Neetel Inside 文芸新都
表紙

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   ニ


 滑らかな白い壁を背面に、篠森紫乃は珍しく白いドレスを身に付けて立っていた。彼女自身もどうやら黒以外の服装に慣れないらしく、何度も首を傾げながら衣装に目を向けている。すぐにでも脱ぎたい。そんな感情が読み取れるほど、紫乃の水っぽい潤んだ瞳は不機嫌そうに揺れていた。そんな彼女の顔を見て蒼太は微笑む。彼女とは真逆の、入口側の壁に背を預けた彼の表情は多分紫乃には見えない。光源が調整され、彼の辺りがとても薄暗くなっているからだ。もしも彼女が彼の微笑みを見ていたら、更に不機嫌そうな顔になっていただろう。
 そんな彼女の目の前に、アシスタントの作業を受け持つ男性と、一眼レフを提げた女性が立っていた。
 短髪でメタルフレームの眼鏡を付け、紺色のシャツを身に付けた男で、名前は漆原雅人、対する女性の方は若葉萌と言い、ウェーブのかかった茶髪と赤縁の眼鏡が印象的な、少し大人びた女性だ。二人共ドレスを身につけた紫乃を見て満足げな表情を浮かべている。どうやら理想通りの絵になったらしい。
 ぱっくりと開いた胸元に鎖骨が浮き出ている。その下に程よく膨らんだ胸の谷間がうっすらと姿を表わしていた。コルセットのように細い腰の造りが彼女のラインを引き出し、地面へと伸びるレース状のスカートとの対比で体はより細く見え、汚れ一つない白は、彼女の肌の色を際立たせていた。元々陶器のように白い彼女だが、純白を身に付けることによって薄らと赤らんだように肌の色が浮き出てみえる。ただ、彼女自身の要望で髪型だけは普段と変わらずなことが少し残念だ。蒼太は腕を組んだまま彼女の珍しい白い服装を満喫する。
 撮影の中にふと周囲を見回してみる。スタッフはどうやら今は二人だけらしい。もしかしたら他の仕事で出払っているのかもしれない。ところどころに化粧台やフィルム等が転がっている。多分それなりの人数がいるのだろう。無造作な散らかり方を見て、蒼太はそう思った。
「――撮りますね」
 若葉はそう言うとカメラを構え、ファインダーの中に紫乃の姿を納める。紫乃は戸惑いながらもぎこちなく微笑んだ。口元が緩み、目元を細くしただけのもの。
「そんな緊張しなくてもいいから。一回深呼吸して、いつもみたいに笑ってみせて」
 若葉の言葉を聞いて、紫乃は目を閉じると小さな口で思い切り息を吸って、吐く。どうやらどこかにあった堅い気持ちがほぐれたようだ。紫乃が次に目を開けた時、蒼太を誘惑する時に使う柔らかな笑みが彼女の顔に浮かんでいた。水気のあるうるんだ瞳が、更に彼女を引き立てている。
 シャッターが降りて、若葉が小さく頷く。どうやらいい具合だったらしい。若葉は足を動かして様々な箇所から紫乃を撮影していく。

