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表紙

秋の夜長の蜃気楼
三.

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 三.
 クラスが違うため日がな一日ずっと一緒にいられるわけでもないし、練習がある時はあるので毎日下校を共にすることもできないが、それでも以前より鞠乃と正也の交友時間は格段に増加した。
 正也の気遣いで朝に迎えに来てくれる日も増え、一緒に登下校できる時は鞠乃と二人して楽しそうに談話している。それを私が後ろで、という位置取りは最早お馴染みであった。
 小さい頃からの顔見知りといえど、会話の機会が減れば次第と縁遠くなるものだと思うのだが、鞠乃についてはそんなことお構いなしのようですっかり当時と同じ調子で馴染んでいた。
 逆に、疎外感を抱いているのは私の方だったりする。
 こうして二人と距離を取っていると、彼女らが何を話しているかの仔細がまるで掴めないのだ。会話の一部、特に鞠乃が大振りな仕草を混じえての驚嘆の声なんかは聞き取れるのだが、単語一つ一つ全部までは把握してないので、結局文脈が繋がらない。
 更に最近は何やら聞かれたくないのか、顔を寄せ合ってぼそぼそ小声で話す様子も伺える。そんなことせずとも最初からこちらまでは届いてないから大丈夫なのだが、それでも声を潜めて話したい時というのもあろう。誰かの耳に入るのが後ろめたい話題だったり、だ。
 時折どちらからともなく私の方へ振り返ってもらっても、小首をかしげて答えることしかできないこの状況に、少しばかり孤独感を得ずにはいられなかった。
 鞠乃も鞠乃で、例の夜のことについて何一つ言及してこない。
 あの夜。私が半ば意固地になって鞠乃を暗闇の下一人にさせた夜のことだが、叩きつけるような絶叫を胸にぶちまけられ、気絶したように倒れかかってきた後、そのままお姫様抱っこの要領で部屋まで運び、一向に起きる気配がないのを確認してからブレザーだけ脱がせてそのまま寝かせてしまったのだ。
 私の方は罪悪感と自己嫌悪で眠気など全然湧かず、とりあえずのまかないで空腹を満たしてからは、何となく寝室に行きづらくてリビングのチェアにもたれかかったままでいた。鞠乃に対し暴挙とも言える子供じみた振る舞いをした自分が憎らしくて恐ろしくて、電気も付けずずっとぼんやりとしていたのだが、秋の冷え込みは中々に堪えるものがあり、寝床も鞠乃が眠るベッド以外なかったので、食事で使うローテーブルにメモを書き置いてから結局そのベッドに潜り込んでしまった。
 いつの間にか眠ってたらしい私は、起きた隣に鞠乃がいないことに気付いて、昨日のことを口頭でも謝ろうとして飛び起きたのだが、キッチンには前日まるで何もなかったかのように自然と振舞う彼女がいて、言うにも言えず今のまま来ている。その時メモはテーブルの上から消え去っていたのでこちらの意思は伝わってはいると思うのだが、ああまで無反応でいられるのもちょっとばかし怖い。
 酷い事をしたと本当に思ってるし、鞠乃もきっとご立腹のはずなのだが、糾弾されるべき事に無言を貫かれると加害者側の身がもたないのである。怒っているならはっきりと不服を言ってもらいたいし、その折にしっかりと謝罪したい。のだが、こちらの思いを知ってか知らずか鞠乃はそれをさせてくれなかった。
 怒りのあまり一周して呆れが生まれたのか。裏切られたと思ってもう何も期待すまいと平常を装っているのか。考えれば考えるほど、普段通りの彼女がよそよそしく見えてしまって辛い。
 ココまで回想して、あまりの情けなさに苦笑してしまう。
 まるで、子供の拗ね言だ。
 自分で決めたことぐらい、責任持って後悔せず突き進んでみせろと思う。その結果、愛する人が自分から遠のいたり、嫌われることになったとしても、盲目的なまでにただ一つの目的を達成することに躍起になるべきだ。
 弱音など、そこには許されない。
「しーづっるちゃんっ!」
「ひゃっ!」
 漠然と前方を見やりながら歩いていたので、いつの間にか懐付近まで来ていた鞠乃に全然気付かなかった。そこから軽く飛びつかれたらびっくりしてしまう。
「ど、どうしたのよ急に」
「えへぇ。なーんかびっみょーな顔してたからさ」
「ん……そんな顔してた?」
 無意識の内に表に出ていた苦笑が、色んな思考の末に変化するにつれ何ともつかない表情になっていたのだろうか。誰も見てないだろうと気が緩んでいたのは失態だが、それを見逃さない鞠乃の目ざとさも相当なモノだ。
「変な顔してると、気持ちも変になっちゃうよ。もっと笑うのさー。明日は遊園地ですよぉ?」
「……えぇ、そうね」
 言ってから深く息を吐くと、自然とこめかみがすっと軽くなった。
 こうも天然を貫かれると、色々思い悩む方が何だか虚しくなってくる。最近は無駄に長く深く考え込んで空回りに終わってと繰り返していたからかより顕著だった。だから沈みっぱなしの心を引き上げてくれる意味で、鞠乃を見て話していると気が晴れていい。
 右腕に抱きついた鞠乃が、そのままブレザーの袖をくいくいと下に引っ張る。何事かと、耳を彼女の口元へ寄せていくと、
「あの日のことだったら、怒ってなんてないよ」
「う」
「あたしのことを思ってやってくれたんだろうなって分かるし、その後ちゃんと、ぎゅーって褒めてくれたでしょ? すっごい嬉しかった。感謝してるよっ」
「あぁあの、アレは――」
 弁解する間もくれず、そのまま右手を掴んで正也の待つ先へと引っ張る。後ろ歩きをしながらこちらへ手を振ってる彼の顔にも、軽く笑みが浮かんでいた。
 先程の鞠乃天然発言は、撤回しようと思う。
「とうっ!」
「ふ、っと」
 鞠乃のファーストタッチがタックルだと学習したのだろう。左腕に飛びつかれた正也は受け流すように慣性を乗せて腕を上げ、余裕綽々といった感じで手を握り返している。私もまだ鞠乃に手を繋がれたままなので、彼女を中心とした横列三人の小隊が組まれることになった。勝ち誇ったような、堂々とした顔で両手を掲げる鞠乃。高校生になってコレはちょっと恥ずかしいモノがある。
 でも、
「何か、懐かしいね」
「あぁ。こうやって帰ったりしたよなー俺ら」
「はっはー」
 数年振りの再編成だ。当時と比べると、両サイドと中央との身長差がまた開いた感じで、精一杯腕を振り上げた鞠乃の手がようやく私の肩に来るぐらい。その点に手を合わせるには、肘を折ってやらなければいけなかった。
「明日だねー明日だねぇあっしたっだねーぇ!」
「何だかんだで楽しみなんじゃない。初めは遠慮してたくせに」
「えへへ。志弦ちゃんには何か別の形でお返ししないとですねー」
 嬉しいことを言ってくれる。鞠乃のことなので食事の献立か何かだと思うが、彼女の作る料理が日毎美味しくなっていることを思うと期待もつられて膨れ上がる。
「ふふん、何作ろっかなー」
「私煮物がいいな。鞠乃の味付け凄い好きなの」
「そう? じゃーそうだねぇ……」
「へぇ、お前ら二人の飯って鞠乃ちゃんが作ってるんだ」
 さり気なくリクエストを出していると、正也が話題に乗っかって来た。
「うん。志弦ちゃんは出稼ぎ担当、あたしは主婦担当!」
「何か、凄い役割分担だな」
「やめてよ、そんな本格的な話じゃないから。私がただバイトしてるせいで、家事はほとんど鞠乃担当になっちゃってるだけで」
 誤解を招きそうな鞠乃の台詞に思わずビクリとさせられる。
「でもとっても助かってるよー。申し訳ないぐらいだもん」
「そんな気にすることでも」
「だからせめてあたしが家のことしっかりやって、美味しいご飯作っておかえりしてあげないとね!」
 こちらこそ、鞠乃のそのスタンスにとても助けられている。
 正直、両親の元を離れるとき、ちゃんとやっていけるのか不安だったのだ。掃除洗濯はまだしも毎日三食の料理のことまで頭が回らないのではと、寮に移り住む前から気が重かったことを覚えている。だがそんな心配はこの通り鞠乃が解消してくれた。
 それを受けて私も何か、と思って取り掛かったのが金銭問題だったりする。つまり鞠乃の御恩に私が感謝して奉公しているので、鞠乃の言い様では始点が逆なのだ。
「楽しそうだな」
「えぇ」
「そりゃもうねぇ。たっのしーよぉ!」
 こうして私たち二人の生活は上手く回っている。
 そんなことを話していると、ふと鞠乃がこんな提案を出してきた。
「今度まさやんも家来るといいよ。放課後暇な日が多いんでしょ?」
「暇、って……まぁそうだけど」
 鞠乃が家の敷居を跨がせるまで積極的だったことは過去あまり例がない。勿論、正也が朝迎えに来てくれるととびきり喜ぶ彼女だが、自分から家に誘ったことはそんなにないんじゃなかろうか。
「よーし決定だね! その日はあたしがまさやんの好きなおかず作ってしんぜよう!」
「いやちょっと待って、悪くないか、なぁ」
 と、伺うようにこちらを向かれても反応に困ってしまう。迷惑だから来ないでくれ、だなんて立場上言えるわけがない。
 まぁ事実、邪魔とも思わないし、鞠乃がここまで正也を気に入ってくれたことは喜ばしいことだ。それを断る理由なんてそれこそない。
「来たらいいじゃない。歓迎するよ」
「ホラぁ、言ったじゃん!」
 家の決定権を全て握っているかのように話す鞠乃。今件に関して言えばそれで大体合ってるのだが。
 正也は空いた手で頬を掻きしばらく考えた後、
「……じゃあ、今度お邪魔させてもらおう」
「おっけーぃ! 絶対だよ! 絶対ね!」
 こうして、我が寮への正也来訪が決まったのだった。
 その後は学校下から当校への坂を登る道中、正也はどんなおかずが好きか、遊園地はどのルートで回ろうか、なんて話で盛り上がっていた。

     

