Neetel Inside 文芸新都
表紙

見開き   最大化      



   六


 紫乃は目を開いた。背後から嗅がされた薬品のせいか、視界も意識も輪郭がはっきりしない。薄暗い部屋の中に、ぶら下げられた小さな灯りがかろうじて見えた。
 何度か両手足を動かしてみるが、手首と手足は固定されているようで、何度力を込めても自由は効かなかった。おまけに頭部にも丁寧に拘束具が取り付けられているようだ。眼球の動く範囲の情報しか紫乃は手にすることができなかった。
 汚れた天井にぶら下がった灯りは、どうやら古びたランタンのようだ。左右に小さく揺れるランタンのガラスの端からちろりと火が見えた。
 だんだんと焦点の合いつつある視界が捉えた光景に、紫乃は思わず嫌悪感を抱く。
 四方のスチール製の棚に並べられた液体に満たされたケースに、それぞれに名前と日付が貼りつけられている。随分と黄ばんだ名札もあれば、最近貼り付けられたばかりの真っ白いものも、様々だ。
 ケースの中には一対の眼球がぷかぷかと液体の中を漂っており、時々彼らはじっと紫乃に視線を向けていた。もはや彼らにとってはこれが日常なのだろう、と紫乃は思う。ケースの中で次に気に入られた眼球を招くだけ、それか、視られたがりに愛されるだけの日々。それが日常。
 すっかり眠らされていたせいで場所も時間もよく分からない。それほど遠い場所へ行ってはいないと考えているのだが、しかし何故彼女は私を手に入れる為にわざわざ自らを……? 紫乃はぼやけた意識の中で思考を巡らせる。
 ぎい。
 錆びた蝶番の軋む音と共に、四方を囲む棚の隅にひっそりと設置された鉄扉がゆっくりと開いた。
「あら、起きた?」
 若葉萌は包帯を巻いた顔でそう言うといつもの笑顔を紫乃に向けた。
「そう……貴方が【視られたがり】なのね」
「篠森さんも知ってたのかあ……。まあ随分と有名になっちゃったし、しょうがないのかな」
 若葉は微笑みながらそう言うと、紫乃の横たわる台に寄りかかる。
「残念そうには見えないわ」
「そうね。だって私は視られたがりだから」
 若葉はそう言うと、包まれた包みを取り出して、すぐ傍に置かれていた液体の満ちたケースを開けると包みを逆さにする。ぽちゃん、と軽快な音と小さな飛沫を上げて液体に、眼球が一つ、ぐるりと辺りを見回しながら水面に浮かんでいた。どうやら彼女自身の眼球のようだ。紫乃は喉元までやってきた嘔吐感をぐっと飲み込んだ。
「私はね、人に見られていないと不安でしょうがなくなるの。誰にも必要とされてない気がして、酷く酷く、苦しくてたまらなくなる」
 彼女は恍惚とした表情で頬を赤く染めながら、新たに手に入った眼球を眺めている。抉り取られた方をそっと擦りながら残った眼でじっと眼球を見つめている。元は彼女のその空洞となった片方にあったものだ。犠牲にせざるを得なかったとはいえ、惜しい気持ちは拭い切れないのだろう。
 紫乃は視線だけを動かし、周囲に広がる眼球の標本達を眺めた。
 色や瞳の色、それぞれがそれぞれ違いを持っている眼球達が、新たな住人をまだかまだかと待ち続けている。この中に自分も並ぶかと思うと、紫乃はあまりいい気がしなかった。
「私も、貴方を見続けなくてはいけなくなるのかしら?」
「……貴方は特別」
 頭部を固定された紫乃の真上にやってくると、若葉はそっと彼女の頬を撫でる。絹のような、白くてきめ細かい彼女の肌を滑り、そして紫乃の瞼に触れる。その奥から覗く水気の多い、常時潤んだように見える瞳を見て、若葉は身体が火照るのを感じた。彼女の瞳に映る自らの姿が、波紋のように揺れて広がっていく。
 まるで水鏡だ。涙でも流そうものなら、全て流れて消えてしまうのではないかと思うほど、彼女の瞳は完璧だと若葉は思った。
「貴方の瞳にずっと見つめられていたいの。そうしたら、この視られたがりな気持ちも何もかも、私の中のものを全部満たしてくれる気がするのよ……」
 もうすぐこの瞳が手に入る。これまで集めてきたどの瞳よりも鮮明に自身を映してくれるそれに毎日見つめられたら、さぞかし幸福だろう。若葉はスチール製の台から離れると、スチールラックに並ぶ瞳を一つ一つ見つめる。
「これも、ああこれでもとっても素敵だった。まるで私の全てを見透かしているようで身震いがしたわ。これはつい最近。元気な女の子だった。眼を持っていかれるまでずっと気持ちを強く持っていたから素敵。いつもは絶望しちゃって、時々眼が素敵じゃあなくなってしまう時もあるから。活き活きとした眼に見つめられたい。けど絶望されるとそれが少し……ね」
 残念そうに語りながら、若葉は固定されたままの紫乃に次から次へと眼を見せていく。紫乃は無表情のまま口を閉ざし、彼女の受け答えにも全く何も返答はしない。