 シャッター音。

 シャッター音。

 シャッター音。


――二日前


 その日二人は午後からの講義で、紫乃の提案で黒鵜町の隅にできた肉料理の美味しい喫茶店で昼食を済ませてから大学に向かうことになっていた。
 昼間でも人気の少ない町並みを満腹感と共に歩きながら、彼らは白鷺町へと徒歩で向かっていた。普段なら電車を使うところだが、今日は店主がやけにご機嫌で蒼太も紫乃も普段よりも量の多い肉をこれでもかとお見舞いされてしまい、腹ごなしにでもと彼女が更に提案したのだった。
「今日は本当に多かった」
「私はあまり食べないからって言っているのに、あの人は何を考えているのかしら」
 紫乃は若干輪郭の丸くなった腹部を撫でながら、不機嫌そうに呟く。
「結局紫乃の残した分、僕が食べる羽目になったからなあ」
 黒いチュニックのおかげでそれほど目立ちはしないが、彼女にしては随分と食べていた。普段から彼女を見ている蒼太には、腹部の変化がなんとなく分かった。
「あんなに量を増やす店主が悪いわ」
 低い声で紫乃は言うと、唇を噛む。そんな彼女の表情を苦笑しながら見つめた後、蒼太はリュックからペットボトルを取り出して水を飲む。
 空は灰色の雲がぎっしりと敷き詰められており、いつも強烈な光を吐き出している日差しは姿を隠していた。陽の下を紫乃はあまり好まない。もしも陽が出ていたとしたら彼女は例え苦しくても歩くという選択肢を選びはしなかっただろう。
 ふと、紫乃は振り返ると目を細めた。彼女の動作に蒼太も思わず振り向いたが、白鷺町へと繋がるこの通りからは黒鵜駅とビル街しか見えない。左右にはシャッターの下りた店と人の気配のしない住宅が数件並ぶだけだ。
「実はね、蒼太君に隠していることがあったの」
 紫乃の言葉に蒼太は首を傾げる。彼女はその反応を見てふふ、と笑みを漏らすと、水気のある潤んだ瞳に彼を映す。
「私、今ストーカーがいるみたいなの」
「ストーカー?」
「そう、私の魅力の虜になった人。時折私をつけているのよ。それも決まって五、六メートルくらい後ろをね」
 どこか嬉しそうに語る紫乃を、蒼太はじっと見つめる。その眼差しに気づいたのか、彼女はそっと首を横に振った。
「残念だけど、貴方の前で死ぬことはできそうにないわ。私に近づこうとも、ごみ箱を漁ったりもしない。ただ後ろから着いて見ているだけみたいだから」
 その言葉を聞いて、蒼太は安堵した。どうやら彼女のお眼鏡に適うような人物ではないらしい。その証拠に彼女もさほど興味を抱いてはいない。ただストーカーという言葉に興味を示しているようで、彼女の告白は被害を被っているというより、どこか誇らしげだ。
 なんにせよ被害がないのなら問題はない。暫くすればストーカーも落ち着くだろう。彼女に何か危害を及ぼすようなら始末すれば良いだけだ。蒼太はもう一度背後を見つめ、それから人の気配がないことを確認すると再び歩き出す。
「ほんと、狂信的な人だったら良かったのに」
「ちなみに、ごみ箱ってどこの?」
「黒鵜駅の改札前のよ」
「何を捨てたの?」
 紫乃は顎に指を当てて暫く考えた後、怪しく微笑んだ。
「ナイショ」
 多分、相当えげつないものを捨てたのだろう。熱狂的な“ファン”なら激しく興奮しそうな何かを。


 二十分程歩き続けて、二人はようやく大学へと到着した。時刻は十二時半。講義までまだ少し時間の余裕がある。どうにかあの重い昼食も消化できつつあるようで、店を出た時よりは多少気分が良くなっていた。
 どこかで涼みましょう、という紫乃の言葉に乗ると、蒼太は大学の門を抜けて校舎へと向かう。

――刹那、二人の前に一台のバイクが滑りこむようにして止まった。
 ぴったりとした黒いライダースーツを着た女性―身体のラインと胸のかたちから、女性であることは分かった―は駆動音を上げる単車から降りると、艶のあるブラックのメットを脱いで頭を数回振った。ウェーブのかかった茶色い髪が左右に揺れる。
「ねえ、もしかして篠森さんかしら?」
 ライダースーツ姿の女性に声をかけられ、紫乃は暫く彼女の顔を見つめた後、そっと頷く。ああ良かったと彼女は安堵すると、改めて紫乃に目を向けた。
「私、写真部で会長をやっている若葉萌です。始めまして」
 にっこりとほほ笑む若葉を、蒼太はぼんやりと見つめる。赤い縁の眼鏡から覗くつり上がった目が印象的な女性だ。
 蒼太は視線を反らして単車を見る。後部座席に一眼レフと思しきケースが固定されているのが見える。
「何です?」
 この大学で篠森紫乃に声をかけるという行為。それはとても非日常的な光景だ。少なくとも蒼太の傍にいる時以外彼女が何か抑揚のある表情や言葉を口にすることはない。蒼太と離れている時は必ず一人で行動し、声をかけられても機械的な返答で済ますような女性だ。案の定、若葉萌に対しても彼女は無表情を貫いていた。
「この大学の文化祭、あと一か月後くらいじゃない。私、最後の文化祭だからできたらね、今まで撮ったことのない被写体を写真に残したい、発表したいって思っているの。それで、貴方にモデルをお願いしたいのだけれど、了承してもらえないかしら?」
 若葉はそう言うと両手を合わせる。対する紫乃は相変わらず無表情のままで手を合わせる彼女の姿を見つめている。さて、彼女がこうなってしまってから始めてのパターンだ。どのような返答を返すのだろう。蒼太は口を閉ざしたままその二人の姿をじっと見つめる。
「――引き受けます」
 初め、蒼太は彼女の口から出た言葉が理解できなかった。紫乃は相変わらず無表情のまま頷くと、彼女の手をそっと包んだ。若葉自身も一種の賭けだったようで、目を大きく見開いて紫乃を見つめた後、歓喜に満ちた笑みを浮かべて差しのべられた彼女の手を握り締めた。
「日時も場所もいつでも大丈夫です」
 紫乃の言葉に、若葉はスケジュール帳を開くと、申し訳なさそうに二日後を提示する。流石に無理があるかもしれないと思っていたが、紫乃は頷くと、二日後にこの場所にいると若葉に伝え、それから蒼太の手を取ると校舎へと入っていった。
「本当にありがとう!」
 背後からの若葉の声が廊下に木霊する。予想外の反応に戸惑ったまま彼女についていく蒼太はもう一度玄関を見た後、紫乃の顔を横から見つめる。
 無表情、であることに変わりはないのだが、不思議とその水気の多い瞳は、いつもより揺らいでいるように見えた。

