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秋の夜長の蜃気楼
四.

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 四.
 すっきりしてくるといいよ、という鞠乃の勧めに従って、先にお風呂をいただくことになった。私が二度目の電話をしたときに予め湯を張っていてくれたようで、食器の片付けや洗浄も全部引き受けると言い出した彼女の好意にまるきり甘える形になってしまう。
 沸かされてから少し時間が経っているせいか、お湯が適度にぬるくなっていた。
「……ふぅ」
 じんわりと四肢に染み渡る温かさが心地よい。足先から身体を通って、痺れのような波が駆け抜けて、頭に到達すると同時、頭頂部から抜け出る感覚。身体中が脱力していく。
 頭を浴槽の縁に乗せて、身体中を湯の浮力に任せきる。肉体的緊張と同様、思考力まで湯煙に紛れ霧散していった感じがした。そのまま寝てしまいそうなほど気持ちいい。
 瞼が、降りてきた。
 持ち上げているのも億劫だったぐらいだ。一度降りてしまったものを開くのは更なる力と気力がいる。その労を振り絞るほどの意欲は、今の私にはなかった。
 寝てしまいそう、が寝てもいいかな、に気変わりしてきた。リビングには鞠乃がいる。あまりに長湯が過ぎたら不審に思って様子を見に来てくれるだろう。
 そうしてうつらうつらとしていると、
「お邪魔しまーす」
「……え、えっ、鞠乃?!」
「えへへー」
 何の前触れなしに、いきなり鞠乃が風呂場へ入ってきた。
「やだ、どうしたのよ急に! ノックぐらいしてきても」
「えーしたよーノック」
「嘘……」
 意識が飛んでいたのか全く耳に入ってこなかった。本当に寝る寸前のところまで来ていたらしい。
 突然の出来事に狼狽する私をよそに、何も不思議がることなくシャワーを浴び始める鞠乃。
「あたしも入れるかな?」
「や……流石にもう厳しいんじゃ……」
「えいっ」
 向かい合わせが難しいなら、とでも言うのか。身体の向きを私と同じにして、私が伸ばした足の間に鞠乃も足を突っ込み、背中からこちらへ寄りかかるようにして入ってきた。
「わっ」
 お湯が盛大に跳ね上がる。私の顔へ眠気を覚ましてくれる勢いで波が押し寄せ、バスタブからは鞠乃一人分のお湯が溢れ、外へ流れ出した。
 彼女の大胆な行動に、呆気に取られる半分、緊張と興奮が残りの感情を占めていた。
「ふふん、いけんじゃん」
「ま、りの……?」
 何故か得意げに悠々とくつろぐ鞠乃。腕は浴槽の縁、腰は私のそれの上、上半身は完全に私の身体に預けきってる。まるで背もたれにしか見なしてないかのようだ。
 確かに体格差と風呂場の規模を鑑みれば、この体制なら二人で入れるし、逆にこの体制でしか入れない。ただ、どうして先客がいるお風呂に飛び込んできたのか。
「久しぶりだねぇ、二人一緒にお風呂入るの」
「えぇ……だけど何でこんなこと」
 疑問をそのまま口にすると、
「んー、あたしがそうしたかったから?」
 至極鞠乃らしい回答が返ってきた。こう言われてはそれ以上の言及のしようがない。
 それにしても、この状況は大変心臓に悪い。
 一糸纏わぬ鞠乃の背中が、直接私の身体に密接しているのだ。ただでさえお風呂の温度に若干火照っているのに、更に鼓動が高ぶるようなことをされては。
「――」
 悟られぬよう、上を向いて深呼吸。
 顎の下にある鞠乃の頭に息遣いが届かぬよう、必死に顔を背ける。
「ねぇ志弦ちゃん」
「う、うん。何?」
「変なこと聞いちゃうけどさ、思い出したくなかったら、答えてくれなくていいから」
 鞠乃の表情は見えなかったし、推し量れもしなかった。
 でも、質問の内容は何となく分かる。だから今この時に限って風呂場に来たのだな、ということも同時に納得がいった。
「一度目の電話の時、御免、って言ってたってことは、その、アレだよね。まさやんのこと、振ったってことだよね」
「……えぇ」
 気にならないわけがない。特に彼の行動に携わって後押しした身としては尚更ではなかろうか。
「……そっか。あの、うん。そのさ」
 言い淀む鞠乃。私の方は、会話の内容と深呼吸の反復で幾分かは落ち着いてきた。
「余計なことしちゃった、って言うとまさやんに失礼だけど、関わった人間として、謝るのはあたしの方だな、って思って。御免ね、志弦ちゃん」
 苦労して捻り出したのだろうその言葉は、私の心を痛烈に抉り込む。
 鞠乃には何の負い目もないのに。今回のことが起きたのは全て私の責任なのに。彼女にこんな言葉を言わせてしまった。
 いつの間にか私の身体から離れ、前のめりになっていた鞠乃の背中を、追いかけるようにして後ろから抱きしめた。
「違うの。鞠乃は何も悪くない」
「……?」
 覆い被さって、私と鞠乃の頭が並ぶ。私の言葉を聞いて、鞠乃が不思議そうに首を傾げた。
 その動作で、頭と頭がこつん、と当たる。
「この際だから、言うけどね」
「……うん」
 言って、何になるのか。彼女の罪悪感を取り払うぐらいはできるだろうか。
 違う。そんなものではない。鞠乃がやっていたことを自分で独白してくれたから、その流れに乗じて自分の罪も白状してしまおうという、甘えた心情。今のタイミングなら許してくれるだろうと見計らっての、薄ら汚い汚れきった考えである。
 薄まるのは彼女の罪悪感でなく、自分のそれ。私は懺悔をしたがっているだけで、それをまた鞠乃を思いやっての行動だったと理由付けようとしている。
 そんな私の話を聞いて、彼女が救われるはずはなく。傷付くだろうか。軽蔑するだろうか。どれにせよ、いい思いはしないだろう。
 だが、既に言い出してしまった言葉は撤回できず、
「どしたの? 気になるよぉ」
 言葉に詰まる私を急かすような催促が、鞠乃から飛んできた。
 ココで長い時間迷っているのも悪い方向に勘ぐられてしまいそうで、ならばいっそ自分から白状して、ありのまま正直に話してしまおうと開き直るのは愚かだろうか。
 それも仕方ないかな、と思う。事実、私は愚かだったのだ。
「……先に謝らせて、鞠乃」
「え?」
「御免なさい。本当に御免。私が、私が全部悪かった」
「そ、それだけじゃちょっと、分かんないよ……」
 その愚かさを謝りたいのではない。私の罪状を全て明らかにして気を楽にしたいという腐り果てた思考と、これから実際にその行為を行うことを謝りたかった。
 そして同時、許してもらいたかった。
「鞠乃が正也に手を貸そうとしたその前から、私は正也と鞠乃にもっと仲良くなってもらおうと、引き合わせてたりしたのよ」
「……え」
 意外そうな鞠乃の、吐息とも驚嘆の声とも付かぬ弱い音。それが聞こえているにも関わらず、お構いなしに滔々と続ける。
「図書室で遅くまで勉強してたのも、その後正也と会ってから、しばらく一緒に下校する約束を取り付けたのも全部そう。偶然に見せかけて全部仕組んでたの」
「……」
「鞠乃、正也と仲良かったでしょ? だから悪い気はしないかなって勝手に考えちゃって。それでゆくゆくは二人で色んな場所に出かけるようになって、私がいなくても他の人が付いていれば夜も平気になってくれればいいな、と思って」
 人に気を遣わせていたと知るのは心が痛むことだろう。
 ただ責め句のつもりで言ったのではない。自分が彼女に対し気回しをするのは何の苦にもならないし、寧ろ私が勝手にやっていることだ。
