Neetel Inside 文芸新都
表紙

見開き   最大化      



   三


 撮影が休憩に入り、若葉はミネラルウォーターを紫乃に渡すと、壁際の椅子に座った。撮影舞台から二人が離れた頃合いを見計らって、漆原は照明の点検を始めた。
 蒼太は三人の同行を眺めた後、壁から離れると漆原の元へと歩み寄った。
「お疲れ様です。彼女、どうです?」
 振り向いた漆原は愛想のいい笑顔を蒼太に向け、満足気に頷く。眼鏡のフレームが照明の光を受けて輝いていて、少しだけ眩しい。
「本当にありがたいよ。もうすぐ僕も彼女も引退でね。気合の入った写真を作りたかった。にしてもまさか篠森さんが承諾してくれるとはね」
 本当に僕も驚いています。蒼太がそう言うと、漆原は腕を組み何度も頭を縦に振った。今目の前で彼女が撮れている事は、彼にとっては夢のようなのだろう。
「藍野君、だったかな。随分と彼女とも仲が良いようだし、君も何か口添えしてくれたのかな」
「いえ、僕は何も。彼女が自発的に撮られたいと言っていましたよ」
「ふうん、なんにせよ良い方向に話が進んでくれてよかった」
「ところで、紫乃を撮影したいと言い始めたのは、お二人のうちどちらなんです?」
 漆原は振り向いて蒼太を見た。何故突然、とでも言いたげな表情だったが、その訝るような表情も次には笑みに変わった。
「俺だよ。実は彼女のこと、大分前から気になっていた」
「気になっていた?」
 蒼太が言葉を繰り返すと、漆原はああ、と手を振って否定の意を示す。
「彼女の瞳がとても気になっていてね。髪の艶もあるし顔立ちや身体のラインもとても綺麗に整っている。服装は……正直入りたての頃の白っぽい服が多かった頃のほうが好きだったけれど」
 漆原は頭を掻きながら、遠くで休憩する紫乃と若葉の姿をそのメタルフレームの視界に入れ、じっと見つめる。蒼太も一緒になって彼の視線の先を見たが、彼の言うとおり、白い衣服に身を包んだ紫乃は、普段の黒いチュニック姿の何倍も輝いて見えた。光の反射具合であるとか、そういった視覚的なものや普段黒い姿を見慣れているといった理由もあるのかもしれないが、しかしそれらを抜きにしても白い彼女は美しかった。
 蒼太もまた、白い服装が多かった頃の紫乃に一目惚れしたのだ。漆原の言葉に肯定的な頷きを返す。
「萌ちゃんも頷いてくれてよかったよ」
「彼女は、反対だったんですか?」
 漆原の嘆息と共に漏れでた言葉に、蒼太は目ざとく反応する。彼は慌てて首を振った。
「そういうわけじゃない。萌ちゃんはこだわりが強すぎてね。会長という立場ではあるんだけど、あまり部内でいい顔をされていないんだ。どんな時でもストイックで、結局今は俺くらいしか相手にする人がいなくなったよ。まあ共通の趣味があるっていうのも理由の一つなんだけど」
「趣味?」
「確か君に会いに来た時、結構なバイクで来てただろう? 俺も萌ちゃんもバイクがちょっとした趣味でね。カメラ持ってツーリングしに行ったりもしている。珍しい風景が撮れるって事もあるしね」
 蒼太は若葉とのファーストコンタクトを思い出す。確かに、しっかりとライダースーツに身を固め、手入れの行き届いた単車に跨っていた。すると彼も同じようなものに乗っているのだろうか。外見からは二人ともあまりバイク乗りにはとてもじゃないが見えない。
「まあ、そんなこんなで我が部は会長が浮いてるのさ。今回の撮影も実は部員が別件とかじゃなくて、僕らが現像が終わるまで無理言って場所を空けてもらったんだ」
「そんな無茶をしたんですか? よく他の部員が黙ってませんでしたね」
 漆原は肩を竦める。
「これが最後だから、皆も我慢してくれたんだろう。俺も何度も頭下げたし」
 穏やかな表情でそう言うと、漆原は目を細めて若葉を見つめる。そんな彼の横顔を眺めながら、蒼太はポケットに手を突っ込んだ。
「漆原さんは、よっぽど好きなんですね」
 ぽつりと呟いた言葉に、漆原は暫く目を丸くし、それから頬を赤らめると照れくさそうに頭をかく。気づいて欲しかった、ということもあるのだろう。蒼太の言葉を聞いて彼はとても満足そうだった。
「彼女が懸命になってる時とか、望むものが撮れた時の顔がね、素敵なんだ。初めはその顔を見ることができたらとても嬉しいくらいだった。でも駄目だね、気づいたらこうさ。彼女のいいところを見たいが為に、できることはなんでもしようとしてしまっている」
「いえ、その気持ち、分かります」
「これは秘密ね……といっても、彼女と今以上の関係に踏み込む勇気はまるでないんだけどね」
「きっと、大丈夫ですよ」
 蒼太はそう言って笑うと、漆原はとても嬉しそうに明るい表情を浮かべた。大げさに眼鏡を拭いて掛け直すと、ちらりともう一度二人の方を見ていた。
――会長が浮いている。
 始め紫乃の口説きを聞いていた時は、引退後も普通に部に参加なんてできるだろうになんて思っていたが、実際こういった話を聞く限り、彼女は本当に「これがここで撮れる最後の機会」のようだ。
 ふと、蒼太は奥にある大きな窓が気になった。暗幕がされているが、それでも十分な大きさだ。
「この窓、撮影には不向きじゃありません?」
「ああ、まあ……俺達は部屋を選べないから。まあメリットもあるんだ」
 そう言うと彼は暗幕をめくって蒼太に見せた。どうやら凹んだ通路の一番奥にこの部屋はあるらしく、コンクリートの無骨な路面、一本道のその先にはグラウンドが広がっていた。
「切羽詰まってる時は、ここの窓を開けておいて、こっそり忍び込めるんだ。凹んだ場所にあるからそんなに見つかりもしない。特に暗室を使うと時間を結構食うから、俺はよく使ってるよ」
 彼はそう言うと笑みを浮かべ、再び暗幕で窓を閉じた。