 初めは自らのペースで語っていた若葉であったが、次第に反応のない紫乃を不満に思ったのか、その表情に陰りが出始める。
「ねえ、何か言ってよ」
 終始無言を貫いていた紫乃は、ふう、と小さく息を吐き出すと、穏やかな表情のまま若葉のことを見る。
「貴方は、私を殺してくれる?」
 ようやく開いた口から出た言葉は、それだけだった。若葉は暫く呆け顔で紫乃のことを見ていたが、少しして腹を抱えて笑い出す。密閉され、眼に囲まれた空間に甲高い笑い声が反響する。耳障りな音だ、と紫乃は思いながらも、決して口には出さずに彼女を見つめていた。
「人殺しに興味はないわ。私は見て欲しいだけ。命を奪うだなんて、そんな野蛮なことはしたくない。見られることで満たされる。その快楽さえあればいいのよ」
 頬を紅潮させて語る若葉とは裏腹に、紫乃の表情から色は消え失せていく。何にも汚されていないカンバスのように、彼女は白に染まっていた。
「なら、貴方に私をあげることなんてできない」
 若葉の表情が、その一言で変わる。
「ふうん、どうして?」
 平静を保ちながら、彼女は紫乃に向けてそう問いかけた。紫乃はいたって平常心のまま、戸惑う彼女を凛とした眼差しで力強く見つめる。
「貴方が視られたがりであるように、私は死にたがりだから。それ以上もそれ以下もない。私のことを殺すつもりのない人に、私の身体は一つもあげられない」
 それに……。紫乃は付け足すように言うと、静かに微笑んだ。心なしか、彼女の白が紅色に染まったような笑みだった。
「私の両目に映っているのは、紅一さんだけ。他の人なんて見えてないわ」
「……ふうん」
 すっと、紫乃は右腕に小さな痛みが走るのを感じた。
 彼女の言葉を聞いた若葉が、固定された紫乃の腕に注射針を突き立てたのだ。
「私には貴方の瞳がとても必要なの。本当は、鮮度を考えてそのままにしたかったけど、仕方ないよね……」
 全身が弛緩していく。力が入らない。目の前の冷たい表情をした若葉の輪郭が波打つ。紫乃は視界がノイズまみれになるのを感じ、塞がれたみたいにぼやけた彼女の最後の言葉を聞いた。
「拒絶の色をした眼は嫌だから、貴方の意識がないうちに、私の眼にさせてもらうわ」
 輪郭をなくした言葉と視界を受けながら、やがて紫乃はずしりと重たくなる瞼の中で、自らの意識が奥底へと落ちていくのを感じた。
 次に目が覚めた時は何も見えなくなっていると思うと、酷く怖くてたまらない。そのまま生き続けると考えると、紫乃は恐ろしくて気が狂いそうだった。
――紅一さん。
 紫乃は落ちいく意識の中で、最後にそう呟いた。

