Neetel Inside 文芸新都
表紙

踊るには朱過ぎる月の夜に
「ねえ、明かりを消して」

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   一

 錫谷は夢を見ていた。いつもの様にスーツを着て、バスに揺られているという酷くつまらない夢だった。
 錫谷が座っている座席は後部の、丁度タイヤの上部辺りに設置された二人用席だった。エンジンがかかる度にタイヤの振動が微弱に私の身体に伝わるのが嫌でも分かる。
 なんだか、夢なのに随分と現実的な夢だなあ、と錫谷は肘掛けに頬杖をついて、流れていく景色を窓越しに見ていた。景色も変わらず通勤時の風景。日常のワンシーンを切り取ったような町の風景が左から流れては右へ消え去っていく。
 そんな時、不意に目の前を黒い髪が流れた。
 私が目を向けると、前方に、女性が一人座っていた。
 彼女の長い黒髪が揺れる度に、陶器みたいに真っ白いうなじが姿を現している。とても滑らかできめの細かい肌をしている女性だった。
 錫谷は、前方の女性の顔がとても見たかった。その小さな肩に手を掛け、振り向かせたいという衝動に駆られ、思わず手を伸ばしてしまう。
――きっと、彼女は恐ろしく美しい瞳をしているに違いない。
 触れるか触れないかの指先で、美しい項が目先でちらりと覗く。艶のある髪が私の鼻先をくすぐる。
 どうしてだろう。彼女の目がとても気になった。彼女の瞳を酷く見たい気分だ。
 振り返らせて、そこに映る自分の姿が、見たくて堪らない。
「……貴方は、私をどうするつもりなのかしら?」
 肩に触れるか触れないかのところで、彼女は背中越しに言った。錫谷は、伸ばした手を止めた。
「ただ、君を正面から、見たいだけだ」
 言い訳じみた言葉に、彼女がクスクスと背中を揺らす。
「何故?」
「何故だろう。理由は分からない。でも今、私は君の瞳が酷く見たい気分なんだよ」
 正直に答えると、彼女はそう、と溜息でもつくように気のない返事をする。
「でも残念、貴方に見せる瞳は無いの」
「どうして?」
「だって、貴方は私の顔を見たがらないから」
 そう言って、彼女はくるりと振り向いた。長い髪がふわりと靡いて、黒い服の中に秘められた白い肌がちらりと見える。綺麗な鎖骨がくっきりと浮き出ている。
 だが、その先は見えなかった。
「貴方に、私の瞳は、きっと見えないわ」
 まるで、電波の途切れた液晶のように、彼女の顔はノイズに遮られて見えない。錫谷はその顔に触れてみようとするのだけれど、ジリジリと焼けつくような音がするだけで、ノイズに塗れた顔は消えなかった。
「どうしたら、見えるようになるんだ」
 尋ねてみるが、答えは帰ってこなかった。彼女は嗤うと、再び彼から背を向けてしまう。綺麗な鎖骨も、白い首元も、魅力的な瞳も、彼方へ行ってしまう。
――待って欲しい。見せてくれ。
 慌てて手を伸ばした
瞬間、目の前が、まるでスイッチを落としたみたいに、ばちんと暗くなって、全てが消えた。
 全て消えて、暗闇の中、錫谷は周囲を見回す。
 錫谷は、自分がまだ眠りの底にいるのだと錯覚した。これは夢の延長で、きっとこの暗闇も自分の次の夢なのだろうと。瞼を閉じても、開いても見えるのは暗黒だけで、一筋の光すら見つけることが出来ない状況が、彼にそう錯覚させた。
 だがその錯覚も、身体中に走る鈍い痛みによってすぐに醒めてしまった。全身を打ち付けたような鈍い痛みに、動かない左腕、腹の底からせり上がる吐き気。
 耐え切れず思わず呻くと、じゃりり、と地面を踏みしめる音が聞こえた。
「気が付きましたか」
 女性の声だった。
 鈍い頭痛に頭を抱えながら上体を起こし、錫谷は周囲の暗闇を見て回る。やはり何も見えない。足元に触れてみると、砂利のざらりとした感触があった。
「その、ここは、どこですか」
 返答の代りに衣擦れの音と、砂利を踏む音が聞こえる。そして、次第に誰かの呼吸の音が錫谷に近づいてくる。
「どこか、痛いところはありませんか」
 澄んだ綺麗な、耳触りの良いはっきりとした声だ。その声は、私にあの背中を向ける女性の事を連想させた。自分の前の席に座る、あの黒い服と髪の彼女の姿を。
「左腕が、動かない」
「それはもしかすると、折れているのかも」
「多分」
 左腕の痛みに顔を顰めながら、自分が置かれている状況を考える。だんだんと意識もハッキリしてきたからか、記憶が泡のように湧いて、錫谷はここまでの出来事を思い出した。
 確か、バスに乗っていた筈だ。いつもの時刻の、いつものバスに。ただ、その日は錫谷にとって「いつもの事ではない」出来事が起こった。 
 突然運転席近くの男が立ち上がったかと思うと、懐から拳銃を取り出して運転手に突き付けたのだ。
 バスジャックだった。彼は大人しくしろ、と叫び、特に煩かった乗客を撃ち殺してみせると、連絡の手段を奪い、拳銃で運転手に指示させて公道から離れた人気の無いけもの道に錫谷達を乗せたまま連れて行った。
 けもの道を暫く走った先で、バスは廃トンネルに到着した。中に入れろと言われ、指示の通りにトンネルの中にバスを入れると、それから、彼は掌に収まるくらいの円筒状の棒を取り出し、先端のスイッチを押した。
 彼の動作から間もなく幾つかの大きな炸裂音がして、激しい衝撃がバスを襲い、前後左右上下感覚を失い転げまわった挙句に、錫谷は気を失ったのだった。
「どこまで覚えているか分かりませんが、トンネルが崩れた後、バスごと生き埋めになりました。最後に運転席側が瓦礫で押し潰れるので見たので、多分犯人と運転手さんは、もう……」
「それは、災難だったね」
 髪が揺れる音がする。恐らく、首を振ったのだろう。
「何も分からないよりは、良かったと思っています」
 凛々しい声だった。錫谷はそうか、と答える。強い女性だと思った。
「君は、私の前の席にいた子かな」頷くのが衣擦れの音で分かった。
「貴方が庇ってくれなかったら、今頃酷い目に遭っていたと思います。本当に、ありがとうございます」
 そう答えると、右手に、彼女の手が添えられた。冷たくて、つるりとした陶器みたいな肌の感触だった。だがこの暗闇の中で感じられた人肌に錫谷はひどく安心した。
「明かりは?」
「周囲を照らせるようなものはどこにも」
 荷物の類は全てバスジャック犯に奪われてしまった。彼が無事で無いということは、つまりそういった物資も瓦礫の中、ということなのだろう。
 全くなんて状況だ。錫谷は心中で悪態をつくと深く息を吐く。
 ふと気になって、錫谷は添えられた手の主に再び声をかける。
「他の人は?」
「返事もないところを見ると……」彼は思わず唸ってしまう。
「――時間は?」
「それも、分かりません」
 時計も無いと来たか。生憎錫谷も時計の類は持ち合わせていない。ただ、生き埋めになってから随分経っているには違いない。
 人間どうしようも無い状況に立たされると、やけに冷静に物事を考えられるようになるらしい。
――いや、自分がもう戻る必要が無いからかもしれない。
 むしろ、死んでしまえばまだ楽だったかもしれないと思うのは、いけないことだろうか。錫谷は胸中の言葉を呑み込んだまま、右手に添えられた彼女の手を握った。
「とにかく、ありがとう。君はどこも問題はないかな」
 錫谷の言葉に、篠森はええ、と口にする。
「怪我も何もありません」
「それは良かった。互いに心を強く持たないといけないね。大丈夫、きっと私達は助かるよ」
 心にも無い言葉だと思いつつも、錫谷は彼女の為に励ましの言葉を口にする。そう、自分は特にどうなっても構わないが、せめて彼女が生き延びる努力くらいはしなくてはいけない。
 そんな想いの彼とは裏腹に、彼女は別に良いんです、とぽつりと漏らした。微かに、握った右手に力が入るのが分かった。
「こうして、暗闇に包まれてしまいたいと思っていましたから。むしろ都合が良いです」
「どうして?」
「私は、私でなくなりたかったから」
 彼女の零した言葉に、錫谷は眉を顰める。
 自己否定の気がある子なのだろうか。それとも既にこの状況に諦観しているのか。
「何か、嫌なことでもあったの?」
 錫谷が尋ねるが、返答は無かった。添えられた彼女の手が微かに震え、首を振ったような気がした。錫谷は嘆息を一つしてから、彼女の手を握り返す。
「深くは聞かないが、こんなところにいたいなんて言うべきじゃない。そのうち、きっと光は差し込むだろうし、駆けつけてくれる人がいるはずだ。だから、頑張って耐えよう」
「ほんとに、来ると思います?」
 彼女の言葉は、やけに重たく、冷めて聞こえた。
「生き埋めになって、連絡の手段も無い。人気のない場所をわざと選ぶように走っていって、予定した通りに入り口を爆破して生き埋めにしたんですよ。あの犯人は確実に、心中を狙ったに違いありません。こんな状況で誰かがここに気づくまでに一体どれだけかかると思いますか。その間の水や食料はどうしますか。生きる為に必要なものが一つも揃っていない中で、励ましの言葉は何も意味を成しませんよ」
 坦々と吐き出された言葉に錫谷は何も言い返せなかった。一呼吸置いてから、彼女は再びあの、と口を開く。
「すみません、言い過ぎました」
「いや、私こそ無責任な発言をした。すまない」
 静寂が、再び暗闇を満たしていく。
 外の様子はどうなっているだろう。
 彼女の仄暗い感情にあてられてああは言ってみたものの、実際のところ自分にも外に希望は無かった。
 彼女の手から離れて、用心しながら錫谷は後ろに下がってみる。虚空を探りながら慎重に周囲を探ると、途中で壁に触れたのを感じた。錫谷は暫く壁の感触と強度を確かめてから、そこに寄り掛かる。身を寄せる場所が出来ると少し緊張が解けた気がした。全身の緊張が、吐息となって口から吐き出されていくのを感じる。
「まあ、私も実を言うと、そこまで外に出る必要性は感じていないんだ」
「どうしてです」彼女が隣にやってきて、壁に寄り掛かる音がした。
「この間仕事を辞めてね」
 彼はそれだけ言うと、特に必要もないけれど目を閉じた。
 上司との軋轢や、終わりの無い低空飛行を気合でどうにかしようとする社内の在り方、色々なものが重なった結果の退職だった。辞表を提出した時、君はきっとこの先もやれる、君の力を必要としている場所はあると励まされはしたが、そんなリップサービスをされるくらいなら、寧ろ好き放題言って貰ったほうがまだ気が楽だった。
 休日を削り、一日の勤務時間も増やし、上司の見当違いなオーダーを見直し、後輩も面倒を見ていたつもりだったが、努力しても結果に結びつかなければどうにもならない。
 会社を辞めてみると、使う余裕が無くて小金の貯まった通帳と、ダンボール一箱、会社から一駅離れたアパートだけしか自分には残らなかった。随分長く仕事を続けてきたつもりだったが、いざ振り返って見るとなんとも虚しく、一生を切り売りした結果の見窄らしさに溜息すら出なかった。
 恋人も気が付けば連絡が取れなくなっていたし、実家に帰るのも億劫だった。兄が家業を継いで、今更仕事が無くなったと実家に帰ってもただのお荷物としか思われないだろう。
 どうして、こうなったのだろう。
 ビール片手に部屋の片隅でつまみを口にしながら考えてみたが、結局答えは出なかった。自分と、世界と、タイミングが悪かった。結局のところそれだけだ。
 どうにも新しい仕事を探す気にもなれず、使わずにいた金があるからと小旅行にでも行って気を紛らわせようと考えた。リフレッシュすれば、何か新しい道も見つかるだろうと。そう思って着替えだけを詰め込んで、私は家を出たのだ。
 そうして、その結果がこれだ。男の唐突なバスジャックによって、人気の無い場所へ連れ込まれ、森の奥深く、使われた様子のないトンネルに入り込み、爆破。生き埋めになり、犯人は無責任にも早々退場。連絡の手段も無い。水も食料の余裕も無く、誰もいないトンネルの住人として八方を塞がれた状態に取り残されている。
 はは、と自嘲じみた笑いがこみ上げてきた。錫谷は壁に頭を預け、真っ暗闇の中天を仰ぐ。

