Neetel Inside 文芸新都
表紙

見開き   最大化      

   四


 早朝の電話を受け、昼過ぎに学食前で待っていると、変わらず黒のチュニックを身につけた紫乃がやってきた。潤んだ瞳をこちらに向け手をふる彼女に、彼もまた手を振り返す。心なしか不機嫌とうだが、蒼太には大体その理由に予想がついていた。
 蒼太と店主の会話から数日して、いつものように店を訪れた紫乃に、店主はそっと君を食べるつもりはないと告げたらしい。紫乃は酷く傷ついたようで、暫く何度も彼に懇願したが、最後に冷蔵庫の奥を見せられた時、全てを納得し、それからいつも通り彼女専用の小さなステーキを平らげ、窓際のテーブルで暫くコーヒーを飲みながら文庫本を読んだ後、帰宅していったという。
 この出来事を蒼太はこっそり店主から聞いた。あの夜からどうも店主に気に入られてしまったようで、何かにつけて世話を焼こうとしてくるのだ。特に、小型のナイフを携帯し、それで「もしもの際の対処」を試みようとしていたことを聞くと彼は大笑いした。何度か対処できたと言っても彼は信じようとはせず、しまいにはキッチンからサイズの大きいナイフを一本持ち出すと蒼太に手渡したのだった。研いだばかりで掠っただけでも、それなりの傷を与えることを見込めるだろう。そう店主は言っていた。
 店主と蒼太は互いに気まぐれに連絡を取り合っているが、紫乃は変わらず常連として店に居座っているそうだ。口コミで少しづつ客足もついている辺り、彼にとって【愛すべき】人物ではないにしても、店のマスコットとしては丁度良いのかもしれない。蒼太はぼんやりとそんなことを思った。
「結局食べてもらうことができなかったわ」
「仕方ないよ。あの店主、恋人がいるようだしね」
 奥のテーブルはやはりいつものように食べカスに、誰かがコップの中身をぶちまけたのだろう、小さな水溜まりが一つ。蒼太はカウンターに向かうと濡れ布巾を一つ店員のおばさんから受け取り、荒れ放題のテーブルを拭いてからやっと座る。一方紫乃は特に気にするといった様子もなく鞄を机の上に置くと、さっさと券売機へと向かって行ってしまった。随分と機嫌が悪いな。アイスでも買って機嫌取りでもしておこうかな。蒼太はむすっとしたまま券売機に小銭を投入する彼女を見て溜息を吐いた後、しかし無事事が済んだ事に安堵し、笑みを浮かべ、それから券売機に並ぶ為に、蒼太は席を立ったのだった。


