Neetel Inside ニートノベル
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 通う学校が都会にあるとは言え、そこから駅を何個も離れてみれば喧騒はどこへやらだ。
 私たちの寮があるこの辺りは閑静な住宅街で、一軒家やマンションもほどほどにちょくちょく空き地が目立つ、中途半端に開発された地域である。夜も煌々と明るい学校下と比べ、ここら辺りは銀幕が降りた舞台裏のようである。
 寮から歩いて十分ぐらいのごく短いところにスーパーはあり、いくら暗いのが駄目と言えどこの距離なら努力すれば、と思わなくもないのだが、鞠乃の場合は例外中の例外である。多分、一生克服することができなそうな、それぐらい重く深い傷をあの子は持っている。
 軽装で全速力で走って、二桁に及ばぬ時分でスーパーにたどり着いた瞬間、自動ドア手前で待っていた鞠乃は私を見つけるなり思いっきり胸に抱きついてきた。
 ただ何も言わずすがり寄り、震える腕を背中へグッと回す鞠乃を、私も言葉なしに頭を撫でるぐらいしかできなかった。
 いや、恐らくそれで十分だったろう。
 私はここにいると、身体で触れ合って感覚で伝えてやることが、きっと鞠乃を一番安心させられる。
 あなたはこの場に独りじゃないと、頭を撫でて教えてやることで、彼女の恐怖を取り除いてあげられる。
 それが今の鞠乃に最も必要な行為だ。

 人目も憚らず……というより憚れず、しばらく店先でそうして鞠乃を落ち着かせて、ようやく歩き出したのは随分経ってからだった。
 顔を離した後も、小さい手を握って暗い夜道を歩いている最中も、鞠乃は一言も喋らなかった。恐怖に沈黙で耐えるよりは、寧ろ他愛のない話をして気を紛らわすタイプの彼女には珍しい。
 かと言ってこちらから何か話を振ろうにも、少し声を掛けづらい雰囲気がある。少しでも彼女の自制心を揺り動かしたら、一瞬で崩折れてしまいそうな儚さを感じられた。
 家に帰って、仮病による予定そのままに軽食のうどんを作るときも食べるときも、お風呂を済ませて次の日の準備を整えるときも、もうあと寝るだけになるまで、鞠乃はずっと口を閉ざしたままだった。せいぜい私の声掛けに「うん」と頷くぐらいで、普段からは考えられないほど静かな一日となった。
 しかし変化と言ってもそのぐらいで、寝るときはやはりいつも通り鞠乃が壁側、私が外側で一緒にシングルベッドの中へ、である。寝る場所がここしかないという問題もあるし、恐らく夜道の件があったためなおさら添い寝をしたがることだろう。
「スタンドだけじゃ少し暗いよね。今日は天井の電気もつけよっか」
 気を利かせてそう提案したつもりだったが、意外なことに鞠乃は首を横に振った。
「ん、そっか。じゃあ消すよ」
 あまりの反応の薄さに、心配する心がますます増大する。なのに、何も喋らない鞠乃に「大丈夫?」の一言も掛けてやれない。露骨に私が気遣う言葉を発した瞬間、鞠乃が何だか壊れてしまいそうで踏み切れなかった。
 そんな私にできるのは、それこそ他愛のないような話を振って気をそらせようと試みるのと、ベッドの中でか細い四肢を抱きとめてあげることぐらいだ。
 スーパーで抱きついてきたときよりも、布団の中で縮こまっている今の方が、余計に鞠乃が小さく、そして脆弱に思える。いつもはべったりくっついてくる鞠乃だが、今日に限って腕は自分の前で折り込んで、寄って来ることなくうずくまっていた。だから増して小柄に見えるのかもしれない。かつて今日のような日は何度かあったが、ここまで怖がったのは初めてで、私としても少し戸惑いを感じずにはいられなかった。
 あまりにも心配で――気づいたら、こちらから鞠乃を抱きかかえていた。
「ふはっ、ぁ」
 急なことに驚いてか、素っ頓狂な声を上げる。構わず、右腕を鞠乃の頭の下に敷き、左手を後頭部に添えて引き寄せた。
「志弦、ちゃん……」
「どうしたの?」
