Neetel Inside 文芸新都
表紙

狙われた黒髪
第一章 二人の出会い

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「隣り、座ってもいい?」
 とても澄んだ声だった。もうすぐ講義が始まる時刻、予鈴と同時に飛び込んで来た学生たちの喧騒の中でもはっきりと聞こえたその声。講義の準備を終えてぼんやりと黒板を眺めていた木下一雄(きのしたかずお)の意識は一瞬で現実に引き戻された。
「ねえ、聞いてる?」
 話しかけられている。慌ててその声に顔を向けると、そこには知らない女性がいた。
 とても魅力的な女性だった。まず、腰まで届く黒髪。毛先までしっかりと手入れがされているのか、空気の流れや身体のちょっとした動きに合わせてさらさらと揺れている。次に整った顔つきと凛とした表情。座ったまま彼女と目を合わせているので自然と見下ろされる形になっていたが、威圧感などのきつい印象はなく、ぱっちりと開かれた瞳やぷくりと膨らんだ唇、柔らかそうな頬がとても愛らしかった。
 視覚以上に彼女を感じたのが、香り。彼女が振り撒いているのだろう、花のような、果物のような甘い香り。くどさがなく、すぅっと鼻を通って緊張していた一雄の心を優しく解きほぐした。
 なんて美人な人だろう。ひねりのない、実に率直な感想が一雄の頭の中に浮かんだ。
「ここ、座ってもいい?」
 コンコン。長い一枚板のような机を指で叩き、鳴らす。そこは一雄のすぐ隣りの席。通路に面した席に座り、もう片側には荷物を置くことで徹底して隣りには誰にも座られないようにしていた、にもかかわらず、彼女はあっさりと一雄のテリトリー、パーソナルスペースに立ち入ろうとしている。
「だめ?」
 なぜここまで頑ななのか、ぐるりと周囲を見渡すと納得できた。講義室は学生たちでぎゅうぎゅうに混み合い、空いている席がほとんどなくなっていたのだ。
「いいよ。どうぞ」
 荷物を足元に置き、席を空けた。彼女は「ありがとっ」と、お礼の言葉と共に座り、教科書とノートを取り出し、広げた。
隣りには親しくない相手。しかも女性。窮屈な思いと同時に淡い期待を抱くものの、講義が始まると気持ちを切り替え、教授の声に耳を傾けて黒板の内容をノートに書き込んでいく。
ふと隣りの彼女が気になって、ちらりと見た。黒板を見つめる真剣な眼差しに、染みのない、少しも日に焼けていない肌。文字を書き連ねる指はガラス細工のように綺麗だった。
真横から見て気づいたことが、胸の膨らみ。とても豊かで、服の上からでもわかるほど大きな半円を作っていた。そして至近距離から嗅く彼女の香りは濃厚で、呼吸をするだけで体内が彼女でいっぱいになるような錯覚を覚えるほどだった。
 一雄はこれまで女性とは縁がなかった。もちろん女友達はいるし、平々凡々な学生生活をこの大学一回生まで続けていた。特殊な性癖はなく、ちゃんと異性に性的興奮を催すこともできる。ただ、恋人がいなかったのだ。そんな一雄に彼女の存在はあまりに刺激的すぎた。
「ん……?」
 すっかり見入ってしまっていたそのとき、彼女が小さく声を上げた。一雄は慌てて視線を前に戻した。
「あー……どうしよう……」
 彼女は教科書を手に持ち、うなだれていた。その教科書は違っていた。よく似た講義のよく似た教科書。しかしこの講義では役に立たないものだった。この講義は教科書の内容が主体で、口頭で補足する形で進められていく。黒板をノートに写すだけでは補えないことが多くあった。
「…………」
 すぐに隣りから視線を感じるようになった。じろじろと、自分ではないどこかに向けられている視線。その視線が彼女のもので、向けられている先が教科書ということに気がついた。
彼女が、教科書を盗み見ているのだ。本人は気づかれていないつもりなのかもしれない。が、あまりに露骨すぎた。
「……見る?」
「わ、いいのっ?」
 しばらく我慢していたが、ついに耐え切れなくなってしまった。ちょうど真ん中に教科書を置くと彼女は食い入るように覗き込んだ。一雄は距離が縮まったことでさらに意識してしまい、この日の講義は少しも集中できなかった。
「さっきはありがとう」
 講義が終わり、ざわざわと学生たちが出て行く。勉強道具一式を片づけているとき、彼女はそう言った。
「名前、教えてもらっていい?」
「……なんで?」
「夏まで同じ講義受けることになるんだし、仲良くなろうよ」
 通常、講義は半年間受講することになっている。この春という季節が過ぎ夏に差しかかるまでの同じ時間、同じ教室にいることになる。
 この講義には知り合いがいない。もし体調を崩したりして休んでしまった場合、そのときの講義が抜けてしまうことになる。なので、ここで知り合いを作っておくことは得策だと一雄は考えた。それに相手はとても美人なのだ。是非ともお近づきになりたかった。
「木下一雄。キミは?」
「私は一ノ瀬佳弥(いちのせかや)。よろしくね、木下くん」
 その後、一雄が今年の春に入学したこと、地方出身ということを話すと、佳弥もまったく同じだと返した。
「地方出身だと、この時期あんまり友達いないから寂しいよね」
「講義はそのほうがいいよ、集中できるから。それに、大人数というのはちょっと苦手で……」
「私もそうかも。ふふ、似た者同士だね」
 佳弥は笑う。一雄も同じように笑って返す。そんな二人の間を予鈴が割って入った。
「いけない、次の講義行かなくちゃ」
「ああ、俺もだ」
「じゃ、また来週ねっ」
 ぱたぱたと走って出て行った。ほんの少し話しただけなのに、ずいぶん親しくなれたような気がした。
一雄は名残惜しさを感じながらも、来週がとても待ち遠しくなっていた。

