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表紙

秋の夜長の蜃気楼
四.

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 四.
 すっきりしてくるといいよ、という鞠乃の勧めに従って、先にお風呂をいただくことになった。私が二度目の電話をしたときに予め湯を張っていてくれたようで、食器の片付けや洗浄も全部引き受けると言い出した彼女の好意にまるきり甘える形になってしまう。
 沸かされてから少し時間が経っているせいか、お湯が適度にぬるくなっていた。
「……ふぅ」
 じんわりと四肢に染み渡る温かさが心地よい。足先から身体を通って、痺れのような波が駆け抜けて、頭に到達すると同時、頭頂部から抜け出る感覚。身体中が脱力していく。
 頭を浴槽の縁に乗せて、身体中を湯の浮力に任せきる。肉体的緊張と同様、思考力まで湯煙に紛れ霧散していった感じがした。そのまま寝てしまいそうなほど気持ちいい。
 瞼が、降りてきた。
 持ち上げているのも億劫だったぐらいだ。一度降りてしまったものを開くのは更なる力と気力がいる。その労を振り絞るほどの意欲は、今の私にはなかった。
 寝てしまいそう、が寝てもいいかな、に気変わりしてきた。リビングには鞠乃がいる。あまりに長湯が過ぎたら不審に思って様子を見に来てくれるだろう。
 そうしてうつらうつらとしていると、
「お邪魔しまーす」
「……え、えっ、鞠乃?!」
「えへへー」
 何の前触れなしに、いきなり鞠乃が風呂場へ入ってきた。
「やだ、どうしたのよ急に! ノックぐらいしてきても」
「えーしたよーノック」
「嘘……」
 意識が飛んでいたのか全く耳に入ってこなかった。本当に寝る寸前のところまで来ていたらしい。
 突然の出来事に狼狽する私をよそに、何も不思議がることなくシャワーを浴び始める鞠乃。
「あたしも入れるかな?」
「や……流石にもう厳しいんじゃ……」
「えいっ」
 向かい合わせが難しいなら、とでも言うのか。身体の向きを私と同じにして、私が伸ばした足の間に鞠乃も足を突っ込み、背中からこちらへ寄りかかるようにして入ってきた。
「わっ」
 お湯が盛大に跳ね上がる。私の顔へ眠気を覚ましてくれる勢いで波が押し寄せ、バスタブからは鞠乃一人分のお湯が溢れ、外へ流れ出した。
 彼女の大胆な行動に、呆気に取られる半分、緊張と興奮が残りの感情を占めていた。
「ふふん、いけんじゃん」
「ま、りの……?」
 何故か得意げに悠々とくつろぐ鞠乃。腕は浴槽の縁、腰は私のそれの上、上半身は完全に私の身体に預けきってる。まるで背もたれにしか見なしてないかのようだ。
 確かに体格差と風呂場の規模を鑑みれば、この体制なら二人で入れるし、逆にこの体制でしか入れない。ただ、どうして先客がいるお風呂に飛び込んできたのか。
「久しぶりだねぇ、二人一緒にお風呂入るの」
「えぇ……だけど何でこんなこと」
 疑問をそのまま口にすると、
「んー、あたしがそうしたかったから?」
 至極鞠乃らしい回答が返ってきた。こう言われてはそれ以上の言及のしようがない。
 それにしても、この状況は大変心臓に悪い。
 一糸纏わぬ鞠乃の背中が、直接私の身体に密接しているのだ。ただでさえお風呂の温度に若干火照っているのに、更に鼓動が高ぶるようなことをされては。
「――」
 悟られぬよう、上を向いて深呼吸。
 顎の下にある鞠乃の頭に息遣いが届かぬよう、必死に顔を背ける。
「ねぇ志弦ちゃん」
「う、うん。何?」
「変なこと聞いちゃうけどさ、思い出したくなかったら、答えてくれなくていいから」
 鞠乃の表情は見えなかったし、推し量れもしなかった。
 でも、質問の内容は何となく分かる。だから今この時に限って風呂場に来たのだな、ということも同時に納得がいった。
「一度目の電話の時、御免、って言ってたってことは、その、アレだよね。まさやんのこと、振ったってことだよね」
「……えぇ」