 テーブルで紫乃と会話をしていた若葉が時計を見て立ち上がる。それからきょろきょろと周囲を見回し、漆原に視線を向けると両手を振った。漆原もその合図に反応し、手際よく準備を終えると彼女の下へと駆けて行く。彼の後ろ姿を見送った後、蒼太は視線をずらして紫乃を見た。
 彼女は、虚ろな表情を蒼太に向け、それからそっと微笑んだ。
――見ていられない。蒼太は目を逸らした後、そのまま部屋を出ていった。明るいステージを降りて扉まで向かう途中が酷く暗く見えて、向かいに立っている彼女がとても輝いて見えて、ああこれが今の状態なのかと蒼太は自嘲気味に笑う。
 彼女は今幸せなのだ。兄との約束を果足すためならこれくらいの我慢はできるのだ。いや、紅一の為だからこそ彼女はここまでできるのだろう。顔に真っ黒な泥を塗りたくり、全身を裂かれて紅色に染まりたいという感情を真っ白な嘘で抑えている。
 扉を閉めると、急に全身が弛緩して立っていられなくなった。蒼太は扉に背中を押し付けずるずると落ちていくと、そのまま蹲る。
 今の彼女はどこまでも醜い。
 どこか欠けた美しさも、完璧であった頃の美しさもない。自らの欠損した部分をパテで塗り固めて、あたかも自らで修復できたと思い込もうとしているだけだ。
 窓から差し込む陽光が柔らかなものへと変わっていく。紺色が、薄く伸ばしたバターみたいに空に広がっていく。境界のぼんやりとした滑らかな紺色と橙の隙間で、日光はただそこに立ち臨んでいる。
 夜が来るよ。そう彼らは告げていた。
 蒼太は落下する夕方の陽に照らされて、扉の先から聞こえてくるシャッターの小気味良い音を聞いて、今すぐにでものた打ち回りたくなった。けれど、耐えなければならない。それこそが自分の罰であるのだから。平行線のまま生涯を終えることになろうとも、蒼太は紫乃の願望を阻止し続けなくてはならない。
 今日も彼女は行くのだろうか。非日常の世界に。
 蒼太は虚ろな目でそっと落ちていく陽を眺めながら、そんなことを思った。