 昏倒する紫乃を若葉は見つめる。閉じた瞼の先にあるあの瞳が、欲しくて堪らない。彼女は用意しておいた針金状の器具を手にすると、紫乃の額をそっと撫でる。
 ああ、あと少しであの瞳にじっと見つめられる毎日が来る。私のこの姿を見つめてくれる。今まで沢山の眼に興奮してきたが、今度は違う。この一つだけでも十分だ。ようやく出会えた紫乃の瞳を若葉はまるで恋のように感じていた。
 だが、その想いは、背後の蝶番の軋む音で途端に打ち消された。背後から荒い呼吸が聞こえる。多分彼だろう、若葉の思考が照らし出した人物は、たった一人だった。
「まだ、紫乃に手を出さずにいてくれたんですね」
「……これから準備するところだったのよ」
 若葉が振り向くと、鉄扉に寄り掛かる蒼太の姿が、そこにあった。いつもの鞄を肩から提げ、右手は鞄の中に突っ込んでいる。額にじっとりと浮かんだ汗を彼は空いた方の手で拭う。
「良かった。片目くらいは駄目かなって諦めていたんですよ」
 そう言って蒼太は安堵感を示すように胸をなでおろすと、若葉を見て微笑む。若葉は目を細めて彼に敵意を示すと、ウェーブのかかった茶髪に手櫛を入れた。
「どうしてここが、なんて聞かないでおくわ。どうせ何でも屋が気まぐれを起こしたんでしょうよ。前にも似たようなことがあったから。尤も……ここまで入られたのは初めてだけどね」
「……貴方は、何故目に拘るんです?」
 軽口を叩いて余裕を見せる若葉に対し、蒼太はそう問いかける。
「貴方、人に見られる時って、どう思う?」
「……どういうことです?」
 紫乃の眠る台に若葉は腰掛けると、腕を組んだ。さほど大きくはないが、かたちの良い胸が腕によって強調される。蒼太はちらりとそちらに目を向け、改めて彼女の顔を見た。
「私は、人の視線に入っているとね、自分の存在が認められているって感じるの。ああ、自分はここに居てもいいんだって、一人、二人、三人四人……増えれば増えるほどその安心感は増していったわ」
 蒼太は鉄扉から身を離す。蝶番がまたぎしりと音を立て、小さな衝突音と共に扉は完全に閉ざされた。
「人の視線に安心していくうちに、ふと思ったのよ。もっと多くの人に私の存在が認知されたなら……って。でもそんな大勢に振り返ってもらえるほど私は何かをしたわけでもない。かといって、このままごく少数の人の視線に安心するなんて嫌だ……。人は満たされると、更に欲しがる。現状だけでは満足できなくなったのよ」
「でもそれと目を奪うことに関連性はないですよね」
 ああ、と若葉は残念そうな声を漏らす。やはりこの想いを共有してくれる人はいないのか、とでも言いたげな目で、蒼太のことをじっと、いや、哀れむように見つめていた。
「以前ね、交通事故を見たの」
「交通事故?」
 蒼太の反芻に、若葉は頷く。
「酷い事故だった。亡くなった人の身体が弾け飛んでね、私のところにきたの。いろんなものが飛び出してて、気分が悪くなったわ」
 でもね。若葉は思い出を語るように優しく呟いた。
「その時の彼の目は、私を見て離そうとしないでくれた。いつまでもいつまでも、私のことを見続けてくれたのよ。その時、私は彼のその目に心を打たれたわ。ああ、私のことを見続けてくれるんだって」
 蒼太は一つ、小さく嘆息する。
「君が視られたがりである理由はよく分かったよ。僕にはとてもできない事だ。でも、紫乃は駄目だ。彼女のことは諦めてくれないか?」
 蒼太の言葉に、浸るような穏やかな目をしていた若葉は途端に形相を変え、大きく首を振った。
「こんな素晴らしい目を何も手を付けずに渡せっていうの? そんなこと、できないわ。この目は素晴らしい。今まで見たどの目よりも……私の欲に気づかせてくれたあの彼の目よりも美しいと思ったの。どんな瞳よりも、私のことをきっと満たしてくれる!」
「君の満足なんて知らない。他の目をあたってくれ」
 若葉はもう一度首を振る。仕方ない。蒼太は諦めたように項垂れると、大きく息を吸って、左手を固く握りしめた。
「悪いが、その瞳に君が映ることはないよ。彼女の瞳には一人の男が居座り続けているから」
 若葉の表情が、変わった。ショックに身を震わせ、整った唇を噛み締めている。巻かれた包帯が赤く染まり、許容量を超えたそれはやがて彼女の頬にすっと赤い線を描く。
「私のよ、私のなの。この目は私を映してくれるの!」
 紫乃は台に置かれた器具と、液体で満たされた注射器を握りしめ、蒼太目掛けて大股で駆け出す。
 蒼太は鞄から右手を抜いてナイフを構える。が、若葉は器具で彼の手の甲を殴ってナイフを吹き飛ばすと、躊躇いなく注射器を振り下ろした。蒼太は既のところで彼女の手首を掴んで動きを止める。眼前に迫る注射器の先端に、総毛が立つのを感じた。
 注射器の針が蒼太の顔を求めている。女性とは思えない腕力に蒼太は顔を歪め、若葉は息を荒げて彼のことを睨みつけている。
 先端が、いよいよ蒼太の瞳へと近づいていく。殴られた手で彼女をどうにか抑えているが、抵抗で手一杯だ。蒼太は生唾をごくりと飲み込んで、それからナイフの飛んだ位置を確認する。ほんの少し距離さえ開くことができれば手に取ることは可能だ。その時間を作るには……。蒼太は必死で思考を巡らせる。
 瞳に触れるかどうかの位置で針が震えている。蒼太はいっそう腕に力を込めるが、劣勢であることは変わりそうもない。何よりもあの液体が一体何であるのかが分からないこと、人体に即座に影響を与えるものと考えると、蒼太は犠牲を払うこともできそうになかった。
――どうにか彼女を殺さなくてはならない。しかしどうすればいい。
 思考を巡らせる蒼太。
 なりふり構わず、目の前の敵を排除しようとする若葉。
 眠る紫乃。