 気にならないわけがない。特に彼の行動に携わって後押しした身としては尚更ではなかろうか。
「……そっか。あの、うん。そのさ」
 言い淀む鞠乃。私の方は、会話の内容と深呼吸の反復で幾分かは落ち着いてきた。
「余計なことしちゃった、って言うとまさやんに失礼だけど、関わった人間として、謝るのはあたしの方だな、って思って。御免ね、志弦ちゃん」
 苦労して捻り出したのだろうその言葉は、私の心を痛烈に抉り込む。
 鞠乃には何の負い目もないのに。今回のことが起きたのは全て私の責任なのに。彼女にこんな言葉を言わせてしまった。
 いつの間にか私の身体から離れ、前のめりになっていた鞠乃の背中を、追いかけるようにして後ろから抱きしめた。
「違うの。鞠乃は何も悪くない」
「……?」
 覆い被さって、私と鞠乃の頭が並ぶ。私の言葉を聞いて、鞠乃が不思議そうに首を傾げた。
 その動作で、頭と頭がこつん、と当たる。
「この際だから、言うけどね」
「……うん」
 言って、何になるのか。彼女の罪悪感を取り払うぐらいはできるだろうか。
 違う。そんなものではない。鞠乃がやっていたことを自分で独白してくれたから、その流れに乗じて自分の罪も白状してしまおうという、甘えた心情。今のタイミングなら許してくれるだろうと見計らっての、薄ら汚い汚れきった考えである。
 薄まるのは彼女の罪悪感でなく、自分のそれ。私は懺悔をしたがっているだけで、それをまた鞠乃を思いやっての行動だったと理由付けようとしている。
 そんな私の話を聞いて、彼女が救われるはずはなく。傷付くだろうか。軽蔑するだろうか。どれにせよ、いい思いはしないだろう。
 だが、既に言い出してしまった言葉は撤回できず、
「どしたの? 気になるよぉ」
 言葉に詰まる私を急かすような催促が、鞠乃から飛んできた。
 ココで長い時間迷っているのも悪い方向に勘ぐられてしまいそうで、ならばいっそ自分から白状して、ありのまま正直に話してしまおうと開き直るのは愚かだろうか。
 それも仕方ないかな、と思う。事実、私は愚かだったのだ。
「……先に謝らせて、鞠乃」
「え?」
「御免なさい。本当に御免。私が、私が全部悪かった」
「そ、それだけじゃちょっと、分かんないよ……」
 その愚かさを謝りたいのではない。私の罪状を全て明らかにして気を楽にしたいという腐り果てた思考と、これから実際にその行為を行うことを謝りたかった。
 そして同時、許してもらいたかった。
「鞠乃が正也に手を貸そうとしたその前から、私は正也と鞠乃にもっと仲良くなってもらおうと、引き合わせてたりしたのよ」
「……え」
 意外そうな鞠乃の、吐息とも驚嘆の声とも付かぬ弱い音。それが聞こえているにも関わらず、お構いなしに滔々と続ける。
「図書室で遅くまで勉強してたのも、その後正也と会ってから、しばらく一緒に下校する約束を取り付けたのも全部そう。偶然に見せかけて全部仕組んでたの」
「……」
「鞠乃、正也と仲良かったでしょ? だから悪い気はしないかなって勝手に考えちゃって。それでゆくゆくは二人で色んな場所に出かけるようになって、私がいなくても他の人が付いていれば夜も平気になってくれればいいな、と思って」
 人に気を遣わせていたと知るのは心が痛むことだろう。
 ただ責め句のつもりで言ったのではない。自分が彼女に対し気回しをするのは何の苦にもならないし、寧ろ私が勝手にやっていることだ。
 それを許してほしかった。被害者の彼女本人に。私の愛する人に許されたかった。
「だから、こんなことになったのよ」
 静かに佇む水面に、一石を投じたから。
 私が余計なことをしなければ静謐な湖は波風立たず、私たちの関係は変わらず仲のいい幼馴染でいられたのに。生まれた波は全てを波動させた。
「御免ね。全部、私が悪いのよ。御免ね……」
 私だけが実害を被るだけならよかったのだが、被害はそんな規模ではない。
 正也も、絶対酷く傷付いているに違いない。自分で放った矢尻だ。その激痛は計り知れないものだったと想像できる。彼の自尊心や誇りなどはズタズタに引き裂かれたことだろう。