 驚きと困惑の入り交じった声音に、何が不思議かと言わんばかりに平然と答えてみる。こちらは別に、いつもと同じ体勢になっただけだ。
「いつもの鞠乃らしくないじゃない。一人でしょんぼりするなんて」
 ふわふわの髪をゆっくりと左手で往復してると、それに合わせて鞠乃が小さく肩を竦める。そのうち呼吸も揃えて、普段のこの体勢に慣れてきたようだ。
「……いつもの、あたし、かぁ」
 ボソリとこぼす言葉が意味深で、言及したい心が強く沸き上がる。しかしそこは私が言わせては駄目だ。喋りたいなら鞠乃の意思で自分から言わなければ。
「いつものあたしなんて。らしくない、なんて……っ」
 いつになく深刻そうに話す鞠乃に、こちらも少し気構えてしまう。
「……今日さ」
「えぇ」
「買い出し行って、あたしが帰れなくなっちゃったときにね。頑張って自力で帰ろうとしたんだよ」
 ゆっくりと、少しずつ鞠乃が語り始める。
「でも足動かなくって、周りを見たらますます暗くなっていって、他の人は平気で外に出ていくし、あたし一人だけ出口の前で立ったままで……皆帰っていくのに、あたしだけそこにいて、寂しくなっちゃって……」
 弱々しくしぼんでいく語尾を聞き取って、たまらずこちらから身を寄せていく。私はここにいると、主張せんばかりに。
「歩ける気は全然しないのに、だけど絶対志弦ちゃんを呼んじゃ駄目だー、っていう思いがあって」
「それで、あんなに遅くなったのね」
 私が一人寮の中、暇で暇で仕方なく部屋中をぐるぐるしている間に、鞠乃がそんな苦悩をしていると知って、胸の奥がきゅぅ、と締め付けられるような思いがした。
「この先も暗い道を歩けないままでどうするんだって、いつかは越えていかなくちゃいけない壁なんだって、頭の中では分かってるのに……本当に動かなくて、そのうち怖さの方がおっきくなってきちゃって……そしてそのとき、電話が鳴ったの」
「……御免ね、遅くなって」
「ううん」
 私の左手と右腕に挟まれて上手く動かせないだろうに、小さく首を振って否定する鞠乃。その挙動を意外だと感じてしまうのは、鞠乃をまだ子供っぽいと見ていることの現れだっただろうか。
「出ちゃ駄目だ、って気付いたのは、もう志弦ちゃんの声が聞こえてきたあとでさ。取っちゃった、の方が正解なのにね。あたしトロいなぁ……」
 やはり心の底では、私の電話を待っていたのだろう。呼び出し音が鳴ってから鞠乃が出るのがものすごく早かったことを思い出す。
「志弦ちゃん病気なのに頼ったりしたら駄目だって、電話しちゃ駄目だってずっと思ってたのに……電話、掛かってきたりなんかしちゃったら……すぐ取っちゃってさぁ」
「鞠乃、そんな無理することでも」
 徐々に涙声になる鞠乃の言葉に、思わずその努力を否定するような台詞を吐いてしまって後悔する。これは私のことを思ってくれたのと同時に、自分の傷を治そうと必死で戦う鞠乃の決意でもあったのに。
「あたしは自分で帰んなくちゃなかったのに……そこで志弦ちゃんが、あの言葉を」
 ――鞠乃が困ってたらどんな体調だってすぐ迎えに行く。例え誰にどれだけ止められたって、絶対行ってあげるから。
 自分が発した言葉を思い出す。
 何が何でも頑張って夜道を帰ろうとしていた鞠乃と、何が何でも鞠乃が弱っていたら助けに行くと言った私。
 少し似ているようで、少し噛み合っていなかった。無理をし心配で気を揉ませるか、手を差し伸べて気負わせてしまうかのお互い。
「甘えちゃ駄目だって、自分で帰るんだって、電話中もずっと思ってたのに、志弦ちゃんがあぁ言ってくれて……やっぱり、コロっといっちゃった」
 余計なことをしてしまっただろうかと自責の念に駆られて、何も言えない。
「ねぇ、志弦ちゃん」
「……えぇ」
「いつものあたしなら、外が暗くなったら真っ先に志弦ちゃんを呼ぶんだよね?」
「……」
 先程の振りは失言だった。それも完全に。
 こう捉えられてしまうと、フォローのしようがない。
