Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 具体的に、鞠乃と一緒に暮らし始めたのは小学二年生からのことである。
 単純に考えて生涯の半分以上を彼女と暮らしてきたのだ。追って話している内にその事実に気付き、長いものだな、と感慨が起きた。
「随分なげーじゃねーか」
「まぁ、幼馴染とかじゃなくもうずっと同居してたから、意外に思われても仕方ないかな」
「いつ見ても藤田がてめーにべったりなのにゃー納得いったよ。しっかし」
 一つため息をついて、吐き出すように。
「あいつが昔は、まるで人形とはよ」
「うん……そっちの方が意外でしょうね」
 いつもにこにこして快活な喋り方をする鞠乃が、過去に凄絶な事故に遭って心に傷を負い、しばらく言葉も発せぬほど苦しんでいたとは、誰も思わないだろう。
 ドラマにはよくあるような筋書きを、鞠乃は地で体験してきた。そのまま精神的に壊れてしまってもおかしくはないぐらいの事故だったのに、彼女は今日に至り、周囲の女子高校生と比べても何ら変わりない普通の子として生きている。
 ただの一点、夜が未だ怖いということを除き。
「昼間は何一つ喋んねーし、夜になりゃ発狂すっとか、俺ならウザすぎて捨ててたな」
「私も最初は……正直、怖かった」
「たりめーだ。藤田もそーだがてめーも小二だったんだろ? 並のガキなら嫌がるわ」
 昔のことだから自分でもよく覚えていない。ただ、放っておけない儚さとか、或いは魅力とか、そんなモノが鞠乃には、当時からあったのかもしれなかった。
「つーかそういうのも全部医者の仕事じゃねーの。精神科に連れてったりとかしなかったのかよ」
「匙を投げられたのよ。初めての症例で、どう手のつけようもなかったんだったとか」
「あー無理ねーかもな。で、巡り巡ってお前のところに来たわけだ」
「……えぇ」
 言うなれば、たらい回しの挙句行き着いた先の処分場。
 誰からも疎まれ愛されず、事情の知らない私の家へ流されて来た。その経緯は哀れ極まりない。
「何もできねーはずのてめーの家に運ばれて、結果ああまで回復か。色々滅茶苦茶じゃねーか」
 両親も、また鞠乃を知る親族も、思わぬ好転に目を剥いたことだろう。
 医者にすら見放された病人が、同年代の子供と住まわせることで復調に向かったのだから驚く他ない。
 私としては、特別なことをやったつもりはこれっぽっちもないのだが。
「カスな大人共にゃできなかったことをてめーがやれた。てめーが藤田をああまで社会復帰させてやったわけだろ? どこに不満があんだよ」
「……どうなのかな」
 社会復帰、という言葉で今の鞠乃を測ろうとするとき、どうしても引っかかってしまう。
 夜も一人で出歩けない高校生は、社会に適合していると言えるのだろうか。日常生活にも支障があるのを認めざるを得ない症状が未だ残っているのに、いざ学校を抜け社会に出た際、そのハンデを背負った人間が他人と遜色ないと評価されるだろうか。
「ただ私は、問題を先送りにしてきただけな気がするの」
 いずれは直面する必要があった鞠乃が持つトラウマを、彼女に感じさせないことで、私が補うことで見ないようにしてきた。そして今になって困り果ててる様なのだ。
 彼女にだって嫌な記憶と戦う意志があった。それに気付いてあげられずいつまでも過保護でいた私が、鞠乃の覚悟をもフイにした。
 結局、私は何もしてやれなかったのだ。
「鞠乃には申し訳ないけど、あの子があそこまで強いと思ってなかった。自分と一緒に育ってきてるからあの子も大人になっているのは当然なのに、私だけが大人になってるつもりでいた。それは違うと鞠乃本人から否定された気がして、慌てたみたいに正也も引きこんで色んなことやらかしちゃって……」
