Neetel Inside 文芸新都
表紙

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   七

――つまり貴方は、そうしてこの場所に閉じ込められたと、そういうわけですね。
 蒼太の問いかけに、はい、と返事が聞こえた。
 すっかり衰弱した、消え入りそうな女の声だった。
 落盤の危険性があり、立入禁止になった区域に足を踏み入れた時、蒼太は崩れたトンネルの入り口を見て、ここだ、と思った。随分と人気のない場所まで行ったものだ。恐らく相当入念に場所を検討したのだろう。
 黒鵜駅からここに辿り着くまでに大体二時間は使った。少なくともこんな辺鄙な地、好んで来るような者はいないだろう。深夜に誰かが屯するにしても山奥までわざわざ行くのは少々不便だ。
 土砂を入念に見て回っていると、一箇所、円筒状に奥へ伸びる穴を見つけた。蒼太は暫くその穴をのぞき込むと、やがて一言、誰かいませんか、と口許に手で覆いを作って声をかけてみた。
「……誰、ですか」
 声がして、蒼太は思わず笑ってしまった。
「良かった生きていて、間違っていたらすみませんが、貴方はもしかして、篠森紫乃さんではありませんか?」
 彼の言葉に、彼女は酷く動揺したようだった。微かに漏れた吐息からそれが感じられた。
 心配しないでください、と彼は続けて言う。
「貴方に教えて欲しい事と、返してほしいものがあるんです。それが終わったら、僕は帰りますから」
 穴の奥の声の主は、暫く黙り込んでいたが、やがて、分かりました、と言った。
「何を……聞きたいんですか?」
「貴方のお話を聞きたいんです」
「私の?」
「貴方が篠森紫乃になるまでの、お話です」
 彼女は息を飲んでいるようだったが、やがて飲み込んだ緊張を溜息を共に吐き出すと、観念したように、話します、と答えた。

