Neetel Inside 文芸新都
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         *

「明日は朝から詰めなきゃならないから、ごめんなさいね」
 それから小一時間飲み食いしながら世間話をした後、エリはそう言い、先にバーから去った。
 支払いは礼と失礼と非礼の兼ね合いで俺が担当することになった。
 当然といえば当然なのだが、エリのこういう席の立ち方は、この一年で出来た壁を感じさせる。
 ついてきてくれるなよ、と。
 見慣れていたはずのエリのベッドが、今は記憶の中でセピア色だ。その記憶の中の形と匂いを留めているのかどうかの確認を拒絶されている。
 求めてはいないのだが。たぶん、お互いに。

 ──掴める世界ってのは必ず、見えている世界よりは狭いのよ──

 エリの言うそれが真実ならば、俺にとってエリは『観測は出来るが手の届かない存在』に変わったということか。
 声は届くから光速で遠ざかっているわけではなさそうだけど。スナイパーライフルならば音より先に着弾するな。届くのだろうか。いや、声が届くのだから音速より遅くても届くだろう。では、手を伸ばせばどうなる?どこに向かって?空に向かって手を伸ばし、届いたのは犬の頭。触れる振れるココロ。そこにココロはありません。ココロは胸にあるのでしょうか。掴みたいのはココロ?摘みたいのはムネのナニ?
 ……酒のせいか。取り止めがねえな。酒のせいなのかな。
 軽く頭を振り、時計回りで大きく一回、次いで逆周りで一回、頭を回す。
 よし。帰ろ。
 声には出さずに呟き、会計を済ませてバーを後にする。

         *

 部屋に辿り着くと、アウラは風呂場の手前にある洗面所の鏡に向かい、しきりに顔を左右に振っている。
「マスター、おかえりなさい」
 と声には出すものの、こちらに来る様子も気配もない。
「なにやってんだ?」
 眠る準備をしようとベッドサイドに歩きながら声をかける。
 椅子がない。アウラが洗面所に持ち込んでるのか。今日は不精をせずに真面目にハンガーにかけることにしよう。
「鏡を見てます」
 律儀に答えるのはいいんだけど、それはわかってるんだよ、アウラ。
 楽な服装に着替え終わり、アウラの様子を確認するために移動する。
 アウラの髪は短い。長い必要がないからだ。違和感を与えない程度に人間と見間違えられたならばそれでいいのだ。
 ショートカットで可愛く見える女の子は顔立ちが整っているとは聞いている。実際、アウラの顔立ちは世間一般でいうところでは、かなり可愛い部類になる。
 整形どころではなく、一からの作り物だからな。集められ、高められた技術の粋。『すい』でも『いき』でもいいよ。不気味の谷などものともせずに飛び越えてきてしまった。そんな、水域の技術。
 そんなアウラがしきりに鏡の前で顔を左右に振っている。自分の後頭部を見ようとしているようだ。
 後頭部。
 ……筆の穂先? ミニチュアの竹箒?
 アウラの髪は、短い。
「なにやってんだ?」
 改めて訊く。せっかく邪魔にならない髪形なのに、むしろ邪魔だろ、これ。
「鏡が見れないんです」
 首の関節がよく動くなあ。人間の可動範囲としておかしくない程度にだが、実に滑らかに動く。それでも後頭部は見ることは出来ないのだろうな。
 アウラが何を思ったんだか何が目的なんだか皆目わからないまま、俺はベッドサイドからもう一枚の鏡を持ってきて、合わせ鏡で後頭部が見えるように調整してやる。
「おお。マスターすごいです。ありがとうございます」
 アウラは礼を言いながらも鏡の中の自分から視線を外すことはなく目は丸く。
 鏡を組み合わせるという考え方はプログラムされてないのか。それはちょっと意外だった。
 ということは。まさかとは思うが、俺がバーにいる間、ずっとこうやって鏡の前で雀の真似のような動作をしていたのか? 確かに、気が向いたら来てもいいと言ったのであって、来ないことに関してはアウラの自由に任せたが、何やってんだ。
「アウラ、自分でやってみな」
 そう言い、鏡を渡す。
 アウラは暫く鏡の位置や角度を試行錯誤していたが、自分の中でのベストポイントを見つけたのか、今度はその束ねた髪を摘んだり、びよんびよんと指で弾いたり、人差し指で絡めるようにぐるぐると回したり、色々と試すかのように弄びはじめた。
 ……非常に可愛くて面白いんだがな。なんなのだろう、この光景は。
 アウラの後方の壁に寄りかかり、腕組みをしつつ眺めていたのだが、もう一度ストレートに疑問をその発生源にぶつけてみる。
「で、アウラ、なにやってんだ?」
 一瞬動きを止め、そしてこちらを振り向いたアウラは、
「マスター、見てください、しっぽです」
 何故か得意そうに、勝ち誇ったような笑顔で言う。
 うん、そうだね。でも、ポニーテールには足りないその長さは、何の尻尾なんだろうね。
「任務中は、それ、禁止ね」
 一瞬、笑顔から無表情になり、
「はい、マスター」
 体ごとこちらに向き直り、揃えた両膝に軽く握った両手をきちんと乗せて、応える。
 何故か満面の笑顔で。

       

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