Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 横井の停学が明けてから二週間経った日、俺は沢村と一緒に下校していた。
「でさ……」
「へえ……」
 何気なく会話しているように見えるかもしれないが、俺も沢村もサシはちょっと辛いと思っているところだった。しかし横井はバスケ部脱走組の三浦とカラオケに行っているし、茂田は道を歩いていたらヤケドしたとかいう姉貴の世話で今日はもう家に帰ってしまっていた。それにしても茂田の姉貴の行動圏内には歩いてるだけで手を焼かれるところがあるのかと思うとこの町から出て行きたくなる今日この頃である。満喫ないし。
「誕生日のプレゼントって、何がベストなんだろうな」
「ベストを求めるから悩むんだよ。ベターで満足しとけ」
「おお……なんか深いな後藤」
「ああ、あとはこの理論を実践する機会さえあればな」
「なんかごめん」
「ははっ、気にすんなって」
 と言いつつ、てめー沢村、俺は今笑顔を振り向けているが貴様が最近一年生の美少女と非常階段裏で昼飯を喰っていたのを俺はすでに目撃済みだ。枕を高くして寝ていられるのも俺の五月病が治るまでだと思えよな。
 そんなこんなで俺が腹の中に底知れぬ闇を溜め込んでいると、横断歩道の向こうから不穏なツラがやってきた。
 天ヶ峰である。
「お? おー、沢村と後藤だ。きみたち付き合ってんの?」
「でさ、停学してる間に横井んちで起きた乱闘騒ぎのことなんだけど……」
 俺と沢村は話に夢中になっていて呼びかけに気づいていないフリをしたが無駄だった。天ヶ峰はすれ違いざま、俺たちの腹にポンと拳を当ててきた。
「なにしてんの?」
 逆らえません。
 俺たちは駅前のアイスクリーム屋でチョコミントアイスを食べたいのだということを打ち明けた。
「あたしも食べたい」
 ほら見ろこれだ。これだからテレビで出てきたものをすぐに食べたがるやつには言いたくなかったんだ。ついてくるに決まってやがる。
「いや、天ヶ峰、あそこのアイスすげーまずいらしいぜ?」
「えー。大手チェーン店でおいしいとかまずいとかあるの?」
 小ざかしいこと言いやがって。誰だよこいつに日本語を教えたのは。
「知ってる? チョコミントのあの緑の部分って虫を使ってるんだぜ?」
 アイス屋の親父がうしろにいたら首を絞められかねない嘘で沢村が打って出た。が、天ヶ峰はアハハハと笑う。
「篭城戦を思えば少しはマシだね」
 思うなよ。てかよく覚えてるなあんな嫌な思い出……
 俺と沢村は小学校時代の悪夢を思い出してうなだれた。九つかそこらで篭城をキメこんだ経験があるなんてこの町で育つか戦国に生まれるかのどちらかだと思う。
「で? 今日は二人のうちどっちがお金持ってるの?」
 ちっ、この人肌を暖かいまま剥ぎ取る悪魔め。
「アイス屋のクーポン券を重ねがけしてタダにするから、天ヶ峰の分はないんだ。ゴメンネ」
「じゃあそのクーポンはわたしのものだった気がする」
 違います。
「あそこのクーポンは裏に名前を記載していないと使えないんだ」
「ええ? なにそのクーポン? そんな制度聞いたことないよ」
「アイス屋の親父に言ってくれ。とにかく俺たちは夏に向けてどういう手順で120種のアイスを攻略していくか考えるのに忙しいんだ。手芸部は部活でもしてろ」
 天ヶ峰の脇を通り過ぎようとしたが、沢村がついてこない。なにしてんだ。
 沢村は中空を見つめて、
「悪い、俺いかなきゃ……」
 などと言い出した。
「腹でもいてえの? 無理すんなよ」と俺。
「すんなよー」と天ヶ峰。
「ちげえよ! くそ、おまえら人の気も知らないで……!」
「いいからいけよ。俺たちアイス食いにいくから」
「クーポン券を置いていけ」
「……! うわあああこの人でなしどもがああああああ!!!」
 沢村はクーポンを投げ捨てて走り去っていった。
「ふふふ、クーポンゲット! ……でも沢村、どこいったんだろ?」
「なんだおめー知らねーのか。遅れてるな」
「ええ? なんなの? 教えてよ後藤!」
 どうしようかな、と言おうとしたら腹に拳を添えられてしまった。やめてよこれ。ダメージないのに背筋が冷えるんだよ。
 俺は仕方なく白状した。
「正義の味方やってんだよ、あいつ」
「ああ、バイト?」
 違います。
「ほれ、あいつ手から火ぃ出せるようになっただろ?」
「?」
 覚えてないねその顔。忘れるか普通? 記憶野が脳内麻薬で燃え尽きてんじゃねーの。
 天ヶ峰は餌を待つ小鳥みたいな面になって、
「ああー。なんかあったかもそういうの。あれまだやってたんだ。で? 手から火を出してバイトしてんの?」
「バイトから離れろよ。ガスコンロがあればあいつなんかいらねえだろ。……おまえはその調子だと知らないんだろうが、最近沢村の周りには他の能力者がたくさん来るようになってな。野良の能力者とか犬飼さんのBITEって組織のやつらが」
「やっぱバイトじゃん」
 だあ! やっとそこから離れたのに! 誰だよこんなわかりにくいネーミングにしたの……かっこいいと思ってたの?
「とにかく!」俺は仕切りなおした。
「なんだかしらねーが最近超能力者がこの界隈にうろついてんだろ。で、沢村はそいつらと戦ってるってわけ」
「つまり、今から戦闘パートってこと?」
 うん……まあ……そうだね。
 天ヶ峰はその場で地団駄を踏んだ。
「なにそれ見たい見たい見たい見たい見たーい!」
「じゃあ見にいくか?」
「え、いいの?」
 俺に拒否権ってあります?