 私の方が子供みたいだ。
 そして実際、そうだった。彼女のことが好きだと自覚し始めてから、彼女のためを装って、自分がそうしていたいからずっと近くにいた。
 私の方が、鞠乃に依存していた。
「鞠乃にとっては、私みたいな存在も、疎ましいでしょうね……」
 鞠乃だって私に依存していた。誇張でも何でもなくそれは事実だと主張できる。
 しかしそれが自発的なモノかは疑問だ。暗くなれば黙っていても隣に来てくれる人がいて、いつまでもその行為が続くならそれに甘えてしまうのは普通のことだろう。無下に一人で帰りたいと言い出す利点もないのだから。
 必然、自主性も克己の意志も磨り減ってしまう。自分が努力する必要がないその環境に、さしずめ依存させられていたとでも言えようか。
「馬鹿言ってんじゃねーぞガキ」
 そう説明する私を、散咲さんは即座に否定した。言い出すタイミングを見計らっていたのか、こちらの言葉尻を切るような鋭さだった。
 鉄柵から腰を浮かし、私の目の前に立つ。片足を遊ばせ片腕は腰に添えられ、直線的な屹立とはとてもいいがたい体制なのだが、凛として力強い印象を受けた。
「てめーは少し客観ってのを覚えっといーかもな。目線がいっつもてめー基準なんだよ」
「……そうね。相手の側に立てないがために起きてしまったからね、今回のことは」
「そのご立派な思考力もいい加減うぜぇな……」
 苛立ったようにそう放つ散咲さんから、思わず目を背けてしまった。
 だが今日の散咲さんは言葉に反していやに粘る。落とした目線の先に、しゃがみ込んでこちらの顔を見上げる散咲さんの目があった。
「後ろ向きになんのもいーけどよ、俺にはそんなにまでなる理由がまるで分かんねーんだわ」
「だって……私は」
「てめーの大好きな仮定の話をしてやったほうがはえーか。今の話を聞いた上で、じゃあもしてめーが俺だったらってのを、俺の考えうる限りで言ってやるよ」
 彼女の目は、揺らぐことなくこちらの目をずっと射抜いていた。
「何も喋んねーし夜には狂うとかいう奴、まず相手にしねー。ガキん頃なんて覚えてねーから分かんねーが、俺もそんぐらいの年なら藤田を人間扱いしたかすら怪しいな」
「私だって、私だって最初、とても怖かった」
「んなモンよくてめーが手懐けたもんだな。感心すら」
「……」
 ほんの些細なきっかけだった。
 昼間に一言も喋らなかった子が、夜になって暗くなって、感情を爆発させた。
 そこにかすかな、人間的な部分を感じた。いくら人形みたいでも、やはり自分と同じ人間なんだと思った。
「で、そのまま心を開かれず小中学校生活だ。何も喋んねーのがいつも後ろにいるとか耐えられねーよ。俺なら邪険に扱うな。言って聞かねーなら突き飛ばす。逆に関係悪化してくわ」
「ずっと、何年も同じ家で生活するんだよ? 情とか」
「家ん中でもそーすんじゃねーの。少なくとも可愛らしいとも可哀想ともぜってー思わねーな」
 日を追うごとに私にべったりになってきて、いつも後ろにいる鞠乃が可愛らしかった。一人っ子だった私に、妹ができたみたいだった。
 自然と、自分がお姉さんだという感覚が芽生えてきて、庇護精神が湧いていた。
「まぁ俺じゃ例がわりーか。だが、正也って野郎でも上手くはいかねーだろーな」
「……分かるの?」
「分かんねーかよ。確かに俺と違って良識あるんなら、可愛がって人形から人間にしてやるのはそいつでもできっかもな」
「正也は本質的にはいい人なのよ。私もそう思う。正也なら」
「が、てめーの言うことが正しければ、その父性って奴で結局は藤田を突き放すことになる。ようやく人間に戻りかけて、そん時に手ぇ放されたら藤田はどうなるよ」
