Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 床屋へいくことにした。
 どうでもいいことだが、俺の家から歩いて五分圏内に床屋と美容室があわせて四件ある。なぜ競争が起こらないのか? なぜ歩いて三分のそこそこ客が入っていたラーメン屋が潰れて店員の兄ちゃんがジャンプ読んでる美容室が潰れないのか? どちらもまったく謎である。が、潰れた店のジジイの喪に服していたって仕方がねえ。
 俺はひいきにしている理容室『少林寺』へ入った。中には禿頭の店員が二人いる。双子らしい。
「……」
 俺は空いている椅子に座った。すると禿頭の一人が速やかに俺にカッティングクロスをかけてくれた。
「今日は」
「短めで」
「応」
 というともう刈り始めてくれる。心地いい。
 この店は店員がハゲということもあって髪の毛なんてどうでもいいんだ、金をかけなくても整髪剤を使ってなくていいんだというやさしい気持ちになれる。なにより「普段どうしてるんですか?」とかいう「おめー俺のツラ見たらワックスなんて車にしかぶっかけねーことぐらいわかるだろ!」的な質問をしてこないのが本当に助かる。楽園。
 ラジカセから流れるお経まがいのBGMに耳を癒されながら、俺はすくすくと髪を刈られて行った。いつもなら、そのまま綺麗さっぱりして帰るところなのだが、今日に限って隣の客の顔が目についた。
「あ、犬飼さん」
「うん……?」
 犬飼さんは顔中にシェービングクリームを塗りたくっていた。眠そうである。
「ああ、後藤くん」
 俺、名乗ったことあったっけ? まあ公務員だし公務ペディアとかに載ってるのかな、俺の情報くらい。
「チッス。髪っすか」
「うっす。髪っす」
 俺たちは馴れ馴れしい笑顔を交換しあった。その間もハゲ二人はもくもくと仕事をしている。
「久しぶりっすね。元気してましたか」
「高校生に心配されるほどヤワじゃないっつーの」
 かかか、と犬飼さんは笑った。こんな人だっけ。
「ま、色々あったけどねえ。結局沢村くんはゲットできなかったし」
「すいません、なんかうちの生徒会がおたくの組織潰しちゃったみたいで」
「あー? あーあーあーいーのいーのいーの。仕掛けたのこっちだし、それにもう痛いほどわかったから。この町の人たちの強さ……ってやつ?」
 俺とか茂田とかはなんにもしてないけどね。パンツで遊んでただけだし。
「それに誰か死んだわけでもなし、喧嘩しあったにしちゃいいケリっしょ」
「そう言ってもらえると恐縮です。で、沢村はもういいんですか?」
「んー。あたしたち、パイロキネシストは炎の色でその子の素質を計測することにしてんのね。なんでかは上からの作戦指令書にぽこっと書いてあっただけだから現場責任者のあたしにもわかんねーっていうテキトーっぷりなんだけど、沢村くんは一番『黄金』に近い色を出してたから、欲しかったんだけどね」
「へえ、色」
 ちょうど俺は洗髪タイムに突入したので犬飼さんが喋るに任せることにする。
「あとはまー、この町には何人か他にもサイキッカーがいるけど、どいつもこいつもあたしの言うこと聞いてくんなくてね。手持ちのサイキッカーも減ったし、向こうから来るってんなら受け入れるけどあたしたちからの勧誘はもうなし。あとはご勝手に」
「ええ? そんなんでいいんすか、まだ馬鹿なガキが火ぃ出して暴れたりしてますよ」
「そんなの天ヶ峰さんとか立花さんになんとかしてもらえばいいじゃん。佐倉も男鹿もそっちにいるんだし」
 ぐうの音も出ません。確かにやつらが本気を出せばこの町の恒久的平和は実現されるが、問題はあいつらが人の話をちっとも聞かないとこにある。
「ま、なんかあったら連絡してよ。公衆電話の非常回線でスリーセブン押せばあたしんとこ出るからさ。地柱町の後藤ですって言ったらコレクトコールでもばっちこいよ」
「マジすか。やべー。なんか超重要人物になった気がする」
「知らなかった? 君の個人情報ってもう国家機密なんだよ。あと茂田くんと横井くんも」
「えへへ。しょうがねえなあ、かわいい女の子だけには情報流していいっすよ」
「アハハ、つまんねー」
 ひでえ。ちょっとした冗談だったのに。大人は分かってくれない。
 その時、ハゲがぼそりと呟いた。
「終わったぞ」
「あ、うす。どもっす」
 ハゲと俺の仲はもう十年近いので散髪も早く終わる。以心伝心、地域の力! 確かに犬飼さんの言うとおりこの町はよそよりも地域間のつながりが強いのかもしれない。ずうずうしいやつと馬鹿しかいないとも言えるが。
 俺はさっさと髪をすいた。うむ、満足。
「じゃあね、後藤くん。縁があったらまた会いましょう」
「うっす。あ、犬飼さん」
 何、と犬飼さんはハゲにほっぺを剃られながら聞き返してきた。俺は言った。



「ヒゲ、生えてるんですか?」



 背筋が凍るほどの沈黙の中、俺は悠然と『少林寺』を後にした。
 背後からはもう、虫の這う音すら聞こえない……








 とまあ、区切りがついたところで家に帰ろうと思ったのだが、その時ちょうど前の通りをそば屋のせがれのてっちゃんがチャリンコをぶっ飛ばして通過するところだった。ちなみにてっちゃんはダブっているのでクラスメイトなのだけれど俺たちより一個上である。
「っ! 後藤!」
 てっちゃんは俺に気づき、チャリンコを横にして急停止した。俗に言う『金田止まり』である。チャリでアスファルトから火花を出すなよ。
「どうしたてっちゃん。そばはどうした」
「注文が来ない」地味に辛い事実を口走りつつ、
「いやな、俺も又聞きなんだが、どうも喧嘩がおっぱじまるらしくてよ」
「喧嘩? 誰がどこで?」
「沢村と南中の吉田ってやつ。場所は河川敷」
 一瞬、誰のことかわからなかった。いや沢村のことじゃない。違うわ。吉田の方だわ。そう、吉田くんは例の浅黒金髪くんである。俺がタマゴライフルで脳をゆさぶって教育的指導してやったのだが、どうやら反省してねえらしいな。
「こうしちゃいられねえ。見物にいかなくっちゃな!」
「乗れ、後藤」てっちゃんはチャリンコの荷台を顎でしゃくった。
「早くしないと始まっちまう」
「ありがとう、てっちゃん」
 俺はてっちゃんの肩に捕まって2ケツした。が、てっちゃんの足がちっともペダルを踏んでくれない。俺は叫んだ。
「虚弱かっ!」
「すまねえ」てっちゃんは心底申し訳なさそうだ。
「実は昨夜、三浦たちと麻雀を打っててな……寝てねえんだ」
「ちっ、無理するな。徹夜は死ぬ病だぜ」
「後藤……心配してくれるのか? 七万スッた俺のことを!?」
「七っ」
 スりすぎだろ。素で引くわ。
「てっちゃん、ギャンブル弱いんだから無理すんなよ」
「年上だぜ、誘われて退けねえよ」
 とてもじゃないが誰も年上扱いしてないなんて言えない。てっちゃんの目は綺麗だった。
「だが、やっぱついていっても足手まといにしかなりそうにねえや。正直吐きそうだし後藤、先いっててくれ。落ち着いたら追っかけるからよ」
「そうしなよ。じゃ、借りてくぜ」
 俺はてっちゃんと消えた七万円に敬礼し、やたらとハンドルがべたべたするチャリンコをぶっ飛ばして河川敷を目指した。借りなきゃよかったこのチャリ。なんかくせえ。








