Neetel Inside 文芸新都
表紙

見開き   最大化      

 三時間目の漢文が終わり、音楽の授業に移動しようとした時に、有は渕谷部に話しかけられた。
「蟻村さん、お願いがあるんだけど」
 脊髄反射で自然と体が強張るが、どうもしっくり来ない。というのも、渕谷部の声にいつもの勝ち気さ、有にだけ見せる高圧的な刺々しさがなかったからだ。顔を向けて、有は初めて渕谷部の顔を直視した。
 口の悪いいじめっ子ではなく、潤んだ目で切実そうにこちらを見つめる一人の少女がそこにいた。
 あまりにも頼りない、少女の姿。
 見てはいけないものを見たかのように有は俯く。
「四時間目終わったら、屋上に来てくれないかな?」
「雨、降ってますよね……?」
 有が恐るおそる尋ねる。
「その方が誰も来ないし、都合がいいから」
「でも、濡れるし」
「いいから来て」
「でも」
「お願いだから、来てよ。お願いします」
 渕谷部が有の両肩を掴んで必死に懇願した。いかなる理由があってか、彼女はその瞬間、自分を有の下に置き、自分のややもすれば卑屈に見える姿を気にせずに有にすがりついていた。
「どうしても、訊きたいことがあるの」
「どうしても、ですか」
「どうしても」
 渕谷部は確認するように首を縦に振る。断ってはいけない気がしてくる。
「分かりました」
「じゃあ、四時間目終わってすぐ、屋上」
 そう言い残して、渕谷部はゆっくりと教室を出、そこから駆け足で階段を降りて書道の授業に向かう。有はその背中を見送り、渕谷部とは反対に階段を上って音楽室への移動を始めた。頭は既に四十五分後の約束でいっぱいだった。

「よかった、本当に来てくれたんだ」
 少し安心したような面持ちで、渕谷部は屋上のフェンスにもたれかかる。音楽の授業が五分遅れて終わるまでの間、ずっと屋根の下に入らずに待っていたらしく、髪もシャツも濡れてべたついていた。清しい雰囲気がした。
「蟻村さんのことだから、私が怖くて逃げたかと思った。自分で不幸を招いておいて被害者面するような人だし」
 彼女は力なく笑って憎まれ口を叩くが、余裕のなさが見て取れる。
「訊きたいことってなんですか」
 渕谷部の精一杯の嘲笑に反応せずに有は切り出した。足下の仮想の小石をいじるように右足を動かして、渕谷部はしばらく地面を見つめ、そのまま慎重に尋ねた。
「蟻村さんは、ナカコーのなんなの?」
「なんなの、って?」
「蟻村さん、最近ナカコーと随分つるんでるでしょう」
 渕谷部の声には微かな震えがあった。
「ナカコーが新利に気がないのは、分かってた。けど、でも……」
 軽く洟をすすって、渕谷部は顔を上げ、有を真っ直ぐ見た。彼女は泣いていた。
「蟻村さん、見てると、分からない。蟻村さんといる時、ナカコーって、すごく、優しい目をしてるし、話し方も、他の子と話してる時と、全然違う。だから、蟻村さん見てると、分からないよ、全然」
 分からない。分からない。分かんない。何度かひとりごちるように渕谷部は言う。有は黙ったままだ。
「だから、蟻村さんに、訊きたいの」
 もう一度洟をすすり、右手の甲で目をこすって、再び有に視線を戻す。
「蟻村さんにとって、ナカコーは、ただの友達なの? だったら、ナカコーから離れてくれないかな」
 ぐっしょり濡れた渕谷部の体中から水滴が流れ落ちる。どれが雨粒でどれが涙なのか、さっぱり分からない。有自身、かなり雨を浴びていた。有の心は揺さぶられ、ひどく痛んだ。しかし、答えはほぼ決まっていた。
 心の中で落ち着け、有、と唱える。今、私は優位な立場にいるはず。自分の思うことをちゃんと伝えなきゃ。元々嫌われてるんだから、失うものもないし。
「ナカコー君は、友達です。友達から離れるなんて、無理です」
 渕谷部は大きく溜め息をついた。
「でも、ナカコーは、ただの友達とは、思ってないかも、しれないでしょ? あの子、ちょっとした素振りを、自分のいいようにとって、勘違い、しちゃうかも。そしたら、傷つくの、ナカコー、だよ?」
「でも、無理です」
 渕谷部がまたフーッ、と息を吐く。そっかー、と呟く。そっかー。
「そうだよね。正しいよ、蟻村さん」
 身を翻して、渕谷部はフェンスの向こうを見つめる。暗色の海が初名浜の岩に叩き付けられ、砕け散って、また引いてゆくのが、遠くに見える。
「……昔は、仲良くしてたのになぁ、ナカコー。小学校上がってから、私は毎年、一つずつ増えるみたいに、習い事が増えて、遊べなくなった」
 渕谷部は白い指をフェンスに絡ませて、ボソボソと話し、それから顔だけを有の方に戻して続けた。
「私、ずっと、ずっと、新利のポジションに、憧れてた。まるで妹みたいに、いつもナカコーと、一緒。優しくて、かっこよくて、たまに情けない、ナカコーと、いつでもどこでも一緒。でも、ナカコーは、新利に、恋をしない。妹みたいな、もんだから」
 作り笑いをする渕谷部に、有はなんの言葉もかけられない。なんだか、渕谷部が自分を下げ過ぎて、かえって上に立っているような、矛盾した印象を受ける。過ぎたるは及ばざるがごとし、なのだろうか。 
「幼稚園の頃、鬼ごっことか、よくした。私は、鬼ごっこが、終わったも同然なのを、知らないで、続けてきたの。今日まで。でも、気づいたら、追いつけなくなってた。結局、私があの人たちを、嫌いなふりしてたのも、ただの妬み。不幸なのも、被害者面してるのも、傷を舐めて欲しいのも、全部、私。所詮、あなたと一緒。笑って、いいよ、蟻村さんは、正しいから」
 有は笑わなかった。渕谷部は舌打ちをして再び海を眺めた。有もその隣に立ち、二人して雨に打たれ続けた。