   ・

 始めは、ただ篠森紫乃が魅力的で、特に魅入ってしまうほど綺麗な瞳が好きで、何か機会を作ってお近づきになりたかっただけだった。
 彼女はよく黒鵜町からの、ほぼ同じ時刻のバスを利用していたから、それを機に声をかけられたらと思い、自分もそのバスを利用するようにした。ただ、隣に座るのは憚られたので、隣の座席に座った。何か共通の話題があればいい。彼女の話に耳をすませながらその切っ掛けを待ち続けた。
 彼女は死んだ恋人がいて、今は恐らくその弟と付き合っていることをその時の会話で知った。墓参りにもたまに彼は同行していたし、会話の端々にも気を許した風があったから、恐らくそうなのだろうと思った。
 バスでの会話を聞いている内に、もっと彼女のことが知りたくて堪らなくなり、墓参り後の彼女の帰宅先まで行ってみた。実家暮らしで、優しい父と母のいる家庭。暖かいが、その暖かさの中で紫乃はずっと、寂しそうにしていた。恐らく紅一を失った悲しみを共有できる蒼太という存在が大きかったに違いない。
 黒い服を好むから、自分も黒い服で身を包んでみた。彼女がよく着ているブランドの物だ。もしかしたら、これで隣に座っていたら声を掛けてもらえるかもしれない。私も好きなのだと、会話の切っ掛けが掴めるかもしれない。
 服装だけで駄目なら、好きな食べ物、好きな嗜好品、ついやってしまう仕草、黒髪にして、彼女の髪の手入れの仕方を自然と聞いてみるのはいい方法かも知れない。歩き方、異性との接し方、声の出し方。自然なのだけれど、どこか蠱惑的で、少し怖さも感じる風に。同性とは穏やかで柔和な笑みを心がける。
 彼女の興味を惹ける努力をしているうちに、気が付くと鏡の中に篠森紫乃がいることに私は気がついた。憧れていたあの姿が、まさに目の前にあって、艶のある髪も、白く透明な決めの細かい肌にも、自分の手で触れることが出来た。
 そうか、篠森紫乃に近づくのではなくて、篠森紫乃になってしまえばいいのだと気付いてから私は彼女になりきることに没入した。
 【篠森紫乃】がしないことは決してしない。それまで【私】がやっていたことでも、彼女の行動に該当しないものは排除する。だって私は【篠森紫乃】なのだから。そうして【私】は、【私】という存在を消去して、【篠森紫乃】へと自分を塗り替えていった。
 だが、限界もあった。瞳だ。あの瞳だけはどうしても再現が出来ない。藍野蒼太の隣にいることも出来ない。そのどうしようもない不完全性が、何よりも【篠森紫乃】を苦しめた。
 辛かった。結局自分が【篠森紫乃】でしかないことが辛かった。どこまでいっても、本物が邪魔をする。本物のあの瞳が憎くて、憎くて堪らなかった。だから「視られたがり」の事件で攫われた時は、【篠森紫乃】と篠森紫乃がこれでようやく同等になると思った。
 だが、そうはならなかった。結局彼女はその瞳のまま戻ってきて、生活を続けていた。偽物なのに、そこにいるべきは【篠森紫乃】である筈なのに、瞳が【私】の邪魔をする。
 篠森紫乃の匂いが足りない。どうにかして自分こそが【篠森紫乃】である証拠を手に入れる必要があると思い、すれ違い様に彼女の鞄から定期入れを盗んでみた。学生証には【私】が映っていた。いや、瞳だけが違う。ここでもまた瞳か。憎い。
 そんな【篠森紫乃】と同等になっていったある日、【私】の周囲でおかしなことが起こり始めた。
――【篠森紫乃】を執拗に追い続ける者が現れたのだ。
 家にいても、外出をしていても、後ろを振り向くとそいつはいて、どうにかして撒こうとしても【彼女】は追ってくる。
 黒鵜駅からのバスで隣に座ってきた。
 死んだ【私】の恋人の墓参りにまで付いてきた。
 黒い服を好む【私】を真似て黒い服も着ているようだった。【私】がよく着るブランドで揃えられている。もしかしたら、これで隣に座っていたら声を掛けてもらえるかもしれないとでも思っているのだろうか。私も好きなのだと、会話の切っ掛けが掴めるかもしれないとでも思っているのだろうか。そんなわけない。ただ気持ちが悪いだけだ。
 服装だけで駄目ならと、好きな食べ物、好きな嗜好品、ついやってしまう仕草、黒い髪。歩き方。異性との接し方。声の出し方。
 まるで彼女は、【私】に取って代わろうとでもしているようで、いずれ【私】が取って代わられてしまうような気がして、怖くて怖くて堪らなかった。
 気持ち悪い、何故このストーカーはこんなに【私】の事を付け狙うのか。
 我慢しきれなくなって、藍野蒼太に電話を掛けてみたが、何度掛けても、助けを訴えても彼は何も返してくれなかった。無言で電話を切るだけ。【私】がこんなにも辛い目に遭っているのに、何故彼は助けてくれないのか。このまま死んでしまったら、一番困るのは蒼太である筈なのに。
 誰にも助けの声が届かなくなって、やがて【私】は死のう、と思った。【私】が【篠森紫乃】であるうちに。あのストーカーに取って代わられないうちに。
 そう考えてから、どうやって死のうか考えていた時、彼が現れた。ジーンズのポケットに手を突っ込んだまま、彼は愉快そうに笑っていた。
「君は間違いなく【篠森紫乃】なのに、苦しいよねえ」と、彼は言ってくれた。
 そして、ストーカーに取って代わられる前に、【篠森紫乃】として死ねる場所を誂えてくれた。
 きっとうまくいくと思った。普段から彼は【私】の後部座席によく座っていたから、きっと【私】と一緒に死んでくれる。【篠森紫乃】と一緒に……。
 だが、それはうまくいかなかった。
 彼は、最後に【私】を見て言ったのだ。
「君は誰だ」と。