『登場人物紹介』

 後藤…さっぱり

 犬飼さん…男性ホルモン

 てっちゃん…この後、三歩歩いたら嘔吐。顔を剃り終わった犬飼さんの足にかかった。




 チャリンコを気分よく飛ばしているといきなり横から吹っ飛ばされた。と言ってあわてちゃいけない、俺は昔取った杵柄で無闇な抵抗をやめ衝撃に身を任せた。親父がガキの頃言っていた、受身の極意、それは妙な方向に手をついたりしないこと、そして頭部を守ること。あとは勝手に身体が流れてなんとかなる。俺はその通りにした。
「だ、大丈夫ですか!?」
 俺は立ち上がった。幸いなことに打撲もなさそうだ。が、痛かったことは痛かったので文句のひとつも言ってやろうと思った。
「あんたな……」
 が、
 顔を上げた先にいたのは、古きよきおかっぱ頭の美少女。
 おお。なんという美しい黒髪。正直タイプだ。なんというか保護欲をそそる。妹がいたらこんな感じなのかなあ。
 美少女は何度も謝りながら俺の手を引いて立たせてくれた。
「すみません、急いでいて……」
「いや、うん、気にしないでいッスよ。全然いッス。怪我とかないんで」
「そうですか……? 自転車、壊れちゃってますけど」
「え? あーっ!!」
 見るとてっちゃんの商売道具がひん曲がっている。これはひどい。なにかしらの機材を使わないと直せそうにない。
「すみません……」
 しょんぼりと美少女が落ち込んでいく。うーん。本当なら八つ裂きにしてやりたいところなんだが、美少女だからなあ。てっちゃんへの義理と美少女がこの世に生まれてくれた奇跡、どっちが重いかといったらなあ。でもなあ。うーん。
 俺は友情を捨てた。さらばてっちゃん。
「どうせ中古で買ったボロなんで気にしないでいいッス。それより急いでたんでしょ?」
 はっと美少女が電撃を浴びたように飛び上がった。
「そうでした! いけません、私、いかないと!」
「そうでしょう。ここは俺のことなど気にせずに」
 美少女はわたわたしていたが、覚悟を決めたのだろう、きっと唇を引き結ぶと九十度におじぎして、
「このご恩は一生忘れません! ありがとうございます!」
 駆け出していった。なかなかいいランニングフォームである。陸上部なのかな。うふふ。かわいい。今日はいい日だ。
 しかし足元には依然としてひん曲がったママチャリが転がっている。いやどうしようかこれ。さすがに放置していけるほど俺とてっちゃんは仲良くないので、せめて自転車屋へ搬送ぐらいはしてやりたいのだが。日曜だけど店開いてるかなあ。
 チャリを立て直して転がすというより引きずっていこうとしたところに、たまたま、親父の軽トラが通りかかった。プァンとクラクションを鳴らしてくる。
「どうした」と親父が窓から顔を出した。相変わらずの虚弱ヅラだが、目だけがぎらぎら光っていてヤク中みたいである。
「いや、女子に轢かれて友達のチャリがこの有様」
「そりゃ仕方ねえな」
 仕方ないんだ。仕方ないか。
「親父、暇だったらチャリ屋にこれもってってくんねえ? 俺今から友達と約束してんだよ」
「いいよ」
 駄目元だったがあっさりオーケーが出た。マジか。俺と親父ってそんな仲良かったっけ?
「乗っけて落ちないように縛れ」
「どこに縛るのこれ」
「どこでもいいよ。最悪なんかに引っ掛けとくだけでいいから」
 俺は親父の愛情を一身に受けつつ軽トラにチャリを乗せた。親父はまたプァンとクラクションを鳴らして去っていった。今度夕飯でも作ってやるか。
 俺は気を取り直して、河川敷へと走った。



 きゅきゅっと一度もバスケで使っていないバッシュを唸らせて立ち止まると、もう土手下には茂田や横井たちが集まっていた。三浦や木村、田中くんもいる。ほとんどポンコツ3組男子衆勢ぞろいであった。いないのは肝心要の沢村とてっちゃんくらいか。
「おう後藤、遅かったな」と茂田がホットプレートでホットケーキを焼きながら言ってきた。何かがおかしい。
「……。えっと。ホットケーキパーティだっけ今日は」
「ははは、何言ってんだよ後藤」横井がもぐもぐやりながら笑う。
「沢村の一世一代の大喧嘩じゃないか。精をつけて応援してやろうぜ」
「そうか、そうだな」
 はい、と手渡された紙皿においしそうなホットケーキが乗っている。俺は考えるのをやめた。
「で、沢村は?」
「向こうでもうバトってるよ」
 俺は土手をよじ登り、顔だけで河川敷を覗き込んだ。
「はあああああああっ!!!」
 いた。沢村である。今日は制服ではなく普段着の無地シャツ短パンである。もう少しチョイスはなかったのだろうか。完全になにもかも諦めた駄目な大学生にしか見えない。
「くそがあああああっ!!!」
 相対しているのは金髪浅黒の吉田くん。こっちはこの初夏の中ご苦労なことに革ジャンにシルバーまで巻いている。お母さんにシルバーをねだった吉田くんの勇気を考えると向こうを応援したくなる。
「戦況は」
「うむ」と茂田がにょっきり顔を出した。
「修行の成果もあって沢村が優勢だな。相変わらず火球は遅いが、爆風と河川敷の砂つぶてで金髪にコンスタントなダメージを与えているぜ」
「ほほう。それにしちゃ沢村の方がダメージでかそうだが」
「沢村は火球そのものを回避できてないからな。小さな球を素早く当ててくる。能力の使い方は向こうのが上手らしいぜ」
「ふーん」
「ま、六分四分ってとこだから、どっちが勝つかはわからねーな。ていうか後藤、おまえホットケーキに何かけて喰ってんの?」
 茂田は化け物に出会ったかのように俺の手元を凝視している。
「何って、焼肉のタレだけど」
「はあ!? 馬鹿じゃねえの!? 俺のホットケーキに何してくれてんだよ!」
「何言ってんだ。うしろ見てみろ」
 茂田は振り向いた。
「…………」
「な? マヨネーズ、ケチャップ、とうがらし、わさび。誰一人としておまえの焼いたホットケーキにはちみつをかけるような甘ちゃんはいないんだよ」
「ふざけやがって……ふざけやがってええええ!!!!」
 茂田は怒りのあまりごろごろと土手を転がっていった。落ち着けよ。結構うまいぞこれ。
 茂田の代わりに横井が上がってきた。ちなみに焼肉のタレをよこしてきたのはコイツである。
「それにしてもさ」
 開口一番横井が言った。
「なんかシュールだな」
 おそらく火球飛び交う河川敷をホットケーキ食いながら眺めている状況を言っているのだろうが、俺たちの毎日でシュールじゃなかった日があっただろうか。
「それよりあのホットプレートって誰が持ってきたの?」
「ああ、酒井さんに借りた」
「釣竿のこと怒ってたろ」
「おまえが持って帰って夜釣りに使ってるって言ったらお咎めなしだったぐうぇうぇ」
 俺は横井の胸倉を掴んだ。
「おい! 相手は女子だぞ。つまらんシャレで俺が死んだらどうする」
「いやパンツ釣ろうって言い出したのおまえだし……」
 確かに。じゃあ俺のせいじゃん。ごめんね横井。俺は手を離した。
「くそ、酒井さんにまで命を狙われることになったのかよ。身がもたねえ」
「今まで持ってたんだから今度も大丈夫だよ」
「へっ、他人事は綺麗事だな!」
「意味がわからねーよ……」
「それよりさ、横井、なんか顔が熱くねえ?」
「……? あっ、見ろ後藤!」
 横井が指差した先では戦況が変化していた。沢村と吉田くんは向かい合っていたが、吉田くんの方がとうとう沢村キネシスの直撃を受けたらしい。膝をついて小刻みに痙攣している。それを見下ろしながら、沢村が両手を掲げ、火球を練り上げていた。
「沢村玉だ! 沢村玉が出るぞ!」
「みんな、両手を挙げろー!」
 ホットケーキ片手に土手を駆け上ってきた男子衆が喚きだした。沢村玉ってなんだよ。俺も一応手だけは挙げるけどさ、沢村玉ってなんだよ。
 それにしても沢村の玉は大きかった。色もいい。犬飼さんが言っていた黄金に近い炎の玉が、火花を散らしながらゆっくりと回転していた。沢村の顔が見えた。マジだった。
 ごくり、と俺たちは生唾を飲み込む。そんな俺たちの横で、茂田がもぞもぞ何か言いたげに動いた。
「なあ」
「なんだよ。いまいいところだぞ」
「沢村の顔さ……」
「沢村の顔がなんだよ」
 茂田は何かとてつもない秘密を打ち明けるように、俺たちに囁いた。
「あれさ……ウンコ我慢してるように見えね?」
「……」
「……」
「……ぶフォッ」
 誰かが吹いた。
 茂田ァァァァァァァァァァァァ!!!!!
 男の子が格好つけられる一世一代の見せ場をどうしてくれるんだよ! もう沢村がウンコ我慢してるようにしか見えねーよ! おまえのウンコで何もかもがメチャメチャだよ!!!!!!
 俺が茂田の胸倉を掴んでボコボコにしていると、ことが動いた。
「でやああああああああっ!!!!!」