 私が好きだというその気持ちは分からないが、彼が言うならそうなのだろう。よりによってその好きであった人からヒステリックな罵詈雑言を浴びせられたのだ。仮に自分が鞠乃から同じ言葉を受けたと考えてみろ。私なら死んでしまう。
 そして鞠乃に対しては言わずもがな。たった今自分の意志で直接傷付けたばかりである。
 きっと言い方は他にあった。ただ単に正也と喧嘩したとか、そうでなくとも正也と鞠乃を引き合わせた理由を別にでっち上げれば済んだ。包み隠さず全て打ち明けたのは、荒んで投げやりになった、それでいて甘えきった私の心情のせいだ。
 縋るようにして、許しを請うようにして鞠乃の小さな背にしがみつく。
 この期に及んでなお目頭が熱くなるのが、不思議で馬鹿らしかった。
「……志弦ちゃん」
 横から鞠乃の、いつも通りのゆるりとした声が聞こえる。耳にする度緊張やストレスが和らぐような優しさがあった。
「謝られる理由なんてないよ」
「だって、私……」
「あたしのこと考えてくれたんだよね。逆に感謝しないといけないや。ありがとねぇ、志弦ちゃん」
 背を向けていた彼女が、水中で姿勢を変えて正面から向き合う体勢になる。鞠乃の手が首へ巻き付いてきて、身体は更に密着して、隣から聞こえる声もより近くなった。
「いつまでもこんなんで御免ね。あたしも頑張って夜の暗さ、平気になるから」
「ちがっ……そういう意味じゃ」
「ううん、あたしも悪いの。夜怖くって、志弦ちゃんに心配させてばっかりで、だからこんなことになったんだよね」
「鞠乃は悪くないのっ、私が、全部私が好きで勝手にやったことだから」
「とは言っても、やっぱりさ」
「私の身勝手なの。全部そうなの。それにまで責任感じる必要は全然ないのよ、鞠乃には」
「……うーん」
 多分私も鞠乃も同じことを思った。埒が明かないな、と。
 全ての原因は鞠乃が夜闇を恐れるところにある。これはどうやっても否定しようがない。そのことを鞠乃も十分理解しているし、だから気負いしているのだろう。
 対し私も、そのハンデに外部から自分勝手に干渉していた。私がやってしまったことまで背負われては親切心の押しつけになってしまう。余計なことをしたのは私だから気にしないで、というのも身分勝手が過ぎるが、こちらの独断にまで罪悪感を感じてもらう必要はない。
 互いに互いの主張があるのに、どちらもある意味譲ろうとしないな、というのが雰囲気で分かった。
 だから、
「志弦ちゃんが自分が悪いって言うなら、そうなのかもしれない」
「……えぇ」
「でも、あたしも自分が悪いって言ってるの。あたしも悪いんだよ、ね?」
「……――」
「あたしも志弦ちゃんも悪いの。二人ともさぁ。だからあたしも御免なさいって謝んなくちゃ駄目だよ」
 その鞠乃の言葉に、これ以上ないほど救われた。
 気にしないでとか、気にしてないとか、そんな表面上だけの取り繕いがほとんど意味ないことを分かってくれている。
 それならば、下手に慰めや許しの言葉を言うよりは、謝って後腐れなくすっきりした方がいいと、そう思っての提案だろう。
「志弦ちゃん、御免なさい」
 本当にこの子は、優しい。
「御免……御免なさい、鞠乃……!」
「うんうん。あたしも御免なさい。志弦ちゃん」
 向かい合って抱きながら言うその台詞は、赦しの口上そのもので。
「はい。コレで終わりー! ね?」
 無邪気に笑う彼女の面持ちが晴れやかなのを見て、私も釣られて心のわだかまりがとれた気がした。
 もうこの件は、本当にこれっきりで大丈夫なのだろう。
「にへー」
 顔と顔をくっ付けて頬ずりしてくる。水気を帯びた鞠乃の頬が柔らかく吸い付くようである。安堵が先行してしばらく耽ってしまいされるがままだったが、その感触に我を引き戻されて、一気に顔が熱くなった。
 こういうことを彼女は自然と、何の混じりけなしにしてくる。私に今まで通りに接してくれる。まだ私たち二人の仲は壊れていない。実感としてそれを噛みしめることができた。
「でも、ちょっと驚いちゃった」
「うん?」
「あたしがまさやんのこと好きだなんて、志弦ちゃんに思われてることにさ」