 ○


 俺と天ヶ峰は雑居ビルの屋上へ出た。初夏のにおいが顔を打つ。早く夏休みにならねーかなー。
「あれ? 沢村たちいないじゃん」
「ああ、それはな」
「謀ったな!!!」
 俺は頭を下げて天ヶ峰の回し蹴りをよけた。
「落ち着け。誰も現場にいくとは言ってねえだろ。それに沢村に見つかるわけにもいかねー」
「あー、そっか、火を出せることがバレてるってまだ知らないんだっけ沢村」
「ああ。だからやつらが主戦場にしてるビルを隣のビルから双眼鏡で眺めるんだよ」
 俺は鞄から双眼鏡を取り出した。天ヶ峰が感心したように言う。
「いつも覗いてんの?」
「うん」
 だって面白いし。
 紫電ちゃんがうら若い乙女を地下牢にぶち込んでから、沢村はかれこれ八人ぐらいとバトルしてるがそのすべてを俺は見てきた。そこには横井がいたり茂田がいたり紫電ちゃんがいたりなぜか望月さんがいたりもしたが、そのすべてを目に焼き付けたのは俺だけだ。今ではすっかり沢村の追っかけである。
「沢村のこと好きなの?」
「なんで女子ってすぐそういうこと言うの?」
「ご、ごめん……」
 珍しく天ヶ峰が謝ってきた。なんかこの話題で嫌な思い出でもあるのかな。
 俺は双眼鏡を覗き込んだ。
「はんぶんこしよ」
「わかりました」
 天ヶ峰と頬をつけあうようにして双眼鏡を覗き込む。二つに分かれるやつにすればよかった。こいつの髪の毛なんか硬い。
「わ、沢村だ!」
 隣の雑居ビルの屋上で沢村が両手から64/1スケールの炎を両手から出していた。最近気温が上がってるのってあいつのせいなのかな。
「あっち見てみろ。敵がいるぜ」
「どこどこ?」
 双眼鏡をスライドさせる。と、革ジャンを着た金髪浅黒のガキが帝王みたいな顔をして顎を突き上げていた。ガキといっても俺らより年齢は一つか二つ下だろう。ただし腕力は俺や沢村より一つ二つ上に見える。
 ガキもまた両手から炎を出していた。黒に近い紫色の炎だ。
「あー、二の腕がちょっと細いなあ」
「おまえどこ見てんの? 炎を見ろよ」
「うーん。火とか出されてもね……」
 そこだけ冷静か。こいつの興味の指向性がよくわからん。
「見ろ、なんか言ってる」
「後藤、読唇術で何言ってるか教えてよ」
「俺はメガネだから目を使う系は駄目だ」
「そういう問題?」
 ジト目で見てくる天ヶ峰を無視し、俺はエアコンの室外機裏に隠してあるとっておきのブツにかけていたブルーシートを剥ぎ取った。雨水が顔にかかって死にたくなった。
「なにそれ? グレネードランチャー?」
「科学部の桐島から借りてきた。これをこうして」
 俺はランチャーを肩にかまえて、向かいのビルの上空へとぶっ放した。といっても音は「プシュッ」と大したものではなかったが。
 ランチャーから吐き出されたタマゴ状のものが青空を背景にはじけた。パラシュートが開いて、下を向いたマイクがゆっくりと下降してくる。俺はランチャーについているイヤホンの一方を天ヶ峰に放った。
「音はこれで大丈夫だ」
「すごい! 桐ちゃんはやっぱデキる子だなあ。元気してた?」
「俺がこれ借りた時は上履きを食ってた」
 俺と天ヶ峰は双眼鏡とイヤホンを装備して腹ばいに戻った。耳元で沢村の声がする。
『てめえだな……南中の二年生を五人も病院送りにしたってのは!!』
 金髪がべろんと舌を出して沢村を嘲笑った。
『だったらなんだってんだよゥ。おまえには関係ねえだろ?』
『ある!! 俺も能力者だからな……同類が人の道から外れていくのを見過ごせねえよ』
『へっ……正義の殿様気取りかよ。気に喰わねえ……景気よく燃えちまえや!!』
 ガキが腕を突き出し、紫の炎を放った。沢村は横っ飛びによけたが、制服の裾が少しだけコゲた。
「あーっ!! あぶない沢村ああああっ!!」
「馬鹿、声がでけえ!」
 俺は天ヶ峰の頭をコンクリに叩きつけて深く伏せた。
『……いまの声は?』
『わからん。誰かいんのか……?』
 沢村とガキはいぶかしんでいるようだったが、すぐに気を取り直した。
『関係ねえ、目撃者がいるんならてめえを倒した後で燃やしてやるぜ、沢村!』
『なっ……どうして俺の名前を!?』
『有名だぜぇ……俺たちのチームを片っ端から潰して歩いてくれてるんだってなあ? 鈴木と野田が世話になったらしいな……!!』
『っ、あいつらの仲間か! 火遊びで何人も怪我させやがって……』
 話が逸れてくれたようなので、俺は天ヶ峰の頭から手をどけた。
「ふう……バレなかったようだな」
「ようだな……じゃないよ! いったーい!! もう、かすり傷がついちゃったじゃん……」
 かすり傷で済んだのがすげーよ。殺す気でやったんだぞ。
「もう後藤、次やったら許さないからね?」
「肝に銘じておく」
 そこで、大きな爆炎が向かいから上がった。
『くっ……!!』
 沢村の苦しげな声。どうも火力では向こうに分があるようだ。屋上がほとんど紫色の火に嘗め尽くされている。ぺろぺろ状態である。
『くそったれが!!』
 沢村も果敢に赤い炎をぶっ放して一瞬だけ紫の燎原に隙間をこじ開けるのだが、お気に入りのカップを壊しちゃった時のお母さんの怒りのように紫の火はその勢力を失うことはない。これはやべえ、と俺は思った。
「沢村……負けるかもな」
「そんなっ! なんとかできないの!? わたしが行こうか?」
「駄目だ」
「どうして!?」
「これは、沢村の問題だから……」
 天ヶ峰はぐっと唇を噛み締めて前へ向き直った。
「沢村……!」
『ぐあああああああああ!!!!』
 沢村が紫の火を食らってゴロゴロ転がっていき、壁にぶつかって止まった。背骨に来たらしく立ち上がることがなかなかできずに震えている。
 金髪が高笑いした。
『そんなもんかよ、ええ、正義の殿様さんよォ! ずいぶんナメた態度取ってくれた割には大したことねえなあ? ああ?』
『くっそ……』
『なんで俺に勝てないかわかるか? 弱いんだよおめーの炎はよお。こう、ぐあっとしたもんがねーんだよ。つまりビビってんだよてめーは』
『なん……だと……!!』
『炎ってのは酸素を喰らって大きくなるんだ。酸欠状態の炎なんか怖くねえや。さあ、とっておきのトドメといくか……!!』
 金髪が両手を掲げて、中空に巨大な火球を練り上げ始めた。
「やばい! あれは元気玉的な何かだ」
「じゃあ悪の気を持たない沢村ならなんとかなる?」
「フリーザが使うやつだから駄目だ」
「そんなぁーっ!! ちくしょうこんなことならもっと肉まん食っときゃよかったーっ!!」
 こんなときにヤジロベーのモノマネを始めた天ヶ峰のことは放っておき、なんとかしてやらねばなるまい。このままだとマジで沢村が焼き村になってしまう。
 俺はブルーシートから新しいウェポンを取り出した。頼むぜ桐島、あんたが頼みだ。
「なにそれ? ライフル?」
「ああ」
「ねえ、その手に持っているのは何?」
「タマゴ」
 俺はタマゴをライフルに装填した。ガシャコン、とレバーを引いてチェンバーをタマゴで満たす。
「食べ物は粗末にしちゃ駄目だよ」
「安心しろ、腐ってるやつだ」
 俺はフェンスの隙間に銃口を突っ込み狙いを定めた。金髪は沢村の頭を踏みつけてゲラゲラ笑っている。まったく生意気なやつだぜ。
 後輩にはキチッと年功序列を教えてやらねえとな。
 俺はトリガーを引いた。

 バシュッ

 タマゴは宙を切りさいて金髪の顎を撃ち抜いた。
 かくん、と金髪の膝が落ちた。同時に屋上を占めていた炎がすべて鎮火した。
「わ、横からの顎(ジョー)への一撃! これは立っていられないよ」
 俺は煙の出ていない銃口をふっと吹いた。
「よし、今のうちに沢村を回収しちまおう。いくぞ天ヶ……」
 いない。
 見るともう向こうのビルにいる。こっちに向かって手を振っている。俺も笑顔で手を振り返した。もう慣れちゃった。
 沢村を背負った天ヶ峰がペントハウスに消えるのを見て、ランチャーとライフルをブルーシートに隠しながら、俺は沢村について考えていた。今日は秘密道具を設置してあるポイントだったから援護できたが、そうでなければ沢村は死んでいたかもしれない。あの金髪の言う通りだ。沢村には火力が足りない。
 なんとかしてやろうと思い、俺はある人のところへ向かった……