 講義を終え、足早に教室を出ていく紫乃を蒼太は追いかけると、隣に並んだ。講義終わりの学生でごった返しの廊下を、二人はうまくすり抜けるようにして進んでいく。
 蒼太は無言のまま、食堂へと歩いて行く彼女の横顔を見つめていた。今日の彼女は何かがおかしい。普段なら即座にノーと答えたであろう頼みを引き受けるなんて、蒼太にはとても想像しえなかった出来事だった。
 講義が同じ時は蒼太が立つまで席に座り続け、隣に並んで歩いていると必ず何か話し、その会話に満足な返答がくることを、怪しく揺れる瞳で蒼太を見つめながら待つ女性だが、今日はそのどれにも当てはまらない。むしろ意図的に避けているといった風すらある。
「何か、機嫌の悪いことでもあったのかな」
 ぼそりと口にした言葉に、紫乃は立ち止まった。何歩か先を歩いたところで慌てて蒼太は止まると、振り返って彼女を見た。
 彼女の顔に、喜怒哀楽は映っていない。何も書かれていない真っ白な状態だ。そんな表情を浮かべ、潤んだ水っぽい瞳だけを蒼太に向けている。瞳に映る蒼太の姿が時折揺らぐ。彼女の瞳は、まるで水面に一滴の雫が落ちた時のように波紋が広がっている。
「貴方のことではないわ。安心して」
 淡々とした口調でそう言うと、紫乃は蒼太の横を通り抜けると、食堂へと入っていってしまった。黒いチュニックを着た彼女の背中を見つめながら、どうにも納得がいかない気持ちを嘆息と共に外へ吐き出すと、蒼太も後を追うように食堂へ入った。
 大声で喋り、大声で笑う集団に目を細めながら、蒼太は最奥の席に座った。提げていたショルダーバッグを下ろして背もたれに身体を預けると、全身に溜まった緊張がするりと溶けていくのを感じた。この時間帯は視覚的にも聴覚的にも肉体的にも疲労感があるのが食堂だ。よくもまああれだけ機銃でも撃つみたいに喋り続けることができるものだ。周囲の目も気にせず騒ぐグループの席をちらりと横に見て、それから紫乃へと視線を戻した。
 紫乃は口を閉ざしたまま携帯を見つめ、文字を打っては消してを繰り返している。画面を覗くのもなんだか悪いので、蒼太は頬杖を着くとぼんやりと肩提げ鞄に目をやり、それから右手で中を弄る。硬い感触を指先に感じる。蒼太は更にその輪郭をなぞり、それがナイフのグリップであることを理解すると、その下の鞘にも手を触れた。非常に硬い素材でできた鞘だ。わざわざ歯を出さなくてもこれだけで打撃を与えることも可能だろう。先ほど昼食のために寄った喫茶店で、店主から渡されたものだ。随分と良い物だと蒼太は聞いている。確かに材質もこの頑丈さも、鋭いナイフが誤った相手を傷つけてしまう心配を限りなく減らすには重要なものだ。まだ一度も利用したことはないが、手に馴染ませるために何度か抜き、切れ味も確かめておいた。所詮ナイフではあるが、少なくとも市販の包丁よりは鋭く斬ることができそうだ。
 改めて店主と対峙した際のナイフと威力の差を比べてみたが、こんなもので応対しようとしていたのか、と思わず自嘲的な笑みをこぼしてしまうほどだった。むしろ今まで運が良かっただけなのかもしれない。
 蒼太が鞄を肩提げにしたのも、取り出しや不意打ちに向いているかもしれないと考えた為で、ナイフが中に入っている状態で振り回してもそれなりの攻撃にはなるようだった。
「もうすぐ、何の日か分かってる?」
 刃物について蒼太が思考を巡らせていると、ふと携帯を見つめていた紫乃の小さな口が動く。紅色のルージュが証明の灯りで怪しく輝いた。蒼太は暫く天井を見上げ、それからナイフに触れていた手を鞄から引っ込めて言った。
「兄さんの誕生日だね」
 蒼太の兄である藍野紅一の誕生日。蒼太も決して忘れてなどいなかった。いや、忘れることができるはずがなかった。
「私ね、紅一さんの誕生日に、初めて抱いてもらうことになっていたの」
 坦々とした口調で紫乃はそう告げる。携帯を見続け、文字を打ち続ける紫乃の表情は、いたって穏やかだ。まるで世間話でもするみたいに語られた兄と紫乃の性事情に、蒼太はただふうん、と頷くしかできず。行き場を失った目線をどうしようかと考えた結果、彼もまたポケットから携帯を取り出すことにする。
「不思議でしょう、付き合い始めてから一度も求められたことがなくて、もしかしたら私はあまり魅力的ではないのかな、とも思っていたの」
「そんなことない、君は十分に魅力的だよ」
「ありがとう。でね、紅一さん、あるとき私に言ったの。【俺の大事な日に君が欲しい】って。私とても嬉しかったわ。彼の隣にいることで私は満たされているけれど、でも彼はどうなんだろうってずっと気になっていたから。ああ、私のことを求めてくれているんだって知ることができて、嬉しかった。とても恥ずかしかったけど、私は頷いたの。彼が望むのなら、私を全部あげるって言った。そうしたら、紅一さん、頬を赤らめてね、私のスケジュール帳を開けて、自分の誕生日に赤いペンで丸をして、それで笑ったの。可愛いでしょう」
 ディスプレイを打つ力が強くなっている。カツ、カツ、カツと彼女の爪がディスプレイに何度も、一定のリズムで当たる。耳を塞ぎたい衝動を必死で抑え、蒼太は携帯をじっと見つめる。
「特別な日になったら、ちょっと張り切った服がいいかなって聞いたの。彼ね、こう言ってくれたのよ」