「……えっ?」
 むに、とほっぺたを私の顔に押しつけたままそんなことを言い始める。口の動きまで伝わってきた。
「違うの?」
「いやぁ、勿論嫌いな訳じゃないよ? ただねー……」
 言葉尻を濁すように口を噤む。その仕草が鞠乃に似つかわしくなく女らしくて、少し笑ってしまった。
「もう結構前の話になっちゃうんだけど、まさやんが志弦ちゃんのことを好きなの、知ってたんだ」
「な、何それ……嘘ぉ」
「志弦ちゃん鈍いからなー。多分去年ぐらいからだったかなぁ」
 鞠乃にだけは言われたくなかったが、一年前に彼からそんな気配を感じたことは一切ない。その事実だけ言えば私は鈍いのかもしれなかった。
「それってじゃあ、私が鞠乃と正也を引き合わせようとしたそのずっと前から」
「そだね」
「信じられない……嘘よ、嘘嘘。だって、まずどうして私のことなんて」
「うーん……あたしは直接話を聞いたことあるから知ってるけれど」
 いつの間にそんな話もしていたのだ。高校に入ってからはほとんど見ず会わずの関係になってしまったと思っていたのに、二人はちょくちょくと会っていたのだろうか。
「親元離れて一人暮らし……って、あたしいるから一人じゃないけど、高校生の内から、しかも必要ないのにそんなことし始めたっていうのが凄いって。自立心というか、しっかり者なんだなって思ったって、言ってた」
「……う、うん」
 そんな風に思われていたとは。
 と言うのも、私が寮暮らしを始めた理由は半分自分の意志で、もう半分は別の理由だ。そんな曖昧な方針で始まった自立を評価されるのはむず痒い感じがする。
「……寮暮らしをすることになったのは、あたしが御免なさいしないとだよね」
「いいえ。私は出てきて正解だと思ってるよ。鞠乃と二人で暮らすの、楽しいし嬉しいから」
「お、うぉお、ぉぉぉ……」
 苦労は些か多くなったが、その点に関し後悔はしていない。両親の元にいたいとも、これから戻ろうとも思わない。何より、鞠乃と二人きりの部屋で生活をするというのは居心地がよく幸せだ。
「は、話戻すけどさ、まさやんからそう聞いてたからね」
「え、えぇ」
「あたしは、まさやんは志弦ちゃんとくっつくものだとばっかり考えてたや」
 先入観、みたいなものだろうか。確かに誰かが誰かを好きだという話を聞いたら、その組み合わせ以外考えられなくなるのかもしれない。
 そこにきっと彼女自身の存在というのはないのだろう。第三者の傍観者になりきってただ見守り、決して手を出したり、まして気を引くような行動に踏み切ったりはしそうにない。恐らくそういう発想にも至らないだろう。“まさやんの隣には志弦ちゃんがいるべきだ”と思い込んでいるのだから。
「そして、志弦ちゃんも図書室で遅くまで勉強したりして、まさやんに時間合わせたりしてるの見て、いよいよコレは両思いかなっ、なんて」
「あぁ……」
 正也と会おうとしていたのはバレていたらしい。しかしそれがこう見られていたとは。
「そしたら急にテンション上がっちゃって、たまらず応援したくなっちゃって、その、色々……ね」
 鞠乃も鞠乃でそれを罪悪感として抱いてしまっているのか、語尾が弱々しくぼかされていた。
 その気持ちは手に取るように分かる。私もとても似たようなことをしてきたのだから。
「だからすっごくビックリしたんだ。志弦ちゃんもまさやんが気になってるんだなって思ってたから、あの……振った、様子で帰ってきたから、さ」
 驚いたのはこちらも同じだ。いきなり本人が一番楽しみにしていた遊園地から、誰よりも早足で帰り始めたのを見たときは狐につままれた気分だった。
「何でかなって考えて、全然分かんなくて、そしたらさっき志弦ちゃんが、あたしとまさやんを引き合わせてたって話してくれたから、もしかしたら……」
 ――あぁ。本当に似ている。
 私もまた同じ疑念を抱いた。
「もしかしたら、あたしのことを考えて断ったのかなぁ、って今さっき思って……。ね、ねぇ、そうなの?」
 肩を掴んで、真っ直ぐに見つめてくる丸い瞳は、申し訳なさと自虐心が湛えられているようだった。