   ・

 彼女の話を聞き終えて、蒼太は一つ、呆れと共に溜息を吐いた。
「篠森紫乃さん、君は一つ、間違えている」
 穴の向こうの女性は、何をですか、と尋ねた。すっかり弱って、着飾る余裕もないらしい。
「藍野蒼太は、紫乃が生きることに執着的なんですよ」
 蒼太は興味なさげに穴の傍に腰掛けると、小さく溜息をついた。
「篠森紫乃として死にたいと思った時、きっと貴方は自然と死ぬ時に必ず藍野蒼太が必要だと思ってしまった。貴方が紫乃の代替を演じるように、蒼太の代替をその場で作ってしまったんだ。いや、もしかすると貴方の紫乃という在り方が自然と蒼太を生み出したのかもしれない」
 穴の向こうの女性は、何も言わなかった。蒼太は構わず続ける。
「貴方が殺した彼の中の篠森紫乃という存在への執着は、恐らく後部座席に座り続けていたことからして、見てもらうことだったのかもしれない。自分から見るのではなく、相手から見てもらうという行為。暗闇の中で死にたがる貴方と、陽の下で篠森紫乃に見てもらいたい彼。ほら、篠森紫乃を死なせたがらない藍野蒼太の代替の出来上がりだ」
「……うるさい」
「紫乃として死のうと考えたことからまず間違えだったんですよ」
「うるさいっ!」
「紫乃はそんな怒鳴り方をしませんよ」
「うるさいうるさいうるさいっ!」
「まあ、君が篠森紫乃であろうがなかろうが僕はどうだっていいんだ。大切なのは一つだけ」
「何よ! 散々私の事を偽物扱いしておきながら! これ以上何を欲しがるの!」
「定期入れだよ。君が盗んだ定期入れ。あれ、どこにあるのかな? 僕はそれが欲しいだけなんだ」
「あ、あれは! 私のだ!」
「もし、あれを返してくれるなら、この状況をひっくり返して上げてもいい」
 蒼太の言葉に、穴の向こうの女性は息を呑んだようだった。
「僕が、君を本物の篠森紫乃だと認めよう。そうしたら君は、安心して死ぬことが出来るだろう?」
 彼の提案に、穴の奥の彼女は動揺しているようだった。
「私が篠森紫乃だと、認めてくれるの?」
「君が定期入れを返してくれるならね」
――沈黙。
――黙考。
 篠森紫乃であると認識してもらえることが、どういうことかを必死に考えているに違いない。
 やがて、穴の中から、いいわ、という返答と共に、住所と、スペアキーの隠し場所が聞こえてきた。蒼太はそれをメモすると、ありがとう、紫乃、と言った。
「じゃあ、僕は行くよ。じゃあね、紫乃」
「うん、ありがとう……さよなら」
 誰かに紫乃と認められたまま死ぬこと。
 彼女にとって、これ以上の幸せは、無かった。

   ・

 黒鵜町に戻ると、蒼太は彼女の示した住所に向かった。
 人気の無いアパートの二階の奥から二番目の部屋。階段を登って扉の前に行くと、傍に置いてある鉢植えを手に取って裏返す。テープで貼り付けられた鍵を剥がして錠を開け、ノブを回して扉を開き、蒼太は足を踏み入れる。


篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。
篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。


 写真、コルクボードに貼り付けられた「正しい仕草」「正しい食事」「正しい寝方」のメモ書き。キッチンの食器も、蒼太の見覚えのある紫乃の愛用品で、箪笥の中にあるものも彼女の普段よく着ている衣服だった。
 蒼太はぐるりと周囲を見て回ってから、部屋の中央のテーブルに置かれた紫乃の好きな洋菓子店のクッキー缶を見つけると、手にとって開ける。中には、赤色の二つ折りの定期入れが入っていた。紅一さんにねだって買ってもらったと言っていた定期入れだった。
 中を開いて、肝心な物がちゃんと残っているか確認する。
 粉末の詰まったビニール袋は、変わらずそこにしまわれていた。
「……兄さん」
 袋を見つめる蒼太の表情は、どこか悔しそうで、悲しそうなものだった。蒼太は暫く粉末を見つめた後再び定期入れにしまい込むと、肩提げ鞄の中にしまい込んで、代わりに携帯を取り出す。
 一、一、九.
 掛けた電話はすぐに繋がった。
「……すみません、黒鵜町の外れで崩れたトンネルを見つけたんですが、そこから人の声が聞こえた気がして……。もしかしたら、誰か生き埋めになってるんじゃないかと思って怖くなって……。はい、はい。そうです。お願いします」
 言い終えて通話を切ると、蒼太は一度深く息を吸って、吐き出すように独り言を呟いた。
「言ったじゃないか。僕は、篠森紫乃が死ぬことを、何よりも嫌うんだって」
 どこかからサイレンの音が聞こえた気がした。
 心をざわざわと浪立たせるサイレンの音を聴きながら、蒼太は再び携帯に番号を入れて、耳に当てる。
 繋がると、同時に、彼は言った。
「何の用?」
「やあ、元気か気になってね」
「……用が無いなら切るわよ?」
「そう怒らないでよ、紫乃。もう君が部屋に引きこもる理由が無くなった。そういう連絡だ」
 無言の後、あったの、と紫乃は囁くように蒼太に尋ねた。
 蒼太は携帯を耳に当てたまま頷いて、あったよ、と返した。
「見つけたよ。君が落としたって言っていた定期入れをね」
 受話器の向こうの彼女の反応に、蒼太はとても満足そうに笑みを浮かべた。


       

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Neetsha