 それを許してほしかった。被害者の彼女本人に。私の愛する人に許されたかった。
「だから、こんなことになったのよ」
 静かに佇む水面に、一石を投じたから。
 私が余計なことをしなければ静謐な湖は波風立たず、私たちの関係は変わらず仲のいい幼馴染でいられたのに。生まれた波は全てを波動させた。
「御免ね。全部、私が悪いのよ。御免ね……」
 私だけが実害を被るだけならよかったのだが、被害はそんな規模ではない。
 正也も、絶対酷く傷付いているに違いない。自分で放った矢尻だ。その激痛は計り知れないものだったと想像できる。彼の自尊心や誇りなどはズタズタに引き裂かれたことだろう。
 私が好きだというその気持ちは分からないが、彼が言うならそうなのだろう。よりによってその好きであった人からヒステリックな罵詈雑言を浴びせられたのだ。仮に自分が鞠乃から同じ言葉を受けたと考えてみろ。私なら死んでしまう。
 そして鞠乃に対しては言わずもがな。たった今自分の意志で直接傷付けたばかりである。
 きっと言い方は他にあった。ただ単に正也と喧嘩したとか、そうでなくとも正也と鞠乃を引き合わせた理由を別にでっち上げれば済んだ。包み隠さず全て打ち明けたのは、荒んで投げやりになった、それでいて甘えきった私の心情のせいだ。
 縋るようにして、許しを請うようにして鞠乃の小さな背にしがみつく。
 この期に及んでなお目頭が熱くなるのが、不思議で馬鹿らしかった。
「……志弦ちゃん」
 横から鞠乃の、いつも通りのゆるりとした声が聞こえる。耳にする度緊張やストレスが和らぐような優しさがあった。
「謝られる理由なんてないよ」
「だって、私……」
「あたしのこと考えてくれたんだよね。逆に感謝しないといけないや。ありがとねぇ、志弦ちゃん」
 背を向けていた彼女が、水中で姿勢を変えて正面から向き合う体勢になる。鞠乃の手が首へ巻き付いてきて、身体は更に密着して、隣から聞こえる声もより近くなった。
「いつまでもこんなんで御免ね。あたしも頑張って夜の暗さ、平気になるから」
「ちがっ……そういう意味じゃ」
「ううん、あたしも悪いの。夜怖くって、志弦ちゃんに心配させてばっかりで、だからこんなことになったんだよね」
「鞠乃は悪くないのっ、私が、全部私が好きで勝手にやったことだから」
「とは言っても、やっぱりさ」
「私の身勝手なの。全部そうなの。それにまで責任感じる必要は全然ないのよ、鞠乃には」
「……うーん」
 多分私も鞠乃も同じことを思った。埒が明かないな、と。
 全ての原因は鞠乃が夜闇を恐れるところにある。これはどうやっても否定しようがない。そのことを鞠乃も十分理解しているし、だから気負いしているのだろう。
 対し私も、そのハンデに外部から自分勝手に干渉していた。私がやってしまったことまで背負われては親切心の押しつけになってしまう。余計なことをしたのは私だから気にしないで、というのも身分勝手が過ぎるが、こちらの独断にまで罪悪感を感じてもらう必要はない。
 互いに互いの主張があるのに、どちらもある意味譲ろうとしないな、というのが雰囲気で分かった。
 だから、
「志弦ちゃんが自分が悪いって言うなら、そうなのかもしれない」
「……えぇ」
「でも、あたしも自分が悪いって言ってるの。あたしも悪いんだよ、ね?」
「……――」
「あたしも志弦ちゃんも悪いの。二人ともさぁ。だからあたしも御免なさいって謝んなくちゃ駄目だよ」
 その鞠乃の言葉に、これ以上ないほど救われた。
 気にしないでとか、気にしてないとか、そんな表面上だけの取り繕いがほとんど意味ないことを分かってくれている。
 それならば、下手に慰めや許しの言葉を言うよりは、謝って後腐れなくすっきりした方がいいと、そう思っての提案だろう。
「志弦ちゃん、御免なさい」
 本当にこの子は、優しい。
「御免……御免なさい、鞠乃……!」
「うんうん。あたしも御免なさい。志弦ちゃん」
 向かい合って抱きながら言うその台詞は、赦しの口上そのもので。
「はい。コレで終わりー! ね?」
 無邪気に笑う彼女の面持ちが晴れやかなのを見て、私も釣られて心のわだかまりがとれた気がした。
 もうこの件は、本当にこれっきりで大丈夫なのだろう。
「にへー」
 顔と顔をくっ付けて頬ずりしてくる。水気を帯びた鞠乃の頬が柔らかく吸い付くようである。安堵が先行してしばらく耽ってしまいされるがままだったが、その感触に我を引き戻されて、一気に顔が熱くなった。
 こういうことを彼女は自然と、何の混じりけなしにしてくる。私に今まで通りに接してくれる。まだ私たち二人の仲は壊れていない。実感としてそれを噛みしめることができた。
「でも、ちょっと驚いちゃった」
「うん?」
「あたしがまさやんのこと好きだなんて、志弦ちゃんに思われてることにさ」
「……えっ?」
 むに、とほっぺたを私の顔に押しつけたままそんなことを言い始める。口の動きまで伝わってきた。
「違うの?」
「いやぁ、勿論嫌いな訳じゃないよ? ただねー……」
 言葉尻を濁すように口を噤む。その仕草が鞠乃に似つかわしくなく女らしくて、少し笑ってしまった。
「もう結構前の話になっちゃうんだけど、まさやんが志弦ちゃんのことを好きなの、知ってたんだ」
「な、何それ……嘘ぉ」
「志弦ちゃん鈍いからなー。多分去年ぐらいからだったかなぁ」
 鞠乃にだけは言われたくなかったが、一年前に彼からそんな気配を感じたことは一切ない。その事実だけ言えば私は鈍いのかもしれなかった。
「それってじゃあ、私が鞠乃と正也を引き合わせようとしたそのずっと前から」
「そだね」
「信じられない……嘘よ、嘘嘘。だって、まずどうして私のことなんて」
「うーん……あたしは直接話を聞いたことあるから知ってるけれど」
 いつの間にそんな話もしていたのだ。高校に入ってからはほとんど見ず会わずの関係になってしまったと思っていたのに、二人はちょくちょくと会っていたのだろうか。
「親元離れて一人暮らし……って、あたしいるから一人じゃないけど、高校生の内から、しかも必要ないのにそんなことし始めたっていうのが凄いって。自立心というか、しっかり者なんだなって思ったって、言ってた」
「……う、うん」
 そんな風に思われていたとは。
 と言うのも、私が寮暮らしを始めた理由は半分自分の意志で、もう半分は別の理由だ。そんな曖昧な方針で始まった自立を評価されるのはむず痒い感じがする。
「……寮暮らしをすることになったのは、あたしが御免なさいしないとだよね」
「いいえ。私は出てきて正解だと思ってるよ。鞠乃と二人で暮らすの、楽しいし嬉しいから」
「お、うぉお、ぉぉぉ……」
 苦労は些か多くなったが、その点に関し後悔はしていない。両親の元にいたいとも、これから戻ろうとも思わない。何より、鞠乃と二人きりの部屋で生活をするというのは居心地がよく幸せだ。
「は、話戻すけどさ、まさやんからそう聞いてたからね」
「え、えぇ」
「あたしは、まさやんは志弦ちゃんとくっつくものだとばっかり考えてたや」
 先入観、みたいなものだろうか。確かに誰かが誰かを好きだという話を聞いたら、その組み合わせ以外考えられなくなるのかもしれない。
 そこにきっと彼女自身の存在というのはないのだろう。第三者の傍観者になりきってただ見守り、決して手を出したり、まして気を引くような行動に踏み切ったりはしそうにない。恐らくそういう発想にも至らないだろう。“まさやんの隣には志弦ちゃんがいるべきだ”と思い込んでいるのだから。