『登場人物紹介』



 後藤…クレー射撃の才能がある

 桐島…科学部部長

 金髪…吉田武信(15)。得意科目は英語。得意技は発火能力

 沢村…この後、ベンチに捨てられた。

 天ヶ峰…この後、沢村を捨ててアイスを食べに行った。





「――で、沢村くんの能力を強化する手助けを求めに私のところへ来たというわけ?」
「そうなんですよ」
 俺は目の前にいる黒髪ロングの美少女に頭を下げた。
「紺碧の弾丸さんなら、発火能力なんかもう極めたんじゃないですか? ひとつよろしくお願いしますよ」
 俺のおだてに紺碧の弾丸さんは悪い気はしないらしく、優雅にコーヒーカップを手に取った。
「ま、もう組織の犬を何匹か焼き払ったけれど……」
「焼き払ったんですか?」
「ええ。信じてないわね。証拠を見せてあげるわ」
 紺碧の弾丸さんはスクールバッグをごそごそ漁り始めた。そして何枚かの布切れを喫茶店のテーブルの上に並べた。
「なんですこれは。邪炎帝の聖骸布(イフリート・オーラ)ですか」
「そんなのない」
「すみません」
 ちっ、外したか、と思ったが左手で携帯に素早くメモっていたのを俺は見逃さなかった。少しは気に入ってくれたらしい。ふふっ、後藤うれしい。夜なべして身に着けたんだ、このセンス。
 紺碧さんはテーブルの上の布を指差しで解説し始めた。
「これは最初に私を襲ってきた男の袖ね。たこ焼きを食べていたらいきなり喧嘩を売られて正直怖かったけど頑張ってアフロにしてやったわ。で、これは敵の組織の女幹部の袖ね。こいつもアフロにしてやったわ。それからこの袖は唯一私と互角の腕前を持つサイキッカーの袖……こいつは最初からアフロだったわ」
「アフロって重要ですか」
「ええ、だってアフロにしてやれば鏡を見るたびに私に負けたことを思い出すでしょう? くくっ、愉快痛快とはこのことだわ! うふふふふふ……」
 何か学校で嫌なことでもあったのかなと心配したくなる紺碧さんの捻くれっぷりだったが、今はかえって助かるくらいだ。この世界では頭のネジが飛んでいる本数が戦闘力と直結しているらしいから。
「紺碧さん、あなたが持つ他人をアフロにする才能はやはり本物です」
「やめてくれないその言い方」
「その力と経験で沢村に偶然を装いつつ修行を施してやってくれませんか。あいつ最近負けそうなんです」
「ふん……」と紺碧さんは鼻を鳴らした。
「BITEも本気を出してきたようね。犬飼とかいう女が仕切ってるっていうのは私も聞いたことがあるわ。なんでも沢村くんは特にお気に入りでちょっかいを出してきてるそうじゃない」
 そうだったのか。あの年増め、沢村の若いカラダも目的だったんだな。
「後藤くん」
「なんでしょう」
「私も鬼じゃないわ。沢村くんとは一度戦う運命の糸に編みこまれた仲とはいえ、恨みはないわ……正直あの頃の私がテンパっていなかったとは言い切れないし。だからあなたたちのスーパーバイザーになってあげたい気持ちはある……けど」
「けど?」
「なにか大切なことを忘れているんじゃない?」
「大切なこと……」
 俺は小首を傾げた。
「お金ですか?」
「穢れてるわね」
 そこまで言われるとは思わなかったぜ。
「じゃあなんですか。はっきり言ってくださいよ」
「なんて猛々しい……盗人なんとかっていうのはあなたのことね!」
 紺碧さんは俺に指を突きつけた。


 ビシィッ



「私のパンツを返しなさい!!!」



 ちっ。やっぱ覚えてやがったか。
 俺はため息をついた。
「そもそも俺たちが盗んだわけじゃありません。あなたがパンツを受け取り忘れ、堂々と帰っていったことがそもそもの発端です」
「言ってよ! アフターケアのなっていない男どもね……!」
 まるで何かコトがあったかのような言い草はやめてもらいたい。さっきから斜め隣の席の幼女が「パンツ」という単語に惹かれてこっちを見ているのだ。
「この件に関してはパンツの返還がなされないことには交渉の余地はないわ。言うことを聞いて欲しければパンツを持ってくることね」
 こっちだってあんな所持しているだけで刑法に触れそうなブツは返還したいことヤマヤマなのである。現に俺は紺碧さんを頼ると決めた時にさすがにパンツの話題は避けられまいと予感し横井にパンツの返還を促した。が、時はすでに遅すぎた。
 横井はにへらっと笑い、薄汚い舌をぺろり見せてきた。

『売っちゃった』

 常識的に考えれば知人のパンツを無断で売り払った横井は犯罪者である。が、この件には情状酌量の余地があり、そもそもさかのぼれば天ヶ峰の馬鹿が生活費欲しさに俺たちからカツアゲしたことが発端となっている。俺は天ヶ峰災害基金からおひねりをもらったりして凌いでいたが、中学から転校してきた横井にはそういうシノギがまだわかっていなかった。だから財布の中に糸くずしか見出せなかった横井はウルトラCに打って出た。それが紺碧パンツ売却事件のあらましである。
 グダグダ言ったところでパンツはないのである。ないものはない。ノーパンはノーパン。だが、それではこのもうこはんを尻に宿した女は納得するまい。そう思ってもう策は用意してきた。
「紺碧さん、悪いがパンツはここにはない」
「取りにいくわよ。どこ?」
「いや、もうどこにもないんだ」
「はあ? どういうこと?」
「洗濯して干した時に風に飛ばされてな……君のパンツは帰らぬ下着になった」
「うそ……」
 紺碧さんの身体がふにゃふにゃと力を失った。
「私のクマさんパンツが……?」
 気に入っていたのか。それは予想外だった。
「紺碧さん、代わりといっちゃあなんだが……」
 俺はカバンからプレゼント用のラッピングされた箱を取り出して、紺碧さんが来る前に食い散らかしたケーキの皿をのけてどんと置いた。
「これが俺の気持ちです」
「え……やだ、何よいきなり……」
 紺碧さんはおどおどしてしまってなかなか箱に手を出さない。その恥じらいはプレゼントを贈る側としては嬉しいものだったがさっきからパンツパンツ連呼して周囲の目が辛くなってきたので正直とっとと開けて欲しい。
「さ、どうぞ……」
「わ、私……モノで釣られるような女じゃないんだからっ!」
 言いつつ、紺碧さんはラッピングを丁寧に剥がしてそっと箱を開けた。
 するとそこには――
「どうです、パンツ12色の詰め合わせセットの味は!!」

 ばごっ

 紺碧さんの投げた箱のフタが俺の顔面を直撃した。
「死ね!!! 変態!!!!」
「パンツ返せっていうからパンツで弁償したんですけど」
「こんな大げさなラッピングされてるものを開けて色とりどりのパンツが出てきた時の女の気持ちなんてあなたにはわからないんだわ」
「そうは言いますけどね、考えてみてくださいよ、プレゼントって中身が重要なんですか?」
「え――それは」
 紺碧さんはちらりと目をそらした。
「気持ちが大事……だと思うけど」
「でしょう。じゃ、気持ちってなんです」
「は? そんなの……」
「少なくとも俺はこのパンツに誠意をこめたつもりですよ」
 俺は箱の中のパンツの一枚を手にとった。ピンクだった。
「こんな見るからに冴えない男がデパートの女性用下着売り場へいって、パンツコーナーで恥を忍んでセットもののパンツ見つけて、おまけにラッピングまで頼んで買ってきたんですよ? その間、俺はあらゆる年代の女性から軽蔑と嘲笑の的にされたんですよ。それでも俺はめげなかった。それもこれも沢村を助けてやりたいから、そして、そしてあなたにパンツを穿いていてもらいたい! その一心から俺はこのパンツセットを買ってきたんだ!」
 俺の叫びに紺碧さんは雷に撃たれたような顔をしていた。
「そ、それは……」
「お気に入りのパンツを紛失させてしまった、そのことに罪悪感を覚えていたからこそできた一事だってことをわかってほしい……ねえ、俺の目、乾いてるでしょ? ふふっ、もう出ないんですよ……涙が……」
 紺碧さんの瞳にぶわああっと涙が浮かんだ。
「ご、後藤くん……あなたって人は……!!」
 俺は駄目押しに、パンツセットの箱を手の甲で少し追いやった。
「穿くか穿かないか、それはパンツと相談して決めてください。でも俺は何がなんでもあんたに受け持ってもらいますよ、沢村の超能力コーチをね。でないと俺はこのパンツたちに顔向けができねえんすよ……」
 俺はたっぷり間を空けてから顔を上げた。
 紺碧さんは手の甲でごしごし目をこすってから、慄然と前を向いた。
「いいわ、引き受けましょう。沢村くんの先生役を」
「よかった。一度勝ってるあんたの言うことならやつも聞くでしょう」
 俺と紺碧さんは固い握手をかわした。
「それじゃあ、俺たちが沢村キネシスについて知ってるってことは内密に。隠してるんで」
「わかったわ」
 紺碧さんは優雅にコーヒーの残りを飲み干した。その時、タイミングよくケーキが運ばれてきた。俺はそれがちょっと羨ましかったが、断腸の思いで席を立った。ケーキなら紺碧さんが来る前に充分食べたし。
「帰るの? もっとゆっくりしていったら」
「ええ、ちょっと金策をしにいくんです。パンツセット買って金ないんでね」
「そう……バイト?」
「ま、そんなとこ。じゃあ」
 俺が手を振ると紺碧さんもおずおずと手を振り返してきた。まだおっかなびっくりだが、ほんの少し、今日は彼女との距離を縮められた気がする。
 俺はさわやかな気分と共に喫茶店を後にした。
 二千円浮いた。