「隣り、いい?」
 コンコン。一週間前と同じように机を鳴らされた。一雄も同じように荷物を足元に移動させ、席を空けた。そこで二人は顔を合わせ、同じタイミングで笑った。
「ありがと。一週間ぶりだね」
 隣りに座る佳弥に一雄は疑問を持った。前回は講義が始まる直前で空いている席がほとんどなく、だから隣り合って座ることになった。しかし今日はまだまばらに空いている。個人的な感情は別にして、隣り合って座ることに違和感を覚えていた。
「あ、あのさぁ」
 もうすぐ講義が始まる。そんなとき、佳弥はもじもじと言った。
「教科書ね、実はなくしちゃって……購買に行っても、もう売り切れてて……だからね、今日から上半期が終わるまで、見せてもらえないかな……?」
「他に頼れる人がいなくて……」と続ける佳弥。とても申し訳なさそうな様子で、迷惑をかけたくないという想いが伝わってきていた。
「いいよ、気にしないで」
「ごめんね……」
 断るはずがなかった。親切心と下心。一雄は人が良く、健全な男なのだ。
 講義が始まると二人は教科書を覗き込む。真ん中に置かれた教科書に二つの視線が注がれる。たまにページを捲るタイミングで手が触れ合いそうになってしまい慌てて引っ込める、なんてこともあった。
 佳弥は先週と同じ香りを振り撒いていた。きっとこれが彼女の香りなんだと一雄は思った。そしてこの香りを嗅ぐたびに彼女のことを思い出してしまうかもしれない、なんて考えた。
 真剣に黒板を見つめる横顔、けれどそこに浮かぶ笑顔はとても魅力的だということを知っている。それだけではない。教科書をなくしたり、ノートの文字は書き殴られていて読みにくい。たまにうつらうつらと船を漕ぎ、ビクリと震えて目を覚ます。そんな一面も知っている。
 一雄の佳弥に対する感情は少しずつ、確実に膨らんでいった。

 この日、二人は昼食を共にしていた。お互い昼休み後の講義が空いていることがわかり、人の少ない学食で待ち合わせた。先週のうちに簡単ではあったが自己紹介は終えていたので、自然と話題は講義のことが中心となった。
「他にどんな講義受けてるの? 教科書の恩は他の講義で返したいな」
「別にいいよ、気にしなくても」
「だめ、私が嫌なの」
 選択した講義を教え合ったが他に同じ講義は一つもなかった。そもそも一雄は理系、佳弥は文系で学部が違う。どうしても講義の内容に偏りが出てしまっていた。
「うーん、残念……」
「じゃあ、テスト前はいっしょに勉強しようよ、さっきの講義」
「え、ほんとに?」
「う、うん」
 下心がないかと言えば嘘になるが、自然に誘えたことに自分で驚いた。それに嬉しそうな佳弥の様子にも驚いた。何だかとんでもないことを言ってしまった、そんな気にすらなった。
 ここで講義の話題は一旦終わり、次は一人暮らしのことになった。一雄も佳弥も初めての一人暮らし。性別は違えど同じように苦労していた。
「最初は憧れだけだったんだけどね。いざやり始めてみると大変……」
「何でもできるけど、何でもしなくちゃいけないからね」
 一雄は大学の最寄り駅から一つ隣りの駅近辺の、佳弥は大学近くのマンションに住んでいた。お互いまだ土地勘がなく、おすすめのスーパーや店などの情報を交換した。
「でも自炊って楽しいよね。料理がうまくなっていくのがわかるから」
「自炊かぁ……ほとんどしないなぁ」
「え、じゃあ、外食ばっかり?」
「うん。それか、コンビニ弁当とか……」
「それはだめだよ。煮物とかだったら簡単だし、作り置きもできるよ?」
「そうなんだろうけど、つい面倒に感じちゃってね」
「だめったらだめっ。栄養偏るし、お金もかかるしっ」
 佳弥は唇に指を当て、考え始める。その様子があまりに真剣で、一雄もつられて固まってしまう。
「……うち、来る?」
 佳弥から飛び出した提案に、一雄は耳を疑った。理解するまでに時間がかかってしまった。
「今日、ご飯作るから……レシピとかいろいろ教えてあげる。そう、教科書のお礼!」
 ようやく思考が働き、提案の意味も理解できた。しかし相手は一人暮らしなのだ、言葉以上のことを考え、期待してしまう。本当にいいんだろうか。きゃ、女が男を部屋に招いているんだ、それなりの覚悟もあるに違いない、それに応えないのは失礼ではないのだろうか。何を考えているんだ、そんなことあるはずがない。相手の善意を都合良く解釈するなんてとんでもないことだ。そんな自問が繰り返される。
「ごめん……そういうのは、いいよ」
 とても悩んで、考えて、そう答えた。明確なラインがあるわけではない、けれど、佳弥の提案にはどうしても踏み出すことができなかった。
「あ、うん……ごめんね……」
 しゅんと落ち込んだ様子を見せたが、それも一瞬のこと。すぐに表情を切り替え、再び講義の話題を戻した。しかし空元気を装っていることに一雄は気づいていた。

     