「そして、志弦ちゃんも図書室で遅くまで勉強したりして、まさやんに時間合わせたりしてるの見て、いよいよコレは両思いかなっ、なんて」
「あぁ……」
 正也と会おうとしていたのはバレていたらしい。しかしそれがこう見られていたとは。
「そしたら急にテンション上がっちゃって、たまらず応援したくなっちゃって、その、色々……ね」
 鞠乃も鞠乃でそれを罪悪感として抱いてしまっているのか、語尾が弱々しくぼかされていた。
 その気持ちは手に取るように分かる。私もとても似たようなことをしてきたのだから。
「だからすっごくビックリしたんだ。志弦ちゃんもまさやんが気になってるんだなって思ってたから、あの……振った、様子で帰ってきたから、さ」
 驚いたのはこちらも同じだ。いきなり本人が一番楽しみにしていた遊園地から、誰よりも早足で帰り始めたのを見たときは狐につままれた気分だった。
「何でかなって考えて、全然分かんなくて、そしたらさっき志弦ちゃんが、あたしとまさやんを引き合わせてたって話してくれたから、もしかしたら……」
 ――あぁ。本当に似ている。
 私もまた同じ疑念を抱いた。
「もしかしたら、あたしのことを考えて断ったのかなぁ、って今さっき思って……。ね、ねぇ、そうなの?」
 肩を掴んで、真っ直ぐに見つめてくる丸い瞳は、申し訳なさと自虐心が湛えられているようだった。
 自分が悪いのか。自分がいるせいなのかと訴えかけてくる。目は口ほどにモノを言うとはこのことだな、などどうでもいいことを考えてしまう。
「……ううん」
「えぇっ……?」
「そうじゃないの。私が私の意志で、お断りしたの」
 丁寧に、あなたは悪くないと言い聞かすように喋ってやる。すると、その双眸がいよいよ疑問と不理解の色に染まった。
「ほ、本当に……? それこそ、嘘じゃない……?」
「えぇ。コレは私と正也二人の、というよりは、私の問題」
 同じ質問を、鞠乃に聞き返したい。
 もし正也が私のことを好きだと聞いていなければ。そうでなくとも、私が正也としきりに会うような素振りを見せなければ。
 何もしていなければ、あなたは正也にいつしか靡いたかもしれないの、と。
 境遇や思考が似るに似て、結果すれ違いと誤解で溢れかえった私たちの関係。そこで織り成されるのは仮定の話。
 もしあぁだったならば。そんな話は不毛だと先程も散咲さんに言われたばかりである。少なくとも鞠乃の抱く不安はその通りだ。
 しかし、どうしても気になってしまう自分がいた。結末が変わっていたかもしれない可能性を確かめたいと思う私がいた。
 そして、どこまでも似ている私と鞠乃の間で、唯一絶対的に違う部分。その質問をできるか否かである。
 怖かった。質問してから鞠乃に、もしかしたら彼を好きになっていたかもしれないと答えられるのが怖かった。
 自分が愛する人が、自分以外を愛していたかもしれないという可能性が怖かった。
 だから、聞けない。聞こうと思わない。
「じゃ、じゃあ……どうして……って、聞いちゃ駄目だよねっ。御免」
 その疑問には、今すぐには答えられそうにない。
「……いいえ。気になるのは仕方ないわ」
「ご、御免」
 問い詰められたところで、どうと返せることもないのだが。
「ま、まさやんのこと、そんな好きじゃなかった、とか」
 膝立ちの状態から、ちょこんと私の足の上に控えめに座りなおして鞠乃はそう聞く。対し私は、首を横に振ることしかできない。
「他に好きな人がいた」
 動作を繰り返す。見ると、鞠乃も首を横に傾げていた。
 こういう話に興味を示す辺り、やはり年相応に女の子なのだなと思う。同い年の私が彼女に対しそんな感想を持つのは変だろうか。
「人には、言えないこと?」
「そう……ね」
 気になるのは仕方ないと言いつつも、飛んでくる質問に答えられない自分がもどかしい。
「うーん――」
 思案顔をしたかと思いきや、ふと急に背を向け、彼女が湯船に入ったときの始めの体勢に戻った。
「言いたくないなら、無理にとは言わないけどさ」
 まるで虚空に向かうように言葉を発する鞠乃。
「相談とまでは行かなくても、愚痴とか悩みとか、不満ぐらいは聞かせてよ」
「鞠乃……」
「何の解決にもならなくても、その、胸のつかえが取れたりってことはあると思うんだ」
 恵まれてるな、と私は思う。
 つい先程は散咲さんにも同様のことを言われ、今度は鞠乃にこうして気遣われてる。
「あの、まさやんの時は失敗しちゃったけどさ。でも、一人で抱えてたって苦しいだけだよぉ」
 こう言ってくれる身近な人を持てたことに、今は何より感謝したい。
「志弦ちゃんは独り言呟くだけ。あたしは何となく耳にしちゃうだけ。ね?」
 姿勢を変えてくれたことにとても助かる。もう、きっと私の顔は見せられたものじゃなくなってる。
 始めの体勢に鞠乃が戻ったように、私もそれに準じ、元のようにその小さい背中に腕を回す。私よりも一回り以上細いその身体が、非常に頼もしく感じられた。
「……報われない話よ」
 鞠乃は何も言わない。
 私も、掻い摘んで簡略化した、ぼかした話しかしない。
「報われちゃ、いけない話なのよ……」
 何もかも打ち明けて本心を吐露しきったつもりなのに。
 私から鞠乃に対しては、こんなにも言えないことがあるのだなと自覚するに至って、その事実が酷く辛く悲しかった。

     

 長風呂も昼のこともあって疲れて、眠気もピークに達していた。
 どちらからともなく浴槽からあがって、着替えて歯も磨いたら二人揃ってベッドに入る。いつもなら鞠乃が寝付けるまで様子を見てやらなければいけないが、そんな気も回らないぐらい疲れていた。
 抱き寄せる、というよりは腕を鞠乃の身体の上下に敷いてよりかかるような体勢でぐったりと横になる。普段からして言えばその扱いはぞんざいとも言えた。
 それでもしっかり自分から胸元に頭を埋める鞠乃の健気さは、可愛いようでその恐怖心の根の深さを思わせる。
 この姿の鞠乃を見るとどうしても子供のように見なしてしまう自分がいる。そうして保護精神が湧いて、ゆっくりと彼女の頭を抱え込む。
「……ぅむ」
 寝言ともつかない小声で呻く鞠乃。ふわふわした若干癖のある髪の毛。ぷにぷにしてみずみずしい頬。
 とても、愛らしい。
「……ふ」
 また馬鹿らしい感情を抱いている。
 疲れた頭でもなおこんなことを考え、そして自分の興奮を悟られぬよう常変わらず習慣になっていた深呼吸を実行していることが滑稽だった。
 早く寝てしまおう。色々のことは後々に回した方が賢明に決断できるだろう。
 時折もぞもぞと頭を動かす鞠乃をこそばゆく感じながら、思考がようやく重くなってきた頃、
「……まさやんには悪いけどさ、少し安心したんだ。あたし」
 鞠乃が小さく何かを呟いているのに気付いた。何を喋っているのかまではいまいち耳に入ってこない。
「ちょと、怖かった。志弦ちゃんがまさやんと付き合い始めたら、あたしと遊ぶ時間減っちゃうんだろうなって」
「……」
「その……とっても、嫌だった。やだ」
 何となく文脈を掴んで、どきりとする。
「ずっと一緒にいて欲しいもん。隣にいて欲しいもん。志弦ちゃんをまさやんに取られるの、ホントは嫌だった。三人で歩いてて、いつの間にか志弦ちゃんが一人離れてってるのも、悲しかった」
 鞠乃の手の力が強くなる。背中でそれを感じて、彼女の心情がそこから伝わってくるようだった。