「男でも作れとは言ったけどよ」
 昼休み。いつぞやの宣言その通りに、散咲さんは司書室で悠然とくつろいでいた。
 不本意のサボりをしてしまった時以来の再会である。今日は同じ過ちを繰り返さぬよう時計をしっかりと確認しておく。
「何でさらにてめーの首締めるようなことになってんだ」
「いや、そんな辛くないんだけどね」
「ほーぅ。俺の前でそんな安っぽい嘘よくつけるもんだな」
 お見通しといったところだろうか。相変わらず敵わない。
 アレから私がどんな決定を下してどう行動しているかを、私情を挟まないで事実のみを報告という形で喋ってみたのだが、その経緯で色々と葛藤に苛まれたことを隠していたのにあっさりと見抜いてきた。
「誰にくれてやったアドバイスだと思ってやがる」
 少々お怒りの様子である。それは私の精神状況を慮ってくれての発言だろうか。
 基本的に口は粗暴だが人は悪くない散咲さんのことなので、結構他人思いのところがあるのだが、
「馬鹿に付ける薬はねーってか。もう少し利口で素直だと思ってたんだがなァ」
 気遣ってもらえてるだなんて、私の思い上がりだろうか。
「な、何よ、ひねくれてるとでも?」
「いーやてめーは真っ直ぐだ。しっかり芯入ってる珍しい人種だよ」
 そう言いながら、司書さんのペン立てからシャープペンシルを取り出して、指の間でピンと立たせる。
「が、直線の出来がねじれにねじれまくってやがる。雑巾や布巾を限界まで絞り上げてできあがった、パッと見だけ直線的な螺旋だ」
 シャーペンを持ったまま、それを濡れ雑巾に見立てて絞る動作をする。
 直接的に関係を持たない人からの評価は貴重だ。主観が入らず第三者という立場で純粋な見定めをしてくれる。そしてその客観は、言い得て妙だった。
「まぁパッと見っつったが、最終的に直線、って意味でもある。手段はどうあれ、初っ端からの覚悟は変えてねーんだからな」
「それは、ね」
 当然と言えば当然だ。もし私が路線変更するとしたら、その前に世間の倫理観や常識を変更する必要がある。
「ただ、こんな方法でくっつけた男と女が自然かどうかは俺は疑問だけどな」
「そう……かもしれない」
 余計なことをしている自覚はある。政略結婚みたいな、本人たちの心境を考慮せず他人の意思によって手繰り寄せられる逢瀬なんておかしいと承知している。
 だが、
「だけど、悪いことしてるって気にならないのよ。あの二人を見ていると」
 顔を見るたび飛びつくぐらい喜んで、何を話しているのか知らないがとても楽しそうに会話して、ノリもテンポも息ぴったりな彼女らを見ていれば無理もない。
「凄いお似合いなのよ」
「そこまで言うなら、てめぇが何もやんなくたってその内くっついたろ」
「そう思うぐらいよ、本当に」
「それがどうして今になったか、もっかい考えてみんだな」
 舌鋒鋭い。
 どうして正也に頭を下げてまで鞠乃に付き合ってもらったか。それは他でもない自分のためである。口先では鞠乃のことを第一に思っているよう振舞っておいて、その実私がもう苦しみたくない一心の行動である。
 そう、正也と鞠乃が“今”楽しそうにやっているのは、私のお陰ではなく私のせいなのだ。
「とやかく言ってもしゃーねーか。一度決めたらもうぜってー曲げねぇぐらいの気合でやってんだろうし」
 それぐらいの気概でやりたいが、実際はグラグラ揺れまくりである。
「それに、自然不自然置いといて、こういうの嫌いじゃねーしな」
 そう言って浮かべたのはこれ以上ない不敵な笑みだ。
 嫌いじゃない、の真意は捉えきれない。散咲さんの価値観というか視点は独特なので見透かせないのだ。まぁそも、その点に関してはどうでもいい。
 あまりに否定的なニュアンスの言葉が続いたからか、たまらず言い返したくなった。
「自然か、不自然かを言うなら」
 それは結局自己擁護でしかないかもしれない。二人の問題でなく、二人を見守る私の問題にしか触れてないかもしれない。
 けれど、コレだけは確かな事実だ。
「私が限界以上に踏み込むよりも、よっぽど健全で自然よ……」
「……」
 散咲さんはいつぞやと同じように、デスクに不躾に両足を乗せた。並の女子生徒なら制服の枷があって到底できる芸当ではない。スラックスを穿いて男であれば可能という問題でもないが。
 見ての通りの粗暴さと変わり者というレッテルを持つ散咲さんでも、常識が分からないわけではない。私の言うことがとりあえずは尤もであるということには理解をしてもらえたらしい。
 他に方法はなかっただろうかと、思わないではないのだが。それも今更になって考えては遅い。
「で、明日は遊園地だったか」
「えぇ」
「家族サービス旺盛な母親だな」
 思いの外すんなりと、バイトの休みをもぎ取れた。
 休みじゃなかったほうが都合がよかったのではと思うのだが、鞠乃にまた行かないとごねられては困るので、その最悪のケースを避けられたことに一応は安堵する。
「私も私で楽しむつもりだし、家族サービスなんてモノじゃ」
「は。ガキじゃあるまいし俺にゃ耐えらんねーな」
 休みを貴重じゃないとは言わないが、子供の御守りに使うのが惜しいという年でも身分でもない。
「そう言わないでよ。鞠乃なんて凄く楽しみにしてるんだから。今必死にプラン練ってるところよ、きっと」
「てめー自身はどうするつもりだ?」
「はは……そうねぇ」
 本当にこの人には敵わない。
 遊園地行きが決定してからまずバイトの休みが取れるか、それが第一の懸念事項だったが、それが解決して次に直面したのは自分の園内での立ち回りである。
 あまり付き纏うように一緒にいては事の進展に支障をきたす。かと言って離れすぎては無用の心配を被ったり、あからさまが過ぎれば今までの積み重ねの崩壊もあり得る。
 バランスよく付かず離れずのシーソーゲームを制せねばせっかくの外遊が実を結ばない。どのルートでどう楽しむか迷っている鞠乃は気楽でいいかもしれないが、裏で身を削る側としてはこんなことで悩まなければいけなかった。
「正直なところ全く無策ね」
「まともに考えねーでんなことすっからだ」
 呆れたようにそう突き放された。事実こう言われても仕方ないとは思う。二人の関係に決定打を放て得る計画でも持ち合わせてない限り、こうした話を持ちかけるべきではなかったかもしれない。
 ただ、この点に関してはそれほど心配してないところもある。
「そのまま放っておいても大丈夫なんじゃないかな、って思ってるのよね」
 今までに自然な流れで、或いはさり気なく二人きりの場面が作られたことは何度もある。今回もその流れが汲まれるだろうと容易に想像できるのだ。
 それに、いくら私の方で綿密に計画を練ろうともその通りの運びになるとは限らない。一瞬一瞬に機転を利かさなければ功を奏さない。逆に言えば、無策でもタイミングさえ間違えなければ上手く行くはずである。
 楽観的展望ではあるが、
「アドリブをしっかりこなせばどうとでもなるし、登下校を一緒にした、じゃなくて一緒に遊園地に行ったって言うのが重要なのよ。ステータスになるというか、箔が付くというか」
「アドリブ云々は同意してやってもいいが、遊園地に行ったことがステータスになるとは聞いたことねーな。ホテルに泊まったとか朝に二人並んで帰ってきたとかなら既成事実になるんだろうが」
「ばっ……!」
 敵わない上やりづらいというのが、散咲さんと話す際気後れする要素である。
「や、やめてよ冗談じゃない」
「おーおー悪かった悪かった。即身仏の初心な朝川さんには早い話だったなァ。だが今のではっきり程度が知れた」
 ピン、とシャーペンの先を私に向け言い放つ。どんより気だるげだった目つきも、真剣さを帯びて釣り上がっている。
「遅かれ早かれ、藤田とそいつが男と女になるってことは、いずれは夜伽話も出てくる」
「っ……!」
「藤田の方がどんなつもりでいても、相手は一律の野郎だ。奴もてめーみたいなよっぽどの聖人じゃねー限り、逃げられやしねーと思え」
 こういうことについての散咲さんの話は、重い。現実味を帯びているとかリアリティがあるとかじゃなく、実際にそうであったと言わんばかりの迫力がある。
「お前。もしそん時が来て、耐えれんだろーな」
 耳を塞ぎたい。そんな話、聞きたくない。
「嘘でもマジじゃなくてもいい。笑って迎えてやったりそいつんとこに送り出してやったりするぐらいの覚悟、あんだろーなオイ」
「――ッ!」
 その瞬間全身に奔ったのは、強烈な吐き気を伴う嫌悪感だった。
 鞠乃のことなのにまるで自分のことのように感じてしまって、喉元辺りに無視できないヌメリと纏わり付く淀んだ感触とか、目を閉じてしまって浮かび上がってきた想像のヴィジョンと、同時に喚起される聴覚と嗅覚への刺激が生々しく襲ってくる。
「けほっ」
 思わず膝をついてしまった。口に持っていった手が離せず前屈みになる。頭は車酔いしたみたいにぐるぐる回り、腰は力が抜けて立ち上がることもままならない。
「……この様子を見っと」
 無理矢理頭を持ち上げられる。目線の先には、またいつもと同じ気だるい目をした散咲さんがいた。
「てめー自身も本格的に野郎が駄目っぽいな」
「……」
 どうなのだろう。
 自分が心から好きだと思える相手なら、この気持ち悪い嘔吐感も和らぐのだろうか。取り払われるのだろうか。
 目の前の散咲さんはきっと教えてくれない。というより、知らないだろうという方が適切か。
「事実を言っただけだが、悪かったな」
「いえ……私も」
 言われて気付くなんて間抜けだ。こんなこと、初めから思慮に入れておかなければ、というより入れて当然のことなのに。他人から指摘されてこの様では笑い種にもならない。
「時間だ」
「え」
 ポケットから携帯を取り出して、待ち受けの時計を確認する。確かに、もうそろそろ午後の授業開始だった。
「めんどくせーから自分で行けよ。行けねーならここにいやがれ」
「大丈夫よ。明日があるのにまた鞠乃に心配かけられない」
 正直虚勢しか張れないのだが、それでも教室には戻らなければいけない。
 今なお周囲を渦巻く靄も将来的には無視できるぐらいにならなければ、ということが分かったのだから。

     

 再始業には何とか間に合い、鐘が鳴ってからは静かな教室で先生が来るのを待つ。
 鞠乃には体調の悪そうな素振りを見せまいと懸命に自分を律しているのだが、司書室で感じた不快感は未だ晴れない。寧ろ想像の対象だった鞠乃を目にして余計加速した気もする。
「起立、礼。着席」
 機械的に号令の通りの動作をこなす。手は机に突いたままだった。席に座って、息を整える。吐息音を殺して人知れず深呼吸するのにはもう慣れた。
 頭の鈍重さと目鼻の周りにある痺れが和らいでから、何故こうまで拒否反応が起きたのか不思議に思い始めた。
 私も年齢が年齢なのでその手の知識も保健体育のレベルでなら持ち合わせている。体調不良という形で経験もすれば、視覚的情報においてもふとした拍子や何かの弾みで見てしまったこともあるにはある。しかしそこまで取り乱したことはなかった。
 鞠乃と正也がモデルとされたから? 鞠乃に懸想している証? 正也を脳が受け付けなかった? 確かに男女交友の最終点を想定していなかったとは言え、さんざ今まで鞠乃が正也に向かってじゃれているところを見ている以上、その時点でこの気持ち悪さを感じていないと変ではないだろうか。
 話の相手が散咲さんだったから? 散咲さんの言葉だったから? 誰に対しても開け広げで、どんなネタでも躊躇することなく喋り始めるその人となりを知っていた上でなおショックだったのだろうか。彼女の言葉だから迫真するモノがあったのは認めるが、それでもあの人が何を口にしても驚かない自信がある。
 不意を突かれて無防備だったから? 私がその件に関する知識に疎いせい? どうなのだろう。自分が遅れているか行き過ぎかなんて調べようもないし、心の準備が整っていても気持ち悪いものは気持ち悪い気がする。
 ああでもないこうでもないと色々考え、鞠乃の相手を想像上の人物にすげ替えてみたり、鞠乃を自分にしてみたり、今度は正也を取り出したりと頭の中でしか許されないような行為をやってみるのだが、喉元にも首筋にもピンと来るモノはなかった。
「朝川」
「あ、はい」
「ここ和訳してみろ」
「……えと」
「志弦ちゃん、この文」
 鞠乃にペンで示されたローマ字の羅列を、立ち上がって朗読し、日本語に直していく。見慣れない単語は前日鞠乃にまとめてもらったノート端のメモで補い、すらすらと処理できた。
 よろしい、と座るのを許されてからは、脳内はすっかり授業の方に向き直っていて、教壇に立つ先生の言葉だけを取り込んでいた。

 授業がいい感じに気晴らしになってくれて際限ないループ思考を脱することができ、適度に集中していれば放課後なんてすぐである。
 今週の担当になっていたトイレの掃除を終わらせた後、鞠乃と一緒に正也を迎えに行く。待ち合わせ場所が図書室で固定されているのは、鞠乃に飛びつかれるのを他の人に見られるのが恥ずかしいから、と正也の弁。
 気持ちは分からないでもないし、そうさせているのは私なのでああ言われては一抹の申し訳なさも感じてしまう。反面鞠乃は全く気にすることなどないのだろうな、と隣でちょこちょこ歩く低い背を見て思う。正也にもそれぐらいにごく自然なこととして慣れてほしいものだ。
 ソファ郡が並ぶ図書室南館に辿り着くと、その群れの一端、窓際のそれに座って待つ正也がいた。
「お、今来たところか?」
「うん。やっほまさやん」
 場所が場所だからか、抑えがちの声の鞠乃。尤も放課後の図書室には生徒はほとんどいないのであまり意味はない。
「待たせて悪かったわ」
「いやいや、俺らも今掃除終わったところだしな」
 そんな会話をしつつ、下駄箱を目指す。校門が南館側、下駄箱が北館にあるのでとても遠回りである。
「明日だねー明日だねぇ!」
 私や正也と比べると一人だけ尋常じゃない浮かれようで意気揚々と校内を闊歩する鞠乃が先頭。並んで正也、後ろに私だ。
「そう言えばずっと悩んでたみたいだけど、ルートみたいなのは作れたの?」
「もうバッチリだよ! 楽しみにしててねぇ志弦ちゃぁん」
「ふっ、何よそれ」
 緩みまくりではないか。
「いつもいつもバイトでお疲れの志弦ちゃんにたっくさん楽しんでもらおうと考えたルートだからねぇ。すっごい期待してていいよ!」
「ありがとう。楽しみにしてるわ」
 できれば楽しませる対象は私以外の人間に定めてほしかったところだが、ここまで嬉しそうにしてくれれば企画した側としても本望である。
 玄関に着いて靴を履き替えている最中、
「正也、今日もバイトがあってさ。鞠乃のこと頼んでいい?」
「あぁ。オーケー」
 明日のための休みの代償とでも言えばいいか、今日にシフトが入れられていた。私がいない間にも接点を持ってもらうため、先程正也を迎えに行ったのだ。
「そかー。志弦ちゃんいないなら家いても暇だなぁ」
「遅くなりすぎない程度に学校下でもぶらついていたら?」
「俺は構わねぇぞ」
 あの日以来、鞠乃をあまり暗いところに置かないようにしている。
 ここ最近は夜は出歩かないか、出ても私が随伴していたので鞠乃が発狂しだすことはなかったのだが、久々にあの形相と絶叫を目の前にすると当人でなくとも心に来るものがあった。時期尚早だったとかそんな問題ではない。明らかに私が考えなしに事を運び、やらかしてしまった。
 今日の登校時、何とも思ってないと本人の口から聞いていても、心配が拭えるわけではない。だから「遅くなりすぎない程度に」の注釈だった。
「んー……」
 靴を履き外に出て、四角い空を見上げて思考する動作。
「今日はいっかなー。明日遊ぶわけだし、今日充電しなきゃだね。家に帰ってやることもあるし」
「そうか。じゃあそのまますぐ帰るか」
 その決定が、言葉通りの理由に起因するものなのかどうかは、彼女の表情からは推し量れない。
 歩をそのままに校門を出て、私は右へ二人はまっすぐ下り坂へ行く。
「じゃねー。ご飯作って待ってるから!」
「バイト頑張ってな」
「えぇ、それじゃ」
 別れ際の挨拶を交わしてから、さっき二人が家に直帰するという内容の会話を思い出して。
 散咲さんに呼び起こされたおぞましい映像と感触が、よからぬ想像によって再び湧き上がってきた。
「――ッ!」
 爪を手に押し付け、その痛覚に集中する。寒気がするのは秋が深まったせいだけだろうか。
 昼間の内とは言え、正也が鞠乃を寮まで送って行く可能性は十分にある。それは純粋な気遣いかもしれないし、鞠乃の我が侭かもしれない。
 今はそれが嫌らしい想像と直結してしまい、司書室で味わった色んなモノが舞い戻ってきている。喉元、視覚聴覚触覚全てに干渉する最低なイメージ。
 そんなことない、と常識的な理性はしきりに説得してくるが、それでも不安な気持ちが収まらず、見送った後も彼女らの背が坂の遥か向こうに消えて見えなくなるまで、ずっとその場に立ち尽くしていた。

     

