間というのがある。
「鞠乃ちゃんに協力してもらって、今日の最後、二人きりにしてもらった」
「……」
「ココまで来て嘘でした、なんて鞠乃ちゃんに申し訳立たない」
「……っ」
「俺は、本気だ。志弦」
 正答を突き付けられた。
 ぐったりと、来るものがあった。いつの間にか力んでいた肩が、すとんと落ちる。
「俺と、付き合ってくれ」
 いきなりそんな事を言われても、どう反応してどう返せばいいのか分からない。人から好きと言われたのが初めてというのもあるし、そもこんな展開全く予想してなかった。
「そんな、や、だって……」
 どれにせよ、私の頭から離れないのはあの子の姿だった。
「鞠乃は……どうするのよ」
 そう。彼女の問題が浮き彫りのままだ。
 今もなお一人で夜を出歩けない事がいつぞやの件で判明している。まだ目を掛けてあげないといけない状態なのに、その役をお願いしたい正也がコレだし、そんな彼に私が付き合い始めたら、誰が鞠乃を面倒みるのか。
「あなたの気持ちは分かった。それを踏まえたら、コレ以上鞠乃をお願いはできない。だけどそうなったら」
「志弦、きつい事を言うようかもしれないけど」
 途中で遮って言葉を発する正也。どことなくウンザリといった感じの印象を受ける切り出しだった。
「鞠乃ちゃんの事、気に掛け過ぎじゃないか」
「そんな、何を……?」
 はっとするような、心外なような、二通りの感情が湧き起こされる台詞だった。
「鞠乃ちゃんが暗いのが駄目なのは俺も知ってる。だけど、話を聞く限り、志弦がそこまで面倒を見てあげなくても大丈夫なぐらいになってるんじゃないか、って思う」
「どうしてそんな事」
「一人で頑張ろうとしたりするんだろ? 志弦に頼らないで、一人で暗い道を買い物から帰ろうとしたりさ」
 確かにそんな気掛かりはあった。私が彼女の努力を打ち消してやいないかと思ったこともある。
「私にも自覚はあったよ。だから正也に代わりをお願いしたのよ。きっとそれだけでも大分違うと思って……」
「その事自体も、志弦からの気遣いだってことに変わりはない」
「それはそうだけど……!」
「俺は今の鞠乃ちゃんには、誰の力も必要ないと思うんだ」
 突き放すような物言いに腹立たしさを感じてしまうのは、私の過保護性の現れだろうか。
 私の今の気回しでさえも不要だと、鞠乃には誰の助力もいらないのだと言う正也に、面向かって薄情者と言ってやりたい。それではあまりにも鞠乃が可哀想だ。その心ない扱いに何の疑問も感じない無神経ぶりに苛立ちが募って仕方がない。
 だがその案は、私にはあり得なかった発想ではあった。
「鞠乃ちゃんだって十七歳だ。もっと言うと俺たちと全く同じ年だ。もう子供じゃないっていうのは同年齢の俺たちが一番良く知ってるじゃないか」
「別に、子供扱いしてたわけじゃ」
「そうかどうかは別にどうでもいい。だけど結局心配してるのは事実だろ?」
「……えぇ、当たり前よ」
「一旦距離を置いて見守ってあげるのも必要なんじゃないか」
 確かに正也の言う通りだとは思う。いつも私が傍にいて助けてあげたから、きっと鞠乃の中で誰かが助けてくれることが当然の事のような、当たり前の事になってしまったところがあるのかもしれない。
 だから夜の帰り道、急に一人置かれたりすると足が止まってしまうのだ。何故なら、そうしていれば私が来るというのを理解していて、知らず内期待してしまうからである。ここ最近その他人頼りなところが変化しつつあったが、それを阻害したのは、鞠乃同様助けることが当然になってしまった私のせいに他ならない。鞠乃に克服の意志があっても、私には見放す勇気がなかった。
 時々思うのだ。私にもこうした正也のような、手を掛けてあげることだけが愛情でないと理解した、そしてそれを行動として実行できる父性のようなものがあれば、私の鞠乃に対する立ち位置はもっと別のものになっていたのかもしれないと。
 保護者としてでなく、男性的なところがある、もっと別の存在として彼女と付き合えたのではと。
「だからって言うのも変だし、正直個人的な感情も混ざるけど、鞠乃ちゃんにとらわれない、志弦本人の声が聞きたいってのが、ある」