(ああ、遅かった……)
 その翌週。一雄は遅刻寸前で講義室に駆け込んだ。すでに席は埋まっていてほとんど空席がなかった。ぐるりと見回し、佳弥を探す。すぐに見つけることはできたが、両隣りの席は埋まっていた。
けれどそれ以上に、思ってもいないものを見てしまった。
(……教科書?)
 ノートの他に教科書を出していた。佳弥から少し離れた斜め後ろの席に座って、じっと見て確かめる。間違いない、初めて会ったときは忘れていて、その次に会ったときはなくしたから見せてほしいと言っていた、この講義の教科書だった。
(どうして……?)
講義中、最初から最後まで佳弥を凝視していた。直接教科書に書き込み、講義が終わると鞄の中に片づける。間違いない、それは彼女の教科書だった。
「一ノ瀬さん」
「……き、木下くん?」
 講義室から出たところで声をかけた。びくんと身体が跳ねて、普段よりも高いトーンの声が返ってきた。その様子からは、驚きよりも後ろめたさが感じられた。
「今日、お休みじゃなかったんだ……」
「うん。ちょっと遅れてね」
「へえぇ、そうなんだ……」
「……教科書、見てたよね?」
 佳弥はうつむき、黙った。返事はない。しかしその沈黙が答えを教えてくれていた。
「外、出ようか」
 動けなくなっている佳弥に優しく声をかけ、校舎の外へ向かう。佳弥は一雄の後を追った。校舎のすぐ外にはベンチがあり、そこに座る。佳弥もその隣りに座った。
「……」
「…………」
 佳弥は一雄をちらちらと見て、きっかけを探っていた。一雄は待った。どれだけ時間がかかっても待つ、そう決めていた。
「……あのね」
 佳弥が口を開いたと同時に予鈴が鳴った。次の講義が始まってしまう。けれど、本当のことが聞けるのだ。遅刻ぐらいどうでもよかった。
「最初から、嘘ついてたの」
「最初って……教科書を間違えた、てところから?」
「うん。あのとき、ちゃんと持ってたよ。わざと違う教科書を出したの。その次の週のなくしたというのも、もちろん嘘」
 つまり、佳弥は教科書を持っているにもかかわらず、一雄に見せてもらっていたことになる。
「どうしてそんなことを……」
 責めるわけではなく、純粋に疑問を投げかけた。まったく意図がわからなかった。そんな一雄に、佳弥は大きく呼吸をした。落ち着くために、覚悟を決めるために。
「わからない?」
「……え?」
「私の気持ち、わからない?」
 佳弥の目が潤み始めていた。手、唇、身体がわなわなと震えている。
「ねえ、気づいてよ」
 ここまで言われて、一雄はようやく気がついた。自分の鈍さに呆れると同時に、佳弥に対して申し訳なく思ってしまった。けれど信じられない。なぜ自分なのだろうか。一雄は佳弥の言葉を待った。
「初めてあの講義を受けた日……木下くんを見かけて気になったの。一目惚れ……だったのかな」
 ずっと勇気が出なかった。でもあの日、とても目覚めの良い朝だった、星座占いで一位だった、信号に一度も引っかからなかった、とにかくたくさん良いことがあった。今日しかないと思い、勇気を振り絞って話しかけたら隣りに座ることができた。でも、それだけでは繋がりが薄い。そんなとき、教科書を利用しようと閃いた。でもすぐに後悔した。嘘がばれたときのことを考えると恐くて仕方がなかった。自宅に誘ったことはやり過ぎたと後悔した。今日は一人で寂しかった。声をかけられたとき足元が崩れ落ちるような気分だった。ぽつぽつと、小雨のように佳弥はつぶやく。
「気持ち悪いよね……ごめんね、嘘ついてごめんね……でも、我慢できなかった。気持ちが溢れて、止まらなかった……!」
「一ノ瀬さん……」
「好きなの。木下くんのこと、大好きなの」
 感極まったのか、佳弥はぼろぼろと泣き出した。顔を手で覆い、必死に声を抑え、それでも嗚咽だけが漏れて聞こえた。
「あはは、みっともないなぁ……でも、これが、本当の気持ちだから……返事はしなくてもいいから……言えて、それだけで満足だから……」
 立ち上がり、去ろうとした佳弥の手を握った。ここで握らなければもう会えないかもしれない、そんな気がしたからだ。
「今、どんな気分?」
「木下くん……?」
「手、繋がったね。どんな、気分?」
「え……うぅん、なんでだろう……どきどきはしてない。すごく、落ち着いてる」
 その答えを聞いて、一雄の気持ちは決まった。
「一ノ瀬さん」
「は、はいっ」
「俺、実は誰かと付き合ったことがなくって……正直なところ、そういう関係というのがイメージできないんだ」
「……うん。私も、そう」
「だから、一ノ瀬さんの気持ちを聞いても、いまいちわからないんだ」
「うん。うん……」
「でも」
小さくて、柔らかくて、温かい。黒い髪が綺麗で、笑顔が魅力的で、甘い香りのする彼女、一ノ瀬佳弥はここにいた。
「同じなんだ。俺も今、落ち着いてる」
 ずっと握っていたい、離したくない。ああきっとこれが恋なんだろう。初恋なんてとっくに忘れてしまった。けれど気づいた瞬間、世界が変わった。鮮やかになった。彼女もそうだったのだろうか。こんな感覚だったのだろうか。
「俺と一ノ瀬さんは」
「うん……」
「俺と一ノ瀬さんは今、同じ気持ちだ」
「うん……! その気持ち、聞かせて……!」
 ぎゅうううう。佳弥の手に力がこもる。爪が食い込み痛かったが、そんな痛みからも彼女を感じることができた。
「俺も、一ノ瀬さんが好きだよ」
 ぎゅっ。一雄は佳弥の手を握り返した。