「ナカコー、久しぶりー」
 食堂に入って功二の姿を認めるなり、春子は無駄に元気よく駆け寄って隣に座った。確かにその日は春子が日直だったこともあって全く会っていなかったが、だからといって久しぶり、はないだろう。
「夢、見た」
 春子の嫌なスイッチが入ってしまっているらしい。功二はそういう予感を覚える。冷たくて不快な、一つの予感。皮肉にも、そのBGMのごとく昼放送で流れるのは、清涼感と透明感に満ちたSlowdiveの「Celia's Dream」だ。
「どんな夢?」
 夢の内容が春子の死んだ兄に関するものだと分かりきっていても、功二はそう訊いてしまう。その質問を耳にして、春子は鬱陶しそうに髪を掻き乱し、また整えて両サイドを耳の後ろにまとめる。
「とぼけないでよ」
 そう言って、春子はプチトマトを一つ口に入れ、噛み潰す。
「……私ね、昔からカステラの表面の茶色いとこが好きだったんだけど、お兄ちゃんも一緒だったから、よく奪い合いをしてた。その夢を見た」
「だから、嶺治さんのことは何回も謝ってるじゃん、謝ればどうなるってもんでもないけど」
「分かってるじゃない」
 春子は責めるように厳しい口調で言う。左手で右手首をブレスレットの上からさする。
「ナカコーがいくら謝ったって、お兄ちゃんは帰って来ない。だから、私はナカコーのこと、許してなんかいないよ。一回も。勘違いしないでね」
「お前、また手首やったのか」
「多分、世界で一番綺麗なものだって思うんだけど、知ってる? この真っ白な肌に赤い血が伝うの。止血しなくていいなら、ずっと見てたい。ずっと見てれば、お兄ちゃんに会える。でも、結局できないんだけど」
 終止笑顔のまま、春子は口ぶりだけ変えて、自傷の世界を耽美に語った。それは功二にとっては、いつみてもぞっとする光景だった。しかし、それ以上に、突然スイッチが切れて、いつも通りの春子に戻る瞬間に戸惑わされる。
 春子がしばらく黙り込む。何かを考えている風でもなく、弁当を食べる訳でもなく、ただ顔を伏せて手首を見つめ、まるでハムスターのように撫でている。そして突然、口を開く。
「ナカコー、昨日の『志村どうぶつ園』見た? 青木さやかがさー」
 唐突にテレビ番組の話題を持ち出す春子の言葉を、功二は聞き流す。
 俺は、なにを求められているんだろうか。
 春子はいつまで、兄の影を引きずるんだろうか。
 そればかりが、頭の中を巡る。


       

表紙
Tweet

Neetsha