 ごうっ

 沢村が沢村玉を振り下ろした。あわや吉田くん急逝――!! と思ったが、そうはならなかった。
 吉田くんは飛んだ。
「うおおおおおおおおおっ!!!!」
 雄叫び一声、その背中からは紫色の炎が噴出して、吉田くんを大空へと吹き飛ばした。沢村玉は地面に大穴を開けて消えた。
「はあっ……はあっ……」
「と、飛びやがった……」
 俺たちは呆然として宙を舞う吉田くんを見上げるしかなかった。どさっと何かの落ちる音。見ると今度は沢村が膝をついていた。渾身の一撃だったのだろう。しまいにはガスガス地面を殴り始めた。辛そうな表情と弾け飛ぶ涙からして己の無力さを悔やんでいるのだろうが、そんな元気があるならもう一発ぐらい撃てるだろ。
「くっそおお……どうすればいいんだ……」
「応援したくても沢村に気づかれちまうわけには……」
「俺たちにはなんにもできねえのかよ……!!」
 ポンコツ3組男子衆の苦悶の嘆きが広がった。俺も気持ちは同じである。ここまできてクラスメイトに負けて欲しくはなかった。誰も好き好んで日曜の真昼間から知り合いの負け戦など見たくない。沢村が負けたら俺たちはどんな気持ちでいいとも総集編を見ればいいんだ? どうせ見るなら勝ち戦のあと気持ちよく見たいじゃないか。
「見ろ! 金髪がなんかするぞ!」
 木村が指差す向こうで、喜色満面、本当は勝ち誇りたいのだろうが喜びが強すぎてお母さんにガシャポン代を二千円もらったガキのようになっているほんわか面の吉田くんが、どうも急降下爆撃を仕掛けようとしているらしかった。両手両足をたわめて何か力を蓄えているようなモーション。
「やばいぜ、沢村にはもう沢村キネシスを撃つパワーが残ってねえ!」
「どうする、もうバレてもいいから助けに行った方が」
「いや、」
「間に合わねーっ!!!」

 どうっ

 吉田くんが獲物を見つけた海鳥のように頭を下にして突っ込んできた。沢村の顔に苦悶がよぎる。沢村……!
 その時、沢村が何か呟いた。俺にはそれが聞き取れなかったが、たぶん、誰かの名前だったろうと思う。
 吉田くんが沢村へ激突するまであとコンマ2秒もなかった。その中で、沢村の両手がぼっと燃えた。炎拳を作った沢村はそのまま腰を沈めた。バレーのレシーブスタイル。
 まっすぐに飛来してきた吉田くんの顎を、沢村の燃えるレシーブが高々と打ち上げた。たぶんその時にはもう吉田くんは半分失神していたのだろう。吉田くんは俺たちの方に突っ込んできた。俺たちはホットケーキを口に放り込んで土手を駆け下りた。そして、

 爆発音。

 俺は光と音から顔を覆った。頭の片隅で、あまりにも速く通り過ぎていった出来事の断片がちらついていた。
 目を開けると、煙が晴れるようにあたりが明らかになった。吉田くんは一軒の民家に突っ込んだらしい。わずかな柱だけを残してあとはすべて黒煙がたなびくだけになっている家の跡地が目の前にあった。それを見ているとなぜだか胸がざわついた。何故だろう……その答えを横井が呟いた。
「あ、あ、あ、……酒井さんちが」
 そうだ。
 あれは酒井さんちだ。
 人間ミサイルと化した吉田くんが吹っ飛ばしたのは――

「うわああああああっ!!!!!」

 突如、俺たちの頭上で悲鳴が上がった。沢村だった。バレた、と思ったが、沢村は俺たちが目に入ってすらいなかったらしい。土手に背中をつけて息を潜める俺たちの横を一顧だにせず走り去り、沢村は酒井さんちの跡地へと走っていった。
「酒井さん! 酒井さん! さかっ……うわあああああああっ!!!!!」
 沢村は黒こげになった酒井酒店の上で頭をかきむしって泣き叫んだ。
 俺たちは何も言えなかった。視界の隅で、ホットプレートに残っていた切れっぱしを横井がつまんでいた。
「酒井さん……」
 いい人だった。いや、恨みつらみが重なることもあったが、女子の中ではまともな人だった。俺たちの冗談にもよく付き合ってくれたし、遊び道具も貸してくれた。
「酒井さん……!」
「何?」
 俺は振り返った。酒井さんがきょとんとしている。今は酒井さんどころじゃない、酒井さんが死んだんだ! 俺は涙を土に降らした。そしてもう一度振り返った。
 酒井さんがいた。
「……あの」
「だから、何?」
「今日はおうちにいるんじゃあ……? 日曜だし……」
「ああ、ちょっと昨日から家族みんなで親戚の家に遊びにいってて……って、あーっ! ウチがーっ!! きゅう」
 酒井さんがその場にぶっ倒れた。さすがに私財もろとも自宅が焼け野原になっていたらもう何も考えたくないのはわかるが……俺は成り行き上、酒井さんを抱きかかえることになってしまい、ほとほと困った。
「いやあ、でもよかったよ。酒井さん生きてて」
 横井が知った風なことを言う。男子衆もそうだそうだと頷いた。まあ、一瞬はマジで死んだと思ったわけだし、さすがの俺も安堵の念を禁じえなかった。
「残る問題は、あれだな」
「ああ……」
 俺たちは酒井家跡地に目をやった。
「うわああああああ!!!! うわあああああ!!!! 酒井さん、酒井さーんっ!!!!!」
 髪を振り乱し頭をかきむしり虚空へ向かって絶叫し続ける沢村。ちょっと近寄りがたい。
 さて、ヘビメタ状態の沢村にどうやって事情を説明したものか。とりあえず酒井さんをこのあたりに置いておけばそのうち気づくか。
 茂田が目を細めて呟いた。
「デトロイト沢村、か」
 やかま茂田。







『登場人物紹介』


 沢村……何か思うところがあるらしい



 たったったった

 どんっ


「大変! 沢村が転校するって!」
 それどころではなかった。
 机の上に広げられた紙の台、そこに俺と黒木の分身がちょっとびっくりしたみたいなスタンスを取って相対している。にらみ合うはおのが運命おのが意地のため。
 神官服を着た茂田が神様にケツを掘られているような顔をしながら、
「はっけよーい、のこったのこった!!」

 ズドドドドド!!!

