Neetel Inside 文芸新都
表紙

見開き   最大化      

 どうしてすぐに答えてあげられないんだろ。
 頬杖をつきながら有は吐息を漏らす。窓際の席からは梅雨に輪郭をぼかされる外界がよく見える。裏山の緑が空の灰色と馴染んでいた。
 朝のやりとりの自分が情けなかった。以前写真のモデルになって欲しいと言われたときといい、今回の写真部入部の話といい、ネガティブな考えに惑わされて頼み事をすぐに引き受けられずにいる。モデルなんて自分らしくもないし、私を撮ってもいいことはない。ずぶの素人がいきなり違う世界に飛び込むのは厳しい。そんなことばかり思って、自らの行動を縛り付けてしまう。
 しかし、写真部入部が魅力的な話であることも確かだ。春子と親しくなれるだろうし、読書以外の趣味の幅も広がる。興味をそそるものやシャッターチャンスを探していれば感受性も鋭くなるだろう。全国レベルの部にいきなり入る度胸があればの話だが。
「蟻村、授業が退屈か? ボーッとしてんな」
 ぼんやりと考え事をしていると、数学教師の糸井がたしなめてきた。
「あ、はい、すみません」
 有が謝ると、糸井がフンと鼻を鳴らした。
「まぁいい。お前が安田とか三木とかだったら『次の問題解いてみろ』なんて言って晒しものにしてやったが、お前を当ててもつまらん」
 クラスのあちこちから苦笑とも失笑ともとれる笑いが聞こえる。机に突っ伏していた安田が突然起き上がって髪を整え、隣の女子と手紙を交換していた三木も慌てて手紙を隠した。だが、その嘲りが彼らだけでなく、有にも向けられていることは明らかだった。
「お前が何考えてるかは分からんが、ただな、授業を聞かなくても大丈夫とか思ってると将来人付き合いで痛い目に会うからな。ちゃんと人の話は聞くように。じゃあ安田、(2)の答え」
 この人には、そんな風に見えるんだ。
 教師があからさまに不理解な態度を示してきた経験はそれほどなかったので、少しショックを受ける。急いで板書の遅れを取り戻すが、元々授業中に人と話したり寝たりといったことがないためか、遅れはわずか二行で済み、有はすぐに授業に追いついた。

「やだね、ああいうの」
「ほんと、何様のつもりなんだろ」
 四時間目の現文を終えて昼休みに入る。机のフックから鞄を外し、弁当箱を取り出そうとした時に、その声が聞こえた。
 女子同士の立ち話。二つ隣の席に座っている生徒を中心に四人が集まっている。
「前からそうかなって思ってたけど、やっぱりね。先生が言うくらいなんだから」
「授業聞かなくても点取れるなんて、不公平だよ。私達はちゃんと努力してるのに、あんなのがいつも上にいるんだよ」
「休み時間になるといつも本読んでるし。優等生ぶりやがって、って感じ。晴れてる日くらい外出ろよ」
 私の、こと?
 有は思わず背筋を張る。見たくも聞きたくもないが、気になってつい横目で見てしまう。
 彼女達は笑っていた。楽しそうで、それでいて悪意に満ちた声で、有をけなす。
「でもさ、優等生ってやっぱり性格も態度も良くなきゃダメじゃない? あんなの優等生じゃないよ」
「仲良くないから性格知らないけど、優しくても真面目でも、あんな根暗丸出しは絶対やだな」
「ねー」
「大丈夫、付き合いを持ったところで、絶対ロクな奴じゃないって」
 お弁当、どこで食べようかな。
 有は強がってそう囁いてみた。しかし、誰に強がるのだろう、という疑問も浮かぶ。
 高校に上がってからは基本的に無視されていて油断していたが、やはり不興を買うのは変わっていないと気付かされた。相変わらず自分は嫌われ、避けられ、叩かれる。その事実が有の胸に突き刺さり、ガラスのように割れていくつもの傷をつける。
「ねー、なに知らんぷりしてんの。あんたのことよ。なんか言ったらどう?」
 敵意の漲った顔で指を指してきたのはクラス委員の渕谷部だった。
「ちょっ、凛ちゃんやり過ぎ」
「クラス委員としてどうなのよ、それ」
 言葉とは裏腹に、彼女達が更なる展開を期待していることが伝わる。彼女達の見下すような目つきが有にひっつく。いつの間にかヤジ馬も数人現われていてガヤガヤと騒ぎ立てる。
「ご、ごめんなさい」
 有はどうすればいいか分からず、頭を下げた。渕谷部は険しい顔を緩めない。
「へー、先生には『すみません』なのに、クラスメートには『ごめんなさい』なんだー。先生より私達の方が恐いのかなー。大人を舐めてるなんて、さすが蟻村さんだね」
「えっ、私、別にそんなつもりじゃ……」
「蟻村先ぱーい、一緒に食べませんかー?」
 一同の視線がドアに集まる。春子と功二と珠希の三人が包みを手に提げて立っていた。あ、中川君だ、かっこいい、というミーハーな声が聞こえる。
「……トモダチが待ってるわよ、さっさと行ってあげたら?」
 渕谷部がつっけんどんに言い放ちながら、手であっち行けというサインを出す。有は黙って立ち上がり、群れていた生徒達にきびすを返して静かにその場を去った。後ろで渕谷部が嘆く。あー、逃がしちゃった。