 どうして、こうなったのだろうか。
「そんなの簡単だ」自身の言葉に、彼は返答するように呟く。
 自分と、世界と、タイミングが悪かった。
 ただそれだけの事なのだ。

「そういえば、君の名前を聞いていなかったね。私は錫谷だ。君は?」
 錫谷の問いかけに隣の彼女ははい、と返事をして、名前を口にした。
「篠森、篠森紫乃です」
 脳裏に再びあの後ろ姿が浮かんだ。
 黒鵜駅から、必ず同じ時刻にバスに乗車してくる、黒いチュニック姿と白い肌が印象的な女性。錫谷は必ず、座れる時は彼女の後ろの座席に座るようにしていた。
――紫乃。
 時々一緒に座る若い青年が、確かその名前を呼んでいた事があって、錫谷は彼女の名前を知っていた。
 初めて聞いた時から、素敵な名前だと思っていた。


     




   ニ

 シャッター音に合わせて表情が器用に変わっていくのを間近で見ていると、人の表情は本当に多彩なのだと思わされる。元を辿れば喜怒哀楽の四種の感情になるが、憂いを帯びた顔から少しねだるような顔、挑発的な顔、上見がちに覗きこむように相手を刺激する顔と、それに合わせた服装や背景によって切り取られた世界の断片は幾つにも意味を変えていく。
 恐らく写真部の部長、漆原雅人はそんな幾重にも変化する景色を捉えることに強く惹かれたのだろう。一眼レフを首から下げて次から次へとオーダーを出していく彼の、生命力に溢れた姿を見ながら、藍野蒼汰は思う。
「藍野君、レフ板!」
「ああ、すいません」
 急かされて蒼汰は慌ててレフ板を抱えると、彼に駆け寄っていく。
写真なんてまるで分からない蒼汰にも分かるよう出来るだけ漆原は丁寧に指示を出す。蒼汰は自分なりにその指示を飲み込んで作業に準じる。ぎこちないが、使えないわけではないらしく、漆原に苛立った様子は無かった。撮影は順調この上ない。
 レフ板を抱え、色とりどりの服装や表情をするモデル達を眺めながら、蒼汰はここに紫乃がいたらいいのに、と思う。
 黒いキャミソールチュニックと、赤いミュールを履いた彼女ならどこの景色が似合うだろう。日陰で後ろ手に手を組み、憂いを帯びた表情でこちらを見つめる姿が浮かぶ。艷やかでさらりとした黒髪の合間から覗きこむように彼女の瞳が現れる。水気が多くて、今にもこぼれ落ちてしまいそうな瞳だ。
 そして、彼女は美しい目をそっと細めると、朱に染まった小さな唇で穏やかに僕に言うのだ。

――愛してるわ、紅一さん。

「藍野君、悪かったな。どうも人手不足でね」
 機材の片付けを傍のベンチから眺めていた蒼汰に、漆原はそう言って柔和な笑みと共に缶コーヒーを差し出し、隣に座る。蒼汰は会釈と共にコーヒーを受け取る。
「僕でよければ構いませんよ。とは言え、雑用くらいしかできませんけどね」
「いいや、本当に助かったよ」
 漆原は歯を見せて笑うと、首から提げていたカメラを愛おしそうに撫でた。あの小さな箱の中に、彼が見た景色が切り取られ収められている。ここから更に精査し、何百と撮り貯めたうちの何枚だけが人目に触れる作品となるのだろう。そうやって、必要なもの以外を削ぎ落とすことで、写真は完成度を増していく。
 もしかしたら紫乃は、紅一という存在を削ぎ落されたからこそ、今の美しさを手にしたのかもしれない。彼の犠牲は、彼女を完成させるために必要だったのではないだろうか……我ながら阿呆な事を考えたものだ。
蒼汰は頭を掻くと、コーヒーを一息に飲んだ。喉元を嚥下していく熱と苦味が、胸中に沸き上がったくだらない思考を一緒に喉奥に押し込んでいく。
「……写真部、一度は解体する話もあったんだ」ぽつりと漆原は零す。蒼汰が目を向けると、彼は苦い顔を浮かべた。
「部長の『失踪』もあるし、篠森さんが誘拐された件を含めて問題視されてね」
 以前、紫乃と奏汰は、ここにいる彼漆原雅人と、写真部部長であった若葉萌の依頼で彼女をモデルに撮影会を依頼された事があった。紫乃は快諾したが、同時に隣町の黒鵜町近辺で度々起こっていた目だけを狙う異常犯罪者「視られたがり」の事件に巻き込まれてしまい、結果部長若葉萌が行方不明という形でこの事件は執着したのだった。
 そんな奇妙な顛末から、奏汰と漆原の関係は始まった。
「でも、どうにか出来たから今日もこうして活動している」
「そう、どうにか出来た」彼は繰り返すと深く頷いた。
「萌の才能に惹かれた部員も少なくはなかったから、彼女が消えた事で辞めていった部員もいたし、以前より質が落ちたと今でも言われるよ。ただ、残った部員は俺にまたゼロから始めればいいと言ってくれた。だから、俺もせめて引退までは頑張ろうってね」
 蒼汰の喉元にじわりと苦味が広がる。くだらない思考を洗い流してくれた熱だが、途端に冷めると胸元にべっとりと張り付いて離れない。
蒼汰は顔を顰めながらコーヒーの残りを飲み干した。
「ところで若葉さんは、【お元気】ですか?」
 萌か、と彼は呻くような低い声で言う。上体を屈め、膝上で両手を組むと、そうだなあ、と呟く。
「元気だよ」
「そうですか」
「安心して。篠森さんはもう視られたがりには狙われない」
「それだけ聞ければ、安心です」
 それっきり途切れてしまった会話の先を、二人は探そうとはしなかった。
 昼下がりのビル街は陽の光を受けて活気づいているように見える。都会程とは言えなくとも十分に栄えている町、それが白鷺町だ。
「そういえば、今日は篠森さんの姿、見えないね」
 蒼汰は目を細め、いませんよ、とだけ答える。
「ここ最近の動向が掴めなくて、最近は会えていません」
「良くも悪くも奔放過ぎるところか彼女にはあるね」蒼汰は頷く。
「多分、もう見なくなって三日は経つかな」
「それは、大丈夫なのか?」
 不安げに眉根を上げる漆原に、蒼汰はかぶりを振る。いつものことだ、問題は無い。どうせそのうち気が晴れて姿を現すだろう。
「彼女は大丈夫です。もう随分付き合いも長いから、慣れてます」
「ならいいんだが、あれだけ整った容姿がふらふらと歩いていたら、やはりというか、また面倒事に巻き込まれそうな気がしてね」
 俺が言うことじゃないな、と彼は付け足す。その通りだと蒼汰は思ったが、ここで彼を皮肉る理由も特に無いので、閉口したまま空き缶をゴミ箱に放る。缶は放物線を描いて縁に当たると、小気味良い金属音と共に跳ねて、ゴミ箱の中に飲み込まれて消えた。
「紫乃はよく面倒事に足を突っ込むけれど、大丈夫です。もし巻き込まれたとしても、無傷でちゃんと帰って来ます。それに、もし最悪何かがあれば、すぐに僕を呼んでくれますから」
「……その自信は、一体どこから来るんだい」
 漆原の問いに、蒼汰は答えない。
 恐らく、ここが境目だ。彼にこの先を言ったとして、理解はきっとしてもらえない。
 