「うおおおおお!!!!」
「だらああああ!!!!」
 俺と黒木の両指十本が痙攣を超えた速度で台を叩き始めた。土俵の上はもはやララパルーザ、地鳴りの体をなし俺と黒木の分身力士が右に左にとブローを叩き込みあう。ちなみに相撲である。
 俺と黒木はきらめく汗を飛び散らせながら笑いあった。
「やるな!!」
「おまえもな!!」
 両手が開いていれば固く握手を交わしていたところだ。だが今は勝負の最中、馴れ合いはご法度だ。
 状況は黒木が優勢。俺の分身は少しずつ競り負けて土俵際へと追い詰められていく。
 が、
「ふンッ!」
 俺は台を上からでなく横から突き上げるように叩いた。
「何ィッ! それは下手をすれば自分が一回転して負けてしまう諸刃の剣、土俵際左捻りこみ……!!」
「悪いな黒木、負けられない戦さぐらい、俺にだってあらァ!」
 衝撃を回転へと流した俺の分身が黒木のそれを弾き飛ばし――



「話を聞けーっ!!!!」


 どがっ


 俺たちの努力も涙も血も汗もついでに巻き添え食った茂田も、すべて空中へと散らばった。
「ああっ、俺の夜孔雀が」
「やめてくれ、俺の絶影狐が」
 誰も気絶した茂田の心配はしない。
 天ヶ峰がはあ、と生意気にもため息をついた。
「紙相撲なんてやってる場合じゃないでしょ? いまはわたしの話を聞くとき」
 自分で言うなよ。俺はうんざりして天ヶ峰を見上げた。
「この怪物め、自分のすみかに帰るがいい」
「誰に言ってんの?」
 ごめんなさい。
 天ヶ峰は腰に手を当てて、俺たちをぷんすか見下ろしてきた。
「もーっ。なんでまた紙相撲? いま紙相撲するご時勢?」
「時勢は関係ねーだろ」と黒木。
「これでも大事な天下分け目の超決戦だったんだぞ」と俺。
「天下分け目? なにか賭けてたの?」
 黒木がすっとルーズリーフのファイルを手に取った。
「俺と勝負して一勝すれば、この期末考査用のノートのコピーを一枚、渡す。後藤が負ければ俺は400円をもらう」
 500円でないところが黒木の優しいところだ。
 天ヶ峰はそうだったんだあ、と納得したようで、
「じゃあ、これはわたしがもらうね」
 黒木秘蔵のファイルに手を伸ばした。それを見た黒木の目がきらり光った。
「ヌンッ!!」
 ずどっ
 おそらく58キロ級の男子高校生が出せる最大戦速のナックルが天ヶ峰の腹筋に突き刺さった。
「いてっ。なにすんの!」
 全然痛そうじゃない。黒木の顔に冷や汗が浮かんだ。
「おまえと会うたびに自分に自信をなくす」
 ちなみに黒木は現役のプロボクサーである。十七歳になってすぐライセンスを取得した。まだ四回戦なので先輩連中からは「グリーンボーイ」などと呼ばれているが、自分は黒木だからブラックボーイだと言い張っている。勉強はできるのだが、頭がちょっとおかしい。
「だが天ヶ峰、このファイルはさすがに渡せないぜ。おまえが寝ている間も俺は頑張って授業を受けていたんだ。おまえだって頑張って育てたアサガオを誰かに燃やされた時は烈火のごとく怒ってたじゃないか」
 そういやそんなことあったな。確か小二の頃だ。あの頃は天ヶ峰もまだまだ弱かった。俺でも足かけて転ばせたりできたし。
「うーん、それもそうだね……まあいいや、でんでんに教えてもらうし」
「そうだ、それがいい。紫電ちゃんがおまえの係りなんだからな」
「係りってなに?」
 俺は黒木のわき腹をエルボーしようとしたがスウェーでかわされた。突っ込みをかわすな! ていうかボディ狙いをスウェーってどういうこと? 化け物なの?
 そのまま和やかな談笑に切り替わっていけそうな雰囲気もあったが、天ヶ峰がハッと我に返った。
「って、ちがーう! 話は沢村のこと!」
「沢村がなんだってんだよ」
「転校するんだって! さっき職員室で話してた! どうしよう……きっとかおりんのことを気に病んで……」
 珍しく天ヶ峰がしょんぼりしている。まあこいつからしたらおもちゃがひとつ減るようなもので、自分のコレクションは完全なまま保管しておきたいという気持ちから出た悲しみなのだろうが、そうやってしょぼくれていると普通の女子に見えてくるから不思議だ。
 それにしても、転校ねえ。
「学校をもう三日も休んでるのはそれが原因だったのか」と俺。
「誰もお見舞いにいかないからわからなかったな」と黒木。
「ねえ、なんとかしてあげよーよ。可哀想だよ」
 天ヶ峰のツラが遊園地行きを延期にされたガキのようになる。
「なんとかったってなあ。どう思うよ黒木」
「どうもこうも、沢村が手から火を出せるのは事実だしなあ。どうせ転校先も……なんだっけ、犬飼さん? とかいう人らのとこなんじゃねーの。政府とかの能力者養成機関みたいな」
「ああ、うん、なんか国がどうのこうのっていってた」と天ヶ峰。
「じゃあ決まりじゃねーか」
 黒木はゆっさゆっさと椅子を揺らした。
「元々、こんな平凡な……いや、ちょっとだけ異常な一介の高校に超能力者がいるなんてのが無理があったんだよ。やっぱそういうのはちゃんとしたところでしっかり守ってもらった方がいいんだって」
「そんな……でも」
「実際、こないだの河川敷じゃやらかしちまったじゃねーか。あれ酒井さん一家が家にいなかったからいいものの、もし残ってたらいくら女子でも死んでたはずだぜ。沢村が沢村キネシスを制御しきれてねーのは、悪いけどガチだろ」
 天ヶ峰が俺を見た。
「後藤は? 後藤もそう思うの?」
「ん、いや」
 ええい。
「さあ、どうだかな」
「なにそれ」
「だからさ、結局沢村が決めることなんじゃねーの。しらねーけど」
「知らないってなんだよ! クラスメイトじゃん!」
 俺はちょっとむっとした。
「うっせえな。だからだろ。ただのクラスメイト同士で何ができたり言えたりすんだよ。そんな文句あんならおまえがどうにかすればいいだろ。俺を巻き込むなよ」
 あ。
 言い過ぎた。
 俺はごくっと生唾を飲み込んだ。こりゃあぶん殴られて殺されるな。黒木を盾にしたいがこいつはボクシングなら天ヶ峰に勝てるが喧嘩じゃ勝てないと普段から豪語しているので二秒と持つまい。黒木のバトルスタイルは蹴りと関節と締めがお留守もいいところで面白いように足から崩されちゃうのだ。さらばわが十七年の生涯よ。後藤某、処女の拳にて散る。
 俺は目を瞑って落着の瞬間を待ったが、いつまで経ってもその時は訪れなかった。おそるおそる目を開けると、もう天ヶ峰はいなかった。
「あれ? どこいったうちのクラスの怪物ちゃんは」
「出てった。いやあ、びびったあ。天ヶ峰ってマジギレすると無表情になるのな」
「マジギレ? いや……」
 俺は開きっぱなしになっている引き戸を見やった。
 人間には二種類いる。陳腐な言い草だが、それは泣きたい時に泣くやつとそうじゃないやつだ。
 紫電ちゃんは泣く。
 天ヶ峰は、そうじゃない。