「だから志弦ちゃんがお家に帰ってきてくれたとき、電話に出てくれたとき、すっごい嬉しかった」
 段々、鞠乃の声が湿ってきていることに気が付く。
「ずっと昔の約束、覚えてる?」
「……」
 声を出そうか出さまいか迷って、言い出しづらくて口を噤み続ける。
「……どっちでもいいんだ。あたしは覚えてるから」
 恐らく私はもう寝てしまっているものだと思って、滔々と喋っているのだろう。それは小さい子供が寝る前、ぬいぐるみに向かって喋りかけるのと似たようなモノかもしれない。
 それを人に見られては恥ずかしかろう。同様、ココで実は起きている、と知らせては彼女もきっと話し続けにくくなる。黙っていよう。
「いなくならないでくれた。志弦ちゃんはあたしのところから離れないでくれた。一方的かもしれないけど、約束、守ってくれたんだなぁって」
 忘れるはずがない。私と鞠乃が初めて会って、永遠守ろうと誓った契りだ。
 その当時は訳も分からずほぼ出任せに言った無責任な言葉だったが、事情を知って、彼女を好いて、貫こうと誓った。はっきり言えば嘘から出た真である。
 そんな約束というのも憚られるような台詞を、鞠乃も大事にしてくれていたとは。
「ありがとね」
 感謝したいのは、こちらの方である。
 報われない話だとさっき悲観したばかりだったが、そんなことはなかったのだ。
 その思いの丈は計ることはできない。どんなつもりで喋っているのかは分からない。だが聞き手だけの事情で言えば、鞠乃の言葉はこれ以上ない報奨だった。
「ねぇ、志弦ちゃん」
 話題を変えるように、鞠乃が改まって切り出す。
「この前の試しに作ってみたお茶漬け、覚えてる?」
 お茶漬けと言うと、バイトから帰ったときに作ってくれた、香ばしい味が斬新だったあのときのモノしか思い出せない。美味しい、と評したら鞠乃が異様に喜んだことも記憶にあった。
「あのお茶、何を使っているか、まだ教えてなかったよねぇ」
 聞いてみたら秘密と言われて、さらに追求しても一向に答えてくれそうになかった茶葉。今軽く、あの香ばしい風味を思い出して考えてみても何も想像付かない。
「アレね。蕎麦茶なんだ」
「……」
 言われてみればピンと思い当たった。蕎麦屋で出される熱いお茶の味に似ていたかもしれない。
「……それだけ、なんだけどね」
 蕎麦茶。
 蕎麦。
 その意図に気付いて、クスリとたまらず笑ってしまいそうになった。必死で堪えて平静を、というより寝ている様を装う。
 鞠乃が思いつきそうな、素朴な感情表現だ。なるほどな、と納得が行く。
「……おやすみ、志弦ちゃん」
 そこで彼女の密やかな呟きはもう聞こえなくなった。
 私も心の中だけでおやすみ、と唱えて眠ろうとする。
 興奮より穏やかさが先行して、元のふわふわした眠気と頭が重くなる感覚を取り戻すのに、そう時間はかからなかった。

     

 どの順序でいこうか迷ったが、まずは取りかかりやすい方を、と安易な道を選んでしまうのは心が弱いからだろうか。
 事実地団太を踏んでいる自分がいるのは否めない。正也に対してどんな顔を向ければいいのか、まだ答えを見つけ出せていないのだ。
 ともあれひとまず感謝を。私を自己嫌悪の底から引きずり出してくれ、鞠乃に向き合う勇気をくれた散咲さんに挨拶しようと、翌日の昼休み、学校の図書館に足を踏み入れた。
 彼女は変わらず司書室にいる。登校していながら授業も受けず、午前中はずっとここにいたのだろう。しかし昨日は私も直接話を聞いた通り、繁華街での一件があったはずだ。そんなことがあっても次の日にはしっかり学校に来てはいるのだから、もしかしたら讃えられるべきなのかもしれない。どちらにせよ、大した胆力の持ち主ではある。
 コンコン、とノックをして司書室に入る。家主のいないところで堂々と机の上に足を組んで乗せている彼女に発するべき第一声は何だろうかと考えて、
「よぉ。新婚初夜を経て迎えた朝は清々しかったか?」
「……はっ?」
 開口一番によく分からない台詞をぶつけられ、用意していた言葉も全て吹き飛んでしまった。
「何だきょとんとしやがって。別にとぼけなくてもいいぜー昨晩藤田からアレやコレやと色々……」
「色々、って?」
 それはきょとんとさせられる。全く身に覚えがない。
「……マジで何もなかったのか?」
「ちょっと散咲さん?」
「あのガキ……しそこねやがったな……!」
「散、咲、さん?」
「あー? 何だよ何でもねーよ」
 掌を返したように知らぬ存ぜぬの態度を取られても見逃しようがない。
「鞠乃に何を吹き込んだの」
「オイよせよ。何のことか分かんねーなァ」
 加えて往生際が悪かった。
「……朝が清々しい訳ないじゃない。お陰で眠れなかったんだから」
「んだよしっかりヤッてんじゃねーか。最初からそう言いやがれ」
「鞠乃が遠足前の子供みたいに遊園地楽しみってはしゃぐものだから、当日私寝不足で仕方なかったの。それに彼女だけ元気で大変だったわ」
「……」
 かなり勇気のいる揺さぶりだったが恐ろしいまでに効果覿面だった。散咲さんでもこんな表情はするらしい。
「やったって何を? 新婚初夜ってどういうこと?」
「腕上がったな。今まで数々の野郎から本番回避してきた援高生の俺も真っ青だ」
「話反らさないで。何をやったの?」
「分かった分かった。そう怖い顔すんなや」
 ありがとうの一言でも言おうとしに来たのに、なぜか尋問になっていた。
「確かてめーと久々にここで会った次の日だよ。あいつの方から来やがったんだ」
「鞠乃が?」
「あー。何か志弦ちゃんをたぶらかしただの悪い道に引きずり込んだだのうっさく突っかかってきてよー」
「……まさか」
 私が授業を保健室で休んだのではなく、散咲さんとサボっていたと正直に話したことを悪い方向に受け取ったのか。
「それは……失礼したわ」
「あまりにもうっせーから、軽く話したら急に志弦ちゃんが自分でボロボロダベリ始めたんだよって分からせてやった」
 事の流れは大体合ってるが語弊もある。半分脅しが入っていたことなど散咲さん本人は覚えていないのだろう。後で鞠乃に弁明しておかねば。
 それにしても散咲さんから下の名前で呼ばれるのは少々寒気がする。加え彼女は絶対からかうつもりで言っている。尚更質が悪かった。
「……って、あの日こぼしちゃった事って」
「安心しろ。んな事細かに話しちゃいねーよ」
「話したの?!」
 由々しき事態ではないか。
「え、つまり私が鞠乃のことを好きだってこと、あの子……!」
「先走んなよ馬鹿が。少し参ってるみてーだって言っただけだ」
 瞬間的に沸騰したように赤くなった顔から、一気に熱が引いていく。数言のやり取りで目眩がする程心拍数が上下した。一言一言が紛らわしくて心臓に悪い。
「だからただ、ちょっと近くに付いててやれって」
「……う、うぅ」
 その言葉が本当なら大変ありがたいのだが、聞いて分かるとおり何とも誤解を生みやすい喋り方をする人だ。台詞の概要がそうでも実際の発言はどうだったか分かったモノではない。
「そ、その他には何も言ってないの?」
 戦々恐々としながら問い詰めてみる。彼女の“それだけ”というのが少し信用ならずもっと詳細に聞いておきたい。
「信用ねーのな俺。いーけどよー」
「いえ、そんなつもりじゃ」
 こちらの内心がバレていることに冷や汗をかく。
「でもマジでそれしか言ってねーぜ? 下手なこと滑らせて無闇に動かれてもうぜぇ」
「動かれてもって、やっぱり誘導する気だったわけね」