 私たちの住む寮から銀丈学校を結んだ延長線上に、遊園地のためだけにあるかのような駅がある。
 正也とは家で落ち合って、登校する時と同じルートを歩き、降りる駅を何個か後にするだけで行くことができる。実家からの行き方も乗る駅が違うだけでほとんど同じ。小学校までの頃は結構足繁く通ったものだ。
「さ、いよいよでっすねぇ!」
「何か年甲斐もなく楽しみだな」
「いやいやまだまだ若いからねーあたしたち!」
 電車に乗り込むなりそんな会話を交わす鞠乃と正也。対して私の方は若干グロッキーだった。
 昨日、労基法が許す限りの時間ギリギリまで働かされたのだ。疲れ切った身体は食欲すら発さず、寮についたときは思考が寝ることだけに支配されており着替えもしないままベッドに倒れ込んだのだが、鞠乃に引き起こされてなけなしの理性でシャワーだけは浴びたのだ。
 そのくせ、寝る準備が整った後がなかなか寝付けなかった。昼間の散咲さんの言葉が尾を引いて、ふと胸の中に収まっている鞠乃が私の元からいなくなってしまう錯覚が何度も起き、その度目の前の存在を確かめるように抱きしめる力を強めたりしていた。いずれ現実として起きるだろうその感覚に今はまだ耐えられないようで、不安で不安で仕方がない。
 結局、睡眠を貪欲に欲していた脳と身体が、やかましいほどの展開を見せる思考に休息を邪魔されて、疲れも取れぬ内今に至る。
「志弦ちゃん昨日は眠れましたかー?」
「……えっとね、実は全然」
「ふっふーん。あたしのプランニングが楽しみすぎて目が冴えちゃってましたかぁ」
 さっきからこの流れを何度も繰り返している。嬉しそうにしている彼女には悪いが、全く別の理由で眠れなかった身としてはたまったものではない。
 こうしてはしゃいでいる鞠乃が。毎晩欠かさず私と一緒に寝る鞠乃が。何かのきっかけを境にいなくなってしまうと考えると、目を瞑っていても到底落ち着かなかった。
 とは言え、私の勝手な事情でテンション上がりまくりの彼女に水を差すわけにはいかない。昨日の不快感に打ち勝っても、今日の倦怠感に台なしにされてはどうにもならない。鞠乃には気兼ね一つなしに思いっきり遊んでもらいたい。
 幸い、平常を装うのはお手のモノである。
「そんなに自信のあるルートなら是非ついていかないと。全部お任せするね」
「まっかせなさーい!」
 昔からこういうことにかけて、彼女が天才的センスを持っているのは承知していた。
 鞠乃はパタパタと両足をふらつかせながら電車に揺れる。見た目とも相まってまるで子供である。
 午前中、電車が一番混み合う時間を避けても乗客はそれなりにいて、子連れの家族や同年代の男女二人組などが席に隙間なく見られる。恐らく目的地も私たちと同じだろう。
 そんな人達の目も気にせず感情の赴くまま身体表現する鞠乃と、その両側に座る私と正也は彼らからしたらどう映るのだろう。特に今回は学校帰りの駅前散策と違い、制服という画一的カテゴリに属していると一目で分かる格好をしていない。はりきっている鞠乃は勿論、休日デートに制服で赴くという野暮ったさは流石に持ち合わせていなかった正也も私服を着こなしていた。
 黒ジャケットにジーパンと無難に男子高校生らしい服装をしている正也はいい。問題は鞠乃の方で、店によってはSでも合わない背丈の低さをしているのに加え、前チャックの開いたパーカーから覗く身体が高校生とは思えない平坦さを見せている。この点については私も人の事を言えた身分ではないが、身長その他諸々を含めるとこの比ではない。癖っ毛ウェーブヘアーも、セットの仕方が分からない子供の無造作な髪型と捉えられなくもないし、快活さというよりは幼児性が先行する裾上げの半ズボンと、どこをとっても小学生と間違えられてしまうような要素で固められているのだ。
 制服を着ていれば高校生と分かるのに、服装一つでこうも変わってしまう。そしてその影響は私と正也にも及び得る。幼く見える鞠乃と並ぶことで相対的に私たちが年増に見える可能性がある。せめて従姉妹とか、年の離れた姉妹辺りに収まっていてほしいものだ。
「なぁにボーッとしてるの、志弦ちゃんっ。もう電車降りなきゃだよ?」
「え、あらいつの間に」
「もーっ」
 こちらの手を両掌で包み込むように掴み、降り口まで引っ張ってくる。気が急く娘がマイペースな母親を急がせているような構図になってしまっていた。
 というのも、両開きのドアガラスに映った自分の姿がまさにそんな感じだったのだ。直前までラフかシックか迷いに迷って、果てに選んだ中間の選択肢に沿って、控えめの黒フリルブラウスに丈の長いこれまた黒のカーディガンを羽織り、デニムのロングパンツでなるべくカジュアルに揃えてみたのだが、鞠乃と並んだ瞬間コンセプトなど対比のお陰で吹っ飛んでいった。イメージ云々関係なくコレでは親子に間違えられてもおかしくはない。
 そんな外見をしていた自分に軽くショックを受けつつも、
「これからパーッと遊ぶんだから! ぼんやりなんてしてないの!」
 停車してドアが開いた瞬間、車内から飛び出す鞠乃。片手で引っ張られる私もつられて外へ。
 自分のペースで動かせない足で何とか付いて行きながら、外出して遊ぶにも体力が必要なことを理解してほしいと思うのだが、遊びイコール休憩と分類する鞠乃相手に言っても無駄であろう。
 そも、そんな発想すること自体何とも年増染みてるなと自嘲さえ出てくる。
「ま、鞠乃、ちょっと待って」
 ささやかな抵抗は虚しく駅のホームへ消え入った。まぁ、無理もない。
「お、やっぱりまだ回ってんだなアレ」
 ここからでもあの遊園地のシンボルである観覧車が、屋根と屋根の間を見上げるだけで視界に映るのだから。
「早くっ! 早く行こう志弦ちゃんっ!」
「待って、待ってよ鞠乃、足辛いんだから」
「っはははは」
「ちょと、正也、助けて」
 改札口目指して勢いよく階段を駆け上がる鞠乃へ付いていくにはさらなる労力を要した。流石に止めてほしくて正也に助けを請うてみたのだが、
「ホラ、頑張れよ」
「ちょ、やだっ……!」
 鞠乃が掴んでいる方とは逆の手を掴まれ、後ろにいた正也がそのままダッシュで前へ出てきて、私は二人に引っ張られる形になる。悪ノリもいいところだ。手助けどころか悪化させてくれた。
 全段上がりきった後、駅構内の移動中は屋根に視界を遮られてか速度が和らいだが、改札を抜け外に出てからはもうずっとこの調子だった。

     

 全国に名を轟かせる国民的テーマパークには規模内装イベントどれも劣るが、郊外の遊園地も週末となれば集客数において負けないぐらいの力はある。
 電車に乗っていても予想できた混みようだったが、鞠乃はコレを計画段階から想定済み。ジェットコースターなどの人気あるアトラクションは後回しに、先に小粒なモノから回っていき、昼間に人が食事のため引いていった時を見計らって本命のところへ行く。それをより効率的に、短い時間で多くの場所に回れるようルートを作る。
 なかなか忙しない計画だが、結果から言って成功のように思える。現に、普通は四~五十分待たされるジェットコースターだが、僅か二十分足らずで直前まで来ることができた。
「結構余裕だね。さっすがあたし」
「すげーな鞠乃ちゃん」
 伊達に小中時代に来慣れてない。
「お待たせいたしました、お次にお待ちのお客様ご乗車下さい」
 今の立ち位置だと、コースターの真ん中辺りで三人とも乗れそうだ。車体は縦二列の十六人乗り編成で、列を見ると私がちょうど十人目にあたる。
 私たちの先頭を立つ鞠乃が、勝手知ったる顔で堂々と乗り込んだ。
「あ」
 ここでようやく、何故か私と正也が隣り合って座る形になってしまっていることに気がついた。
「どうかしたか」
「え、いや、何でもないんだけど」
 鞠乃がさっさと乗った今、席を代わろうと提案するのは不自然すぎる。自分が前から何人目か数えていたくせこうなることに気付かないとは何という失態か。どこぞの誰かにアドリブをしっかりこなして成功させると宣言した本人がこの様だなんて情けない。
 正也も何の問題ないといった感じで平然と奥の席へ座る。後ろの人を待たせるわけにもいかないので、そのまま私も乗り込んだ。
「ホラ」
 車体と乗り場の隙間を飛び越えようとしてると、ふと何の気なしに正也の手が伸びてきた。反射的にその手助けを借りようとして、
 ――パシンッ。
「え」
「お、っと」
 意識しない内に、一度は掴んだその手を弾いた自分がいた。私からはたいておきながら、甲の辺りに奔るヒリヒリとした痛みに動揺してしまう。
「ごっ、御免」
「ビックリした……一人で乗れるか?」
「あ、あぁ、えっと」
 正也が好意で手を差し伸べてくれたのは分かっている。それを私は本能的に拒否してしまった。まだ昨日のことを引きずっているらしい。
 そんなこと露も知らない正也は、まだ乗り場でまごついている私に、再び掴まれと言わんばかりに手を伸ばす。冷静に、理性的にそれを取って、引き上げてもらった。
「……うふふ」
「な、何よ鞠乃」
「えへへぇ。ちゃんと乗ったー?」
 やらしい顔つきで振り返る彼女に見られ、すかさず手を放した。
 気恥ずかしさがあったのは否定しないが、それよりも苛立ちが先立って別の感情を上書きしていく。私なんかに手を伸ばしたりして、隣で何事もなかったかのように薄く笑うこの男は事の次第を分かっているのだろうか。
 若干進みが上手くいかないのが心に引っかかるが、上からシートホルダーが降りてくると思わずアトラクションの方へ意識が身構える。何度かこのコースターには乗ったことはあるのだが、正直気持ちまでは乗ってこないモノがある。コレを飽きもせず乗るたび満足気な顔になる鞠乃は大物だと思う。
 コースターが前に進んで、出口から漏れてくる光に出迎えられるという見慣れたスタートを目前にして、少々億劫になる。そんな頭の隅で、どうしても外に追いやれない感触が一つあった。
 正也の手に触れたとき、痛みによる痺れとは別の、ぞわり、と怖気の奔る触感があったことを、気のせいという一言で片付けられなかった。

 食事の混雑回避も考慮されている鞠乃の計画に沿って、進行の上ではとても円滑に進んでいる。昼食ラッシュ時を避けて、人がレストランなどから引いたときに食事をするというただそれだけの策なのだが効果覿面。問題があるとしたら少し遅目の昼食になってしまうぐらいである。
「……うぅ」
 園内にはフードコートが一角を占めている場所があり、様々な屋台と飲食店が鎮座している。軽く手早く済ませようという鞠乃の方針に基づいて、テラス状になった開放的なテーブルチェアに陣取って、屋台のファストフードにするところまで決定していた。
「大丈夫か志弦?」
「ちょっと……きついかも」
 陣取り役が私になってしまった理由は、件のジェットコースターとその後に乗ったコーヒーカップにある。コースターで散々上下に揺り動かされた後、鞠乃の悪操縦で滅茶苦茶に左右に回されて平衡感覚が大分おかしくなっていた。
「私のことは大丈夫だからさ……鞠乃の手伝いしてきてあげてよ……」
「いやでも、その様子見せられるとな」
 その上でなお放っておけと言っているのだが一向に通じる気配がない。気を遣うべき相手はもっと他にいるだろうと言いたいのだが、あまり押し付けがましいのも駄目だろうなと思い直接的な表現ができなかった。それに大元はアトラクションで酔う私に非がある。
 テーブルに腕を突いて頭を投げ出している私に、正也はこちらを覗き込むようにしてしきりに心配してくれる。その姿すら歪んで見えていた。平静を装うのに慣れたはずの人間が情けないものである。
「しかし、鞠乃ちゃんのはしゃぎようはすげーな」
「えぇ。子供みたいね」
 言葉もぞんざいにして返答する。
「俺も結構楽しいんだけど、あそこまで全身で面白がりはできないな」
「ジェスチャー分かりやすいからね、あの子」
「志弦は、どうだ?」
 グロッキーな相手に飛ばす質問か、と少し気に障ったが、
「楽しいわよ。鞠乃があんなに喜んでる姿久々に見た気がするの。アレ見てるとこっちも何となく楽しくなるよね」
 努めて平静に、本心で回答した。
「じゃあ、さ。変なこと聞くけど」
「何よ突然」
 ふと改まって向かい直られるとドキリとする。
「志弦本人としては楽しんでるのか?」
「……」
「鞠乃ちゃんがいなければ、つまらなかった?」
 妙に図星を指す上、質問の意図がまるで掴めない。何となく詰問のように感じて不快なのだが、どう返したものかと考えると気の利いた返事が思いつかなかった。
 そして、率直に答えることしかできなかった。
「鞠乃がいなかったら、もう少しゆっくりとした園内散策になったでしょうね」
「あぁ」
「疲れてるのもあるんだけど、色々回っちゃってぐったり来てるわ。鞠乃に楽しんでもらっているのだから話を持ち出した私としては冥利につきるんだけれど、自分個人の話をすると、もう少しじっくり楽しみたいところがある」
 神妙な面持ちの正也が、相槌のみでこちらの話を聞く。
「鞠乃がいなかったらいなかったで楽しんでるとは思うし、鞠乃がいる今もとても楽しいわ」
 尤も鞠乃がいないとなればこの年になって遊園地には来ないと思う。飽くまで例え話の域を出ない。
「それが、どうかしたかしら?」
「……何でもないよ」
 ふ、と嘆息してそう零す正也。何となく意味ありげな動作に見えるが、どんな心情か探る気持ちが湧かなかった。
「もう少し、限定した話にしていいか?」
「うん?」
 今日は変なことばかり喋りたがるな、と思う。こんな正也珍しいので見物ではあるのだが、如何せん気持ち悪さが邪魔していまいち真剣に会話をする気力が起きない。
「もし、鞠乃ちゃんなしに俺と二人でどこかに出かけるとしたら――」
「とうっ!」
「ひゃっ!」
 正也の発した言葉を脳内で理解するよりも早く、額に冷たい感触が起きた。勢いで飛び上がると右隣、正也と私の間に鞠乃が帰ってきていた。手にはストローの刺さった紙カップがある。
「もう、びっくりするじゃない」
「まだぐったりしてたからさぁ。少しは覚めましたかーっ?」
「えぇ。元々そんな酷いモノじゃなかったし平気よ」
 形ばかりの虚勢を張ってはみせるが、もう無意味だろうか。コーヒーカップから降りて直後のよろめきようを見られた今どんな取り繕いも見破られていそうだ。鞠乃にもそれぐらいの観察力はある。
「少し急いであちこち歩き回っちゃったからねぇ。ココでゆっくり休んじゃおっか」
「悪いわね、付き合わせちゃって」
「やーん、遊園地って言い出したのあたしだし、付き合ってもらってるのこっちですよぉ」
 鞠乃も私の対面、正也の右隣に座り、手提げ袋から屋台で買ってきた諸々のモノを広げる。フランクフルトにフライドポテト、ハンバーガーなどファストフードの典型がずらりと並んでいた。身体を持ち上げ、どれも油物であることを確認してから、自重しがちな食欲に無理をさせるためひとまず飲み物を口にすることを決めた。

     