 自分が悪いのか。自分がいるせいなのかと訴えかけてくる。目は口ほどにモノを言うとはこのことだな、などどうでもいいことを考えてしまう。
「……ううん」
「えぇっ……?」
「そうじゃないの。私が私の意志で、お断りしたの」
 丁寧に、あなたは悪くないと言い聞かすように喋ってやる。すると、その双眸がいよいよ疑問と不理解の色に染まった。
「ほ、本当に……? それこそ、嘘じゃない……?」
「えぇ。コレは私と正也二人の、というよりは、私の問題」
 同じ質問を、鞠乃に聞き返したい。
 もし正也が私のことを好きだと聞いていなければ。そうでなくとも、私が正也としきりに会うような素振りを見せなければ。
 何もしていなければ、あなたは正也にいつしか靡いたかもしれないの、と。
 境遇や思考が似るに似て、結果すれ違いと誤解で溢れかえった私たちの関係。そこで織り成されるのは仮定の話。
 もしあぁだったならば。そんな話は不毛だと先程も散咲さんに言われたばかりである。少なくとも鞠乃の抱く不安はその通りだ。
 しかし、どうしても気になってしまう自分がいた。結末が変わっていたかもしれない可能性を確かめたいと思う私がいた。
 そして、どこまでも似ている私と鞠乃の間で、唯一絶対的に違う部分。その質問をできるか否かである。
 怖かった。質問してから鞠乃に、もしかしたら彼を好きになっていたかもしれないと答えられるのが怖かった。
 自分が愛する人が、自分以外を愛していたかもしれないという可能性が怖かった。
 だから、聞けない。聞こうと思わない。
「じゃ、じゃあ……どうして……って、聞いちゃ駄目だよねっ。御免」
 その疑問には、今すぐには答えられそうにない。
「……いいえ。気になるのは仕方ないわ」
「ご、御免」
 問い詰められたところで、どうと返せることもないのだが。
「ま、まさやんのこと、そんな好きじゃなかった、とか」
 膝立ちの状態から、ちょこんと私の足の上に控えめに座りなおして鞠乃はそう聞く。対し私は、首を横に振ることしかできない。
「他に好きな人がいた」
 動作を繰り返す。見ると、鞠乃も首を横に傾げていた。
 こういう話に興味を示す辺り、やはり年相応に女の子なのだなと思う。同い年の私が彼女に対しそんな感想を持つのは変だろうか。
「人には、言えないこと?」
「そう……ね」
 気になるのは仕方ないと言いつつも、飛んでくる質問に答えられない自分がもどかしい。
「うーん――」
 思案顔をしたかと思いきや、ふと急に背を向け、彼女が湯船に入ったときの始めの体勢に戻った。
「言いたくないなら、無理にとは言わないけどさ」
 まるで虚空に向かうように言葉を発する鞠乃。
「相談とまでは行かなくても、愚痴とか悩みとか、不満ぐらいは聞かせてよ」
「鞠乃……」
「何の解決にもならなくても、その、胸のつかえが取れたりってことはあると思うんだ」
 恵まれてるな、と私は思う。
 つい先程は散咲さんにも同様のことを言われ、今度は鞠乃にこうして気遣われてる。
「あの、まさやんの時は失敗しちゃったけどさ。でも、一人で抱えてたって苦しいだけだよぉ」
 こう言ってくれる身近な人を持てたことに、今は何より感謝したい。
「志弦ちゃんは独り言呟くだけ。あたしは何となく耳にしちゃうだけ。ね?」
 姿勢を変えてくれたことにとても助かる。もう、きっと私の顔は見せられたものじゃなくなってる。
 始めの体勢に鞠乃が戻ったように、私もそれに準じ、元のようにその小さい背中に腕を回す。私よりも一回り以上細いその身体が、非常に頼もしく感じられた。
「……報われない話よ」
 鞠乃は何も言わない。
 私も、掻い摘んで簡略化した、ぼかした話しかしない。
「報われちゃ、いけない話なのよ……」
 何もかも打ち明けて本心を吐露しきったつもりなのに。
 私から鞠乃に対しては、こんなにも言えないことがあるのだなと自覚するに至って、その事実が酷く辛く悲しかった。

       

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