Neetel Inside 文芸新都
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 茉子は時には粗野で暴力的になり、それ以外の時は繊細で消極的になった。後者の茉子は有に心を開いて話し相手をしてくれていたが、前者の茉子は誰にも扱い切れないくらい刺々しかった。有はふすま越しに話しかけて声音で機嫌を確認し、それに応じて対応するように心がけた。結果として肉体的に危害を加えられることはなくなったものの、虫の居所が悪い茉子に罵倒されることは相変わらず頻繁にあった。予測不能の茉子の性格に一番混乱しているのは茉子自身なのだと理解した有は、それでも耐えた。
 しかし、親は徐々に痺れを切らしつつあった。それを察知した茉子が八月の中頃の暑い朝、思いの丈をぶつけた。
「どうせ、私は邪魔者なんだろ? だったら無視しろよ! こっちだって、そうしてもらえた方がずっと楽だ!」
 両親はなんの返答もしなかった。直ちに茉子の指示に従って、無視し始めたのだ。母が有の手を引いて、父と一緒に血相を変えずに仏間の前を離れた。見上げた両親からの無言の圧力を感じて、有は仏間に近づけなかった。
 その晩はなかなか気温が下がらず、熱帯夜になった。寝苦しさのあまり有は目を覚ました。時計の針は三時半を指している。有は一階に降りて、台所で水をグラスに注いだ。開いたままの窓から吹き込む微風は湿っぽいだけで、涼気もなにもあったものではない。水を一息に飲んだ有は、ますます目が冴えるのを感じた。
 お姉ちゃん、どうしてるかな。
 朝の出来事が鮮明に思い出される。我が子のように親切にする親と、それを拒絶する茉子。茉子は今どうしているのだろう。
 仏間まで忍び足で歩き、ふすまに耳を当てる。茉子は眠らずに泣いていた。散らかった思考で、不安定な呼吸で、言葉が揺らぎながら拡散し、耳に入る。
「本当に無視、しないでよ……。本当に、無視、しないで、本当に……」
 お姉ちゃん。思わずそう呼んでふすまを開ける。茉子はうつ伏せで布団に包まって、枕にしがみつき、顔を埋めていた。
「……有。どうして、有も一緒に、無視、したの?」
 姿勢を変えずに、茉子は訊いた。
「お父さんやお母さんを困らせるようなお姉ちゃん、嫌いだもん」
 口に出してみると、予想以上に自分の言葉が冷たく聞こえた。それは相手にしたって同じだ。しばらくの間、どちらも話をしようとせず、茉子の咽ぶ声が鳴り続ける。
「ねぇ」
 そう言いながら、茉子は少しずつ上体を起こし、跪いて有の方に手を置いた。
「私、いい子なん、だよ? 先生、とか、パパとかママとか、いつも、いつも、褒めてくれるの……。でも、いつも、独りぼっち……。なんで、かな」
 明かりの灯っていない部屋に視力が慣れると、項垂れている茉子の顔が白く浮かび上がる。これだけ顔を崩して涙を流していても、茉子は美しい。
「……ないでよ」
「え?」
 曖昧に発声された懇願らしきものを聞き取れず、有は聞き返した。
「一人に、しないで、よ? 私、ここにいて、も、誰も、いない、のに……」
 俄に茉子の両手に力が入り、肩を掴まれる。切実さを増しつつも、媚を売ろうと試みている風には一切思えない、むき出しの感情がそれによって表現されていた。有はそれに答えなければいけない。答えないと、茉子は今以上に惨めな存在になってしまう。
「私」
 そこまで言ったところで、茉子が顔を上げて、こちらを見つめていることに気がついた。目と目を合わせて。有は躊躇して、十秒間口をつぐみ、それからおもむろに話し始めた。
「私、お姉ちゃんのこと、好き」
 茉子の手の力が抜けた。目は相変わらずこちらに集中しているが、眉をひそめ、まぶたを上げている。
「笑ってるお姉ちゃんが、好き。泣いてるお姉ちゃんが、好き。なんか考えてるお姉ちゃんが、好き。怒ってるお姉ちゃんはあんまりだけど、それでもすごく綺麗。好き。好き。大好き」
 目を閉じると、有は頭を茉子の肩に乗せて、両腕を脇に回し、強く抱きしめた。茉子はそんな有をゆっくり引きはがす。
「え……」 
 有が困惑した表情を浮かべると、茉子は作り笑いをしながら有の頬を撫でた。
「それはね、間違っ、てる。女の子は、女の子を、そんな風に、好きになっちゃ、いけないよ」
「……どうして?」
「そんなの、普通、じゃないよ」
 自分も、親のように拒絶されたのだろうか。汗ばんだ有の体が少し冷える。
「でも、ね」
 茉子は続けた。
「だからって、有が嫌い、な訳じゃ、ないよ。有には、そういう形じゃ、なく、友達、みたいに、一緒に、いて欲しいな」
「友達……」
「そう」
 茉子は有の髪に手櫛を通し、自分の髪も整えた。
「さぁ、有はもう、寝る時間だよ。部屋に、戻りなさい」
「うん……」
 そう言い残して、有は茉子の感触や体温を思い出しながら、仏間をあとにした。なぜだか目から何かが溢れてきたが、触れたものを洗い流してしまうような気がして、目をこする気にはなれなかった。


       

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