 ○



 終業のチャイムが鳴った。
 茂田と横井が俺に磁力があるかのように擦り寄ってくる。
「どうだ後藤、黒木からノートは奪取できたか」
「天ヶ峰に割り込みされて勝負はおあずけだ。明日やり直す」
 んだよーと二人は残念そうに肩を落とした。まあ俺たちもまったくノートを取っていないわけじゃなし、三人分あわせれば赤点くらいは免れるだろうが。
「じゃ、帰るか」
「おお」
 俺たちはカバンを背負って教室を出た。
「そういや、沢村が転校するってよ」
「ああ、聞いた聞いた。なんでも奥多摩の方にいくらしいぜ」
「奥多摩かあ。ちょっと日曜に遊びにいくにしちゃ遠いな」
「まあ俺たちからしたら歩いて十分以上はどこでも遠いからな」
 そりゃそうだ。俺たちの足腰はおっさん以下だからな。あーあ。運動系の部活、やっときゃよかったのかなあ。なんて。
 下駄箱まで降りると、横井が「あ」と何かを見つけた。
「どうした横井」
「あれ」
 横井が指差した先にいたのは――てっちゃんのチャリを大破せしめたコケシ少女と、この初夏の中ハガネの意志で学ラン着用を敢行している紫電ちゃんだった。妙な組み合わせである。それにしてもあのコケシの子、うちの学校だったのか。
「何喋ってるんだ。コケシの子が頭下げてるみたいだけど」と俺。
「わからん」と茂田。
「かわいいなあ」と横井。
 そうなのだ。あのコケシの子にはなにか涼しさのようなものがある。モノで言うと風鈴というか。食べ物でいうと冷たいヨウカンというか。うまく言えんが、結婚したら幸せな家庭を築けそうな気がしてならない。
「転校の挨拶じゃないかな」
 と横井が言った。
「転校? なんでわざわざ紫電ちゃんに。生徒会の子だったのか?」
 俺がそういうと、横井と茂田が不思議そうに見てきた。
「何言ってんだ? 沢村のことに決まってんじゃん」
「沢村のことって……なんで?」
 そうして茂田と横井はとんでもないことを言ってのけた。





「あの子、沢村の妹だぞ」





 ……。
 なん、です、と?
 いやいやいや。おかしいおかしい。だってだって、だって、
「だって、沢村に妹なんかいないって。俺あいつと小学校同じだったから知ってるし」
「中学であいつの親父さん再婚したじゃん」と茂田。
「その時に継母さんが連れてきたのがあの子なんだよ」と横井。
 なななななな。
「ていうか有名だろ、沢村の妹が美少女だってのは。一緒に昼飯食ってるの見たことあるだろ?」
 俺ははっと気づいた。遠目でわからなかったが、そういえば沢村は昼飯を女子と食っていた。それがあの子だったのか。いや、それだけじゃない。記憶を掘り返せばいろいろと思い当たる節がある……
『ごめんな、朱音……兄ちゃん、帰れそうにねえや』
 紺碧の弾丸さんとの初戦で死に掛けた沢村が呼んだのはいったい誰の名前だったのか?
『昨日届けてもらったんだ。早く喰わないと悪くなっちまうし、一緒に喰おうぜ』
 沢村が検査入院していた時、わけもなく犬飼さんが届けたんだと思い込んでいたあの果物のバスケットを『昨日』届けたのは誰だったのか?
『すみません、急いでいて……』
『いけません、私、いかないと!』
『このご恩は一生忘れません! ありがとうございます!』
 そもそもあの日曜の朝、あのコケシの子はいったいあんなに急いでどこへ向かっていたのか?
 なんで、
 なんで、
「なんでそういうこと早く言わないんだよ!!!」
 俺の叫びに横井と茂田が「ええー……」と困り顔になった。くそっ、そうだろうけどさ! 誰か教えてくれてもいいじゃん! なんで俺だけ知らないことがあるの? へこむわ!
 俺がその場でぶるぶる震えていると、紫電ちゃんがこっちに気づいてやってきた。
「どうした? 風邪か?」
「紫電ちゃん! いまの子って沢村の妹だよな!?」
 俺が肩を掴んで揺さぶると紫電ちゃんは顔を真っ赤にして縮こまった。
「うわわわわわなになになにをなに?」
「あの子なんて言ってた? なんの話だったんだ?」
「なんのって……転校するから、今まで兄がお世話になりましたと……丁寧に……」
「転校っていつ!」
「それが急で……もう今日だって……わっ?」
 俺は紫電ちゃんを横井にぶん投げた。横井は紫電ちゃんを受け止めそこねてくんずほぐれつアスファルトに転がった。幸せそうである。
「こうしちゃいられねえ!」
 俺は駆け出した。
「なんなんだよ後藤! どうしたんだよ!?」
 茂田の叫びに俺は振り向かずに答えた。
「いかなきゃなんねーとこがある!!」
 俺は校門を直角ダッシュで飛び出した。
 そうだ、沢村が転校? そんなことをさせるわけにはいかない。それはつまりあの子もこの町からいなくなってしまうということだ。そんなことになってみろ、この町は間違いなく今年の夏はヒートアイランド、天ヶ峰だの紫電ちゃんだの家を失って横井家(!)に居候することになって気が立っている酒井さんだのアグレッシブなバケモノどもの跳梁跋扈する魔都になっちまう! きついとき、つらいとき、この町に一人でも普通の、少なくともその魂は穢れなき女の子がいると信じられればエアコンがなかろうが自由研究を天ヶ峰にパクられようが生きていけるのだ。
 俺の脳裏には必死に頭を何度も下げるあのコケシっ子の残像ばかりが浮かんでくる。
 そう、それに、天ヶ峰に言っちまったさっきのセリフ。
『ただのクラスメイト同士で何ができたり言えたりすんだよ。そんな文句あんならおまえがどうにかすればいいだろ。俺を巻き込むなよ』
 男に二言はないと言いたいところだが、あいにく俺はまだ男子高校生。二言も三言も吐いてなんぼのオコサマなんだよ。
 俺は陽炎の出始めたアスファルトの町を疾走し、十字路のど真ん中で急ブレーキ、無限に広がる天空に向かって吼えた。



「沢村んちってどこだよ!!!!!」



 知らなかった。






『登場人物紹介』

 沢村…主人公
 沢村妹…コケシ
 後藤…一寸のモブにも五分の魂




 ここにきて、さほど沢村と仲良くなかったことが心底悔やまれる。横井あたりはもうちょい絡みがあったから沢村家の住所を知っているのだろうが。メールを送ったが全然返事が来ない。くそっ!
 俺は闇雲に市中を走り回っていた。初夏である。もうすぐ期末考査だってあるし、いくら夏服とはいえ汗がどくどくと流れてくる。何度諦めようと思ったか知れない。何軒もの書店とレンタルビデオ店が俺に甘い誘惑を囁いてきた。だがそれに乗ってしまえば沢村一家は奥多摩行きだ。俺の身体よ、今しばらくガッツを見せてくれ。
 そして俺は高台の公園へと走りあがった。高い場所から見下ろせば、荷物などを運ぶトラックが見えるのではないかと思ったのだ。仮に見つけたとして、そこから駆け出して間に合うかどうかはわからなかったが、何もしないよりはずっといい。
 子供の頃よく遊んだ公園には誰もいなかった。俺はブランコや滑り台を無視して、崖になっている柵の際まで走った。走ったのがよくなかった。誰かが捨てた某有名トレーディングカードゲームの空き袋を踏んだ俺の身体は綺麗に滑った。
 ごんっ
 腰を柵に強打。一瞬意識が遠のき、そのまま崖下へと転がり落ちていった。
 恐怖で悲鳴も上げられなかった。
 いや、実際、自分が上を向いているのか下を向いているのか、一秒先に何か尖ったものが待ち受けていないか、そんなことすらわからない時間が五秒だか十秒だか十五秒だか続けば誰でもびびると思う。地面に背中から激突して大の字になったあと、俺はこのクソ暑い中びっくりするほど弱弱しく震えていた。ほんと怖かった。死ぬのはまだまだごめんだわ。
 立ち上がると、全身が血塗れだった。細かい擦過傷がほとんどだったのがせめてもの救いだ。
 慣れないことはするものじゃないな、と後悔して、自分のモブキャラっぷりに心底嫌気が差した。が、捨てる神あれば拾う神あり、顔を上げると黒塗りのバスが停まっているのが見えた。運転席には黒いスーツを着た例のオカマが座っている。犬飼さんだ。
 どうやらまだ俺の出番は終わっていないらしい。俺は再び駆け出した。
「犬飼さーんっ!」
 駄目だ、あのオカマ、イヤホンで何かを聞きながら仕事してやがる。なんて態度だ、バイト以下だな! 罵ってやりたいが聞こえていないようだ。
 とたん、まるで俺に嫌がらせしたいかのようなタイミングでバスがエンジンをふかし始めた。そしてバスの窓から見えるあのツラは――
「沢村っ! 沢村ーっ!!」
 俺はバスに取り付いてバンバン叩いたが沢村は窓に額を当てて空を見上げている。こんな時に黄昏やがって……絶対にちょっとは聞こえてるだろ! どんだけ自分が好きなんだよ。帰ろうかな……くそっ、ああ、もう!
 俺は拳を作った。やりたくねー。でもやるしかねー。息をはあはあ吹き付けて、覚悟一発、俺はバスのシャーシをぶん殴った。