『登場人物紹介』


 後藤…クズ

 紺碧の弾丸さん…次に会ったら後藤を殺すつもりでいる

 横井…パンツブローカー




 終業のチャイムが鳴って、クラス中からどっと安堵のため息が漏れた。生徒全員から早く終わることが望まれている高等教育というのもいかがなものかと思うが、まあ俺たちは釈迦の説法だろうと新興宗教の勧誘だろうと全然話を聞いていないので、つまり何を言っても無駄ということになる。
「あー、やっと終わったあ」
「ぶわあああああああ」
 横井がうーんと伸びをし、茂田がハンバーガー六個分のあくびをした。後は帰りのホームルームを済ませれば茶をしばくのも自由、家で動画を見るも自由な楽しい放課後が待っている。
 うちの担任は基本的には放任主義で通っている。生徒の自主性を重んじるとかいう、もはや耳にしても意味が汲み取れないほど聴覚的ゲシュタルト崩壊を起こした主張をかざしている。その結果がこれだ。

 ピンポンパンポン

『二年三組、HR終了。帰ってよし!』

 指原教諭の声だけは今日も元気である。よくもまァこのご時勢に職にありつけているものだと思う。こっちはラクだからいいけど、それでいいのか二十八歳?
「やったあ自由だあ」
 運動部系に所属している女子たちが窓から出て行った。ちなみに三階である。いくら校庭側に張り巡らされたネットに飛びつけばいいからといってそんなアクロバティックをスカートでやるのはやめて欲しい。が、怖いから誰も言わない。
 文化部・帰宅部の男子たちと一緒に俺たちは教室を出た。
「帰りどっか寄ってかね?」と横井。
「どっかってどこよ」と茂田。
「どっかはどっか」
「おまえプラン決めずに提案すんのやめろよ」
 まったくだ。横井のやつは煽るだけ煽って自分では何も具体案を出さないのである。そういうことは全部俺たちに決めさせるのである。俺たちは軍鶏じゃねえ。
「まあまあ」横井がどうどう、と俺たちを抑える。
「これもひとつの協力関係ということで」
「口の上手い野郎だぜ」
「横井、てめえ彼女でも出来ようものならおのれの顎で飯が食えると思うなよ」
「怖っ! ていうか後藤好きだなそれ」
 うるせえな。ちょっと恥ずかしくなるから指摘すんのやめて。
 俺たちはぶらぶらと歩き、途中で吹奏楽部の女子たちの校内ジョギングに巻き込まれて轢死しそうになりながらも下駄箱へ辿り着いた。外でやってくんねえかなあれ。
 下駄箱から汚ぇスニーカーを取り出しながら横井があれ、と言った。
「沢村だ」
「べつに沢村ぐらい珍しくもねえだろ。そのへんで売ってる」
「いや売ってはいないだろ!」
 茂田が目を細めて、走り去っていく沢村の背中を見送った。
「あんなに急いで、あの低血圧がどこへいこうとしてるんだかな」
「貧血にならないように下駄箱にカエルを入れておいてあげようぜ」
「やめろよ……いじめだぞそれ……」
「黙れパンツブローカー」
「だあっ! それ学校の中で言うなって! つかあれ一回だけだからね?」
 一回でも駄目に決まってんだろ。
「そういや後藤さ」と茂田が言った。
「おまえ紅葉沢さんをけしかけて沢村のコーチにしたって言ってたっけ?」
「紅葉沢さんって誰」
「もうこはん」
「ああ。紺碧さんね。うむ、頼んでおいたがどうなったかは知らん」
 横井が呆れ顔になった。
「ちゃんと最後までケアしてやれよ……」
「いや、そうしたいんだが、ちょっと今紺碧さんと気まずいんだよ」
「なんで?」
「女には洒落がわからんのだ」
「そういうこと言ってるから女子が寄り付かないんだよ後藤。あだっ!!」
 俺は横井の足の小指を念入りに踏みにじってから外へ出た。夕方にはまだ少し早い青空が広がっている。
「ちっ、胸糞悪ィ」
「青空見てどうしてそんな言葉が出て来るんだよ。俺にはおまえが恐ろしいよ」
 ツッコミ長ぇなぁ横井。
 俺たちはだらだら喋りながら下校し、そしてどう話が弾んだか、多摩川の川原でキャッチボールをすることになった。
「ボールとミットはどうする」
「あ、確か土手際に酒井さんちの酒屋があるんだよ。貸してもらおうぜ」
「酒井さんちにボールとミットが三人分もあんの?」
「あの人、兄貴が三人もいるからスポーツ用品はなんでも持ってんだよ」
 さすが女子への登竜門。そういう木っ端情報をよくお持ちで。俺と茂田はそこはかとない逆恨みの念を横井へ送ったが彼奴は気づかなかったらしくへらへらしている。
「やべー、俺さ小学生の頃リトルリーグだったから本気出すわ」
「エアリトルリーグだろ」
「チームメイトはコンクリの壁か」
「違ぇよ!! なんでそんな寂しいやつみたいになってんだよ俺。おまえらには俺がどう見えてんの? ……え、なにその目……? やだこわい」
 まったく何がリトルリーグだ。あんなもんに入って保護者同士のお茶会でもしてみろ、俺のお袋は過労かストレスで暴挙に出るし、茂田の姉ちゃんは嫌味ったらしい三角メガネババァの鼻っ柱をメガネごと折るぞ。俺たちはそういったクラブに入りたくても家庭の事情で入れなかった哀れなチルドレンなのだ。
 そうこう言っているうちに多摩川際まで来た。土手はちょっと盛り上がっている上に、ちょうど沈みかけの太陽を隠しているのであたりは薄暗い。世が世なら何か出そうな雰囲気である。
「こういうとこ、夏に彼女と涼みに来たいな」
「悲しいこと言うなよ」
「悲しいこと言ったか? 俺」
 俺たちは酒井酒店のガラス戸を潜った。
「すいませーん。かおりちゃんいますかー」
 すげぇな横井。いや、何がどうすごいのか上手く言えんが。
 レジで新聞を読んでいたおじいさんがニコニコしながら会釈してきた。
「いらっしゃい。お酒?」
 おい学生だぞジジィ。
 横井が前に出てニコニコを返した。
「いや、かおりちゃんを」
「おお、かおりね」
 そういっておじいさんはレジの下に屈みこみ、立派なラベルのついた瓶をドン! とカウンターに置いた。ラベルには墨でこう書かれていた。

 かおり

 俺は横井のわき腹を小突いた。
「もうあれでいいよ」
「よくねぇよ!? 全然よくねぇからな!? なに酒からボールとミット借りようとしてんだよ。駄目だろ」
「意外といいやつかもしれん」
「だから酒だよ!! なに茂田までおかしなこと言ってるの? 俺までどうにかなりそうだよ……」
 そうこうふざけているうちにガチモンのかおりちゃんが裏から出てきた。
「あ、いらっしゃい。どしたの? ……ああ、おじいちゃんまたそのネタやったの」
 またなんだ。恒例なんだ。おじいちゃんは「そのネタ飽きたよ」みたいな孫娘からの視線をモノともせずに合成清酒『かおり』をレジ下へ戻し、何度も会釈しながら裏へ引っ込んだ。
 エプロンをつけたはしたない格好のかおりちゃんこと酒井さんはレジに腰かけた。
「で、ご注文は?」
「君をください」
「茂田くん、女子から気持ち悪いって思われてるよ」
 茂田、即死。
 俺と横井はその屍の上に乗って、身を乗り出した。
「いや、ちょっとキャッチボールしたくって。ボールとミット貸してくんない?」
「ああ、いいよ」
 そう言って酒井さんはレジ下から「はい」とご用命のブツを取り出してきた。
「みんなよく借りに来るからさ、もうレジの中に置くことにしてんの」
「あはは、悪いね」
「いいよー。横やんと私の仲だし」
「ありがとー」
 横井と酒井さんはニコニコ笑いあった。気をつけろ酒井さん、この男は茂田の屍の上で笑っているんだぜ。
 礼を言って、俺たちは酒井さんちから出た。野球はルールもロクに知らないが、白球をバスバスとミットに打ち付けているとなんとなく気分が出てくるから不思議だ。これが魔球というやつか。
「違ぇよ」
「心を読むなよ」
「だってなんか面白いこと思いついたみたいな顔してたし」
 ひょっとしたら本当に面白いかもしれないだろ! ちょっとは信じろよクソが!
 俺たちは土手に登った。
「ふう。階段登るのも一苦労……あれ? パンツだ」
「何ッ」俺と茂田は顔を上げた。見ると本当に空をパンツが舞っている。
「いい時代になったな」
「まったくだ」
 パンツはひらひらと青空を漂っている。俺と茂田はミットを掲げた。
「オーライオーライ……」
 のんきぶっこいてたその時である。