 守れた蒼汰。
 
 守れなかった漆原。
 
 二人の境目は、ここなのだ。
 蒼汰はそっと微笑んだ。それは、余裕か、見方によっては勝ち誇っているようにも見える笑みだった。
 ビルの隙間から溢れ出す昼下がりの陽光を背に受けて、逆光気味に全身に陰を落とした蒼汰は、漆原に穏やかな視線を向ける。
 そして、閉ざした口の向こう側でこう答えた。

――紫乃は、死ぬ時は僕の目の前でと決めているんです。だから、大丈夫なんです、と。

 篠森紫乃は、藍野蒼汰の目の前で惨たらしく死にたがっている。

 藍野蒼汰は、篠森紫乃が自分の目の前以外では死のうとはしないと信じている。

 これは、果たして信頼関係なのだろうか。
 漆原は彼らの経緯を知らない。藍野紅一の存在もぼんやりと聞いた程度だ。だから、彼ら二人のこの歪な信頼関係が一体どこから生まれているのかを知り得ない。
「まあ、君が良いなら、俺はそれで良いんだけどな」
 笑みを浮かべ無言を貫き通す蒼汰に仄暗い水底を見た彼は、それ以上何も口にせず、問い正すことも無く、たった一言、そう口にしただけに留めたのだった。
「藍野君、また時々手伝ってくれるかな」
「ええ、いつでも連絡してください。暇であればお付き合いしますから」
 穏やかな表情に戻る彼を見て、漆原は少しだけ安堵する。
 出来れば、もう二度と見たくない顔だな、と彼は空の缶を放り投げながら思う。
 空き缶は、放物線を描いて、ゴミ箱の端に当たってからん、と小気味良い音と共に弾かれ、奥の生け垣に消えていった。

     



   三

 一体どれだけの時間をこの場所で過ごしたのだろうか。
 暗闇の中に取り残されていると、自分という存在すら危うくなっていく。少しづつ暗黒が身体を喰んでいくのだ。
――ごり、ごり、ぼり、ぼり。
聞こえる筈のない咀嚼音が耳元で煩く響く。
「篠森さん、起きているか?」
 横で、砂利の擦れる音がして、次にはい、と力無い声が聞こえてくる。
「錫谷さんは、少し眠れましたか?」
「いや、どうだろう。眠っていたのかもしれないし、眠れていないのかもしれない」
「どういうことです?」
「今ここが夢なのか現なのか、時々混乱してね。だから出来る限り起きていたいんだ。幸い腕の痛みもあるから着付けには困らない」
 幸か不幸か未だみしりと痛む腕のお陰で、鈴谷は自分を保っていられるようなものだった。恐らくこの痛みが感じられなかったら今頃発狂していてもおかしくはない。
「それにしても、篠森さん、君は強いね」
 自分よりも彼女の方が負担が酷いに違いないのに、不思議と彼女は平静を保ち続けている。壁際で寄りかかれる場所に移動しようと言ったのも、彼女だった。
「しかし、助けは来るのかな」
「どうでしょうね、どれだけ待っているか分かりませんが、少なくとも一眠りできるくらいの時間は経っているわけですから、期待はしていません」
「やっぱり君は、今でも」
「死んでしまえたら良かったと、そう思っています」
「そうか、まあ私も、こうして拾った命でも何も出来ないなら意味はないなと思ってしまうよ」
 どうせ、帰るところなんてないのだから。
「錫谷さんは、死ぬってどういうことだと思います?」
「どうしたんだい急に」
「人は、どうした時本当に死ぬんだと思います?」
 本当に、死ぬ。謎かけか何かだろうか。鈴谷は顎に手を充てながら、考える。
「生命活動が完全に止まれば、死だね。あとは、私という意識が無くなったら、死か」
「私は、誰からも忘れ去られることが何よりの死だと思っているんです」
 鈴谷は彼女を見た。いや、この暗闇で何を見るということもない。正確には彼女の声の方に目を向けた。暗闇の中から聞こえる声に、錫谷はまた、あの黒髪を思い出す。
「君は、誰からも忘れ去られたいのかい?」
「たった一人にだけ、憶えていてもらえれば、それで十分なんです」
「一人? 恋人かい?」
 無言。いや、頷いたのかもしれない。いずれにせよ錫谷はこの無言は肯定的なものだと感じた。
「恋人がいるのなら、生きて出ないといけないよ」
「いいえ、その必要はないんです」
「どうして?」
「それは、言えません……。でも、彼はそれで納得してくれるから」
 それは、一体どんな愛情の示し方なのだろう。少なくとも錫谷には理解が出来ない理由だった。彼女はもしかしたら、色々な意味で他者とは外れた価値観を持っているのかもしれない。
 だが、それゆえに興味が湧いた。
「君は不思議な考えを持っている子なんだね」
「そうですかね?」
 淡々とした言葉だった。
「でも、やっぱり大事な人がいるのなら、ここを生きて出た方が良い。もし死に顔を彼に見られたいのだとしても、直接、見えるところで死ぬべきだ」
「それは、難しいです」
「どうして?」
「彼は、何が何でも、私を死から遠ざけようとするから」
 紫乃の言葉に、錫谷は全く奇妙な人間関係だと思う。死にたい彼女に、死なせたがらない彼氏。そんな絶妙な、凹凸の嵌った関係が生まれるまでの経緯はどのようなものだったのだろう。
 暫くの無言の後、錫谷は、滔々と語り出す。
「紫乃さん、私ね、貴方が時折乗るバスの後部座席によく乗っていたんですよ」
「そう、なんですか?」
「ええ、貴方は多分知らないと思いますが、黒鵜駅のバス停からよく仕事先に行っていましてね、君が時折そのバスに乗るのを見ていました。全身黒い衣装でしたし、結構印象深いんですよ、貴方の姿は」
 何故語ろうと思ったのだろう。話題に尽きて困っていたからかもしれない。もしくは、自分が彼女をどれだけ見ていたのか、知って欲しかったのかもしれない。錫谷の中で逡巡する言葉を纏めながら、隣の彼女に告げていく。
「貴方を見るのが、一つの楽しみになっていたと言ってもいい」
「私がですか」
「ああ、多分君の恋人が口にしたんだと思うが、紫乃という名前も聞き覚えがあってね。だから始め名前を聞いた時、ああ、君が巻き込まれてしまったんだ、と思ったよ」
 ある意味では幸運な出来事だったのかもしれない。ただ、これでは錫谷は、彼女の瞳を見ることが出来ない。念願だった筈なのに、彼女が振り向く姿を見ることが、その瞳に見つめられることが。
 きっと、美しい瞳をしている気がするのに。
「篠森さん、私は貴方と話がしてみたかった。何の繋がりもない、ただ見ている側と見られている側だった私達がこうして関わり合えた。大してよくない人生だと思っていたけれど、こんな拾い物があったんだ。意外と、生きることも悪くないのかもしれない」
「そう、ですかね」
「幸いここが崩れる様子もありませんし、もう少し、希望を持って救助を待ちませんか」
 それが自分に出来る、最大の声掛けだった。返答のない暗闇をじっと見つめながら、錫谷は痛む腕に手をやりながら、待ちましょう、ともう一度語気を強めて言った。
「変なお願いを一つ、いいですか?」
「……なんでしょう」
「ここを出ることが出来たら、その時は私を見てもらえませんか?」
 その質問に彼女は随分と困惑しただろう。意図の見えない妙な頼みであることを、錫谷自身が何よりも知っていた。
 だが、意味はあるのだ。
 彼女の瞳を見れば、瞳に映る自分を見ることが出来たなら。
 また、一から何かに向かえるかもしれない。前に進めるかもしれないと、そう思った。