「てめーに非難される筋合いはねーな」
 ご尤もである。私も似たようなことをして重罪を犯している以上被害者面はできない。
「当て付けで言う訳じゃねーが、役者を裏で動かす場合、演技指導はほどほどでいいんだよ。さり気なく仕向けるだけで思うように働いてくれやがる。てめーは表に出過ぎだ」
「……身に染みるわ」
 経験上、手玉に取るのが上手だ。私ではこうはいかない。
「まー、元々二人して引き合ってたからできた芸当ではある。俺としてもてめーらには上手く行ってほしかったしな」
「……え」
「んなこって、余計なこと言う必要なかったんだわ。お前ら両思いなの知ったからよ」
「……えぇっ?」
 のべつ幕なしに色々言われて、頭が軽く混乱している。
 私と鞠乃が両思い? そんな馬鹿なことが。だって私が鞠乃を好きなのは自分が異常だからで、普通ではあり得ない感情な上、それを悟られぬよう努めてきたのだから感化される可能性も考えられない。万一本当に鞠乃も私のことを好いてくれていても、一番近くにいた私自身がそのことに気付かないなんて鈍感極まりない。それで散咲さんだけが見抜いていたと言われても空々しく聞こえる。
「藤田がココに殴り込みに来たとき、すげぇ必死だったんだぜ。あたしの志弦ちゃんを取らないで、引き離さないで、ってな」
「そんな……そんなこと」
 頭を鈍器でガツンと叩かれ、中が痛覚でとても熱っぽく感じるような、それぐらいの衝撃が奔った。
「でもそんな言葉、友達として、って捉えることだって」
「いい加減、目を背けんのもやめたらどーなんだ」
「目を、背ける……?」
 私が、だろうか。
「そんなつもり――」
「あろうがなかろうがしてんだよ、無意識的にな。きっとたくさんあったと思うぜ。藤田なりの、てめーに対するアピールがよ」
 てんで心当たりがない。仮に鞠乃から正面切って告白を受けたとしたら、きっとその場で崩折れるぐらいに嬉しいと思う。或いはそこまで直接的でなくとも、それらしい素振りをされたら舞い上がる気分になるのではないだろうか。
 少し考えて、納得がいかない。ここ最近浮き足立つほど喜んだ機会に思い当たらなかった。
「……ないわ」
 そう、思い込む。
 けれどどこかで無駄だなと、諦念を感じている自分がいることに気付いた。
「じっくりと考えたフリして、全部気のせいで済ませることはできたか?」
 散咲さんは聡い。こちらの意図も思惑も全て彼女には割れているのではとそんな錯覚さえ起こしてしまうぐらいだ。いつも核心を突いて、私の頑固な思考を崩壊させる。
「てめーでてめーのこと分かってっからそーなんだ。女同士はおかしい、狂ってる。そういう前提があっから、相手からの接近も反射的に拒否しちまう」
「そんなことないわ。ないわよ……ないのよ」
「あんだよ。初っ端ココに来たときてめー言ったよなァ? 偏見と奇異の目はどうあっても避けられない。つるむことになって周囲から非難を浴びることになりゃ、自分は平気でも藤田には迷惑を掛けることになるって。それは御免だってよ」
「……私は」
「だがなー、それはてめーが藤田を気遣っていることにゃならねーんだ。常識にビビるてめーの都合であいつの気持ちを曲解、いや拒絶してんだよ。藤田本人もそれは嫌だろうと決めつけて、さもそれが正しいことであるかのように、悪びれず堂々とそうしてんだ」
「私はぁっ」
「飛び込んでメンチ切ったあいつの叫び声は図書室全体に響くレベルだったぜ。それで俺はてめーらは両思いだと察した。てめーから昨日公園で馴れ初め聞いて確信した。何より……」
 怒涛の畳み掛けに地に伏した私へ止めを刺すかのように、間を置いて溜めを作ってぶつけられた台詞に、
「志弦ちゃん志弦ちゃんって何度も言うあの目が、マジだった」
「私はあの子だけは、傷付けたくなかったのよ……っ」
 自分で勝手に好きになっておきながらこの言い分は身勝手だとは思っている。勿論、鞠乃のそういった兆しに気が付いてなかったわけではない。
 だが絶対、確実に……辛い思いをする。私も鞠乃も世間からの蔑みの目線に晒されることになる。そんな不健全な環境で生きれる自信は少なくとも私にはまだなかった。
「その態度が寧ろ藤田には苦しかったんじゃねーの」
「そんなこと言ったって……!」
「誰も彼もがてめーみたいに悟った仏っぽい性格してねーんだよ。好きな人がいりゃその人から好かれてーし、そいつから拒否られたらつれーだろーよ。それは分かんだろ」
 分かる。痛いほど理解できる。
 自分を律するため、禁断の領域に足を踏み入れぬため、鞠乃は私のことが“友達として好き”と決め付けて、彼女の言葉全てをその前提の下受けてきたのだから。
 私は悟った仏なんて存在ではない。ただの、一人の女子高校生である。
「逃げんじゃねーよ。正直になりやがれ。てめーも藤田も、てめーらが好きだってこといい加減認めるんだな」
 散咲さんの言う通り、素直でないなと思う。
 自分達のことは自分らが一番分かっているのに、その自分が自分を否定していたのだから救いようがない。
 その完全に一人称のみだった問題に、第三者の視点が混じり込んで別の見方を示されて、光明が差したようだった。
「ま、そんなこんなで元々上手く行くようできてんだ。後は間違い起きねーようお前に男へのゲロいイメージ植え付けて俺の仕事は終わり」
 彼女にとってはココまで出来レースだったのだろう。私が正也を拒絶して、鞠乃の元へ回帰して、そこでもやっぱり迷って、一向に進展の気配がない堂々巡り。散咲さんの読みでは昨日の晩に決着が付くことになっていたようだが、それさえもかわしてみせた私の残虐さは、鞠乃にとってどれほど苦痛だったろうか。
「人間に運命的な巡り合わせなんてねぇ。人間の手による斡旋と汚れきった思惑による誘導でしかありえねーんだ。てめーらもそうやってくっ付き合ったんだよ」
「……」
 何とも夢のない台詞だが、そういう世界で過ごしてる散咲さんからすればそれは絶対の真実なのかもしれない。
 彼女の方こそ悟りきったような言葉を吐くものだ、と思って、何となく私達二人に協力してくれた理由が、分かった気がした。
「俺が手を貸すとか普通じゃねーことだぜ。それまで受けてなお無駄にされちゃ骨折り損だ」
「……ありがとう」
 初めから言おうと思っていた謝辞を、ようやく口にすることができた。
「私、行ってくる」
「いちいち行動がおせーんだよ。さっさと行っちまえ」
 憎まれ口を叩いて追い出すような手振りをする。その様子がものぐさな散咲さんに似合わず、とても優しげで、その裏羨望と諦念が入り交じった儚さがあったように感じられた。
 飽くまでコレは私の推測の域を出ない妄想だが、もしかしたら散咲さんは私と鞠乃の関係に嫉妬していたのかもしれない。
 彼女は最後、人間に運命的な出会いなどないと言った。人に、思惑に誘導されると。
 だがそれは、私達に限っては当てはまらない。
 私が鞠乃と出会った経緯はまさに運命的だったと言わざるを得ない。そこに至るまで鞠乃は凄惨な経験を経てきているので、それをそう呼ぶのは憚られるが、皮肉にも不謹慎ながらも、私と鞠乃は偶然性を孕んで巡り会った。
「本当に……本当にありがとう」
「……早く行けよ。んで、もう二度とその面見せんな」
 嫌悪感剥き出しで言い放つ散咲さんが、痛ましく見える。
 彼女はその出会いを知っている。昨日、夜の公園で全てを話した際に、私と鞠乃がどう邂逅したかも伝えた。
「……それじゃあ、ね」