 どんっ

 パンツが爆発した。
 茂田が腰を抜かした。
「うわああああ。うわああああ。パンツがあああああ」
 落ち着け。俺もわりかしビックリしたが、こういう時にこそクールにならねばならん。俺は横井を伏せさせ、土手の下、川原際を覗き込んだ。案の定、誰かいる。
「見てみろ。沢村と紺碧さんだ」
 横井もひょこっと顔を出した。
「マジだ。沢村のやつ、最近帰るのが早いと思ったらこんなとこにいたのか」
「パンツがあああ。パンツがああああ」
 茂田はもう駄目である。パンツの闇に飲み込まれた。
 俺は目を細めて、超能力者コンビを観察した。
「紺碧さんが何か投げてるな。あれは……あっ! あのアマ、あれ俺があげたパンツセットじゃねーか!!」
「おまっ、おまえなんでそんなもんあげてんだよ!! 変態!!」
「いやちょっと事情が……っておめーのせいだろ!」
 俺は横井のわき腹に手刀を差し込んだ。
「げぶゥ」
「その痛みは我が苦しみの一欠けらと知れィ」
「何やってんだおまえら。こういう時こそクールにだな」
 人知れず茂田が復活していた。人のセリフをパクるんじゃないよ。
「ふむ……どうやら紺碧さんが投げたパンツを沢村が燃やしてるようだな。何かの訓練か?」
 訓練、という言葉で俺の灰色の脳細胞がチカリと光った。そして、宙を舞うパンツに必死こいて火球を放ち撃墜している沢村を見てますます確信を深めた。
「鋭いな茂田」
「知ってる」
 うぜえ。俺は気にせず続けた。
「見てみろ、沢村の火球を。前に見た時と比べてデカイだろ」
「ああ、ほんとだ。でもその代わりに遅くなってないか?」
「その通り」
 俺はメガネのつるをファックサインで押し上げた。
「沢村は火力不足を補うために火球を大きくした。が、そうするとスピードが殺されてしまった……なら、どうすればいい?」
「気合と根性、努力に愛、そして最愛の人の避けられぬ死」と茂田。馬鹿が。
「えーと、スピードを上げる?」と横井。
「横井正解。だがそれだけじゃない」
 横井と茂田がかつてないほど俺に注目した。ちょっとはずい。
「後藤、それだけじゃないってどういうことだ? 教えてくれよ」
「うむ。つまり仮にスピードがなくても、要は当たればいいんだ。そのためには敵の動きの先を読む洞察力が必要……」
 茂田がポンと手を打った。
「ああ、だからか! ひらひら動くパンツに鈍い火球を当てられるようになれば、確かに戦闘力アップだぜ。考えたな紅葉沢さん……!」
「あのアマ、どうやら給料分の仕事はしてくれたらしいぜ」
 俺たちはそのままホフクして、「ヤッ」とか「ハァッ」とか言いながら飛んだり跳ねたりしている沢村とそれを操るかのようにパンツを撒いている紺碧さんを見下ろした。
 そうこうしているうちに横井がもぞもぞし始めた。







『登場人物紹介』


 沢村…修行中

 紺碧さん…転んでもタダでは起きない






 横井が苦しげに呻いた。
「ちょっかい出してぇ――――……」
 同感である。俺も顎の下の雑草を掴んでぶるぶると震える思いだった。あの野郎、このままだと紺碧さんとフラグすら立てかねない。そうはさせんぞ。
「茂田、横井、何かいい案はないか。俺は沢村のあの必死な顔をしつつ実は女の子と二人きりになれてちょっと嬉しげな目元を見るのがもう我慢できん」
「俺もだ」茂田が深々と頷いた。
「けどよ、火炎瓶を投げつけるわけにもいかねえだろ? どうすっかな」
「酔っ払ったフリをしてここから三人で立ちションするのはどうだ」
「人間としてどうかと思う」
「そうか。そうだな」
 パンツセットを売りつけるよりもよほど犯罪的である。
 俺たちはない頭を必死に捻って考えた。見上げる先では夕焼け空を背景にボンボンパンツが爆発している。たまにジョギングマンたちが不思議そうに燃えるパンツを見上げては何事もなかったかのように走り去っていく。コンセントレーションできすぎだろ。
 宙をパンツがひらひらと舞う。
 それを見てハタリとひらめいた。
「よし、キャッチボールはやめだ」
「ああ、間違ってボールを燃やされかねないしな」
「それもあるがもっと面白いことを思いついた。いくぞおまえら、目指すは酒井さんちだ」
 俺たちは石段を降りて酒井さんちへと舞い戻った。
「たのもう」
「たのもう」
「たのも―――――――ぅ!!!!!!!」
 うるせえよ茂田。やりすぎだよ。
 酒井さんはまだレジにいた。耳を塞いで、先人が流していかなかったトイレの残留物を見るような目で茂田を見ている。
「何?」
「キャッチボールはやめたから釣り道具を貸してくれ」
「いいけど……」
 酒井さんはまたもやレジ下にもぐりこみ、竿を貸してくれた。
「バケツいる?」
「キャッチアンドリリースするからいらない」
「ふうん。何釣るの?」
「知りたいかね。ふふふ、君にはまだ早い」
「どうでもいいけど竿壊したりしないでね」
 はい。
 俺たちは意気揚々と酒井酒店を後にした。石段をひいひい言いながら登る俺に横井が言った。
「で、何釣るの?」
 おまえもかよ。悟れよ。
 俺と茂田は深々とため息をついた。まったくこんな初歩的なことを教えてやらねばならんとは。
「釣りって言ったらパンツ釣るに決まってるだろ」
「常識」
「常識じゃねーよ!?」
「前向きに考えろよ。こんなこと一生で一度あるかないかだぜ」
「そりゃあそうだろ……。そんなことが何度もあったらおちおち釣りもできない身分に落ちるよ」
 急にビビリ入った横井のくるぶしを執拗に蹴飛ばしながら、俺たちは土手に上がった。相変わらず空中ではパンツが爆炎を上げて燃え尽きている。
「いいか、絶対にバレるんじゃないぞ。バレたら……これだぜ」
 俺は首をかききる真似をした。ぞぞおっ……と二人の顔から血の気が引く。
「うまくパンツに針を引っ掛けたらあとは凧揚げの要領だ。いいな。徹底的に沢村のいいところを潰すんだ」
「活躍しそうなやつを見つけたら邪魔をする、それが俺たち男子高校生」と茂田。
「わかった。背に腹は代えられない」と横井。背に腹ってなんだよ。おまえひょっとして引っ掛けたパンツ売ろうとしてない?
 ともかく、俺たちは竿を振りかぶろうとした。が、少しパンツ・ゾーンから遠い。ここから投げてもパンツには届かずむしろ地上の沢村を釣り上げてしまいかねない。沢村なんか釣ったって何も得るところがないので、もう少し近づいてパンツ圏内へと入りたい。が、これ以上近づけばつまりそこは傾斜であって二人から丸見えになる。さすがに今度こそ紺碧さんに燃やされかねないので見つかるのは避けたい。さて、どうするか。
「帰るって手もあるな」
 飽きてんじゃねえよ茂田。早いよ。もう少しがんばろ?
「くそっ……こんな時にあれがあれば」
「どうした横井。何が欲しい」
「ああ、いや、あれだよ。ほら……」
「……! あれか。いや、さすがにあれは持ってないな……」
「だよな……あれってどこにあるんだろ」
「うちのお袋はスーパーでもらってくるとか吐かしてたが、もう十年も前のことだし糞婆ァパワーがあってのことだからなあ」
「糞婆ァパワーってなんだよ。どんなエネルギーだよ。……しかしあれは……スーパー? じゃあ店とかにあるのかな」
 店。
 俺と茂田と横井はばっと振り返った。
 夕闇に沈むように郊外の道端にたたずむ店舗、酒井酒店の三度ご登場である。
「横井」
「何」
「いってきて」
 もう石段降りるの心底めんどくさい。横井は嫌がったが俺たちは蹴落とすようにしてやつをパシリに使った。それに一日に三度も茂田の顔を自宅で見るような惨い目に酒井さんを追い込みたくなかったというのもある。
「なんだよ後藤、そのツラは。なんかむかつくぞ」
「何言ってやがる、これが俗に言う『親切そうな人』の顔だ」
 茂田が目を細めた。詐欺師を見るような目で見ることはないだろうに……冗談だよ……。
 横井はすぐに戻ってきた。
 その両手にはたたまれたダンボールが抱えられている。
「よくやった横井。広げてみろ……」
 四角く立ち上げてみると、うむ、いい感じである。人ひとりがすっぽり体育座りできるほどの大きさだ。これならいける。
 俺たちは顔を寄せ合った。
「ご」とう。
「し」げた。
「よ」こい。