 依然として、暗闇は彼らを呑み込んだまま吐き出すことを由としない。
 抱かれた希望という名の獲物に目を光らせながら、彼の隙を狙っている。

     



   四

 黒鵜町は、隣の白鷺町に比べれば随分と閑散としている町だ。日中降りたシャッターが存在し、人通りも少ない。早朝と深夜の駅前が少しざわつく程度で、それ以外は息を呑んだみたいな静寂が横たわっている。そんな町だった。
 奏汰は改札を出て周囲を見回して、点在する人の影を確認すると、提げていた肩提げの鞄を背負い直してから、駅から歩いてすぐにある飲食店に向かう。
 ビルの影を縫うようにして歩いた先にある個人経営の店、一見すると喫茶店のようにも見える風貌だが、ステーキが特に旨いことで有名だ。といってもその有名もサブカルな客層の中でというだけで、決して大衆的な人気を見せているわけでもない。
「おや、奏汰君、久しいね」
「こんにちは、おじさん。ステーキ定食お願いしていいかな」
 お安いご用だ、と店主はにっこり笑ってみせると、鉄板の上で分厚いランプ肉を焼き始める。肉とスパイシーな胡椒の香りに包まれる店内をぐるりと見てから、奏汰は隅の席に腰掛けた。生憎客は自分一人だけらしい。昼時を避けたから少ないだろうとは思っていが、と奏汰は鞄から文庫本を取り出すと、栞を外してテーブルに置いた。
「今日は、紫乃ちゃんはいないんだね」
「ええ、僕一人です。今日はしっかりしたものが食べたくって」
 文頭から文末まで流すように目を走らせながら奏汰は答える。それは残念だ、と店主は言った。
「彼女の好きそうな珈琲が入ったんだがね」
「じゃあ、今度言っておきますよ」
「よろしく頼むよ」
 店主はああ、と思い出したような風に呟くと、奏汰くん、と声を掛けた。奏汰は文庫本に栞を挟むと顔を上げて、彼に向かって首を傾げてみせる。
「どうしたんです? 新しい恋人でも出来ました?」
 奏汰の言葉に店主は機嫌よく笑みを零すと「すごくいい子なんだ」と答えた。良かったら紹介したいんだが、どうだろう、と彼は奏汰に言うが、奏汰はにっこり微笑むと、首を横に振った。
「今日は遠慮しておきます。きっとその子も、おじさん以外には見られたくないだろうから」
「まあ、見せるとしても君だけだがね。そうか、残念だ」
「彼女とおじさんの情事の場に、僕は不要です」
 それに、今日はその話をしに来ただけではないんです、と奏汰は言った。本当は食事を終えた後に言うつもりだったが、彼が今日はずいぶんと会話に飢えているようなので先に話してしまおうと思った。
「最近、バスが消えた事故、あったじゃないですか」
 ああ、あの事件か。店主は焼き色の付いた肉を器用にひっくり返しながら答える。
「確か、バスジャックかもしれないと言われている事件だろう。黒鵜町をよく通るバスだったからね、憶えているよ。時刻通りに来ないバスが一本だけあって、調べてみるとバスが一台だけルートを逸れて忽然と姿を消したっていう」
「それです。あれって今どうなっているか、黒鵜町周辺で話があったりしますか?」
「いや、今のところバスが一台消えたってだけだね。ルート通りに走るかどうかなんてそう見もしないから、目撃もないらしい。ただ、そのバスが最後に停まったのがこの駅前らしいよ」
「黒鵜駅前改札に?」
「ああ、そこから順路を外れて消えた。流石に失踪事件として警察も動いてるらしいけど、恐らくこのまま未解決の流れにもなりそうだね」
「そんなもんですか?」
「そんなもんだよ。世の中の知られた失踪事件なんて、全体からすれば二割いけば良い方だ」
「流石ですね」
 やめてくれよ、と店主は困った顔をして、ステーキ定食を奏汰のテーブルの前に置いた。香ばしい匂いに食欲が刺激される。奏汰は彼に向かって頷いてから、ナイフとフォークを手に、定食を食べ始める。肉汁の溢れるジューシーな味わいに舌鼓を打ちながら奏汰は定食をハイペースに平らげていく。
「そういえば、また紫乃ちゃん、ストーカーに遭っていたらしいじゃないか」
 店主の言葉に奏汰は視線だけ送る。少し前に言っていたよ。と店主は腕を組むと、困ったように首を傾げる。
「あれだけ綺麗な子だから、よくある事なのかもしれないけれど、今回は特に気味が悪いストーキングだったみたいだね。紫乃ちゃんは相変わらず淡々とした様子で話していたけれど」
「慣れっこですからね。それで、気味が悪いって?」
「君が知らないなんて珍しい」
「最近顔を合わせていないものですから」
 喧嘩でもしたのかい、と尋ねると、喧嘩はしませんけど、似たようなものです、と奏汰は答えた。店主はなら喧嘩だよそれは、と溜息と共に口にする。
「手を出す気配はまるで無いらしく、彼女の帰路や家、彼女自身の周辺状況まで徹底的に洗っていたそうだ。特に彼女が驚いたのは、下着を購入した次の日に店で訪ねてみたら、全く同じサイズと色のものがもう一着売れていたらしい。偶然もあるものですね、なんて紫乃ちゃんは言って誤魔化したそうだが」
「全く同じ下着、ですか。どうするんでしょうね。他には?」
「それ以上はなんだか聞くのも申し訳なくてね。ただ、ずいぶん念入りに紫乃ちゃんの事を調べて、ストーキングしている輩がいるみたいだよ。まあ、私が言うのもなんだが、彼女は厄介事に巻き込まれやすい体質だからね。気を付けた方がいい」
「まあ、自ら足を踏み入れている部分もあるんですけどね」
「ところで君の方は大丈夫なのかい?」
「僕ですか?」
 店長は腕を組むと頷いた。「君も紫乃ちゃんと動揺妙な事に関わりやすい体質だからね」
 僕ですか、と蒼汰は暫く考えてみるが、特に思い当たる節が無い。
「……特に、無いですね」
 本当に、と訝る店長にそんな心配してどうするんですか、と蒼汰は苦笑する。
「……ああ、些細な事だけど、最近妙な電話があったな」
「電話?」蒼汰は頷く。
「なんだか妙な電話で、私を知っているか、どうして助けてくれないのかとしきりに言ってくるんですよ。でもそれも最近はぱったりと止んだな……」
「ほら、君もやっぱり紫乃ちゃん同様にそういう類に巻き込まれやすい体質なんだよ」
「あまり喜ばしいことではないですけどね」
 全て平らげると、店主はプレートを引き下げ、代わりに珈琲の入ったカップを彼の前に置く。
試しに飲んでみて欲しいんだ、と彼はウインクすると、厨房の奥に消えていった。
 奏汰は、白い陶器の中に収まり、湯気をたっぷり吐き出す珈琲を暫く頬杖を付いて眺めてから、やがて身体を起こすと一口飲んでみた。
ごくり、と喉元を黒黒とした熱が通り過ぎて行く。
 灼熱が通り抜けて残ったのは、ほんのりと香る甘さと、ざらつくような苦味だった。
「……うまい」
 奏汰はぽつりと、誰にも聞こえないような微かな声で、そう言った。

     

