Neetel Inside 文芸新都
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   三

 一体どれだけの時間をこの場所で過ごしたのだろうか。
 暗闇の中に取り残されていると、自分という存在すら危うくなっていく。少しづつ暗黒が身体を喰んでいくのだ。
――ごり、ごり、ぼり、ぼり。
聞こえる筈のない咀嚼音が耳元で煩く響く。
「篠森さん、起きているか?」
 横で、砂利の擦れる音がして、次にはい、と力無い声が聞こえてくる。
「錫谷さんは、少し眠れましたか?」
「いや、どうだろう。眠っていたのかもしれないし、眠れていないのかもしれない」
「どういうことです?」
「今ここが夢なのか現なのか、時々混乱してね。だから出来る限り起きていたいんだ。幸い腕の痛みもあるから着付けには困らない」
 幸か不幸か未だみしりと痛む腕のお陰で、鈴谷は自分を保っていられるようなものだった。恐らくこの痛みが感じられなかったら今頃発狂していてもおかしくはない。
「それにしても、篠森さん、君は強いね」
 自分よりも彼女の方が負担が酷いに違いないのに、不思議と彼女は平静を保ち続けている。壁際で寄りかかれる場所に移動しようと言ったのも、彼女だった。
「しかし、助けは来るのかな」
「どうでしょうね、どれだけ待っているか分かりませんが、少なくとも一眠りできるくらいの時間は経っているわけですから、期待はしていません」
「やっぱり君は、今でも」
「死んでしまえたら良かったと、そう思っています」
「そうか、まあ私も、こうして拾った命でも何も出来ないなら意味はないなと思ってしまうよ」
 どうせ、帰るところなんてないのだから。
「錫谷さんは、死ぬってどういうことだと思います?」
「どうしたんだい急に」
「人は、どうした時本当に死ぬんだと思います?」
 本当に、死ぬ。謎かけか何かだろうか。鈴谷は顎に手を充てながら、考える。
「生命活動が完全に止まれば、死だね。あとは、私という意識が無くなったら、死か」
「私は、誰からも忘れ去られることが何よりの死だと思っているんです」
 鈴谷は彼女を見た。いや、この暗闇で何を見るということもない。正確には彼女の声の方に目を向けた。暗闇の中から聞こえる声に、錫谷はまた、あの黒髪を思い出す。
「君は、誰からも忘れ去られたいのかい?」
「たった一人にだけ、憶えていてもらえれば、それで十分なんです」
「一人? 恋人かい?」
 無言。いや、頷いたのかもしれない。いずれにせよ錫谷はこの無言は肯定的なものだと感じた。
「恋人がいるのなら、生きて出ないといけないよ」
「いいえ、その必要はないんです」
「どうして?」
「それは、言えません……。でも、彼はそれで納得してくれるから」
 それは、一体どんな愛情の示し方なのだろう。少なくとも錫谷には理解が出来ない理由だった。彼女はもしかしたら、色々な意味で他者とは外れた価値観を持っているのかもしれない。
 だが、それゆえに興味が湧いた。
「君は不思議な考えを持っている子なんだね」
「そうですかね?」
 淡々とした言葉だった。
「でも、やっぱり大事な人がいるのなら、ここを生きて出た方が良い。もし死に顔を彼に見られたいのだとしても、直接、見えるところで死ぬべきだ」
「それは、難しいです」
「どうして?」
「彼は、何が何でも、私を死から遠ざけようとするから」
 紫乃の言葉に、錫谷は全く奇妙な人間関係だと思う。死にたい彼女に、死なせたがらない彼氏。そんな絶妙な、凹凸の嵌った関係が生まれるまでの経緯はどのようなものだったのだろう。
 暫くの無言の後、錫谷は、滔々と語り出す。
「紫乃さん、私ね、貴方が時折乗るバスの後部座席によく乗っていたんですよ」
「そう、なんですか?」
「ええ、貴方は多分知らないと思いますが、黒鵜駅のバス停からよく仕事先に行っていましてね、君が時折そのバスに乗るのを見ていました。全身黒い衣装でしたし、結構印象深いんですよ、貴方の姿は」
 何故語ろうと思ったのだろう。話題に尽きて困っていたからかもしれない。もしくは、自分が彼女をどれだけ見ていたのか、知って欲しかったのかもしれない。錫谷の中で逡巡する言葉を纏めながら、隣の彼女に告げていく。
「貴方を見るのが、一つの楽しみになっていたと言ってもいい」
「私がですか」
「ああ、多分君の恋人が口にしたんだと思うが、紫乃という名前も聞き覚えがあってね。だから始め名前を聞いた時、ああ、君が巻き込まれてしまったんだ、と思ったよ」
 ある意味では幸運な出来事だったのかもしれない。ただ、これでは錫谷は、彼女の瞳を見ることが出来ない。念願だった筈なのに、彼女が振り向く姿を見ることが、その瞳に見つめられることが。
 きっと、美しい瞳をしている気がするのに。
「篠森さん、私は貴方と話がしてみたかった。何の繋がりもない、ただ見ている側と見られている側だった私達がこうして関わり合えた。大してよくない人生だと思っていたけれど、こんな拾い物があったんだ。意外と、生きることも悪くないのかもしれない」
「そう、ですかね」
「幸いここが崩れる様子もありませんし、もう少し、希望を持って救助を待ちませんか」
 それが自分に出来る、最大の声掛けだった。返答のない暗闇をじっと見つめながら、錫谷は痛む腕に手をやりながら、待ちましょう、ともう一度語気を強めて言った。
「変なお願いを一つ、いいですか?」
「……なんでしょう」
「ここを出ることが出来たら、その時は私を見てもらえませんか?」
 その質問に彼女は随分と困惑しただろう。意図の見えない妙な頼みであることを、錫谷自身が何よりも知っていた。
 だが、意味はあるのだ。
 彼女の瞳を見れば、瞳に映る自分を見ることが出来たなら。
 また、一から何かに向かえるかもしれない。前に進めるかもしれないと、そう思った。

 依然として、暗闇は彼らを呑み込んだまま吐き出すことを由としない。
 抱かれた希望という名の獲物に目を光らせながら、彼の隙を狙っている。

       

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