Neetel Inside 文芸新都
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   一



 目覚ましの耳障りな音で藍野蒼太は目を覚ました。
 真っ赤な月も、ナイフもない。刺された傷跡も見当たらない。曖昧な意識の中で目覚まし時計の時刻とそれらを確認し、ゆっくりと息を吐き出してから上げた頭を再び枕に落とした。
「あの不快な世界はここにはない」
 天井に向けてそう呟いた彼は、少ししてかっと目を見開いた。布団を撥ね退け口元を手で押さえて自室を飛び出し、一目散にトイレに駆け込み便器に顔を向け、それから腹の奥底からせり上がってきたものを思い切り便器に吐き出す。
 乱れた呼吸と胃液によって荒れた喉の焼けつくような痛みに顔をしかめ、それでも止まることのない嘔吐感に彼はただ便器に顔を向け続けるしかなかった。
 最悪の夢だった。定期的に自分を殺す夢を見てはいたが、今日の夢はとびきりのやつだった。夢の中での感触がやけに生々しすぎて、まるで本当に人を殺してしまったような、そんな感覚が覚醒後もべったり両手にとこびりついている。
 暫く吐き続けては壁に背を預けると大きく息を吸い込み、静かに吐き出す。まだ吐き気は残っているが、すっかり胃の中のものを吐き出してしまったからか、もう出てくるものはなさそうだ。
 暫くトイレの壁にもたれていると、やがて気分も落ち着いてきた。蒼太は手を伸ばしてタンク横のレバーを下ろし、酸の匂いのする便器の中を洗い流す。水流の音と冷たいフローリング、背にした壁が心地良くて、彼はしばらく天井の照明具を見上げていた。
 一度も染めたことのない黒髪は、トイレの窓から差し込む光を受けて艶やかに輝いている。すとんと落ちたストレートの髪と、瘠せ型で白い肌、少し長い睫毛と、一見するとどこか女性的にも見える外見。蒼太はそれらを嫌っていた。
 良くいえば真面目な、悪く言えば全てそこそこに済ませてしまう特徴のない青年。それが彼だった。自身に関わることならばともかく、自ら進んで殺人を選ぶ程おかしくはなっていないと自負していた。
 暫くして、蒼太は壁を支えにして立ち、もう一度レバーを下して水を流す。中央にぽっかりと空いた口に透明無色の液体が流れ込んでいく様を見つめ、それから間もなく継ぎ足される水を見て、癒されるのを感じた。
 トイレを出て、隣に設置された洗面所の前に立つと蒼太は顔を洗った。吐き気が治まっても口の中に広がる酸味が気に入らず、口を二、三度濯いた。水を吐き出すといくらか口の中がすっきりした気がする。三度目に口に含んだ水を洗面所に吐いたところで、やっと酸味が消え、同時に空っぽになった胃が空腹を訴えて鳴っていた。食欲はまともに機能しているらしい。
――随分と酷い目に遭った。
 蒼太は頭をぼりぼりと掻き、向かいの小さなキッチンの前に立った。
 シンク横の小さな冷蔵庫を開け、卵を二つ取り出し、二つしかないコンロの片方にフライパンを置いて火を点けた。嘔吐した後すぐに朝食の準備に取り掛かっている自分に違和感を感じなくなったのはいつだろうか。朝に悪い夢を見て吐く癖はかれこれ数か月続いている為、彼にとっては「吐いた後空になった胃に適当な食事を詰め込む」ところまでが日常であり、そんな日常を望んだ覚えは決してないのだが、夢を選ぶことはどうやってもできないので、不条理ながら彼はこの一連の行動を「日常」と認めざるを得なかった。