 昼食をとり、その後入れていた講義を真面目に受けてから二人は大学を出た。黒鵜町に比べたらそれなりに人もいるし、活気づいた店も多い。ゆっくりと濃紺に塗りつぶされていく空を眺めながら、二人は何一つ言葉を交わさずに歩き続けていた。白鷺駅の前は客引きと定時帰り達で溢れていた。たった一駅違うだけでここまで町並みに変化が生じるのだから不思議なものだ。
「今日も行くのかい」
「ええ、蒼太君も来る?」
 彼女に頷きを返す。紫乃はそう、と一言だけ呟くとそれっきり何も言わなくなり、ただ白鷺駅を眺めていた。
「昨日、恋人を口にしたそうよ」
 その口調は平淡で、まるで日常的な出来事を切り取ったようにも聞こえた。
「そっか、なにか感想は言っていたのかな」
「幸せかって聞いたの。そうしたら、彼、今はとても満ち足りているよって言っていたわ」
 そう、とだけ返答すると蒼太も一緒になって白鷺駅を眺める。彼女にとっては今はこちらではなく、あちらが日常なのだと、彼はちゃんと理解していた。
 今のところ彼女はこちらに戻ってくるつもりはない。かろうじて僕自身がこちらに残っているから行き来しているだけで、本音を言えばきっと彼女はずっと向こうに居座りたいと思っているに違いない。蒼太はちらりと紫乃を横目に見た。
 水分を多く含み潤んだ瞳が揺れている。彼ら二人の間を一筋の風が通り抜け、彼女の髪をそっと攫う。胸元くらいまである髪が踊った。合間から見えた彼女の首筋と鎖骨を眺め、途端に胸が苦しくなって目を逸らした。あの華奢な体に腕を回せる日は決して来ないのだと、ちゃんと分っているつもりで、理解した上で隣にいるつもりだった。しかし悶え胸を?き毟りたくなるほどの衝動は時折悪戯に蒼太に微笑みかけてくる。
「いいのよ」
 ふと、紫乃が喋る。蒼太が再び彼女を見ると、しかし横顔は無表情のまま白鷺駅を見つめていた。彼女だけ時間が止まってしまったみたいで、今聞こえた言葉も、単なる自分の願望だったのではないだろうかと戸惑う。
 悩んだ末に蒼太は紫乃の傍に寄ると、そっと左手を握った。彼女の表情は変わらず、ただ前を見つめたままだ。例え自身の願望でなかったとして、彼女のあの言葉が示した意味は更にもっと踏み込んだものであると分かっていた。そうやって彼女は蒼太を使って自らを貶めることで、死ぬことができなかった気持ちを、彼に自分の死を見せつけることができなかった気持ちをどうにかしようと思ったのだ。
 けれど、蒼太ができるのはここまでだった。手を握る以上のことは僕からはできないと、すればあの日を再び思い出してしまう。彼は駅の方を再び見た。握り返された手が震えていることに気づいたが、彼は何も言わず、ただその手を握り返す。
 五か月前にこの場所で、彼女の恋人で、蒼太の兄である紅一が死んだ。
「ねえ」
 かけられた声と共に、蒼太は彼女の手に力が込められたのを感じた。
「なんだい」
「もし本当に食べられていたとしたら、私と紅一さん、どっちが美味しかったのかしら」

――藍野紅一。

 その名を出すと、彼女はほろりと涙を流し、それから笑う。声は微かに震えているようだった。蒼太は目をそっと閉じて、彼女の左手の感触を右手に感じながら、この体温を失いたくない、と思った。
 紅一は既に死んでいる。二人は死体を確かに確認し、更に間接的ではあるが兄を【食べて】いる。結果彼女は壊れ、蒼太はその彼女の拠り所であり、憎悪を向ける相手となった。そうして蒼太に憎悪を向けることで、都合の悪いことを全て忘れ、そして全てを投げ出して命を断とうと考えているのだ。酷く残酷で、苦しみぬいた上で死ぬことのできそうな、そんな殺され方をされて。
 彼女が非日常を感知できるようになったのは、きっとその強い願望によってだろう。希望通り残忍な死に方に自ら足を踏み入れることができるのだから。
 しかし彼女はそう簡単に殺されることができないでいる。彼女自身の願望とは全く逆の願望を持った男が隣にいるためだ。
 死を見せたい相手が、何を捨ててでも篠森紫乃を生かそうとする。
「君が美味しかったに決まっているよ」
 蒼太はたった一言返事をして、それから手を離すと一人白鷺駅へと歩いて行く。いつもこうなのだ。思い通りに死ねなかった日は、彼女は決まって兄と自分を比べる。そうして自分が兄以下であり、最低の人間であることを確認したがり、そして最後は何も言わずその場で涙を流し続けるのだ。
 紅一が死んだ日、彼女は蒼太に「貴方にだけは泣きわめく姿を見せたくない」と怒鳴った。それ以来彼は彼女が泣く時は決まって距離を置くようになった。
「何度でもあちらに行けば良い。必ずこちら側に連れ戻してあげるから」蒼太は彼女に聞こえないよう小さな声で呟くと、さっきまで彼女の手を握っていた掌を眺め、それから愛おしそうに頬にあてた。
 その死と彼女が決別できるまで、蒼太は彼女の傍にいると決めていた。好意を持ちながら、決して叶うことがないと知っているその相手の傍に、少しでもいる為に。

       

表紙
Tweet

Neetsha