Neetel Inside 文芸新都
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 横浜の叔父夫婦の家に頼まれて蟻村家が茉子を預かった時、有は六歳、茉子は十五歳だった。夏休みもこれからというある暑い日。当時叔父と叔母は離婚調停の最中で、親権争いの決着がつくまで預かってくれる親戚を探していた。茉子も両親の不仲や学校でのいじめなどでストレスを溜め込んでおり、自然があって人もそれほど多くなくリラックスできる環境、ということで栗江市の蟻村家に白羽の矢が立ったのだ。わざわざ一家三人総出で家を訪ね、何度も土下座をする叔父夫婦の切実さ、それを目の当たりにして断るに断れず、引き受けてしまった母の戸惑った顔と、それとは対照的に終止ポーカーフェースで通した父が今でも脳裏に焼き付いている。
 それから一週間後に、大きなスーツケースを持った茉子が有の家の門を叩いた。今日からどれだけの期間かは定かではないが一つ屋根の下で暮らす少女を一目見ようと出迎えに行った有の前に、茉子は不機嫌な顔をして立っていた。父が代わりに運ぼうとしてスーツケースに手を触れたが、その手を思い切り引っぱたかれた。それでも父は顔色一つ変えなかった。家に上がり、一通り挨拶を済ませると、茉子は自室として与えられた仏間に閉じこもって泣き出した。その日はそれきり部屋から出てくることはなかった。

「ねー、どうしたの?」
 翌日、朝食の席に姿を現さなかった茉子にふすまの外から有が尋ねた。無邪気に、何も考えずに。今になって思い起こせばそれが間違いの始まりだったのだろう。その日以来、有は茉子に目を付けられるようになる。
「……うっせぇ」
 意外と近くで声がした。どうやら茉子はふすまに寄りかかっていたらしい。返ってきた返事はもの静かだったが、苛立っているのも伝わってきた。それでも、茉子のことが気がかりだったので、もう一度声をかけてしまった。
「ご飯食べなきゃ、体に悪いよ」
 途端にふすまが乱暴に開き、なかから漫画が一冊飛び出してきた。ふすまのすぐ前に立っていた有には避ける暇もなく、漫画の背表紙が額に当たった。あまりの痛さに声が出ず、額を押さえながら座り込んだ有に、茉子は笑いながら言った。
「人の話をちゃんと聞かねぇからこうなんだよ、バーカ」
 その底抜けに明るい声と顔に、有は戦慄を覚えた。痛みと恐怖のあまり、有の目からこぼれる涙の量が増した。逃げようとも思ったが、足の力がすっかり抜けてしまった。
 不意に、自分の泣き声以外にもう一つ、すすり泣く声が聞こえてきた。不思議に思って前を見ると、茉子も床に伏せて肩を震わせていた。
「あんたが、悪いんだよ……。私は、私は、何も悪くないんだよ?」
 そう言う茉子は語調がすっかり狂っていて、その言葉はあまり日本語らしく聞こえなかった。突然過ぎる変容に有が面食らっていると、茉子が抱きついて前髪をかき上げた。漫画が当たった辺りが赤くなっている。茉子はそこに口づけて、軽くチュッと音を立てた。
「痛いの痛いの、飛んでけー。痛いの痛いの、飛んでけー」
 定番のあやし言葉を口ずさみながら優しく微笑む茉子の顔を見て、有は思った。
 この人も、寂しいんだ。
 離婚やいじめといった背景を知る由もなく、感情的な印象だったが、有は友達が出来る前の自分と、気心の知れた人間が一人もいない土地に半ば強制的に送られてきた茉子を、無意識のうちに被らせていた。実際、二人の周りに漂うムードはよく似ていた。
 寂しい思いをしている人間が笑顔を作ると、綺麗に見える。茉子もその例に漏れず、まだ泉のように潤んだその目も、肩にかかる真っ黒な髪も、薄く頼りない唇も、砂糖菓子のように脆く、儚い。だが、それだけではない。その時抱いた感情は単なる美意識の範疇から一センチはみ出していた。親への愛情でもなく、仲良くしていた同級生グループ内の友情でもないことが、子供心にもおぼろげに分かった。その事実が有の内側をかき乱した。
 有の初恋の相手は茉子だ。有の初恋の相手だと親が思っている当時の仲良しグループのリーダー、モトヒロ君が実際には二番目だと知っている唯一の人物もまた、茉子である。
 

       

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