 だが、この男は全く理解していない。
「ねぇ、学校下で遊んで帰った日、駅についたときはもう暗かった日があったじゃない」
「あぁ」
「あの日、私たちの寮の前で、私が足が遅くて遅れてる中鞠乃から離れてさっさと帰っちゃったのも、その見守ってやろうっていう思いやりから来た行動だった?」
「うん。意図的にやったところはある」
 何も鞠乃の事を分かっている人間はお前一人だけではない、みたいな言い方をしてくれるが、
「その後、鞠乃がどうなったか知ってる?」
 知らないだろう。翌日の平然とした彼女の様子を見て気にも留めなかったろう。
「言い表しきれない酷い表情して、顔中涙でぐしゃぐしゃになって、私が追いついたときに絶叫しちゃうぐらい怯えて震えてた鞠乃のこと、何一つ、全く、知らなかったでしょう!」
「えっ……」
「そんな鞠乃の事見て、少しは一人にしてあげたほうがいいなんて言われたって、できるはずないじゃない……! 何も知らないくせに、自分に都合のいいように無責任なこと言わないでよっ!」
 信じられないと言いたげな表情である。無理もない。夜が明けてからの鞠乃の変わらない様子には私も怪訝に思ったほどだ。
「さっきも言ったけど、私の本心からの言葉だわ。鞠乃はどうするのよ」
「……」
「私には、鞠乃がいるのよ……」
 そうだとも。いつまでだってずっと見守ってあげたいと思う、か弱い鞠乃がいる。目を放したり他のことに気を取られる隙もないぐらい常日頃、鞠乃の事を思い考えている。
 きっと何があっても、私は鞠乃第一なのだ。とらわれているとか付き纏い付き纏われてるとかじゃなく、私が好きで、鞠乃の事が好きでそうしている。ただそれだけのことであるし、それが正也に対する返答だ。
 ただ、このニュアンスが彼に届くだろうか。
「……その、御免。鞠乃ちゃんがそこまで怖がってたなんて知らなかった。適当なこと言って悪かった」
 今更理解を示されても、コレ以上正也に何かを頼もうとは思わない。尤も、知る由もない事実を突き付けて意地悪するつもりではないのだが。
「まぁ、私も正也が知ってるはずないことをダシに言い過ぎたわ。このことがあるから御免なさい、っていうのもきっと失礼よね」
 断り方が分からない。この気持ちを説明するのに何と言えばいいのだろう。
 正也が鞠乃をそう称したように、私も率直に、貴方が恋愛対象でないと言えれば楽なのだが。
「その、申し訳ないんだけど、何て言うかな……」
「じゃあ、その話を聞いた上で、もう一度言わせてくれないか」
「えっ」
「二人で、鞠乃ちゃんを見守っていかないか」
 こちらの意向が欠片も伝わっていない提案。掌を返したように正対する正也の言い分。
「今度はしっかり鞠乃ちゃんを面倒見る。志弦があの子をそこまで重く引きずっているなら、その半分を俺に背負わせてくれ」
 そこまで聞いて。
 飽くまで冷静に穏便に話を収めようとした私の理性にヒビが入った。
「引きずってなんて」
「うん?」
「引きずってなんて、重く感じてなんていないわよっ!」
 婉曲的に鞠乃を重荷扱いした彼の台詞に腸が煮えくり返る。ココが観覧車内部だということも忘れて思わず立ち上がって啖呵を切るほどには、感情を逆撫でする言葉だった。
「誰が鞠乃を重いだとか言ったの?! 彼女のことを引きずっている? 違うわよ!」
「し、志弦! 落ち着け――」
「落ち着いていられるわけないじゃない!」
 個室がキリキリと嫌な金属音を立ててゆっくりと揺れている。段々地面に近付いているとは言え高度があるため万一のことがあればひとたまりもないが、恐怖や抑制心は微塵も湧かなかった。
「私は約束したのよ! あの子と、鞠乃とずっと一緒にいるって! 何があっても誰がどう言おうとも、私だけは絶対いなくならないからって、ずっとずっと昔から約束してるのよ!」
 それは遠い昔の、幼い頃の話のようで、私にとっては最も身近で記憶に新しい強烈な思い出。
 彼女と会って初めて交わした言葉と感情と同時、契られた契約である。