『レディ』

 語呂わりー……。ちょっと萎えた。でも諦めない。
 俺たちはダンボールの中に身を潜めた。股の間から酒井さんから借りた竿を出しているとなんだか自分がとんでもない大物になったような気がする。
 動くダンボールと化した俺たちは土手へと侵攻した。紺碧さんの悲鳴が聞こえてこないうちはバレていないものをみなす。
 視界にあるのは空とパンツだけである。俺たちは傾斜の半ばほどで止まり、竿を振るった。

 ひゅんっ

 針は弧を描いて飛んだが、パンツにかすりもせずに落ちた。
「ちっ、下手糞どもが」
「おまえも外したろうが役立たず!」
「馬鹿、横井うるせえ!!」
 俺たちは息を潜めた。沢村と紺碧さんの話し声が聞こえる。
『いま、私のことを役立たずって言った……? いい度胸ね、沢村くん。老婆心からあなたを救ってあげようとしているこの平成の世のジャンヌ・ダークに向って』
『違っ、俺じゃないよ!! 紅葉沢さんのことはマジやべーって思ってるし。役に立たないとか言うわけないよ』
『……そう? よかった、私も実は不安だったの。ひょっとしてお節介だったんじゃないかなって……』
『そんなことねーよ。紅葉沢さんはウルトラやべーよ』
『ふふ、ありがとう』
 ウルトラやべーって言われて喜ぶ女子高生ってどうなの?
「どうするんだ後藤」隣のダンボールが何か言った。
「かえって親密になっちまったじゃねーか。俺の腸は煮えくり返っているぜ」
「ふん、案ずるんじゃねえ。まだパンツは残っている」
 俺たちはリールをまわして糸を引き込み、再び竿を振るった。ヘタクソの茂田と根性のない横井の針はまたもやパンツにかすりもしなかったが、俺の竿にはがちりと手ごたえが帰ってきた。
「よし、かかった!!」
 俺は全身全霊をリールにかかった親指と竿を操る肘に集中した。見えないが、ボッという発炎音がしたので沢村がまた火球を撃ったのは間違いない。
 視界に火球が入ってきた。
「ふンヌゥ!!」
 竿を振るい、パンツを引いた。火球は時速80キロの低速で彼方へと消え去っていった。
『甘いッ! 風を読むのよ、沢村くん』
『くっ、奥が深いぜ!』
 愚かなやつらめ。翻弄してくれるわ。
「後藤、ここは一丁揉んでやろうぜ」と茂田。
「あたぼうよ。明日は筋肉痛で朝チュンコースにしてやるぜ」
 自分で言ってて意味がわからなかったが、気にせず俺は巧みな竿さばきで火球を何発も何発も避け続けた。
「余裕だな」
「いや、そうでもねえ。沢村の野郎、俺の竿さばきに対応できるようになって来てやがるぜ……球速も上がってきた。このままじゃ追いつかれる」
「何ッ」
「安心しろ。これでもガキの頃は親父とよく夜釣りに出たもんだぜ」
 俺は竿の先をぐるぐる振った。目を限界一杯まで見開く。大切なのは集中力……そうだよな。
 火球が見えた。120キロは出ていたかもしれない。俺は夢中で竿を振るというよりも引く感じでそれまでの回転を生かした回避軌道。
 茂田が叫んだ。
「よっ、避けたァ!!」
 パンツは端っこを焦がされながらもギリギリで火球を回避していた。
 うまくいった……だが、俺はまだまだ甘かった。沢村がひそかに放っていた二発目をかわす余力はなかった。

 どォん……

 パンツ、撃墜。俺は竿から手を離した。
「ちっ……沢村のやつ、腕を上げやがった」
「いや、すげえよ後藤!! まさかかわせるとは思わなかったぜ。なあ横井」
「ああ、感動したよ……俺たちみたいな男子高校生にもできることってあるんだな」
 俺は吐き出すように笑った。
「当たり前だろ。世の中まだ捨てたもんじゃねー」
「後藤……!!」
 俺は両脇のダンボールから迸ってくる畏敬の念を全身で感じた。
 へへっ……空の野郎、味な夕焼けしてやがる……
 俺は静かに目を閉じた。
「燃え尽きたって顔してるわね、後藤くん」
「まあな。久々に熱くなっちまったよ」
「それはよかったわね……私も脳ミソがフットーしそうだわ」
「へへ……そりゃあよかっ……」
 え?
 俺は目を開けた。
 ダンボールの四角い視野一杯に紺碧さんの顔があった。
「ひ」
「久しぶりね……」
「す、数日……ぶりじゃないですか……ね……」
 胸倉をつかまれた。
 目が据わっている。
「私にとっては一秒が一秋だったわ」
「それは……光栄……」
 俺は耐え切れなくなった。目をそらせないまま涙目で叫んだ。
「茂田ぁぁぁぁぁぁぁ!!!!! 横井ぃぃぃぃぃぃぃ!!!! たすっ、たすけっ……」
「もういないわ。ついでに沢村くんもさっき帰したから安心して」
 退路がどこにもありゃしねえ。
 俺はダンボールの中から引きずり出された。さすがに天ヶ峰という名の悪や紫電ちゃんという名の闇と違って腕一本で吊り上げられるようなことはなかった。が、少し伸びた爪が掴まれたところに深々と突き刺さって恐怖で声も出ない。通報したい。
「よくも私を置き去りにしたわね……」
「あのっ……パンツセット……あれ、二千円したんで……ちょっと洒落を効かせた物々交換かな……みたいな……」
「知ってるわ。ご丁寧に値札が張ってあったから。問題はそんなことじゃないの」
 紺碧さんは虎みたいな顔をした。
「あの日、私はお金を持ってなかったのよ!」
 ……。
 ああ。
「おまえ、タカる気だったのか!!」
「たまたまお金を下ろすのを忘れてたのよ。そして男が奢るのは世の常だわ。呼び出したのはあなただし」
 紺碧さんは俺を投げ捨てた。
「お金がありませんと言い出した客を見るバイトの子の顔を見たことがある? 五千万パーセントこっちが悪いから何も言えなくて殴ろうかと思ったわ!!」
 殴っちゃ駄目だろ。
「皿洗いしますなんて昭和という怪物が生み出した幻想だったわ。普通に住所と電話番号を控えられた挙句に学校に連絡が行って反省文を五万字も書かせられたわ。私の貴重な時間が致命的に失われてしまった……それもこれもあなたのせいよ!!」
 さすがに言い返そうと思ったが俺の目の前で草が燃え始めたので黙った。ちょっと座標がずれていたら俺の股間が燃えていたところだ。
「でもいいわ……ふふっ、許してあげる」
「わかった。ありがとう。またな」
 帰ろうとした俺の襟首を紺碧さんが鉄の拳で掴み、膝を蹴りこんできて俺はその場に転がされた。なんなのこいつ? プリキュアなの?
 紺碧さんは夕空を背景に、俺をさかさまに見下ろしてきた。そしてカバンの中から、三冊ほど重ねられた大学ノートを取り出した。
「ふふふ……あなたが恋しかったのは本当よ後藤くん? なぜならあなたへの恨みが私の中の天使を抹消してくれるもの……」
 ノートをぱらぱらとめくり、
「反省文という厳罰を喰らいながらも私の創作意欲は苦痛と呼応するかのように燃え上がったの……家に帰ってからご飯も食べずにその日のうちに新作を書き上げてしまった……いえ、これはきっと百年後、新しい神話として黙示録の新聖書となるのよ……ひひ」
 ひひって言った。今この女ひひって言った。おまわりさーんっ!!!!!! お゛ま゛わ゛り゛さ゛ーん゛!!!!!!!!
「さあ、いきましょう後藤くん? 私みずから朗読してあげるわ……なに一晩もあれば読み終わるから……さあ、いきましょう? 堕天の園へ」
 くそっ……くそっ……くそっ……
 ダンボールの中に詰め込まれ、どっからかっぱらってきたのか素性不明のカートに乗せられ、紅葉沢家(=堕天の園)へと運搬されていく俺にはもう暗闇しか残されていなかった。
 天使とかっ……悪魔とかっ……言い出したのは誰っ……誰だよっ……!!