 小麦色になるまで焼いた二枚のトーストの上に焼き立ての目玉焼きを乗せ、昨夜余らせたレタスと薄くスライスしたトマトを皿に盛り付ける。缶詰のシーチキンの蓋を開けると盛りつけられたサラダの中央に落とした。
 二枚の皿を両手に自室に戻ると、中央のアクリル性のテーブルに置いて、息を吐き出しながら蒼太もテーブル前に胡坐をかいた。
 ベッド横で電源を入れていたポットからは湯気が出ている。蒼太はコーヒーを淹れ、正面に置かれたテレビの電源を入れると、有り合わせで作られた料理達の前で両手を合わせてからトーストに齧り付いた。
【――ごめんなさい、本日の最下位は乙女座の貴方、この不幸を吹き飛ばす為に、パフェを食べるといいかも!】
「ふうん……。最下位、ね」
 丁度点いたチャンネルのニュース番組の中で、化粧の乗りきっていない眠たそうな顔で精一杯笑顔を作るキャスターがカメラの前で手を振っている。彼は占いの内容に顔を顰めトーストを一口齧る。朝から嘔吐に見舞われその上占いは最下位。すこぶる悪い日になりそうだ、と彼は薄切りのトマトを一口で飲みこむ。
 占いに気分を悪くしてチャンネルを変えると、男性キャスターが神妙な面持ちで、画面の端から手渡された紙面に目を通していた。どうやら速報のようだ。
【たった今入りましたニュースですが、本日五時頃、○○市の山にて遺体が発見されたとの情報が入りました。発見された遺体は各部位に分けられ、それぞれ山に散って――】
 随分な殺し方をするものだと、蒼太は二枚目のトーストを齧りながら思った。何故見つかるような場所に棄てるのだろう。もっと何かうまい棄て方があるはずだ。こんなニュースを見るたびにそう思うのだが、きっとそんな事件が起きたとしてもまず遺体が見つからないのだから、このように大々的にニュースが行われることはないだろうし、なにより彼らが欲しがるのは美味しくて、インパクトのある事件だ。
 そんなことをぼんやり考えた後、ふと枕元の携帯に視線を向けた。多分、あと三十秒もすればきっと……。
「――三、二、一」
――ジャスト三十秒。彼が数字を数え終わると同時に携帯のディスプレイが明滅を始め、ミューズのスターライトが部屋中に響き渡る。着信に対して反応が鈍いので目一杯の音量にしているが、こうしてちゃんと起きているとやはり少し耳障りだと蒼太は顔をしかめる。しかし音量を下げてしまうと着信に気づかず、結果唯一連絡をとっていると言ってもいい人物の期限を損ねてしまいかねない。
 蒼太は暫くディスプレイの名前を覗き、やがて覚悟を決めると応答のボタンを押すと耳に当てた。
「おはよう蒼太君、さっきのニュースは見た?」
 スピーカーごしに聞こえる女性にしては少し低めの声は、朝から元気でくっきりとしていた。性別を知らない人がこの声を聞いたら、半分くらいの人間は性別を勘違いするのではないだろうか。
「このタイミングだ。多分君の見ていた番組と僕の見ていた番組はほぼ同じだろうね」
「あら、じゃあ私と貴方はあの速報見てたのね。なら説明する必要はなさそうね」
「ああ、だができたら、この話は学校でするってことにできないかな。丁度朝食をとっているところでね」
「奇遇ね、私も丁度父と母と弟と、四人で仲良く朝食よ」
 電話の主は嬉々としてそう語る。対して蒼太は非常に面倒くさそうに眼を細めると、発信停止ボタンを押して電話を切った。このまま続けていても行きつく先は同じだ。会話の内容も同じだろう。ならば学校で会った時に聞く方が幾分かマシだ。
 通話を切った相手の名前を眺めて、蒼太はもう一度深くため息をついた。
――篠森紫乃。


 黒いキャミソールチュニックが歩く毎に揺れ、真っ赤なミュールの踵が鳴った。チュニックから覗かせる肌はその真っ黒い服装によって更に白く見え、まるで紡ぎたての絹のようだった。くっきりと浮き出た鎖骨が歩く毎に髪の間から顔を覗かせ、時折見える首元がすれ違う男性の心をくすぐった。
 紫乃とすれ違った男性はほとんどが振り返り、彼女の後ろ姿をぼんやりと眺めてしまう。例え人込みのなかでもそれは変わらない。彼女の姿勢良く歩く姿、歩く毎に揺れる長い黒髪と白い肌、穏やかでいつも潤んだ水っぽい瞳、紅いのルージュの引かれた口元、そのどれもがまるで一枚の絵のようにぴったりとはまっているのだ。
 だが、振り向いたとして声をかける男性は一人としていない。いかに整った容姿をしていて、男性の下心を掴むには十分すぎるほどの身体をしていたとしても、それらを台無しにしてしまうほどのものが彼女にはあった。
 紫乃は食堂の入口前で立ち止まると髪を一度かき上げ、それから壁に身を預ける蒼太の姿を見つけると、口元に笑みを浮かべ小さく手を振った。蒼太は彼女の姿を見て手を振り返した後、憂鬱そうに身体を起こし、ふらふらとやってきた彼女の顔を見る。
「今朝ぶりかしら」
「今朝ぶりだね」
 紫乃の言葉をそのまま繰り返すようにして答えると、彼女はにこりと笑ってそれから蒼太の手を取り、それから食堂へと連れられて行く。蒼太はもう周囲の視線を気にすることはやめていた。というよりも気にしたとして彼女との関係が変わることは決してない。むしろ何も考えずに「どこか影のある女性に気に入られ振り回される男」として見られてしまった方が、彼女に対する話題に律儀に応答し、心身共に疲れ果てるよりかはましだと思ったのだ。
 食堂は随分と混み合っていて、キッチンで額に汗を浮かべながら調理を行う中年男性と、次々とやってくる食券に狼狽している女性店員の姿が遠くからでも良く見えた。席は大半が埋まっている。あえて昼休憩の終了前後の時間を狙ったのだが、どの生徒も蒼太と考えは同じようだった。昼よりも次の授業の時間帯を食事にする方が、落ち着いて食事を採ることができる。
 二人はそのまま食堂の最奥に置かれたテーブルに腰かける。奥の方に手が回っていないのか、零れた麺やカレールーがテーブルにこびり付いて随分と不衛生に見えた。見かねた蒼太は傍の給水機でコップ二つに水を入れ、ついでに濡れた布巾をカウンターでもらって戻ると自らテーブルを拭った。
「今日電話した時、貴方電話が鳴るって気づいてたでしょ?」
 やっと落ち着けたと思ったところで、突然紫乃はそう呟くと目を細める。しかし口元は笑みの籠ったものであるから、どうやら不愉快とかマイナス的思考からの問いかけではないらしい。蒼太はそう察すると正直に頷く。やっぱり、と彼女は喜ぶと頬づえをついて蒼太をじっと見た。
「もう随分と付き合いも長くなってきたから、私の行動も大分読めてきたと思うの」
「随分と言ったってまだ五カ月かそこらだし、はっきりと分かるわけじゃない。ただなんとなく、電話がくると思ったらかかってきただけ。それだけのことだよ」
「別にいいの。少なくとも、蒼太君の中に私が少しでもいるってことが嬉しかっただけだから」
 そう言うと彼女は立ち上がり、給水機横の券売機へと行ってしまった。一人残された蒼太は暫く黒いチュニックが揺れるのを眺め、やがて席を立つと券売機へと向かった。