 がごんっ

「痛っ……」
「!? えっ、後藤!?」
 沢村が俺のナックルの衝撃でようやく気づき、窓を開けた。
「こんなとこで何やってんだよ?」
「それはこっちのセリフだ!」俺は真っ赤になった拳をふらふらさせながら、
「水臭いじゃねーか沢村。黙っていっちまうなんてよ……」
「それは……悪い、言えないんだ。黙っていかせてくれ」
「ケッ。何が黙っていかせてくれ、だ。格好つけてんじゃねーぞ英数国トリプル赤点のトライデントが。おまえが手から火を出せることぐらいもうみんな知ってんだよ」
「えっ……?」
「おまえな、あんな授業の真っ最中に手から火ぃ出してびびってんじゃねーよ。しかもその後何度も確認すんなよ。隣の俺からモロ見えだったぞ」
「おまえ寝てたんじゃなかったのかよ……なんてこった、じゃあもうみんなも知って……?」
「河川敷での一世一代のバトルはクラスみんなで観戦してやったぜ。わはははは、ざまあみろ、ぶわぁーか!」
 高笑いする俺に沢村がゴン、と窓枠に頭を打ちつけた。
 これで馬鹿の沢村にもわかっただろう。たかが手から火を出せるぐらいのアクの強さなんぞじゃ、俺たちポンコツ3組の中じゃむしろ地味だってことがな。
 だが、沢村は額をごりごりと窓枠に押し付けた。
「駄目なんだよ……俺はここにはいられねえんだ」
「俺の話を聞いてなかったようだな。とうとう日本語まで忘れたか猿が」
「うるさいな!? さっきから罵倒がひでーよ! ちょっとこれから喋るから罵倒をおさえて!」
 仕方ないなあ。俺は口をつぐみ、顎をしゃくって先を促した。
「駄目なんだよ……俺はここにはいられねえんだ」
 またそこからやり直すのかよ。紺碧さんかおまえは。
「俺は、俺はわざとじゃなかったけど、結局吉田を入院させちまったし、酒井さんちも全壊させちまった……一歩間違えば殺してるところだった。どんな顔して酒井さんに会えばいいのかわかんねーよ……」
 本人は横井のお母さんのご飯がウルトラやべーって今日めっちゃ嬉しそうに喋ってたけどな。ちなみにかに玉チャーハンだったらしい。
「だから、俺はこの町にいない方がいいんだ……いつまた俺を襲ってくる連中との戦いにおまえらを巻き込むかもしれないと思うと……俺は……!!」
 あー。
 飽きた。
「俺は……俺は……!!」
「うるっせえ!!!!」
 俺はバスを殴った。ごきぃ、という嫌な音がしたがアドレナリンでどうにかなった。いまはたぶん痛くても言わなきゃいけないところだ。
「いいか沢村、おまえが何を考えていようと、何を悩んでいようと、そんなことはどうでもいい」
「後藤……?」
 俺はふんぞり返って叫んだ。
「おまえの意見なんぞ知るか! 俺は――俺の意見が一番大事だ!!!!」
「え、ええー?」
 沢村が「そんなのアリかよ」みたいなツラになる。アリなんです。
「じゃあなにか、俺が今まで喋った色々は全部無駄か」
「当たり前だ。なに悲劇のヒーローぶってんだよ。似合ってねえぞ」
「だけどなあ!! 実際、次になんかあったらどうすんだよ!! 俺が誰か燃やしちゃったら、おまえ責任とってくれんのか!!」
 そんなこと、
「その時に考えればいいんだよ!!!」
 ゴンッ。
 沢村はまた窓枠に額をぶつけた。
「話聞けよ……」
「聞かん。とっとと降りてこいボンクラ。おまえが何かを燃やしたら、真っ先に小便ぶっかけてやらあ」
「もう何もかもメチャメチャだな……あーもう、なんか腹立ってきた!」
 沢村はがばっと起き直って、運転席の方へ叫んだ。
「犬飼さん、車出して! 俺、やっぱ政府のとこいく!」
 ええ!? どういうことだよ! なんでそこで意地を張る? 沢村くーん!!!
 いつから聞いていたのか、犬飼さんは事情は全部聞いていたらしく(イヤホンはもう外していた)、「あいあいさー」とのんきな掛け声と共にバスを走らせ出してしまった。ちょちょちょちょちょ!! おいオカマ! 止まれオカマ! ちょっ……オカマァァァァァァァ!!!!!
 ぶおおおお、とバスは走り出していく。俺も合わせて駆け出したがさっきまで市街を走り回っていたせいでスタミナが持たない。畜生、ここまでか――その時、バスが急停止した。なにごとぞ、と俺は前を見た。これで信号だったら笑えるな。
 信号ではなかった。
 もっと強いやつらだった。
 我らがポンコツ3組が男子女子ともにほとんど全員総出で仁王立ちしていた。
 先頭にいる茂田がにやっと笑う。
「水くせえのはおまえだぜ、後藤!」
「沢村くんをこの町から追い出したりはさせないよ!」
「おまえら……!!」
 俺は不覚にもちょっと涙で目が潤んだ。くそっ、こんなことで。
 茂田が両手を振り回した。
「やれぇーっ! 野郎ども! バスを押し倒せーっ!」
「おおーっ!!」
 掛け声の下、わっせわっせとポンコツ3組一同がバスを押し始めた。運転席で犬飼さんがマジであわてている。沢村は歯を食いしばっていた。
「おまえら、ずっと俺のことわかってたのに黙ってたんだな!? なんでそんなことしたんだよ!!」
「おまえが自分で言い出すのを待ってたんだよ!」
 茂田がショルダーをかましている。
「ったく、そんなくだらねーことでハブにされるようなクラスかよ」
 黒木がワンツーを果敢に叩き込んでいる。
「沢村くん! 実は1組の山田と牧瀬が沢村くんのこと好きなんだって!」
「答えないで逃げたらオトコじゃないよ!」
 女子どもがえっさえっさと背中でバスを押しながら叫んだ。ちなみに山田も牧瀬も男だ。
「沢村、あのさ、貸してたPSP、まだ返してもらってないんだけど!」
 横井が空気を読まずに貸した物の催促をする。
「おまえら……」
「手から火が出るからってなんだよ!」
 俺は痛む拳をバスに叩きつけた。どおん、という衝撃で沢村が震えた。
「うちのクラスにゃもっとやべーのがいくらでもいんだろうが! たかが火が出るくらいで……何が俺らと違うってんだよォッ!!!」

 がぁん!

 ぽたり

 みんなが押すのをやめた。
 窓から顔を出した沢村が泣いていた。
「みんっ……なっ……あり……ありがっ……」
「わかったならさ」
 俺は拳を振りながら言った。
「降りてこいよ、さっさと」
「うん……」
 沢村がバスの奥へ消えた。みんなから安堵のため息が漏れた。終わったのだ、これで。
 だが俺たちは忘れていた。何かが足りないことを。こんなにことが素直にいくのは、初めからおかしなことだったのだということを。

 たったった……

 たったったった

 たったったったった!