「あの子がああだからとか、私が必要とされたからだとか、庇護精神があったからとか、色んな理由は当時でも確かにあったわよ。だけど! そんなの関係なしに純粋に、私はあの子のことが……ッ――!」
「……し、づる?」
 勢い任せに口が滑りそうになって、慌てて噤んでしまう。
「私がそうしたくて、私が勝手に鞠乃の近くにいるのよ! いてあげている、じゃないの! 鞠乃がいるところに私がいるの!」
 それでも、その勢いを削ぎきれずに、直接的な表現は免れたとはいえ、間接的に私の本心が吐露される形になってしまっていた。深読みされればバレてもおかしくない。
 ココまで言い切ってしまう私の浅はかさは単に自制心を崩された自分の過敏な神経が悪かった。それを棚に上げて言うようだが、誰に対しても、たとえそれが鞠乃と同じく長い時間を共に過ごしてきた幼馴染が相手でも、私の鞠乃への気持ちは絶対に打ち明けてはいけないモノだったのに。
 この男は、私にそれを言わせた。
「……鞠乃が、その大昔の約束をどう受け取ってるかは、分からないけど」
 その時から換算すれば、私の片思いは何年来になるのだろう。
 何もかもを言い放ち切った後も収まりがつかなくて、上がった肩や息が下がらなかった。
「わ、悪かった志弦。言葉の、言葉のあやだ」
「今更そんな……!」
「落ち着いてくれ。俺も言い方間違えただけだ。ただ、志弦と一緒に、鞠乃ちゃんの後ろに付いていてあげたいって、そう思っただけで……」
 正也の発言の真意なんて分からない。
 だけれども、その音を聞いた時。正也という人間の口から発せられた男のモノの声を耳にした時。
 ふと、散咲さんの言った言葉がフラッシュバックしてきた。
「……もう、やめろ」
 同時に湧き起こるのは、散咲さんから浴びせられた台詞に戦慄した時の、おぞましいまでの嫌悪感、全身に鳥肌が立つ程の寒気、妄想のくせ生々しい視覚的、聴覚的刺激とそれに伴う嘔吐感。
 彼は紛れもなくれっきとした男性である。そしてそれが正しい以上、散咲さんの忠告を適合させるに値する存在だ。
 今はそれに加え、私のみならず鞠乃までも、と二者を一人でモノにするような下衆の思考の持ち主なのではという被害妄想レベルの警鐘まで頭に鳴り響く状態だった。
 そう考え始めると正也が急に汚らわしく思えてきて、たまらず語調も荒くなってくる。
「何も頼まないし、期待しないわよ」
「違う、俺から頼みたいんだ。お前と一緒だ。俺も何かしたい、鞠乃ちゃんのために何かしたいってだけだ!」
「うるさいッ!」
 気が付いたら、観覧車の座席に乗りあげて、正也から可能な限り距離を取ろうとする自分がいた。
「志弦、落ち着けって! お前らしくもない……危ないから降りてくれ」
 目の前の人間が、十数年と見慣れてきた取り立てて特徴のない平凡な顔つきの人間が、正也が正也じゃないように見える。
「近寄らないで……ッ! 寄るんじゃないッ!」
 伸びてきた手を渾身の力で弾き返す。ジェットコースターの時のような無意識の反射行動でなく、自分の確固たる意志で、拒絶の心で叩き落す。
「志弦……!」
「触るなぁッ!」
 なおも立ち上がるその腕を、何度も、何度も何度も、手を使い足を使い退けて。隅へ身体を寄せる。頭の芯から顔の中心まで熱くて、鼻筋と頬の皮膚が痺れるように引きつって、何が何だか分からないままそうしている。
 そうしたいからそうする、という駄々っ子のような本能的行動。それを取り繕いもせず実行に移しているのは、きっと心の底から今の自分を肯定しているからであろう。
 やがて力が抜けたみたいにだらりとぶら下がったきりになった正也の腕は、背の後ろへなりを潜めて、持ち主である当人は絶望しきったような表情でこちらを見上げていた。
 今の私には眼下で呆然と立ち尽くすそんな生き物が、人間でなく獣にしか見えなかった。
 観覧車が地面につくまで、私が一方的に睨みつけ正也が生気のない目で遠くを見る構図が続き、救世主にすら見える遊園地の職員にドアを開けてもらった瞬間、地獄のようだった箱から逃げ出すように外へ出て、周囲の人間の視線もよそにただひたすら無心になって、どこへともつかず走った。

       

表紙
Tweet

Neetsha