 ご飯を食べ終わった後は私のことを気遣ってか、アトラクション詰めでなく風景観賞寄りになった。
 他人が乗ってるコースターや絶叫マシンを外から眺めたり、建物の外観が西洋、欧州の洋館風に作られているので見て回るだけでも価値はある。
 午後の部は午前の分を取り戻さないといけないので、引き気味の位置取りを意識して二人に追随する。つまりは普段どおりの隊形なのだが、人混みの多い園内だとはぐれる可能性もあり付かず離れずの裁量が難しい。それに正也が隣にいるはずとは言え、片方は人だかりに突っ込んだら最後絶対に見えなくなる低身長の鞠乃だ。
 見失わないようしつこく後ろについていると、人気が引いたところ、ちょうど園内最端部で私のことを手招く姿が二つ見える。小走りで近づくと、そこが遊園地の外の景色を一望できる外周であることに気が付いた。
「じゃーん!」
 両手を広げてから前に放り投げるジェスチャー。その手先を見ると、夕陽が眩しいまでに海面を照らしている光景が見えた。
 この遊園地は沿岸部に設立され、海が一望できる絶景スポットとして一時期娯楽施設というより観光地としての名が高かったことがある。アトラクション群の外れまで来るとまるでどこかの海浜公園か何かのように、波打つ水面と潮騒を足下に散歩道となった舗道がぐるりと渡っているのだ。
「……ほぁー」
 夕陽を携えアテもなく揺れる波が、綺麗なオレンジ色を帯びて一面びっしり凛然と輝く様を見て、だらしないまでの感嘆の声が思わず漏れ出てしまう。たまらず、海とこちらを隔てる柵のギリギリまで前に乗り出した。
「すげぇなオイ」
「凄いよね。何度も来てるし何度も見たはずなのに、今でも何だかとっても綺麗に見えるんだよぉ」
「そうね……何でかしらね」
 柵の間に顔を挟める鞠乃と、その隣で同じくぼんやりと立ち尽くして見つめる正也。
 小中と、少なくとも私と鞠乃は幾度となくこの遊園地に来て、その内の半分ぐらいはこの端の舗道まで来て海を見て帰ったはずなのだ。もう見慣れていておかしくないのに、今日見るこの光輝は一際美しく見える。
「見え方、というより見方が変わったのかもしれないわね」
 まだ高校生の私が言う言葉ではないが、当時と比べて明らかに自分たちは年を重ねて一応は成熟の一途を辿っているのだ。身体的には反例が隣にいるが、精神的には確実にそうである。
 勿論のことそこには感受性も含まれる。子供だった頃は遊具ばかりに気が行って、こうした美麗な景色も蔑ろにしていたところがあったのかもしれない。それは仕方がない。そういう目しか持っていなかったのだ。
 だから今こうして、宝石を散りばめて照らしたかの如く燦然と煌めいている海を見て感動できることに、自分で感心してしまった。気付かないうちに、自分のことなのに自分の預かり知らぬところで、大人になってきていたことを認識する。
 学校で成績と進路に悩まされたり、親元を離れて生活したり、働いてお金を貰うことを覚えたり、一端に恋愛のことを考えたり、昔とは少しずつ変化してきた自分を思って、少し感傷に浸りそうになった。
「……」
 水面から私の瞳に飛び込んでくる光は、自分の心とは対照的にとても眩しく明るい。
 この絶景を見ても惚れ込まなかった、無邪気な純粋さを持っていた過去の私は、今になって何をやっているのだろう。人を裏で糸引いて突き合わせて、本人の意志関係なしに自己本意な恋愛を、それも他人にやらせている。
 とても卑怯でえげつなくて、愚かな行為。愛する彼女を思っての自己犠牲と言えば聞こえがいいが、その実は全く逆の保身でしかない。
 キラキラとまばゆく光る景色を見て感動するぐらいには成長した。その結果は、後ろめたさと罪悪で埋め尽くされた真っ黒な心だった。それが途轍もなく滑稽に思える。
 この輝かしさは、今の自分にはない魅力だ。
「そろそろかなぁ」
 水平線より下に太陽が半分ほど埋もれ、空も濃厚な橙一色だったのが、視点を真上に移すに連れて透明感のある青へと鮮やかなグラデーションを描き、次第に夜へ向かっていってるのがよく分かる。
 その爽やかな空でも煌びやかな海でもない後ろの方を鞠乃が見上げている。何を見ているのだろうかと私も振り返ってみると、
「あっ、きた」
 遊園地のシンボルである観覧車が、夕陽を照らした海に負けないぐらいのライトアップを見せた。極彩色のイルミネーションが様々なパターンで模様を描き始める。
「へーぇ……」
「こんなことやり始めたんだな」
「いつだかまさやんも言ってた新しいアトラクションてコレのことだよ。アトラクションか、って言われると微妙だけど……こっちも綺麗だなぁ」
 同意見だ。いつの間にこんな素敵に生まれ変わっていたのだろう。変化したのは私たちだけじゃないらしい。
 しばしそちらの方をボーッと見ながらポツポツと話していると、ふと鞠乃が携帯を取り出して素っ頓狂な声を上げた。
「ふぁぁ! 点灯したから覚悟したけどもうこんな時間!」
 時計を見ると四時四十分を指そうとしているところ。恐らくライトアップは四時半開始に設定されていたのだろう。
「あら、結構経ってたんだね」
 今まで通りであれば、そろそろ急ぎ足で帰らなければいけない時間だ。空が本格的に暗くなる前に家につきたいところだが、今日に限ってはどうしたものか迷う。折角遊びに来たのだしもう少し長居したいと鞠乃も思うのではなかろうか。海も、ライトアップされた車輪もなかなかムーディだし、それにあの観覧車にはまだ乗っていない。
 私に気を遣って思い切り遊べなかったところもあるだろうし、そろそろ私だけ身を引くべきタイミングだと思う。夜の暗闇については、帰り道正也にしっかり付いてもらえば問題ない。
 さてどうやって自分だけ帰ろうかと考えだしたそのとき。
「いい時間だし、このイルミネーション見て満足しちゃった。あたし、そろそろ帰ろっかな」
「え、そ、そう? もう少し遊んでいけば……」
 先手を打たれて出鼻をくじかれた。まだ夜が怖いのだろうか。
「帰りのことは私も正也もいるし、安心して遅くまでいてもらって大丈夫だけど」
「いやぁ、実はやらなくちゃいけない家事を放ったらかしにしてるのを思い出しちゃって」
「そんなこと、今日ぐらい忘れちゃいなよ。すぐやらないと困ること?」
 少なくとも私にはそんな家事思い当たらないのだが、何があるというのだろう。どれにせよ、今鞠乃に帰ってもらうのは困る。
「うん。今から支度しないと間に合わなくなっちゃうの」
「だから、それって一体……」
「ひーみつー。でも、期待して待ってていいよ!」
 そう言われてもちんぷんかんぷんである。こんなヒントだけでは心当たりも全く出てこない。
「今から急いで帰れば暗くなる前に寮につけるし、あたし一人で大丈夫だから」
「ちょっと鞠乃、だったら私も」
「志弦ちゃんは平気なんだし、普段バイトで忙しいんだからこういうとき遊べるだけ遊び尽くすべきだよぉ。まさやんと二人でもっと楽しんでってねっ」
 言うや否や、もたれていた柵から身を起こして出口へ小走りに向かっていく。引き止める間もなく、小さい背は手の届かない距離まで離れていった。
「美味しいご飯作って待ってるからー! 三人分!」
 そんなセリフを聞いたが最後、未だ減らぬ人混みに紛れて鞠乃の姿が見えなくなった。あまりの身軽さと急な行動に手も足も出ずぼんやりとしてしまう。
 私が聞き間違えなければ、夕食を三人分作ると言っていた。私と鞠乃ともう一人は誰のことか、考えずとも選択肢は一つしかないのだが、どうして正也の分までなのかは分からない。予め泊まることでも鞠乃と相談していたのだろうか。旧知の仲とは言え相手は男で、女二人だけの寮に私への相談なしに無断でそんな決定をするとは思えないのだが。
「ま、正也!」
 やり場のない無力感と怒りをぶつける先として、そして全然掴めぬ鞠乃の言動を問いただす相手として私が選んだのは、隣で我関せずと言わんばかりに何の反応も見せなかった正也だった。
「どうしてそのまま見送ったのよ! 引き止めてくれないと困るじゃない、私が正也に頼んだこと覚えてる?」
「志弦」
「私もいつまでも一緒にいたのが悪かったけど、貴方と鞠乃が二人でいてくれなきゃ――」
「なぁ、志弦」
 まくし立てる私の肩を、両手で抑えつける正也。反射的にビクッ、と震える自分がいた。
「あのさ」
 離れない腕に嫌なモノを感じつつ、そのお陰で段々と冷静さを取り戻してきた。今、自分は何てことを言ってしまったんだろう。元々無茶な願いを聞いてもらってる身なのに、なお身勝手な叱責を浴びせてしまった。
「え、えぇ……その、御免。怒鳴っちゃって」
「うん。それはいいんだけどさ」
「な、何?」
 学校で制服姿の正也しか見ていなかったので、それなりなお洒落をしている今の正也が新鮮というより別人に思えてしまう。
「二人で、話がしたい」
「……わ、私と、二人で?」
「そう。ちょうどだし、場所変えていいか」
 この時点でちょうど、というと行き先は一つしかないだろう。確かに準個室のプライベートな空間という条件は正也が望む最適の環境だろうが、その提案から私は戸惑いと困惑しか湧いてこなかった。
 いきなり、何だというのだ。鞠乃は思い立ったように急に帰ってしまうし、その直後に正也からこの誘いである。まるで示し合わせたかのような流麗な展開に、無理矢理押し流されている感じがする。
 いや、事実そうなのだろう。その流れにただ頷いて、今こうして観覧車に向かって歩いている私は確実に何かに乗せられている。
 自身の予定していたルートから大きく外れていく予想外の進路に、抵抗することもその先を読むこともできず、流れに身を任せるしかなかった。

     