  五

 もう時間も分からない。空腹も限界を超えて、腹も鳴らない。乾いた喉を唾液で誤魔化そうとしても、その唾液が出ない。口の中が酷くベトついて気持ちが悪い。ざりざりと土の味がして、体中も汗と土に塗れて酷く重たい。
 よくここまで生きているものだと錫谷は思う。篠森にしても同じようなものだ。水も食糧も無いこの状況で、彼女は一体何故生きるのだろう。あれほど死にたいと言いながら、未だに生にしがみつく理由はなんだろう。
 錫谷は、そこに彼女を救う手がかりがある気がしていた。
 だが、それを掴もうにも自分に体力が残っていない。どうにか壁を掘る方法が無いか考えたが、手探っても手探っても何も見つからなかった。次第に疲労感だけが蓄積していって身動きが取れなくなり、土砂で出来た壁に身を寄せたまま、錫谷は呆然と闇を見つめていた。
「錫谷さん、生きていますか?」
 恐らくこれがなければ、生への執着をやめていたかもしれない。錫谷は傍の砂利を思い切り握り締める。
「……まだ、生きているよ」
 腕の痛みも麻痺し始めてきたが、大きな怪我を負っている分、恐らく危ないのは自分の方だ。消耗も彼女より早いかもしれない。
 錫谷は何か、打開策は無いかと必死に考える。だが、一つも浮かばず、やがて自嘲気味に笑みが漏れた。
「君に生きて欲しいと言いながら、私が先にこうなっては元も子もないね」
 独り言だった。
「私はね、ずっと君の後ろ姿を後部座席から見ていた。綺麗な容姿をしている子だってね。いつか、私のことを見てもらいたいと思いながら、後ろに座っていたよ。ある意味では彼女に執着的で、ストーカー気質なところがあったのかもしれない。ただ、勘違いしないで欲しいんだが、私が求めたのはそれだけだったんだ」
 がらり、と壁の石が少しだけ、崩れて彼に降ってくる。錫谷は手で顔に降ってきた石を払ってから、腕を伸ばして、壁を何度も叩く。弱々しい力でノックをひたすらに続ける。
「もし気付いていたとしたら、申し訳ない。あまりいい気分はしなかったと思うからね」
「いえ、そんな」
「でも、他に何をしようとか思ったことは一度も無いんだ。それだけは信じて欲しい。」
 君の瞳が見たかっただけなんだと彼は許しを乞うように言う。そして同時に、その想いだけで、錫谷は今をどうにか生き延びている。
 夢の中で見ることは出来ないと彼女は言った。
 違う、そうではない。見られたかったのだ。自分から見るのではなく、自分を見て欲しかったのだ。何もかも嫌になって投げ出してしまった先で、残った自分を肯定的に見ることができるとしたら、彼女の瞳の中に映る自分だけだと、そう思った。
「多分私は、結局のところ、自分が自分である為に君を欲したんだろうな」
「私を、ですか?」
「そう、私が君に生きて欲しいのは、その瞳で見つめられたかった。それだけなんだよ。そうしたら、自分をやっと認めて、進むことが出来る気がして……。だから、あの日、私は君がよく乗るあの時刻のバスを選んだ。もしかしたら、君とまた会えるかもしれないと、そう思ってね」
「また、瞳……」彼女は小さく呟く。
「そう、瞳だ」
 だから、彼女と共に生き残りたい。錫谷は、そう強く思っていた。
 がご、と鈍い音がした。
 彼の叩いていた辺りから寄りかかる背中にかけてが揺れ始める。
「錫谷さん!」
 声はするが互いに距離は分からない。とにかく壁から離れるんだと錫谷は絞りだすように言って、自分も身体を引きずるようにして壁から離れる。
 轟音、地震、呼吸が苦しくなるくらいの土埃。
 たった数十秒の内に錫谷の寄りかかっていた壁が崩れていく。


 崩れきって、再び静寂が訪れる。
 錫谷は瞑っていた目を恐る恐る開ける。顔の前に翳した手の向こう側に、暖かさがあった。
 光だった。
 一箇所から、スポットライトのように光が一筋差し込んでいる。始めその光はとても眩しく見えたが、何よりも久方ぶりの眩い光に、錫谷は感激した。
――まだ希望は繋がっているのかもしれない。
 気力を取り戻した錫谷は呻きながら、光の差し込む穴へと手を伸ばす。
「篠森さん! 光だ! 光が差し込んだ!」
 錫谷は這うようにして光の傍に身を寄せると、外に向かっておうい、おうい、ここだ、助けてくれ、と叫んだ。
 差し込んだ光の先は眩しくて何も見えないが、ここから先に外がある。どれほどの距離かは分からないが、少なくとも、目が使えるようになったのだ。これは大きな一歩だった。
――ざり。
 足音がした。
「ほら、篠森さ……」
 足音の方に目を向けた錫谷の言葉が止まった。
 目を大きく見開いて、それから彼は、ぽつり、と一言を漏らした。
 その瞬間、篠森は彼に駆け寄って、両手で抱えた石の欠片を、躊躇いなく彼のこめかみを殴り抜いた。
 ずん、と重たい衝撃と音が錫谷を遅い、やがて遅れて鈍い痛みが頭部を這いまわる。視界が赤い、ぬるりとした生暖かな液体がこめかみから溢れ出る。手で触れるとべっとりと不快な感触と共に赤黒い血液が錫谷の手を染めた。
 怯み、転がる錫谷の後頭部に篠森はもう一撃。
 絞りだすような鈍い悲鳴に構わず更にもう一発。
 すっかり弱り切った彼の身体に躊躇いなく跨ると、篠森は何度も彼を殴った石を頭上に高く高く掲げる。
 痛みと霞む視界の中で、意識を朦朧とさせながら錫谷は岩を掲げる篠森の姿を見た。
 光を背に浴びて、暗く逆光となった彼女の姿に、錫谷は夢で聞いた言葉を思い出す。

――貴方に、私の瞳は、きっと見えないわ。

 やめてくれ、と口にしたと同時に、彼は絶命した。
 だが、絶命してもなお篠森は、殴ることをやめない。
 頭部が歪に変形し生温く濁った血液を全身に浴び、時々手から石を滑らせては別の石を握りしめ殴る。飛び出した眼球を躊躇いなく潰すと、白濁とした液体が飛び散った。開いたままの口に鋭い石の破片を沢山突っ込んで更に殴ると、顎の外れる音がした。
 殴る。殴る。殴る。殴る。
 殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る。
 殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る。
 殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る。
 殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る。
 殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る。
 殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る殴る。








 殴り終わって、篠森は横たわる肉塊から身を離すと、乱れた荒い呼吸を整える。
 息を落ち着かせて、錫谷を見て、それから差し込む小さな光を見た。
 篠森は泣いた。こんなはずじゃなかったのにと言って、嗚咽混じりに泣き続ける。
 嗚呼、嗚呼、嗚呼……。
 嗚呼、嗚呼、嗚呼ゝ……。

 泣けども泣けども、望んだ結末は戻っては来ない。
 錫谷は死んで、篠森は生き残ってしまった。
 鈴谷は見て、篠森は見られてしまった。
 こんな筈では無かったのに。
 こんな筈では無かったのに。

――私は篠森のまま死ぬ筈だったのに。

 泣きじゃくる声は、空洞の中を谺して、やがて闇に吸い込まれていった。
 後に残ったのは、篠森と、差し込む光と、静寂だけだった。

     