 誰でもいい……
 たすけてっ……!!








『登場人物紹介』

 後藤…釣りがうまい

 茂田…努力と根性、愛と勇気、そして避けられぬ友の死を一晩寝たら忘れた

 横井…帰って寝た

 沢村…帰り道、家族から『コロッケ買ってきて』メールを受け取る

 酒井さん…戻ってこない竿を待ち続ける日々





 脳みそが消化不良を起こしている。いや、何を言っているのか分からないと思うが俺にも何がなんだか分からん。あれからたった一晩しか経過していないということが信じられず、貫徹した両目に朝日が痛いほど染みた。
 それでも男子高校生の習性で、いつか来るやけっぱちという名の特大自主休暇のために足は学校へと向かう。いつか、いつかやってみせるぜ、俺だけのゴールデンウィークをな……!!
「おお、後藤。生きていたか」
 誰だこいつ。俺は首を傾げた。ぼんやりとした意識の霧がわずかに晴れてそいつの名前を思い出した。
「茂田どの」
「どうした? なぜ忠誠に目覚めた?」
「思い出すのもいまいましい」
 拙者は首を振った。
「あれがたった一晩の出来事だったとは到底思えぬ」
「だろうな。性格壊れちゃってるし。いったい紺碧さんに何をされたんだよ」
「詩文を朗読されたのでござる」
「内容は」
「時は幕末、魔界に堕ちた鬼の副長、土方歳三とそれをサポートする恋人・紅葉沢火穂」
「夢小説かよ!!」
 俺は頭を振って正気をいくらか取り戻した。夢小説というのは自分を空想の中へと放り込んでしまった、現実への反逆声明のことである。
「鳥羽伏見の戦いのあと、五稜郭に開いたデスティニー・ゲートから堕ちた土方と紺碧さんは一振りで確実に相手を殺せる魔剣を手にとって悪魔や堕天使をゴミのように切り飛ばしていくんだ」
「日本史の志波が聞いたら読んでくれそうだな」
 あの人が読んだら赤ペンで採点までしてくれると思う。
 俺はこめかみをもんだ。
「大学ノート三冊分と覚悟しているうちはまだよかった。家に帰ったら机の上に古紙回収に出す気なのかってくらい別のノートが束で積んであった」
「それ全部読まれたの?」
「うん」
「休憩は?」
「ない。一回吐いてぶっ倒れた。生まれて初めて気絶したよ」
「マジか」
「それでさ、起きたらさ、腕に注射針が刺してあってさ、見たらブドウ糖を点滴されているところだった」
「通報しろよ……」
 国家権力がこの町の女子に勝てるなら俺だってそうしたかったよ。
「とにかく、ひどい目に遭ったぜ……もうしばらくジャンプも読みたくねえ」
 朝が来て、読み切った疲れが出たのか、紺碧さんがベッドに倒れ伏しスヤスヤと眠り始めてくれなければ、俺は今でもやつの毒牙に引っかかったままだったかもしれない。そう思うと今お日様の下にいられることが砂漠で味わう水のようにみずみずしい。
「でもよ、本当に何もなかったの?」
「おまえ実際あの状況で『うわあ、俺の中の野性が目覚めちゃうよお~』とか言えねーよマジで。普通に気まずいわ」
「えー、つまんねえなあ。だから草食系とか言われるんだよ」
「はあ? 法律と道徳を守っててなんでけなされんの? 馬鹿か」
 本気で不機嫌入った俺に茂田が逆に申し訳なさそう。なんかごめん。
 俺は深々とため息をついた。いろいろ疲れた。
「男と女の関係なんてエロマンガ島にしかない幻想だな」
「エロマンガ島ってなくなったんじゃなかったっけ?」
「え、嘘?」
「いや、わかんねーけど」
「未確認情報かよ。ググれよ。指先ひとつでウィキペディアさんがなんでも教えてくれるわ」
「でもググったら負けかなみたいな気もするじゃん」
「わかる。わかるけど」
 などと、川原で爆発騒ぎを目撃した翌日とも思えない会話をしていると、背後から何か物言いたげなため息が聞こえてきた。
「貴様らはつくづく生産的なことしないな」
「あっ、紫電ちゃん!」
「お勤めご苦労様ッス」
「お勤め?」
 学ランを着た金髪美少女という、そのままアキバへ持っていけばどこかしらが買い取ってくれそうな1/1スケールの紫電ちゃんを俺たちはにやにや眺めた。
「気持ち悪いぞ貴様ら」紫電ちゃんは心底いやそうである。
「うぇへへ、今日も学ラン似合ってるよ紫電ちゃん」
「ぐひひぃ、今日は何色のパンツをはいているんだい?」
 紫電ちゃんはぐしゃぐしゃっと前髪をかき回し、とんでもないことを口走った。
「はいているわけがなかろう!」
「っっっ!!!」
 なんたること。
 俺と茂田は赤面してしまい、まともに紫電ちゃんの顔が見られなかった。そうか……はいてないのか……きっと何か事情があるんだな……いまちょっと思いつかないけど……。
 紫電ちゃんは自販機の釣り銭口を漁る天ヶ峰を見るような目になった。
「馬鹿が。はいてないわけがなかろう」
 なっ……
「なんで、そんなひどい嘘つくんだよ!!」
「言っていい嘘と悪い嘘があるよ紫電ちゃん!!」
「そんなにか? 早朝早々とセクハラされた私の気分は無視か?」
「はいてねー宣言の方がよっぽどセクハラだよ」
「あんたのくだらないハッタリのおかげで俺たちの心臓はオシャカスレスレだよ」
「なぜ私の下着の有無でそんなにも大事になるんだ……一度保健室にいくか?」
 頭を心配しての発言なのか、拳で送り込むつもりなのかによって返答が変わるっての。えーと選択肢選択肢。
「あれ、茂田くん。画面に選択肢が表示されないよ? 壊れてるのかなーこれ」
 ガンガン石塀に頭を打ちつけ始めた俺を茂田が後ろから羽交い絞めにした。
「もうよせ!! もういいんだ、もう苦しまなくていいんだ!!」
「はいはい面白い面白い」
 紫電ちゃんがそれこそ徹夜明けじみた気のない顔で言った。
「だから頭をぶつけるのはヤメロ。近所迷惑だ」
 はーい。
 俺たちは何事もなかったかのようにわき腹を小突きあった。へへっ、茂田、おまえは本当にいいショートコント要員だぜ。
「朝からその元気さだけは評価してやる」と紫電ちゃんが言った。
「おまえらもなにか生き甲斐でも見つければひとかどの男になれたかもしれないのにな」
「そういうテンション下がること言うのやめてもらえます?」
「ふん」
 紫電ちゃんは先端まで真っ白い鼻を俺たちからぷいっと背ける。何を言われてもいいや。かわいいからなんでも許しちゃう。
「そんなことはいいんだ。まったくおまえらは人の話を本当に聞かないな。後藤、おまえに話しておきたいことがあるんだ。聞け」
「ほほう」
 俺は腕を組んだ。
「聞こう」
「くっ……腹立つ顔しやがって……まあいい。後藤、BITEという組織を覚えているか」
「闇の国家権力、ブラック・アイアン・テリブル・エクストラ……略してBITEだろ。覚えているとも」