 私や鞠乃が通いつめた時代から名声高かった円形の乗り物、コレ一つでやってきたと言っても過言ではないこの遊園地の凄いところは、その当時と比べても客の入りに衰えどころか盛り返しさえ感じる点である。恐らく下手に趣向を凝らした遊具を新設するより、たった一つのシンボルであった歯車をより魅力的に見せるほうが、他にない個性を発揮するに都合が良かったのだろう。
 時代遅れの感じを否めない観覧車を、逆に娯楽産業の競争時代を生き抜くメインアトラクションに据えて改良を施し、見事成功させた経営者の手腕には感嘆させられる。子供の頃から思い出深い場所を存続させてくれた意味でも、私や鞠乃にとっては嬉しい限りだ。
 が、こうして正也に連れられて目の前にすると、この大仰なまでに大きい車輪に不吉な予感を掻き立てられる。今から何が起きるのだろう、何を話されるのだろうかと考えるだけで、観覧車の回転よろしく気が重くなる。
 日も暮れたというのに観覧車前には今から乗ろうとする人々で行列ができていて、熱っぽい橙の空が、透き通って冷ややかな濃紺にほとんど侵食されたぐらいになってようやく乗ることができた。思いの外夜闇が落ちてくるのが早い。鞠乃が心配だ。
 だが今の状況、他人の心配をしている場合ではないのかもしれない。
 ゆっくりと降りてくるくせ、止まってはくれない不親切な車体に二人で乗り込む。
「……うん」
 足を踏み入れた瞬間起こる振動。シートに座って感じる微妙な浮遊感。経年劣化か若干傷物になってはいたが、窓から見える外の景色。何もかもが当時と一緒だった。いつもならここから、頂上に向かうに連れ見えてくる海に思いを馳せながら心が踊るところ。
 鞠乃ならきっともうなりふり構わずぴょんぴょん飛び跳ねてるだろうなと、昔実際にあってギシギシ連動して揺れる車体に冷や冷やした記憶と共に想像する。しかしそんな小さな子は今はいない。
 観覧車そのものは昔そのままだ。何も変わったところなどない。
 だけれどもきっと、それに乗る人達は色んな点で変わってきている。最後にここに来てからおよそ数年あまりの歳月を、このコンパートメントのようにゆったりと過ごしてきたつもりだったが、その内で気付かない間に大幅に動いていたものがあったのだ。
 その一つがきっと、今胸にわだかまるざわめきなのだろう。
 遠くに移していた視点をすぐ右に移すと、汚れたガラスにどんな感情も浮かべてない自分の顔が見えた。あまりの無表情ぶりに、少し身構えすぎだろうかと居住まいを正す。何も、今から正也に話されることは悪いことと決まったわけではない。
 身体の力を抜いて、伏せた頭を持ち上げる頃には、もう作り慣れた軽い微笑だ。
「急にビックリしたわ。何? 話って」
 努めて明るく聞き出す。対面に座る正也は、居心地が悪そうにうつむいて手指を組んでいた。
「あぁ。その、な」
「遠慮することないじゃない。いつも寮暮らしの私たちのこと気遣ってくれてるんだし、今度は私が聞いてあげる番よ」
 申し訳程度の理由も付けて喋りやすい空気を。
 こんな雰囲気で話し出せる話題であってほしいというのは邪推しすぎだろうか。
「多分、志弦にとっても鞠乃ちゃんにとっても、失礼な話になる」
「……何よそんな、想像つかないな」
 折角持ち直した気持ちを頭から折らないで頂きたいのだが。
 ある程度予想がついていたので、それを前提とした聞き方をしないといけなさそうだ。
「前、放課後に鞠乃ちゃんについて頼まれた件だけれども」
「うん」
 まぁ、コレ以外ないだろう。
「数日一緒に暮らしてきて、やっぱりよくないなって思い直したんだ」
「……うん」
 どういう意味でよくないのか判然としない物言いだ。未だ正也は俯いたままで滔々と喋り続ける。
「あの日志弦に言われたことは、鞠乃ちゃんのためにもなるし、その役に俺が適任なんだろうなってのは分かったから、あまり理解しない内に……というより、どういう結末になろうといいかな、って軽い気持ちで請けたけど」
 突如こぼされるその本音に、こっちは遊びでも冗談でもなく本気でお願いしていたのにと思うのだが、事が事なのでそう捉えられても仕方がないのは分かる。
「志弦が誘導する素振り見せたり、身を引いてるところ見てたら、お前は本気だったんだなってことが分かって」
 人と人を意図的にくっつける。今時なら悪ふざけでもそんなことやらないし、まして真剣に実行するなんて思いもしなかったのだろう。それは分かる。
 分かる、のだが。
「鞠乃がどういう子か、正也だって知ってたでしょ……?」
「……それは、な」
「初めから本気だったわよ。変だとかおかしいとか思われることかもしれないけど、鞠乃を思えば」
 なんて台詞を今も吐ける自分に反吐が出そうだった。自分本位の我が侭だったことはずっと伏せていたが自分自身にだけは隠せない。
「確かに鞠乃ちゃんは可愛い。話してて自然と笑っちゃうぐらい面白いし、一緒にいて苦にならないけど、けど」
「なら、それでいいんじゃ――」
「そういうのとは、何か違うなって、実感として湧いたんだ」
 ――あぁ。
 こう言われてはどうしようもない。
 主語が隠されていたとはいえ、言わんとしていることは掴める。隣に並んで登下校を共にしたりその道すがら会話したり、友達として付き合うにはいい相手だけれど、恋愛対象としては別。
 そしてそれを、実感を伴った感情だと言われてしまってはもう強要はできない。
 それはつまり、他に好きな人がいて、その人と鞠乃を比べてしまうからなのだろう。
 正也とて一人の高校生男子だ。普通なら誰かに恋心ぐらい抱いたっておかしくはない。そのことを失念していたわけではないが、自分の身に覚えがないから正也の身上もそうであることを勝手に願っていた節があったかもしれない。
 そう。正也はただ一般的に男子高校生をやっていただけで、そこに私が盲目的な願望を抱いていただけ。それを裏切られて立腹する道理はない。
「きっとこのまま志弦の理想とする形になったら。自分の心に嘘を付いたら、俺は絶対後悔するから、すげぇ悪いけど」
「……えぇ」
 こちらも理解を示すしかなかった。
「あとさ。まだあるんだけど」
「えぇ」
 何だろう。鞠乃をコレ以上ひっつけないでくれとかだろうか。そこは正直正也と私だけの問題でなく、正也に懐いた鞠乃本人の意志もあるので難しい気がする。
「志弦、笑わないで、聞いてくれるか」
「えぇ」
 外はすっかり紺一色だった。私の心に比例しているようだ、なんて感想を持つのはおこがましいだろうか。しかし事実、鞠乃の件に関して唯一とも言える光明が消え去ったのだ。私が能動的に離れるという発想は元より今でも全くないし、鞠乃を任せられそうな相手にも心当たりがない。どうしろというのだろう。暗い思考が空の景色と不吉にリンクしているような、そんな錯覚を起こす。
「志弦……お前が好きだ」
 私たちの乗ってる観覧車が、頂上に達した。
 海面は沈んだ夕陽の代わりに照明を浴びて、変わらず煌々としている。今はそれも空々しく見えた。
「えぇ」
 どうすればいいのだろう。頭の中はそれで埋め尽くされている。
「……し、志弦?」
「……?」
 ばつが悪そうな項垂れ方をしていた正也が、ピンと背筋を伸ばしこちらに向き直っているのを見て、先程正也がぼそりと言った台詞を思い出して、
「……――」
「あ、いや」
「――はぁっ?!」
 全部がぶっ飛ぶぐらいの混乱が脳内を荒らしていった。
 いや、ある種今までの会話で合致する点はあるのだが、その当事者が私であるという事実にどこまでも理解が及ばない。にわかに信じがたい一言、というよりは寧ろ信じたくない一言とでも言うべきか。
「……な、何言ってるの」
「何、って」
「は、じょ、冗談よね……?」
 そうであってほしいと願う思いがそのまま言葉として出てきた。
 ただそれは飽くまで希望的観測でしかない。様々に仮定の憶測と妄想めいた結論が脳内で生まれては消え、どことなく納得してしまっている自分もいた。それを否定してもらいたいという、ただの望みである。
 当の正也は、私からやんわりとした拒絶を受け、どこから何を話そうか迷うような素振りを見せてから、しばらく溜めを作った後、
「鞠乃ちゃんについての話をされたとき、志弦、私も協力するから、って言ってくれたじゃないか」
「え、えぇ」
「それを聞いて、鞠乃ちゃんと一緒にいれば、自然と志弦にも近づけるんじゃないかって思って引き受けたところもある」
「……」
「鞠乃ちゃんには本当に申し訳ないと思ってる。そして志弦を騙してたのも悪かった。だけど」
「最低よ……」
 もうその先を聞きたくない。
「最低よ、最低ッ! 正也あなた、鞠乃がどんな気持ちであなたといたと思って……!」
 私と一緒にいても絶対に見せない、身体全体を使っての喜びの表現を思い出して、感情の赴くままぶつけてやる。
「純粋な鞠乃が、あなたの心の裏とか全然知らないで、一緒に遊べるのが嬉しくてあんなにはしゃいでただろうに、それをあなたは……!」
「……鞠乃ちゃんには」
「きっと嬉しくて楽しくて仕方なかったはずよ! 私抜きで二人で話してる時ずっと見ていたもの。今日だってあんなに楽しそうにしていたのに、最後にはきっとあなたのせいで白々しく一人だけで帰る羽目になっ……て、え……」
 つまりそれは。彼女がそうしたということは。
 ――美味しいご飯作って待ってるからー! 三人分!
「全部、話してる。鞠乃ちゃんも俺の気持ちを知ってる」
「……」
 その上で。
 それを知ってなおもあそこまで楽しそうに付き合っていたのか。何を話題にあぁまで盛り上がれたのか。
 時々二人で話し込んでいる間私の方を振り向き直るのは何故。ジェットコースターの位置取りだって、鞠乃なら直前になっても誰かと隣になりたいとごねそうなものを、偶然か何か私と正也を組ませたりして、いやらしい笑みで見てきたりして。そういえば私がこの計画を始めるもっと前からも、いきなり正也が男らしくなったよねなんて話してきたり。そも、正也と登下校を共にしようと時間を合わせた日だって、自然性を装ったとは言えあの子は欠片も疑問に感じなかった。
 ごくさりげないこれまでの経緯がどれもこれも不可解な穴のように思えてくる。そして考えれば考えるほど、その穴を埋めるピースが都合よく出てくる。自分で自分が無理矢理納得させられるような感覚に身を包まれながら、それに抗おうと個人的感情がどんどん導きだされる結論を頭ごなしに否定している。
 だがそれも、無駄に終わる瞬間というのがある。
「鞠乃ちゃんに協力してもらって、今日の最後、二人きりにしてもらった」
「……」
「ココまで来て嘘でした、なんて鞠乃ちゃんに申し訳立たない」
「……っ」
「俺は、本気だ。志弦」
 正答を突き付けられた。
 ぐったりと、来るものがあった。いつの間にか力んでいた肩が、すとんと落ちる。
「俺と、付き合ってくれ」
 いきなりそんな事を言われても、どう反応してどう返せばいいのか分からない。人から好きと言われたのが初めてというのもあるし、そもこんな展開全く予想してなかった。
「そんな、や、だって……」
 どれにせよ、私の頭から離れないのはあの子の姿だった。
「鞠乃は……どうするのよ」
 そう。彼女の問題が浮き彫りのままだ。
 今もなお一人で夜を出歩けない事がいつぞやの件で判明している。まだ目を掛けてあげないといけない状態なのに、その役をお願いしたい正也がコレだし、そんな彼に私が付き合い始めたら、誰が鞠乃を面倒みるのか。
「あなたの気持ちは分かった。それを踏まえたら、コレ以上鞠乃をお願いはできない。だけどそうなったら」
「志弦、きつい事を言うようかもしれないけど」
 途中で遮って言葉を発する正也。どことなくウンザリといった感じの印象を受ける切り出しだった。
「鞠乃ちゃんの事、気に掛け過ぎじゃないか」
「そんな、何を……?」
 はっとするような、心外なような、二通りの感情が湧き起こされる台詞だった。
「鞠乃ちゃんが暗いのが駄目なのは俺も知ってる。だけど、話を聞く限り、志弦がそこまで面倒を見てあげなくても大丈夫なぐらいになってるんじゃないか、って思う」
「どうしてそんな事」
「一人で頑張ろうとしたりするんだろ? 志弦に頼らないで、一人で暗い道を買い物から帰ろうとしたりさ」
 確かにそんな気掛かりはあった。私が彼女の努力を打ち消してやいないかと思ったこともある。
「私にも自覚はあったよ。だから正也に代わりをお願いしたのよ。きっとそれだけでも大分違うと思って……」
「その事自体も、志弦からの気遣いだってことに変わりはない」
「それはそうだけど……!」
「俺は今の鞠乃ちゃんには、誰の力も必要ないと思うんだ」
 突き放すような物言いに腹立たしさを感じてしまうのは、私の過保護性の現れだろうか。
 私の今の気回しでさえも不要だと、鞠乃には誰の助力もいらないのだと言う正也に、面向かって薄情者と言ってやりたい。それではあまりにも鞠乃が可哀想だ。その心ない扱いに何の疑問も感じない無神経ぶりに苛立ちが募って仕方がない。
 だがその案は、私にはあり得なかった発想ではあった。
「鞠乃ちゃんだって十七歳だ。もっと言うと俺たちと全く同じ年だ。もう子供じゃないっていうのは同年齢の俺たちが一番良く知ってるじゃないか」
「別に、子供扱いしてたわけじゃ」
「そうかどうかは別にどうでもいい。だけど結局心配してるのは事実だろ?」
「……えぇ、当たり前よ」
「一旦距離を置いて見守ってあげるのも必要なんじゃないか」
 確かに正也の言う通りだとは思う。いつも私が傍にいて助けてあげたから、きっと鞠乃の中で誰かが助けてくれることが当然の事のような、当たり前の事になってしまったところがあるのかもしれない。
 だから夜の帰り道、急に一人置かれたりすると足が止まってしまうのだ。何故なら、そうしていれば私が来るというのを理解していて、知らず内期待してしまうからである。ここ最近その他人頼りなところが変化しつつあったが、それを阻害したのは、鞠乃同様助けることが当然になってしまった私のせいに他ならない。鞠乃に克服の意志があっても、私には見放す勇気がなかった。
 時々思うのだ。私にもこうした正也のような、手を掛けてあげることだけが愛情でないと理解した、そしてそれを行動として実行できる父性のようなものがあれば、私の鞠乃に対する立ち位置はもっと別のものになっていたのかもしれないと。
 保護者としてでなく、男性的なところがある、もっと別の存在として彼女と付き合えたのではと。
「だからって言うのも変だし、正直個人的な感情も混ざるけど、鞠乃ちゃんにとらわれない、志弦本人の声が聞きたいってのが、ある」
 だが、この男は全く理解していない。
「ねぇ、学校下で遊んで帰った日、駅についたときはもう暗かった日があったじゃない」
「あぁ」
「あの日、私たちの寮の前で、私が足が遅くて遅れてる中鞠乃から離れてさっさと帰っちゃったのも、その見守ってやろうっていう思いやりから来た行動だった?」
「うん。意図的にやったところはある」
 何も鞠乃の事を分かっている人間はお前一人だけではない、みたいな言い方をしてくれるが、
「その後、鞠乃がどうなったか知ってる?」
 知らないだろう。翌日の平然とした彼女の様子を見て気にも留めなかったろう。
「言い表しきれない酷い表情して、顔中涙でぐしゃぐしゃになって、私が追いついたときに絶叫しちゃうぐらい怯えて震えてた鞠乃のこと、何一つ、全く、知らなかったでしょう!」
「えっ……」
「そんな鞠乃の事見て、少しは一人にしてあげたほうがいいなんて言われたって、できるはずないじゃない……! 何も知らないくせに、自分に都合のいいように無責任なこと言わないでよっ!」
 信じられないと言いたげな表情である。無理もない。夜が明けてからの鞠乃の変わらない様子には私も怪訝に思ったほどだ。
「さっきも言ったけど、私の本心からの言葉だわ。鞠乃はどうするのよ」
「……」
「私には、鞠乃がいるのよ……」
 そうだとも。いつまでだってずっと見守ってあげたいと思う、か弱い鞠乃がいる。目を放したり他のことに気を取られる隙もないぐらい常日頃、鞠乃の事を思い考えている。
 きっと何があっても、私は鞠乃第一なのだ。とらわれているとか付き纏い付き纏われてるとかじゃなく、私が好きで、鞠乃の事が好きでそうしている。ただそれだけのことであるし、それが正也に対する返答だ。
 ただ、このニュアンスが彼に届くだろうか。
「……その、御免。鞠乃ちゃんがそこまで怖がってたなんて知らなかった。適当なこと言って悪かった」
 今更理解を示されても、コレ以上正也に何かを頼もうとは思わない。尤も、知る由もない事実を突き付けて意地悪するつもりではないのだが。
「まぁ、私も正也が知ってるはずないことをダシに言い過ぎたわ。このことがあるから御免なさい、っていうのもきっと失礼よね」
 断り方が分からない。この気持ちを説明するのに何と言えばいいのだろう。
 正也が鞠乃をそう称したように、私も率直に、貴方が恋愛対象でないと言えれば楽なのだが。
「その、申し訳ないんだけど、何て言うかな……」
「じゃあ、その話を聞いた上で、もう一度言わせてくれないか」
「えっ」
「二人で、鞠乃ちゃんを見守っていかないか」
 こちらの意向が欠片も伝わっていない提案。掌を返したように正対する正也の言い分。
「今度はしっかり鞠乃ちゃんを面倒見る。志弦があの子をそこまで重く引きずっているなら、その半分を俺に背負わせてくれ」
 そこまで聞いて。
 飽くまで冷静に穏便に話を収めようとした私の理性にヒビが入った。
「引きずってなんて」
「うん?」
「引きずってなんて、重く感じてなんていないわよっ!」
 婉曲的に鞠乃を重荷扱いした彼の台詞に腸が煮えくり返る。ココが観覧車内部だということも忘れて思わず立ち上がって啖呵を切るほどには、感情を逆撫でする言葉だった。
「誰が鞠乃を重いだとか言ったの?! 彼女のことを引きずっている? 違うわよ!」
「し、志弦! 落ち着け――」
「落ち着いていられるわけないじゃない!」
 個室がキリキリと嫌な金属音を立ててゆっくりと揺れている。段々地面に近付いているとは言え高度があるため万一のことがあればひとたまりもないが、恐怖や抑制心は微塵も湧かなかった。
「私は約束したのよ! あの子と、鞠乃とずっと一緒にいるって! 何があっても誰がどう言おうとも、私だけは絶対いなくならないからって、ずっとずっと昔から約束してるのよ!」
 それは遠い昔の、幼い頃の話のようで、私にとっては最も身近で記憶に新しい強烈な思い出。
 彼女と会って初めて交わした言葉と感情と同時、契られた契約である。
「あの子がああだからとか、私が必要とされたからだとか、庇護精神があったからとか、色んな理由は当時でも確かにあったわよ。だけど! そんなの関係なしに純粋に、私はあの子のことが……ッ――!」
「……し、づる?」
 勢い任せに口が滑りそうになって、慌てて噤んでしまう。
「私がそうしたくて、私が勝手に鞠乃の近くにいるのよ! いてあげている、じゃないの! 鞠乃がいるところに私がいるの!」
 それでも、その勢いを削ぎきれずに、直接的な表現は免れたとはいえ、間接的に私の本心が吐露される形になってしまっていた。深読みされればバレてもおかしくない。
 ココまで言い切ってしまう私の浅はかさは単に自制心を崩された自分の過敏な神経が悪かった。それを棚に上げて言うようだが、誰に対しても、たとえそれが鞠乃と同じく長い時間を共に過ごしてきた幼馴染が相手でも、私の鞠乃への気持ちは絶対に打ち明けてはいけないモノだったのに。
 この男は、私にそれを言わせた。
「……鞠乃が、その大昔の約束をどう受け取ってるかは、分からないけど」
 その時から換算すれば、私の片思いは何年来になるのだろう。
 何もかもを言い放ち切った後も収まりがつかなくて、上がった肩や息が下がらなかった。
「わ、悪かった志弦。言葉の、言葉のあやだ」
「今更そんな……!」
「落ち着いてくれ。俺も言い方間違えただけだ。ただ、志弦と一緒に、鞠乃ちゃんの後ろに付いていてあげたいって、そう思っただけで……」
 正也の発言の真意なんて分からない。
 だけれども、その音を聞いた時。正也という人間の口から発せられた男のモノの声を耳にした時。
 ふと、散咲さんの言った言葉がフラッシュバックしてきた。
「……もう、やめろ」
 同時に湧き起こるのは、散咲さんから浴びせられた台詞に戦慄した時の、おぞましいまでの嫌悪感、全身に鳥肌が立つ程の寒気、妄想のくせ生々しい視覚的、聴覚的刺激とそれに伴う嘔吐感。
 彼は紛れもなくれっきとした男性である。そしてそれが正しい以上、散咲さんの忠告を適合させるに値する存在だ。
 今はそれに加え、私のみならず鞠乃までも、と二者を一人でモノにするような下衆の思考の持ち主なのではという被害妄想レベルの警鐘まで頭に鳴り響く状態だった。
 そう考え始めると正也が急に汚らわしく思えてきて、たまらず語調も荒くなってくる。
「何も頼まないし、期待しないわよ」
「違う、俺から頼みたいんだ。お前と一緒だ。俺も何かしたい、鞠乃ちゃんのために何かしたいってだけだ!」
「うるさいッ!」
 気が付いたら、観覧車の座席に乗りあげて、正也から可能な限り距離を取ろうとする自分がいた。
「志弦、落ち着けって! お前らしくもない……危ないから降りてくれ」
 目の前の人間が、十数年と見慣れてきた取り立てて特徴のない平凡な顔つきの人間が、正也が正也じゃないように見える。
「近寄らないで……ッ! 寄るんじゃないッ!」
 伸びてきた手を渾身の力で弾き返す。ジェットコースターの時のような無意識の反射行動でなく、自分の確固たる意志で、拒絶の心で叩き落す。
「志弦……!」
「触るなぁッ!」
 なおも立ち上がるその腕を、何度も、何度も何度も、手を使い足を使い退けて。隅へ身体を寄せる。頭の芯から顔の中心まで熱くて、鼻筋と頬の皮膚が痺れるように引きつって、何が何だか分からないままそうしている。
 そうしたいからそうする、という駄々っ子のような本能的行動。それを取り繕いもせず実行に移しているのは、きっと心の底から今の自分を肯定しているからであろう。
 やがて力が抜けたみたいにだらりとぶら下がったきりになった正也の腕は、背の後ろへなりを潜めて、持ち主である当人は絶望しきったような表情でこちらを見上げていた。
 今の私には眼下で呆然と立ち尽くすそんな生き物が、人間でなく獣にしか見えなかった。
 観覧車が地面につくまで、私が一方的に睨みつけ正也が生気のない目で遠くを見る構図が続き、救世主にすら見える遊園地の職員にドアを開けてもらった瞬間、地獄のようだった箱から逃げ出すように外へ出て、周囲の人間の視線もよそにただひたすら無心になって、どこへともつかず走った。