   六

 嘗てはここも、隆盛を誇っていた時期があったのだろうか。
華やいでいた頃の風景すら想像出来ないこの寂れた商店街の中、蒼太は携帯を片手に人を待っていた。
 左右の店達は一つ残らずシャッターを閉じて、中には「ペナント募集」と書かれた張り紙も貼られている。どれもが貼り直しも無く茶色く朽ち果て、四辺を留めるテープすら浅黒く変色していた。
 かつ、かつ、と踵を鳴らして歩く足音が聞こえた。
 蒼太は携帯を鞄にしまって、代わりにナイフを一本取り出し、手の中で遊ばせる。
「君の方から連絡とは珍しいじゃないか、藍野蒼太」
 ジーンズのポケットに両手を突っ込んだまま、彼、【何でも屋】はにっこりと蒼太に笑いかけた。蒼太は憮然とした態度のままナイフから彼に視線を移す。
「少し、気になることがあって、貴方なら何か知っているかもと思ったんです」
「俺が? 何かあったのかい……例えば【篠森紫乃に関連したこと】とか」
 蒼太の目が細くなる。握り締めたナイフに力が篭もるのを何でも屋は確認すると、嬉しそうにニコニコと笑みを浮かべながら両手を上げた。「悪かった、悪かったよ」とこれまた嬉しそうな謝罪を彼は口にする。
「それで、君が知りたいのは一体何かな?」
「先日、バスが一つ失踪したのを知っていますよね」
「ああ、あったね」
「あの失踪事件に関して、分かっていることがあれば教えて欲しい。何より、どういった理由で引き起こされたものなのか、が特に」
「バス、ねえ。君に何か関係があるの?」
「ええ、紫乃も関連しています。恐らく、という程度だけど」
「へえ、その程度の情報でなんでまた、俺のところに来たのかな」
 愉快そうに彼はそう言うと傍のシャッターに身体を預ける。がしゃん、とシャッターが鈍い音と共に波打った。
「最近、紫乃の周りを徹底的に探る輩がいたんです。彼女のデティールにとにかく拘り、彼女の一挙一動に執着する奴が」
「ほう」何でも屋は興味深そうに頷くと腕を組む。
「初めは、篠森紫乃への興味や捻れた愛情故の行動かとも思った。ただ、行き過ぎた愛は恐らく、相手に識られたい想いに変わっていくものだ。通常のストーカーだって相手に対する強すぎる想いの果てに、手紙を送ったり、襲うに至っている」
「それは君の偏見だよ。もしかしたら、そういう見ること知ることにひたすら快楽を感じるストーカーもいるかもしれない」
「見てるだけならいい。ただ、このストーカーは彼女の買ったものと全く同じものを購入し、彼女の普段通る道を入念にチェックしている」
「それで?」
「ストーカー犯は、もしかしたら篠森紫乃自身なのかもしれないと、そう思ったんです」
 蒼太の言葉に、何でも屋は寄りかかるのをやめ、じっと彼の事を見つめる。蒼太は構わず、何でも屋の表情が変わるのを見て、やはり、と小さな確信を感じていた。
「貴方は誰かの欲望を叶えて、それを見るのが何よりもの楽しみだ。その為なら自分が被害を被らない範囲内でなんでもお膳立てをする」
「何が言いたい?」
「貴方は今回も、欲を埋めようとしているんじゃないんですか?」
 そう、例えば、と蒼太は彼を真っ直ぐに見つめて言う。
「【篠森紫乃】という欲望を」
 言い終えて、あくまでこれは僕の想像です、と付け足した。自分には推理力が無い。だから自分にできることは、疑える人間を片っ端から疑っていくことだけなのだ、と。
「あの時刻のバス、よく紫乃が乗るんですよ。時々僕と一緒ですが、彼女はほぼ毎日、ですかね」
 ほう、と何でも屋は言った。
「あのバスに乗っていくと、黒鵜から白鷺を抜けて、そのまま町外れの霊園に続いていくんです」
「この停留所から乗るのかい?」
「ええ、白鷺の停留所から乗るほうが数十分ほど早いですが、彼女は必ずこの黒鵜からノリます。わざわざ一駅乗ってでも」
「なんとも不思議な事だが、それも理由があるんだろうね」
 彼の言動に白々しさを感じながらも、蒼太は構わず頷く。からかうような彼の態度に構う必要は無い。
「僕の兄、紅一の墓参りに行く時だけなんですよ。あの時刻のバスを使うのは。だから、初めここで失踪の起きたバスの時刻を見た時、ああ、紫乃が絡んでいるかもしれない、と思ったんです」
 何故、この停留所から乗るのか紫乃に聞いたことがあった。彼女は蒼太を酷く冷めた目で睨むように見た後、少し考えてみれば分かることよ、と言った。紅一の墓参りに行くのなら、その前に彼の死んだこの町を通って行くのは当たり前じゃない、と。
 少しでも彼の匂いのする場所を通って彼に会いに行くのだと。
 だから、私が死んだ時は、必ず黒鵜町のこの場所から、紅一さんの場所に連れて行ってね。
 紫乃はそう言って、いつもの微笑みを蒼太に向けたのだ。
「最近のストーカーと、僕と紫乃が必ず乗っていた時刻のバスの失踪。偶然だとしたらびっくりですよ。誰かが仕組んだとしか思えない。そして、そんなプログラムを組める器用な人が、僕の周辺に一人だけいる。これは疑われても、文句は言えないと思います」
「なるほどね、だから俺が一枚噛んでいると。蒼太くんはそう思ったわけだ」
「別に当たっていようがいまいがどうだって良いんです。もしそうなら、詳細を打ち明けてくれませんか?」
 手にしたナイフが街灯の灯りを反射して無感情な殺意を宿す。蒼太は刀身に映る自分の顔を眺め、やがて何でも屋に視線を向けた。彼はナイフを差し向ける蒼太の姿に困ったような、しかしどこか愉快そうな表情を浮かべると、肩を竦めながら、一つ聞かせて欲しい、と口にした。
「もし俺がバスジャック事件に噛んでいて、それをこの場で君に打ち明けたとしよう。君にはどんな利があるのか、はっきりと聞いておきたいんだが」
 何を今更、と蒼太は思った。恐らく何でも屋は今の彼の心情さえもハッキリと理解している筈だ。蒼太が何のために動くのか、どういった理由があれば凶行に及ぶのか、何を最も重要視しているのか。
 知っていて、彼は口にさせたいのだ。
「決っているでしょう」
 蒼太の脳裏で、紫乃が意地悪く嗤った。
「そうすれば、紫乃にまた会えるからですよ」
 暗闇の中に閉じこもってしまった彼女と、再び顔を合わせるため。
 蒼太の中にあるのは、ただそれだけ。
 彼の答えを聞いた何でも屋は、口角を以上に釣り上げた気味の悪い笑みを浮かべると、うん、うんと唸るような声と共に大きく頷いた。
「良い答えだ、藍野蒼太」

   ・

 個室に案内されると、警官は少しお待ちください、と言って退出した。
 三畳あるかないかくらいの狭く息苦しい部屋に、彼女は一人座らされている。まるで空気から時間から世界から、自分の全てが遮断されてしまったような気分のする嫌な空間だ。
 無感情的な灰色の壁と床、テーブル。閉ざされたブラインドから微かに漏れる外の光。彼女はそれらをぐるりと見回してから、再び自分の手元に目をやって、早く帰りたい、と思った。
 少しして、扉越しに革靴の床を叩く音が聞こえた。その音は次第に大きく、深く彼女の部屋にまで響いてくる。確か、昔聞いた時もこんな音だった憶えがある。いつ聞いても、慣れない音だ。このまま通り過ぎていってくれたらいいのに。
 ドアノブの回る音がして、次に仏頂面の体格の良い男性が失礼、と低い声と共に扉を開けて入ってきた。彼女は腰を上げて小さくお辞儀をする。彼はお構いなく、と彼女に両手で座るよう指示すると、向かいの椅子に腰掛けた。
「わざわざ来て頂いて申し訳ない」
「いえ、構いません。それで、私は何をお答えすればいいのでしょうか」
 仏頂面の男性は頬を指で掻いてから、持ち込んだファイルをテーブルに置く。向かい合うようにして座っている彼女に見やすいように、逆さにする。
「単純な確認なんです」
「確認、ですか」
「ええ、以前起きたバスジャック事件、知っています?」
「……いいえ」
 ニュースには疎いもので、と彼女は首を傾げながら恥じらいのある笑みを浮かべた。男性は顔を歪めた後、咳払いをして改める。
「それで、この事件は、バスジャック犯が運転手その他を人質に進路を指示し、予め人気の無い、もう随分使われていなかったトンネルにバスを停めさせ、心中を図ったようなんです」
「心中、ですか」
「犯人と思われる男の遺体から遺書と、脅迫に使ったとみられる拳銃が見つかりましてね。随分と徹底していたみたいで、彼の鞄には乗客の連絡手段が取れるものが全て詰まっていた」
「心中というのは、遺書から?」
「ええ、死にたいが一人は嫌だとかなんとか、まったくもって勝手なことが書き殴られていましたよ」
「つまり、乗客は全て亡くなったんですか?」
 彼女の問いに、男性は首を横に振る。そこが面倒なところなんです、と続けて、彼は頬を指で掻く。
「一人だけ、生き残りがいましてね。光も無い暗闇の中で、五日もずっと閉じ込められたままで、酷く衰弱している状態でした」
「それは、良かったです」
「まあ、同時に生き残りの乗客の傍に明らかに落盤とは違う死因の遺体が出てきましてね、乗客の状態が安定してからその辺りも確認しなくてはならないんです」
 ああ、これは貴方には関係の無い話でした、と彼は喋りすぎてしまったと頭を下げる。構いません、と彼女は変わらず答える。
「それで、私に聞きたいことは、その事件のどの部分なんですか?」
「それが、ね」
 男性は暫く言いにくそうに顔を渋めていた。どうにも困った様子の彼の表情を見ながら、気にせずはっきりと仰ってください、と言った。言えることがあるのなら、全て嘘偽りなく答えます、と続けた。透き通るような真っ直ぐな声だった。
 男性は暫く彼女のその瞳を見つめていた。水分の多い、今にも零れ落ちてしまいそうな綺麗な瞳が、男性の姿を映している。彼はやがて頬を掻くのをやめると、少し変な質問ですが、という前置きと共に、口を開いた。
「貴方は、篠森紫乃さんで、間違えありませんよね?」
 彼の問いかけに、彼女、篠森紫乃は困惑した。
「ええ、私は篠森紫乃です」
「身分もこちらで確認させて頂いていますし、間違えはありませんね。いや全く変な質問で申し訳ありません」
「どうして、こんな質問を?」
 いやね、と男性はファイルを開く。
 そこに、黒髪の、目は切れ長で、鼻の高い女性の写真が貼り付けられていた。紫乃はその顔を見て、更に分からないといった顔をする。
「それね、救出された乗客なんですよ」
「この女性が、生き延びた方ですか」
「彼女、救出からずっと『私は篠森紫乃だ』と言い続けているんです」
 紫乃は顔を上げた。男性は頬杖をつきながら指先でその写真を指し示す。
「確かに髪型や服装は貴方に似ているが、顔立ちに関しては全く別人だ。なのに彼女は、救出された時から、現在まで貴方の名前を騙り続けている。身元はすぐに分かりました。親とも確認が取れました。ただ、本人に何度確認させても、そんな名前じゃない、私は篠森紫乃だ、と言う」
「私になりきっている、と?」
「私達は貴方の事をよく知りませんが、篠森紫乃と名乗る彼女が口にしている事を幾つか確認させていただけたらと思うのです。ちなみに、ここ最近自分の身辺をついて回るストーカーにつけられたような事はありませんでしたか?」
「いえ、暫くは家を出ていませんでしたから。それに、ストーカーもしょっちゅうなんでどれがどれだか」
 紫乃の言葉を冗談と受け取ったのか、男性は乾いた笑いを一つあげると、では、と言ってファイルを自分のもとに引き戻し、胸ポケットに刺さっていたペンを抜いて、くるりと一度右手の中で回転させた。
 多分、藍野蒼太がやったのだと、ペンを回す彼の手元を見ながら紫乃は思う。
 【篠森紫乃】を唯一の生存者にしてみせたのは、恐らく彼だ。

