Neetel Inside 文芸新都
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   七


 講義が終わり、紫乃と蒼太は写真部へと向かう。
「大丈夫?」
「何が?」
「いいや、なんでもないよ」
 穏やかな表情を浮かべる紫乃を見て、蒼太はそれ以上何も聞こうとは思わなかった。あの日、彼女は結葉萌と少し会話をして、その後に眠らされてしまったらしい。その会話の内容を聞かせてくれないか、と彼は何度か尋ねたが、紫乃は結局彼の頼みに頷くことは一度としてなかった。
 部室の前にやってくると、蒼太は部室の扉をノックする。奥からどうぞ、という言葉が聞こえてきたので、扉を開けて中に足を踏み入れる。
「どうも」
 短髪の青年が暫く蒼太と紫乃の姿を訝しげに見た後、ああ、と声を上げた。
「漆原さんですか。今暗室にいるから、呼んできますね」
 そう言うと彼は暗室へと駆けて行ってしまった。その間に別の女性部員がこちらにやってきて軽くお辞儀をすると、奥のテーブルへ二人を招いた。
 紫乃を撮影していた時と打って変わって、写真部は随分と活気づいていた。漆原があえて人を出払ったという言葉からして、本来は此方側が写真部の空気なのだろう。自前のカメラを持ち寄って歓談している者もいれば、紫乃がつい先日まで白いドレスを着ていた場所で撮影も行われている。あれだけこだわり抜かれていた撮影状況も、漆原が若葉萌の理想の為に行なっていたのだと考えると、蒼太は思わず目を細めてしまった。
「写真はできているそうです。多分もう少ししたら、漆原先輩もこちらに来ると思います」
 女性部員は蒼太と紫乃の向かいに座ると、そう言って微笑んだ。
「それは良かった。こんな大変な時期に作業を続けてもらえるなんて思ってませんでしたから」
 無言を貫く紫乃を横目に、蒼太はそう言うとぎこちない笑みを彼女に返す。女性部員は少しだけ目を泳がせると、淋しげに首を傾いでみせた。
「本当に、若葉会長が疾走してしまってから漆原先輩、酷く落ち込んでいて……。あまり笑わなくなっちゃったんですよ」
「そう、なんですか」
 彼女の言葉にいかにも残念そうな返答を返すと、蒼太は暗室の扉に視線を移動させる。
 若葉萌は行方不明と判断された。視られたがりによる連れ去りが起こっている状況から、彼女も同じ目に遭ったという理由からだった。漆原も彼女の行方に関しては何も答えなかったようだった。
 この事件はきっと未解決となり、捜査は続いているが迷宮入りになるだろう。そして黒鵜町の奇怪な出来事の一つとなるのだ。蒼太は顔を顰め頬杖をつくと、嘆息を一つ、吐き捨てた。
「不本意なの?」
 横から紫乃が、そう問いかける。蒼太は彼女の問いかけに口を開こうとはせず、女性部員の用意した紅茶を飲む。柔らかな熱と芳ばしい匂いが口腔を埋め尽くし、蒼太の鬱屈とした感情にじわりと沁みた。
 やがて、暗室の扉が開くと、漆原がやってきた。彼が姿を現したのを見て二人は立ち上がると、軽くお辞儀をする。漆原は少しだけ目を閉じた後、開くとそっと二人に微笑みかける。
「待たせてすまない。約束していた写真、上がったよ」
「ありがとうございます」
 漆原の差し出した封筒を手に取ると、紫乃は笑みを浮かべた。紅一の誕生日に間に合ったことがよほど嬉しいのだろう。そんな彼女を見て微笑みながら、しかし素直に喜べない自身がいることに、蒼太はちゃんと気づいていた。
「約束通り、この写真は俺と萌ちゃんの最後の活動記録として使わせてもらう」
「ええ、構いません。私は写真が貰えればそれで十分ですから」
 紫乃はそう言うと封筒を鞄にしまった。白いドレスに包まれた篠森紫乃の姿を蒼太は思い出す。あの姿を、紅一はまた見ることになるのだろう。
 紫乃の目配せに頷いて蒼太は彼女の後を追うようにして部室を出ていく。彼女は紅一の墓に行きたいという気持ちが高まっているようで、目を輝かせながらいつもより饒舌に蒼太に話題を振っていた。すっかり明るくなった紫乃を見て笑みを浮かべながら、蒼太は彼女の言葉に何度も頷く。

「なあ、藍野君、ちょっといいかな」
 玄関口に着いた頃だろうか。後ろから慌ててやってきた漆原は二人にそう声をかける。逸る気持ちで一杯の紫乃に少しだけ、と蒼太は呟くと、不機嫌そうな表情を浮かべる紫乃を一人残して、漆原の下へと向かう。
「少しだけ、話をさせてもらってもいいか?」
 蒼太は頷いた。