 べったりだった鞠乃を、私は除けようとしたことはなかった。鬱陶しいとも邪魔とも思わなかったし、この子は私が守ってあげなければ、という使命感めいたものもあった。
 もしその時。鞠乃が拠り所を欲していた時に、縋っていた人が遠ざかったなら。
「何もかもおじゃん。元通りだろーな」
 散咲さんの仮説を否定する材料は、私の記憶にはなかった。
「俺が思うに、藤田は極度の甘ちゃんだ。コレはてめーから話を聞く前、俺自身があいつを見てた時からそう思ってた。んな奴だから、欲しいのは厳しく律してくる野郎じゃなく、てめーみたいにいつでも甘やかしてくれるちょろい存在だったろうよ。簡単に想像つく」
 鞠乃が自分のトラウマを克服しようと思い始めたのは、いつ頃のことかは私でも知らない。もしかしたら小さい頃からずっとそう思っていたかもしれないし、つい最近ようやく、かもしれない。
 彼女からその傾向が見えたのも、そしてその意志を言葉として聞いたのも、ほんの数週間前が初めて。
 その意志が突発的なものだったとしたら。高校生になってようやく芽生えた自立心だったとしたら。
 小中学生時代、私の隣を歩く以外ありえない、なんて思っていたとしたら。
「自分を甘やかしてくれる、都合がいい女だったてめーの存在は、幸か不幸か藤田にはありがたかったろうよ」
 自分の存在が、鞠乃にとってありがたかった。そう言ってくれた散咲さんが、今は私にとって何よりもありがたかった。
 鞠乃は自分を必要としてくれていた。それに私でなければ駄目だった。そう思わせてくれる。
「甘やかすっつーとわりー意味に考えちまうかもしんねーが、逆にだな、甘やかしすぎたから藤田にも自覚が湧いたって考えることもできんだぜ。甘えっぱなしじゃやべー、って発想は、甘やかされてねーとできねー」
「私は……」
「言うなればだな」
 すく、と立ち上がる散咲さんに、私も視線を持ち上げた。
「てめーには俺や正也って野郎にはない母性ってのがあった。藤田が立ち直ったのはそれがあったからじゃねーのかよ。あいつがトラウマ治そうと思い始めたのも、てめーがずっと傍に付いてやったからじゃねーのかよ! あぁ?!」
 散咲さんは口が悪い。
 だが、本人の冷淡な性格からか、気だるげに相手をあしらうことはあっても、啖呵を切って大声張り上げて脅したりということは滅多にない。
 しかもその啖呵が、叱咤激励の意味が込められた、優しさに溢れた口上だったなんていうことは、私が知る以上過去に一度も聞いたことがない。
「散咲さん……私……っ」
「あー? まだ何か文句あんのかよ」
 上擦って、喉が震えていた。
「私っ……間違えてなかったのかな……?」
 視界には確かに散咲さんが入っているはずだ。
 そのはずなのに、まともに彼女の顔が網膜に映らなかった。
「……ケッ」
 私の顔を見下ろしていた散咲さんは、元の鉄柵へ戻り再びもたれかかった。
「間違いまくりだよ。女に溺れたのも、一人の野郎をボロクソにしたのも」
「……」
「だが、全部普通に考えた限りの話だ」
 目元にカーディガンを押し付け、滲む水気を吸い取らせてから、彼女を真っ直ぐに見つめる。
「女を好きになるような変態が普通の思考持ってるわきゃねーよなァ? 常識で考える必要なんててめーにはねーんじゃねーの。変態は変態らしく構えてろよ。正解だったって言ってみやがれ。もしくは、正解にできなかった時に、間違ってたやら後悔してるやら言え。どれも決めんのはてめーだ」
「……えぇ、そうね。えぇ」
 私の同意の言葉を聞いて、散咲さんはすぐ立ち上がり、暗がりの方へ歩き出した。
