Neetel Inside 文芸新都
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   ニ

 シャッター音に合わせて表情が器用に変わっていくのを間近で見ていると、人の表情は本当に多彩なのだと思わされる。元を辿れば喜怒哀楽の四種の感情になるが、憂いを帯びた顔から少しねだるような顔、挑発的な顔、上見がちに覗きこむように相手を刺激する顔と、それに合わせた服装や背景によって切り取られた世界の断片は幾つにも意味を変えていく。
 恐らく写真部の部長、漆原雅人はそんな幾重にも変化する景色を捉えることに強く惹かれたのだろう。一眼レフを首から下げて次から次へとオーダーを出していく彼の、生命力に溢れた姿を見ながら、藍野蒼汰は思う。
「藍野君、レフ板!」
「ああ、すいません」
 急かされて蒼汰は慌ててレフ板を抱えると、彼に駆け寄っていく。
写真なんてまるで分からない蒼汰にも分かるよう出来るだけ漆原は丁寧に指示を出す。蒼汰は自分なりにその指示を飲み込んで作業に準じる。ぎこちないが、使えないわけではないらしく、漆原に苛立った様子は無かった。撮影は順調この上ない。
 レフ板を抱え、色とりどりの服装や表情をするモデル達を眺めながら、蒼汰はここに紫乃がいたらいいのに、と思う。
 黒いキャミソールチュニックと、赤いミュールを履いた彼女ならどこの景色が似合うだろう。日陰で後ろ手に手を組み、憂いを帯びた表情でこちらを見つめる姿が浮かぶ。艷やかでさらりとした黒髪の合間から覗きこむように彼女の瞳が現れる。水気が多くて、今にもこぼれ落ちてしまいそうな瞳だ。
 そして、彼女は美しい目をそっと細めると、朱に染まった小さな唇で穏やかに僕に言うのだ。