「やな雰囲気だったけど、なんかあったの?」
 ブロッコリーをハムスターみたいに齧りながら功二が聞いた。しかめっ面をしているのはブロッコリーのせいだけではない。あれほど険悪な感情の飛び交う教室を見るのは初めてだったからだ。
「ううん、なんでもない。私は、大丈夫」
 有はボソッと返事をして、作り笑いを浮かべる。
「先輩の幸せのためになにかできることはありませんか?」
 珠希は本当に幸せにこだわるようだ。
「なんでも相談してよ、俺達も協力するから」
「一人に大勢で食いつくなんて。あんな卑怯な人達、気にしなくていいんですよ」
 功二も春子も優しさの糸に自分達の分の長さを繋げる。その糸が切れることなく有に届くように、慎重に繋げる。母親の手編みのマフラーに近い温もりを持った糸。
「ありがと。でも、大丈夫だから」
 固くなっていた有の顔がわずかにほぐれる。
「でも、あんな恐い渕谷部先輩、見たことないですよ。いつもニコニコしてて、お洒落なかっこしてて、すごく優しいのに。人の幸せを大事にするようにって私に言ったのも渕谷部先輩なんですよ」
 珠希がいぶかし気に言いながら、手をあごに当てる。渕谷部の長所を全く知らない有は驚いた。
「いつもニコニコしてて、お洒落なかっこしてて、すごく優しい、人の幸せを大事にするようにって言った」人が、あんなことをするなんて。
 先程の場面での渕谷部の顔は、そんなイメージと結びつかない。あんな暴言を吐いた口元が、清楚で可愛らしい少女的な笑みを作るのか。薄ら寒いものが背筋を走るのを、有は感知した。
 食堂を見回す。大声で歓声をあげながらカードゲームに興じる男子の一群。音楽を聴きながら一人で黙々と食べる女子。ジャージ姿で菓子パンを勢いよく貪る自主トレーニング前のスポーツ少年。隅に置かれているピアノで「月光」の第一楽章を練習する少女と、耳を傾ける友達。同席の功二、春子、珠希。今ここにはいない圭一。
 彼らには、彼女らには、今見せていない一面があるのだろうか。
 窓に映る自分にまで感じた不安を麦茶で飲み下したつもりになって、有は笑顔を見せた。
 壁やガラスを叩く雨音。


       

表紙
Tweet

Neetsha