――白がいいな。君は白がとっても似合うから。

「それが、理由」
 紫乃は最後の一言を言い終わるか終わらないかのうちに席を立ち、パンプスで床を鳴らしながら食堂を出ていってしまった。その間、蒼太はじっとディスプレイを食い入るように見つめていた。
 紫乃から、たった今、彼女が席を立つと同時に送られてきたものだった。蒼太は暫くその文面から目が離れなかった。呼吸のしかたを忘れてしまったみたいに息苦しくて、脈が体中で暴れまわるのがよく分かる。こめかみがどくどくと音を立てている。

 テーブルに座って手を叩きながら声を上げて笑う金髪。

 返却口のプレートを取り落として床にぶち撒ける中年女性。

 すれ違った紫乃に思わず声をかけ、無反応であることに舌を打つスポーツ刈の男。

 あまりの騒がしさに堪り兼ねて怒鳴る中年店員。

 食堂は、非常に騒々しく、そこにいる者全てに不快な雑音を吐き出し続けていた。来訪者を拒むような不協和音の連鎖に顔を顰めながら、学生たちはテーブルという自らの世界を守るべく自らの音を大きくして対抗している。無法地帯と呼ばれても、誰一人として否定はできないだろう。それ程に食堂のマナーは地に落ちていた。
 だが、それら全てを、蒼太は不協和音とは思わなかった。いや、むしろ今の彼には聞こえているのかどうかさえ怪しかった。

『タイトル:何故 本文:代わりに死ねなかったの?』

 宛先には、藍野蒼太と篠森紫乃、二人の名前が記入されていた。


       

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