「……」
 何も言わない散咲さんに振り返らず、私は後ろ手で司書室の扉を閉めた。
 そして背後から、ロッカーとも机ともつかない、何か大きな金属類が横に倒れる盛大な音が聞こえてきたのはしばらく経ってからである。
 引き返すことはしない。それは嫌味以外の何者にもならない。散咲さんがないと信じて疑わなかった運命的な出会いを成した私が慰めに行っても、火に油を注ぐだけである。
 私は自分で自分に対する愛を否定していた。彼女も彼女で、もしかしたら自分も持ちうる運命を頑なに認めなかった。そんな自分を真っ向から全否定されたのだ。
 それ故の羨望、嫉妬ではなかろうか。
 どれほど常識外れの言動をして周囲からその存在を認められても、慣れた素振りで援助交際を重ねようと、彼女とて根は人間である。加え、私や鞠乃と同じ、女子高校生である。
 不良と謳われる彼女が暴力行為を働いて、また学校の人間は問題行動だと思うかもしれない。ただその原因は彼女が不良だからではない。
 誰よりもロマンチストだったその人に謝罪と感謝の言葉を頭の中でだけ唱え、私は散咲さんに言われたように、愛する人のところへと急いだ。

     

 およそ十数年前ほどに遡る。
 当時小学校低学年だった鞠乃は家族に連れられ旅行の帰路途中にあった。
 日帰りの予定だったのか。温泉街からの帰り、真夜中の山道を車で下っている最中だった。
 寝かしつけられた鞠乃はそのまま車に乗せられていたので、カーブの遠心力と雑に切り開いたアスファルトの振動に目を覚まされたとき、車窓の外が暗闇だったことに酷く驚いた。
 急激な不安と恐怖に苛まれた彼女は車内で泣き出す。すかさず助手席の母親があやしたが、父親もそれに気を取られハンドル操作に支障が。
 ガードレールを正面から突き破り、下り坂になった雑木林に飛び込み車は大破。父親は即死、母親も動かなくなるまで時間は長くなかったらしい。
 後部座席にチャイルドシートで座っていた小柄な鞠乃は一命を取り留めたが、衝撃が少なかったのが災いして意識まではっきりと残ってしまっていた。
 雑木林に突っ込んだ瞬間動かなくなった父親と、自分を案じて振動が終わっても庇おうとする母親の腕が、力なく垂れ下がるのを、シートベルトに縛られてまざまざと凝視してしまった。
 幼くか弱い鞠乃にはあまりに残酷で、残虐な事故。
 深夜帯、加え山間中腹という人気の全くない状況下、救急がくる翌朝まで、気絶することも眠りにつくこともできず、ぴくりとも動かない両親を真っ暗闇の中、永遠に感じられるほど長い時間見せつけられていたのだ。
 その間に嫌と言うほど浴びただろう衝撃と恐怖と悲哀を思うと、掛ける言葉もない。現に当人は、言葉では言い表せられない諸々の感情を味わったことだろう。何が起きたかさえ、分からなかったかも受け入れられなかったかもしれない。
 翌日、宿泊客なのか地元住民なのか、早朝に事故車を見つけてもらい、ようやく通報を受けることになる。
 救急隊が現場に到着し、大破した車体から引き上げられたのは、凄惨な死体と、それに守られるようにしてかろうじて生きていた“人形”である。目は死んだように光を映さず、四肢さえ微々として動かさず、口はモノ一つ喋らない。
 救援者に抱き上げられたときすら、何の反応もなかったと聞く。明らかにこの時点で彼女の心は、死んでいた。
 父母は手の打ちようがないのでそのまま葬儀の手続きが行われ、鞠乃は外傷と内傷がほとんど見受けられないため、一応の外科医診断を経た後直接精神病院へ搬送される。遺留品から親戚が特定され、葬儀に関しては問題なく執り行われたが、問題は鞠乃の処遇であった。
 医者の呼びかけへの反応、薬による効果がほとんど見受けられなかったらしい。ただ夜毎に暗くなる世界へ極度の不安と不静脈、錯乱と発狂から起こる異常行動、睡眠障害が続き、重度のPTSDによる後遺症状のため隔離病棟行きが即座に決まる。
 常例の精神患者とは違い身体矮小とその若年性が障り、鎮静剤などの投薬も無闇に行えない。夜を迎えれば四肢拘束をされて、トラウマ障害に苛まれる中ストレスにまでも晒され、精神状態は壊滅的に。体力の限界を迎え本能的に休息行動を取る、という地獄のようなループに陥っていたという。
 数ヶ月でその症状は緩和傾向に入ったが、カウンセリングや投薬による改善の兆しは見られず、単に時間経過によるモノではと思われる。現に精神的に落ち着いた、と言うよりは感情そのものが欠落しているかのような状態だったと揶揄されている。
 この頃にようやく精神科医に言葉での反応を見せるようになったと言うが、発せられる単語は一貫して「くらい」「いなくなる」のどちらかであった。
 このまま生涯を病院で送らせる訳にもいかず、医者側からも八方塞がりと匙を投げられ、展望が絶望的な中、ひとまず退院させてみようという運びになった。明らかに見切り発車、試行的発案だったのは目に見えて分かるが、外聞の件もあったのではないだろうか。どれにせよ、人道的発想ではなかった。
 ココで親族一同、鞠乃を誰が引き取るかという問題で論争が始まる。それぞれが最もらしい理屈を並べて家では引き取れない旨をさんざあげつらえ、次第に兄が弟が条件がいいと押し付け合いに発展。
 最終的に、収入が安定しており構成が核家族、子供が少ないため養育費に苦労する割合が比較的低い、唯一の娘は鞠乃と同い年である、などの理由から、我が朝川家が彼女を引き受けることになった。私から見ると鞠乃は母方の従姉妹に当たる。
 私の両親は、自分の娘と鞠乃を面向かわせることに猛烈に反発した。同じ小学生、しかも同学年の子に鞠乃のような悲劇的な経験をし、精神的にやられている子が存在するということに衝撃を受け、悪影響を及ぼすのではと危惧し、引き取りたくないと何度も断ったらしい。
 だがそれが仇となった。精神科医や親戚一同、ほとんどが大人である。同年代の子との交流が事態の好転に繋がるのではないかという、根拠の一つもないこれまた試行的発案で両親以外の全家庭が賛同。その理屈で言えば子息の多い家庭の方がよほど効果的ではないかと今の私にも分かる。しかし金銭関連のこともあり、長い不毛な議論の末、鞠乃は家へとやってきた。
 事情を知らず、姉妹が一人増えると喜んでいた当時の私だが、いざ初めて鞠乃を見たとき、第一印象は最悪だった。
 得体のしれない、というと失礼だろう。
 不気味で不可解、というと侮蔑に値するだろう。
 だが、何も喋らず、何も見ず、何一つ動かさなかった彼女を初めて見たとき、まるで人形のようだと思わずにはいられなかった。
 怖かった。
 目の前で膝立ちになって身体のどこ一つとして動かさない鞠乃を、自分と同じ小学生の子供とは、人間とは思えなかった。
 私のことを心配してくれた両親は鞠乃が来たとなった瞬間、それまでの言い分が嘘であったかのように全て私任せにし始めた。自分たちは構ってやったり遊んでやろうとする素振りも見せず、何かあれば私を呼びつけその後丸投げである。
 結局、私を理由に鞠乃を引き取れないと言ったのは、自分達が鞠乃の世話をしたくない一心の、名目上の言い訳だったのだなと分かると、彼らを見る目が変わった。
 こいつらと、また鞠乃の押しつけ合いに躍起だった親戚どもは、人間ではないなと、そう思えた。
 その人間でない者達のえげつない場当たり的実験が功を奏したのは皮肉としか言いようがない。当時の私としては嬉しい限りだったが、今思えばあいつらの思い通りに行ったことがたまらなく悔しい。