 撮影が終わり、部屋から出てきた紫乃はいつもどおりの黒のチュニックを身に着けていた。表情も穏やかで目もぼんやりとしている。随分と体力を消耗したのだろう。
「本当に今日はありがとう。おかげで良い写真が沢山撮れたよ。現像したら君達を呼ぶつもりだから、是非よろしく」
 若葉は満足気に言うと蒼太に左手を差し出した。蒼太は暫くそれをじっと見つめた後、笑みを浮かべ是非、とその手を握り返す。続いて漆原とも握手をして軽く会話を交わし、蒼太は呆けている紫乃の右手を握ると手綱を引くような感覚で彼女を玄関口まで連れていく。
「疲れた」
「立ちっぱなしだったしね、慣れないことはとても疲労が溜まりやすい。今日はもう家に帰ってお休み」
 紫乃は素直に頷いた。瞼が落ち始めている。紫乃の中で抵抗しようのない睡魔が着実に彼女の精神と肉体を蝕んでいるようだ。今日は黒鵜町に寄ることもないだろう。蒼太はほっとして靴を履くと、再び紫乃の右手を握った。
 藍野君、と声がして蒼太は振り返った。廊下の奥の方から若葉が駆けてくる。ウェーブがかった茶髪の髪が左右に揺れて、鬱陶しそうに何度も彼女はそれを払う。
「どうしました?」
「なんだか今日は随分とお待たせしちゃったから、お詫びにこれどうぞ」
 息を切らしながら若葉は蒼太にそっと缶コーヒーを手渡す。こんなことの為だけにわざわざ走ってきたのか。その不可解さに首を傾げつつ、蒼太は笑みを浮かべるとそっと缶コーヒーを受け取った。
「紫乃ちゃんも随分と疲れているみたいね。付き合わせてごめんね」
「大丈夫、今日は少しだけ寝不足だったから」
 紫乃はそう言って、重たい瞼を無理やりこじ開けると彼女を見た。潤んだ瞳がどこかいつもより乾いているような、蒼太はそんな気がして、思わず紫乃を覗きこんでしまう。訝るように紫乃は蒼太に向けて首をかしげた後、息を整えている若葉にそっとお辞儀をする。
「ちなみに、写真はいつになりそうですか?」
「そうね、多分三、四日かしら。用意ができたらちゃんと呼ぶから、待っていてね」
 紫乃はにっこりと笑うと、蒼太に向きなおして行こう、と小さく呟く。蒼太は紫乃の言葉に頷くと、一度だけ若葉を見て、それから玄関口を出た。すっかり夕闇が染み込んだ外に消えた二人を、若葉は穏やかな目で見ていた。