 講義の終わりを告げる予鈴が聞こえる。一雄は佳弥が落ち着くまでずっと手を握っていた。結局、講義は丸々休んでしまった。自主休講はこれが初めてだったが、後悔や罪悪感などなかった。これも同じことを考えているのかな……と、繋いだ手の先にいる恋人に想いを寄せる。
「落ち着いた……ありがとう。化粧、落ちちゃったかな……」
「うん、ひどい顔」
「言うかなぁ普通……まあ、いいけど」
 くうう。佳弥の腹の虫が鳴った。ばっとお腹を抑える佳弥の顔がほんのりと赤くなった。
「お腹空いた」
「聞こえてたよ。でも昼休みは人が多いからなぁ」
「ご飯食べたい。化粧直してくるからさ、待っててくれる?」
 化粧が崩れた顔。お世辞にも良い顔とは言えなかった。それでもようやく笑顔を見ることができて、一雄は幸せだった。

 恋人同士になったその日、一雄は佳弥を送って帰った。差し障りない世間話を交わすだけだったが、繋がれた手が二人の関係をしっかりと表していた。
 一週間後、二人の呼び方が変わっていった。木下くん、一ノ瀬さん。一雄さん、佳弥さん。そして一雄、佳弥となった。
 一ヶ月後、いつものように帰っているときだった。別れる直前で、佳弥は一雄に抱きつき、触れ合うだけのキスをした。その直後の、ふふりと笑った佳弥の顔がたまらなく愛しく、一雄も目一杯抱き締めてキスを返した。
 その日から、講義が終われば一雄は佳弥を住まいに招いた。二人はいっしょに映画を見て、途中からは寄り添いキスを交わすようになった。日が経つにつれて映画を見る時間よりも触れ合う時間が増えていった。唇だけではない、服を脱ぎ、肌の温もりを感じ合い、お互いの喘ぎ声を聞き合うようなこともした。日を重ねるごとに行為はステップアップしていった。
 そして付き合い初めてから二ヶ月目。梅雨の時期、夏が待ち遠しいころ、佳弥は夕食を振る舞おうと、一雄を招待した。
「……し、失礼します」
「いらっしゃい。散らかってるけど、笑わないでね」
 がちがちに緊張している一雄。しかし部屋に入った瞬間に飛び込んできた香り。佳弥の香りが部屋中に満ちていた。
「この香り……」
「ああ、これ? 私、この香りが好きなの。部屋もコロンも、全部これに合わせてるの」
「ずっと気になっていたんだけど、これって何の香り? 果物っぽい感じはするんだけど……」
「これはね、私の手作り。果物や花の香りがする原液をブレンドした、私のオリジナルなの」
 慣れ親しんだ香りに緊張がほぐれた。そうなると身体は正直なもので、冷蔵庫から食材を取り出している佳弥の後ろ姿、ポニーテールにしていることで見える細い首筋と綺麗なうなじ、ぴっちりと張ったデニムに浮かんだお尻と脚のライン。そんな生活感のあるセックスアピールに、むくむくと本能が膨れ上がる。
「佳弥ぁ」
 後ろから抱き締めた。突然の抱擁に、佳弥はたたらを踏んで崩れたバランスを元に戻した。
「……もう、危ないじゃないっ」
「ごめんごめん」
 謝りながらもやめる気はなかった。くるりと佳弥の身体を回し、向かい合った。佳弥は恥ずかしそうに視線を外していたが、嫌がってる様子はない。熱を帯び始めている佳弥の表情。一雄の好きな顔だった。
「キス、していい?」
「……いいよ、んん」
 許しをもらえた瞬間、キスが始まった。触れ合うところから始まり、くにくにと甘噛みが行われる。しばらくすると佳弥は手を一雄の背中に回し、ぎゅうっと抱き締めた。これはもっと熱烈なキスを求めるサインだった。
 口を少し開け、舌を突き出した。唇を撫でると佳弥も同じく口を開く。歯をちろりと舐め、そのまま口内に進める。唾液と舌、吐息を堪能しつつ、手を胸に押し当てた。服の上から触れたそこは硬い下着とふっくらとした感触。大きい。そこに指が沈んでしまいそうなほど柔らかかった。
「だ、だめっ……ご飯、作らなきゃ」
「ごめん、つい、ね」
 これ以上続けてしまうと佳弥もスイッチが入ってしまう。さすがに夕食抜きというのはつらいし、手料理をとても楽しみにしているのだ。しかし一雄のスイッチはとっくにオンになっていて、股間はみしみしとズボンを押し上げていた。
「今はだめ……あとで、ほら……ね?」
「ああ、うん」
 佳弥は今夜、そのつもりで一雄を招いていた。そして一雄もそれを察していて、薬局で避妊具を購入していた。夕食後のお楽しみであるが、いざ佳弥の口からそのようなことを聞いてしまうと股間と性欲はさらに増長してしまう。
(口でしてくれないかな……)
 ああなんて最低なことを考えるんだ。思わず自己嫌悪。だが一度浮かべた妄想を止めることができず、やったこともない顔射を想像していた。己のたぎった欲望をぶちまけると、佳弥は目を閉じ、すました顔で受け止める。眉間、鼻の頭からトロリと流れるそれを指ですくい、ぺろり、ぺろりと舐める。想像の中の佳弥は精液まみれのまま微笑み、力を失ったペニスをぱくりと咥え、掃除を始めた。ぬるり、ぬるりと柔らかなペニスが口内で弄ばれる。少しずつ硬さが戻り始め、それに気づいた佳弥のフェラチオは激しくなっていく――なんてことを考えるだけで、股間は痛いほどに勃起していた。
そんな一雄をよそに佳弥はエプロンをつけて料理を始めた。その姿がとても新鮮で、またも後ろから抱きたくなった。けれど、耐える。リビングに座ってそわそわと夕食を待った。
 飾り気のない部屋だが、タンスやベッドにはクマやウサギの小さなぬいぐるみが置かれている。テーブルの上には小さな花瓶とかすみ草。薄いピンク色のカーテンが暖かい印象を与えてくれた。部屋の隅には教科書やノートが積み上げられ、今にも崩れそうだった。この辺りの彼女のギャップというか隙を見つけるのがとても楽しく、好きだった。
 そしてベッド。このあと、初めての体験をするだろう、場所。どうなるんだろうか、どうなってしまうのだろうか。ちゃんと佳弥は感じてくれるのだろうか。もしも関係が壊れてしまうようなことが起きたらどうしようか。不安だけが募っていく。