     

 電車の中で乗り合わせてしまうのも困りモノなので、駅の方面へは向かわなかった。
 後ろから追いかけられる気配はなかったのだが、自然と足がそちらを避けるように動いていた。
 しばらく、正也とは顔を合わせられないだろう。力の抜けきった目付きを思い出して、いくら個人的感情や理由が何であれやり過ぎたことを認識する。
 でも、どうすればよかったと言うのだ。
 簡単な話である。受け入れればよかったのだ。私が正也と付き合うことを承諾すれば何もかも丸く収まったこと。鞠乃に対しても距離を置けるだろうし、私の性癖改善も見込めたかもしれない。
 元々、男でも作ればいいのではと散咲さんに進言されたのは私なのだ。そのアドバイス通りになる彼からの告白は、利害関係を言えば最適、最上に近かった。
 尤も、飽くまで本心を隠して円滑な交流関係をそのままにしつつ損得勘定した場合の話でしかない。そして私は、好きでもない人と付き合える程に全てを損益で判断して行動する機械的な人間ではないし、本心を隠して恋愛をしようだなんて強かさは持ち合わせていない。
 そして昂った感情の赴くまま言葉を吐き散らして、こうだ。
「はっ……はぁっ」
 走っていた足も、息切れで段々と止まってくる。激しく動かすために回されていたエネルギーがやり場を失って、途端にそれらが頭へと送られ始めた。
 罰が当たった。脳がそんな考えでびっしりと一色に染まっていく。
 正也は私の頼みを、私に近づけるかもしれないという希望に変換して請け負ったと言った。それは言い方を変えれば、鞠乃を私とのコネクションに、つまり道具に使ったということになる。
 私が正也にああまで怒り心頭したのはコレが原因である。鞠乃を重荷と感じていると勘違いしたのもそうだが、彼のその発言に、私は過去鞠乃を忌避して、他の家を陥れるための道具扱いした大人たちとの共通点を見出してしまった。正也もあいつらと同じなんだと、絶対許せない奴らと一緒なんだと瞬間的にそう思ってしまった。
 その話を鞠乃本人がよりによって正也から直接聞いていて、かつ甘んじてそれを受け入れていたというのがまた悲しい。昔からそんな見なされ方しか受けてなくて、誰も鞠乃自身を見てあげる人がいなくて、切なくて腹立たしくて、それで、逆上した。
 だが、当の自分はどうなのだ。
 他人のバッシングばかりしている自分は非の一つもないとでも言うのか。
 答えは否で、寧ろ誰よりも罪深い自覚さえ芽生えてきている。
 正也にほぼ罵声に近い暴言を浴びせた時は、正直鞠乃のことより我が身のことの方に思考の比重が移っていた。結局最終的に主観第一になった自分にも辟易としたし、私が彼を拒絶した二つの理由を相手に押し付けていたのはどこの誰だろうか。正也は鞠乃を恋愛対象として見ていないといった。つい先程判明した事実だったとは言え、その好きでもない相手に本心を隠しつつ付き合うよう依頼したのは誰だったか。
 何よりも、鞠乃を自分のところに置くのを嫌がってたらい回しにした大人たちと全く同じことをした人間は、当人のことを思ってと偽りつつ自分のところから遠ざけた人間はどこの誰だ。
 鞠乃のことを何一つ分かってないと言い放った手前、誰よりも理解してあげているつもりの私は一方で彼女に嫉妬して、夜の暗闇に一人置いて、最愛の人を泣かせて。それを理由に正也を貶す自分の、棚上げの何と甚だしいことか。
 自分批難してきたそれらのことを、誰が最たる程度でやっているのか理解しているのかと。
「あ……あぁ」
 歩行へとシフトした足だが、緩やかな足取りも朧気になって次第に地面を踏み締める気力も消えかけてくる。
 またさらに、今件でより鮮明になった私の異常性。
 私は本当に男の人を受け付けない性質なんだろうか。仮に、利害やそれまでの関係など全ての前提をなしに、純粋にごく普通に彼から告白されたとして、それでも私は正也を拒んだだろうか。それとも?
 尤もそれも、答えは自分が一番よく分かっている。
「あああああぁぁぁぁあああぁあぁぁぁぁっっ!」
 立つ気力もなくなって、心と共に膝が折れた。
 ズボン越しに、コンクリートとは違うザラザラした感触を感じる。手をついて、砂地であることが分かった。
 瞼に溜まった雫が頬に落ちるのが嫌で、目だけを上に向けて周りを見渡すと、歪んだ視界でもここら一帯が道路から切り離された一つの空間であることが掴める。当て所なく、なるように任せて走ってきたらどうやら公園に出たらしかった。狭い一角に遊具が何個かあるのが分かる。
 頭の向きはそのままに、身体だけ立ち上がらせる。掌に付いた砂を落として取り出したのは、携帯だった。
 画面を見もせずに操作して、電話帳から目当ての相手の番号を導き出す。やり慣れた動作だ。ダイヤルして、耳に押し当てる。
『あ、志弦ちゃん?!』
 呼び出し音が二度なるかどうかというぐらいで、向こうが出た。
『もー随分時間かかったねぇ。まさやん意外と意気地なし? 思い切り悪いのかな。ね、ね?』
「鞠乃」
『まーまーま、早く二人で帰っておいでよ。今日の晩ご飯、絶対美味しいからさ!』
 何が起きたのか、そしてどうなったのか分かりきったかのように携帯が喋り出す。そこに疑いの色はなく、自分の想定した通りに事が運ばれたと絶対の自信を持って思い込んでいる。
 その声を聞いて、またやるせなくなって、たまらず申し訳なくなってきて、
「鞠乃……御免」
『今日はお祝い日だねー記念日になるねー! 皆で食べきれないぐらい作っちゃってるよもぅ』
「御免、鞠乃御免」
『あとでお話いっぱい聞かせ……うん?』
「御免……ごめん、ね……」
『志弦ちゃん? ……志弦ちゃん?!』
 それだけ言って、通話を切る。すかさず震える携帯を、見もせずに今度は電源を落とした。
 私は、あの子に何てことをしたのだろう。謝っても謝りきれない。後悔と罪悪感が胸を締め付けて、どこかにいなくなりたい。消えてしまいたい。
 少なくとも今日は、合わせる顔がない。言葉も音も発しなくなった携帯をポケットに戻して、ゆらゆらと園内へ進んでいく。団地の子どもが遊ぶような小さい場所で、私の寮の近くにも似たようなところがある。コレといった特徴もなく、お約束の遊具が多少ある程度。
 その内のブランコに腰を下ろす。無意識的に、座れるようなモノに真っ先に足が向かった。
 空はとっくに真っ暗で、さっきの鞠乃の言葉からしても、遊園地から出て結構な時間が経ったのが伺える。雲がほとんどなく星がちらちらと光る空を見上げて、私の心とは相反した様相に、惨めな気持ちがより一層際立つ。共通するのはその黒さだけで、思考がどこまでも深い暗闇の中へ沈んでいく。
 考えれば考える程、上手く行かなかった。余計な事をした、というよりはやること全てが間違いだった、が表現として適切か。そう、何もしなければよかったのだ。
 彼女のことを思って、そして自分の保身に必死になって、私達二人だけでなく正也も巻き込んで、誰もいい思いをしなかった。それどころか今までの関係も全部壊れてしまう程のことをしでかして、事態が好転どころか転覆した勢いで何もかもが崩壊である。
 人を裏で動かしていたような背徳感、欺いて思い通りに働いてもらうよう仕向けた罪悪感などはあった。だけど全部鞠乃の事を思ってと自分を言い聞かせてやってきた。それが全て裏目に出たのだ。人間として最低なことをして、最悪な結果を引き出して、誰に顔向けもできない。
 ココまで上手く行かないだなんて。人を思うようにするのがココまで難しいだなんて。言い訳のような言葉が頭から湧いてくる自分が恨めしく、醜く見える。謝りたい一心ならばそんな気持ちなど起こらないはずだろうに、自分が悪いのは明白なのに、それを受け止めきれずなにかやり場を探している私が最低の人間に思える。
 色んな感情で脳がいっぱいになって、誰にどう謝ればいいとか落ち着かない心をどう処理すればいいとか、まず何からすべきなのかさえ分からなくなる。そして次第に、やるべき事の膨大さに辟易としてきて、何をどう取り繕っても取り返しはつかないだろうことに気付き始めて、どれもこれもが嫌になって、何をする気力さえなくなってきた。
 何もしたくない。考えたくもない。消えていなくなってしまいたい。いっそのこと――。
 全部自分のせいなのに被虐的な思考が進んで、耐え切れなかった涙が目からこぼれ落ちた。
「……うっ、く」
 一度そうなると、堰を切ったように止まらなくなる。
「ひぐっ……うぅぅ……」
 まず眼鏡に浮かんだ雫がボタボタと足に落ちれば、頬をじっくり伝って顎まで滴るのもある。
 主犯の私が、諸悪の根源の私が泣いていい権利なんてあるはずないのに、そう思っても止まらないモノはある。今の行動理念は感情の赴くままだった。
「うっ……まり、まりの……まりのぉ……っ」
 この期に及んでなお彼女の名を呟く事も、きっと私には許されないのだろう。
「鞠乃っ……鞠乃……えぅっ……ぅええぇぇっ……」
 彼女の事を思って、というより、彼女を求めてその名を延々と呼び続ける。そこには弱々しい鞠乃を気遣う保護者としての私でなく、一人の愚かしい人間として、許しを請い慰めを求め苦しみを取り除いてほしいと望む、汚らしい自分がいた。
 傍から見れば、どう映ったものだか。少なくとも私が今の自分を見下ろして、同情の余地は一切ないと断言できる。そしてきっと、何も知らない赤の他人が公園で一人泣いている女の人を見たら、訝しんで近づこうとはしないだろうなと思う。惨めにもおかしくも見えるかもしれない。
「……あの、どうか、なさいましたか?」
 そうだろうに、私の嗚咽以外に人の声が入り込んできた。
「こんなところで、お一人で、その、泣いていたように見えましたけど……」
「……」
 とても綺麗な、澄んだ声だった。聞いていて心地の良いハイトーンで、不快感なくすんなりと頭に入ってくる。バスガイドやアナウンサーみたいな、とても洗練された声。
「もう夜になって暗いですし、女性一人でこんな場所にいては危ないですよ」
 仕事上心象をよくするために作ったような、所謂営業トークみたいなモノだが、今はそんな人の気遣いさえ有り難く、喜ばしく感じた。
「……その、何があったかは存じませんが、そろそろお帰りに、でなければせめて、場所を変えたりとか……」
「……ふ」
「或いは、通りすがりの私ですけれども、何があったか、お話なさってはいかがですか?」
 突飛な提案だと思う。余程の物好きでなければこんなところで泣き腫らしている得体の知れない人間なんて無視してしまうのが普通だ。
 だが、相手が相手なら私も私である。そう声を掛けられて、とても嬉しかった。救われた気がした。
「お力になれるかは分かりませんが、誰かに話して落ち着いたり、すっきりすることも、あるかと思いますよ?」
「……えぇ。そうですね。ありがとうございます……なんてね」
「ホントな」
「……久々に聞いたわ、貴方の、その声」
 腕で目尻を拭いて、努めて平然とした顔で相手を見上げる。コレが今の私に張れる精一杯の虚勢だった。
「分かってんならさっさと顔上げろや馬鹿が」
「御免なさい。ちょっと……ね」
「は。悟り開いた仏でも傷心のお姫様になれんだな」
 ラジオやテレビで聞くような綺麗な声が、私が声を発した途端聞き覚えのある人のモノに変化した。
 ブランコに揺れる私の目の前には、暗がりでも分かるジト目でこちらを見下ろしている女性が。
 雨崎散咲がそこにいた。
 学校で見る時とは違い、今は女生徒らしくスカートを履き、常にネクタイが下がっている首元にはリボンが付いている。ただその口調その語調から散咲さんで間違いはない。
「その格好……」
「あー? あー。そうだよ」
 彼女がこのような服装をする場面はほぼ限られる。そして今その出で立ちでいるということは、その限定的場面の前後である証拠だ。
「さっき相手した野郎がとんだスカシでよ。パッと見持ってそうだから本番までOKしてやったんだが、ヤる前に払うよう言ったら渋りやがって、締め上げたら財布カラでやんの。しゃーねーからシバいて有り金全部かっぱらって捨ててきた」
「あの……そこまで聞いてないわ……」
「てめーも気ぃ付けんだぜ。こんな公園、女一人でうろつく場所じゃねーよ」
 こちらの主張も虚しく喋りたいことを憚らず喋る。ただ忠告は尤もで、私は意図せず内にとんでもないところへ逃げ込んでしまっていたらしい。
 本人からのいらないカミングアウト通り、散咲さんと言う人間はそういう行為を夜な夜なこなす人種である。
 ――援助交際。以前司書室で言っていた、お金のため仕方なしにやっていることの正体。日頃堂々と生きているように見える散咲さんが唯一抱える秘め事だ。
 周囲を見渡してみると、公園を縁取る木々のさらに向こうに、目が痛くなりそうな発色をしてる建物が多く見える。この光に気づかなかった愚鈍な自分に嫌気が差した。
「つーかだな、何でこんなとこにいんだよ」
「……」
「そーいや遊園地だかってガキっぽいとこに行くって言ってた日、今日だったな」
「……えぇ」
「ほーぅ」
 聡明な散咲さんだから恐らく何か納得がいったのだろう。恥ずかしながら泣き顔まで見られているのだ。
「事情はどうあれ感心しねーな。下衆どもに見つかったらどーにもなんねーぞ」
「えぇ。そうね……」
「……ちっ。オイ目ぇ覚まさねーか」
 乱雑に肩を揺さぶられる。あまり働かせないように思考を止めていた脳が無理矢理引きずり出される感じがしてとても嫌だ。
 惨めだったり汚かったり最低だったり、また、また……泣きそうになる。
「ホラ。可哀想なお姫様にご献上だ」
 言って、散咲さんは手に提げていたコンビニ袋から缶を取り出した。それを私の頬に持ってきて、
「冷たっ」
「くれてやる。何も考えず無心で一気に飲み干してみな。ある程度気が紛れんぜ」
 冷えた刺激が、沈んだ頭を幾分か持ち上げてくれた気がした。そして散咲さんの進言が何となしに魅力的に感じる。なりふり構わず、何か単純な行動に夢中になってみるのもいいかも知れない。
 そして言われた通り缶のプルタブを開ける。プシュ、という音が立ったのを聞く分、どうやら炭酸のようだ。全部一気は苦しいので半分ぐらいまでの心持ちで、顔を持ち上げて口の中に流し込むように缶を傾けた。
「……?」
 今まで飲んだことのない、初めて感じる味わいだ。どこかの新製品だろうか。第一印象は清涼飲料水なのだが、その枠では括りきれない何か私の知らない風味がある。いや、味というより感覚的なところに強く異変を感じる。目頭や鼻筋がキュウと締め付けられるような、そして頭の芯と体幹が緩くなって、姿勢を保つのが面倒くさくなるような脱力感が襲ってきた。
 たまらず崩折れたくなってきて、そこでようやく缶を口から離す。自分の身に何が起きたのか、今の状態を冷静に分析して、話題の上だけで聞いたことのある症例に思い当たった。
「え、ちょっとコレって」
 暗がりの下だったのでその缶が何の飲み物かラベルすら見えず、確認もしないまま口をつけたのだが、それがとんでもない過ちだったことにようやく気付いた。とても洒落たイメージ図に隠れるようにして小さく『アルコール』と書かれている。
「お、お酒じゃないっ!」
「いい飲みっぷりじゃねーか。驚いてみせなくていいぜ。どうも初めてじゃねーな」
「飲んだことないわよこんなもの! コレだって、私まだ未成年――」
「ほーぅ? まー所詮缶チューハイなんて水と大差ねーしな。こんぐらい普通か」
 相変わらず私の言うことは耳に入らないようで、さっと手にある缶を持って行ってしまう。一缶しか買ってなかったのだろう。恐らく憂さ晴らしのために自分用としてだ。
 煽る手付きも慣れたもので、日常的に飲んでいるのではとさえ思えてくる。年齢のことを言えば確実に違反だろうはずなのに、服装が高校の制服であることを除けばその姿がとても様になっていて、散咲さんらしくもあって、思わずそんな彼女をぼんやりと見つめていた。
 呆けた表情でもしていただろうか。私の顔を見るなりいたずらっぽく笑って、缶からまた一口煽り、ただでさえ伏し目がちな目をさらに細めてこちらに近づいてきて、
「つ、ぷっ」
「……」
「――?!」
 散咲さんと私の唇が重なって、途端こちらの方へ液体が流れこんできた。
 何事か一瞬訳が分からなくなって、先程自分もお酒を飲んだせいか判断力が鈍っていて、抵抗するという選択肢が頭の中から消えていた。そのまま散咲さんを突き放すことも、口へ入ってきた飲み物を吐き出すこともできず、されるがまま受け入れてしまう。
「ん、ぅむっ、ふ」
「だりーことがあった時。全部がウザくなってぶん投げたくなった時。或いは何もしたくねーって時」
「……」
「その他色々、やってらんなくなったら飲むモンだ。覚えとくといい」
「……んくっ、そ、そんなこと、教えてくれなくていいわよ……」
 酷い目に遭った。
 というと散咲さんに失礼だが、未成年飲酒に加えこんな変態めいたことまでされるだなんて。
 彼女の唐突な行動を受けて私はどうしても、鞠乃の事を思い描かずにはいられなかった。
「まだ……あの子ともしたことないのに……」
「乙女のファーストキスを奪って悪かったな」
「全然悪びれてない様子だけど」
「望む相手じゃねーかもしんねーが、普通じゃ満たせねー欲望に報いてやったんだ。感謝しな」
 理不尽なまでに横暴な言い分だった。
 そして彼女が横暴なのは口上だけではない。こんなことされても許してしまおうと思わせるほどの、そしてこんなおかしいことをやっても別段突飛に感じない散咲さんの人となりが、常識とか人の目とか偏見とか吹き飛ばしてしまうまでの威力を持っている。
 どんなことでも平然とやってのける目の前の浮世離れした変わり者が、今とても卑怯に見えた。
 その気持ちはきっと、羨ましさと憧憬が入り交じったものなのだろう。
「んだよ。その恨めしそうな目」
「実際恨めしいの。笑ってよ」
「めんどくっせーなァ……」
 呆れたように息をついて、また缶を差し出してきた。
「自分の事は自分で笑うんだな。オラ、さっさと飲み切っちまえ」
「いや、だってそれお酒」
「またアレされてーのか」
 脅し方まで卑怯そのものである。そう言われてしまったら受け取るしかない。
 監視までされたら、飲む気がなくともやらなくてはいけないではないか。
 目を瞑って、意を決して、缶の中身を口に運んだ。
「っぷは……っ。散咲さん」
「あ?」
「また泣きそう」
「嘘だろオイやめろよ」
「だって……だってね……?」
「冗談言ってんじゃねー、甘えてんじゃねーぞ離れやがれ」
 ブランコに座りながら散咲さんの手をひしと握る。正確には指が一つもかみ合っておらず、五指をまとめて掴んでるというのが適切だが。
 こうしてみると、意外にも散咲さんの手が小さいことが分かる。背は私よりは低いといえ確実に平均以上な高さなのに。
 こんな小さな手でどうやって男を払い除けてるのだろうか。そして男を力で押し返せるなら、私なんかが縋ったって簡単にあしらえるだろうに、どうしてそうしないのだろうか。変に細かなことばかり気になった。
「あーうぜぇな……」
「飲ませたのは散咲さんじゃない……」
「あー分かった分かった」
 紐を引くように腕をグイグイとしていると、根負けしたように向こうがそう言った。私の腕を振り払い、ブランコを取り囲むように付けられた背の低い鉄柵にもたれかかる。
「こんなただの水でも酔っ払ったなら、その勢いで何もかも吐いちまえ。適当には聞いてやるよ」
 今は、散咲さんのこうした遠回しの気遣いが何よりもありがたいと感じた。