   ―――――

 食堂の一番奥はやはり今日も誰も座っていなかった。騒々しい学生たちを掻い潜りながら最奥にたどり着くと蒼太はいつも通り布巾を借りてテーブルを簡単に拭いた。それからコーヒーを二つ購入し、うち一つを漆原の前に置いた。初めは遠慮がちに蒼太の方にやった漆原だが、蒼太が何度かコーヒーを勧めると、やっとそれを口にしてくれた。
「……随分と苦いな」
「ここのコーヒー、とても不味いことで有名なんです」
「そんなものを飲ませたかったのか」
「ええ、飲ませたかったんです」
 蒼太は言い切ると、彼も酷く不味いコーヒーに口を付けた。泥水を啜っているようで、飲み終わると口の中にじゃりっとした滓が残る。最低の味だ。
「俺、萌ちゃんがああだってこと全然分からなかったんだ」
「視られたがり、ですか?」
「ああ、単純に写真とか、目立つことが好きだなってくらいにしか思ってなかった」
 漆原はコーヒーを啜る。
「若葉萌さんのこと……」
 蒼太の言葉を彼は制すと、少ししてゆっくりと頷いた。
「彼女に付き添っていたのも下心があってのものさ。目立ちたがりの彼女の為に何かしてやりたい。被写体も彼女が気に入るものを沢山探して、会長になって厳しくなった部を俺がフォローして、できる限り彼女が楽しめる環境を作りたかったんだ」
「それを、若葉さんは?」
 漆原は首を振った。
「君に視られたがりが彼女だと告げられた時、ショックである反面、正直なところそれでもいいかな、と思った。彼女が良ければ、彼女が満たされるのならば……。そうして美しい彼女を見ることができたなら……」
 蒼太は彼の方を見ず、汚れたテーブルに視線を落としたまま、口を開いた。
「あの時、若葉さんを押しのけた時、もし彼女が無傷だったらきっと僕は殺されていたんでしょうね」
 蒼太の言葉に、彼は何も返そうとはしなかった。蒼太自身も、彼からの返答を待とうとは思わなかった。
「……狂ってるのは、俺のほうなのかもしれないな」
「どちらも間違ってはいませんよ」
 蒼太は立ち上がってカップをゴミ箱に向かって投げた。弧を描いてカップはゴミ箱に着地する。残念ながら不燃ゴミの箱だったが、蒼太は特に気にしない。
「想いを寄せると、そうなる」
 蒼太は振り返ると、最後に漆原に向けて微笑んだ。
「愛することと、狂うことは同義なのかもしれませんね」
 それだけ言い終えると蒼太は、漆原を残して一人、騒々しい学生達の中に消えていってしまった。

   ―――――

 紅一に線香を上げると、二人は手をあわせて目を瞑った。目の前の灰色をした墓石の中に兄が眠っていることを、蒼太は未だに受け入れることができていない。隣で手を合わせる紫乃のことも馬鹿にはできないと思っていた。
 手を合わせ終えると、紫乃は立てた線香をどけて、封筒を置いた。白いドレス姿の彼女が写った写真達だ。彼女は蒼太からライターを受け取って、封筒の端に着火する。
「これでいいの?」
「これでいいの」
 紫乃の言葉に、迷いは一つもなかった。
 結局彼女は受け取ってからここに来るまでの間、封筒を開けることは決してしなかった。そして今、糊のついたまま、開封されることもなく、彼女の写真は火を着けられた。
「紅一さんの為だけに撮ったものだから」
 ごうごうと火は強まり、封筒だけでなく中の写真も一緒に燃やしていく。気分の悪くなるような臭いをまき散らしながら、濃くて濁った煙を上げて写真は空へと立ち昇っていく。
「私は、何があっても、きっと彼のことしか見ることはできないわ」
「うん、分かってるよ」
 二人は空を見上げる。

 灰色の煙がよく目立つ、雲ひとつない晴天の空だった。

   ―――――

 針の折れた注射器が床に転がっている。周辺には血の混ざった嘔吐物が散乱し、スチールラックに整然と並べられていた眼球は皆、床に打ち捨てられ、ガラスの破片と共に転がっている。
 不意に、錆びた蝶番の呻く音がした。鉄扉の開いた音だ。誰かが入ってきたのだろうか。視られたがりは音に反応するように、俯いた首を起こした。扉の閉まる音が、部屋に反響する。

――ぶつり、ぶつり。

 転がった眼球の割れる音がして、視られたがりはぴくりと動く。右目は針で貫かれ、左目は空洞となった両目で、音のした方に向いた。血の気のない虚ろな表情と、血まみれの顔から、嘗ての美貌は失われている。壁に背中を預け、力なく四肢を放り出したまま動かないそれは、人形、いや、幽鬼とでも呼ぶべきだろうか。
「誰か、いるの?」
 何も見えない。自分がどこにいるのかも分からない。音と感触だけを便りに、視られたがりは起き上がると、両手を前に付き出して周囲を探る。

――ぶつり、ぶつり。

 音は次第に大きくなり、距離は近くなっていく。暗闇の中で視られたがりは、反響する音の主を探す。
「誰かいるの? 私を見ているの?」
 そう言って周囲を探る視られたがりを、音の主はそっと抱き寄せる。視られたがりは久方ぶりに感じたその温かみのある感触に、思わず安堵し、赤い涙を流す。
「ねえ、見てくれているの? 私のこと、見てる?」
 音の主は、優しく彼女の髪を撫でると、彼女に分かるように頬に顔をつけて頷くと、耳元で優しく囁いた。

――ずっと見ているよ。これからも、ずっとずっと。

       

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