     


「おまたせー。運ぶの手伝ってくれない?」
 沈みかけていた意識が引き戻された。一雄はキッチンから炊飯器を運び、佳弥はトレイを持って何度か往復した。肉じゃがに焼き魚。そして味噌汁。とにかく肉じゃがの量が多かった。
「えっ、あの予算でこんなにできるの?」
「そうだよ、それに残ったら作り置きができるんだから」
「すごいなぁ……」
 量もさることながら、味もとてもおいしかった。一雄はあっという間に平らげ、佳弥はその様子を嬉しそうに眺めていた。
 夕食が終わり、一雄は洗い物を買って出た。その間に佳弥はシャワーを浴びていた。すぐ近くでシャワーの音が聞こえ、これからのことを考えると鼓動は早く、また股間が硬くなっていた。
「……上がったよ」
 洗い物を終えて再びリビングでそわそわとしていると、バスタオルを巻いた佳弥が浴室から出てきた。愛し合う前はいつもこの格好だったが、見慣れている姿のはずなのに今日は、今夜は違って見えた。
「……佳弥」
ぽたり、ぽたりと髪から垂れる水滴がとても官能的だった。一雄はたまらず佳弥を抱き締めた。髪に帯びる水気と湯上りの佳弥の体温が服を通って伝わってくる。
「一雄もシャワー、浴びてきて」
「ああ、すぐに浴びるよ」
 浴室に飛び込み、頭からざぶざぶと浴びた。いつものことだったが、肉棒はぎんぎんに勃起していた。無理もない、今夜は最後のステップ、初めてのセックスなのだ。それに先ほどから妄想でずっと興奮しっぱなし、触れるだけで射精してしまいそうだった。
「おまたせ」
腰にタオルを巻いて出ると、佳弥はベッドに座っていた。うつむいているので表情は見えない。一雄はその隣りに並んだ。
「怖い?」
「うん、少し……」
 佳弥は処女だった。中学生や高校生のころは部活や友達を遊ぶことが楽しくて、異性にはほとんど興味がなかった。憧れなどはあったがそこに恋愛感情はなく、告白は何度かされたが一度も良い返事をすることはなかった。一雄はそう聞いていた。
 つまり、初めて同士の二人。ぴりぴりと緊張が走る。
「……手、握っていい?」
「うん」
 手を握る。佳弥は緊張したり不安になると、一雄の手を求めていた。初めて肌を晒すとき、一雄が身体に触れるとき。ステップを超える瞬間は必ず手を握っていた。
「……始めるよ?」
 こくりと、佳弥は頷く。一雄は巻かれたバスタオルをそっと外す。すると形の良い、ふくよかな乳房。綺麗な鎖骨に、無駄な肉のない腰、脚。いつ見ても生唾を飲んでしまう魅力的な身体が現れた。
「んっ、あー」
一雄は誘われるように、その豊満な胸に触れた。水気を含んでいて手のひらんに吸いつくようだった。弾力もあり、手に余るほどの大きさ。たぷたぷと上下左右にこねて柔らかさを楽しみ、ピンと硬くなった乳首を摘んだ。
「ひゃんっ!」
 キンと高い佳弥の声が響く。それを摘んだままくりくりと擦り、爪先で優しく掻いた。佳弥の口からは間延びした喘ぎ声が漏れ始める。
「気持ちいい?」
「そこ、弱いのぉ、知ってるくせに、ひん、ひぃっ」
「もっと弱いところ、知ってるよ」
指は乳首から乳房を伝い、するすると腰へ降りていく。その間も指で肌を刺激させることを忘れない。
指は腰に到着した。つつぅとなぞると、佳弥は大きくびくんと身体を震わせた。
「やぁ、ァ、ああ、ひぅ……!」
佳弥は腰が性感帯だった。軽く爪を立ててコリコリと引っ掻くと、甘く途切れがちな声がぽろぽろと溢れ出た。
「あいかわらず弱いね」
「だめ、そんなにしちゃ、ふぅぅぅぅんっ」
 座っていられないほどにくねくねと身体をよじる佳弥。一雄は佳弥の手を引き、ベッドの真ん中に移動させ、寝かせた。体重をかけないよう、優しく上に被さる。ベッドも佳弥の香りがした。まるで佳弥がベッドに溶けていくように感じられた。
「電気、消すね」
 照明から垂れる糸が引かれると部屋が暗くなった。佳弥は感じている顔を見られることが嫌だった。きっと不細工な顔になっているのだろうと、心配だったのだ。一雄はと言うと佳弥の蕩けた顔をじっくりと、ねっとりと見たかったのだが、それをじっと堪えていた。
「一雄……キス、して……」
「うん……するよ」
 そう囁いてキスを落とした。ぺろりと佳弥の唇を舐め上げ、ちうちうと吸った。ぴくんぴくんと跳ねる身体とかすれた喘ぎ声。そんな小さな反応を楽しみながら、手は胸への愛撫を始める。
「んんぅ、んくっ」
 ようやく口が開いた。一雄はその隙を逃さず舌を突っ込んだ。ぐちゅ、ぐちゅ。唾液の絡み合う音が二人の耳に入る。その音に一雄は興奮が、佳弥は恥辱が高まっていく。
「佳弥……すごく、いいよ」
 唇を離すと、混ざり合った唾液がとろりと垂れ、佳弥の口の中へ落ちていった。二人の唾液がブレンドされたそれを、佳弥は舌でゆるゆると混ぜ、飲み込んだ。