「みんないなくなっちゃう……」
 儚げな声で初日の夜に呟く鞠乃を、私は上手く介抱したモノだった。
 怖くて仕方がなかった彼女に対し何を思って普通に接することができたかは分からない。ただ、普通の子と一緒で、誰でも感じる暗闇への不安を人一倍怖がる鞠乃に、ようやく人間らしい面を見出したのかもしれなかった。
「絶対いなくならないよ」
 会ってすぐ、何の気なしに出た言葉。たった一つのそれが、彼女が他人に心を開くきっかけとなった。
 探り探りで様子を伺う鞠乃に、自分の言ったことの真偽を行動で示してやろうと、当時はまだそれほど差がなかった同じぐらいの背丈の彼女を抱き寄せる。そして私の胸に頭を預けた彼女は、深く長く、息をついた。
 安堵してくれたのだと分かった。その様子に私も安心して、認識を改めねば、人形のようだと思ってしまったことを謝らなければと思った。
 だって、こんなにも人間らしい仕草ができるのだから。
 恐らく鞠乃は、医学的療法や他人行儀な大人達の励ましなどではない、身近で親身になってくれる存在を欲していたのだろう。小学校低学年ながら、一晩の内に家族を失ってしまったのだ。その心細さ、衝撃は筆舌に尽くし難いモノであったに違いない。
 だから私は、鞠乃の母親という役割を担えたのだ。
 以降、狭い範囲の人間に対してのみではあるが、徐々に普通の子らしき情動を取り戻し、生活も段々と元の水準へ復帰を果たす。学校は私の通うところへ編入。事情を説明し、全学年時同じクラスになるよう手を打ってもらうなどの対応は必要だったが、それでも誰しもに将来を悲観された彼女にしてはめざましい進歩であっただろう。
 給食の時やグループ学習時も常に私と組んでいた点、かなり依存的になってしまったが、それも中高と来て、周囲から“ただとても仲がいい二人”と認識されるに留まる程度には自立心も育ちつつある。
 そして中学卒業後の高校入学式前、両親から二人暮らしでもしたらどうだと勧めを受け、今の生活へ。
 自由も利いて勉強にもなるだろうという大変ありがたい推薦のお言葉であったが、その実は鞠乃を家から離したい魂胆が見え見えのおためごかし。私にはとても懐いてくれた鞠乃だが、父母の二人は“人形”の先入観が拭い切れず、鞠乃も一方的に世話になってる身分上近づくに近づけず、ぎくしゃくした関係が延々続いてきたため無理もない事とは思う。だが、我欲全開のこの提案には実の子として閉口させられた。
 結局その提案をのんだのは、偏にコレ以上こんな親の元で暮らすのは御免だったからである。
 自分の家から、血縁上戸籍上の違いはあれど娘を追い出そうとする奴らのところになどいられない。
 高校生という身分上、援助なしには生活できないが、少しでも自分らの生活を自分でまかないたくてバイトも始めた。今受け取っている仕送りは全て職に就いてから突き返してやるつもりである。
 私から言わせれば、鞠乃を人として見なさなかった両親や親戚らの方がよほど人でなしだ。
 だから誓った。
 他の誰から見放され、疎まれ、哀れまれても、私だけは鞠乃の傍にいてあげようと。彼女を――愛そうと。
 果たした、いや、果たしてしまったというべきだが、この運命的な出会いを鞠乃に悪い思い出として残さぬように。出会ったのが私でよかったと言ってもらえるように、彼女に尽くそうと。
 ちょうどそれは、大昔のふとした発言が、今も尚効力を持つ契りへと形を変化させただけのことだった。

     

「放課後……付き合ってくれるかしら」
 教室に戻り、席に座っていた鞠乃への第一声。
「放課後? どったのさぁ。あ、ふふん。また勉強のことでお悩みかなー?」
 あっけらかんとして答える彼女のブレなさに調子を崩されつつも、気が解れた。こういう些細なところで日常的なモノを感じれるのは彼女の雰囲気が成す恩恵の一つであろう。
 一笑して、
「正也に謝りたいの」
「……あ、あぁ、まさやんに」
「えぇ、お願い。それと」
 鞠乃の手を取って、表情を引き締めて、
「鞠乃。貴方にも沢山謝りたいことがあるの。だから一緒に来て。私の傍にいて」
「……ぉ、わ、分かったよ」
 真剣な眼差しで懇願すると、いつにない空気でも察したのか、吃りつつも了承してくれた。

 昨日の今日であることを考えると正也を呼び出すのは自分でもどうかと思うのだが、この軋轢を少しでも早く修復したい一心で、無神経にもメールを送ってしまった。
 彼が応じるかは分からない。というより普通であればしばらくは顔を合わせたくないと思うだろう。加害者側の私も、どんな面持ちで面向かえばいいのか、自分で呼び出しておきながら分かっていなかった。
 だが、決心してから間を置いてしまうとまた行動しづらくなってしまう。加え非があるのはこちらなのだ。勢い任せだったとは言え、私の方から彼に謝るのが筋であろうし、呼び出したことに後悔はしていない。
 だから、人気のない教室を選んで指定して放課後すぐにそこへ行き、数十分ほど待った後ドアが開かれる音が聞こえたときは、
「ま、正也っ」
「し……づる」
 ありがたかったし、同時、彼に対する罪悪感が急激に湧き上がって、数々の感情が入り混じって混乱してしまった。彼も悲しいような、腹立たしいような複雑な表情をしている。
 出すべき言葉は何か迷っていると、隣にいた鞠乃がそっと手を握ってくれた。その柔らかな温もりに助けられ、当然言うべき台詞を苦労しながら口にできた。
「御免なさい、本当に御免なさいっ、正也」
 頭を下げて、誠実な気持ちで謝罪する。視界が必然下がっているため、彼が今どんな顔をしているかが見えない。分かるのは、返しの言葉が飛んでこない少しの間だけだった。
「……あ、あのね、まさやん」
 沈黙に、不穏な空気に耐えられないといった様子で後ろの鞠乃が喋り始める。
「あたしは何があったか分からないけど、志弦ちゃんの謝りたいって気持ちは、本当だと思う。昨日だって帰ってきてから泣いて泣いて泣きじゃくって、大変だったんだよ。後悔して、申し訳なさでいっぱいで溜まらなかったんだと思うの。だから、聞いてあげて!」
 鞠乃には件のことをほとんど話してないのに、おおよそのことを代弁してくれていた。
「凄く酷いことを言ってしまったわ。そんなつもりはなかったなんて言うとふざけてると思われるかもしれないけど、カッと来て、思ってもないこと滅茶苦茶ぶちまけちゃって、本当に申し訳ないと思ってる。アレは、本心なんかじゃ……」
 言い訳めいていると、自分で言っておいてそう感じる。捲くし立てるような畳み掛けで更に拍車が掛かって聞こえているかもしれない。けれどコレは嘘偽りない、私の本心そのものだ。
「とにかく、本当に御免! 許してとは言えないけど、謝らせてほしい。御免なさい!」
 もっと深く頭を下げて謝り倒す。後ろ目に見ると、何故か鞠乃まで同じく頭を下げていた。一緒に来てとは頼んだが、ココまでお願いしていないのに。
 再び少しの沈黙があって、正也はゆっくりと口を開いた。
「……別に、怒ってなんかいないんだ」
 何度も聞いてきた彼の声でも、こんなにも落ち込んだトーンの時はほとんどなかった。それぐらい、沈んだ声だった。
「確かにショックだった。志弦にあそこまで言われたのは結構堪えた。けど、振られたからって逆恨みなんてしない。ただ、自分の好きな人に嫌われる自分が憎らしくて仕方がないな」
「それは違う!」
 反射的に、否定句が出た。