――ここ最近、目を狙う犯人がまた出たようね。
 紫乃はそう言うと重たい瞼と足取りのまま駅へと歩いて行く。途中何度もよろけて転びそうになり、電柱に頭を打ったりを繰り返してやっとのことでの白鷺駅だった。蒼太が彼女の前髪をめくって覗いてみると、眉間に赤い痕が付いていた。どうやら重症ではないようなので明日になれば怪我も解決するだろう。
「一人で帰れる?」
 ええ、と紫乃は頷くと、重たい足を引きずりながら改札を通り、やがて消えていった。蒼太は彼女の背中を見送った後、ふと思い立ち、改札を抜けると黒鵜町へ向かう電車に乗り込む。沈んだ陽の残す微かな陽光が、濃紺の空にじわりと流れこむ。ベルと共に発射した電車に揺られながら、蒼太は窓越しにそれを見つめ、それから鞄の中のナイフに触れた。硬い鞘の感触を指先に感じながら、蒼太は目を閉ざす。
 先日からまた動き出した目を奪う犯人の事件。
 最近になって始まった紫乃のストーカー。
 彼女の水気の多い潤んだ瞳。
 元々問題に巻き込まれる「特性」を持っている彼女だ。この事件にも知らず知らずのうちに関連している可能性が高い。特に、あの全てを見透かされ、揺さぶられるような瞳は、目だけを狙う異常者にとってはたまらないのではないだろうか。蒼太はそう考えていた。
 今、蒼太の一つ先の車両にストーカーがいる。紫乃は特に何も言ってはいなかったが、学校を出てから一定の距離を必ず歩き、こちらが立ち止まると―止まることが自然になるようあえて彼女を電柱に誘導させ、額をぶつけさせたが、酷いことをしたと蒼太は少し後悔していた―彼も立ち止まり、二人の姿をじっと物陰から見つめていた。その姿を、蒼太は目の端でしっかりと捉えていた。
 だからこそ、彼はどうやら気づかれていないと考え、最後の最後で油断したようだった。紫乃が消えた後に彼は帰宅ラッシュの群れに紛れて黒鵜町方向へ向かうプラットフォームへと向かっていった。堂々と蒼太の横をすれ違うようにして。
 電車が止まり、車掌の到着のアナウンスが車内に流れ、両開きの扉が開いた。蒼太は暫く開いた扉ごしに外を観察してみる。
――彼が降りた。
 グレーのジャケットとベージュのチノパン、ハットを被った猫背の男性が改札へと歩いて行く。胸ポケットからメモのようなものを取り出すとペンで何かを書いている。蒼太は一呼吸置いてから電車を降りた。電車が発車するのと同時に歩き出すと、蒼太は一定の距離を置いて彼の背中を追い始める。
 流石に黒鵜町ともなると人の乗り降りが少ない。蒼太はできるだけ離れ、できる限り視界に男性の姿が入るように心掛けた。見つかってしまっては元も子もない。それに逆上して紫乃側に被害が及ぶ可能性だってある。ストーカーの心理は非常に揺れ動きやすく、小さなことで破裂してしまう。丁寧に扱わなくてはならない。
 グレーのジャケットを羽織った男はビル街に入っていく。もうすぐ行くと喫茶店がある。多分彼はそこを少なくとも横切るだろうと判断した蒼太は携帯を取り出すと、その喫茶店へと電話をかける。
『お電話ありがとうございます』
「店主さん、僕です、蒼太です」
 丁寧な挨拶に対し名前を告げると、店主はああ、と嬉しそうに声を漏らす。
『どうしたんだい突然』
「すみませんけど、今、仕事は何もありませんか?」
『お客も丁度出払ったところだし……。特に何もないが』
「窓の外から見ていて欲しい人物がいるんです。できれば写真も撮ってもらえると助かります。グレーのジャケットにベージュのチノパンを着た男性です。お願いできますか?」
 店主はふむ、と小さく呟く。
『どうやら何かあったようだね。いいだろう、できる限りのことはさせてもらうよ』
 そう言うと、店主は蒼太の返答も待たずに電話を切ってしまった。蒼太は深く息を吐き出すと、ビルの物陰から喫茶店のある道を覗きこんでみる。
 男は、こちらを遠くからじっと見つめていた。ハッとして物陰に身体を引っ込めた。思いもよらない事態に蒼太の心臓がぎゅっと締め付けられ、途端に呼吸が苦しくなった。彼はこちらにやって来ているかもしれない。蒼太は聞こえてくる足音に耳を澄ます。彼は果たして近づいてきているか。
 鞄からナイフを取り出すと、鞘に手をかけ唇を噛んだ。鞘で殴るか、刺すか。この判断でその後の展開は大きく変わる。あの男性が何か凶器の類でも持っていて、逆上してきた場合、鞘のままでは危険かもしれない。しかし、誤って殺傷してしまったらストーカーをしていた意味を聞き出すことができない。もしも彼が目を狙う異常者ではなかった場合、それこそ殺し損だ。
 人を殺したくはない。しかし、万が一紫乃に危害があるようならここで殺すしかない。犯罪に対する嫌悪と、紫乃に対しての過保護さの間で蒼太は彷徨う。

――カツ、カツ、カツ。

 足音はすぐそこまで迫っている。蒼太は、固く目を瞑り大きく深呼吸を一度すると、鞘から手を話し、グリップを握る手に添えた。
 鼓動が高まる。背中に汗がにじみ出る。

「蒼太君」
 向こうから顔を出したのは、店主だった。蒼太は暫く彼の顔を見つめ、やがて全身の緊張が解けたのか、鞘に入ったままのナイフを握りしめたままその場に座り込み、深く息をした。その姿を見て店主は小さな笑いを零すと、蒼太の目の前を指差す。
「隠れて不意打ちをするなら、周囲は確認しないと」
 向かいのビルのガラスに、蒼太の姿がはっきりと映っていた。
「あの男は……?」
「ああ、うちを通りすぎて行ったよ。写真も撮っておいたから君に画像を送っておこう。それにしても、そのナイフを鞘から抜くつもりは、なかったのかい?」
 店主の手を借りて蒼太は立ち上がると、道の先を覗いた。人の気配はなく、暗闇は大きな口を開けたまま横たわっているだけだ。
「僕は、人を殺したくありません」
 額に滲んだ汗を拭うと、蒼太は呟いた。
「それは、私の時にも言っていたね」
「殺さなくちゃ、そうしなくちゃ紫乃を守れない。でも人を殺すことなんてしたくない。そう思いながら、でもいざやらなくちゃならない時がきたら、と思うと酷く怖くて、苦しくなる」
 鞘に入ったままのナイフを見つめながら、蒼太はぼんやりとそう呟いた。店主はそんな彼の肩に手を回すと軽く叩き、喫茶店へと彼を連れて行く。
「そうまでして何故君は、あの子を守るんだい」
 蒼太は何も言おうとはしなかった。店主もそれ以上は何も聞くことをせず、彼の背を何度も擦った。
「彼は壊れてなんかいないんだね」
 店主の言葉に、蒼太は目を閉じた。