「……今日、激しいね。すごいキス……一雄の、いっぱい……ふふ、おいしいなぁ」
 口元を指で拭う。べたべたに濡れた指がキスの過激さを物語っていた。その指も口に入れて、少しも残さず飲み干した。
「そりゃあ興奮するよ。佳弥だって、舌、すごく積極的だったじゃないか」
「そうだけど一雄だって、ヒャン!」
 一雄の唇が乳首を挟み込んだ。なめらかに広がっていく甘い刺激に、佳弥は甲高い声で喘いだ。
「ふぁ、ひううううウウっ」
「可愛いよ、その声」
 佳弥の喘ぎ声が聞きたくて何度もついばみ、舌先で小刻みに刺激を与え続けた。隣りの膨らみには手が覆われ、ぐにぐにと力強くこねられる。
「かずおぉ……だめ、もう、せつない……」
 その切なさがどこから広がり、何を求めているのか。それは聞かなくてもわかっていた。佳弥は次の行為を求めるとき、いつもこう言ってぼやかしているからだ。
 佳弥は淫語を口にすることを極端に嫌がった。また、それを耳にすることさえ許さなかった。一雄はそのことを知っているので、あえて言おうとも言わせようともしない。
「まだ早いよ。もっと感じてから」
「ファ、いい、ひぃぃぃぃ」
 顔を下げ、腰に舌を這わす。べろべろとくびれたところに唾液を塗り込んでいく。爪とは違うねっとりとまとわりつくような感覚に、佳弥はびくんびくんとベッドの上で踊った。
「だめ、そこ、だめっ」
「良すぎる?」
「苦しいよ…あああアアアッ。だめ、これ以上は、ダメ! イく、イっちゃうよ!」
 その言葉に一雄はあっさりと愛撫をやめた。普段なら腰に加えてクリトリスや女性器まで手を伸ばし、佳弥を絶頂まで追いやってしまうところだった。しかし今日はそれをしてはいけない。ここが最後ではなく、ここまではあくまで準備なのだから。
「佳弥、次は」
「うん、私の番、だね」
 それが合図となり、一雄は寝転がって佳弥がその上に重なる。二人のポジションと攻守が逆転した。
「んちゅ、ちゅ」
 こめかみ、首、胸板。全身に唇を押し当てる。佳弥の柔らかな唇に、一雄の性感はチリチリと刺激され始めた。与えられる心地良さに漏らしてしまう自分の声は、まるで女性のように高く、艶かしい。恥ずかしくてやきもきとしてしまう。
「気持ちいい、いいよ、佳弥」
「ふふ、じゃ、ここはどう?」
 ちうっ。一雄の乳首に吸いつく。その瞬間、津波のように押し寄せた衝撃に一雄は声を出すことができなかった。
「なんで男の子もここで感じるんだろうね」
「ちょ、いましゃべられたら」
「ん、不安? 大丈夫だよ、あむっ、ちゅっ」
 信頼している。が、噛まれるかもしれないという不安は襲ってくる。それが性感へと変換され、一種のマゾヒズムのような興奮を覚えてしまう。
 ぬちゅ、べろべろ、べろ。舌が暴れる。空いた乳首は唾液で濡らした指がくにくにと弾いていた。
「あっ、カヤ……アあっ」
「ぷはっ。いい声……ハぁ、私も、興奮、しちゃうよぉ」
「……触ってもいい?」
「うん、触るだけ、だよ?」
 ぬちり。手を伸ばして下半身に触れると、そこは熱く、愛液でトロトロに潤っていた。先ほど一雄が佳弥に行った愛撫と、佳弥が一雄に行った愛撫。その二つの愛撫が佳弥を興奮させているのだ。
「濡れてる、でしょ……? もう、頭がクラクラしてるよ……」
「すごくドロドロ。こんなの、初めてだ」
「恥ずかしいよぉ……次はこっち、行くね?」
 巻いていたタオルを取られる。勃起し、天井に向かってそそり立つそれを優しく握る佳弥。ビクンと身体を震わせる一雄。その様子に佳弥は不安になってしまう。ここで尽きられると困る。今夜は最後のステップまで進む予定なのだから。
「お口、我慢できる?」
「できるよ。だから、お願い」
 見栄を張ってみたものの、一雄はそれほど余裕が残っていなかった。けれど先ほどの妄想のこともあり、どうしてもフェラチオをしてほしかった。
「ほんとに?」
「本当だって。だから、早く」
「はーい。ちゅっ」
 熱い亀頭に口づけをする。そのまま舌先でちろちろと舐め上げた。
「ぷちゅ……はむぅ」 
 身体以上にキスを浴びせ、飴を味わうように、しゃぶる。ぺろ、ぺろり。一雄の分身は佳弥の唾液でべとべとになっていく。
「どう、かな?」
「気持ちいいっ……なんか、どんどんうまくなってるね……!」
「ふふふ、どうしてだろうね」
 言葉を濁し、ぱくんとペニスを食べた。佳弥は一雄には秘密で指やバナナで練習していた。その成果は著しく、一雄は吸い上げられるように腰を浮かしてしまう。
「それ以上は……やばいっ」
「……ぅん、じゃあ、ここで終わりね」
 いつもなら射精をするまで続けてもらっていた。指や口で搾り取られ、その処理が終われば二人は寄り添って眠りに着く、それが普段の行為だった。けれど今夜はまだどちらも達していない。そう、ここからが本番だからだ。