「沢村ぁーっ!!! いっちゃ駄目ぇーっ!!!」

 ああ。やばい。終わった。
 俺は絶望と共に振り返った。向こうから一直線に駆けて来るのは紛れもなく女子。硬質なロングヘアがたてがみのように揺れている。

 だんっ

 天ヶ峰美里が飛んだ。
 俺はそのハイジャンプを見上げながら思い出していた。初めて天ヶ峰と会った日のことを。小一の冬、俺はこの町に越してきた。外で遊んでこいと言われてふらっと寄った川原で、女の子がひとり、タイヤを腰に巻きつけてへたばっていた。聞けばそれを引っ張りながら走るのだという。身体を鍛えて、いじめっこをやっつけるのだという。ああ、と俺は思った。この町にはいじめっこがいるのか。じゃあこの変な女の子と関わるのはよそう。そう思いながら俺はその女の子に手渡されたストップウォッチを握って、その子が無駄に足を滑らせるだけの光景を何時間も見続けていた。
 いつしかストップウォッチにはタイムが刻まれるようになり、タイヤが増え、月日が経ち、いじめっこをやっつけるだけだったはずの戦いはいつしか町内全体を巻き込む大抗争へと発展していった。俺はそれをずっと横で見ていた。メッセンジャーとして。
 沢村が手から火を出したあの日、それを一番近くで見たのが俺だったのは、何かの因縁かもしれない。俺はいつも、いつも、そばから見ている役目柄だったのだ。




 どっがぁ!



 沢村が投降したことなど露ほども知らない天ヶ峰の跳び蹴りがバスの横っ腹に突き刺さった。
 今度は持ちこたえられなかった。
 タイヤごと浮き上がったバスがゆっくりと倒れていき、中でパニクっている犬飼さんと俺の目が合った。ごめん、助けられそうにない。

 ずどぉぉぉぉぉぉぉん…………

 バス、横転。
 さすがのポンコツ3組も一同呆然としてその場に立ち尽くした。
 天ヶ峰だけが動いている。天ヶ峰は横転したバスにへばりつくと窓を蹴破って中へと進入。一分もせずに這い出てきた時には沢村を引きずり出していた。沢村はもう天ヶ峰の顔が見た時に考えるのをやめていたらしい、幸せそうな寝顔だった。
「よいしょっと」
 天ヶ峰は猟師が獲った獲物にそうするように、沢村の首根っこを掴んで持ち上げ、バスの上からみんなに見せびらかした。息が上がっている。さすがにバスを蹴倒したのは初めてだったろうからな。
 天ヶ峰はすうっと息を吸い、

「獲ったどぉーっ!!!!」

 いや。
 そういう話じゃないから、コレ。






『登場人物紹介』


 天ヶ峰…獲った
 沢村…獲られた
 後藤…痛む拳はオトコの勲章
 茂田…気絶した犬飼さんを最寄の病院に連れて行った
 犬飼さん…オカマ
 横井…PSPはうやむや
 女子…バスを尻で押したため尻が痛い
 黒木…そ知らぬ顔をしている
 三浦…一言もセリフがないまま終わる
 田中くん…沢村が泣いちゃった時に釣られて泣いちゃった
 木村…実は女子と仲がいい
 てっちゃん…そばを配達していたので不参加に終わる
 江戸川…自慢のエースストライカーもバスには勝てず
 桐島…他クラスなので不参加
 紫電ちゃん…自宅で沢村投降の報を知る
 佐倉某&男鹿…紫電宅にて闇鍋パーティを開いていた
 紺碧さん…ヒトカラ満喫中
 志波先生&そのほか先生ズ…その時、職員室で全員のお茶に茶柱が立った
 吉田くん…入院中
 茂田の姉貴…ヤケドを負わせてきた地柱町に巣食う野良パイロキネシスト集団を人知れず壊滅させ、残りの吉田くんをシバきに病院へ向かっている最中だが、誰もそのことを知らずに終わる
 山田と牧瀬…ホモとゲイ




 期末考査が終わったあと、俺たちは何もかもが嫌になった。いや、沢村のゴタゴタがあってなんとなく浮いた気分が続いてしまって、結局ほとんどのメンバーがノー勉でテストに臨んだ。愚行もいいところで、まだ発表はされていないが、いったい何人追試を受けることになるのか見当もつかない。
 ので。
 何もかも嫌になったらパァーッとやるに限る。誰が言い出したのか知らないが、その日の放課後、俺たちはキャンプファイアーをすることになった。場所は校庭、時刻は夜八時。
 各自が持ち寄った廃材やら燃やしても問題なさそうなゴミやらを組み重ねて桐島が隠し持っていたガソリンをぶっかけて燃やした。なぜ桐島がガソリンなんか隠し持っていたかといえば、あの女は世紀末なオイルショックが起こった場合に学校に立てこもりガソリンを法外な値段で売りつけようとしていた魔女だったからだ。なので我らが生徒会副会長が直々にやつに鉄槌を下した。いま、桐島の夢とお金の名残が勢いよく燃え始めたところだ。あいつもバカだなーガソリンって腐るのに。
 俺は一階の廊下から半身を夜気にさらして、科学部の水谷が「うちの部長の不手際のおわびに」と作ってくれた何か泡立つ液体を飲んでいる。酒ではないらしい。ただの炭酸水か何かだろう。お好みでと渡された砂糖を混ぜながら少しずつなめる。おいしい。
 キャンプファイアーの周りにはポンコツ3組と、他クラスの連中も集まっていた。みんな思い思いにレジャーシートを敷いてだべったり、松明を作ってチャンバラをやったり、背筋を伸ばして麻雀を打ったりしている。てっちゃん、また負けるんだろうなあ。
「沢村、火が足りない! 火ぃ入れて火ぃ」
「わーった、わーったよ。いまやるよ……痛い! ケツを蹴らないで! なんでそんなことするの!?」
 沢村が周囲に蹴飛ばされながらキャンプファイアーに手をかざして、その火勢を強めている。キャンプファイアーの火はごうっと大きく燃え上がり、周囲の人間の頬を赤く照らした。それをクールに眺めながら炭酸水をなめる俺。超イカしてるなって自分で思う。
 沢村は、結局転校しなかった。まあ向こうから願い下げだったろう。公務で支給されていたバスを大破させられた犬飼さんは「更迭モンだよ」という苦みばしったセリフを最後に姿を消した。以来、沢村を連行しようとする政府の手先はやってきていない。
 沢村は沢村で、火を出してから今日まで振り返ってみれば驚くほど動じていなかった俺たちのあり方に思うところがあったらしく、今では普通に学校へ通っている。まあ俺たちの肝っ玉は筋金入りで、沢村が手から火を出したことを素で忘れていた猛者も何人かいたことだし。終わってみれば本当に、たかが手から火を出したぐらいでどうということもなかったのである。高校生ってすげえ。
 そんなことよりも俺は今、テストの結果が気になって仕方がない。黒木と答え合わせしたかったが、あいつは今夏の合宿へ向けての体力作りでそれどころではないらしく、今もキャンプファイアーの周りをエンドレスにウインドブレーカーを羽織ったままグルグルと走り回っている。ロードワークするか享楽に参加するかどっちかにしてほしい。見てるこっちが暑い。
 横井と茂田と答え合わせじみたものはやってみたものの、綺麗にみんな答えがバラバラで、少なくとも誰か一人は確実に赤点を割っただろうし、何もかもが駄目だと三人ともアウトの可能性もある。沢村とは違った意味でトライデントの名を襲名してしまうかもしれない。すげーやだ。
「後藤」
 呼ばれたので振り返った。志波が、どう見ても酒にしか思えないものを抱えて立っていた。
「よう」
「志波センセじゃないすか。何してんすか」
「何も糞もキャンプファイアーだぞ。家でゴロゴロなどしていられるか」
 その青白い顔からは考えられないほどアグレッシブなセリフが志波の口から飛び出した。この町には一見するとひょろっちいくせに内心には熱い魂を持っている男性が多いと聞く。うちの親父もそうだし。
 ふう、っとため息をついて志波が窓枠にもたれかかった。
「沢村、転校しなくてよかったな」
「ああ、そっすね」
「聞いたぞ?」
 志波はエロ本を見つけた小学生みたいなツラになり、
「大活躍だったらしいじゃないか」
「拳にヒビ入れたことが大活躍ですかね」
「大活躍さ」
 志波は一升瓶からオチョコにどぼどぼと酒を注いだ。日本酒かよ。酒井さんちで買ったのかな。
「オトコの勲章ってやつだな」
「志波センセ、本の読みすぎ」
「ふふふ」
 このオッサン、さてはもう酔ってやがるな? セリフがかっこつけすぎなんだよ。
「沢村が転校するって言い出した時な」
 志波はぐいっと杯を干して、まるでカラになったそこに記憶が映っているかのように覗き込んだ。
「先生たちは何もいえなかった。だって黒服びしっと着た男たちが沢村の周りを取り囲んでたからな。沢村、極道のお嬢さんにでも手をつけちゃってこれから沈められるのかなって本気で思ったよ」
 確かに黒服は怖い。気持ちはわかる。
「で、まあ話を聞いてみたら手から火を出したとか言うじゃないか。職員室は二等分されてな、行かせた方がいい派と行かせない方がいい派。俺は……行かせた方がいいと思った」
「……」
「国って言葉が強かったな。国に任せておけばいい。そう思った。先生も公務員だしな。でも……おまえはそう思わなかったらしいな」
「別にそんな格好つけたアレコレじゃないっすよ」
 きっかけは下心だったし。そう考えるとあのパンチもリビドーのなせる業で全然大したものじゃない。
「理由なんかどうでもいいんだ。問題なのは、何をやるかだ。おまえはやった。先生はおまえを教える身として誇らしいよ。おまえらみたいな若者がいれば、先生たち年寄りは安心して死ねる」
 大げさな。褒めても何も出ないぜ。
 でも、まんざらじゃなかった。
 志波は教師ぶって俺の肩を叩くと廊下の奥に消えていった。もっと落ち着ける場所で飲みなおすのだろう。
 窓枠には志波が忘れていった杯に、少しだけ酒が残っていた。俺はあたりをうかがって、その酒をぺろっとなめてみた。
 気の抜けた炭酸水の味がした。
 ったく。
 志波のやつ、下戸にしちゃあ格好いいこと言いやがる。