     

 全部打ち明けてから、劣等感が増長したのは言うまでもなく。
 一人で当て所なく走りまわっていた時とは違い、今は目の前に散咲さんがいる。羨望するまでの我の強さと、周囲の目など気にも留めない胆力を持つ彼女と比べ、自分の何と器量の小さいことか。一連の事件に関しての自責の念もさることながら、そういった私の人間的な部分での惨めさが、口に出して表現することでより際立ってしまう。
 正也の男性的な父性のことまで引き合いに出して何もかも喋ってしまう自分が、とても幼稚に思えた。よさそうなモノ全てを欲しがり、手に入らないと分かると駄々をこねる子供そのものだ。
 そんな子供に現実が甘くないのは、年を取ってからも変わらない。と言うのも、
「じゃ、変わっか? 俺とおめーでよ」
 突拍子もないことを言う散咲さんだが、その提案が人間の限界を超え実現可能であれば、短絡的ではあるが最も簡単で手っ取り早い解決方法である。そう、私が散咲さんや正也のように、或いはそのものになればいいだけの話。
 だがそんな事は無理なのだ。生物学的なことを言えばDNAだとか、生育環境による性格の違いだとか、個人をその人たらしめる要素と言うのはあげていけばキリがない。各々固有の個性を、他人と同化させるなんてことは到底できない。
 だから人は羨むのだ。自分には持ち得ない魅力に嫉妬してしまう。その感情は稚拙そのものだ。
「優等生の朝川さんはよくお分かりになっておいでで。まー可能だったとしても俺になりたいって奴はいねーだろーけどよ」
「申し訳ないけど、そこは同意するわ」
「ケッ、だったら物欲しそうな目で人を見るのやめやがれ」
 分かってはいても。それでも感じてしまう自己の矮小さを打ち消せるわけではない。
「シケた顔しやがって……ココまで言ってまだわかんねーのか」
「何、が?」
「おめーじゃ俺やその男にはなれねーよ。そしてその逆もそーだ。俺はおめーにはなれねー」
 そのぐらいのこと、既に気づいている。今までの話は私のみでなく、誰にも当てはまる。
 ただ、その事実が同時に導き出す別の結論にまでは頭が回らなかった。
「つまりどういうことか。藤田をそういう人間にしたのも、藤田とそういう関係になったのも、全部てめーにしかできなかったことだってんだ」
「……」
 言われてみればそうだ。今の鞠乃がいるのは私がずっと傍にいたからに他ならない。私の代わりに正也や散咲さんがいてあげたとしたら、彼女も相応に違う人生を歩んでいただろう。
 その思考に至って、私はその二人を羨ましがっているのだから。
「……責め苦にあった気分。鞠乃がああなのも全部私のせいってことでしょ?」
「それも言いてぇところだな。自分のケツは自分で拭けや。飽くまで責め苦を感じるならな」
「分かってる。分かってるのよ……。私は二人みたいにはなれない。鞠乃がまだ夜が怖いのも私のせい。だけど……だからこそ……もしもとか、仮定の話が辛い……」
 いくら非現実だと理解していても、反省、後悔という形でそういうIFの話を考えてしまう。
「何でもてめーだけで片付けようとすんじゃねーよ。じゃあその仮定ってやつでお前が俺だったらどうなってたってんだ」
「分からない。だけどきっと、私といるよりかはマシなんじゃないな……」
「一側面だけ見て単細胞みてーな答え出されちゃ、取り上げられた俺もたまったもんじゃねー。だから俺自身がどうなっただろうか事細かに教えてやるよ。言いな。いつどこでどう会って、今までどんな人生あいつとつるんで送ってきたかをよ」
 別にひた隠すようなことではない。
 だけれども、鞠乃の体裁や、明かした際の私たちを見る目が変わりそうな気がして、私と彼女の生い立ちは幼馴染だった正也を除きこれまで誰にも言ったことはない。
 ただ、今自分自身の精神が酷くやられているからか、散咲さんの言葉運びが上手いからか、自然と口から零れるように、寧ろ私の方から話したいと思わされてしまった。

     

