Neetel Inside 文芸新都
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 ドアをそっと開け、音を立てないよう忍び足で踏み入ってみたが、特に何かが起きそうな様子もなかったので、有は力を抜いてごく普通に歩き、席に着いて机にノートと教科書を置き、その上に強張っていた上半身を伏せた。顔が窓の方に向くように首をひねると、鈍色の天が視野の端から中心へと滑る。
 有のクラスに物理を教えている中島は遅刻の常習犯だから、いつも休み時間が終わってから教師が壇上に立つまでに五分ばかりの空き時間ができる。他の生徒と違って会話の相手がいない有には、その五分は文字通りの空白だ。頭の中を空っぽにして、何も考えずに窓の外や周囲の様子を漫然と見るのである。 
 不思議な音が教科書で塞がった右耳から伝わる。水中にいるときの、ゴゴゴゴと低い音を出して水が動く音。その通奏低音と空の灰色は相性がよく、有の中に黒みがかった憂鬱の固まりができては沈んでゆく。時流の一秒一秒がスローモーションになるかのようなアンニュイさが有は好きだった。
「ヒマそうね、蟻村さん」
 渕谷部の声に有は素早く身を起こした。張りつめたものを背骨に沿って感じる。
「そんなに警戒することないでしょう。さっきは虫の居所が悪かっただけだし、蟻村さんとは一回、話してみたいって思ってたんだ」
 先程とは打って変わって、渕谷部はにこやかで、話し方も平静だった。珠希が話していた普段の渕谷部はこうなのだろう。しかし、昼休みのいざこざのせいで、有にはそんな渕谷部がむしろ不気味に思えた。
「受験勉強してる?」
「あ、はい、少しは」
 受験という当たり障りのない話題を振られて、有はそう答えた。
「そっかー。いいなー、私は毎日家にいる間ずっとやってるけど、いい加減飽きてくるんだよね。帰宅部だし、結構頑張ってるつもりなのに学年一位とか全然取れないし。所詮二位三位レベルなんだよねー、蟻村さんと違って」
 口ぶりと違って、言葉選びがいやみたらしかった。渕谷部はそのまま続けた。
「あなた、勉強で苦労したことないでしょう。いつも一位取れてるし、模試の成績もいいみたいだし。私と何が違うんだろうね」
「取りたくて、取ってる訳じゃ……」
 思わず口走ると、舌を鳴らして渕谷部は有を睨んだ。
「『取りたくて取ってる訳じゃ』じゃないわよ。そういう態度ってすごくムカつく。あなたがどう思ってるかじゃなくて、結果が問題なの。努力しないでどうしてそんな成績がとれるかが問題なの。『少しは』って何よ。一位取れるのが当たり前だからって調子に乗ってたりする訳?」
 昼休みの静かな剣幕に戻ってゆくのが分かった。渕谷部は相当有を嫌っているらしかった。
「そんなに、私が嫌いなんですか」
 目にかかる鬱陶しい前髪を除けようともせず、有は揺らいだ声で問いかけた。渕谷部の答えは率直だった。
「嫌い。初めてのテストからずっと目障りだった。同じクラスになった時は舌打ちした。自己紹介でシドロモドロになってるのとか、もう大爆笑。あ、もちろん心の中でよ、私あなたと違って普通だから空気くらい読むよ」
 自己紹介に言及された途端、痛いところを突かれた感覚に襲われる。抑えていた涙がゆっくりと目から溢れ出、喉の震えが酷くなった。それでも抗おうとしている自分に、有は情けなさを覚えた。
「勉強だけじゃなくてね、その幸薄そうな感じがもうダメ。作ってるのかなんなのか知らないけどさ]
「……もう、放っておいて下さい」
 有は聞こえないくらい小さく言った。強く出ないから舐められるのかな、と思ったことはこれまで何度もあったが、それでも調子が弱々しくなってしまう。
「そろそろ先生来るから終わりにするけどさ。新利とナカコーと仲良くしてるってことは清水君とも知り合いだろうし、さっき珠希もいたから言わせてもらうけど」
 そう言いながら渕谷部は机に手をついて立ち上がった。有は見上げる気も起きず、気がつかないかのように机を見ながら啜り上げた。渕谷部は冷徹に言って、自分の席に戻った。
「あなたの周りに集まってる子達、みんな不幸なろくでなしばっかりだよ。見るのも嫌なくらい」

 あなたの周りに集まってる子達、みんな不幸なろくでなしばっかりだよ。見るのも嫌なくらい。
 その台詞を反芻していると、授業の身の入らなさは二限目の数学の比ではなかった。
 確かに春子はリストカットをして写真に撮った疑いがあったから裏があっても不思議ではないが、圭一も功二も至って真っ当な少年に思えるし、彼らの笑顔には曇りも翳りもない。珠希もごく普通の少女で人当たりもよい。春子も含めて、「不幸なろくでなし」に思える人間はいない。にも関わらず、渕谷部はああ言った。
 呼吸する時の肩の上下が心地悪くて、有は周囲の注意を引きつけない程度に深い溜め息をつき、三秒息を止めた。そして、窓の外に目を向けた。
 雨で曖昧に流れた裏山の木々が見える。その薄暗い絵画に有はなぜだか安心した。
 例えみんなが不幸でも、世界はこんなに綺麗だよ。
 

       

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