 ○



 俺はキャンプファイアーの周りをウロウロした。あたりには肉の焼ける臭いが漂っている。別に誰かがキャンプファイアーに投げ込まれたわけではなく、バーベキューをやっているやつがいるのだ。本当にどいつもこいつも喰うことが好きである。
 俺が近づくと火をくべていた沢村が振り返った。
「おう、後藤。肉食うか」
「食う」
 紙皿にとってもらって、俺はもりもり肉を食った。超うめえ。
「あのさ、後藤」と沢村がもじもじしていた。気持ち悪い。
 なんだ、と聞き返そうとしたが、その時強い風が吹いてまた火が消えかけ、沢村は四方八方から引っ張られて(うわーっ!)、いってしまった。何を言おうとしていたんだろう。何でもいいか。
 俺はレジャーシートに腰かけてもぐもぐと肉に舌鼓を打った。キャンプファイアーのそばでは天ヶ峰が松明を振り回して手当たり次第に嫌がらせをして回り、吹奏楽部の女子は何か綺麗で眠くなる曲を演奏している。紫電ちゃんがコーラスで何か歌っていたがヘタクソなので何がなんだかわからない。断末魔かな?
 平和である。
 のんびりと揺らめく火を眺めていると本格的に眠くなってしまった。うとうとっと顔が下がる。やべー家帰るのめんどい。茂田んち泊まろうかな……
 かくんっ
 ごっ
 うなだれかかった俺の首が誰かに支えられていた。俺はぱちっと目を開けて顔を上げた。
「大丈夫ですか?」
 沢村妹だった。
「おお、妹」
「そ、その呼び方はやめてください……」
 沢村妹は顔を真っ赤にして俯いてしまった。やべーなんだこの生き物。これが女の子ってやつか。やべーな。やべー……
 よく焼けたホルモンみたいなツラになっていたんだろう、俺を見て沢村妹が今度はくすくす笑った。なんだか幸せそうな呼気をして、
「お肉、食べてますか?」
「もちろん。そっちは?」
「私はもうおなかいっぱいで……」
 そういって沢村妹は平らなおなかをさすった。
「兄と違って、少食なんです」
「太らなくていいねぇ」
「はい」
 そのまま二人、肩を並べて火を眺めた。
「……あの」
「うん」
「今回は、いろいろありがとうございました。兄のために尽力してくださって……」
 本当は兄貴のためじゃなく君のためなんだけどね、と言いたかった。終わってみれば滑稽な話で、転校するのも引越しするのも実は沢村一人で、沢村妹はあの時あのバスに乗っていなかったのだ。ある意味で当然なことなのだったが、早合点した俺にはもう何がなんだかわかっていなかったし、結果的にはまァよかったのだろう。あんなやつでもチャッカマンの代わりにはなる、というかあいつこそが真のチャッカマンだった。
 だが、こんなチャンスをふいにする俺ではない。すかさず遠くを見てこう言った。
「べつに大したことはしてないよ。友達として当然のことをしたまで、かな」
 くぅーっ!
 決まった!
 俺はそおっと隣の少女を窺った。さてさて俺のイケメンワードの効力のほどは……?
 効いてるっ!
 沢村妹は目を潤ませて俺を見上げていた。
「……加藤さんはすごいですね」
 後藤です。あとで直させる。が、いまはいい! いまはなんでもいいから惚れてくれ! 頼む! 俺は君のことが好きだーっ!! もうひとりぼっちの夏はやだーっ!!
「私にも加藤さんみたいな勇気があれば……」
 俺は尻をずらして沢村妹に近寄った。視界の隅で天ヶ峰にボコボコにされている沢村が映ったが、妹からは見えないよう姿勢を変えた。何をやったんだか知らないが今は沢村の命運どころじゃない。
「何か悩みでもあるの? だったら、俺でよければ聞くけど……」
 あんまりがっつかないようにするのがコツだってフラワーズの漫画に書いてあった。
 沢村妹は恥ずかしそうに唇をかんでもじもじした。
「でも……あまり人に言うことじゃないですし……」
「遠慮しなくていいんだよ。どんなことでも忘れてくれって言えば俺、忘れるし、誰にも言わないから」
「……本当ですか?」
「当たり前だろ」
 ちょっと強めな口調で言ってみた。ワイルドで頼りがいのある感じを演出したかったんだが、機嫌悪いとか思われてたらやだなあ。
 沢村妹はまだ迷っていたが、数秒、キャンプファイアーの火を見つめているうちに、どうやらその心にも勇気の炎が灯ったらしい。意を決したように俺を見上げてきた。
「加藤さん」
「なんだい」
 すうっと息を吸って、



「私、兄が好きなんです」




 ……
 …………
 …………………

 はあ?



「じ、実は初めて会った時から好きになってしまっていて……でも血は繋がっていないとはいえ戸籍上は兄ですし……ずっと我慢してきたんです。もうはち切れそうなんです。理解されないまま過ごす夏にはうんざりです!」
 沢村妹は放心状態の俺にずっと顔を寄せてきた。
「でも、やっぱり、自分の内に溜め込んでるだけじゃ駄目ですよね。言いたいことは言わないと。私、兄に告白してきます! 加藤さんが勇気をくれたから……」
 すっくと立ち上がり、深々とお辞儀をして、
「ありがとうございました! そこで見守っていてください……私の戦いを!」
 意味のわからんことを言い残して沢村妹はキャンプファイアーめがけて猛突進していった。その後どうなったかは知らない。俺はその場に大の字に寝転んじまったから。
 満天の星空も今は恨めしい。
 が、まあ、いいか。
 俺は起き上がり、頭を振った。そして振り返るとキャンプファイアーの熱さを知らないのかそれともやっぱり馬鹿しかいないのか、沢村や天ヶ峰や茂田や横井やそうして今こっぴどいやり方で俺をおフリあそばした沢村妹がどんちゃん騒ぎをやらかしている。
 火に声をかけられた夏の虫のように、俺もやつらの喧騒の中に加わった。

       

表紙
Tweet

Neetsha