――だって彼は、私を生かすことに必死な人なのだから。

     



   七

――つまり貴方は、そうしてこの場所に閉じ込められたと、そういうわけですね。
 蒼太の問いかけに、はい、と返事が聞こえた。
 すっかり衰弱した、消え入りそうな女の声だった。
 落盤の危険性があり、立入禁止になった区域に足を踏み入れた時、蒼太は崩れたトンネルの入り口を見て、ここだ、と思った。随分と人気のない場所まで行ったものだ。恐らく相当入念に場所を検討したのだろう。
 黒鵜駅からここに辿り着くまでに大体二時間は使った。少なくともこんな辺鄙な地、好んで来るような者はいないだろう。深夜に誰かが屯するにしても山奥までわざわざ行くのは少々不便だ。
 土砂を入念に見て回っていると、一箇所、円筒状に奥へ伸びる穴を見つけた。蒼太は暫くその穴をのぞき込むと、やがて一言、誰かいませんか、と口許に手で覆いを作って声をかけてみた。
「……誰、ですか」
 声がして、蒼太は思わず笑ってしまった。
「良かった生きていて、間違っていたらすみませんが、貴方はもしかして、篠森紫乃さんではありませんか?」
 彼の言葉に、彼女は酷く動揺したようだった。微かに漏れた吐息からそれが感じられた。
 心配しないでください、と彼は続けて言う。
「貴方に教えて欲しい事と、返してほしいものがあるんです。それが終わったら、僕は帰りますから」
 穴の奥の声の主は、暫く黙り込んでいたが、やがて、分かりました、と言った。
「何を……聞きたいんですか?」
「貴方のお話を聞きたいんです」
「私の?」
「貴方が篠森紫乃になるまでの、お話です」
 彼女は息を飲んでいるようだったが、やがて飲み込んだ緊張を溜息を共に吐き出すと、観念したように、話します、と答えた。

   ・

 始めは、ただ篠森紫乃が魅力的で、特に魅入ってしまうほど綺麗な瞳が好きで、何か機会を作ってお近づきになりたかっただけだった。
 彼女はよく黒鵜町からの、ほぼ同じ時刻のバスを利用していたから、それを機に声をかけられたらと思い、自分もそのバスを利用するようにした。ただ、隣に座るのは憚られたので、隣の座席に座った。何か共通の話題があればいい。彼女の話に耳をすませながらその切っ掛けを待ち続けた。
 彼女は死んだ恋人がいて、今は恐らくその弟と付き合っていることをその時の会話で知った。墓参りにもたまに彼は同行していたし、会話の端々にも気を許した風があったから、恐らくそうなのだろうと思った。
 バスでの会話を聞いている内に、もっと彼女のことが知りたくて堪らなくなり、墓参り後の彼女の帰宅先まで行ってみた。実家暮らしで、優しい父と母のいる家庭。暖かいが、その暖かさの中で紫乃はずっと、寂しそうにしていた。恐らく紅一を失った悲しみを共有できる蒼太という存在が大きかったに違いない。
 黒い服を好むから、自分も黒い服で身を包んでみた。彼女がよく着ているブランドの物だ。もしかしたら、これで隣に座っていたら声を掛けてもらえるかもしれない。私も好きなのだと、会話の切っ掛けが掴めるかもしれない。
 服装だけで駄目なら、好きな食べ物、好きな嗜好品、ついやってしまう仕草、黒髪にして、彼女の髪の手入れの仕方を自然と聞いてみるのはいい方法かも知れない。歩き方、異性との接し方、声の出し方。自然なのだけれど、どこか蠱惑的で、少し怖さも感じる風に。同性とは穏やかで柔和な笑みを心がける。
 彼女の興味を惹ける努力をしているうちに、気が付くと鏡の中に篠森紫乃がいることに私は気がついた。憧れていたあの姿が、まさに目の前にあって、艶のある髪も、白く透明な決めの細かい肌にも、自分の手で触れることが出来た。
 そうか、篠森紫乃に近づくのではなくて、篠森紫乃になってしまえばいいのだと気付いてから私は彼女になりきることに没入した。
 【篠森紫乃】がしないことは決してしない。それまで【私】がやっていたことでも、彼女の行動に該当しないものは排除する。だって私は【篠森紫乃】なのだから。そうして【私】は、【私】という存在を消去して、【篠森紫乃】へと自分を塗り替えていった。
 だが、限界もあった。瞳だ。あの瞳だけはどうしても再現が出来ない。藍野蒼太の隣にいることも出来ない。そのどうしようもない不完全性が、何よりも【篠森紫乃】を苦しめた。
 辛かった。結局自分が【篠森紫乃】でしかないことが辛かった。どこまでいっても、本物が邪魔をする。本物のあの瞳が憎くて、憎くて堪らなかった。だから「視られたがり」の事件で攫われた時は、【篠森紫乃】と篠森紫乃がこれでようやく同等になると思った。
 だが、そうはならなかった。結局彼女はその瞳のまま戻ってきて、生活を続けていた。偽物なのに、そこにいるべきは【篠森紫乃】である筈なのに、瞳が【私】の邪魔をする。
 篠森紫乃の匂いが足りない。どうにかして自分こそが【篠森紫乃】である証拠を手に入れる必要があると思い、すれ違い様に彼女の鞄から定期入れを盗んでみた。学生証には【私】が映っていた。いや、瞳だけが違う。ここでもまた瞳か。憎い。
 そんな【篠森紫乃】と同等になっていったある日、【私】の周囲でおかしなことが起こり始めた。
――【篠森紫乃】を執拗に追い続ける者が現れたのだ。
 家にいても、外出をしていても、後ろを振り向くとそいつはいて、どうにかして撒こうとしても【彼女】は追ってくる。
 黒鵜駅からのバスで隣に座ってきた。
 死んだ【私】の恋人の墓参りにまで付いてきた。
 黒い服を好む【私】を真似て黒い服も着ているようだった。【私】がよく着るブランドで揃えられている。もしかしたら、これで隣に座っていたら声を掛けてもらえるかもしれないとでも思っているのだろうか。私も好きなのだと、会話の切っ掛けが掴めるかもしれないとでも思っているのだろうか。そんなわけない。ただ気持ちが悪いだけだ。
 服装だけで駄目ならと、好きな食べ物、好きな嗜好品、ついやってしまう仕草、黒い髪。歩き方。異性との接し方。声の出し方。
 まるで彼女は、【私】に取って代わろうとでもしているようで、いずれ【私】が取って代わられてしまうような気がして、怖くて怖くて堪らなかった。
 気持ち悪い、何故このストーカーはこんなに【私】の事を付け狙うのか。
 我慢しきれなくなって、藍野蒼太に電話を掛けてみたが、何度掛けても、助けを訴えても彼は何も返してくれなかった。無言で電話を切るだけ。【私】がこんなにも辛い目に遭っているのに、何故彼は助けてくれないのか。このまま死んでしまったら、一番困るのは蒼太である筈なのに。
 誰にも助けの声が届かなくなって、やがて【私】は死のう、と思った。【私】が【篠森紫乃】であるうちに。あのストーカーに取って代わられないうちに。
 そう考えてから、どうやって死のうか考えていた時、彼が現れた。ジーンズのポケットに手を突っ込んだまま、彼は愉快そうに笑っていた。
「君は間違いなく【篠森紫乃】なのに、苦しいよねえ」と、彼は言ってくれた。
 そして、ストーカーに取って代わられる前に、【篠森紫乃】として死ねる場所を誂えてくれた。
 きっとうまくいくと思った。普段から彼は【私】の後部座席によく座っていたから、きっと【私】と一緒に死んでくれる。【篠森紫乃】と一緒に……。
 だが、それはうまくいかなかった。
 彼は、最後に【私】を見て言ったのだ。
「君は誰だ」と。

