Neetel Inside 文芸新都
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   四

 黒鵜町は、隣の白鷺町に比べれば随分と閑散としている町だ。日中降りたシャッターが存在し、人通りも少ない。早朝と深夜の駅前が少しざわつく程度で、それ以外は息を呑んだみたいな静寂が横たわっている。そんな町だった。
 奏汰は改札を出て周囲を見回して、点在する人の影を確認すると、提げていた肩提げの鞄を背負い直してから、駅から歩いてすぐにある飲食店に向かう。
 ビルの影を縫うようにして歩いた先にある個人経営の店、一見すると喫茶店のようにも見える風貌だが、ステーキが特に旨いことで有名だ。といってもその有名もサブカルな客層の中でというだけで、決して大衆的な人気を見せているわけでもない。
「おや、奏汰君、久しいね」
「こんにちは、おじさん。ステーキ定食お願いしていいかな」
 お安いご用だ、と店主はにっこり笑ってみせると、鉄板の上で分厚いランプ肉を焼き始める。肉とスパイシーな胡椒の香りに包まれる店内をぐるりと見てから、奏汰は隅の席に腰掛けた。生憎客は自分一人だけらしい。昼時を避けたから少ないだろうとは思っていが、と奏汰は鞄から文庫本を取り出すと、栞を外してテーブルに置いた。
「今日は、紫乃ちゃんはいないんだね」
「ええ、僕一人です。今日はしっかりしたものが食べたくって」
 文頭から文末まで流すように目を走らせながら奏汰は答える。それは残念だ、と店主は言った。
「彼女の好きそうな珈琲が入ったんだがね」
「じゃあ、今度言っておきますよ」
「よろしく頼むよ」
 店主はああ、と思い出したような風に呟くと、奏汰くん、と声を掛けた。奏汰は文庫本に栞を挟むと顔を上げて、彼に向かって首を傾げてみせる。
「どうしたんです? 新しい恋人でも出来ました?」
 奏汰の言葉に店主は機嫌よく笑みを零すと「すごくいい子なんだ」と答えた。良かったら紹介したいんだが、どうだろう、と彼は奏汰に言うが、奏汰はにっこり微笑むと、首を横に振った。
「今日は遠慮しておきます。きっとその子も、おじさん以外には見られたくないだろうから」
「まあ、見せるとしても君だけだがね。そうか、残念だ」
「彼女とおじさんの情事の場に、僕は不要です」
 それに、今日はその話をしに来ただけではないんです、と奏汰は言った。本当は食事を終えた後に言うつもりだったが、彼が今日はずいぶんと会話に飢えているようなので先に話してしまおうと思った。
「最近、バスが消えた事故、あったじゃないですか」
 ああ、あの事件か。店主は焼き色の付いた肉を器用にひっくり返しながら答える。
「確か、バスジャックかもしれないと言われている事件だろう。黒鵜町をよく通るバスだったからね、憶えているよ。時刻通りに来ないバスが一本だけあって、調べてみるとバスが一台だけルートを逸れて忽然と姿を消したっていう」
「それです。あれって今どうなっているか、黒鵜町周辺で話があったりしますか?」
「いや、今のところバスが一台消えたってだけだね。ルート通りに走るかどうかなんてそう見もしないから、目撃もないらしい。ただ、そのバスが最後に停まったのがこの駅前らしいよ」
「黒鵜駅前改札に?」
「ああ、そこから順路を外れて消えた。流石に失踪事件として警察も動いてるらしいけど、恐らくこのまま未解決の流れにもなりそうだね」
「そんなもんですか?」
「そんなもんだよ。世の中の知られた失踪事件なんて、全体からすれば二割いけば良い方だ」
「流石ですね」
 やめてくれよ、と店主は困った顔をして、ステーキ定食を奏汰のテーブルの前に置いた。香ばしい匂いに食欲が刺激される。奏汰は彼に向かって頷いてから、ナイフとフォークを手に、定食を食べ始める。肉汁の溢れるジューシーな味わいに舌鼓を打ちながら奏汰は定食をハイペースに平らげていく。
「そういえば、また紫乃ちゃん、ストーカーに遭っていたらしいじゃないか」
 店主の言葉に奏汰は視線だけ送る。少し前に言っていたよ。と店主は腕を組むと、困ったように首を傾げる。
「あれだけ綺麗な子だから、よくある事なのかもしれないけれど、今回は特に気味が悪いストーキングだったみたいだね。紫乃ちゃんは相変わらず淡々とした様子で話していたけれど」
「慣れっこですからね。それで、気味が悪いって?」
「君が知らないなんて珍しい」
「最近顔を合わせていないものですから」
 喧嘩でもしたのかい、と尋ねると、喧嘩はしませんけど、似たようなものです、と奏汰は答えた。店主はなら喧嘩だよそれは、と溜息と共に口にする。
「手を出す気配はまるで無いらしく、彼女の帰路や家、彼女自身の周辺状況まで徹底的に洗っていたそうだ。特に彼女が驚いたのは、下着を購入した次の日に店で訪ねてみたら、全く同じサイズと色のものがもう一着売れていたらしい。偶然もあるものですね、なんて紫乃ちゃんは言って誤魔化したそうだが」
「全く同じ下着、ですか。どうするんでしょうね。他には?」
「それ以上はなんだか聞くのも申し訳なくてね。ただ、ずいぶん念入りに紫乃ちゃんの事を調べて、ストーキングしている輩がいるみたいだよ。まあ、私が言うのもなんだが、彼女は厄介事に巻き込まれやすい体質だからね。気を付けた方がいい」
「まあ、自ら足を踏み入れている部分もあるんですけどね」
「ところで君の方は大丈夫なのかい?」
「僕ですか?」
 店長は腕を組むと頷いた。「君も紫乃ちゃんと動揺妙な事に関わりやすい体質だからね」
 僕ですか、と蒼汰は暫く考えてみるが、特に思い当たる節が無い。
「……特に、無いですね」
 本当に、と訝る店長にそんな心配してどうするんですか、と蒼汰は苦笑する。
「……ああ、些細な事だけど、最近妙な電話があったな」
「電話?」蒼汰は頷く。
「なんだか妙な電話で、私を知っているか、どうして助けてくれないのかとしきりに言ってくるんですよ。でもそれも最近はぱったりと止んだな……」
「ほら、君もやっぱり紫乃ちゃん同様にそういう類に巻き込まれやすい体質なんだよ」
「あまり喜ばしいことではないですけどね」
 全て平らげると、店主はプレートを引き下げ、代わりに珈琲の入ったカップを彼の前に置く。
試しに飲んでみて欲しいんだ、と彼はウインクすると、厨房の奥に消えていった。
 奏汰は、白い陶器の中に収まり、湯気をたっぷり吐き出す珈琲を暫く頬杖を付いて眺めてから、やがて身体を起こすと一口飲んでみた。
ごくり、と喉元を黒黒とした熱が通り過ぎて行く。
 灼熱が通り抜けて残ったのは、ほんのりと香る甘さと、ざらつくような苦味だった。
「……うまい」
 奏汰はぽつりと、誰にも聞こえないような微かな声で、そう言った。

       

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