     


 一雄は一度照明をつけ、手荷物から買ったばかりの避妊具を取り出し、つける。この日のために練習していたのでスムーズに装着できた。佳弥はころんと寝転がり、ちらちらと様子をうかがいながら待った。
いよいよそのときなんだ。佳弥は意識してしまう。初体験のことは友人から聞いていた。自分には縁のないことだろうと思っていたのに、それが今、体験しようとしている。佳弥は期待と共に不安でいっぱいだった。
「お待たせ」
再び照明を落とし、暗闇の中、佳弥の下半身に向かう。手が脚に当たり、さわさわと撫でてその肉感を愉しむ。つま先から太もも、そこから股、そして女性器へ。つんと酸っぱい匂いの蜜が溢れるそこに、触れる。
「あっ、かき混ぜないで……ァアン」
「しっかりほぐさないと」
 中指を入れる。ぬるりと膣内に滑り込ませ、ぐるり、ぐるりと指の腹で優しく膣壁を押す。とても熱い。周囲の肉の圧迫もあり、指が溶けてしまいそうだった。
「あ、アアアア」
 苦しいのか、それとも気持ちいいのか。判別が難しいような声を佳弥は漏らす。指一本でもきつい、これより何倍も太いペニスが入るのだろうか。一雄は少し不安にもなった。しかしそれは佳弥にも同じこと。いや、それ以上の不安を感じているに違いない。ならせめて自分は冷静でいられるようにと、気持ちを奮い立たせた。
「それじゃあ、佳弥……」
「……うん、いいよ」
 二人は覚悟を決めた。佳弥はじっと目を閉じ、待つ。一雄は膣口にペニスを置いた。
 くちゅっ
「あっ」
 亀頭が愛液と触れ合ったとき、佳弥は声を上げた。その驚きの声に一雄は全身からどっと汗を噴き出した。この場所でいいのだろうか。亀頭には小さな円が当たる感覚があった。これが膣口、指では何度も触れた。それだけじゃあない、中に入れたこともある。
ここだ、大丈夫、ここでいい。一雄はそう言い聞かせる。
「いくよ」
「うん、来て……」
 ぐっ、ぐぐっ
 亀頭が沈んでいく。
「あ、アッ」
 ずぷ、ぐ、ぐぐぐ
 亀頭がすべて入った。そのまま竿がずりずりと肉壁を擦って進むと、佳弥はペニスを拒むように締めつけた。
「いた、痛いっ……!」
 暗闇の中、表情は見えない。けれど声はその悲痛さを伝えていた。ふと顔に触れると熱い液体に指についた。涙だ。佳弥が泣いていることに気づいた。
だが、ようやく半分。まだ半分しか入っていない。ここでやめるわけにはいかない。
「まだ、いくよ」
 ず、いっ
「いた、ふ、ああああああっ!」
 佳弥は一雄の首に腕を回し、駆け抜ける激痛を耐えようとしてギリギリと抱き締めた。
「力、力を抜いて」
「いた、痛いよ……ぐ、あぐっ」
 声が届かない。一旦抜いたほうがいいかもしれない。が、佳弥の心配をするものの、理性は本能に勝つことができなかった。佳弥の苦痛に満ちた声を聞きながら、一雄は腰を前に進めていった。まだ全部入っていない。熱くたぎった分身のすべて佳弥に収めたい、それだけしか考えることができなかった。
 ずい、ずい
「い、イッ、グゥ……は、はっ、ハッ……!」
「もう少し、もうちょっとだから……力、抜いて」
 亀頭は壁のようなものに当たっていた。処女膜。一雄はその正体に気がついた。それは佳弥の純潔の証。けれど一雄はためらうことなく進もうとする。自分はそれを破ることを許された唯一の男なのだという自信が性欲に後押しされて芽生えていた。
「かずお、だめ、抜いて、いちど、ぬいてっ」
「ああ、無理だよ、俺、もっと、入れたい」
「痛い、いたいっ、裂ける、裂けちゃう!」
 手を伸ばし、一雄の身体を押し返そうとする佳弥。それでも一雄は止まらない。
 ずっ、ズッ
「……っ、……!」
 声にならない佳弥の声。口を大きく開け、ぱくぱくとさせるだけ。それが佳弥を襲う激痛を物語っていた。
 ズッ、ずっ……
 一雄は、佳弥の最奥に、たどり着いた。
「ア、入った……ははっ、全部入ったよ」
「ぐ、ああああ、はぁ……あ」
 苦痛に歪んでいるだろう顔。暗くて見えない。少しでも痛みが紛らわせればと、キスをする。しかし反応がない。ひゅうひゅうと呼吸が唇に当たる。
「……佳弥?」
「ごめん、意識が、はっきりしなくって……どう? 私の……」
「すごく熱くて……ちょっと痛い、かな」
「私も、痛い……世界がひっくり返ったかと思った。でも、嬉しい。やっと一つになれたね」
「俺も嬉しいよ。動いて、いいかな?」
「うん、でもゆっくり、ゆっくりね……?」
 ずり、ずり。一雄の腰が前後する。佳弥はぐっと歯を食いしばり、痛みに耐えた。それが膣内を絞めつけペニスを痛める原因となっているのだが、それでも佳弥は我慢することができない。
一雄のペニスは、ただ締めつけるだけで気持ち良いとは言いづらい膣内、加えて初めてのセックスという緊張で、射精感どころか勃起すら静まりかけていた。
「ね、ねぇ一雄……イけそう?」
「はぁ、はぁ、どうだろう、わからない……」
「私、痛くって……もう無理。お願いやめて……」
「う、うん……」
 一雄は腰を止め、ゆっくりと引き抜いた。ぬちゃり。粘っこい音がそこから鳴った。
「まだ……明かりはつけないでね」
 ティッシュが引き抜かれる音がして、しばらくすると照明が点った。避妊具には摩擦で白くなった愛液と破瓜の鮮血でべっとりと汚れていた。その血に目眩を起こしてしまものの、ティッシュでがしがしと拭い、外した避妊具といっしょにゴミ箱に入れた。そこにはくしゃくしゃの、血のついたティッシュが数枚、先に入っていた。
「ごめんね、ごめんね……」
 佳弥はぽろぽろと泣いた。わけがわからず、とりあえず一雄は佳弥を抱き締める。一雄の胸の中で、佳弥はわんわんと泣き出した。
「どうしたの?」
「私、ちゃんと気持ち良くなれるかな……一雄に気持ち良くなってもらえるかな……」
「佳弥……」
 一雄は、そんな佳弥を黙って撫でることしかできなかった。自分の欲望に負け、痛がる佳弥を無視して腰を動かした自分を恥じ、苛立ち、後悔し、悲しくなっていった。