「暗くなって怖くなって足動かなくなったら、志弦ちゃんに助けてもらう。それがいつものあたしで、あたしらしいんだよね……?」
「ま、鞠乃」
「いつまでもそんなあたしじゃ……駄目、だよね」
 私には、そうだよとも、そうじゃないとも言えなかった。
 どの言葉も、私が言っては無責任になってしまう。どの答えだって、彼女のためにならない。
 そうしてしばらく気まずい沈黙が流れて、
「……あのね」
 十分に溜めてから、鞠乃がまた話し始めた。
「とっても、すっごく嬉しかった。志弦ちゃんにあんなにまで言ってもらえて、こんなにも思われてるんだなぁって……ちょっと、勘違いしてるかもだけどさ」
 それは違う。本当にそう思ってる。とすぐに訂正できなかったのは、そう言うことで彼女の努力を踏みにじることになりかねないのではという懸念があったからだ。
「それでね……言ってもらった瞬間、すごい、ホント変な話なんだけどさ」
 その先を言うのを躊躇うように、また少しの溜めがあって、
「志弦ちゃんに、惚れそうになっちゃって、さ」
「えっ――」
 突然の告白に、反射的に驚嘆の声が出てしまった。その直後に、
「ごっ、ごめん! ゴメンゴメン! その、何でもないのっ、わすれ、て?」
 私の驚きを否定的に受け取ったのか、照れ隠しのように誤魔化し始める鞠乃。
 狼狽するその姿を見て、このとき、私の本心を包み隠さず全てぶちまけてしまおうかと、本気で迷った。
 今の言葉は驚愕で引いてしまった声じゃなく、不意打ちを受けて思わず出てしまった歓喜の声であるとか、少し前から鞠乃が気になっていて毎晩一緒に寝るたびドキドキして心音がとんでもないことになっていたとか、散咲さんと会って話していたのもあなたのことでうっかり時間を忘れてしまったとか、正也と仲良さそうに話していると嫉妬してしまうとか、とにかく好きで好きで仕方がない……等々。
 世間体や人目や体裁など、今までずっと私をがんじがらめにして妨害してきた常識という障害たちを、なりふり構わずかなぐり捨てて真心を告白してしまおうかと、究極の選択を迫られたような心境で検討した。
 悩み、一歩踏み出そうとして、未来のヴィジョンが見えて怯んでしまい、一歩下がって……と、脳内で一人勝手にシーソーゲームをしていたときだ。
「変、だよね」
 ふと、前か後ろか置き場に困っていた足が、虚空を踏んで真っ逆さまに落ちていった。
「おかしいよね。志弦ちゃん、女の子なのに……。女の子同士で好きになるなんて、どうかしちゃってるよね、あはは」
 どこが、どこまでが鞠乃の本心かは分からない。
 しかし確実に、照れ隠しでも自身の正常化でも何でも、今の彼女の台詞で、私の全ての逡巡はノーという結論だけを置いて吹き飛んだ。
「ぁふぁ」
 姿勢を前屈みに変える。鞠乃の頭を顎の下に入れ込むことで、彼女からこちらの顔は見えないのだ。
「志弦ちゃん……?」
 変じゃない。おかしくない。どうかしちゃってなんかない。そんなこと言えなかった。
 それは鞠乃の正当化でなく、自分の擁護にしかならない。私の私に対する気休めでしかない。加え現に、私の思いと鞠乃の嘘か本当か掴めぬ発言は、変でおかしくてどうかしちゃっているものである。
 それを無理に正常化するより今の私がするべきは、何も言わずただ黙って、昂揚と絶望が間髪なく訪れた心を落ち着かせ、動揺一つなかったかのようにいつもと変わらない一定の心音を鞠乃に聞かせてやることだ。
「どしたのぉ?」
「御免ね、私眠くてさ」
「……そっか。おやすみね」
 きっと鞠乃も触れられたくないのだろう。詮索せずそのままにしてくれる。彼女もまたいつも通り、私の腕の中で眠ることにしたようだった。
 ――明日は、鞠乃より早く起きなくてはいけないだろう。
 朝の私の顔はきっと、とても見れたものじゃなくなってる。
 〆

       

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