 店内に入り、湯を沸かして熱いコーヒーを淹れるとうなだれる彼の前に置いた。接触もなく、ナイフを抜くこともなかったからか、今の彼は穏やかな顔つきに戻っていた。
「君の話を要約すると、彼は今この町にいるとされる【視られたがり】であり、綺麗な目をしている紫乃ちゃんを狙っているのではないかと。そう思ったわけだね」
 蒼太が頷いたのを見た後、店主は引き伸ばしてプリントアウトした画像に目を落とす。ハットを深く被っているため顔はいまいち分からないが、しかし普通ではないことだけは分かった。この写真を撮った時も、彼はその気配に目ざとく気がついたのか、こちらを一瞬ちらりと見たという。蒼太がナイフを身構えざるを得なくなったのも仕方ない。それだけこのストーカーの男性の警戒心は強かった。
「そういえば、視られたがりってなんです?」
 蒼太はふと疑問を店主に投げかけた。
「この周辺ではそう呼ばれているらしい。目だけ欲しがるなんて、随分と見ることにこだわっている。いや、見られることにこだわっているのだろうってね。被害者を殺さないのも、わざと自分の存在を周囲に広めたいからじゃないかって噂でね、その名前がついた」
「だから、【視られたがり】……」
「迷惑なナルシストさ」
 店主はそう言うとキッチンの方に行ってしまった。現在の時刻を考えると、そろそろ彼は【恋人】に会いに行く時間だ。あまり迷惑をかけすぎても良くはないだろう。蒼太はコーヒーを飲み干すと、キッチンで肉切り包丁を研いでいる店主の後ろ姿を見た。慈愛に満ちた背中だと、彼は思った。
「遅くにごめんなさい。そろそろ帰ります」
「ああ、そうか。また何か問題が生じたら言ってくれ。私じゃ何もできないかもしれないが、少しでも力になれたらと思っているからね」
 店主はにっこりと笑みを浮かべると手を振る。蒼太はその振られた手にお辞儀を返し、店を出た。
 夜闇が冷たい風を吐き出している。少し肌寒くなってきたなあと思いながら蒼太は鞄の中のナイフに触れた。今回は、本当に殺す必要があるかもしれない。そう考えると、途端に胸が苦しくなった。犯罪だ。そして、人の命を奪うことを、自分が行う姿がどうにも想像できない。
――でも、紫乃を生かし続ける為には。
 蒼太は生唾をごくりと飲み込み、黒鵜駅へと足を向ける。人気のない寂しい道を一人歩くというのは、なんだか心に隙間が空いたようで、いい気分はしない。隣に紫乃が欲しいと、蒼太はぼんやりと思った。きっと彼女が隣にいたのなら、自分の姿を見てくれているのなら、この震えも止まってしまうのだろう。そうやって自分を壊すことができるのだろう。蒼太の中で、紫乃の姿が、声が炭酸みたいに彼の中に沸き上がる。
「会いたいよ」
 蒼太の言葉は、しかし虚しく夜闇に包まれた町に響き、溶けていくだけで終わる。蒼太は肩提げ鞄を背中に回すと、地面を強く蹴って走りだした。人のいない駅前の公園を横切り、切れかけの街灯の下を通って、蒼太はただ自分の中に湧き上がる紫乃に対する想いを振り切ろうと走った。
 改札を過ぎて、プラットフォームにたどり着くと、回送の電車が丁度こちらにやってくる。ヘッドライトが二本、眩い光をこちらに向けていた。
 ふと思い立って、蒼太は線の外側に足をだし、縁に立った。黒鵜町から乗る乗客は蒼太一人で、誰も止める人もいなければ、見ている人もいない。ここなら、好きな時に飛び降りることは可能だ。そんなことを考えると、蒼太は自分が安心しつつあることを感じる。
 紫乃にはやっぱり死んでほしくないな。そう考えると同時に、蒼太の目の前を電車が通りすぎていく。力強い風に飛ばされそうになりながら、蒼太は目をつぶった。
 ここから飛び降りたら、紫乃は悔しがってくれるだろうか。
――何故代わりに死ななかったのか。
 紫乃のメールを思い出しながら、目の前を通りすぎていった電車の後ろ姿を蒼太はじっと見つめていた。

       

表紙
Tweet

Neetsha