 それから二人は毎日のようにセックスをした。大学の講義が終わるとどちらかのマンションに駆け込み、休日はデートを愉しんだあと、日が沈んでから日付が変わるまでのほとんどをベッドの上で過ごしていた。
「フぁあ、あん、あっ、アァあああっ」
 激しい腰の動きに佳弥の喘ぎ声は部屋中に響いた。初体験の心配は杞憂に終わり、今では身体の一部のように一雄を迎え入れていた。
 二人は正常位で交わっていた。後背位、騎乗位、一通りの体位を試し、最終的にお互いの顔が見える正常位に落ち着いた。両手を握り合って繋がり、一雄の腰の動きに合わせて佳弥は喘ぎ、たゆたゆと乳房を揺らしていた。
「はぁ、はぁぁ、佳弥の中、ヌルヌルで、すごく、熱い」
「わたし、も、一雄のが、奥まで来て……ヒンッ」
 二人はお互いに酔うように喘ぎ、絡まり、昇っていく。
「あ、アー、アーッ」
 ぴくっ、きゅ、キュ。佳弥の膣内が小刻みに震え、きゅうきゅうとペニスを締め上げる。この日、初めて佳弥はセックスで絶頂を迎えようとしていた。佳弥はその前兆に気づいていない。だが、佳弥がその未体験の快楽を味わうよりも早く一雄の限界が訪れた。
「かやぁ、イ、イく、イくよっ……」
「う、うん……いいよ、イって、イってぇ」
 射精する寸前でペニスを引き抜き、避妊具の中で達した。睾丸からすべて出し切ったような満足感と共にそのまま崩れるように身体を倒して、汗で湿った胸の谷間に顔を埋めた。
「ふふ、お疲れ様」
 佳弥はこの瞬間が好きだった。力尽きて身体を預けてくれる一雄がまるで子供みたいで可愛かった。ついあやすように頭を撫でてしまい、口調も母親のように柔らかなトーンになってしまう。
「どう、だった?」
「良かった……すごく気持ち良かったよ、一雄」
 佳弥はまだ余裕がありそうな様子。荒い呼吸をしているが、表情はずっと笑みを浮かべていた。一雄は口に出したことはなかったが、そんな佳弥を見るたびに自分だけが果ててしまうことに対する申し訳なさと情けなさでいっぱいだった。
「どうしたの?」
「いや……なんでもない」
「変なの。ねえ、ほら、いつもの」
 佳弥の隣りに寝て、腕を伸ばす。佳弥はその腕に頭を乗せ、一雄に顔を向けた。
佳弥はピロートークが好きだった。心地良い疲労と眠気の中、まどろんだ意識で話すのはたしかに楽しかった。裸のまま手を握って、他愛もない話しに花を咲かせる。たまにキスをして、また話しに戻る。愛撫を始めると文句を言われることもしばしばだったが、それでも続けさせてもらえる。別にセックスを始めるわけではない、ちょっとしたスキンシップだった。
これ以上ないほどの幸福がそこにあった。
「そうそう、講義でね、同じ回生の女の子と仲良くなったんだよ。学部が違うから知らないかもだけど」
「へえ、そうなんだ。気になるなぁ」
「なら、今度お昼いっしょに食べようか? 紹介するよ。綺麗な黒髪の子なんだよ」
 勉強も恋愛もすべて順調だった。ずっとこんな日が続くのだろうと、眠っていく意識の中で一雄は思った。

       

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Neetsha