「それで、朝のニュースだけど」
「死体がバラバラだった事件だね。最近は連続した失踪事件も起きてるし、少し世間が慌ただしいね。それで、そのニュースがどうしたの?」
「犯人は、目立ちたかったのかしらね」
 ミートソースのスパゲティにカレーライス、それぞれオーダーした料理と共に席に戻ると、紫乃はそう言って顎に人差し指をあてる。彼女と指をそれぞれ見てからそっぽを向いてさあ、と適当に返事を返し、蒼太はカレーをスプーンで掬う。
「遺体の処理なんて、もっと効率のいい隠し方が絶対にあると思うの。だって失踪者って年に十万近くいるって言われてるのよ。その中に確実に殺害されて、巧妙に隠されて二度と誰の目にも届かないよう処理された人だっている筈よね。蒼太君が言っていたけど以前、行方不明者が次々と出た事件、覚えてるかしら」
「半年前だったっけ、確か週に一人のペースで失踪者が出ていたね。男が四人と女性が三人ランダムに。遺体はおろか向かう先も分らない。おまけにその行方不明者は決まって一人でどこかへ出かけるし、あえて人を撒こうとしてるみたいで居場所もつかめないままだったとか」
「それがすべて他殺だったとしたら、とても素敵だと思わない?」
 素敵、とは一体何を指すのだろうか。そう思うと蒼太は紫乃の言葉に頷くことはできなかった。しかし効率のいい隠し方に関しては蒼太も同感だった。早朝のニュースを見て多分同じことを考えていたのだろう。蒼太の目から同意の言葉を感じ取った紫乃は、瞬きを二度して、それから続ける。
「それに、死に対して興味がなさすぎるのよ。怨恨であったり咄嗟の気分であったり」
「興味って、例えば?」
「愛、とか。愛ゆえに命すら欲しくなってしまう」
 彼女の言葉を聞いていると頭が痛くなってくる。蒼太はカレーを手早く片付けるとコップに半分ほど残っていた水を飲み干した。
 いつものことだ。彼女は「愛のある死は美しい」と力説し、それから本題に入る。少なくとも目の前のカレーに手をつけにくくなるような内容が、この先に待っているのだ。この五か月間、蒼太が紫乃と行動を共にして理解したことだった。
「それで、何か素敵な死に方でも見つけてきたの?」
 蒼太は最早日常的となった一言を彼女に問いかけた。
 彼女の水気の多い瞳が、目の前の蒼太を映し、紅色のルージュが光に照らされ、妖しく揺れる。
「食べてもらって一つになるって、とても素敵なことだと思わない?」
 先に食事を済ませておいて良かったと、蒼太は心底思った。
 彼女はやっとスパゲティに口をつけ始める。ミートソースをかき混ぜパスタによく絡ませると、器用にスプーンとフォークで巻き取り、啜る音を出さずパスタを口にして咀嚼する。蒼太は少しでも気分を変えたくて再びカウンターに向かうと、レジ横のクーラボックスから炭酸飲料を取り出し小銭を女性店員に支払うと、キャップを開けてぐいと煽った。
 甘ったるい味と目の覚めるような炭酸の刺激を受けて、いくらか気分が良くなった気がしたが、それでもまだ彼女の話が全て終わっていないことを思うと、蒼太の気は晴れそうになかった。

       

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