――愛してるわ、紅一さん。

「藍野君、悪かったな。どうも人手不足でね」
 機材の片付けを傍のベンチから眺めていた蒼汰に、漆原はそう言って柔和な笑みと共に缶コーヒーを差し出し、隣に座る。蒼汰は会釈と共にコーヒーを受け取る。
「僕でよければ構いませんよ。とは言え、雑用くらいしかできませんけどね」
「いいや、本当に助かったよ」
 漆原は歯を見せて笑うと、首から提げていたカメラを愛おしそうに撫でた。あの小さな箱の中に、彼が見た景色が切り取られ収められている。ここから更に精査し、何百と撮り貯めたうちの何枚だけが人目に触れる作品となるのだろう。そうやって、必要なもの以外を削ぎ落とすことで、写真は完成度を増していく。
 もしかしたら紫乃は、紅一という存在を削ぎ落されたからこそ、今の美しさを手にしたのかもしれない。彼の犠牲は、彼女を完成させるために必要だったのではないだろうか……我ながら阿呆な事を考えたものだ。
蒼汰は頭を掻くと、コーヒーを一息に飲んだ。喉元を嚥下していく熱と苦味が、胸中に沸き上がったくだらない思考を一緒に喉奥に押し込んでいく。
「……写真部、一度は解体する話もあったんだ」ぽつりと漆原は零す。蒼汰が目を向けると、彼は苦い顔を浮かべた。
「部長の『失踪』もあるし、篠森さんが誘拐された件を含めて問題視されてね」
 以前、紫乃と奏汰は、ここにいる彼漆原雅人と、写真部部長であった若葉萌の依頼で彼女をモデルに撮影会を依頼された事があった。紫乃は快諾したが、同時に隣町の黒鵜町近辺で度々起こっていた目だけを狙う異常犯罪者「視られたがり」の事件に巻き込まれてしまい、結果部長若葉萌が行方不明という形でこの事件は執着したのだった。
 そんな奇妙な顛末から、奏汰と漆原の関係は始まった。
「でも、どうにか出来たから今日もこうして活動している」
「そう、どうにか出来た」彼は繰り返すと深く頷いた。
「萌の才能に惹かれた部員も少なくはなかったから、彼女が消えた事で辞めていった部員もいたし、以前より質が落ちたと今でも言われるよ。ただ、残った部員は俺にまたゼロから始めればいいと言ってくれた。だから、俺もせめて引退までは頑張ろうってね」
 蒼汰の喉元にじわりと苦味が広がる。くだらない思考を洗い流してくれた熱だが、途端に冷めると胸元にべっとりと張り付いて離れない。
蒼汰は顔を顰めながらコーヒーの残りを飲み干した。
「ところで若葉さんは、【お元気】ですか?」
 萌か、と彼は呻くような低い声で言う。上体を屈め、膝上で両手を組むと、そうだなあ、と呟く。
「元気だよ」
「そうですか」
「安心して。篠森さんはもう視られたがりには狙われない」
「それだけ聞ければ、安心です」
 それっきり途切れてしまった会話の先を、二人は探そうとはしなかった。
 昼下がりのビル街は陽の光を受けて活気づいているように見える。都会程とは言えなくとも十分に栄えている町、それが白鷺町だ。
「そういえば、今日は篠森さんの姿、見えないね」
 蒼汰は目を細め、いませんよ、とだけ答える。
「ここ最近の動向が掴めなくて、最近は会えていません」
「良くも悪くも奔放過ぎるところか彼女にはあるね」蒼汰は頷く。
「多分、もう見なくなって三日は経つかな」
「それは、大丈夫なのか?」
 不安げに眉根を上げる漆原に、蒼汰はかぶりを振る。いつものことだ、問題は無い。どうせそのうち気が晴れて姿を現すだろう。
「彼女は大丈夫です。もう随分付き合いも長いから、慣れてます」
「ならいいんだが、あれだけ整った容姿がふらふらと歩いていたら、やはりというか、また面倒事に巻き込まれそうな気がしてね」
 俺が言うことじゃないな、と彼は付け足す。その通りだと蒼汰は思ったが、ここで彼を皮肉る理由も特に無いので、閉口したまま空き缶をゴミ箱に放る。缶は放物線を描いて縁に当たると、小気味良い金属音と共に跳ねて、ゴミ箱の中に飲み込まれて消えた。
「紫乃はよく面倒事に足を突っ込むけれど、大丈夫です。もし巻き込まれたとしても、無傷でちゃんと帰って来ます。それに、もし最悪何かがあれば、すぐに僕を呼んでくれますから」
「……その自信は、一体どこから来るんだい」
 漆原の問いに、蒼汰は答えない。
 恐らく、ここが境目だ。彼にこの先を言ったとして、理解はきっとしてもらえない。
 
 守れた蒼汰。
 
 守れなかった漆原。
 
 二人の境目は、ここなのだ。
 蒼汰はそっと微笑んだ。それは、余裕か、見方によっては勝ち誇っているようにも見える笑みだった。
 ビルの隙間から溢れ出す昼下がりの陽光を背に受けて、逆光気味に全身に陰を落とした蒼汰は、漆原に穏やかな視線を向ける。
 そして、閉ざした口の向こう側でこう答えた。

――紫乃は、死ぬ時は僕の目の前でと決めているんです。だから、大丈夫なんです、と。

 篠森紫乃は、藍野蒼汰の目の前で惨たらしく死にたがっている。

 藍野蒼汰は、篠森紫乃が自分の目の前以外では死のうとはしないと信じている。

 これは、果たして信頼関係なのだろうか。
 漆原は彼らの経緯を知らない。藍野紅一の存在もぼんやりと聞いた程度だ。だから、彼ら二人のこの歪な信頼関係が一体どこから生まれているのかを知り得ない。
「まあ、君が良いなら、俺はそれで良いんだけどな」
 笑みを浮かべ無言を貫き通す蒼汰に仄暗い水底を見た彼は、それ以上何も口にせず、問い正すことも無く、たった一言、そう口にしただけに留めたのだった。
「藍野君、また時々手伝ってくれるかな」
「ええ、いつでも連絡してください。暇であればお付き合いしますから」
 穏やかな表情に戻る彼を見て、漆原は少しだけ安堵する。
 出来れば、もう二度と見たくない顔だな、と彼は空の缶を放り投げながら思う。
 空き缶は、放物線を描いて、ゴミ箱の端に当たってからん、と小気味良い音と共に弾かれ、奥の生け垣に消えていった。

       

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