 具体的に、鞠乃と一緒に暮らし始めたのは小学二年生からのことである。
 単純に考えて生涯の半分以上を彼女と暮らしてきたのだ。追って話している内にその事実に気付き、長いものだな、と感慨が起きた。
「随分なげーじゃねーか」
「まぁ、幼馴染とかじゃなくもうずっと同居してたから、意外に思われても仕方ないかな」
「いつ見ても藤田がてめーにべったりなのにゃー納得いったよ。しっかし」
 一つため息をついて、吐き出すように。
「あいつが昔は、まるで人形とはよ」
「うん……そっちの方が意外でしょうね」
 いつもにこにこして快活な喋り方をする鞠乃が、過去に凄絶な事故に遭って心に傷を負い、しばらく言葉も発せぬほど苦しんでいたとは、誰も思わないだろう。
 ドラマにはよくあるような筋書きを、鞠乃は地で体験してきた。そのまま精神的に壊れてしまってもおかしくはないぐらいの事故だったのに、彼女は今日に至り、周囲の女子高校生と比べても何ら変わりない普通の子として生きている。
 ただの一点、夜が未だ怖いということを除き。
「昼間は何一つ喋んねーし、夜になりゃ発狂すっとか、俺ならウザすぎて捨ててたな」
「私も最初は……正直、怖かった」
「たりめーだ。藤田もそーだがてめーも小二だったんだろ? 並のガキなら嫌がるわ」
 昔のことだから自分でもよく覚えていない。ただ、放っておけない儚さとか、或いは魅力とか、そんなモノが鞠乃には、当時からあったのかもしれなかった。
「つーかそういうのも全部医者の仕事じゃねーの。精神科に連れてったりとかしなかったのかよ」
「匙を投げられたのよ。初めての症例で、どう手のつけようもなかったんだったとか」
「あー無理ねーかもな。で、巡り巡ってお前のところに来たわけだ」
「……えぇ」
 言うなれば、たらい回しの挙句行き着いた先の処分場。
 誰からも疎まれ愛されず、事情の知らない私の家へ流されて来た。その経緯は哀れ極まりない。
「何もできねーはずのてめーの家に運ばれて、結果ああまで回復か。色々滅茶苦茶じゃねーか」
 両親も、また鞠乃を知る親族も、思わぬ好転に目を剥いたことだろう。
 医者にすら見放された病人が、同年代の子供と住まわせることで復調に向かったのだから驚く他ない。
 私としては、特別なことをやったつもりはこれっぽっちもないのだが。
「カスな大人共にゃできなかったことをてめーがやれた。てめーが藤田をああまで社会復帰させてやったわけだろ? どこに不満があんだよ」
「……どうなのかな」
 社会復帰、という言葉で今の鞠乃を測ろうとするとき、どうしても引っかかってしまう。
 夜も一人で出歩けない高校生は、社会に適合していると言えるのだろうか。日常生活にも支障があるのを認めざるを得ない症状が未だ残っているのに、いざ学校を抜け社会に出た際、そのハンデを背負った人間が他人と遜色ないと評価されるだろうか。
「ただ私は、問題を先送りにしてきただけな気がするの」
 いずれは直面する必要があった鞠乃が持つトラウマを、彼女に感じさせないことで、私が補うことで見ないようにしてきた。そして今になって困り果ててる様なのだ。
 彼女にだって嫌な記憶と戦う意志があった。それに気付いてあげられずいつまでも過保護でいた私が、鞠乃の覚悟をもフイにした。
 結局、私は何もしてやれなかったのだ。
「鞠乃には申し訳ないけど、あの子があそこまで強いと思ってなかった。自分と一緒に育ってきてるからあの子も大人になっているのは当然なのに、私だけが大人になってるつもりでいた。それは違うと鞠乃本人から否定された気がして、慌てたみたいに正也も引きこんで色んなことやらかしちゃって……」
 私の方が子供みたいだ。
 そして実際、そうだった。彼女のことが好きだと自覚し始めてから、彼女のためを装って、自分がそうしていたいからずっと近くにいた。
 私の方が、鞠乃に依存していた。
「鞠乃にとっては、私みたいな存在も、疎ましいでしょうね……」
 鞠乃だって私に依存していた。誇張でも何でもなくそれは事実だと主張できる。
 しかしそれが自発的なモノかは疑問だ。暗くなれば黙っていても隣に来てくれる人がいて、いつまでもその行為が続くならそれに甘えてしまうのは普通のことだろう。無下に一人で帰りたいと言い出す利点もないのだから。
 必然、自主性も克己の意志も磨り減ってしまう。自分が努力する必要がないその環境に、さしずめ依存させられていたとでも言えようか。
「馬鹿言ってんじゃねーぞガキ」
 そう説明する私を、散咲さんは即座に否定した。言い出すタイミングを見計らっていたのか、こちらの言葉尻を切るような鋭さだった。
 鉄柵から腰を浮かし、私の目の前に立つ。片足を遊ばせ片腕は腰に添えられ、直線的な屹立とはとてもいいがたい体制なのだが、凛として力強い印象を受けた。
「てめーは少し客観ってのを覚えっといーかもな。目線がいっつもてめー基準なんだよ」
「……そうね。相手の側に立てないがために起きてしまったからね、今回のことは」
「そのご立派な思考力もいい加減うぜぇな……」
 苛立ったようにそう放つ散咲さんから、思わず目を背けてしまった。
 だが今日の散咲さんは言葉に反していやに粘る。落とした目線の先に、しゃがみ込んでこちらの顔を見上げる散咲さんの目があった。
「後ろ向きになんのもいーけどよ、俺にはそんなにまでなる理由がまるで分かんねーんだわ」
「だって……私は」
「てめーの大好きな仮定の話をしてやったほうがはえーか。今の話を聞いた上で、じゃあもしてめーが俺だったらってのを、俺の考えうる限りで言ってやるよ」
 彼女の目は、揺らぐことなくこちらの目をずっと射抜いていた。
「何も喋んねーし夜には狂うとかいう奴、まず相手にしねー。ガキん頃なんて覚えてねーから分かんねーが、俺もそんぐらいの年なら藤田を人間扱いしたかすら怪しいな」
「私だって、私だって最初、とても怖かった」
「んなモンよくてめーが手懐けたもんだな。感心すら」
「……」
 ほんの些細なきっかけだった。
 昼間に一言も喋らなかった子が、夜になって暗くなって、感情を爆発させた。
 そこにかすかな、人間的な部分を感じた。いくら人形みたいでも、やはり自分と同じ人間なんだと思った。
「で、そのまま心を開かれず小中学校生活だ。何も喋んねーのがいつも後ろにいるとか耐えられねーよ。俺なら邪険に扱うな。言って聞かねーなら突き飛ばす。逆に関係悪化してくわ」
「ずっと、何年も同じ家で生活するんだよ? 情とか」
「家ん中でもそーすんじゃねーの。少なくとも可愛らしいとも可哀想ともぜってー思わねーな」
 日を追うごとに私にべったりになってきて、いつも後ろにいる鞠乃が可愛らしかった。一人っ子だった私に、妹ができたみたいだった。
 自然と、自分がお姉さんだという感覚が芽生えてきて、庇護精神が湧いていた。
「まぁ俺じゃ例がわりーか。だが、正也って野郎でも上手くはいかねーだろーな」
「……分かるの?」
「分かんねーかよ。確かに俺と違って良識あるんなら、可愛がって人形から人間にしてやるのはそいつでもできっかもな」
「正也は本質的にはいい人なのよ。私もそう思う。正也なら」
「が、てめーの言うことが正しければ、その父性って奴で結局は藤田を突き放すことになる。ようやく人間に戻りかけて、そん時に手ぇ放されたら藤田はどうなるよ」
 べったりだった鞠乃を、私は除けようとしたことはなかった。鬱陶しいとも邪魔とも思わなかったし、この子は私が守ってあげなければ、という使命感めいたものもあった。
 もしその時。鞠乃が拠り所を欲していた時に、縋っていた人が遠ざかったなら。
「何もかもおじゃん。元通りだろーな」
 散咲さんの仮説を否定する材料は、私の記憶にはなかった。
「俺が思うに、藤田は極度の甘ちゃんだ。コレはてめーから話を聞く前、俺自身があいつを見てた時からそう思ってた。んな奴だから、欲しいのは厳しく律してくる野郎じゃなく、てめーみたいにいつでも甘やかしてくれるちょろい存在だったろうよ。簡単に想像つく」
 鞠乃が自分のトラウマを克服しようと思い始めたのは、いつ頃のことかは私でも知らない。もしかしたら小さい頃からずっとそう思っていたかもしれないし、つい最近ようやく、かもしれない。
 彼女からその傾向が見えたのも、そしてその意志を言葉として聞いたのも、ほんの数週間前が初めて。
 その意志が突発的なものだったとしたら。高校生になってようやく芽生えた自立心だったとしたら。
 小中学生時代、私の隣を歩く以外ありえない、なんて思っていたとしたら。
「自分を甘やかしてくれる、都合がいい女だったてめーの存在は、幸か不幸か藤田にはありがたかったろうよ」
 自分の存在が、鞠乃にとってありがたかった。そう言ってくれた散咲さんが、今は私にとって何よりもありがたかった。
 鞠乃は自分を必要としてくれていた。それに私でなければ駄目だった。そう思わせてくれる。
「甘やかすっつーとわりー意味に考えちまうかもしんねーが、逆にだな、甘やかしすぎたから藤田にも自覚が湧いたって考えることもできんだぜ。甘えっぱなしじゃやべー、って発想は、甘やかされてねーとできねー」
「私は……」
「言うなればだな」
 すく、と立ち上がる散咲さんに、私も視線を持ち上げた。
「てめーには俺や正也って野郎にはない母性ってのがあった。藤田が立ち直ったのはそれがあったからじゃねーのかよ。あいつがトラウマ治そうと思い始めたのも、てめーがずっと傍に付いてやったからじゃねーのかよ! あぁ?!」
 散咲さんは口が悪い。
 だが、本人の冷淡な性格からか、気だるげに相手をあしらうことはあっても、啖呵を切って大声張り上げて脅したりということは滅多にない。
 しかもその啖呵が、叱咤激励の意味が込められた、優しさに溢れた口上だったなんていうことは、私が知る以上過去に一度も聞いたことがない。
「散咲さん……私……っ」
「あー? まだ何か文句あんのかよ」
 上擦って、喉が震えていた。
「私っ……間違えてなかったのかな……?」
 視界には確かに散咲さんが入っているはずだ。
 そのはずなのに、まともに彼女の顔が網膜に映らなかった。
「……ケッ」
 私の顔を見下ろしていた散咲さんは、元の鉄柵へ戻り再びもたれかかった。
「間違いまくりだよ。女に溺れたのも、一人の野郎をボロクソにしたのも」
「……」
「だが、全部普通に考えた限りの話だ」
 目元にカーディガンを押し付け、滲む水気を吸い取らせてから、彼女を真っ直ぐに見つめる。
「女を好きになるような変態が普通の思考持ってるわきゃねーよなァ? 常識で考える必要なんててめーにはねーんじゃねーの。変態は変態らしく構えてろよ。正解だったって言ってみやがれ。もしくは、正解にできなかった時に、間違ってたやら後悔してるやら言え。どれも決めんのはてめーだ」
「……えぇ、そうね。えぇ」
 私の同意の言葉を聞いて、散咲さんはすぐ立ち上がり、暗がりの方へ歩き出した。
「分かったならこんなとこいつまでもいるんじゃねーよ。行くべき場所あんじゃねーの? 姫様の姫様は夜と一人が大変お嫌らしいぜ」
 公園に入ってきた入り口とは逆の方向へ足を向けている。裏側にも出口があるらしい。
 段々と遠ざかる散咲さんの背に、一つ声をかけた。
「散咲さん」
 言葉はなく、動きが止まるという、ただそれだけの反応。
「……ありがとう」
 彼女はやはり何も言わず、また奥の方へ歩き始めた。
 私を見送るでなく自ら立ち去るその行動は、私に歩を進めるのを催促しているようだった。
 自分以外に人影一つない寂れた、加え都心にある程度近い歓楽街に位置する公園に、いつまでも一人で佇んでいるわけにはいかない。
 つまり、帰らなければいけない。
 ジーンズのポケットの中にずっとしまっていた携帯を取り出し、電源を入れてみる。電話をかけようとしてメモリーの検索画面を出そうとした矢先、その相手の方から着信が来た。
 タイミングが良すぎる。私が電源を入れた瞬間丁度良くダイヤルしただなんてにわかには考えがたい。きっとあの子のことだ。私が電話を入れた後、延々と何回も呼び出していたに違いない。機械音声に繋がらない状態だと何度告げられても懲りずに、私が出るまでそうやっていたのだろう。
 そんな彼女を想像して、喉と胸の辺りがきゅぅ、と締め付けられたような感覚がした。申し訳なさと同時に、愛しさが心の底から湧き上がってくる。
 携帯を耳に持ってきて、通話ボタンを押して、
『何でぇ……何で繋がらないのぉ……?』
 全然繋がらない相手に対し一人無為に呟く鞠乃の声が聞こえた。
『やだよ……お願いだよ……繋がってよぉ……じゃなきゃ、帰ってきてよぉっ!』
「鞠乃」
『嫌ぁ……いや、やだぁ……うぅ……』
 こちらの声にも、呼び出し音が消えていることにも気付いていないらしい。
「ま、り、の!」
『……うぇ?』
 声が枯れすぎていて、うともえともつかない不思議な疑問符が電話越しから飛んできた。私が出るまでずっと届かない嗚咽を携帯に吐いていたと考えると、たまらず可哀想で仕方なくなる。
 そしてそれが、全部自分のせいであることに、深い罪悪感が、自分に対する怒りと共にせり上がってきた。
『うそ、えっ、繋がってる? 志弦ちゃん?!』
「……御免ね」
『志弦ちゃん! う、うぅ、えええぇぇぇぇん』
 耳元にけたたましい泣き声が響いた。
『御免なさいっ、志弦ちゃん……御免なさい、あたしが、変なこと、しちゃったからっ、ひくっ』
「……いいえ」
『あたしが余計なことしたからっ、ホントに、本当に御免、ああぁぁぁぅ』
 一通り散咲さんと話して、すっきりして冷静になれた私と違って、鞠乃は準錯乱状態になってしまってる。コレでは会話にならないな、と結論づけて、
「鞠乃、落ち着いて。鞠乃が謝ることなんて何もないんだから」
『だって……だってっ……』
「今からすぐ帰るから。帰ってから、私が家に着いてから、一緒に話そう? ね」
『……うん。うんっ……!』
 つい先程まで、鞠乃に合わせる顔がないと言っていた私がよく言うものである。
 ただ、電話に出た際の彼女の悲痛な訴えを聞いて、コレ以上あの子を一人置くことは到底できなかった。
 それからは鞠乃が少し落ち着くまで通話を切らないでおいて、軽く話しかけながら駅へ向かい、無事終電まであと二本というぐらいの便に乗れた。
 電車内でまで携帯を使うわけにはいかず、一時的とはいえ彼女と引き離されるこの時間が、素早く流れる風景に相反してとても長く感じられた。

     

 ほんの数駅先へ行くにも恐ろしく時間が掛かった気がして、降車してからは寮まで思い切り走った。
 遊園地から飛び出したときも、最後にはうずくまってしまう程走ったはずなのにまだ足が動くことに驚く。それほど気持ちが鞠乃へ向いているという証拠だろうか。
 どれにせよ急いているのは確かだったらしく、私たちの部屋のドア前に辿り着いたときは一瞬、何と言って入ったものか逡巡したのだが、心構えと準備ができていない内に、本能的にドアノブをひねった自分がいた。
「し、志弦ちゃん!」
「鞠乃……」
 部屋中全部の照明がつけられた室内の、玄関に続いた廊下のところで、鞠乃は膝を崩して座った状態で待っていた。出迎えの第一声は湿っていて、こちらを見上げる双眸にも雫が浮かんでいる。
 一度私の名を呼ぶ他には何も喋らず、急に立ち上がって、まだ靴も脱いでいない私に勢いよく抱きついてきた。胸元に押し付けてくる顔から、泣き声が振動と共に伝わってくる。
「ああぁぁぁんよかったああ! よかったよぉ、志弦ちゃん帰ってきてくれなかったら、どうしようかって、ひっぐ」
「御免、御免ね、鞠乃……ただいま」
「しづっ、志弦ちゃぁん……おかえり、おかえりなさい、ううぅ」
 ここ最近、鞠乃の泣き顔ばかり見ているな、と思う。
 その責任のほとんどが私にあることは自覚しているので、本当に御免なさい、と謝罪の意を込めて、ぎゅっと鞠乃の小さい身体を抱き留めていた。
 その権利があろうとなかろうと、わたしがそうしたいから。そうするだけである。
 ふわふわの癖毛を撫で付けて、押し付けられる頭を引き寄せるようにして、ようやく落ち着いた頃リビングまで一緒に歩いて行くと、食卓に並んだ、本来なら三人で食べる予定だった夕飯が目に映った。
 余程腕を振るったのだろう。ご馳走と言って過言ではない。たが時間が経ちすぎている。大皿に盛られたサラダはしょげているようにへたり込んでいて、豚肉入りの野菜炒めは匂いはあれど温かみがない。マグロの刺身はとても綺麗に並んでいるのに、ラップに覆われて水気が感じられない。キッチンへ目を移すと、炊飯器は保温のまま止まっており、鍋には味噌汁が上澄みを作っていた。
「あはは……無駄に、なっちゃったね」
 力なくそう呟く鞠乃。その言葉に胸が締め付けられ、思わずまた彼女を後ろから抱き寄せていた。
 私と正也は、鞠乃が想定した結果通りにはいかなかった。だからきっと彼女が料理を作っている最中に抱いていた祝福の気持ちは、どう報いることもできない。
 しかし、ここまでの料理を用意するにかなり身を入れてくれたに違いない。その強い思いだけは、せめて無駄にはしたくなかった。
「無駄なんかじゃないよ」
「……うん?」
「走ったり、泣いたりしてお腹空いちゃった。鞠乃も私が帰ってくるまで待っててくれたんだよね。今からご飯食べましょ、ね?」
「志弦ちゃん……うん――!」
 夜中に三人分は食べきれる自信はないが、残りは明日の弁当にしてもらえばいいだろう。
 お茶碗にご飯を盛る傍ら、野菜炒めはレンジで温め、味噌汁も火にかけて食事の準備を整える。キッチンに立ってると、熱を取り戻した味噌汁やレンジ内の野菜炒めから漂う匂いがよく感じられて、食欲をそそる。思えば遊園地で軽いジャンクフードを食べて以来、散咲さんのくれたアルコールの他に何も口にしていない。お腹も空いている訳である。
 一通り温めてからもう一度食卓へ戻すと、鞠乃がサラダにドレッシングをかけ終え、今は刺身用の醤油と小皿を出してきたところだった。
 いつもと同じ、向かい合わせの席に座って、
「いただきます」
 いつもは用意されない三人目の席は空のまま、二人揃っての、遅すぎる夕食となった。
 バイトがある日も、夜中に出かける用事がある日も、家に帰れば出してくれる食事と変わりなく、鞠乃の得意メニューである豚野菜炒めは何度も食べた同じ味で、味噌汁の濃さも、炊かれたご飯の硬さも普段通りで、それが何となくおかしい。
 今まで生きてきた中で一番の悲しい、そして馬鹿馬鹿しい出来事があった日なのに、鞠乃の作ってくれるご飯はやはり美味しかった。そのいつも通りがどれほどありがたいかが、今日この時だから余計際立って感じられて、
「……ふふ」
「う、うん? 志弦ちゃん?!」
「ふふ……何でも、何でもないわ」
「何でもないって、だって、目……!」
「ううん」
 首を振って否定するのに、鞠乃が凄い慌て始めてしまう。
「お、おぉぉぅ、よしよし、辛かったよね。ホラ、ホラホラ、泣いてもいいからさ、あ、あぁぅ」
 そろりと座椅子から立ち上がって、私の隣へ歩み寄ってくる。隣で膝立ちになった鞠乃が、私の頭を抱え込んできた。
「……鞠乃ぉ」
「や、やだなぁ志弦ちゃん……志弦ちゃんがそんな弱々しい声出してると、あたしの方まで……うぅ」
「御免……御免ね鞠乃……ありがと……」
「よ、よく分かんないけど、うん、お話はあとで聞くからさ、ね? う、うわあぁぁん」
 深夜に近い時間なのに、大の高校生二人が一つ屋根の下、なりふり構わず泣き崩れていた。
 〆

       

表紙

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Neetsha