   ・

 彼女の話を聞き終えて、蒼太は一つ、呆れと共に溜息を吐いた。
「篠森紫乃さん、君は一つ、間違えている」
 穴の向こうの女性は、何をですか、と尋ねた。すっかり弱って、着飾る余裕もないらしい。
「藍野蒼太は、紫乃が生きることに執着的なんですよ」
 蒼太は興味なさげに穴の傍に腰掛けると、小さく溜息をついた。
「篠森紫乃として死にたいと思った時、きっと貴方は自然と死ぬ時に必ず藍野蒼太が必要だと思ってしまった。貴方が紫乃の代替を演じるように、蒼太の代替をその場で作ってしまったんだ。いや、もしかすると貴方の紫乃という在り方が自然と蒼太を生み出したのかもしれない」
 穴の向こうの女性は、何も言わなかった。蒼太は構わず続ける。
「貴方が殺した彼の中の篠森紫乃という存在への執着は、恐らく後部座席に座り続けていたことからして、見てもらうことだったのかもしれない。自分から見るのではなく、相手から見てもらうという行為。暗闇の中で死にたがる貴方と、陽の下で篠森紫乃に見てもらいたい彼。ほら、篠森紫乃を死なせたがらない藍野蒼太の代替の出来上がりだ」
「……うるさい」
「紫乃として死のうと考えたことからまず間違えだったんですよ」
「うるさいっ!」
「紫乃はそんな怒鳴り方をしませんよ」
「うるさいうるさいうるさいっ!」
「まあ、君が篠森紫乃であろうがなかろうが僕はどうだっていいんだ。大切なのは一つだけ」
「何よ! 散々私の事を偽物扱いしておきながら! これ以上何を欲しがるの!」
「定期入れだよ。君が盗んだ定期入れ。あれ、どこにあるのかな? 僕はそれが欲しいだけなんだ」
「あ、あれは! 私のだ!」
「もし、あれを返してくれるなら、この状況をひっくり返して上げてもいい」
 蒼太の言葉に、穴の向こうの女性は息を呑んだようだった。
「僕が、君を本物の篠森紫乃だと認めよう。そうしたら君は、安心して死ぬことが出来るだろう?」
 彼の提案に、穴の奥の彼女は動揺しているようだった。
「私が篠森紫乃だと、認めてくれるの?」
「君が定期入れを返してくれるならね」
――沈黙。
――黙考。
 篠森紫乃であると認識してもらえることが、どういうことかを必死に考えているに違いない。
 やがて、穴の中から、いいわ、という返答と共に、住所と、スペアキーの隠し場所が聞こえてきた。蒼太はそれをメモすると、ありがとう、紫乃、と言った。
「じゃあ、僕は行くよ。じゃあね、紫乃」
「うん、ありがとう……さよなら」
 誰かに紫乃と認められたまま死ぬこと。
 彼女にとって、これ以上の幸せは、無かった。

   ・

 黒鵜町に戻ると、蒼太は彼女の示した住所に向かった。
 人気の無いアパートの二階の奥から二番目の部屋。階段を登って扉の前に行くと、傍に置いてある鉢植えを手に取って裏返す。テープで貼り付けられた鍵を剥がして錠を開け、ノブを回して扉を開き、蒼太は足を踏み入れる。


篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。
篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。篠森紫乃。


 写真、コルクボードに貼り付けられた「正しい仕草」「正しい食事」「正しい寝方」のメモ書き。キッチンの食器も、蒼太の見覚えのある紫乃の愛用品で、箪笥の中にあるものも彼女の普段よく着ている衣服だった。
 蒼太はぐるりと周囲を見て回ってから、部屋の中央のテーブルに置かれた紫乃の好きな洋菓子店のクッキー缶を見つけると、手にとって開ける。中には、赤色の二つ折りの定期入れが入っていた。紅一さんにねだって買ってもらったと言っていた定期入れだった。
 中を開いて、肝心な物がちゃんと残っているか確認する。
 粉末の詰まったビニール袋は、変わらずそこにしまわれていた。
「……兄さん」
 袋を見つめる蒼太の表情は、どこか悔しそうで、悲しそうなものだった。蒼太は暫く粉末を見つめた後再び定期入れにしまい込むと、肩提げ鞄の中にしまい込んで、代わりに携帯を取り出す。
 一、一、九.
 掛けた電話はすぐに繋がった。
「……すみません、黒鵜町の外れで崩れたトンネルを見つけたんですが、そこから人の声が聞こえた気がして……。もしかしたら、誰か生き埋めになってるんじゃないかと思って怖くなって……。はい、はい。そうです。お願いします」
 言い終えて通話を切ると、蒼太は一度深く息を吸って、吐き出すように独り言を呟いた。
「言ったじゃないか。僕は、篠森紫乃が死ぬことを、何よりも嫌うんだって」
 どこかからサイレンの音が聞こえた気がした。
 心をざわざわと浪立たせるサイレンの音を聴きながら、蒼太は再び携帯に番号を入れて、耳に当てる。
 繋がると、同時に、彼は言った。
「何の用?」
「やあ、元気か気になってね」
「……用が無いなら切るわよ?」
「そう怒らないでよ、紫乃。もう君が部屋に引きこもる理由が無くなった。そういう連絡だ」
 無言の後、あったの、と紫乃は囁くように蒼太に尋ねた。
 蒼太は携帯を耳に当てたまま頷いて、あったよ、と返した。
「見つけたよ。君が落としたって言っていた定期入れをね」
 受話器の向こうの彼女の反応に、蒼太はとても満足そうに笑みを浮かべた。


     



   八

 警察署から出てきた紫乃が顔を上げると、蒼太の姿があった。肩提げ鞄を身に付け、ポケットに手を突っ込んだまま、彼は遥か遠くをじっと見つめていた。きっと、紅一さんの事を考えているのかもしれない、と紫乃は思いながら、蒼太君、と声をかけた。
「お疲れ様」
「迎えに来てくれたのね、ありがとう」
 構わないよ、と蒼太は微笑んだ。紫乃は彼の笑みに構わずに歩み寄ると、その手を掴む。
 繋いだ手の感触は、どちらも酷く冷たかった。互いに少しその冷たさに驚いて、でも口に出すことはせず、冷めた目で紫乃は蒼太をじっと見つめる。今日は特に冷えるね、と蒼太は苦笑しながら紫乃に言った。
 そうだ、と彼は言うと、鞄に手を突っ込み、赤みがかった二つ折りの定期入れを取り出して紫乃に差し出す。彼女は大きく目を見開いてからそれを受け取り、愛おしそうに撫でる。
「多分、あのバス停近くで落としたんじゃないかと思ってさ。行ってみたらやっぱり落ちていたよ」
「バス停に?」
 疑るような紫乃の声に、蒼太はにっこりと口許に笑みを蓄えると、頷いた。
「そう、黒鵜駅前のバス停に」
「……見つかって良かったわ」
 紫乃は定期入れを開いて、カード入れになっている箇所から、小さなジップ仕様のビニール袋を取り出す。灰色の粉末の入ったそれは、傍目から見れば粉薬のようにも見える。
 紫乃は袋をまるで祈りでも捧げるかのように額にあてると、ごめんなさい、と囁くように口にした。
「――もう二度と無くさないわ、ごめんなさい、紅一さん」
 袋の中の粉末に許しを請う彼女の姿は、やっぱり綺麗だと蒼太は思った。多分、紅一に対する執着的な姿が何よりも彼女を綺麗にしているのだろう。それ故に、死すらも引き寄せてしまう。
 袋にそっと一度口づけをしてから、紫乃は再び定期入れにしまい込み、大事に鞄の中に入れた。恐らく明日にはもっと別の、誰にも盗られる心配の無い場所に移っている事だろう。
 再び顔を上げた紫乃は、普段通りの落ち着いた、しかしどこか妖艶さのある綺麗な女性に戻っていた。彼女はその今にも零れ落ちてしまいそうな瞳で蒼太を見つめると、帰りましょう、とだけ言った。蒼太は頷いて、隣に並ぶ。
「蒼太君」
「何?」
「私はいつ、死ねるかな」
「どうだろうね。人がいつ死ぬかなんて、僕には想像もつかないから」
「そうね。でも、きっといつかは死ぬわ」
「どうやって?」
「秘密」
「秘密、か」
「だって、言ったらまた貴方が私に嫌われようとするに違いないから」
 その言葉に振り向いた彼の表情を見て、紫乃はとても愉しげに目を細め、彼の頬にそっと手を這わせた。
 とても冷たい手だった。心の底まで冷え切ってしまいそうな程の、冷たい冷たい、悲しい手だった。
「貴方の前で死ねる日が、待ち遠しいわ」
 紫乃のその言葉に蒼太は返答しなかった。
 添えられた彼女の手に触れながら、目の前で嗤う彼女に、蒼太も笑みを浮かべた。
 相変わらず、綺麗な瞳だと思った。


【――新聞朝刊より抜粋】
 ○日、○道奥の封鎖されたトンネルの奥で、黒鵜駅を発車してから行方不明となっていたバスが発見された。
 バスの中から出てきた死者の一人が書いた手記から、無理心中を狙った犯行であることが分かった。死者――名。
 また、唯一の生存者はバスから少し離れた場所におり、生存者の傍から錫谷涼介(三十五)が遺体となって発見された。恐らく落盤とは別に、何か二人の間で揉め事があったものと考えられており、現在救出された女性への確認を急いでいる。
 救出された女性は衰弱と錯乱状態にあり、救出された際も「お願いだから明かりを消して欲しい、見ないで欲しい」と何度も口にしており、現在も回復を待っている状態だ。
 彼女の身元は、未だ確定していない
  
  
     終

       

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