 ちなみに略称はブラックからエクストラまで清々しいほど全部パチだ。正式名称なんか俺も知らん。そして紫電ちゃんが心底イライラしてきたみたいなので俺は唇に指を当てて茂田に「しいっ」とやってみせた。
「俺かよ。俺ではないわ。ふざけているのは基本的におまえだわ後藤」
「…………」
「こーらっ、茂田くん、そんな生意気言ってると先生怒っちゃうよ?」
「…………」
「なんで女教師だよ。誰だよ」
「…………」
「もお、いつも授業中に寺本さんのうなじばかり見て。先生知ってるんだからね?」
「地味に実話を混ぜてくるのはよせ!! ……あっ」
「ふふ、反抗的な態度。先生怒っちゃったあ。茂田くんにはたーっぷり特別授業が必要みたいね……って痛い痛い。わき腹を小突くな。なんだよ」
 茂田は死んだ子ダヌキを見るような目で俺の背後を指差していた。俺は振り向いていた。
「ひっ……ぐっ……うっ……ぐす」
 紫電ちゃんが泣いてた。
 あ。
 やべ。
 そうだった。
 紫電ちゃんはいつもクールなフリをしているだけで、その実、無視されたり言うことをちゃんと聞いてもらえなかったりするとぽろぽろ泣いちゃう子なのだった。やっべー忘れてた。こんなことが天ヶ峰にバレたらぶっ殺される。どうしよう。いや今はそれどころではない。紫電ちゃんは今泣いているんだ!!
「ごめん紫電ちゃん。ちゃんと聞くよ」
 感情が激しても殴ってこない彼女にはその資格がある。
「悪かった。ごめん。この通り。だから泣きやんでくれ。こんなとこを女子に見られたら俺は焼却炉で燃やされてしまう」
「うっ……いつもいつも……ふざけてばっかりっ……」
 冷や汗もんである。確かにちょっとくどかったかもしれない。マジで気をつけようと思った。
「マジで気をつけるよ。ごめん。ちゃんと聞くから。バイトがなんだって?」
「BITE……」
 ほんのわずかなイントネーションのギャグさえ許してもらえない世界線に突入してしまったようだ。
「そう、そうやな、BITEやな。それでBITEがどないしたん?」
「後藤、この期に及んで関西弁に頼るのはどうかと思うぞ」
 うるせえ茂田黙ってろ。わかってんのか? なんとかこの一件を悪い冗談にしなければ俺も貴様も終わりなのだぞ。
 紫電ちゃんはだいぶ長い間、えずいていたが俺がティッシュを与えると、三回チーンをして、やっと人心地ついたようだった。あぶねー。よかった。ほんとよかった。
「大丈夫か?」
 俺が聞くと紫電ちゃんは真っ赤に染まった目元をごしごしと学ランの袖で拭った。
「……以後、気をつけるように」
 当たり前である。ほんとごめんな紫電ちゃん。
「で、話って?」
「ああ……」
 泣き疲れてどうでもよくなったのか、紫電ちゃんの声には覇気がなかった。
「あの組織、私が昨夜壊滅させたから」
「そうかそうか……そうか!?」
「落ち着け後藤、聞き返せてないぞ」
 俺はぱんぱんと頬を叩いた。
「マジかよ紫電ちゃん。そういうのはちゃんと俺が見てるところでやってくれないと」
「連絡したけど出なかったじゃないか」
 連絡? ああ、なるほど。夜は紺碧さんに携帯を奪われていたので出れなかったのだ。というと俺が紺碧さんに目を開いたまま悪夢を展開されている時、紫電ちゃんは超能力者を擁する国家権力とひとり戦っていたのか。強すぎだろ。
「よく一人で勝てたな。怪我とかしなかったか?」
「ああ、私は大丈夫。
佐倉や男鹿にも手伝ってもらったからな」
 佐倉? 男鹿? 誰だ……と俺はちょっと虚空を見上げて思い出した。沢村目当てに接触を試みてきたBITEの構成員たちだ。連中を校内で発見し次第、紫電ちゃんがぶちのめして地下牢に監禁した後に説得(パンチング)しているという噂は新聞部のやつらに聞いていたが、味方に引き込んでいたとは。男鹿というのは聞き覚えがなかったが、ひょっとすると紫電ちゃんはすでにBITEのほとんどのメンバーを取り込んでしまったのかもしれない。お台場から奥多摩までぐらいなら指先ひとつで制圧できちゃうんじゃないのこの子。
「じゃあ、もう沢村のところには異能者はやってこないんだな」
「ああ。少なくとも実力行使してくる急進分子だったBITEがなくなった以上、最低でも一度本部で再攻撃隊を編成し直さなければならないのは確実だ。また来るにしてもこれで終わったにしても、時間稼ぎはできたと思う」
「そうか。よかったよ。まあ、沢村一人のために五人も六人も異能者を失ってたんじゃ本末転倒だからな」
「うん……」
 紫電ちゃんは何かうるうるした目で俺を見てくる。
「どした?」
「……いつもそんな感じで喋ってくれると、助かる……」
「お、おう……」
 今は相当気を遣って喋っているからハイパーイケメンモードなのは自分でもわかっているが、なんていうか、普段の俺ってどんだけうざいの? 死にたくなってきた。死ーのぉっと。エヴァ新劇を見終わり次第死にまーす。
「後藤しっかりしろ」観客になっていた茂田が舞台に戻ってきた。
「悲しそうな顔をしているぞ」
「悲しいからだよッ!!」
 この馬鹿が。見たまんまを言えばいいと思ってやがるな! そうはいかんざきだよマジで。笑いなめんな。
「じゃあ、私は先にいく」
 まだちょっと目尻がぽっと風邪でも引いたみたいに赤くなっている紫電ちゃんが言った。
「生徒会の仕事もあるし」
「そうか。わかった。沢村関連でまたなんかわかったら教えてくれ……っと、忘れてた。BITEのアジトに犬飼さんって人いなかった? メガネの年増なんだけど」
「メガネ……? どうかな……すまん、覚えてない。向かってくるものは全滅させたつもりだが、逃げたやつがいなかったとは言い切れない。見かけなかったが……」
「ふむ……わかった。ま、大した人じゃないから気にしないでくれ」
「ああ」
 紫電ちゃんは「急ぐ」と言って、アスファルトを踏み砕いて猛ダッシュ、俺たちの視界から消えた。俺はその場にしゃがみこみ、砕けた道路の状態を確かめたあと、携帯電話で区役所に電話して破損した道路があることを告げた。ピッと通話を切り、ため息。
「いいことしたぜ」
「ああ、市民の義務だからな。女子の不始末をなんとかするのは……」
 俺と茂田は顔を見合わせ、力なく笑いあった。



 その時の俺は、またうちの女子が無茶をしたなあ、ぐらいに思ってヘラヘラしている余裕があった。沢村が手から火を出そうが出すまいが、俺たちの日常は国家権力にだって揺るがすことはできないし、それは今後も変わりっこない。
 そう思っていた。






『登場人物紹介』

 後藤…猛省

 茂田…ふでばこを忘れたことに気づく

 紫電ちゃん…多感な年頃

 天ヶ峰…自販機の釣り銭口はあさらずにはいられない

       

表紙
Tweet

Neetsha