「分かったならこんなとこいつまでもいるんじゃねーよ。行くべき場所あんじゃねーの? 姫様の姫様は夜と一人が大変お嫌らしいぜ」
 公園に入ってきた入り口とは逆の方向へ足を向けている。裏側にも出口があるらしい。
 段々と遠ざかる散咲さんの背に、一つ声をかけた。
「散咲さん」
 言葉はなく、動きが止まるという、ただそれだけの反応。
「……ありがとう」
 彼女はやはり何も言わず、また奥の方へ歩き始めた。
 私を見送るでなく自ら立ち去るその行動は、私に歩を進めるのを催促しているようだった。
 自分以外に人影一つない寂れた、加え都心にある程度近い歓楽街に位置する公園に、いつまでも一人で佇んでいるわけにはいかない。
 つまり、帰らなければいけない。
 ジーンズのポケットの中にずっとしまっていた携帯を取り出し、電源を入れてみる。電話をかけようとしてメモリーの検索画面を出そうとした矢先、その相手の方から着信が来た。
 タイミングが良すぎる。私が電源を入れた瞬間丁度良くダイヤルしただなんてにわかには考えがたい。きっとあの子のことだ。私が電話を入れた後、延々と何回も呼び出していたに違いない。機械音声に繋がらない状態だと何度告げられても懲りずに、私が出るまでそうやっていたのだろう。
 そんな彼女を想像して、喉と胸の辺りがきゅぅ、と締め付けられたような感覚がした。申し訳なさと同時に、愛しさが心の底から湧き上がってくる。
 携帯を耳に持ってきて、通話ボタンを押して、
『何でぇ……何で繋がらないのぉ……?』
 全然繋がらない相手に対し一人無為に呟く鞠乃の声が聞こえた。
『やだよ……お願いだよ……繋がってよぉ……じゃなきゃ、帰ってきてよぉっ!』
「鞠乃」
『嫌ぁ……いや、やだぁ……うぅ……』
 こちらの声にも、呼び出し音が消えていることにも気付いていないらしい。
「ま、り、の!」
『……うぇ?』
 声が枯れすぎていて、うともえともつかない不思議な疑問符が電話越しから飛んできた。私が出るまでずっと届かない嗚咽を携帯に吐いていたと考えると、たまらず可哀想で仕方なくなる。
 そしてそれが、全部自分のせいであることに、深い罪悪感が、自分に対する怒りと共にせり上がってきた。
『うそ、えっ、繋がってる? 志弦ちゃん?!』
「……御免ね」
『志弦ちゃん! う、うぅ、えええぇぇぇぇん』
 耳元にけたたましい泣き声が響いた。
『御免なさいっ、志弦ちゃん……御免なさい、あたしが、変なこと、しちゃったからっ、ひくっ』
「……いいえ」
『あたしが余計なことしたからっ、ホントに、本当に御免、ああぁぁぁぅ』
 一通り散咲さんと話して、すっきりして冷静になれた私と違って、鞠乃は準錯乱状態になってしまってる。コレでは会話にならないな、と結論づけて、
「鞠乃、落ち着いて。鞠乃が謝ることなんて何もないんだから」
『だって……だってっ……』
「今からすぐ帰るから。帰ってから、私が家に着いてから、一緒に話そう? ね」
『……うん。うんっ……!』
 つい先程まで、鞠乃に合わせる顔がないと言っていた私がよく言うものである。
 ただ、電話に出た際の彼女の悲痛な訴えを聞いて、コレ以上あの子を一人置くことは到底できなかった。
 それからは鞠乃が少し落ち着くまで通話を切らないでおいて、軽く話しかけながら駅へ向かい、無事終電まであと二本というぐらいの便に乗れた。
 電車内でまで携帯を使うわけにはいかず、一時的とはいえ彼女と引き離されるこの時間が、素早く流れる風景に相反してとても長く感じられた。

       

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