「正也を嫌っている訳じゃないの! アレは、言葉の弾みというか、勢いで」
「そんな……そう言われたって」
「白々しく聞こえるかもしれない。けど! 本当に違うの……。そんなつもり、本当になかったの……」
 正也の顔色を伺うと、何とも言い表し難いモノだった。
 呆れて物も言えない、というやつだろうか。完全に閉口してしまっている。
「……じゃあ、問い詰めたい訳じゃないけど」
 無理矢理にでも喋ろうとする素振りが痛々しい。
「どういうつもりで、あの……あの罵声が飛んだんだ」
 彼も責める気は毛頭ないのであろう。だが正也にそうまで言わせてしまったという事実は、抉られたようにきつく来るモノがある。
 もう、引き返せないなと思った。自分の決心と見せられる限りの誠実さを、彼に、そして彼女に示さなければならない。
「……私もね。好きな人が他にいる」
 俯かせていた頭を持ち上げ、真っ直ぐに正也を見つめる。
「正也のことは嫌いじゃない。コレは信じてほしい。だけれど、正也以上に私には、愛する人がいるの」
「……」
 何も喋らず黙って聞いている正也に、少しだけ背を向けた。
 不安そうに私と正也を交互に見つめていた鞠乃に向かい、彼女の頭の位置に合わせ、耳元で小さく囁く。
「鞠乃。今まで悪かったわ。御免なさい」
「え、ぅ、うん?」
 事の次第が把握し切れてないような、曖昧な返事だった。構わず続ける。
「そして、コレからもきっと、御免なさいだと思う」
「……志弦ちゃん?」
「それでも、それでもずっと、一緒に……いてくれるかしら」
「あ――」
 私の言わんとしていることを、多分何となくのレベルでしか感じ取っていないのだろう。
 ただ、私の目をじっと見上げて軽く頬が赤くなっているのを見る分、きっと鞠乃を信じて大丈夫だと思えた。
「……――うん」
 力強く頷いて言う鞠乃が、とても頼もしかった。
「正也!」
 向き直って、彼と再び対峙して、高く声を張って己を奮い立たせる。
 迷いは、もう捨て切った。
「軽蔑するならしてもいい。変だと思うなら思えばいい。だけど」
 啖呵を切ってからは、すらすらと言葉が頭から湧いてきた。流暢に、怯むことなく我を通せる。
「自分の心に、嘘は付けないのよ。それは私も同じだわ!」
「志弦……」
 観覧車で彼が言った思いの旨を、私が反芻してぶつける。感じ入るように棒立ちで聞き続ける正也は、きっと今の私の心境を理解してくれているだろう。
 自分が作り出したこの状況に後押しされた気がして、もう物怖じする暇も持てなかった。
 一歩下がって、愛人の隣へ横並びに立つ。すると自然、右手が優しく、けれど強く握られた。
 深呼吸を一つ付いてから鞠乃を見ると、彼女も意を決したかのような真剣な眼差しである。その視線を受けて私は軽く微笑して、眼鏡を外し、軽く屈んで、
「鞠乃……好きよ」
 空いた手で鞠乃の頭を引き寄せて、私は彼女の唇にそっと口付けした。
 つ、とすぐに顔と顔が離れる。ほんの一瞬だった。眉間にヒリヒリとした痺れを感じるのも、唇を熱源に顔全体が火照るのも、彼女がとろりとした目を開け、優しげに笑い掛けてくれるのも。
 上体を真っ直ぐに持ち上げ、鞠乃を手元に抱き寄せて、遠慮がちに正也と向かい合う。恥ずかしくてあまり正面を向けなかったが、上目遣いで視界の上方に映る彼の表情は、少し傷心的で驚愕が滲んだ、
 晴れ晴れとした、笑顔だった。
「やっぱ、な」
 屈託のない笑みを浮かべながら、しれっと言いのける正也。そんな彼に驚いたのはこちらの方だった。
「……やっぱ、って」
「気付いてはいたんだ。多分、そうなんだろうなって」
 憑き物が落ちたようなすっきりした様子でそう告げられる。
「お前ら二人の仲の良さ、凄かったからな」
「……えへ」
 別に見せつけていた訳でも、まして散咲さん以外に口外したこともないのに、彼に感づかれていたというのはなかなかに衝撃的だった。鞠乃は暢気に照れていたりするが、コレは言い換えれば、私達二人は普通に生活しているつもりでも周りからはそう映っていたという事である。
「……バレてたの?」
「いいや。俺が勝手にそう思ってただけ」
 懸念がそのまま表に出て、返ってきた答えはそれは杞憂という結論。
 そして更に心に深く抉り込む、
「ずっと……ずっと、見ていたからな。志弦と、志弦の隣にいつも一緒にいた鞠乃ちゃんを」
「……――」
 コレまた衝撃的な告白。
 事実、小学校から今の今まで、遊ぶときはほとんどこの三人だったし、私と鞠乃が二人暮らしを始めてからというもの、しきりに私生活の不便を心配してくれたのは他ならぬ正也である。
 その間、彼の言葉を全て本当とするのであれば、正也は私のことをどんな心境で見てくれていたのだろうか。
 他人事なら聞いただけで切なくなりそうな話だが、当事者となるとコレほど罪悪感を抱くモノはない。私はきっと、知らないうちに彼を酷く傷付けていたのだ。
「だから、今回の件は俺が悪いんだ。そうだと思いながら、しかもほぼ確信に近いモノを感じておきながら、志弦のことも考えず自分の気持ちを捨てきれないで身勝手に出しゃばったんだから」
「正也……!」
「俺のことは気にすんな。志弦と鞠乃ちゃんなら、お似合いだ」
 寛容な理解でもって私達を祝福してくれた正也は、諦念が目に見えて分かる無理矢理作った笑顔を最後に、教室から出ていこうとした。
 掛けるべき声が分からない。何と言って引き留めればいいのだろう。私が言葉を掛けてもどうにもならないように思えて、喉が音を紡いでくれない。
「まさやん!」
 そんな私の代わりに彼を呼び止めたのは、腕の下で抱かれている鞠乃だった。
「いつだか約束したよねっ? どこにも行かないって、あたしに言ってくれたよね? アレ、嘘じゃないよねぇっ?!」
「……」
 私の腕の間から顔を突き出して、強く尋ねる。それはいつの日か学校下で遊び歩いた日の帰路、正也が鞠乃に対し安心させるため言った、恐らく何の気もない軽い台詞。
 鞠乃としても、このまま正也と疎遠になるのは不本意なのだろう。だが無理に引き留めるのもどうなのだろうか。しかし私としてもコレで正也とは終わり、というのは嫌だ。その狭間で答えを出せず迷いつくし、鞠乃を制止することも、また加担することもできず立ち尽くす。
 関係性から言って、私と正也はぎこちなく、とまで行かずとも少なくとも今までと同じように付き合えはしないだろう。彼だってコレ以上痛い思いをするのは御免なはずだ。
 そうだろうに、
「あたしは嫌だよっ! まさやん、あたしの大切なお友達だもん! また一緒に遊びいこうよ! いなく、ならないでよぉ!」
「ま、鞠乃……」
 駄々をこねる子供のように喚き散らす鞠乃に、扉付近に来てから向き直り、
「……おぅ」
 一笑して答える正也は、
「今度また喫茶店連れてってくれ。よさそうな店見つけたら案内してくれよ。な、志弦も」
「っ」
「もう慣れたろうけど、二人暮らしで悩み事あったら、いつでも話してくれていい。力になれるようなら、手伝うからさ」
「正也……」
 紛れもなく長年ずっと連れ立ってきた、理解ある幼馴染だった。
「正也……御免、ありがとう……」
 こんな恵まれていながら私は、既に彼の姿がない教室で鞠乃の小さい背を抱きつつ、虚空に向かって感謝することしかできなかった。
 〆

       

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