Neetel Inside 文芸新都
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  五

 もう時間も分からない。空腹も限界を超えて、腹も鳴らない。乾いた喉を唾液で誤魔化そうとしても、その唾液が出ない。口の中が酷くベトついて気持ちが悪い。ざりざりと土の味がして、体中も汗と土に塗れて酷く重たい。
 よくここまで生きているものだと錫谷は思う。篠森にしても同じようなものだ。水も食糧も無いこの状況で、彼女は一体何故生きるのだろう。あれほど死にたいと言いながら、未だに生にしがみつく理由はなんだろう。
 錫谷は、そこに彼女を救う手がかりがある気がしていた。
 だが、それを掴もうにも自分に体力が残っていない。どうにか壁を掘る方法が無いか考えたが、手探っても手探っても何も見つからなかった。次第に疲労感だけが蓄積していって身動きが取れなくなり、土砂で出来た壁に身を寄せたまま、錫谷は呆然と闇を見つめていた。
「錫谷さん、生きていますか?」
 恐らくこれがなければ、生への執着をやめていたかもしれない。錫谷は傍の砂利を思い切り握り締める。
「……まだ、生きているよ」
 腕の痛みも麻痺し始めてきたが、大きな怪我を負っている分、恐らく危ないのは自分の方だ。消耗も彼女より早いかもしれない。
 錫谷は何か、打開策は無いかと必死に考える。だが、一つも浮かばず、やがて自嘲気味に笑みが漏れた。
「君に生きて欲しいと言いながら、私が先にこうなっては元も子もないね」
 独り言だった。
「私はね、ずっと君の後ろ姿を後部座席から見ていた。綺麗な容姿をしている子だってね。いつか、私のことを見てもらいたいと思いながら、後ろに座っていたよ。ある意味では彼女に執着的で、ストーカー気質なところがあったのかもしれない。ただ、勘違いしないで欲しいんだが、私が求めたのはそれだけだったんだ」
 がらり、と壁の石が少しだけ、崩れて彼に降ってくる。錫谷は手で顔に降ってきた石を払ってから、腕を伸ばして、壁を何度も叩く。弱々しい力でノックをひたすらに続ける。
「もし気付いていたとしたら、申し訳ない。あまりいい気分はしなかったと思うからね」
「いえ、そんな」
「でも、他に何をしようとか思ったことは一度も無いんだ。それだけは信じて欲しい。」
 君の瞳が見たかっただけなんだと彼は許しを乞うように言う。そして同時に、その想いだけで、錫谷は今をどうにか生き延びている。
 夢の中で見ることは出来ないと彼女は言った。
 違う、そうではない。見られたかったのだ。自分から見るのではなく、自分を見て欲しかったのだ。何もかも嫌になって投げ出してしまった先で、残った自分を肯定的に見ることができるとしたら、彼女の瞳の中に映る自分だけだと、そう思った。
「多分私は、結局のところ、自分が自分である為に君を欲したんだろうな」
「私を、ですか?」
「そう、私が君に生きて欲しいのは、その瞳で見つめられたかった。それだけなんだよ。そうしたら、自分をやっと認めて、進むことが出来る気がして……。だから、あの日、私は君がよく乗るあの時刻のバスを選んだ。もしかしたら、君とまた会えるかもしれないと、そう思ってね」
「また、瞳……」彼女は小さく呟く。
「そう、瞳だ」
 だから、彼女と共に生き残りたい。錫谷は、そう強く思っていた。
 がご、と鈍い音がした。
 彼の叩いていた辺りから寄りかかる背中にかけてが揺れ始める。
「錫谷さん!」
 声はするが互いに距離は分からない。とにかく壁から離れるんだと錫谷は絞りだすように言って、自分も身体を引きずるようにして壁から離れる。
 轟音、地震、呼吸が苦しくなるくらいの土埃。
 たった数十秒の内に錫谷の寄りかかっていた壁が崩れていく。


 崩れきって、再び静寂が訪れる。
 錫谷は瞑っていた目を恐る恐る開ける。顔の前に翳した手の向こう側に、暖かさがあった。
 光だった。
 一箇所から、スポットライトのように光が一筋差し込んでいる。始めその光はとても眩しく見えたが、何よりも久方ぶりの眩い光に、錫谷は感激した。
――まだ希望は繋がっているのかもしれない。
 気力を取り戻した錫谷は呻きながら、光の差し込む穴へと手を伸ばす。
「篠森さん! 光だ! 光が差し込んだ!」
 錫谷は這うようにして光の傍に身を寄せると、外に向かっておうい、おうい、ここだ、助けてくれ、と叫んだ。
 差し込んだ光の先は眩しくて何も見えないが、ここから先に外がある。どれほどの距離かは分からないが、少なくとも、目が使えるようになったのだ。これは大きな一歩だった。
――ざり。
 足音がした。
「ほら、篠森さ……」
 足音の方に目を向けた錫谷の言葉が止まった。
 目を大きく見開いて、それから彼は、ぽつり、と一言を漏らした。
 その瞬間、篠森は彼に駆け寄って、両手で抱えた石の欠片を、躊躇いなく彼のこめかみを殴り抜いた。
 ずん、と重たい衝撃と音が錫谷を遅い、やがて遅れて鈍い痛みが頭部を這いまわる。視界が赤い、ぬるりとした生暖かな液体がこめかみから溢れ出る。手で触れるとべっとりと不快な感触と共に赤黒い血液が錫谷の手を染めた。
 怯み、転がる錫谷の後頭部に篠森はもう一撃。
 絞りだすような鈍い悲鳴に構わず更にもう一発。
 すっかり弱り切った彼の身体に躊躇いなく跨ると、篠森は何度も彼を殴った石を頭上に高く高く掲げる。
 痛みと霞む視界の中で、意識を朦朧とさせながら錫谷は岩を掲げる篠森の姿を見た。
 光を背に浴びて、暗く逆光となった彼女の姿に、錫谷は夢で聞いた言葉を思い出す。

――貴方に、私の瞳は、きっと見えないわ。

 やめてくれ、と口にしたと同時に、彼は絶命した。
 だが、絶命してもなお篠森は、殴ることをやめない。
 頭部が歪に変形し生温く濁った血液を全身に浴び、時々手から石を滑らせては別の石を握りしめ殴る。飛び出した眼球を躊躇いなく潰すと、白濁とした液体が飛び散った。開いたままの口に鋭い石の破片を沢山突っ込んで更に殴ると、顎の外れる音がした。
 殴る。殴る。殴る。殴る。
 殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る。
 殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る。
 殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る。
 殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る。
 殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る。
 殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る。








 殴り終わって、篠森は横たわる肉塊から身を離すと、乱れた荒い呼吸を整える。
 息を落ち着かせて、錫谷を見て、それから差し込む小さな光を見た。
 篠森は泣いた。こんなはずじゃなかったのにと言って、嗚咽混じりに泣き続ける。
 嗚呼、嗚呼、嗚呼……。
 嗚呼、嗚呼、嗚呼ゝ……。

 泣けども泣けども、望んだ結末は戻っては来ない。
 錫谷は死んで、篠森は生き残ってしまった。
 鈴谷は見て、篠森は見られてしまった。
 こんな筈では無かったのに。
 こんな筈では無かったのに。

――私は篠森のまま死ぬ筈だったのに。

 泣きじゃくる声は、空洞の中を谺して、やがて闇に吸い込まれていった。
 後に残ったのは、篠森と、差し込む光と、静寂だけだった。

       

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