 その時、蝶番の軋む音がした。
 瞬間、若葉の意識がそちらに向かうのを感じた。蒼太は彼女の腹部に蹴りを入れると、よろめく彼女の手から注射器をもぎ取って投げ捨て、力任せに体当たりをする。
「……萌!」
 突然の来訪者は、漆原雅人だった。扉を開けた彼は拘束された篠森紫乃、突き飛ばされる若葉萌、そして彼女を突き飛ばした藍野蒼太を順に見た後、彼の傍に近寄る。
 蒼太の体当たりを受けた若葉はスチールラックに背中を強く打ち付ける。その際に鈍い声が彼女の口から漏れ、包帯で包まれた側の目から血飛沫が床に散った。
 若葉の咆哮が、部屋中に響く。
 蒼太は飛んでいったナイフを手にし、咆哮と共に向かってくる若葉に向けてそれを構える。若葉は輝く刀身に目を向け顔を歪める。蒼太の瞳を見て、彼の中に殺意しかないことを瞬時に感じ取ったのだろう。だが彼女は止まらず、まっすぐに彼目掛けて駆けていく。
 向かってくる若葉に向けてナイフを振り翳したその瞬間、若葉萌は彼のナイフにたどり着く前に横に吹き飛ばされた。その突然の出来事に蒼太は一瞬驚くが、続いて蒼太の手に握られたナイフを強引にもぎ取られてしまった。
「……どうして」
 横から若葉を押し、ナイフを奪い取ったのは漆原だった。
 蒼太は呆然としたまま問いかけるが、漆原は言葉を吐き出そうとし、やがて言葉を紡ぐのを諦めて視線を蒼太から背けた。

 刹那、吹き飛ばされた若葉から悲鳴が上がった。
「あ……ああ……ああ……あ……」
 蹲り呻く若葉を蒼太は横から恐る恐る覗き込み、目を見開き肩を上げてたじろぐ。
 彼女の眼に、先ほど放った注射器の針が、深々と刺さっていた。
「萌……」
 絶句する漆原の肩に手を置くと、首を振る。
「もう、彼女は何も見えない。何も満たされない」
 蒼太の告げる言葉に、漆原は崩れ落ちる。もしあの時自分が彼女を制していなければ、蒼太はきっと彼女を殺していただろう。しかし、生き残った彼女は両目を失った。
 なんとも皮肉な最後だ。蒼太は漆原の手にしたナイフを奪い返すと鞘に収め、肩提げ鞄にしまった。
「ねえ、誰かあ……私を見てる? ねえ、見てるって言って……」
 呻き、両目から血を流し、極度の緊張から床に嘔吐物をぶちまけ、それでも彼女は「視られ」たがっていた。漆原はそんな彼女を見て涙を流し、そして彼女に声をかけようとする。しかしそれを蒼太は制すると、口元に指を一本立てて首を振った。漆原は、暫く躊躇うように彼女のことを見つめ、それから固く目をとじると開いた鉄扉から出ていってしまった。
 蒼太は二人の姿を交互に眺めた後、拘束具を外して紫乃を背負った。意識がない為随分と重い。華奢な彼女のどこにこんな重みが詰まっているのだろうか。
 スチールラックから、幾つもの目がこちらをじっと見つめていた。彼らはきっと、これからもここに居続けるのだろう。どこにも行けず、ただ呻く彼女を見つめながら……。蒼太は下唇をぐっと噛み締め、申し訳ないけど君らは連れていけない。と心の中で呟くと、呻く若葉萌を尻目に、部屋を出た。
 蝶番の軋む音と共に、部屋の唯一の扉が閉まる。悲鳴も、うめき声も、何もかも聞こえなくなって、後には静寂と暗闇だけが残った。
 蒼太はその静寂の中を一人で歩いて行く。

――視られたがりはもういないよ。
 
――君のその綺麗な瞳は無事だから、紅一の姿を映し続けることができるよ。
 
――だから、安心してゆっくりおやすみ。

       

表紙
Tweet

Neetsha